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(1)

ザスシンポジウム2015)」 : 日本における帰農運 動の歴史と現在 : 系譜論的試論

著者 村松 研二郎

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 14

ページ 167‑192

発行年 2017‑01‑31

URL http://doi.org/10.15002/00021289

(2)

村 松 研二郎

はじめに帰農現象のアクチュアリティと歴史性

 2000 年代後半より深刻な経済危機に見舞われ失業問題を抱えるギリシャを はじめとする南欧諸国(ポルトガル、スペイン、イタリア)では、都市から の帰農及び帰村者が増加しているという。ギリシャのある世論調査によると、

「350 万人以上の人々が都市を離れ、地方に住むことを考えている。合わせて 500 万人近くが暮らす二大都市であるアテネとテッサロニキの地方において は、68%以上の回答者が地方への移住を考えていると答え、19%はそのための 用意を既に整えている」1)という。また、「多くの住民が都市のめまぐるしさと 経済的困難から離れようとしているのは、より良い生活の質と雇用を取り戻す ためであり、そこでは、特に農業の分野において、政府とヨーロッパによる 援助が続いているのである」2)。ギリシャの場合、若年層(24 歳以下)の失業率 が 50%以上に上る一方で、帰農者の中では、2000 年代の好況期に様々な雇用 に就いた新中間層の卵で、また島嶼部を含む農村部に実家の農地を残している 中年層が多いようである3)。1997 年のアジア通貨危機に伴い深刻な打撃を受け た韓国においても、その時期大量の帰農現象が見られたという4)。90 年代から 帰農者の数は徐々に増え、1998 年から 1999 年にかけて増加率が倍増し、2000 年までに 2 万人弱に達している。彼らの半分以上は 39 歳以下で、大半が既婚

1) Brun, 2012 : 1.

2) Ibid.

3) Ibid. : 2.

4) 貝 , 2002.

日本における帰農運動の歴史と現在

―系譜論的試論

(3)

者の家族帰農だったという。

 一方で、日本ではどうだろうか。ギリシャや 90 年代の韓国のように外資・

外需・対外債務への依存が大きくないためか、ドラスティックな危機の影響は 見られないものの、バブル経済崩壊以降、経済成長は停滞したままである。農 業経済学者の神門善久によれば、90 年代末より加速したメディア、企業、行 政の煽る「農業ブーム」はそのような経済停滞と格差拡大の裏返しの現象で あり、虚構の「夢物語」でしかないという5)。それは、あたかも 1930 年代に深 刻な経済恐慌と農村困窮化に見舞われた際に称揚された「満州ブーム」とさ え比べられる、というのである6)

 これらの事例と議論は本論の導入として挙げたものであるが、いずれにせ よ、帰農・帰村現象と社会経済体制の危機との間には常に密接なつながりが あり、その背景にある原因と帰結としての意味が真に問われる必要性があり そうである。本稿では、日本における帰農をめぐる様々な言説と実践に関して、

江戸時代から今日に至るまでの長期的な系譜論的分析を試みる。ここでは戦 前・戦後の帰農論及び帰農運動を次の 4 つの大きな流れに分析する:1 江戸時 代の儒教的農兵論または万民土着論、2 大正知識人による人間主義的帰農、3 国家主導の失業対策及び総力戦の手段としての帰農、4 ポスト工業社会的帰農。

 1 の江戸時代における農兵論は、熊沢蕃山、荻生徂徠をはじめとする経世家 と呼ばれる多くの儒学者によって主張された。それらは、17 世紀後半以降の 商品経済の発達と都市化の進展を受けて、商人階級の台頭に反して困窮化し ていく武士及び農民層の救済策として構想された。ここでは、これらの思想 及び実践を、明治維新後特権を失った旧士族に対して行われた士族授産措置 との連続性において捉えようと試みる。両者の間には、明治維新を挟んだ政 治制度の違いがあるものの、困窮する氏族層に対する救済と社会的統制とい う共通点を指摘できる。

 次に、そのような為政者の側から統治論として展開される帰農論と一線を画 すと思われる流れが、大正時代に活躍したトルストイヤンと呼ばれる人道主

5) 神門 , 2012, 126-146.

6) Ibid.

(4)

義的作家群による帰農運動である7)。帰農者個人の思想と生活を基盤とし、単 なる伝統主義でも近代主義でもない人間生活の変革を志向する発想は、戦後 の工業的生活様式に対して批判的な帰農スタイルの先駆を成すものと位置づ けられる。一方で、1920 年代後半以降、これらの運動の一部がファシズム的 農本主義と一体化していく過程も見逃すことはできない。

 3 つ目に、先に挙げた知識人による人道的・求道的帰農論と並行して捉えら れるのが、第一次世界大戦後顕在化した大量失業問題に際して唱えられた「帰 農論」である。それは社会問題の統治策としての「社会政策」の一環として 唱えられたが、実際には国民の社会権を否定し、ファシズム・軍国主義体制 への途を開くものであったと言える。

 最後に、戦後の高度成長期末、学生運動、公害問題の表面化以降現れた「ポ スト工業社会的」帰農論を取り上げる。ここでの帰農論は、戦後一般化した工 業的・「サラリーマン的」生活様式への反省に根ざした「ライフスタイルの変革」

を志向する点を特徴とする。90 年代以降、大衆化・制度化が進み、2000 年代 後半以降、大量定年退職問題、リーマン・ショック、そして東日本大震災を経て、

今日の帰農運動はより多様で複雑な社会的意味を帯びてきていると思われる。

 なお、本稿の論を展開するにあたって、方法論の面において若干の弁明をし ておきたい。筆者自身は、現代の事例に関する質的社会調査を主に行っており、

ここで行う歴史的・思想的検討については、まだ試論の段階に過ぎず、分析の 根拠も主だった研究者による既存の文献に頼らざるを得ないのが現状である。

したがって、特に戦前の史料(特に古文や漢文調で書かれたもの)に関する 原文まで遡った上での検討は未だ不十分であり、今後の課題としておきたい。

本論では、それぞれの歴史的現象や専門分野に限定されがちな個別の研究を

「帰農」をキーワードとして横断的に検討しながら、長期的な分析視点を提示 することを目指したい。

日本的帰農論とその歴史的類型

 まず、様々な帰農現象の歴史的類型論に入る前に、「帰農」の語の定義につ

7) 岩崎 , 1995.

