・目 一序論~「李白已至夜 ・
」
と李白流夜
二李白詩における「夜 傳承 」の用例と後世への影
三貴州における李白 について 四夜 跡について
流謫傳承に
う貴州以外の李白
五結語~期待の地 跡について
としての夜
一 序論
~「李白已至夜 」 と李白流夜 傳承李白の年期における最大の事件の一つに、「夜
という事件がある。これは、李白が、永王李 流謫」
したかどで、至 の水軍に參加 二載(七五七)の
頃、肅宗政府から夜
流謫の命を下され、その命に從って、潯陽付
遡ってゆき、 より、長江を
々年の乾元二年(七五九)春の恩赦を三峽あ たりで受け、ようやく放
における最大の危機というべき出來事であった。 下ることができた、というものである。まさしく李白の人生 (1) となり、自由の身となって長江を 年、中國の學界において、この李白夜
めて活發に議論されるようになってきた。とりわけ 流謫事件が、極 ている話題は、李白が實際に夜 目され に至ったか否か(「已至」
是「未至」?)、という問題である。その議論の經
、 表論文については『 び代 代文學 究年鑑・一九九八』 (2)
友竹 收の劉
「李白長流夜
放 問題 究綜
」に詳しいが、
するに、李白が夜
に至る
に赦 されたという上記の
を して、實は李白は實際に夜
こで一定期 にまで至っていて、そ 、刑期をごしている、とする論が
年 ているのである。 !出し
李白流夜
傳承考(寺尾)
169
李白流夜
傳承考
「詩跡」擴散の
因をめぐって寺尾 剛
この「李白已至夜
」 の 否を論ずるのは本稿の目
作品、①「流夜 はない。ただ、一言付言しておきたいことは、李白自身の二 で 、 、承恩放
示息秀才」詩の詩題(特に「 、欣克復之美、書懷、
」の解釋)」、
び②「自
(特に「巫山」の地の指し示す範圍)の解釋を 病酒歸、寄王明府」詩の詩中にある「今年敕放巫山陽」の句 陽
得できる形で
明できなければ、この「已至」
はそもそも
り立たち
むろん、「已至」 と言わざるを得ない、ということである。 い に立つ論
に對する一般 も、おおむね、この二作品 な解釋を
ば、この すところから出發している。例え を最も早期の段階で、指摘し、詳
した の學 黎庶昌の「李白至夜 ・ 考」(『拙 ては「『 園叢稿』卷四)は、①につい 』 言中 指夜 也。」とし、②については「以『巫山』
。」と解釋している。この論法は今もなお、「已至」
に立つ多くの論
に、基本
「 に支持されている。しかし、
」については、これが
離を意味するのではなく、時 を意味し、「期限
中で」「刑期
用されている他の同時代 ばで」といった意味で使 とに 用例が例示されていないというこ 點がある(筆
ない)。また「巫山陽」についても、確かに夜 〔寺尾〕の管見によっても未だに發見でき
は
に 見れば巫山の南に位置しているが、(あるいは西南)
離
にはるかに離れた場
言った方が、より にあり、むしろ「渝州(重慶)陽」と 切と言える。敢えて夜
表現しなければならなかったという、積極 を「巫山陽」と の中に見いだされない限り、やはり な理由がこの詩 本稿の目 得ないであろう。 しい解釋と言わざるを 上るいは、記の理由から、訪れた可能性が現 は、むしろ、この李白が訪れたはずのない(あ
ないと ではほとんどありえ 土地における李白傳承・李白斷せざるを得ない)
の考察が、「詩跡」の生 跡 び擴散についての
は詩人イメージの形 究、あるい 史の
その意味では、昨今の「李白已至夜 るのではないか、という點を檢討していくことにある。 究等に、重な意味を持ってい
て興味深い問題を 」ブームも、極め
!"しているように思われる。生涯、
愛し、いかなる地であっても #を るからには、夜 $きを厭わず訪問した李白であ 訪れていて欲しい、という願 を訪れなかったはずはない、否、是非とも
%ないし期待感が、この
底の部分で支えているように思えるのである。 を根 中國詩文論叢第二十一集
170
二 李白詩における 「 夜
後世への影 」の用例と
李白流夜
について
傳承について論じる
る「夜 に、まず、李白詩におけ 」の地名を含む作品を再確
詩題・詩序・詩中に「夜 しておきたいと思う。
旗 」という語を含む作品を、假に安
『新版・李白
集 年釋』の (3)
みると、・表・のようになる。凡そ十九の作品の中に「夜 年に從って序列して
左 り多い方に屬していると言える(但し、そのうちの「聞王昌齡 の語が檢出され、李白の作品中に見える地名としては、かな 」 龍標遙有此寄」の「夜
」は李白配
の夜 の配 ではなく、王昌齡 至の傳記との齟齬があり、僞作 ・龍標一帶を言ったもの。また「留別賈舍人至、其二」は賈
しかし、夜 が有力である)。 という地についての
體 な 夜 寫については、
かなり乏しいと言わざるを得ない。 を訪れた經驗がないという立場に立てば當然ではあるが、
いて 中 げれば、やはり、
文明の
ばぬ僻
の地といった傳統
れている場合が多い。例えば、「流夜 イメージで表現さ 聞 不預」では、「遐 」と言い、「南流夜
寄 」では「天外」と言い、「流夜
承恩放
欣克復之美書懷示息秀才」では「
い、「經亂離後天恩流夜 谷」と言 憶 書懷
江
韋太守良宰」で は「里
」「
!谷」と言い、「江上
竇長史」では「里南 また、李白の流謫 」と言っている。
"
#の心境について、詩に
$して
てみると、これも當然と言えば當然であるが、悲哀あるいは %&し '懣の
「流夜 (を訴えるケースがそのほとんどである。例えば、
聞 不預」では「南冠君子竄遐
囚われた楚臣・鍾儀になぞらえて 」と、自らを晉に )き、「竄夜
宗十六 於烏江留別
*」では「
+,雲羅解、
-謫夜
の 悲」と、「悲」しみ (を .べ、「流夜
辛
/官」では「我愁
謫夜
日金鷄放赦回」と、「愁」いの 去、何 (を .べ、「流夜
裴隱」では、「我行 至西塞驛寄 春光短。空將澤 0雷雨、安得霑枯散。鳥去天路長、人愁 1吟、寄爾江南管」と、天惠への願
0を
つつ、澤 .べ
1を彷徨う屈原に自らを比し、「流夜
題 は「慚君能衞足、 23」で )我
