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古屋野先生との思い出

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Academic year: 2021

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 修士論文を提出した 1980 年が古屋野先生の都立大学退官の年であったので,

私は都立大学最後の古屋野先生の指導院生ということになる.それ以来,海外調 査プロジェクト,研究会,学会等さまざまな機会に先生のご指導を受けたりお世 話になったりした.研究者としての最初の手ほどきをして頂いた古屋野先生は,

私にとっての「お釈迦様の手のひら」であった.先生の視野の広さ,包容力,学 問に対する探求心は容易には越えらない.自分の研究成果が滞りがちなときは,

ついついご無沙汰してしまった.昨年,先生がお亡くなりになったことを少し遅 れて知った.きちんとしたお礼もしないままであったことが悔やまれる.先生と の出会いは,私にとっては「比較社会学へのいざない」であった.先生との思い 出を記すことでお礼になればと思う.

 私が初めて会った古屋野先生は,「物静かなやさしい目をしたおじいさん」に 見えた.かみつくように話す中村八朗先生のご紹介だったので,とても対照的な 印象をもった.都立大学の研究室の狭さにもびっくりした.

 アジアの都市化について研究したい程度の理由で大学院に入れたのは,そんな 分野を研究するのは珍しかっただけなのかもしれない.古屋野先生のアドバイス は,これからの研究には社会学の理論や方法論を学ぶことと共に,現地調査がで きるように言葉をまず学ぶ必要があると諭された.

 他の院生が着々と研究を進める中,私の修士 1 年の夏休み 2 ヶ月はまるまるタ イ語の ABC を学ぶことに費やされた.アジアを研究している院生は,当時は人 類学研究室にしかいなかったので,少し越境していた私は,当時の人類学の院生 に「アジアのフィールドワークで必要なのは,丈夫な胃袋,丈夫な足,3,4 がな 古屋野正伍先生のご逝去によせて

古屋野先生との思い出

─ 比較社会学へのいざない ─

松 薗(橋本)祐 子 

(淑徳大学総合福祉学部)

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くて 5に頭だ」とアドバイスされた.ますます学問研究から遠ざかる日々であった.

 当時は,日本でのタイの都市化についての研究は大変少なく,いくつかの専門 図書館の文献を調べても,タイ語文献を含めても人口学や経済学関係の文献が中 心であった.林武編『発展途上国の都市化』(1976 年,アジア経済研究所)の古 屋野論文は数少ない手がかりであった.農村や歴史など異なる分野にまで手を広 げてみたが,文献的には限界が感じられた.やはり行ってみるしかないが,どこ から何を調べてよいかもわからなかった.私は大いにあせっていたのであるが,

古屋野先生はちっとも急かさなかった.

 あまり,研究の内容について指導を受けた記憶がない.修士 1 年の終わりに,

先生の国際学会での知り合いがいるというタイに行ってみることにした.安い航 空券を求めて,大学の掲示板にあった手書きビラをたよりにたどり着いたのは「秀 インターナショナル」という小さな会社であったが,それは HIS の前身,新宿の 古いビルの 1 室が事務所だった.

 紹介状というものではなく,裏に「この院生を紹介します」と書かれた古屋野先 生の名刺を持って,チュラロンコーン大学政治学部のプラサート教授の部屋をアポ なしで訪問した.プラサート先生は古屋野先生や中村先生と,インドの国際学会で 会ったらしかった.プラサート先生は,古屋野先生の名刺を持っただけの怪しげな 院生を歓迎してくれた.その上,タイ研究センターの図書館司書,スラムでボラン ティア活動をしている学生,人口問題研究所の助手などを紹介してくれた.

 その上,私がタイに滞在していた 2 ヶ月の間に,時々研究の進展を相談にくる ようにとも言ってくれた.古屋野先生の小さな名刺の威力にとても驚いた.海外 での古屋野先生のネットワークの広さにはこの後もしばしば遭遇した.この時に は,プラサート先生が以前調査をした 4 カ所のスラムの内の 1 つをソーシャルワー カーに案内してもらった.「まずは,現地をみること」という最初のステップを,

人のつながりをたどって何とかスタートすることができた.