(5)

いて検討しておこう。帰農とは、第一義的には、武士を含む都市住民が農村 へ移住し、農業に従事することと定義できるが、実際には、その語が発せられ、

実行に移される文脈や場面によってその意味は多様となる。例えば、明治初 期の一部の旧士族に見られるように地主化して分与された耕地を転売して商 業に転じたり8)、大正時代の一部の帰農知識人のように庵をもって田舎に暮ら すのみにとどまったり9)、恐慌期の失業者のように一旦帰村はするものの、耕 地を得られず、周囲の世話になりながら別の雇用機会を待つなど10)、農村に移 住するものの、実際には農業に従事しない様々な場合が考えられる。または、

土を耕しながら「農的な」暮らしを送るものの、農村には移住せず都市部に 残ったり、農的な暮らしを営みながら別の都市的な職業をもつ今でいう「半 農半 X11)」といった発想も今日広まっている12)。そもそも、都市的生活形態が一 般化し、郊外化の進む今日では、何をもって「農村」や「農的暮らし」を定 義するのかという問題もある。さらには、そもそも都市に生まれ育った者が、

なぜ農に「帰る」と言わねばならないのかということも問われよう。例えば、

後述する現代の「ふるさと回帰運動」においては、大都市に生まれ育ったも のでも、農村部や地方都市に移住することを新たな「ふるさと」回帰と考え ている13)。ここでは、最初に挙げた農業従事を前提とした農村移住を「狭義の 帰農」とし、その他の単なる「帰村」や様々な「半農的」形態を「広義の帰農」

として位置づけることとする。本論では、「帰農」の語を主に後者の意味で用 いながら個別の事例を検討していく。

江戸時代の儒教的農兵論または万民土着論から明治初期帰農法・士族授産事業まで  江戸時代にみられる帰農論の特色は、士農工商の儒教的・「農本主義的」身 分制とイデオロギーに根ざしながらも、商品経済の発達に伴う武士と農民の商

8) 弘前藩「帰田法」の事例。長岡 , 1964, 43-53.

9) 岩崎 , op.cit. : 27.

10) 風早 , 1951 : 304-307.

11) 塩見 , 2003.

12) 但し、日本において「半農生活」という表現自体は全く新しくなく、大正期の帰農 者の間で既に多用されていた(岩崎 , op.cit. : 20)。

13) ふるさと回帰支援センター , 2003. そこでは「帰農」の語は農業への新規参入の意に 限られて使用される。

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人階級への依存と困窮化への対処という為政者による「経世論」であり、実 践的な統治論であるという点である。そして、そのような実践的側面は、西 洋化を推し進めた明治政府による士族解体策に伴う旧士族の救済策として行 われた帰農法(または帰田法)や士族授産事業にも引き継がれているとみる ことができる。

熊沢蕃山・荻生徂徠における農兵論

 江戸時代の主な帰農論者としては、熊沢蕃山(1619-1691)と荻生徂徠(1666- 1728)が有名である。特に蕃山は、日本の帰農論の一つのルーツとして考えられ、

徂徠の帰農論は、いくらか性格を異にしながらも、その基調においては蕃山の 論をほぼ踏襲していると言ってよい。両者の思想に関する研究は戦前より膨大 に存在し、本論でその詳細に踏み入る余裕はない。ここでは、主に蕃山の論 に焦点を当てながら、両者の帰農論における主な特徴を明らかにしてみたい。

 江戸時代の農兵論とは、一般に「武士を知行地に帰農させることによって、

武士の消費支出を押さえ、それによって武士を窮乏から救済しようとする議 論」のことをいう14)。このような発想の基礎には、近世以降進んだ兵農分離へ の批判がある。農民と農業から分かれ、城下町へ集住し純消費者となり、奢 侈に走り風紀を乱すとともに、商品経済への依存を深め、武士の貧困化、さ らには重税による農民収奪の要因ともなったというのである。蕃山の著書「大 学或問」(1687 年)には「むかしは農と兵と一にしてわかれず、軍役みな民間 より出たり。いまのごとく城下へ出て、屋形をならべ居ことはなかりしになり。

士と民とわかれずして、十が一を出したり。別に士を扶持する知行とていら ざるなり。恭倹質素にして驕著なければついえなし。十一にしてみちたれり」15)

とあり、武士が城下町を離れ、知行地に戻り農民と共に暮らすことで、かつ ての質実剛健で自給的な生活を取り戻し、農民からも重い年貢を搾取せずに 十分の一程度の税率で済む、という。

 徂徠においても、基本認識は変わらない。人々が、彼の言う「旅宿の境界」

すなわち自給経済の基盤である知行地を離れ、貨幣経済に依存した不安定な

14) 折原 , 1995 : 82.

15) 大学或問 , 全集 , 第三冊 , 256 頁(狩野 , 1955, 25-26 による引用).

(7)

状態から脱するために、武士及び万民の土着化を進めることで、困窮に瀕す る武士と農民を救済しようという発想である16)。蕃山においては、農事・軍事・

精神面において結束した自然的・家父長制的な農村共同体が理想とされていた のに対し、徂徠においては、武士による農民の行政的コントロール及び、人口 全体の風俗と移動の制限を含むより徹底した人為的・強制的社会制度が想定さ れていたようである17)。ここで考えられている戸籍、路引といった人口移動の 制限策に加えて構想されていた、都市に集中した人間を在所に返す「人返し」18)

については、後に寛政の改革(1787-1793)において江戸の人口増加や大飢饉 への対応として実施される旧里帰農奨励令と天保の改革(1841-1843)におけ る人返し令において事実上適用されていくことになることも付記しておきた い。

 江戸時代の農兵論は、理想化された封建社会の伝統への回帰という「復古的」

性格をもっていたと同時に、当時の社会経済状況、特に商品経済のメカニズ ムに対する学問的認識に基づいていた点も特筆できる。熊沢蕃山は、「米遣い の経済」すなわち貨幣ではなく米による交換経済への復帰を主張していたが、

折原によれば、それは「商品経済が、もはや武士階級の政治的支配力を超えた 存在として、政治のコントロールに服さないものとして、いち早く意識され ていたことを示すもの」であった19)。幕藩体制の成熟期に論を展開した徂徠に おいてはなおさら、市場経済のメカニズムは鋭く意識された。そうして、彼 は貨幣の流通を促進するための金融制度の法制化も主張していた20)。  一見復古的と切り捨てられがちな農兵論は、江戸時代中期・末期の太宰春台

16) 安丸 , 1960 ; 大久保 , 1966ab ; 折原 , 1995a.

17) 安丸 , op.cit., 14-18.

18) 安丸 , op.cit. : 17 ; 大久保 , 1966b : 72.