「 移根」と、自由を奪われた我が身を )」き、「南流夜
寄
」では「夜
天外怨離居、明
4樓中 5信疏」と、妻との別居を「怨」み、「經亂離後天恩流夜
憶
書懷
江 韋太守良宰」では「辭官不受賞、
-謫夜
天。夜
里
て流謫の身となって、里の 、西上令人老」と、善意があだとなり、却っ
行を
と、その いられることになった '懣の (を
.べている。
李白流夜
傳承考(寺尾) 171
中國詩文論叢第二十一集 172
作品番號 詩題 詩句 制作地 製作年代
425聞王昌齡左龍標遙有此 寄
我寄愁心與明、隨風直 到夜●●西
748(天寶7)
929流夜●●聞不預 聞奏天樂、願得風 吹到夜●●
757(至2)12
485竄夜●●於烏江留別宗十六 雲羅解、謫夜●●悲 潯陽 758(乾元1)春
371流夜●●辛官 我愁謫夜●●去、何日金
鷄放赦回 潯陽 〃
446流夜●●永寺寄潯陽群官 潯陽 〃 447流夜●●至西塞驛寄裴隱 鄂東 〃春 626張相公出荊州…余時流
夜●●行至江…
江 〃5
672流夜●●至江陪長史叔
薛明府宴興寺南閣 江 〃
673泛州南官湖并序 序文「乾元秋八白
於夜●●」 陽 〃 秋8
898流夜●●題 〃
979南流夜●●寄 夜●●天外怨離居、明樓
中信疏 759(乾元2)春 837憶秋浦桃時竄夜●● 三載夜●●、於茲 金骨 〃 春 448自陽病酒歸寄王明府 去左夜●●!…今年敕
放巫山陽
江 〃 赦後
377流夜●●"!承恩放#欣
克復之美書懷示息秀才 去國愁夜●●、投身竄$谷。 〃 375經亂離後天恩流夜●●憶
書懷江韋太守良宰
辭官不受賞、謫夜●●天。
夜●●%里!、西上令人老。
…傳聞赦書至、却放夜●● 回
江 〃 秋
384江韋南陵冰 天地再新法令&、夜●● 客帶霜'
江 760(上元1)春
380江上竇長史 %里南夜●●國、三年歸 長風沙
長風沙 761(上元2)
372劉(使 而我謝明)、銜哀投夜●● 皖南 〃 492留別賈舍人至其二 君爲長沙客、我獨之夜●● ? 未*年
〈表〉李白「夜」の用例
しかし、この夜
流謫 の作品群における李白の心
ついて、それほど深刻さが感じられない、むしろ樂天 に えある、といった指摘もある。例えば、明の王守仁は『王文 でさ 公 書』卷二八で、「李太白狂士也。其謫夜
、放 不戚戚於困窮。」と指摘する。また、の趙 詩酒、
卷一は、「 『甌北詩話』
胸懷灑
、雖經竄徙、亦不甚哀痛。…
流夜 、別無悲悴語。」と
べ、李白は流刑の
の るにもかかわらず、樣々な人物と交 であ りしており(「流夜 したり、宴會を開いた 至江 陪長史叔
薛明府宴興
寺南閣」「泛 州 南 官湖」等)、果ては、客人の
までしている(「 助で酒債を贖おうと 劉 使」のこと。ただし『新版・李白
集 年 釋』はこの作品は赦
における安史の亂(下)」も、「…第二に、より重 「豪氣」を讃えている。また、松浦友久『李白傳記論』「李白 後の作とする)と指摘し、李白のその
して指摘できるのは、このような極限 な論點と 李白の人生 況を體驗しながらも、
や價値 には本質
な變 けで三年、實質 の言動への肯定性などが失われていないことにある。」「足か すなわち、生活や詩作の基としての放縱性や樂天性、自己 が見られないこと。
にも一年三ヶ
!にわたる長期
な流謫の
でありながら、その詩想の基は、ほとんど最
"
#の
と 實であったのか、換言すれば、李白の流謫の この、相矛盾する二つの方向性のうち、いずれが李白の眞 見紛うほどである。」と指摘する。
という議論は、本稿の目 のであったのか、それとも、かなり氣樂なものであったのか、 が、悲愴なも 置くこととしたい。むしろ、李白受容史、李白像形 に外れるので、ここではしばらく
いう點である。李白の夜 のまま竝行して、李白を詠じる詩歌に反映され續けていると た側面から見て興味深いのは、この二つの方向が、後世、そ 史といっ 流謫の
ているかについて、しばらくは實例を が、どのように詠じられ まず、夜 したい。 $って見ていくことに 流謫を李白の生涯の中でも悲慘な體驗の一つと
%識し、その懷才不
&に同 る。例えば、明・解縉「弔李白」に「問罪夜 (4) するという方向の作例を見てみ
宮禁憶嬋娟」とあり、明・ 悲枉屈、吟詩 '文鳳「題李白玩
!圖」に「夜 (5)
天高
!( (、 )死投
*去京國」とあり、明・傅
白像」に「 (6) +巖「題李太 ,-莫興宣室念、夜
.是玉堂
魏裔介「讀李太白詩」に「無知功未酬、夜 (7) /」とあり、・ 竟 澄・李中「 0戌」とあり、
山拜李太白先生
1
(8)」に「文人
魄自古然、
2
死長流夜
3」とあり、・張九鉞「登采石太白樓放歌」に (9)
李白流夜
傳承考(寺尾) 173
「
金唾棄不原功、
令啣哀夜
謫」とあり、
「采石磯題太白祠 ( ・湯貽汾
」に「一生大醉 )
天子、千載奇冤竄夜
とあるがごとくである。 」 名な文學の不幸に對して
感に反應し、深い同
しかし、李白の夜 見ても明らかなように、中國古典詩の一つの傳統ではある。 を表すというのは、例えば古今の屈原・賈誼に對するそれを の念 流謫に對してこの種の言
い がとりわけ多
である。杜甫の、李白流謫に對する危惧と同 因として、今一つ考えられるのは、やはり、杜甫の存在
の念は、
のごとく、非常に 知 生別常惻惻。江南瘴癘地、逐客無 いものがある。例えば、「死別已呑聲、
息。…
非 生魂、路
不可測。」(「
李白、其一」)、「…文章
命 、魑魅喜人
應共冤魂語、投詩 。 の夜 が、李白まさに凄慘の極みであり、後世の詩人あるいは讀 汨羅」といった表現は、(「天末憶李白」) 流謫を憶う時、杜甫のこれらの詩句も同時に呼び
されてしまうということも こ さて、今一つの方向、つまり、夜 れてはなるまい。
白が普段の豪放な性格を維持し續け、 流謫時においても、李 然と、あるいは樂天 にその を 命を甘受していた、といった方向で詠んでいる詩
げてみる。
ほどその例は多くはないが、例えば、明・ 孫承恩「李翰林 (
」に「 )
榮、夜 生恥齷齪、邁隘九州。…供奉非公 非公憂。」とあり、 、、、
・湯右曾「詠古 (
」に「夜 !)
