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More questions about colonialism = 植民地主義 へのさらなる問い

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へのさらなる問い

著者 クーパー フレデリック, 水谷 智

雑誌名 社会科学

巻 44

号 2

ページ 35‑55

発行年 2014‑08‑29

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013669

(2)

More Questions about Colonialism 植民地主義へのさらなる問い

1)

フレデリック・クーパー

翻訳 水 谷   智

植民地主義に関するこの 会 議 の基調講演を依頼されたことは,喜ばしいことであり,

光栄なことである。それは,私自身を含む北米およびヨーロッパの研究者によってなさ れてきた植民地的状況に関する研究―それはヨーロッパ勢力の海外進出に焦点を合わせ てきた―と,世界の他の諸地域の広範な歴史的諸問題のあいだの関係について考える機 会を与えてくれる。この会議が終わるころまでには,きっと私は今のこの時点よりもさ らに多くの問いを植民地主義について抱くことになるであろう。

日本帝国研究者は,植民地主義の諸パターンが[比較可能なほど互いに]類似してい たり,あるいは[逆に]アジアの諸帝国が[比較不可能なほど]ユニークであったかを 示したりするべく,19 世紀と 20 世紀の経験にもとづいた西ヨーロッパの植民地帝国のモ デルをとりあげ,アジアの文脈に応用してきた。しかし本講演で私がやりたいことはそ の逆である。ヨーロッパによる植民地化にたいして強力なオールタナティブを示したと いう理由で,日本が反帝国主義的な帝国を築いたと主張する人さえいる。こういった見 方とは別のものを示そうとすることによって私は,日本の帝国―あるいはそれが中国,オ スマン,ロシアの帝国であってもよい―をモデルとし,西ヨーロッパの諸帝国がそれら の視点から説明できるかどうかを言おうとしているわけではない(そのような手続きは いくつかの洞察を生みだすであろうが)。かわりに,ヨーロッパとアジアの帝国の両方を 単に「数ある帝国のなかのひとつ」と見なすことが,何を意味するのかを私は探求して みたい。つまり,帝国という形式が普通で合理的であるような世界の一部としてあるこ と,エリートたちが何にもまして自分たちと他の帝国との競争に関心があるような世界 の一部としてあること,そして,権力の行使に「差異」が本来備わっているようなあり

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ようの範囲内にあること,が何を意味するのか。

このように論を進めることは,既存のふたつの学問潮流とは異なる方向をとることを 意味する。ひとつのありふれた認識は,諸帝国がそれぞれ社会を統治するための政治的 規範を有していることを前提に,それらを対比させることである。政治学者のマイケル・

ドイルは,頻繁に参照される 1986 年刊の著書のなかで,帝国を以下のように定義してい る。すなわち,帝国とは「ある政治社会の事実上の主権にたいして,他の政治社会が強 要する政治的コントロール」である,と。それは,ポスト 1960 年代の規範―それ自体,

複雑な政治的闘争の産物だった―を,時空を超越した普遍的なものと仮定してしまうこ とに他ならない。ドイルのいう「政治社会」は,均質的な実体,ひとつの前提,政治的 諸関係に先立って存在する何か,に映る。これは疑わしい定義である。政治的権力も社 会関係を形づくる。今日の社会は過去の帝国によってつくられたのである。ドイルはさ らに続けて,帝国を共同体無き統治と呼ぶ。しかし,より均質的な政治に劣らないほど に,帝国はひとつの政治的想像を生みだした。ベネディクト・アンダーソンがいうとの は逆に,想像の共同体はさまざまな形をとりうるのであり,国家となることを熱望する 国民はそのひとつに過ぎない。人類史の大半を見渡せば,自分とは異なる人々と共存し たり,あるいはかれらを支配することが,より一般的なパターンであったことがわかる。

それぞれがある「社会」を代表し,それぞれが互いに法的に同等であるような国民国家 で成り立つ世界を過去に向かって投影することには,我々は慎重になるべきである。

[ドイルとは]別の学派の解釈にたいしては,私はより同情的である。ただしそれは,

私自身の洞察からみれば十分とはいえない,ということを抜きにすればの話ではある。こ こで私が特に私は念頭に置いているのは,ディペッシュ・チャクラバルティーによる著 書『ヨーロッパを地方化する』(Provincializing Europe)である。この本の中身は,そ のすばらしいタイトルとは逆を言ってしまっているように思われる。つまり,ヨーロッ パは<地方化>できない。なぜなら,ヨーロッパは,自らの歴史もまたそれによって分 析されざるをえないようなカテゴリーの決定者だから,と。 チャクラバルティーが見い だすのは,帝国国家および覇権的な西洋の言説の侵入から南アジアの人々が匿ってきた,