19) 折原 , op.cit. : 87. ちなみに、熊沢蕃山の思想については、特に彼の治山治水論をめ ぐって近年エコロジー(生態学と生態系保全)の観点からの積極的な再評価が試み られている(奥谷 , 2015)。

20) 大久保 , 1966b : 77-78。但し、大久保によれば、徂徠においては労働生産性の上昇 といった次元は考慮に入れられておらず、閉鎖的な一国内における固定的な生産量 が前提にされていたため、商業と消費の自由を制限する主張に至ったのは必然で あったという。江戸時代の経世家による経済論は、18 世紀のヨーロッパにおける経 済学の誕生と軌を一にしており、シーコラは両者の比較を試みている(シーコラ , 1998)。

(8)

以降の海保青陵、佐藤信淵、横井小楠といった経世家により主張される重商主 義とは、困窮する武士に対して経済活動従事を促すという点において連続性 をもっていたとの指摘もある21)。この考察を推し進めれば、明治政府による士 族解体策に伴って現れた大半の旧士族層の貧困化に対して行われた帰農法及 び帰田法、そして農工商への転職を促しつつ殖産興業を図った士族授産事業22)

とのつながりも見出せると思われる。帰農法は、「字義どおり旧家臣団を帰農 させて農民にするという手段」であり、多くの藩で「財政破綻と禄制改革の 限界から家臣団解体の手段として採用」された23)。落合によれば、その背景に

「藩士も元をただせば多くは戦国以前の農民であり、役割を失った武士が農民 に復帰するのは自然だとする考え方は古くからあった」という農兵論の立脚 する考え方があった。

大正知識人による人間主義的帰農

 明治維新の政治プロセス及び富国強兵策が一定の成果を見、日清・日露戦 争での勝利を経て、日本の工業化がいよいよ本格化した大正時代に入り、新 たな帰農思想及び運動が出現する。大正時代から敗戦に至るまでの帰農及び 農本主義思想と実践に関する詳細な社会史的研究を行った岩崎正弥は、都市 知識人層により担われた大正期の帰農思想(1910 年頃 -1928)と、それらの一 部とつながりをもちつつ農村を巻き込んで展開された社会運動的色彩を帯び た昭和初期の自治的農本主義(1928-1935)と、国家主導の総力戦に向けた戦 時期の国本的農本主義(1935-1945)に分類している24)

 もちろん、本稿でこれらの思想と運動の全てを検討することはできないし、

それは筆者の力の及ぶところではない。ここでは特に大正期の帰農思想につい て取り上げる。というのは、岩崎も指摘しているように、帰農論といわゆる 農本主義思想との間には若干の区別が必要と思われるからである。両者は重な る部分も多く、安易な区別には注意が必要だが、本稿ではあくまで都市民の側、

21) 折原 , 1995 : 89.

22) 長岡 , 1964ab ; 落合 , 1999 : 59-60 ; 186-194.

23) 落合 , op.cit. : 60.

24) 岩崎 , op.cit. : 12-14.

(9)

または「農村の外側」の者による帰村も含む行動を伴った「農に帰る」思想 を射程としている。そのため、あらかじめ農業や農村に対象が限られた農学論、

農業・農村論などは基本的に分析対象からは除外される。同様に、具体的な 農に帰る行動とは離れた純粋な思想またはイデオロギーとしての農本主義(江 戸時代の封建制も含む)も、それらが帰農現象と関わる限りにおいて関連性 を考察する。例えば、上記の岩崎の分類に従えば、昭和初期の自治的農本主 義と戦時期の国本的農本主義は農村側の人物や組織によって担われた側面が 強いため、ここでは正面からは取り上げない。

 このように、本稿では「帰農」の名において展開する、または本稿で定義 した帰農に合致する言説及び運動を検討し、それらの間の関連性、連続性ま たは断絶について考察する。その点において、本研究は岩崎の研究とは性格 を異にする点もある。氏は、研究の実証性を確保する上ではいたって正当な 判断ではあるが、江戸時代の帰農論及び 1920 年代以降の失業対策として唱え られた帰農論には言及しつつも分析から除外している25)。そのためか、氏の研 究では、帰農論のもつ統治論的・社会政策的側面の分析が剥げ落ちているよ うに思われる。本稿では、それらの帰農論を多元性を含む系譜上に捉え、そ れらの歴史的動態を把握しようと試みる26)

 さて、ここで大正期の帰農思想に言及しておきたいのは、これらの思想が 次の点で独自性をもつと思われるからである。

・ 儒教的・家族主義的な伝統と、外面的(西洋模倣的)で性急な明治の近代 主義との間の葛藤から生まれた独自の精神性・身体性を志向する点

・ 士族や都市にあふれ出た農民層とは異なる、新たな都市知識人層を主体と する点

・ 個人の生活のあり方を主題とし、「非農村的」であり、社会運動に直接結び つかない点:大正期の「帰農思想には農村への視点がない27)」という。

25) Ibid. : 1 ; 24.

26) ここで試みる系譜論的アプローチは、ミシェル・フーコーの言説分析のアプローチ を参照している。それは分析対象に関する単一の体系的な理論化を図るものでもな ければ、また歴史主義による理論化の拒否でもなく、言説の生起に関して、その内 外における「実効的な編成 の連続 séries de la formation effective du discours」と「実 証性 positivité」のメカニズムを明らかにすることである(Foucault, 1970, 67-72)。

27) 岩崎 , op.cit. : 32.

(10)

 まず、時代背景については、日清・日露戦争期を通じた急激な工業化と都市 化及び思想的葛藤、特に大逆事件(1910)後の不安定な思想状況が挙げられる。

岩崎は当時の対応策を以下の三つの流れに整理する。欧米の「文化的」生活 様式を追随する「モダニズム」への傾倒、のちの国本的農本主義運動につな がる伝統的「躾」の強化、そしてそのどちらでもない生活様式の「型」の創 造を試みる「第三の道」である28)。その第三の道を歩んだのが、大正期の帰農 者達だという。トルストイ主義に傾倒した彼らは、自然と一体となった新た な精神性と身体性を帰農を通じて実現することで、新たな「生活世界の創造」

を図った29)。何よりも、そのような思想を具現化する帰農の場は、上記の二つ の支配的傾向、すなわち皮相的なモダニズムと伝統的な躾への回帰を強要す る権威主義の両者に対する抵抗の拠点とも成りえたという30)

 その独自性は、岩崎による大正期の帰農の「客観的意味」の分析に現れる。

氏は主だった帰農者の「思想の強度」、すなわちその実現形態と持続度を分類 する。帰農形態としては、以下の四つの種類の者に分かれるという:(1)たん に田舎に居住、あるいは庵をもつだけのいわば帰村生活、(2)趣味的ないわゆ る「美的百姓」(徳富蘆花)生活、(3)基本的に食糧は自給しようとした半農 生活、(4)完全なる百姓生活31)。さらに、彼らの間には、生涯帰農生活を貫い た者もいれば、数年で離農した者もいる。例えば、室伏高信、武者小路実篤、

加藤一夫、橘孝三郎、岡本利吉といった帰農者達は、1920 年代後半から皆あ る時期に離農した後に、五・一五事件(1932)に参加した橘以外は、国家体制 に迎合的な農本主義へと「転向」していった。一方で、帰農生活を継続した 者たち(木村荘八、江渡狄嶺、石川三四郎ら)は、それぞれの立場の違いはあ れど、一定の非転向の姿勢を貫くことができた。岩崎は、このような帰農者個々 人の時の権力に対する転向・非転向の要因について、帰農による生活世界の

28) Ibid. : 31.