長流、天末懷李白。…當時投魍魎、此樂得 、、 竟 放逐天地窄。」とあり、 、、、 "昔。文章光焔長、
・湯懋統「太白樓 (
到夜 」に「待得金鷄 #)
、騎鯨未減 、、
$、 狂」とあり、 、、
・張寶森「讀太白九
% &陽韋仲堪詩感賦 (
羈 」に「丈夫在世貴行樂、安能摧眉低顏就 、、、')
(。夜 )里仍生
*、笑爾公卿枉 、、
いずれも李白の不撓不屈の +,」といった例がある。
おいても、夜 自身せよ、李白いずれにのみならず、後世の李白受容史に わってくるわけである。變方もじ をり、そのどちらに焦點彼合わせるかによって、に對する詠 わる詩人であきることのでせち合余裕さなりなりを同時に持 しみの中にあっても、どこかに明る悲白という詩人は、深い 樣の大多性・震幅きさをよく反映しているとも言えよう。李 の風るが、また同時に、李白という詩人の人格、あるいは詩 この反對の方向とも言え正した矛盾つの方向は、一見、二 .-を讃えていると言えよう。
流謫事件が彼の生涯を語る上での不可缺の
素となっていることが、上記の例からも確
貶ににおいて、讀においても界意味謫されている、という 仙上人」たる李白が、地世謫された「謫より上は、天件事貶 /でよう。このき 中國詩文論叢第二十一集
174
樣々な感
を喚 させる事件であった。まさに
「采石磯登太白樓、其四 ( ・蒋士銓が
」で「已 )
仙人謫、 、、、
堪貶夜 、、
歌った心境こそ、李白夜 」と 、 は出發點であろう。 流謫事件を語る際の、原點あるい
三 貴州における李白 跡について
李白が貶謫される予定であった「夜
」とは、
體 跡を生む結果となり、李白受容史に豐かな い。しかし、その曖昧さが、かえって貴州各地に多くの李白 その別名等、ヒントとなるような表現をいっさい使っていな の地を指したものであったのか。李白は自らの詩文の中では、 にど
「夜 ととなったわけである。 りを添えるこ 」と言えば、古くは「夜
る戰國時代の「古夜 自大」の故事でも知られ 國」(その版圖は現在の貴州省のほぼ
、あるいは中心は現在の安順市あたりとされる) 域、
代の夜
(やはり現在の安順市あたりを中心とする)、南北 縣 時代の夜
(現在の安順、普定、 郡 などが、紫雲、羅甸一帶)
代以
は に
げられよう (
李白の生きた 。 )
代で言えば、『中國
史地名辭典 (
まずと、「夜 』による )
郡」については、天寶元年(七四二)に珍州 の名を改めて置かれた。治
は夜 乾元元年(七五八)に再び珍州の名に復した。また「夜 縣。(今の貴州省正安西北) 、、
については、①武 縣」
四年に置かれ、治(六二一)
州省石阡縣西南、貞 、、 は今の貴 十六年(六二七)廢せられる、②貞
年
に置かれ、治
は今の湖南省
(ちなみに王昌齡左縣と改稱 江西南、天寶元年、峨山 、、 地の龍標はこの
く)、③貞
六年に置かれ、治 十 せられたが、北宋大 は今の貴州省正安縣西北。五代時代に廢 、、
時、治 二年(一一〇八)再び復された。その 今日、李白關係の は今の桐梓縣西北に移された、と言う。 、、
究書・釋書のほとんどが、李白の配
をこの唐の夜
郡・夜 縣としており、しかも、その治
についても、正安縣西北(つまり③)としている (
この③の夜 。しかし、 !)