 「古屋野はとても視野の広い研究者だ」とプラサート先生語る,と当時の日記の メモにある.プラサート先生は,タイの社会学のパイオニアの 1 人であり後の海 外学術調査の際の共同研究者である.日本への留学から戻ったばかりのスリチャ イ先生ともこの時にお会いし,日本の農協システムをタイ農村に導入する可能性 についてお話しした.いま思えば,外国研究と国内研究の接合という問いをこの

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とき投げかけられていたのであるが,当時はその意味が理解できていなかった.

 今では,インターネットをはじめたくさんの情報があらかじめ得られる.今日 では簡単にダウンロードできるセンサスデータを得るために,1 日がかりで統計 局をたずね,整理されていない図書館で資料を探した.当時は,『地球の歩き方』

はなく,ロンリープラネット社のガイドブックも東南アジア版はまだなく,地図 探しさえ苦労した.私よりも以前に途上国の研究を始めていた古屋野先生は,もっ とほんとうに「足で」地道に人をたどりデータを求めたのだと思う.海外に出て みて初めて,「比較」の意味を考えるようになった.日本国内で調査をした時に は考えられないさまざまな「フレーム」への問いを持つようになった.

 大学院の時,先生のお宅で鍋をしようという企画があった.岡山の調査のとき に兵庫教育大にうかがった時にもごちそうになった.考えてみると,学問的とい うよりは,ホームパーティみたいに「お食事をした」記憶ばかりが思い浮かぶ.

 修士課程に入った時,イギリスから戻ったばかりの倉沢先生からの最初の質問 は「タイに『町内会』はありますか」であった.その時は漠然と「調べておきます」

と答えるしかなかった.倉沢先生のこの問いに含まれていた「比較社会」の意味 を理解していなかった.この問いから数年後,スラムのコミュニティ調査を始め た頃にもまだ手探りをくり返していた.

 その後,多くの日本の都市社会学者によるアジアの都市住民組織やコミュニ ティの研究が行われている.それらの研究においては,日本における町内会自治 会研究の知見が,アジア社会との比較を通じてより深化してきた.タイの都市住 民組織についてのその問いは私にとって実に困難で,何かの学会の際に古屋野先 生との雑談でお話したきりである.さまざまな試行錯誤を通じて,やっと最近に なって少し答えられるようになった.

 1983 年〜 85 年,古屋野先生を中心に文部省科学技術研究費による大規模な 海外学術調査「東南アジア都市化の研究」プロジェクト(タイ:バンコクとチェ ンマイ インドネシア:ジャカルタとジョグジャカルタ)が実施された.日本 の中でさえこれだけのプロジェクトを動かすのは大変だが,タイ国内だけでも,

4 〜 5 カ所に散らばって 2 ヶ月に亘ってプロジェクトをまとめていくのは並大 抵ではなかった.インターネットや携帯電話はもちろんなく,電話が通じない こともしばしばであった.交通機関さえあまりあてにはならない.連絡を取る

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ことと移動することにはとにかく神経を使った.

 私は,古屋野先生,駒井先生(当時は筑波大学),田巻先生(当時は名古屋経 済大学),筑波大学の院生,タイ人留学生などとともにチェンマイ地区の担当で あった.チェンマイの街はずれにある旧家を 1 軒借り上げ,お手伝いさんを 1 人 雇った.この家に,古屋野先生,駒井先生他 10 人あまりが合宿生活した.調査 のための準備よりも,カーテンや調理用具,生活用品などを毎日のように市場に 買いに出かける日々があわただしく過ぎていった.

 お家はとても広くいくつものベッドルームがあり,食堂には大きな食卓テーブ ルがあった.食事時には,その日にいるメンバーがテーブルを囲む.テーブル全 体を見渡せる席が古屋野先生の指定席で,食卓を囲む風景は家長とその家族の ようであった.タイ人のお手伝いさんは,古屋野先生を「おじいさん先生」とい うニックネームで呼び,もう 1 人には「でぶっちょ先生」というニックネームが ついていた.私とタイ人留学生は,「おじいさん先生」の目玉焼きは卵を半熟に こちらの先生は良く焼いてといった注文,食事の好み,掃除や洗濯等,調査以外 の雑事もたくさんあった.