29) 岩崎は、「生活世界」を「無意識的な生活習慣に支えられた日常的な規範、感性、認識・

思考、そして行為などで構成され、思想(理念)や意識的・目的的な行動(運動)

を創出する場(Ibid., 6)」と定義して使用している。

30) Ibid. : 31-33.

31) Ibid. : 27.

(11)

創造を実現できたかどうかが鍵となったという32)。この分析からは、大正期の 帰農運動はのちの日本ファシズムにつながる農本主義思想へとは安易に結び 付けられないことがわかる。

 ここで、上述の岩崎の分析に対する批判的検討を行う余裕はないが、大正の 帰農思想が日本の帰農論の系譜において一つのメルクマールとしてもつ意味 は大きいと思われる。まず、江戸・明治初期の帰農論と異なるのは、民間の 都市知識人層という為政者とは離れた思想と実践の運動であったことと、そ の内容の伝統主義でも近代主義でもない独自性と、国家のあり方ではなく個々 人の生活を主体においた実践思想であった点である。このような求道的な個 人志向の帰農実践のあり方は、戦後高度成長期を経た後の、より大衆化した 形で現れる個人の「生きがい」を求めるような帰農のあり方にも間接的に共 通点をもつと思われる。

国家主導の失業対策及び総力戦の手段としての帰農

 岩崎は、大正期の帰農論から昭和初期の自治的農本主義、戦中の国本的農本 主義への流れを分析しているが、そこで見落としてはならないと思われるの が、第一次大戦後の不況に伴い出現した「大量失業」の問題に際してその対策 として唱えられた帰農論である。ここでの帰農論は、1930 年代初期の農村恐 慌に対する国策であった時局匡救対策においても、都市失業者の吸収策とし て政府に取り入れられていくように、統治論的・社会政策的に為政者により「活 用」される帰農論という性格をもつ。大正以来の農本主義が政治運動的性格を 帯びていく一方で、政策の一手段として「活用」されるという側面が同時に現 れるのである。また、大正の帰農運動が、ごく一部の都市知識人のグループ 内で行われていたのに対し、ここでの帰農現象は、当時 300 万人を超えたとい われる失業者及び潜在的失業者の帰趨に関わっていたことを考慮に入れれば、

決して見逃すことのできない一面だと思われる。また、この文脈での帰農論は、

戦前の日本における社会政策の権利否定的かつ「慈恵主義」的側面も表して いる点にも注目しておきたい。

 まず、第一次大戦後の市場縮小と戦後恐慌により、1920 年頃から大量失業

32) Ibid. : 33-37.

(12)

の問題が顕在化してくる。この頃、既に第一次産業と第二次・第三次産業にお ける就業者数の割合は拮抗していたが、当時の失業者数は日雇い労働者を含め ると 200 万人近く33)、中小農民における潜在的失業者も考慮に入れると 300 万 人を超える34)と推定される。

 そのような状況化、1920 年「失業対策ということが始めて日本の政治のプ ログラムに上された」という35)。その政治社会的背景には、1918 年の日本「初 めての本格的な民衆運動」とされる、富山県の漁民の妻たちが米価暴騰に対 して立ち上がり、全国に広がった米騒動があり、大正デモクラシーの気運の 中で民主主義と生存権を求める社会運動・労働運動の高まっていたことも重 要であろう36)。1918 年には初のブルジョア政党内閣である原敬内閣が成立して おり、貧困問題が社会の問題として公認され、フランスの社会政策基本概念 である「社会連帯」概念が導入・強調され「社会事業」の必要性が公的に認 識されたのもこの時期であった37)

 しかし、そこで最も有力に唱えられた政策は、国家の責任において行われ る社会権の保障政策ではなく、社会的負担を減らしたい工業資本家と安価な 労力を必要とする一部富農層にとって都合の良い、自助的対応策の一つとし ての帰農論であった。1919 年、原内閣下の救済事業調査会は全国的な米騒動 への対応を経た後、戦後恐慌を予期しつつ、「失業者保護に関する施設」に関 する答申を出している。その中で、提示された対策は公共職業紹介所の設置、

事業者による解雇の制限及び手当支払、政府による公共工事、開墾助成、帰 農及び国内開墾地や植民地や海外移住の奨励、移住に対する旅費支援、貯蓄・

共済組合の奨励、これらの対策遂行の為の低利資金の融通、というものだっ た38)。帰農に関する項には「六、失業者の種類に依りては帰農を奨め又は開墾

33) 菊池 , 室田ら , 2003 : 79.

34) 風早 , 1951 : 327-328.

35) Ibid. : 320.

36) 菊池 , 室田ら , op.cit. : 79-82. その中には、橘孝三郎の「兄弟村農場」(1915 年~)

や武者小路実篤による「新しき村」(1918 年~)の建設など、前述の大正期の帰農 運動も含むことができる。

37) Ibid. : 82-83.

38) 風早 , op,cit. : 332-333.

(13)

地植民地並に海外に移住することを勧奨すること39)」とある。しかし、戦後恐 慌の前年の時点では実現されたのは「せいぜい『公益職業紹介所制度』の整備 に着手した」程度であったという40)。戦後恐慌に伴う大量失業の発生に際して、

労働組合同盟会が結成され、労働保険法制定を含むさらなる失業対策が要求 される中、政府は 1920 年「失業保護ニ関スル施設ノ件」として通牒を発した。

その中でもやはり、「現実に取り上げられた対策は、六の失業者を帰農せしむ る政策のみであった」41)という。

 確かに、1922 年には健康保険法が制定されてはいるが、対象範囲は限定的 であり、保険料負担は労資折半・国庫負担一割で労働者に不利なものであり、

当時の社会政策は「全体としては帰農策に依存した政策が続いた」のであ る42)。澤邉によれば、帰農に並んで移民も有効な失業対策として考えられては いたが、実際には移民の大部分は農民であり、都市失業者対策としてはズレが あったという43)。また、多くの「帰農」失業者には出身農村で農業に従事する 余地は既になく、実際には不安的な「帰村」状態にとどまっていたという44)。 澤邉は 1920 年以降の失業者帰農論について、以下のように評している:「当時、

最も強く主張されたものは帰農である。その内容は、我が国の労働者の多くは 農村出身であり出稼ぎ的であるため、都市で失業しても出身農村に帰れば家 族がいて農業に再び従享できる、というものである。これは農村が人手不足 であるならば、一見、魅力的な失業対策である。政府や都市の資本家は失業 者を農村に追い込むこの政策に期待していた。労働組合でさえも応急策とし て帰農政策を認める場合があった。しかし、農業は、工業ほど失業が明確な 形で現れない。農村も長年の不況にあえいでおり、もう都市労働者を受け入 れられる状態ではなかった。都市で失業すると帰村する労働者はかなりいた。

しかし、それは帰村ではあって、帰農でなかった。そして、帰村したのと同

39) Ibid. : 333.