縣の治
に關しては
"
#もある。例えば嚴
$%
『
代交
&圖考 (
』卷四「山劍 ')
(黔 )」(p1299)は、明
書には の志
*りが多いとして、『大
安縣)を珍州夜 一統志』が正安州(現在の正 、、、
縣の治 の としているのは、『元和郡縣志』
+離計算と合わず、むしろ『一統志』が別に引く『名
の「桐梓縣有夜 、、、 ,志』
里、又曰夜
それが、疑うらくは夜 -、在縣東二十里。」とある また、 縣治の故地ではないか、としている。
.春元等 /0『貴州古代史 (
』「第六章隋 1)
五代時期
李白流夜
傳承考(寺尾)
175
貴州」も、「夜(p115)
縣、在今桐梓 、、
『中た、 西。」とする。ま 人民共和國地名詞典・貴州省 (
』「桐梓縣」「夜 )
の條に、桐梓縣 」 關の北二九キロにある夜
が、貞
六年に置かれた夜 十 縣であるとしている。それぞれ方角に
同があるものの、いずれも現在の桐梓縣に
代の夜
かれていたとするわけである。 縣が置 年、『貴州
游文史系列叢書・夜
卷・李白夜
(
『李白夜 』(以下 )
』と略記)という、
行
のための桐梓縣案
いった 書と
事が豐富に 旨の書物が出版された。この書物には李白關係の記 り にあやかっての「お國自慢」「村おこし」 まれており、いわば李白というネームバリュー
な色
書物ではあるが、李白傳承の が濃厚な 味深い 究という意味では、數々の興 容を含んでいる(ちなみに本書は
代珍州夜
梓縣北二九キロにある「夜 縣を桐 には、 いくつか興味深い事例を紹介すると、例えば卷頭グラビア 」に比定している)。 代夜 縣 跡、新站太白
李白詩
、夜
白 太
のカラー寫眞が
載されている。李白の
もあるとは
きであるが、同書一九頁によれば、宋代の
古くから李白の であるものを、
への と傳えてきていると言う。桐梓縣民の李白 烈な思
の を感じさせる現象である。また、桐梓
關には、太白泉(
、太白大、太白游樂水)
。また、「(一四九頁) ように、李白にちなんで名付けられた名稱も多々あるという といった
『 !況」では、「…史家們稱桐梓爲(二頁)
夜 』、而文學家們却稱之爲『李白夜
是 』。總之、桐梓不
"個自大
夜
。桐梓、因夜
斯文久 而名聞遐邇。桐梓因李白而
#。千載之下、桐梓仍以李白夜
而自豪自
$。」と
%
べ、また、「虎踞龍蟠
&古今」では、「李白用詩(一三三頁)
形式向域外介紹夜
、使蠻
'之地 夜 、爲世人
此 (知。也以
)了桐梓
*代文
+人。」と
繰り 績を大いに稱揚している。 %べ、李白の桐梓縣に對する功 ,すが、
-. -りに考えれば、そもそも李白は夜
訪れていない。しかもその配 を わけ ある。にもかかわらず、あるいは、それゆえに、貴州(とり (先がどこであるのかも曖昧で /義地 0・銅仁地
0)には多くの李白
象である。今、そのいくつかの例を列 のである。「詩跡」の擴散という意味でも極めて興味深い現 跡が存在している
かがえよう。 李白という存在がこの地域において大きなものであるかがう 1してみたい。いかに 中國詩文論叢第二十一集
176
・ 義地 桃源洞李白聽鶯處 義市・
・洪亮吉『曉讀書齋三
(
』卷上に「 )
義府
東有桃源洞、俗傳爲李白長流夜
刻「聽鶯」詩、『志』『縣志』皆 居之地、有石 必非白作(白外集、 入之。無論詩之鄙俚 。集竝無此)
以『輿地』考之、
初有三夜
…竝與今
義縣無
。是白曾到
義與否、
無確據、詩之工拙又可以不論矣。」とあり、また
・張 『 素堂文集 (
』卷一二「李白未至夜 )
」に「余攝篆
義之日、暇
桃源洞、洞
贔 處』、謂『 屹然、鐫曰『李白聽鶯 蟻酒
初 、
入鶯簧舌漸
』、乃流謫時
詠也。
人遂謂白流夜
の李白聽鶯處については、瞿蛻園・朱金 、實已至其地。」とある(こ
『李白集校
(
五「白田馬上聽鶯」の 』卷二 )
うに、李白は 。洪亮吉も指摘するよ箋に詳しい)
義に赴いたはずはない。かりに夜
されたとしても、 に流 義は 代には夜
の治 ともなく、從ってここを訪れる必然性はない。後世、 になったこ
義がこの地
李白跡を における中心地になるにつれて、ここにも
!りたいという願
"が生み出した結果の
れ、幾多の詩を殘しているという意味では、紛れもなく であろう。しかし、ここ李白聽鶯處は、多くの文人が訪 #物 には「謫仙樓」も建てられていたという。 この地を代表する「詩跡」である。なお、この桃源洞上
・李宗
$
『黔記 (
』卷二に「 %)
爲桃源洞、其上有謫仙樓。相傳李太白流夜 義西門外、山頗秀潤、渡河至山麓、
守趙君 曾至此。郡 村名白田。」とある。「白田村」は、偶然の一 律建樓。又以太白有『白田聽鶯』詩、而山下有
縣にあるというのが 興味深い現象である(なお李白詩の「白田」は江蘇省寶應 いは李白にちなんで名付けられた村名か。いずれにせよ &か、ある 烏江 '。) 義南郊を流れる。張
『續黔書 (
』卷二「李白至夜 ()
」に「…又『烏江留別宗十六
)』詩(李白「竄夜
烏江留別宗十六 於 )」詩のこと)曰、…蓋白携妻子就貶
而宗 、
)從至夜 、仍旋
*里、白 今 +之于烏江也。烏江、在 義府南八十里。」とある。ここでの「烏江」は
'
では潯陽付
の川とされるが、今日でも「李白已至夜
」 'を ,る -究
.の中には、
義地 立場も根 の烏江であるとする 婁山關石筍參天(笋子山)婁山關(別名、太 /い。
桐梓縣と 0關・樓山關)は 義市の境にある山