 これらの雑事の合間に調査をするような 1 ヶ月あまりを過ごした.体調を崩す 学生などが多出する中,すでに 70 才近くであった古屋野先生はお元気であり,

なおかつ精力的に調査に出かけ,その日の調査での知見を夕食時に楽しそうに 語ってくれた.とりわけ,北部タイの伝統工芸の 1 つである傘職人の村に行って 来た日は,とりわけ雄弁であった.私は,資料のありそうな機関,インタビュー をしてみるべき対象等を人づてで尋ね,あちこちにアポなしインタビューに飛び 込むような手探り状態で集めた情報をぽつぽつと先生に報告した.先生は,てい ねいにこれらの報告を聞き,不十分な点を指摘して下さった.しかし,古屋野先 生は,このプロジェクトのこの時すでに全体構想をまとめる作業を平行して行っ ていたのである.

 現地調査直前に開かれた研究会での古屋野先生のメモには,比較の項目,研 究をまとめるための視点が示されていた.「本調査の主眼はインドネシアとタイ の比較研究を主要なテーマとしているので,以下の各項について調査結果を整理 されるよう要請したい.それによって,共通性が抽出されるか,差異が見られる かなどの手がかり,あるいは尺度の設定のために双方の各チームでそれぞれの課

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題としてうけとめ,回答を用意していただきたい・・云々」とあり,各チームに 課題を提示していた.さらに留意点として,村落―地方都市―大都市の相互関連 および動態,社会経済的,社会文化的,歴史政策的要因,伝統的諸関係の変容 と再編,エスニックグループの存在形態・動向に注目すること等が記されていた.

そんなことは,ほとんど忘れて目の前の事実のみ見ていた自分であった.

 この家に着いた最初の日,先生が荷物から取り出したのは,インスタントコー ヒーの小瓶であった.「私は,このコーヒーの香りが好きなんですよ.おいしいコー ヒーが飲めない場所に行くこともありますが,これを持っていれば,お湯があれ ばほっとできますしね」と,にっこりしながら言った.どんな場所でも,とりあ えず体調を維持する術らしかった.

 10 年ほど前,アジア地域でいろいろビジネスをしている方から,アジアでの ビジネス極意は 5 つの「あ」だと教えられた.「あわてない」「あせらない」「あ たまにこない」「あてにしない」「あきらめない」.チェンマイ調査の頃の私は,

どれもできていなかった.古屋野先生は,まさにこの 5 つを体現していたことを,

今思う.バスが来ない,水が出ない,約束した時間に集合できない.お願いして いた資料が出てこない.やっとのことで手に入れたら使えない…….連日無謀な ことにエネルギーを使い,無駄足の連続で日々焦りが増していた.他の先生方も 結構ストレスが溜まっていた.小さな街なので,「昨日はどこそこで日本人の教 授が怒鳴っていた・・」などという噂も駆けめぐっていた.その中でも,古屋野 先生はある種マイペースで全体の調整役をつとめておられた.タイ人のお手伝い さんには,物静かな「おじいさん先生」が 1 番人気だった.途上国研究のパイオ ニアでもある先生は,穏やかにでもしたたかに情熱を持って淡々と研究を進めて いく姿勢を,保ち続けていた.

 調査が終わり,出版に至る過程はまたまた本当に大変な作業であった.編集作 業の東京での作業場は,当時私が勤務していた国際基督教大学の部屋で,古屋 野先生と数人の院生が集まって作業をした.執筆者が多く編集作業の日程は大変 きつかった.このばらばらな原稿をどうやってまとめるのだろうと,心配になり ながらお手伝いをしていた.

 「行政などとの仕事で私が身につけたのは,どちらにもとれる文章の書き方で す.論文では決してやってはいけませんが,あいまいにしておく必要がある場所

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は仕方がないでしょう.私の責任で少し手を入れましょう」先生は,全体の編集 にあたり,あきらかな矛盾や誤解を招きそうな表現に少しだけ手を加えた.編者 の権利というか……それは,料理における最後の一塩,わかるかわからないくら いの味付けで,なんとか味を修正するようにも思えた.