40) Ibid.

41) Ibid. : 339.

42) 菊池 , 室田ほか , op.cit. : 86.

43) 澤邉 , 1990 : 125.

44) 風早 , op.cit. : 305.

(14)

じ分だけの人数がまた、都市へと流出し続けたのである」45)

 さらに、1929 年の世界恐慌による繭価の暴落に起因する深刻な農業恐慌以 降、失業対策としての帰農論の合理性は失われていたにもかかわらず、実際 には政府は同様の主張を続けていたことも指摘できる。世界恐慌後、養蚕業 の停滞と都市失業者による帰農者の増加により、農村は「農村内部の経済的 困難と帰農者の圧迫」による二重の苦しみを抱えていたのである46)。1930 年の 時点で既に、農村救済策を求める農会の側さえも、農村救済策である農民へ の低利融資策が都会の失業者の帰農を促し農民の生活を圧迫することを憂慮 していたが、政府は依然として「単に農村失業者の救済にあてるにとどまらず、

都市失業者を農村に吸収することもこの計画の一半の目的である」と表明し ていた47)

 その後、失業対策としての帰農論は、その経済的非合理性にもかかわらず、

社会政策の枠組みを超えて農村救済策にも取り込まれ、救農国会(1932 年 8 月)

後の救農土木事業を中心とする時局匡救事業及び精神主義的な自力更生運動 を経て、総力戦下でファシズム化・精神運動化していく農村厚生運動の中に 吸収されていくのである。

 以上の検討より、1920 年代以降失業対策としての展開された帰農論は、失 業問題が社会問題として公的に認識されたにもかかわらず、農村の隣保相扶 制を前提とした慈恵的国家体制の中で、個人に平等に付与される社会権の上 に成立されるべき社会連帯制度を実質否定する形で、応急措置的に採用され 続けたと言える。そのことが、大正期の帰農論が目指した個人の自律の場と しての生活世界の否定として作用したことは言うまでもないだろう。

ポスト工業社会的帰農

 戦後直後の復興期には、失業者、復員軍人及び海外引き上げ者等に対する社 会政策的「帰農」の観点から農地開拓事業が行われたが、食料危機が緩和さ れていくにつれ、農家出身の者を中心に入植がなされるようになった。その後、

45) 澤邉 , op.cit. : 125.

46) 安富 , 1972 : 135.

47) Ibid. : 140-141.

(15)

闇価格に支えられた「農村好況」が終わりを告げ、食料の市場的生産が求め られるようになるとともに、高度成長期に入り、都市近郊部では急激な兼業 化が進行し、中山間部では過疎化が進んでいった。

 ここで対象としたい帰農運動は、高度成長期後半にさしかかる 1970 年代以 降に現れる。社会背景としては、60 年代末の学生運動の高揚と収束、反公害 運動の高まり、農産物の共同購入・提携運動及び有機農業運動などの展開が ある。ここでみる帰農論は、主に戦後生まれの世代を担い手とする、個人の「ラ イフスタイルの変革」を主眼とした「ポスト工業社会的」帰農と捉えること ができる。これはあくまで理念型に過ぎないが、著名な例を挙げて分析の入 り口としたい。例えば、藤本敏夫(1944-2002)は、60 年代末に学生運動のリーダー

(京都府学連、全学連)として活動した際、直接行動の責任を問われ逮捕され、

72 年からの 2 年間の服役生活を送り、服役中に歌手の加藤登紀子と結婚した ことで有名である。出所後、彼は有機農産物及び無農薬・無添加食品等の販 売を行う団体「大地を守る会」を創設し(1976 年)、同事業の株式会社による 運営に携わった後、1981 年に千葉県鴨川市嶺岡山中に移住し、農事組合法人「鴨 川自然王国」を立ち上げ、半農的生活を生涯送っている。彼の履歴は、いわゆ る「全共闘世代」の新左翼的政治運動を経験した後、環境問題へ活動の軸足 を移し、最終的に政治色の薄まった個人の「ライフスタイル」を主眼とする「農 的生活」に向かった例を示している。もっとも、のちに妻である加藤登紀子と の対談において、藤本は 60 年代京都で大学入学時から山岸会の講義を受ける など、環境に関わる「共同体」運動を指向しており、1969 年には学生運動グルー プの中で環境問題に関する発言を始め、周囲から批判を受けていたことを回想 している48)。よって、彼の環境運動や帰農への傾斜はいわゆる左翼的政治運動 からの「転向」とは呼べないものの、彼自身、直接的な政治活動から新たな「ラ イフスタイル」の創造に関心が移ったことも明言している49)

48) 「加藤登紀子の男模様」,三省堂,1999. 以下のリンクからテキストが参照できる:

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/tokiko_fujimoto.html

49) 「政治というものについては、ライフスタイルや生活原理というところで新しい質を つくっていけるかが大事だと思っているから、直接政治活動に参画することはない でしょう。(…)生活レベルに問題の重点を移しながら、何か新しいライフスタイル をつくっていきたいと思ったときに、運動したいとか仕事したいということじゃな くて、「暮らしたい」という気持ちが今強いですよ。生活をしていくこと自体が新し い運動だし、新しい政治の質をつくっていくんだろうという気持ちなんですね」(Ibid.)

(16)

 ここで現れる思想かつ実践形態としての「ライフスタイル」あるいは「生 活の質」の創造または変革といったテーマは、1970 年代以降の日本の帰農論 におけるライトモチーフとして繰り返し現れる。例えば、藤本と同様に学生 運動のリーダーとして活動をしたジャーナリストで、彼の友人として共に鴨 川自然王国を立ち上げ、同地で半農生活を送る高野孟(1944 -)も同様の主 張を行っている。氏は、1990 年代以降の「定年帰農」運動に関して、工業化 が終わり、大量生産・大量消費型の GDP 至上主義から個性と生活の質を重視 した「成熟社会」への移行に向けた中心的取組として位置づけている50)。同様 の論調は、後述する連合(日本労働組合総連合)により 1998 年に提起され、

現在 NPO 法人「ふるさと回帰支援センター」により推進されている「100 万 人の故郷回帰運動」においてもみられる51)。高度成長期に農村部から都市部へ 移住して働いた団塊の世代を中心とする人々に対して、定年後自然豊かな「ふ るさと」(農村部)への再移住を促し、個々の生活の質を充実させるとともに 地域活性化に貢献させる、という発想である52)。また、運動の立ち上げ人であ る高橋公氏(1947 -)の履歴にも組合的政治要求運動から個性尊重の動きへ とシフトする傾向がみてとれる。

 さらに、この個人の「ライフスタイルの変革」というテーマは、上記のよ うな著名人や組織人以外の一般市民の間の帰農者にも広く共有されているよ うである。社会学者の桝潟俊子は、1980 年代末に、I ターンにより有機農業を 営む 10 人の帰農者に対する丹念な聞き取り調査を行っている53)。氏によると、

人口の過密・過疎現象の進んだ 70 年代後半より既に、U ターン(都市から出 身農村への移住)、J ターン(都市から出身農村付近の地方都市への移住)な どと呼ばれる都市から農村への人口流出の動きは始まっており、特に 70 年代 後半からは主に日本有機農業研究会の機関誌を通じた帰農をめぐる情報交換・

支援活動が展開された54)。以降、援農、家庭菜園、通勤農業、消費者自給農場、

新規参入(帰農)など、「多様な農的世界への接近」が都市民によって試みら

50) 高野 , 2000 : 206-211.