1の關。現在でも
2名な景 3地。明・曹學
4『蜀中名
3記』卷二〇「
義府」に
李白流夜
傳承考(寺尾) 177
「白詩又云『石筍如卓筆、懸於山之巓。誰謂不
』」とあり、也。『大 之書參天。』『志』云『今婁山關、石筍參天、是白題詩處 、與 一統志』卷五一一「
義府」「太
關」の條に「在府
北一百里大樓山上、亦曰樓山關。
峯
天、中一線。『名
於山之巓。誰爲不 ママ 志』、李白詩『石筍如卓筆、懸 是白題詩處也。天、」とあり、また『貴州 、與之書參天。』今樓山關石筍參
叢書・ 游文史系列 義縣卷・巍巍婁山 (
峰屹立、似入雲天梯。據傳、 』「婁山關」にも、「笋子山獨 )
桐梓縣夜 肅宗時、詩人李白被流放 巓。誰爲不 ママ 、爲笋子山題詩曰『石筍如卓筆、懸之山之 ママ
・ は李白の集に存在しない。 、與之書參天。』」とある。むろんこの詩 義地
夜 桐梓縣・
『中
人民共和國地名詞典・貴州省』「夜
の條によれば、 」 義地 桐梓縣
關
北二九キロの夜
河
にあり、
貞 十六年(六二七)以
、夜 置かれたところで、村の 縣治の
圍には太白故宅、
白臺、白 臺、懷 臺等の
集』卷三八「夜 跡がある、という。明・楊愼『升庵 曲、其一」に「夜 、
、
、桐梓原東 、
壘
、村民如野鹿、
、 翰林名。」とあり自に「 、、、、
在桐 、 梓驛東十余里。」とあることから、明代には、ここが 、
代の夜
太白故宅夜 傳承があったということがわかる。 で、しかも李白が訪れたところであるという にある。『李白夜
』によれば「在故夜
中。據載有
記、現已無可考。」とある。『蜀中名
ら存在していた 卷二〇「桐梓縣」にも指摘されているので、古く明代か 記』
跡といえる。
臺(太白
臺)夜
にある。『李白夜
』に「在夜 街付
!。相傳、太白常賞
於此。」とあり、また
張西 ・
"がここを訪れ「太白把酒問
懷白臺夜 いるという。 」という詩を書いて
白 にある。
臺夜
李白聽鶯處『李白夜 にある。
』によれば現在の夜
夜 街付
!
にある。太白泉『李白夜
』によれば現在の夜
夜 太白 る。 街側にあ
。『李白夜
』によれば現在の夜
夜 木瓜山 の鳳凰閣下にある。 街後 ・黎庶昌「李白至夜
考」に「考
之夜
縣、 中國詩文論叢第二十一集
178
在今桐梓縣夜
里、而夜
里有地名木瓜廟
、當爲白貶
。玩其詩意、蓋對此木瓜山而感懷
ある。李白に「 陽之木瓜山。」と 謫仙樓『李白夜 た付會である。 木瓜山」という詩があり、そこからき 』によれば、趙
律『鋤經堂集・謫仙樓 、、、
記』という文があり、存在したことは確かだが、現在の
跡の
太白書院『大一統志』卷五一一「 在は不明であるという。
條に「按 義府」「培基書院」の 志、有太白書院、在桐梓縣夜
里 あり、『李白夜 溪。」と 』に「
今 閣。在
夜
里 東二〇
川黔公路、鐵路邊
新站
、今仍存、與懷白亭
相 溪
懷白亭(太白亭、 。」とある。
亭、百〔白〕
『中亭)
詞典・貴州省』「新站懷白亭」の條によれば、桐梓縣 人民共和國地名
關
北二八キロ新站
(夜 中部にある。もと夜 の川黔街の東に位置する)
臺(『李白夜
閣白 』によれば鳳凰 に詩臺)
があったが失われた。の康煕年
縣令によって に
に基づいて
刻され、新站
建てられた懷白亭に收められた。現在もその に新たに は良好な 態で保存されている、という。『李白夜
』によれば、
は二枚で、李白の詩「憶秋浦桃
時竄夜
流夜 」「南
寄 」「流夜
聞 不預」「聞王昌齡左
此寄」等、計五首が刻まれているという。『李白夜 龍標遙有 している。この はさらに、この懷白亭を歌った後世の詩をいくつか紹介 』
・ よう。 邊で最大の「李白詩跡」であると言え 義地 懷白堂『大一統志』卷五一一「 正安縣・
「在正安州(現在の正安縣鳳儀 義府」「懷白堂」の條に とある。正安縣は、上 (『大明一統志』卷七二「懷白堂」の條)、昔人建以懷李白。」 南二十里。『明統志』)
・ 李白の流謫予定地と推定しているところである。 のように、李白究書の多くが 義地 在の鳳岡縣龍泉 鐫字崖『大一統志』五〇五「石阡府」に「在龍泉縣(現 鳳岡縣・
南十里。上刻『夜)
傳李白謫夜 古甸』四字、相
・銅仁地 、經此。後人紀之。」とある。
(現在の石阡縣湯山 李太白祠『大一統志』卷五〇五「石阡府」に「在府治 石阡縣・
。祀)
!李白。『
"志』、
謫夜 !天寶中李白 經此、因建祠祀此。明末以祠爲理刑
#。本
$康煕
李白流夜
傳承考(寺尾)
179
六年復改爲祠。按、白流夜
湘、將上夜 、實未至其地。…蓋白泝三 、聞命而
に上 也。」とある。ちなみに、すで したように、石阡の夜
縣は貞 に廢されている。從って李白の配 十六年(六二七)
性は極めて がここであった可能 いのであるが、おそらく、ここに
代の夜 縣治が一度は存在したことから、後世、李白の夜
ここであろうという解が生じ、その結果生まれた李白 も 太白樓『中國名 跡であろう。
詞典・第二版 (
』「石阡 )
泉」の條に「(
泉)始辟於明
年 、依山傍水、
池蓋 太白樓 、、、 。旋又續建 聚景亭。」とある。
以上のように、貴州の李白
跡は 石阡等、各地に 義、桐梓、正安、鳳岡、
んでいる。場
詩を詠み繼いでいる、いわば「詩跡」 によっては、多くの詩人が
されている
る。とりわけ明 跡もあ 時代のものが多いのは、
政策に端 の「改土歸流」
に見られるような、
邊
民族に對する中國
策、あるいは 政
