ウィーンの歴史的集合住宅の成立と持続保全性の考 察
著者 池井戸 亮佑
出版者 法政大学大学院デザイン工学研究科
雑誌名 法政大学大学院紀要. デザイン工学研究科編
巻 10
ページ 1‑8
発行年 2021‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00023782
法政大学大学院デザイン工学研究科紀要 Vol. 10(2021年3月) 法政大学
ウィーンの歴史的集合住宅の 成立と持続保全性の考察
STUDY ON THE ESTABLISHMENT AND SUSTAINABLITY OF HISTORIC APARTMENT HOUSE IN VIENNA
池井戸亮佑 Ryosuke IKEIDO
主査 網野禎昭 副査 北山恒・岩佐明彦
法政大学大学院デザイン工学研究科建築学専攻修士課程
The Vienna apartments built in the mid-19th and early 20th centuries are still alive. These buildings have flexible space and meet the demands of the times by repeatedly changing their uses. Therefore, in this study, firstly identify the building typology of the historical apartment houses in Vienna. Then, apply the Open Building theory to the typology and study sustainability.
Key Words : OpenBuilding, Construction, Vienna, Sustainability, Apartment, Flexiblity, Typology
1.研究趣旨
近年、我が国では持続可能な開発を掲げ、建物を長期 に渡って利用しようとする動きが加速している。このよ うに、建物を地域の資産として長期に渡って利活用して いく都市を、ストック型都市と呼ぶ。ストック型都市の モデルとされるのは、やはりヨーロッパの諸都市であり、
これらの都市では、建物が都市や国家の文化的、経済的 資産となっている。今後ストック型都市を目指す我が国 にとって、その都市住宅がなぜ生き続けているのかを理 解することは非常に重要である。そこで本研究では、ス トック型都市の1つと言えるウィーンを研究対象とし、
まずその都市住宅の成立過程を明らかにする。そしてそ の過程で明らかになったタイポロジーを、オープンビル ディング理論に照らすことで、建物の持続保全性につい て考察していく。
2.中世の2つの都市住宅
(1)都市市民の住宅
中世のウィーンは、他の主要都市と同じように、城壁 で囲まれた狭小な都市であった。城壁を拡張して都市拡 大を行った都市が無い訳ではないが、これには莫大な資 本と労働力が必要である。そのため、城壁を持つ都市で は限られた空間を有効に使わなければならなかった。
都市面積の有効活用のために、中世都市では街路の数 や幅は制限され、この少ない道に多くの家が面するよう に住宅が建設された。中世の都市市民は商人と手工業者 が殆どであり、彼らは地上階に店舗やアトリエを持つた
め、街路に面していることが大事であったと考えられる。
こうして、狭小で密集していた中世の都市では、街路に 面して多くの住宅が建てられるように、間口が狭く奥行 きが深い住宅が基本型となった。
1609年に描かれたウィーンの鳥瞰図を見ると、実際に 間口の狭い妻入りの住宅が建ち並んでいることが分かる。
同時に、所々に平入りの大きな邸宅が出現していること も見て取れる。この平入りの住宅こそが、近代ウィーン の集合住宅の原点である。そしてこの住宅の起源は、中 世の城塞に遡る。
図1 Jakob Hoefnagelの1609年のウィーン鳥瞰図
(2)城塞という住宅
封建制度を土壌とする中世では、封建領主同士の争い が絶えなかった。そのため領主や貴族などの権力者は、
自らを護るため、防御的機構を持つ城塞を住まいとして いた。
中世城塞は、イギリスやフランスでノルマン人によっ て建設されたモット・アンド・ベイリーという城塞から
始まり、その後数多くの城塞がヨーロッパ中に建設され ていった。その中でも有名な城塞の一つが、現在は美術 館となっているルーヴル城塞である。ルーヴルは元々ア ングロ・ノルマン人から都市を護るための城塞として建 設され、13世紀中頃には王室の宝物庫及び王や宮廷の居 館にもなった。