51) Ibid. : 212-215.

52) Ibid.

53) 桝潟 , 1988ab.

54) 桝潟 , 1988a : 42.

(17)

れるようになった55)。また、80 年代末には既に移住動機が農業に限らず、豊か で静かな自然環境、セカンドハウス、芸術活動、子育てなど多岐にわたって いたことも指摘されている。このような趣味の延長、あるいは仕事と趣味の境 界あるいは一体となったような多面的な動機は、ここで考えるポスト工業的な 広義の「帰農」の特徴の一つであると言える。それをふまえて、桝潟は帰農を「都 市生活者が農山村に移住し、農業を中心にそのほかの生業を組み合わせて新 たに生産と生活の基盤をつくること」と定義する56)。興味深いことに、この定 義は、実に大正期の帰農知識人の「農」と文筆活動を組み合わせるスタイルや、

2000 年代に広まる「半農半 X」といった農的生活の上に自己の個性を生かせ る天職を探すという発想57)にもあてはまると言える。桝潟の扱う帰農者の事例 においては、農地、家、農業技術の習得から資金確保まで、有機農業研究会 等を通じた情報提供があるとはいえ、基本的に自らの手で苦労の末に開拓し ている例が多い58)。また、彼らの多くが、何らかの形で学生運動、反公害運動、

反戦運動、自然共同体運動といった動きを 60 年代から 70 年代にかけて経験し ている点も特筆できる。

 一方、90 年代末に島根県の一過疎自治体における I ターン者の受入過程に ついて調査を行った社会学者の高木学は、I ターン(都市から元々縁のない農 村部への移住)を「自分を取り巻く社会環境に左右されるのではなく、自分 の価値観に従いながら、そのイメージを実現するための移住なのである。そ れはあえて印象でいえばあまり切迫した感じのない、趣味の延長というイメー ジを受ける。ある意味、暮らしというより旅に近いと言える。そこで移住者が 変えたいと願うのは、収入でも家族関係でもなく、自らのライフスタイルで あり、生き方である。すなわち I ターンとは生き方の冒険であり、ライフスタ イルの変革なのである59)。」と定義し、説明する。ここでのモチーフもやはり「ラ

55) Ibid. : 39.

56) Ibid. : 42.

57) 塩見 , op.cit.

58) 被調査者の多くは非農家出身、40 歳未満、大卒以上か大学中退の比較的高学歴者だ が、帰農前の職業は商社マン、工員、ジャーナリスト、大学教授、造園業者など多 様である(桝潟 , 1988a, 43)。

59) 高木 , 2000, 5.

(18)

イフスタイルの変革」であり、さらに桝潟の例に比べると「あまり切迫した感 じのない」、つまり思想信条面や経済面での深刻さの薄さが感じられる。また、

高木は 60 年代後半のヒッピー的な共同体運動が地域社会と没交渉的に展開さ れた点に対して、80 年代後半より増加した I ターン現象においては、移住者 と移住先の地域社会との間に密接な交渉がある点を指摘する。その背景には まず、1980 年代末より、メディアや農業関係団体及び自治体による都市民に 対する田舎暮らしや農業への積極的なキャンペーンが展開されるようになり、

帰農者にとって情報や就農支援制度などの必要なインフラが整備されてきた ことが挙げられる60)。例えば、80 年代末から自治体による I ターン受入支援の 取り組み(定住奨励金、資金融資、農地や空き家の斡旋など)が増えてきて いる61)

 それをふまえて、高木の分析によると、自治体による移住支援施策(農業 研修、工芸作家受入)をめぐる農村移住プロセスが、都市民個人の生活世界 に留まらず、移住先の地域社会との密接かつ積極的な交流なしには成立しが たいことが伺える。それも、ただ移住者が地元住民の信頼を得るためではなく、

地域社会の存続と活性化に何らかの形で参加することの必要性が受入側に積 極的に認識された上で、相互の利害や価値をふまえた交渉が展開されている という62)

 以上の検討をふまえると、1970 年代から現代に至る帰農論においては次の 三点の特徴が指摘できる。

・ 個人を主体としたライフスタイルの変革を志向し、直接的な政治性や求道 的な思想追求が薄まってきた点(個人化)

・ 80 年代後半より徐々に大衆的認知が進み、制度的支援の拡充が進んできた 点(大衆化・制度化)

・ 地域社会との積極的な相互作用を通じて展開するようになってきた点(地 域化)

60) 1987 年には宝島社(当時 JICC 出版局)より「田舎暮らしの本」が創刊され、老後 の田舎暮らしや田舎の物件に注目が集まった。

61) Ibid. 1993 年には、全国で 489 団体が何らかの対策を講じていたという。

62) 高木は、それを地域社会への同化作用(共同性)と移住者からの異化作用(個性)

の共存プロセスとしている。(Ibid., 16)

(19)

 これらの特徴は、大正期すなわち日本の工業化勃興期に現れた個人を主体 とした帰農論と共通性をもちながらも、制度的・社会的合意と交渉の下で展 開するより成熟した市民社会への指向性を含んでいると言えよう。

2000 年代以降の「帰農」

 筆者は、2013 年に NPO 法人「ふるさと回帰支援センター」における資料調 査及び責任者 K 氏に対する聞き取り調査を行った。ここではそれらの調査結 果より 2000 年代以降の帰農運動の特質を考えてみたい。

 まず、神門も指摘しているように、1990 年代末よりメディアで農業が「成 長産業」などと宣伝されたり、「地産地消」「産直」といった語が広く使われ、

いわゆる「農業ブーム」が見受けられる63)。その中でひときわ焦点が向けられ た現象が、団塊世代を中心とする人々によるいわゆる「定年帰農」の動きで ある。この言葉は、雑誌「現代農業」の 1998 年 2 月増刊号「定年帰農 6 万 人の人生二毛作」と銘打った特集号により広められたが64)、実際には帰農を試 みる人々の実践と、それに注目するメディア及び農水省、農業関連団体、自 治体など様々な組織によるキャンペーンが相互に作用する中で広く認識され てきたと言えるだろう。

 この背景には、まず 90 年代の GATT ウルグアイ・ラウンド合意による米 のミニマムアクセス、食糧法施行による米の流通自由化、そして食料・農業・

農村基本法(新農業基本法)の成立という農政転換の流れがある。そこでは、

グローバル化・自由化の圧力に伴い農業に一層の競争力が求められると同時 に、農業・農村空間のもつ非生産的側面である多面的機能(環境、景観、地 域社会、文化など)の必要性も認識され、世論において農業・農村をめぐる 議論が活発化した。

 一方で、90 年代に新規就農者の数が上昇をはじめ、その内 60 歳以上の「離 職就農者」の割合が増えており、1990 年に 6900 人で全体の 35.6%を占めてい たのが、1999 年には 31600 人で全体の半数に及んでいる65)。この中には「これ

63) このことは、上で指摘したように、都市民が農的生活を取り入れるという広義の帰 農の「大衆化」の一現象としても捉えてもよいだろう。

64) 高田 , 2001 : 92.