人の邊境への移民政策と密接に關
ものと考えられよう。この地域の、中 している 思想
な意味での
水準が高まれば高まるほど、李白への關心度も高まり、そ れに應じて、この地の古くからの李白
跡もより活性
時にはさらに新たなる し、
いう 跡も開拓されていくことになる、と が、ここに見て取れるのである (
四 夜
。 !)流謫傳承に
李白 " う貴州以外の
李白の夜
跡について
流謫事件は、
白 #$で見たように、貴州各地に李 しかし、この事件が生み出した李白 跡を生むことになった。
跡は、實は、貴州省
%にとどまらない。李白が夜
に流される
&
として、樣々な土地に李白 、、、 'に立ち寄った 跡が形 場合によっては、嶺南の地にまで その「擴散」は、本來李白がたどった長江一帶のみならず、 (されていくのである。
んでおり(むろんその大 大きな影 )、この事件が後世いかには李白の訪れたはずのない地である)
本 *をもたらしたかを推し量る好材料となっている。
$では、そのいくつかの例を
たるかを檢討してみることにしたい。まずは、その +げて、こういった現象の何
列 ,體例を
+しておく。
・重慶市
州 ・ 縣西山太白岩明・曹學
-「
縣西太白祠堂記」によって 中國詩文論叢第二十一集
180
國 に知られるようになった
名な李白
跡(
後世付會によって形 ここで中國李白學會が開催された。むろん李白の詩文に見えず、 年、
された であるが、ここも夜跡)
流謫 、
に立ち寄ったとする俗 、
が根
友 い。例えば、梁 『三峽
傳
(
』に「李白吃擔擔麺」(閻洪章 )
李白が夜 整理)という傳承が紹介されているが、これによると、 集 流謫
に病氣になって、ここで
麺を 病し擔々
した、ということになっている。また、林東
「巫山・巴東・夜
~李白游踪考察記 (
地 」も、李白は三峽 )
で赦
されたという
を一應支持しながら、夜
に至ったという
トとして、この の可能性をも指摘しつつ、その際のルー
・重慶市 縣太白岩を紹介している。
陵
李渡 ・
州よりさらに長江上流、李渡
にある。『中
共和國地名詞典・四川省 ( 人民
』「李渡 )
流放夜 」の條に、「相傳李白 時、曾
此渡、故名。」とある。林東
巴東・夜 「巫山・
省の桐梓縣や正安縣がある。 なみにここからほぼ眞南一〇〇キロほどのところに貴州 ~李白游踪考察記」にも紹介されている。ち
李白流夜
傳承考(寺尾)
181
〈圖〉李白流夜傳承念圖
・湖南省常
木瓜山『大明一統志』卷六四「常 市・
「在府 府」「木瓜山」の條に 東七里。
李白謫夜
此、有詩『
看東日出、
西鳥
。客心自酸楚、
對木瓜山。』」とあり、『大 一統志』卷三六四「常
陵縣東十五里。李白流夜 府」「木瓜山」の條に「在武 、經此有詩。」とある。常
武陵と言えば、洞庭湖の西、大河 、
江が洞庭湖に
その合流點 ぐ、
くに古くから交
の た 衝として發展してい 市である。李白が夜
流謫の際に
くまでも長江沿いであって、洞庭湖・ ったルートはあ い。にもかかわらず、このような地を經 江コースではな 承が生まれているのである。ちなみに李白の「 したという傳 詩に見える木瓜山が、 木瓜山」
體 は にどこにあったかについて がない。有力なものとしては安徽省の貴池縣や
陽縣のそれであるとする
がある。詳しくは、孫
「李白詩『 倫
木瓜山』考釋 (
木瓜寺『大 」を參照のこと。 )
一統志』卷三六五「常
「在武陵縣東十五里木瓜山、 府」「木瓜寺」の條に 建。相傳李白流夜
此。」とある。 時宿 白 ・湖南省會同縣・
山『大
一統志』卷三七六「
州直隸州」「白
條に「在會同縣東南三十里、李白流夜 山」の
時、於此結
『名 。
志』、其色純白、
如積 。」とある。また、王
『李太白集』「外記・
!跡」
"引『潛確居
「『輿地紀 #書』に 』、白
山在 州會同縣、李白流夜
此結 時、於
。」とある。ただし、現行の『輿地紀
の部分がない(詳細は『輿地紀 』にはこ は、 補闕』卷四を參照)。會同 問 ・湖北省恩施市・ 地である。 江の上流、湖南省の西邊にあり、貴州省に接する
亭(
「問 臺)『大明一統志』卷六六「施州衞軍民指揮使司」
$亭」の條に「在衞
中、 北有臺、孤高獨出、碧波峰之
%建此亭於上。相傳李白謫夜
、嘗於此賞
あり、また『大 $。」と 一統志』卷三五一「施南府」「
の條に「在恩施縣北碧波山。『輿地紀 $臺」
』、施州北門外有
$臺。高三十丈、其頂
&方。父老傳云、李白謫夜
常玩 時、
$於此。」とある。ただし、現行の『輿地紀
はこの部分がない(詳細は『輿地紀 』に
恩施市は湖北省の西端にあり、三峽の南に位置するが、 。補闕』卷七を參照) 中國詩文論叢第二十一集
182
やはり李白の流謫ルートからはかなり外れている。むろんここも李白の訪れたはずのない地である。・廣西壯族自治
柳州地
太白巖『大 ・
「在懷 一統志』卷四六三「柳州府」「太白巖」の條に 縣(現在の柳州市の北
門之右。相傳 西北七十里石一二〇キロ)
李白謫夜
嘗 うまでもなく李白の流謫ルートとは 此、故名。」とある。言
・廣西壯族自治 か南方の地である。むろん李白が訪れたはずもない。 く關係ない、はる 梧州地
「在縣東六十里赤水峽、深闊余丈、頂有竅、 李白巖『大明一統志』卷八四「梧州府」「李白巖」の條に ・
相傳、李白謫夜 日光。
時 省と境を接する地であり、 此。」とある。梧州市は今の廣東 天子・
の した「