ウィーンでも城塞が建設されている。ウィーンの城塞 は、全体として方形で四隅に塔があるKastellburgという 類型のもので、市壁の中に建設された。この城塞は、現 在のウィーンのホーフブルク宮殿の Schweizerhof と呼ば れる建物の原型である。Schweizerhofを建設したのはボヘ ミア王であったオットカーであるが、後にハプスブルク 家の居城となる。
3.近代集合住宅への展開
(1)城塞から宮殿へ
ヨーロッパの城塞建設は13~14世紀を頂点として下火 となっていくが、それには主に2つの背景がある。
まず大砲の登場である。それまでの城塞建設において 高さというのは最大の武器であったが、大砲の登場によ り高い建造物の優位性が無くなった。次に世情の変化が ある。領主や貴族の弱体化により権力の中央集権化が起 こり、近代的な主権国家が形成されると、戦争の形態が 変わっていく。それまでの封建制では、その仕組み上国 境が曖昧になってしまうため、戦争の際にどのくらいの 諸侯や騎士が参戦するのかが分からなかった。しかし主 権国家の形成により国境が明確化すると、他の国と主権 が重なることが無くなる。こうしてヨーロッパの戦争は、
国内の内乱から百年戦争の様な国家対国家まで大規模化 していく。
機能的にも社会的にもその使命を終えた中世城塞は、
脱要塞化し王や主権者が住むのに相応しい儀式空間へと 変わっていく。城塞の脱要塞化の例としても、パリのル ーヴルが有名である。先述のように、ルーヴルは元々城 塞であったが、1527年にフランソワ1世がパリに居住す ることを決め、ルーヴルをより明るく自らが住むのに相 応しいものに建て替えるように命じた。そして中世の円 筒の巨大なキープ(天守閣)は取り壊され、開口部も増 え、より明るい空間のある宮殿へと変化した。こうして ルネサンス様式の新宮殿が生まれた。現在のルーヴルは、
この後バロック様式にさらに改築されたものである。
ハプスブルク家のウィーンでも、フランスと同じよう に城塞の宮殿化が起こっている。Schweizerhofは複数回に 渡る増築により、居住空間を広げている他、あまり大き くなかった開口部が大きくなっている。最終的には、城 の防御機能の象徴かつ権力の象徴であった塔も取り壊さ れている。新しい建物も次々と建てられていった。ルネ サンス期に建てられた新王宮としては、Amalienburgと呼 ばれる建物が象徴的である。
図2 16世紀のSchweizerhof
(2)Kastellburgの増築
Schwerizerhofの増築、つまりKastellburgの増築には共 通の特徴が見て取れる。それは元々存在する中庭を囲む 周壁をそのままに、その前後に新しい壁を建設し増築し ていることである。
Schweizerhofの最初の増築では、北側は元からある周壁
を壊しホールの棟を建設し、東側は周壁の内側に新しい 壁を建設して増築している。後年の改築では北側と東側、
西側が外側の壁で、南側が内側の壁で増築されている。
南側だけ内側なのは、南側の外側には市壁がめぐってい るからであろう。
この様にKastellburg増築の基本となるのは、やはり四
隅の塔とそれを囲む周壁であり、極力その遺構を活かし ながら増築していく過程が見て取れる。この結果、元々 の周壁に中庭側の壁とファサードの壁を足して、三つの 構造壁に支えられる構造となる。このような二列の隣り 合う並行空間をドイツ語でZweihüftigenと言う。
図3 Schweizerhofの二階平面図
(3)宮殿の儀式的空間構成
Zweihüftigen の特徴は空間が伸びていく長辺方向と短
辺方向とで、空間を仕切る壁の強弱が変わっていること である。実際にSchweizerhof の図面を見てみると、厚い
構造壁が長辺方向に真っ直ぐ伸びていて、短辺方向の壁 は少ないか、薄い間仕切り壁程度のものが多いことが分 かる。これには宮廷で行われていた儀式的慣習とそれに 伴う宮殿建築の居室配置が関係している。
そもそもルネサンス期以前の宮廷や貴族の建物は、廊 下に面して一対一対応で部屋がある、Defiladeと呼ばれる 構成が主流であった。反対に、廊下がなく部屋同士が連 続している構成をEnfiladと呼ぶ。Enfiladeはバロック以 降徐々に見られるようになる。
DefiladeからEnfiladeの変化は、近代以降の宮廷文化の 進展で、ウィーンに限らず見られる変化である。近代化 の過程で主権者の力は益々強くなっており、彼らによる 儀式的な生活が形成されていった。ウィーンでは、17世 紀の初頭にフェルディナント3世が宮殿の儀式的慣習に 対する明確な規定を定めている。