 出版社は京都であり,やりとりにも結構苦労した.バイク便で原稿をやりとり したこともあった.このぎりぎりの状況にあっても,古屋野先生は 1 度も,「ぶ ち切れ」なかった.瞬間湯沸かし器型の先生が多い中で,この穏やかさは何だろ うと当時はいぶかしく思っていた.私は,若い頃の古屋野先生を存じ上げていな いので,若い頃のことはわからないが,私が接した 60 代以降の先生は,穏やか でしたたかで,でも頑固だった.

 都立大学を退官された先生は,兵庫教育大学,名古屋商科大学,常磐大学と 移られたが,その行く先々で出会う人々を次々と比較社会や国際研究に導いて いったように思う.研究の足がかりをもらい,視野をひろげていく柔軟さに惹か れ,いつのまにか関心にひきこまれていく.気づいてみると,結構困難な路に分 け入っている.そんな研究者が多いのではないだろうか.古屋野先生の国際比較 社会研究は「国内研究を課題構成の出発点とし,外国研究の中でこの課題に沿う 追求を進め,再び国内研究に回帰点を求める,という継続かつ反復作業の総行程 を広義の国際研究の全体像とする」姿勢に貫かれている.

 さまざまな研究交流によって,さらに日本の国際比較研究を発展させていくこ とをめざし,1991 年 5 月に古屋野正伍先生を中心「アジア社会研究会」が発足した.

国際比較研究の芽は「アジア社会の構造変動と新中間層の形成」「階層・移動と 社会・文化変容」「アジア社会と市民社会の形成――その課題と展望」「地域研 究の課題と方法 理論編・実証編」などの研究に繋がっていった.

 古屋野先生は,国際研究を行う日本の社会学が,国内・国外に対して研究成果 の発信源となり得るためには,最小限 3 点の着眼と作業が必要だと述べられてい る(古屋野正伍・山手茂編 , 1995, 『国際比較社会学』学陽書房).第 1 は,これ までに蓄積された日本社会学の成果を,綿密かつ慎重な再検討のために対象化し,

その中で外国研究によって一層深化し得る課題や問題点を発見し再確認すること である.第 2 は,これらの課題を外国を対象とする研究の中に組み入れ,国内研 究で用いた方法の再検討をも含めて,新しい知見を求めることである.第 3 には,

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外国研究の成果を土台として,再び国内の研究に立ちもどり,特に第 1 で確認さ れた問題点を中心に,再調査・再検討を行うことである.

 この本の序章「社会学における国際比較研究の課題と方法」では,分析の単位,

対象の把握,知見の解釈について国際比較研究の新しい転換の方向性を考察し ている.個々で示される「世界単位」の問題やライフストーリーの蓄積と検討を 経て顕在化してくる世界観への着目などは,それまでのさまざまな国際比較研究 の蓄積を経て提示されている視点だと思う.さらに,比較研究においては,表面 的な共通性についてはその背後に潜在する特殊性を,また一見特殊的であっても その深層をなす共通性の発見とその由来の解明が必要であるとの指摘もある.先 生からこの本をいただいた時,研究者としての視点をあらためて正された気がし た.少しずつ調査に慣れ,その分現実の問題にのめりこんでいる時期であったた め,なおさらであった.

 1993 年に古屋野先生の喜寿のお祝いを国際文化会館で行った時には,実に多 様な人々が集った.研究もさることながら,その場では先生が長年たしなんでお られた仕舞を披露された.袴にきりりと身を包み舞う先生は,背筋がピンとのび て大きく見えた.チェンマイの大きなテーブルに座ってにこやかに「家長」然と してたたずんでいたことを思い出した.

 駆け出しの研究者であった私は,まさに,お釈迦様の手のひらの上でかけずり 回っていた孫悟空のようなものであった.古屋野先生を思う時,私が思い出すの は,チェンマイのお宅の大きな食卓テーブルの家長席に座り「一家のおじいさん」

の風情で,若い研究者たちの小さな発見を,ひとつひとつ興味深そうに聞いてく れた先生の姿なのである.当時の自分はリアルな現実を見つけて有頂天になって いた.先生の見識はより深くより広くそれらを捉えていたはずである.古屋野先 生に出会うことで私は,比較社会学の扉をたたいたと思っている.

[文献]

古屋野正伍・山手茂編, 1995, 『国際比較社会学』学陽書房.

林武編, 1976, 『発展途上国の都市化』アジア経済研究所.

参照

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