65) Ibid. : 91.

(20)

まで農作業を休日にのみ行っていた兼業農家の勤め人が、定年退職を契機にそ のまま自家農業に就農したケース」と「非農家出身であったり、農家出身で も全く離農していたのが、定年を機に就農したケース」の両者が含まれる66)。  そのような農業をめぐる文脈の中で現れた動きの一つが、前述した「100 万 人のふるさと回帰運動」と呼ばれる、いわゆる定年帰農の国民的な推進を図 る運動である。詳細は省くが、この運動は連合(日本労働組合総連合)の政 策提言の中で 1998 年に正式に取り上げられたのち、横断的に様々な団体(農業、

自治体、消費者、経営者関連)及び著名人の参加や支援を受ける形でまさに「国 民的運動」の色彩を帯びて立ち上げられた。2002 年に立ち上げられた「100 万 人のふるさと回帰・循環運動推進支援センター」は 2003 年に NPO 法人「ふ るさと回帰支援センター」として認可を受け、毎年会員自治体を展示者とし て「ふるさと回帰フェア」を開催したり、東京のセンター内で毎週土曜に会 員自治体の責任者を講師に招いて「ふるさと暮らしセミナー」を行ったり、様々 なアンケート調査などを実施するなどの活動を今日まで続けている。2010 年 には大阪支部が開設され、2012 年のふるさと回帰フェアにおいては、少なく とも 41 道府県にまたがる自治体、財団、NPO など計 179 の会員団体が参加し ている67)

 このように今日まで活発な活動を行う同センターであるが、設立当初は団塊 世代(特に労組組合員)の定年退職後の「ふるさと移住」(U・J・I ターンを含む)

による生活の充実と地域貢献を想定していたのに対し、会員自治体が増えて いくにしたがって、次第に広く一般大衆に向けた運動になっていったという。

そこで、K 氏によると、移住に関心を寄せて同センターを訪問する人の動機 やプロフィールに関して、三つの時期に変化が見られたという。一つ目は、団 塊世代の大量退職が想定された 2007 年頃で、相当の移住に向けた動きが起こ るのではないかと予測されていたものの、65 歳までの雇用延長や再雇用が多 く行われたことと、定年退職者といってもすぐに移住に踏み切れるほどの余 裕がある人はそんなに多くなかったため、「若干はしごを外された」形になっ

66) Ibid. : 92-93.

67) 「第 8 回ふるさと回帰フェア 2012, 会場案内・公式プログラム」(p.25)よりカウン トした。

(21)

たという。

 2 つ目が 2008 年のリーマン・ショックに端を発する、特に若年層における 雇用危機(派遣切りなど)である。実際には、2003 ~ 2004 年くらいから 20 代の若者による農村移住の相談が徐々に増えていたそうだが、2008 年以降

「どっと増えた」という。そのことの背景には、若年層の雇用不安も勿論であ るが、2009 年頃から国の雇用政策や農業政策が県や普及センターを通じた投 資への融資から、自治体を通じた直接的な資金援助による人的支援の方向に 舵を切ったことも大きかったという68)。そこで相談に来る若者の多くは、いわ ゆる「半農半 X」の考えに賛同し、農村での就業の可能性を求めており、農業・

農村の資源にむすびついたアグリビジネス、観光や環境などのいわゆる「六 次産業」的事業に関心を抱いているという。例えば、ふるさと回帰支援センター が農村起業部門を担当した内閣府の経済対策「農村六起」事業(2010 ~ 2011)

では、100 名の起業家(NPO、個人事業可)が生まれ、その内やめてしまった のは二人のみだったという。しかしながら、審査を経てみると、若年層の移 住希望者よりも 50 ~ 60 代の受入地居住者の採用が多かったという。というの は、よそ者で経験のない若者よりも、地域資源に対する知識や事業経験の豊 富な熟年層が優先されたからである。また、リーマン・ショック直後は雇止め、

派遣切りに遭った人が同センターへよく相談に来たが、彼・彼女らが地方で農 業を志すためには、地元で確かな信頼を得てから農地や住宅を斡旋してもら う必要があり、まだ非常にハードルが高い。具体的ビジョンをもって農業法 人で働こうというような人は、同センターよりも、直接農業法人に出会える

「新農業人フェア」といったイベントに行くそうである。同センターに来る人 は、移住に関心はあるがまだ「何をしたらいいかわからない人。」が多いという。

このような状況からは、「夢物語」とは言わないまでも、若者の帰農や農村移 住に向けた道は容易ではないことが伺える。

 同センターへの来訪者に変化の訪れた第三の契機が 2011 年 3 月 11 日に発生 した東日本大震災だった。震災後岡山県が担当したふるさと回帰セミナーに は、過去最大の 90 名の参加者があったという(前の年は 10 数名)。震災後、元々

68) 例えば、総務省による「地域おこし協力隊」(2009 ~)、農水省による「農の雇用」(2009

~)、「青年就農給付金」(2012 ~)など。

(22)

移住を考えていた人でなくても、ライフスタイルを変えたい、首都圏から逃 げて西日本への移住を考える人が増えたという。その後、子育てのある夫婦 世代で、田舎よりも仕事の見つけられる西日本の地方都市移住を考える人が 増えてきたという。

 ここで足早に検討したふるさと回帰支援センターの活動状況からは、まず 帰農あるいは帰村、または U・J・I ターンといった従来のタームに代わり、「ふ るさと回帰」や「地方への移住」といったきわめて広義・多義の言葉が使わ れるようになっていることに気がつく。そこでは、「農」へのこだわりさえも 相対化され、新たな自己の生き方を「試す」場としての「ふるさと」なるも のが大都市以外の地域空間に求められているように思われる。その背景には、

超高齢社会の到来、経済・雇用の流動・不安定化、そして震災や原発事故と いう社会全体がリスクにさらされた状況に対して個々人が対応しなければな らない状況が横たわっている。このような事態は、帰農が政府にとっての人 口制御の手段だったり、個人にとっての思想追求の手段だったりした時代か ら比べると、さらに複雑性が増し、性格を異にしているようにみえる。既に 90 年代より帰農が個人化・大衆化・制度化・地域化してきた点を指摘したが、