この規定はVorzimmerordnungと言われるもので、宮殿 内で謁見を行う場合に、直接目的の部屋に訪れるのでは なく、いくつかの前室を設けそこを通過しないといけな いというものである。そしてこの前室は身分や階級によ って進める限度が違っており、大勢の従者などはそれぞ れの前室で待機しなければならなかった。そのため部屋 を連続させる必要が生まれ、ウィーンにおいて Enfilade を普及させることになったと考えられる。
当初の Enfilade は前室の数も少なく、単に部屋を横一
列に連続させればよかったと思われる。しかし、さらに 機能が複雑化していくと、一列に部屋が横並びしている だけでは対応出来なくなくなってくる。一列だと部屋を 伸ばすのにも限度があるため、短辺方向に増築して二列 の連続空間が生まれていく。こうして Zweihüftigen が成 立する。
図4 DefiladeからEnfilade、そしてZweihüftigenへ
(4)宮廷様式の市民住宅への普及
宮殿の儀式的空間の必要性から生まれた Zweihüftigen だが、ウィーンの市民住宅にまで普及していくこととな る。それは神聖ローマ帝国皇帝を歴任するハプスブルク 家の居住都市であったウィーンの、宮廷と市民の密接か つ特殊な関係のためである。
ハプスブルク家がウィーンを所領としたのは13世紀後 半の出来事だが、ハプスブルク家は常にウィーンに居住 している訳ではなかった。それでも、1533年にフェルデ ィナンド1世がウィーンに居を構えると、ウィーンは名 実共にハプスブルク家の居住都市となる。
ハプスブルク家の居住都市となったウィーンでは、貴 族や騎士、そして帝国の役人などが大量に流れ込み、中 世の商工業者は完全にその力を失い、郊外に追いやられ ていく。新しい都市市民や訪問者によって、ウィーンで は住宅不足が問題となる。中でも、ウィーンを訪れる帝 国の役人や宮廷人に相応しい宿舎が不足していたため、
フェルディナンド1世は Hofquartierpflicht という制度を 定めた。これは、貴族や修道院、その他公的な機関を除 く市内の住宅所有者に対して、宮廷人と役人のために彼 らの住宅の一部を相場よりも安い価格で貸し出さなけれ ばならないとするものである。この理不尽とも言える法 は、1781年に廃止されるまで続く。同じ頃、オスマン帝 国の侵攻に勝利したウィーンは安定した時代を迎え、技 術の進歩も相まって建設ラッシュを迎えている。1683年
~1770年の間に人口は倍増し、80000人から160000人以 上となった。
住宅需要と建設ラッシュによって、新しい市民住宅が 建設される。中世までの市民住宅であった、間口が狭く 奥行のある住宅は壊され、広い敷地に貴族の宮殿や、教 会、修道院が建てられていった。これらの新しい建物は それまでの中世住宅とは大きく異なる。それまでの妻入 りの細長い住宅から、平入りで、時にそれ自身で中庭を 作る巨大な邸宅に変わっていた。この邸宅こそが、1609 年のウィーンを描いた鳥瞰図に出現している新しい都市 住宅である。この中庭を持つ巨大邸宅はWohnhofと呼ば れる。
建設ラッシュ期に Hofquartierpflicht という法が存在し たことは、ウィーンの市民住宅にとって重大なファクタ ーとなったはずである。なぜなら、宮廷人と役人に部屋 を貸し出さなければいけない状況下では、市民の住宅が 宮廷のそれと似通ってくるはずであるからだ。つまり
Hofquartierpflichtにより、ウィーンの市民住宅が宮殿の建
物を模倣したと考えることが出来る。
(5)賃貸集合住宅の誕生
その後の1770~1840年においてもウィーンの成長は留 まることは無かった。住人の数は 160000人から 440000 人まで増加し、ベルリン(1800年に170000人)を遥かに上 回るドイツ語圏最大の都市であった。
工業化の進展により家内制手工業が発達し、彼らが郊 外に新しい、そして当時の典型的と言える住宅を建設し た。この住宅形式は Pawlatscheと呼ばれ、全体として2 階建てか3階建ての建物で、1階で家内制手工業が営ま れた。中世の頃のような間口の狭い区間に建てられ、道 路側の入り口から細長い中庭に入り、中庭を囲むアーケ ードから住戸にアクセス出来た。しかし、Pawlatscheの集
合住宅は火災の際の避難経路が不十分なために、1881年 に建設禁止となっている。