個人的あるいは家族的生活の領域である。しかしその一方で,政治領域においては,帝 国権力を分析するための外的な観点をまったく見いださない。植民地支配への対抗でさ え,植民地主義自体のカテゴリー内で起こる。そして,それからの唯一の出口さえも,そ の見せかけの自由がある事実によって裏切られているような世界への出口なのである。

その事実とは,ヨーロッパ的で,植民地的な系統のリベラルな諸カテゴリーこそが,ま

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さにその自由の問題が扱われ,明確化される条件でもあるということ,である。互いに 対等な国民国家および権利を有する個人から成る世界を想像することが,それらに解放 への道筋を見ると同時に,それ以外に選択肢を閉ざすことになってしまっている。

認識論的な中立性や対等性などというものが存在しないことは明らかである。我々は,

単に経済的なものというだけでなく知的なものでもある不平等性と非対称性の世界に生 きている。私は今ここ日本で,ほとんどが日本人あるいは韓国人である聴衆にたいして,

英語を話している。あるいはこれは,英語帝国主義の一例といえるのかも知れない。し かし,非対称であることが必ずしも全体主義的であるとは限らない。チャクラバルティー の視点のひとつの問題は,それがまさに脱構築し,批判しようと試みるヨーロッパ中心 主義を強化してしまうことであり,これはポストコロニアル論の多くに共通する問題で ある。ヨーロッパは相応にして世界の中心にあるのであるが,ただそれが勝利ではなく 悲劇とみなされているだけのことである。だがここでチャクラバルティーの本の魅力的 なタイトルに話を戻そう。たとえマルクスやウェーバーといったヨーロッパの有名人に よる社会学的ツールをもってしても,多分,我々はヨーロッパの地方的な性質に気づく ことであろう。その歴史は進歩あるいは近代をそのまま表すものではなく,苦悶に満ち た,不確かな途をたどってきた。ヨーロッパの諸国家はそれぞれ,いくつもの帝国のな かのひとつに過ぎなかった。それらは互いの力に束縛されていた。それらは,従属的な はずの人民が権力に抵抗したり,権力をそらしたり,あるいは権力を再解釈する能力が あるということに恐れを抱いていた。諸帝国は,自分の権力の根拠に関する一貫した理 解に至ることができなかった。そしてそれらは,ヨーロッパの政治思想家による研究の 意味合いにたいして,混乱した,そしてしばしば矛盾したあり方をもってしか応答でき なかった。ヨーロッパの諸国家をイデオロギーが位置づけた高みから引きずり下ろし,実 際には統治がそれほど明確化されてない世界において自らの政治的権力の限界に憂慮し ている政治的 実 体 としてそれを見ることが,おそらく可能である。それゆえ私は,板 垣竜太・水谷智・戸邉秀明が日本帝国の歴史学論に関する論文で打ち出した,[遍在的権 力としての近代性の問題にすべてを収斂させるかわりに]「より正面から植民地主義を問 う」ことの必要性に関する最終結論に同意する。これは,アジア史とまったく同じぐら いヨーロッパ史に関係する意見である2)

この問題には,時間的側面がある。近年の植民地研究の隆盛は,ほとんど情け容赦な いまでに 19 世紀と 20 世紀に焦点を合わせてのものだった。しかし,より長期的な視点 をとったとき,我々の認識もまた変化するかも知れない。世界史においては,帝国は,耐

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久性を備えた,柔軟な政治形態であり続けてきた。単一の王朝下におけるオスマン帝国 の 600 年におよぶ持続,数世紀におよぶロシアの皇帝たち[の存続],あるいは,ひとつ の中国王朝が先代の皇帝のマントを自分のものと主張してきた 2000 年間,を考えてみる とよい。この歴史と比べれば,ヨーロッパ植民地支配の全盛期―アフリカおよび東南ア ジアの大部分における 80 年間―は短いエピソードに過ぎない。国民国家のモデルが適用 可能になってかろうじて二世紀,一般に適用されるようになってたった半世紀しか経っ ていない。

諸帝国が行ったのは,異なる人々を異なるやり方で治めることだった。それらは,統 合と同時に差異化をしていくものだった。[確かに,]ひとつの帝国には,根絶すること と同化することが混じり合うことによって,均質的な政体へとなる可能性もあった。つ まり,それは何かほかのものへと変化しえた。それは,国民国家の虚構,つまり,ひと つの領度,ひとつの国民,ひとつの政府,という虚構に接近するかもしれない。しかし,

永く続く諸帝国はそのような虚構には懸念を示さず,それゆえに,統合と差異化の諸形 式を巧みにやりくりした。ヨーロッパあるいはアジアに拠点を持った新旧の諸帝国は,こ れらの諸テーマについて変動を示している。そしてそれはゆうに 20 世紀にはいっても相 変わらずである。