ここではおそらく「帰農論」に完結した要因や意味の分析や理論化では十分 でなくなってきている。帰農やふるさと回帰といった現象が他の様々な要因と 動機に絡まって、個人と社会に何らかの変化を及ぼす一つの契機として作用す ることが求められている。そのような動態的で開放的な視点から、今後あら ためて帰農や地方移住といった現象のもつ意味を考え直す必要があるだろう。

結論に代えて現代の帰農の意味

 結論に代えて、現代の帰農について、これまでの帰農論をめぐる歴史的経過 をふまえた現代的意義について若干の考察を行ってみたい。江戸時代以来帰農 の思想及び運動は、自然、個人の生き方、時代ごとに異なる社会秩序の間の 連関をテーマとする論なり実践として、日本に脈々と息づいてきた。そこでは、

常に一定の社会経済の危機的状況が認識され、そこから次なる秩序への「移行」

を目指して展開されたという共通性格をもっている(例えば、江戸時代の商

(23)

品経済発達に伴う封建制の行きづまりからの移行や、日露戦争後のモダニズ ム及び伝統主義といった「社会的模範」の喪失状態からの移行)。

 岩崎は、大正期の都市知識人層に現れた帰農論を、モダニズム(流行の追随)

や伝統主義の強制といった権力作用に対する「抵抗の拠点」として位置づけた。

前者を市場、後者を国家と大雑把に括りながら、現代に置き換えて考えると、

一方にバブル崩壊以降の不安定化する雇用形態、常に新たな流行や消費を煽る マーケティング圧力、コンビニに依存する消費形態といった「市場権力」が あり、他方に福祉制度に頼らず個人に常に「自立」と「活躍」を求めながらも、

市民社会よりも自己の政治権力の強化を図ろうとする「国家権力」が存在して いる。しかし、このような状況は、多くの人々の日々の暮らしにおいては漠 として切実さに欠けたものであり、空前の格差社会や経済的混乱、思想弾圧な どの国家権力の暴力が顕在化していた戦前の日本社会と安易に比べることは できない。現代においては、危機や権力のシステムが複雑化し、見えにくくなっ ており、「抵抗」と言っても何に対する抵抗なのか、その対象を具体的に認識 しづらいのである。例えば、市場経済(または資本主義)に対する抵抗と言っ ても、80 年代以降の帰農ブームを演出してきたのは他でもないメディアであ り、特にマーケットとして重要な位置を占める団塊の「シニア世代」に対して は、広告業界によって 2000 年前後から働きかけが行われてきた。団塊世代の 経済規模の大きさと「元気」で「成熟」した消費リーダーといった性格に着目し、

スローライフや田舎暮らしを「大人な」レジャーとして宣伝しているのであ る69)。現代の市場は個人の「ライフスタイル」に直接働きかけてくる。情報の

「ソーシャル化」の進む今日、マーケティングは多くの人々にとって生活の一 部とさえなっている。そのような意味で、昨今の「農業ブーム」を安易に戦前 の状況とは比較できない面も指摘しなければならない。また、今日の地方移住 や農的生活については、都市型災害のリスク回避とも、「半農半 X」といった やりがいのある副業探しの機会、「里山資本主義70)」といわれる様々な農村資源

(特に水、食料、エネルギー)を生かした新たな生活基盤とビジネスチャンス といった位置づけが普及してきている。

69) 佐田 , 2003 : 221-233.

70) 藻谷 , NHK 広島取材班 , 2013

(24)

 ここで挙げた昨今の帰農をめぐる宣伝の拡大の動きの中で、おそらく欠けて いると思われるのは、個人では手に負えないリスクにさらされ、社会基盤そ のものが脆弱化した状況に対する視点である。フランスの社会学者ロベール・

カステルは、現代の社会問題を賃労働をめぐる諸制度と諸関係に支えられた サラリーマン社会の崩壊過程に起因する社会的「脆弱性 vulnérabilité」にある と分析し71)、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは、環境汚染や経済危機など のリスクに社会全体がさらされる状況は近代社会の背負う運命であると分析 した72)。また、エコノミストの藻谷浩介が主唱する、現代版帰農論とも言える

「里山資本主義」論も、リスクと不安を助長するマネー資本主義から身を守る

「保険」的手段の一つとして里山資源に根ざした生産・再生産システムを提示 している73)。本稿で考える脆弱性もここに挙げた認識に近い。

 そのような視点から現代の経済社会の危機と帰農の関係を考える時、月並み であるかもしれないが、まずは「地域性」が一つのキーワードになると考えて いる。先に、帰農や農村移住プロセスが個人の新たな生活基盤となるとともに、

受入地域の社会にとっても活性化の重要な契機となっていると述べた。私は、

そこから生まれる具体的な人間関係から行政制度まで巻き込んだ「相互承認」

のプロセスが重要だと考えている。例としては、耕作放棄地などを積極活用し、

自己の尊厳や利益を確保すると同時に、地域の公共財産を守る「市民」とし ての社会的承認を得ていく過程が挙げられる74)。そこで重要なのは、新たな「ラ イフスタイル」や「ビジネスチャンス」としての農のみならず、それがどの ような市民社会構築の動きに結びつくのか、という点になるだろう。

71) Castel, 1995.

72) Beck, 1986(1998).

73) 藻谷 , NHK 広島取材班 , op.cit.

74) ここでは、筆者が調査を行った、愛知県豊田市の「農ライフ創生センター」の事例、

あるいは同地方に 80 年代末より根づく市民的農業振興モデルとしての「生きがい 型農業」を想定しているが、それについては拙稿(Muramatsu、2009 ; 2011 ; 2012)

を参照していただきたいと同時に、他稿を日本語で執筆中である。

(25)

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(27)

<ABSTRACT>

History and actuality of the Back-to-the-land movements in Japan: towards a genealogical analysis

M

URAMATSU

Kenjiro

The phenomenon of Back-to-the-land historically appeared in connection with social and economic crisis. In this essay, we examine factors and meanings of several back-to-the-land discourses and movements in Japan through a genealogical analysis which covers a long period from the Edo period until today. Four historical figures of the Back-to-the-land discourses are proposed here. 1: peasant-soldiers theory of the Edo period; 2: humanitarian Back-to- the-land among intellectuals of the Taishō period; 3: Back-to-the-land as state means to fight against unemployment and to integrate into total war; 4: Post- industrial Back-to-the-land. The Japanese Back-to-the-land discourses have evolved since the Edo period with the theme that is the relationship between nature, the life of the individual and the social order. A common character among these discourses is that they developed in a transitional perspectives towards a future social order. While the contemporary Back-to-the-land discourses often are considered in terms of lifestyle changes or new business chances, there is in the background the problem of vulnerability which the post-industrial society faces. It is the society as a foundation of concrete existence of the individual that has to be questioned here.

参照

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