郊外で盛んだった家内制手工業は、社会構造の流動化 を引き起こした。家内制手工業を基礎として、ウィーン では卸売業が発達し、その担い手である非貴族・宮廷人 である一般市民層の勢力が強まったのである。経済力を つけたこれらの市民は、それまで市内を牛耳っていた貴 族や一部の有産階級層に対して発言力を増す。それまで 郊外の貴族の所有地は無税であったが、ウィーン市はこ れに税金をかけた上に、最終的には大部分の所有権を市 に譲渡させていることが、これをよく表している。
イギリスで始まった産業革命の波がウィーンに訪れる と、家内制手工業が現代的な工場へと変化していく。蒸 気船と機関車がウィーンにも開通し、ドイツ語圏最大の 都市であったウィーンに、近隣地方から膨大な数の人が 職を求めやって来た。人口の増加は、それまでにいなか った新しい市民層が増えたことを意味する。それは、工 場の支配人を始め、銀行業や商社を生業とするものであ った。産業革命後のヨーロッパ各国で起ったことだが、
それまでの職住が一体化した住宅から、職住が分離した 住宅が生まれる。産業革命後の社会では、労働者にとっ て住まいはただ寝食を行う場になっていった。
工場などの資本集約型の産業の新興、そして人口増加 による地価の上昇によって、賃貸集合住宅が生まれる。
このような賃貸集合住宅は、18世紀後半に既に建てられ ている。この最初の賃貸集合住宅として有名なのが、シ ョ ッ テ ン 教 会 横 の 広 場 に 面 し て 建 て ら れ た
Schubladlkastenhaus である。直訳すると「引き出し付き
箱」を意味するこの賃貸集合住宅は、当時の住宅として は飾り気の無い箱型の建物で、中には狭苦しい住戸が引 き出しのように存在していた。それまでにも集合住宅自 体は存在していたが、個別に設計された部屋が並んでい るにすぎないものだった。しかしこの時代から各住戸が 標準化され、現代的な意味での賃貸集合住宅へと変化し ている。
その後更なる地価の上昇と資本家の台頭を受けて、貴 族や修道院のWohnhofは放棄され、それらは分割され賃 貸集合住宅へと改築されていく。その代表的なものが市 内に今も存在するMelkerhofである。Melkerhofは複合的 な建物で、それ自体で4つの中庭を囲む巨大な建物だ。
平面計画を見てみると、二列構造の Zweihüftigen が一列
構造のEinhüftigenで接続されているのが分かる。宮廷の
儀式的空間が由来の Zweihüftigen が、市民階級の台頭を 受けてもなお、ウィーンの建物の基本構造として定着し ていることがよく分かる。居住者はそれまでの大邸宅の 生活から集合住宅での生活への変化に戸惑いを感じては いたが、人口増加による地価の高騰により集合住宅に住 む他無かった。
このように Zweihüftigen がウィーンの集合住宅の基本 計画として定着していった。そして、この後19世紀半ば
からの最大の建設ラッシュ期において、市内から郊外ま で変わらないタイポロジーとして普及していくこととな る。
図5 Melkerhof外観
図6 Melkerhof平面計画図
4.大規模都市拡大と集合住宅
(1)城壁の撤廃と環状道路の建設
中世以来、城壁は外敵の侵入や襲来から都市と市民を 守るのに役立ち、大聖堂と並び都市のシンボルであった。
特にウィーンはヨーロッパのキリスト教圏の東南の端に 位置しており、その強力な城壁は市民の誇りとなってい た。ところが19世紀にそんな城壁を撤廃し、都市を近代 化しようという動きが現れる。
この近代化には大きく二つの背景がある。まず、当時 既に城壁は時代遅れであったことだ。19世紀初めにヨー ロッパの大半を征服したナポレオンが用いた大砲は、城 壁の幅員を超える程の射程距離を有していた。つまり、
城壁があっても砲弾を市内に命中させることが出来た。
また、1848年ウィーン革命時には、皇帝と軍隊を追放し た革命政府が堅固な城壁とリーニエを楯にたて籠った。
最終的には地力で勝る皇帝軍が勝利したが、城壁の役割 が逆転してしまったのである。この様に、城壁は無用の 長物どころか、反乱者にとって有利なものとなってしま った。そして19世紀の工業化と大都市への人口集中であ
る。イギリスの産業革命後、手工業から機械制の工場へ と生産方式や労働組織が大きく変わっていった。こうし て共同住宅や商店などの仕事場に対する需要が急速に高 まっていた。
このような背景から、フランツ・ヨーゼフ皇帝は城壁 の撤廃を命ずる勅令を出す。この勅令に基づき、1858年 にウィーン都市改造計画のための委員会が設置され、改 造計画案の国際公募が行われた。85件の応募の中から 3 つの案が採用され、一等のフェルスター案を中心に委員 会による修正を加えた後、翌年の1859年9月に皇帝の承 認を得る。最終的には、リング通りとその外側のラスト 通りとギュルテルを加えた同心円状の三重の道路が、将 来構想として打ち出された。こうしてウィーンは城壁を 撤去し、大規模な都市拡大と建設ラッシュを迎えること になる。この建設ラッシュは1914年まで続き、この時代 をGründerzeitと呼ぶ。