の地としても古くから 梧」
李白 名である。なぜこのような地に るに、① 跡があるのかは不思議であるが、一應推測してみ 史書」の中に、「南窮 き日の李白が安陸時代に書いた「上安州裴長
梧、東 、、
溟
、②李白詩中に「能性が大きい) こと(ただし實際に訪れたか否かは不明、誇張にすぎない可 」と語られている 梧」の地名が
こと(凡そ十八例)、といった理由が考えられよう。ただ 出する し、むろんのこと、夜
流謫コースとは
く關係がない。
以上は、夜
のみを 流謫時に立ち寄ったと明記されているケース げたに
に夜 ぎない。明記されてはいなくとも、明らか ば、それこそ枚 流謫傳承の絡みで發生したと考えられるものも含めれ
に暇がないほど李白
それにしても「相傳李白謫夜 跡は多いのである。
時 此。」といった
レーズの何と多いことであろうか。ほとんどステレオタイプ のフ された表現と言っても
の 言ではない。ここに李白傳承擴散
因となる重
つまり、 あろう。 なポイントが隱されていると考えてよいで ての讀
いるわけでもない。多くの讀 わけでもなく、また、詳細にわたって李白の傳記を熟知して が、李白の作品を隅々まで讀んでいる
は、ただ
①李白は夜 然と意識の中に、
方面に流されたことがある、②李白は
た詩人であり、廣く中國各地に足跡を を愛し
している以上、夜
にまで足を伸ばしているかもしれない、③李白は仙人なみの超人
ことができる、④李白のような愛すべき 人物であり、常人の想像を超えたことをやってのける
名人には自分の
んでいる土地にも來ていて欲しい、といった
度の、常識や
李白流夜
傳承考(寺尾)
183
人物イメージ、あるいは期待感・願
を持っているに
い。しかし、これらの ぎな となりうるのである。 素は、傳承を生み出すには十分な力 李白の夜 な發想の余地が殘されている、とも言い換えることができる。 然として曖昧である、ということは、よく言えば、自由
を殘しているかぎり、あるいは、事實關係に關する 流謫のコースが、事實關係において今なお曖昧さ
度が低いかぎりにおいて、讀 の普
(時には 側は、その發想を自由に 展開し、いかに牽手氣ままに)
と、讀 付會と罵られよう
の(とりわけ
土愛好
の)
夜 る。事實として訪れたはずがないと思われる地であっても、 を設定して、李白を自分のもとへと呼び寄せればよいのであ 合のよいようにコース
に流される
、 らしく聞こえるわけである。李白の夜 であるという名目さえあれば、もっとも 、
味で、李白傳承・李白 流謫事件は、その意 では、その夜 ならず、李白享受史上においても大事件であったのである。 與えた事件と言えるであろう。まさに李白自身にとってのみ 跡を擴散させるに格好の「口實」を
ことは言えないが、古い時點での例を一つ ら始まったのか。むろん、傳承というものの性格上、確たる 流謫に關わる李白傳承の擴散は、いつ頃か
げて、本
の締 めくくりとしたい。南宋・岳珂『
に、李白と夜 史』卷一一「李白竹枝詞」
に關わる興味深い
話が紹介されている。梗 を記すと、北宋の紹
二年四(一〇九五年)
、 黔南に謫せられた時、 庭堅が する作品を作った。その夜、驛亭に宿ると、李白の 中、「竹枝詞」二篇、「歌羅驛」と題
李白は山 を見た。
にいて、
庭堅に「私は夜
と言った。そこで 集中にあるかないか、世に傳わっているか。細かく思い出せ。」 ここで杜鵑の鳴き聲を聞いて『竹枝詞』三疊を作ったのだが、 に謫せられて行く時、
た、という。その三首とは以下の 庭堅は、三誦して、これを世に傳えさせ
りである。
一聲
片飛、
馬上胡兒 里明妃打圍。
!解聽、琵琶應
不如歸。
竹竿坡面蛇倒
"、
#圍山 杜鵑無血可續 $胡孫愁。
%、何日金鷄赦九州。
命輕人鮮甕頭船、日痩鬼門關外天。北人墮
%南人笑、
&壁無梯聞杜鵑。 中國詩文論叢第二十一集 184
むろんこの作品は李白の集には存在しない。また、この
話が宋のいつ頃に
立したのかも定かではない。
う大詩人が登場するという點でもこの 庭堅とい の 話は興味深いが、こ 話が物語るさらに重
な點として、
の二點を
少なくとも知識人の事件が、 おきたい。一つには、つとに宋代の時點で、李白の夜流謫 して も詞の「何日金鷄赦九州」は明らかに李白「流夜 では廣く知られていた(しか
辛 句「我愁 官」の詩 となること、今一つには、流謫 ことの傍證謫事件の事實關係に關する知識の深度もうかがえる) 謫夜去、何日金鷄放赦回」を踏まえた表現であり、流
、 における 、
るということ。傳承擴散への 話・傳承であ が、すでにこの時點で垣
見られるというわけである。
五 結語
~期待の地 としての夜以上、夜一帶、
び李白が夜へ赴く
わる の經由地に關
跡や傳承を
これらを してみた。
して見る限り、結局、讀
この事件を 白夜流謫事件の眞相を究明しようとするよりは、むしろ、 としは、事ての李實 、、、、、、
試みるほうに熱心であるように思われる。天上の謫仙は、地 機として、別に一つの「李白物語」を作ろうと 上界においても謫仙であって欲しいその願
白 限の假想ルートを生み出し、同時にそのルート上の各地に李 を無てれ離行は、事實國各地に擴散してゆく時、李白の夜 、、、、、、 ・期待が中 跡を生 させていった。そしてまた、その願
行き ・期待の
く いかに「夜未至」 點こそが、最果ての地・夜なのであった。