図7 19世紀前半と環状道路建設後のウィーン
(2)Gründerzeitの開発
ヨーゼフ2世が1781年にHofquartierspflichtを廃止した
ことは、Gründerzeit の住宅開発に大きな影響を与えてい
る。宮廷人に対し住戸を貸し出さなくてよくなったため、
以前より多くの中産階級が住宅所有を望むようになった。
そのため手頃な価格の建物を数多く作ることが、社会的 な要求であった。こうして始まったGründerzeitの郊外開 発では、新しい街路が既存の街区の中に挿入された他、
複数の狭い区画が、大きな建物が建てられる様に一つに まとめられた。中世の狭い区画やバロック時代の大きい 区画が、平方で均等な大きさの区画に整備されたのであ る。
Gründerzeit の街区は、敷地状況から変形する場合もあ
るが、主に短辺が約50~100m、長辺が50~100m の矩形で ある。街区のスケールが決まることにより、各建物の建 設区画も決まっていく。土地造成の際には、出来るだけ 多く街区の角にも建てられる様に、比較的小さな建設区 画が用いられた。ウィーンでは、伝統的に街路側の住戸 が人気があったため、集合住宅は広い街路に向かって計 画されたためである。この結果、Gründerzeit の街区は土 地利用歩留まりを向上させ、多くの住戸を生み出すこと が出来た。
中庭の作り方にも特徴がある。それぞれの建物で中庭
を確保するのではなく、隣接する建物の中庭を集めて配 置することで、効率良く中庭を確保することを可能とし たのである。2つ以上の中庭により構成されていること もあるが、多くは隣接する2つの中庭が合わさったもの がよく見られる。これは合意を必要とする当事者が少な く、制約が小さいためだと推測出来る。中庭の採光や通 風は周辺建物の規模と高さに左右されるため、それぞれ の中庭は高さを抑えた境界壁を挟んで向かい合わせに配 置された。このような一体的な中庭では、中庭を取り囲 む全ての建物が外部環境を等しく享受出来る。つまり、
個別の敷地内で中庭を獲得しようとせず、個が集合する 際に最大限の効果を得ようとしていると言える。
この特徴は、たとえ建物の事業主や建設時期が異なっ ていたとしても確認出来る。これよりGründerzeitの街区 が生み出す空間は一般化することが可能である。すなわ ち、街路と中庭という二つの不変の外部環境を各住戸が 持つということだ。これらの外部環境は、居住者の変化 や 住 戸 数 の 増 減 な ど が あ っ て も 変 化 し な い た め 、
Gründerzeitの住戸は一定の居住環境を持つこととなる。
Gründerzeit の住宅開発は第一次世界大戦の敗戦まで続
き、郊外の建物の3/4が再建された。しかし敗戦によりハ プスブルク帝国が崩壊したことにより、ウィーンはオー ストリアの首都にすぎなくなり、建設活動も終息する。
図8 Gründerzeitの平面計画の例
(3)社会民主党の住宅政策
敗戦による荒廃の結果、インフレと失業にあえぐ、生 活や居所の不安定な多くの住民をウィーンは抱えること となった。失業者は街に溢れ、特に住宅難は深刻であっ た。特に敗戦直後の数年は、飢餓とインフルエンザの流 行があった他、帰還兵士や周辺国からの亡命者、旧帝国 領内から戻った官僚などで街はごったがえしていた。社 会民主党率いるウィーンは、まずこの様な社会問題に取 り組まなければならなかった。なお、社会民主党による 市政時代のウィーンを、赤いウィーンと呼ぶ。
住宅難の原因には、個人や会社による建設活動が滞っ ていたことが影響している。1917年1月の借家人保護法 で、家賃3000クローネ以下の住宅を対象として家賃の引 き上げと解約に厳しい制限が課され、兵士の家族に対し ては家賃の引き上げが禁じられた。敗戦によるインフレ にも関わらず家賃を上げられなくなったため、賃貸住宅
で利益を出すことは困難となる。それまでのウィーンの 住宅建設は家主の私的な事業に任されており、賃貸住宅 を建設することはブルジョアジーの利益追順の手段であ った。そのため、利益の出ない賃貸住宅の建設は放棄さ れてしまったのである。
こうした背景があり、1923年から郊外で市営の集合住 宅の建設が始まった。ここから赤いウィーンの市営集合 住宅の建設ラッシュが始まる。計画の全貌としては、1926 年10月に第二期計画5000戸が決定され、次いで27年5 月に第三期計画として3000戸、33年には第四期計画とし て3000戸が策定されている。1924年から34年にかけて 6万1175戸を建設した。また、郊外だけでなく都心部で も、空き地の状態に応じて種々の大きさの集合住宅が建 てられた。
(4)赤いウィーンの開発
Gründerzeit では建設活動は殆ど民間に任されていたた
め、利益追順のための劣悪な住環境の住宅も多かった。
そのため、赤いウィーンでは、以前より高い生活水準の 労働者向けの住宅を建設することが目指された。そんな 赤いウィーンの市営住宅建設を簡単に要約すると、伝統 的空間構成の継承と住環境向上の両立、そして市民がそ れを平等かつ自由に利用出来るようにしたと言うことが 出来る。
伝統の継承とは、Zweihüftigenと中庭のある住棟配置の ことである。Metzleinstalerhof の計画図を見ると、まず
Gründerzeit と同じような並列空間が基本構成となってい
るのが分かる。元々は宮廷や貴族の儀式的空間構成であ
った Zweihüftigen だが、ハプスブルク市政が終わった後
もなお、ウィーンの集合住宅のタイポロジーとなってい るのである。街区にも伝統の継承が見られる。それは
Wohnhofのような街区単位で中庭を作ってしまうHOFと
いう形式である。ただ、赤いウィーンの中庭は、街区内 に出来るだけ建物を建設していたGründerzeitとは違い、
中庭側の居室も街路側と同じくらいの環境が得られるく らいに広い。もう1つ、Gründerzeit の中庭とは決定的に 違う点がある。それは赤いウィーンの中庭は、街路側と 切り離されていないということだ。
いくつかの赤いウィーンの集合住宅を見てみると、住 棟配置が街区をまたがって計画されているのに加えて、
区画内に街路が通っていることが分かる。このように複 数の土地区間をまたぎ、一つの敷地として扱うことをス ーパーブロックと言う。スーパーブロックを用いている 大型集合住宅には、機械化された共同洗濯場と共同浴場 が設置された他、プール、体育室、遊戯室、保育園、学 童保育所、図書館、映画館や集会所、売店なども設けら れるものもあった。
街路が通っているということは、これらの集合住宅団 地内には居住者以外も自由に入っていくことが可能であ るということだ。これは中庭が居住者の私的所有であっ
た Gründerzeit とは異なる。とはいえ、大きく見れば
Gründerzeit の中庭の基本理念は継承していると言えるだ
ろう。
赤いウィーンは住宅建設の伝統を継承しながらも、住 戸内に目を向けると住環境の向上を図っている。住戸単 位には2つの基本計画がある。1つは、居間とキッチン 室、小部屋があるもの、もう1つは居間、寝室、キッチ ン、小部屋があるものである。どちらのタイプでもトイ レは各住戸内に設置されている他、バルコニーがあるこ とも多い。全ての部屋に採光がとれるように計画されて いる。加えて、戦前は 95%の住宅にが水道が通っていな かったが、水道・ガス・電気の設備が設置され、水洗ト イレが付設された。個々の居住空間は狭かったものの、
建蔽率は戦前が 85%だったのに対し、40〜60%に留めら れた。
このようにGründerzeitと比べ生活環境はかなり向上し たが、家賃は入居者の収入の 3〜5%と定められ、病気や 失業の場合は支払いの延期も認められた。戦前の借家で は、収入の多くが家賃の支払いとなっていたため、労働 者にとって民間の借家とは比べ物にならない便益であっ た。そして赤いウィーンでも Zweihüftigen が用いられた ため、旧市内から郊外まで共通のタイポロジーとなった。
図9 Metsleinstalerhof計画図
図10 赤いウィーン市営住宅の基本計画
5.ウィーンの歴史的集合住宅の持続保全性
(1)オープンビルディング理論
オープンビルディング理論とは、1960年代にオランダ の建築家のハブラーケンが提唱した概念で、建物の建設 と利用を「スケルトン」と「インフィル」に分けて考え るというものである。スケルトンは柱や梁、床などの構 造躯体を、インフィルは間仕切り壁や諸設備をそれぞれ 表す。スケルトン・インフィル住宅は、物質的な耐久年
数が異なるスケルトンとインフィルを分離して計画する ことで、住宅全体としての保全性を向上させることを目 指す概念だ。