う願 たことにしたい、至ったこととして李白を物語りたい、とい が有力であろうと、李白が夜に至っ を止めることはできない(例えば、別の例を
當塗 げれば、
山李白 と捉傳承のある采石磯。
焉の地としては傳承に ほうが、有識 !ぎないことが明白であるにもかかわらず、物語性に富む采石磯の
・庶民を問わず、壓倒
"な人氣を
の傾向は、とりわけ詩歌のジャンルで顯 #。そしている)
ず無 白の生涯について觸れる多くの作品が、事實關係をとりあえ $に現れている。李
%して、李白が夜に至ったこととして、その
を書いているのである(その例については第二 &提で詩 'に 詩によっても十分察せられると思うので、ここでは げた後世の 白の到來を待ち いささかレトリカルな表現をするならば、・夜自身が李 げない)。 元・王 んでいた・と言ってもよいかも知れない。
(「李白醉吟圖 (
」に ))
のように言う。
李白流夜傳承考(寺尾)
185
長庚風
白璧莫嗟疑有 爭輝、力士傍無識子儀。
、夜 、
風物 、、、
新詩。 、、、
夜
いてくれるのを待ち の風物は、李白がこの地にやって來て、新しい詩を書
んでいた、というわけである。また、
・尤「七思・李供奉白 (
」にも、「一 )
夜 去、錦繍理蠻 、、、、
烟 、」とあるが、ここでの「錦繍」もやはり李白の
また、 言うのであろう。 麗な詩を ・崔預「
揚州懷李太白 (
」にも、「莫 )
夜
譴、星 罹罪
流照江山 、、、、
」とある。「星 、
」とは太白星の
白、あるいはその詩のこと。「江山 ・李 」と言うのは、夜
地だけを指すのではなく、夜 の 流謫 めているのであろう。李白の到來を待っていたのは、夜 に訪れた各地をも含
けでなく、その だ
「詩跡」という の各土地も同じであった。
點から、この李白の夜
しての李白像・こそが、重 するならば、結局、・實態としての李白・ではなく・現象と 流謫事件を總括 であろう。事實として李白が夜 な意味を持っていると言うこと ない。讀 に至ったか否かは問題では ・享受
の願 や志向性が「詩跡」を生
し、
殖・擴散させもするのである。 註(1)李白の夜
流謫の期
については、安旗・薛天
譜』(齊魯書 『李白年 、一九八二年)、松浦友久『李白傳記論』(
文出版、一九九四年)
(2)傅 等に從った。 收「李白における安史の亂(下)」 ・郁賢
、廣西師範大學出版
(3)巴蜀書 、一九九八年。
(4)『解文毅公集』卷五、裴斐・劉善良『李白 、二〇〇〇年。
!料彙』(中 書局、一九九四年。以下、『李
『(5) !彙』と略稱)p161。
"氏三先生集』卷二二、『李
(6)『 !彙』p164。
#明百家詩・傅
$求集』、『李
『皇(7) !彙』p216。 百名家詩
%』卷一、『李
(8)『臥象山 !彙』p613。
&詩正集』卷二、『李
『國(9) !彙』p646。 詩萃』二集二卷、『李
( !彙』p924。 10)『琴隱園詩集』卷二、『李
( !彙』p1124。 11)『文
'集』卷一四、『李
( !彙』p284。 12)『懷
堂集』卷六、『李
( !彙』p716。 13)『
()詩稿』卷上、『李
( !彙』p1005。 14)『
*+ ,詩匯』卷一七六、『李
( !彙』p1289。 15)『忠
-堂詩集』卷一四、『李
!彙』p932。 中國詩文論叢第二十一集
186
( 16)貴州
般の行政
畫の 史 變
については
春元等
『貴州古代史』(貴州人民出版
( 考になる。 、一九八二年)が、大いに參 17)復旦大學
史地理
究 『中國
史地名辭典』
委會
江西 、
育出版
( 、一九八八年。
18)例えば、郁賢
『李白大辭典』(廣西
育出版
九五年)「地名」(倪培 、一九 執筆)、『新版・李白
集 年 釋』、 『李白
集校
彙釋集
』(百
文 出版
九六年)いずれも 、一九
( 在地を正安縣西北とする。
19)中央
究院 史語言
究
( 、一九八六年。
20)註(
16)
( 書。
21) 務印書
( 、一九九四年。
22)政協貴州省委員會文史
料委員會『貴州
游文史系列叢書』
委會 、貴州人民出版
( 、一九九八年。
23)『李
『李詩もある( 彙』p998。ちなみに洪亮吉には、「桃源洞」という
( 彙』p991)。
24)『李
( 彙』p1130。 25)上
古 出版
( 、一九八〇年、p1463。 26)貴州古
版 集粹『黔書・續黔書・黔記・黔語』(貴州人民出
( 、一九九二年)を參照。
27)註(
26)
( 書を參照。
28)政協貴州省委員會文史
料委員會『貴州
游文史系列叢書』 委會
、貴州人民出版
( 、一九九八年。
29)上
辭書出版
( 、一九八六年。
30)貴州が明
代に邊境地域であるにもかかわらず高い文
詩人の作品凡そ二千五百首を集めた『黔詩紀略』三三卷( 準を維持していたことを示す例として、例えば、明代の貴州 水
同治年刊)、あるいは
代に輩出した
!珍・莫友
昌といった學 "・黎庶
#群を
( $げることができよう。
31)中國民故事文庫、大衆文
出版
( 、一九九九年。
32)『中日李白
究論文集』
收、中國展
%出版
( 年。 、一九八六 33) 務印書
( 、一九九三年。
34)『中國李白
究・一九九四年集』
收、安徽省文
出版
( 一九九六年。 、
35)『秋澗先生大
文集』卷二八、『李
( 彙』p34。 36)『右北
&集』、『李
( 彙』p621。 37)『師水齋詩集』卷一二、『李
彙』p1126。
李白流夜
'傳承考(寺尾)
187