注意したいのは、スケルトンとインフィルは明確な階 層構造となっていることである。耐久年数が高いスケル トンは、当然インフィルよりも上位の階層となる。ここ でインフィルの計画がスケルトンに影響を及ぼさないこ とが重要である。つまり耐久性のあるスケルトンを保持 したままインフィルのみを更新することで、スケルトン の寿命まで目一杯建物を使うことが出来るのである。ま た、ハブラーケンは後に、スケルトンとインフィルに、
アーバン・ティッシュという新しい階層を加えている。
アーバン・ティッシュは都市組織を意味し、スケルトン の上位の階層にあたる。都市組織は街路やその土地が持 つ地形までを含んでおり、耐久性は限りなく高い。その ため、スケルトンはより高い持続性を持つアーバン・テ ィッシュに従属する必要がある。
このハブラーケンの理論を「オープンビルディング理 論」と呼ぶ。オープンビルディング理論は、提唱から50 年以上が経つが、今もなお住宅の保全性を考察する上で 重要な視点である。ここからは、オープンビルディング 理論をウィーンの歴史的集合住宅に適用し、その持続保 全性について考察していく。
(2)用途対応しないスケルトン
Gründerzeit と赤いウィーンの集合住宅の構造は、煉瓦
と木の混構造である。構造壁は煉瓦造であり、床と小屋 組が木造だ。床は主に8~900mm ピッチの単純梁で構成さ れている。ただ、建設時期によって床の構法が違い、後 期に建てられたものでは、鉄骨と煉瓦ヴォールトなどを 組み合わせたものも見られる。床は構造壁の引っかかり、
または腕木状の梁受けで床梁を支持する。そのため、階 層が高くなると床荷重を支える壁には大きな力がかかる。
それゆえ、地上階に近づくにつれて14,29,44,59,74,89cmと 壁の厚みが大きくなっている。
また、各階の床荷重は、床の単純梁を通して構造壁に 伝わるため、下階の床に上階の荷重が加算されることは ない。つまり、各階の床はその階層ごとの荷重を負担す るのみでよい。それゆえ、各階の間仕切り壁は上階の荷 重を受けない非構造壁となり、構造に制限されることな く配置することが可能である。
以上が室内空間部の大まかな構法であるが、建物が存 在する限り変わらない構造壁をスケルトン、移ろいやす い室内空間を仕切る間仕切り壁をインフィルとして捉え、
これらに階層を持たせて計画していると言える。構造を 規定するスケルトンと空間を規定するインフィルが分離 されているため、建物内の空間変更が容易であり、空間 の可変性を担保しているのである。
主構造と間仕切り壁の分離という特徴は、赤いウィー ンの市営集合住宅でも変わらない。赤いウィーンでも伝
統的な Zweihüftigen は継続されていたし、構造壁も煉瓦
造であった。カール・マルクス・ホフなど、いくつかの 代表的な市営住宅の平面計画から、道路に平行な厚い構 造壁、そして道路に直行した細い間仕切り壁が確認出来 る。これは赤いウィーンの集合住宅でも、Gründerzeit と 同じく構造を受け持つスケルトンと空間を規定するイン フィルを、明確なヒエラルキーを持って分離しているこ とを表している。
実際にこの特徴を生かして、ウィーンではコンバージ ョンを数多く行ってきている。19世紀から既に、住宅か らオフィス、あるいはその逆のコンバージョンが行われ ていたことが分かっている。このことから、ウィーンで は建設ラッシュ期であるGründerzeitでさえ、個別の用途 や特定の機能、生活様式に対応した空間を計画していな いということが分かる。
図11 Zweihüftigenと空間の可変性
(3)都市化したスケルトン
ウィーンの歴史的集合住宅が、特定の用途に対応しな い空間構造であり、スケルトンがインフィルに対して優 位に計画されていることは分かった。このことをさらに 裏付けていることがある。それは当時の住戸内空間の呼 称である。当時の平面計画図を見てみると、キッチンを 除く全ての部屋がZimmerと表記されている。Zimmerは ドイツ語で「部屋」を表す語であり、用途に関係なく居 室を総称して表す。つまり、ウィーンの集合住宅には間 取りというものが殆ど存在していないのである。同時代 のパリなどの大都市の集合住宅プランと比較すると、ウ ィーンのこの平面計画の特異さが分かる。
19世紀のパリの集合住宅のプランを見てみると、用途 対応した小部屋が多く作られているのが分かる。当然各 住戸にトイレが設置されている他、プライバシーが考慮 された寝室、主空間とは離されたキッチンがある。また、
廊下が通っているため、一番奥の部屋に行くために全て の部屋を通らなければいけないウィーンとは違い、目的 の部屋に直接向かうことが出来る。この様に、ウィーン のものと比べパリの集合住宅の利便性は高いと言えるが、
その分平面計画は複雑となっている。ウィーンの歴史的
集合住宅の Zweihüftigen のような明確な空間の規範を見 て取ることは出来ない。
生活水準という観点では他都市と比べ後進的と言える ウィーンの集合住宅の、すなわち Zweihüftigen の空間構 成の特徴とは何であろうか。それは街路と中庭という2 つの外部空間に、住戸が均等に配置されるように構成さ れることだ。
人間が住まう住空間においては、一般的に外部空間に 開かれた開口を持ち、その開口により自然の通風と採光 を得る必要がある。その必要性は人工の換気、照明技術 が発達した今も変わらないが、特にそうした技術が未発 達の時代においては、これらは居住環境をつくる上で決 定的な条件となる。Gründerzeit の集合住宅群は、居室と なる主空間とキッチンなどの付属する従空間を、それぞ れ平行方向にゾーニングすることでこの条件を達成して いる。そしてこの方法の長所は、街区の大きさや形状に 左右されずに、全ての住戸が最低限の居住環境を得るこ とが出来るということである。
一般的に住宅は内部空間の計画が先にあり、それに応 じて開口や設備を当てはめていく。しかしGründerzeitの においては、先にスケルトンとなる3本の構造壁を決定 し、その後に外部環境に適した空間を順に決定している。
具体的には、道路側から主居室、その居室に従属する部 屋、水回り、動線空間や階段、中庭という順番に機能が 配置される。これは街路側が最も変化しにくく一定の空 間条件が保証される一方、密集した都市部において、中 庭の空地スペースは、一区画で大きな中庭を獲得するこ とは困難であるからである。そのため同じ外部環境とは いえ、道路側と中庭側には優劣が存在している。
その点、赤いウィーンの集合住宅のスーパーブロック では中庭空間が広大であるため、道路側と中庭側のヒエ ラルキーは少なくなっている。そのため、住戸配置も街 路側と中庭側で対称な配置となっている。
いずれにせよ、この街路と中庭という2つの外部環境 に適応した空間が、Zweihüftigenにより横列の全ての住戸 に均等に与えられている。この様にウィーンの歴史的集 合住宅は、街路と中庭に対して一定の居住環境を持った 住戸単位群を生み出し、それらによって街区が構成され ている。これは Zweihüftigen が、都市的な要素に従属し ていることを意味している。すなわち、Zweihüftigenとい うスケルトンは、インフィルに対して優位性があるだけ でなく、アーバンティシューに対して従属している。つ まりオープンビルディング理論に照らしてみると、持続 保全性に関して、ウィーンの集合住宅は理想的なスケル トンを持っているのである。
図12 都市化したスケルトン
6.結論
ウィーンの歴史的集合住宅の空間的特徴は、3本の平 行な構造壁によって生まれる Zweihüftigen という空間に ある。宮廷の儀式的空間に由来を持つこの空間構成は、
ウィーンの宮廷と市民の強い結びつきによって、市民住 宅にも普及した。その結果、19世紀半ばから20世紀初頭 にかけての2つの都市拡大期で用いられ、ウィーンの集 合住宅のタイポロジーとなった。これらの集合住宅は間 取りという概念は無いに等しく、ただ同じ大きさの室が 並ぶだけの、当時としては時代遅れの平面計画であった。
ところが、その平面計画の未熟さ故に、現代において改 修や用途変更が容易となり、ウィーンの歴史的集合住宅 は今も生き続けているのである。
参考文献
1)中村拓誉: 歴史的都市分析に基づく持続的な住環境ス
ケルトンに関する考察, 法政大学大学院修士論文, 2015 2)田口晃: ウィーン-都市の近代, 岩波書店, 2008 3)上田浩二: ウィーン―「よそもの」がつくった都市, 筑
摩書房, 1997
4)増谷英樹: 図説ウィーンの歴史, 河出書房新社, 2016 5)HANS BOBEK, ERISABETH LICHTENBERGER: Wien
bauliche gestalt und entwicklung seit der mitt des 19.jahrhunderts, Böhlau Verlag, 1978
6)Mario Schwarz: Die Wiener Hofburg im Mittelalter: Von Der Kastellburg Bis Zu Den Anfangen Der Kaiserresidenz, 2015
7)Herbert Karner: Die Wiener Hofburg 1521-1705, 2014 8)EVE BLAU: ROTES WIEN ARCHITECTURE 1919-1934
STADT-RAUM-POLITIK, 2014