国民的感情とナショナリズムは,たとえ諸帝国の物語に出入りすることはあっても,そ れを案出することなない。帝国の形態のなかには 19 世紀末に弱体化するものもあったが,

日本,後期ナチスドイツ,ソヴィエト連邦のように,逆に新たに出現するものもあった。

アメリカ合衆国は 19 世紀を通して大きな陸の帝国および小さな海の帝国になったが,た とえアメリカ人が自分たちをイギリス人,あるいはローマ人と比べたがったとしても,そ れは空間的には帝政ロシアと比べるのがもっとも妥当だった。日本は,アメリカとイギ リスのアジア侵入の長い影の下で帝国ゲームに加わったために,権力をよりゆっくり築 きあげた諸帝国と比べると,より「ナショナル」な認識を自らの状況にたいして持った ことはほぼ間違いない。しかしそれでも,自らにたいし,統合された諸民族にたいし,そ して[帝国の]外の人々にたいし,自らがかき集めた複合的な政体を表象する法を見い ださなければならなかった。これらの観点からいうと,日本は世界中の帝国的政体に特 徴的な差異のポリティクスの範囲内に十分に位置していたのであり,「アジア的」な帝国 であることを強調する一方で,皆が同じようにアジア的であったり同じ地位を享受して いたわけではないと力説した。

最初から,諸帝国をもっとも懸念させたのは他帝国の存在であり,19 世紀末になって

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もそのことは変わらなかった。ローマ帝国が没落して以来―そしてイスラムのカリフ統 治領,そしてのちにオスマンが勃興して以来―,西ヨーロッパ人は内部分裂し,大陸的 空間に閉じ込められてしまった。ヨーロッパ政治はかなり断片化しており,王たちは軍 隊と資金を調達するために地方の貴族に依存していた。同盟関係と政略結婚によって複 合的な君主政体が生まれたが,それらはまとまり続けるのと同じぐらいばらばらになり がちだったのであり,実際,諸帝国が強固になることを防ぐことに多くの努力が費やさ れた。15 世紀までには,イベリアに始まる王たちは,自分たちの拠点に近い資源を実質 的にコントロールできなかったゆえに,外的資源に目を向けるようになった。

もっとも手を出したくなる魅力的な資源は東アジアと東南アジアに存在した。中国の 富と力は,直接的にも間接的にも,広大な地域にわたって商業を刺激した。そして,そ の地域と西ヨーロッパのあいだにはオスマン帝国が存在し,それは西洋のどの政体より もずっと統一され強靭だった。それは,貿易の大陸ルート―過去のモンゴル帝国保護下 に発展していた―と,インド洋および紅海を経由し地中海世界と中国/東南アジアをつ なげる海洋ルートの重要な連結点を管理下に置いた。

「ヨーロッパ膨張」論が示唆するのとは逆に,海の帝国たちはヨーロッパ人に内在的な 支配への先入的愛好に由来する傾向を反映していたわけではなく,このように弱体さと 分裂を反映していた。中国とオスマンは,かなり長期的に見た場合,自らの相対的優位 性によってむしろ苦しんだかも知れない。なぜなら,かれらは統合された領土の強みと 重要貿易ルート―陸路と海路の両方―のコントロールによって非常にうまくやっていた からである。当時,誰も未来を予測できなかったのである。

ネットワークの拡大に続いて起こったすべての変化にもかかわらず,西ヨーロッパの 帝国列強間の競争は継続し,軍事的,財政的革新の動機となった。新たなローマになる こと,あるいはそれを阻止することが,ヨーロッパの権力政治のひとつの鍵(たとえ最 重要なものでなくとも)だった。すなわち,カール大帝,カール 5 世,ナポレオン,ヒ トラーはこの歴史の一部であったのであり,政治理論の変化および資本主義の発展にも かかわらず,それは自己反復し続けた。しかし,ローマが再建されることはなかった。

ヨーロッパひとつの政治的実体を意味しなかったのであり,「ヨーロッパ的」という用語 は政治のやり方を示すものでも,またついでにいえば,生き方を示すものでもなかった。

これらがすべて,フランス革命における「国家」と「人民」の新たな言説とともに変 わったのだろうか。答えはイエスでありノーである。多分,我々はかわりに 1789 〜 1804 年のハイチ革命を参照すべきである。革命のプロセスは,その「人民」によるネーショ

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ンの支配の可能性に道を開いたが,それは,誰がその人民なのか,あるいは,そのネー ションがユーラシア西端の特定の領度に位置するのか,あるいは帝国権力の伸張に従っ て移動するのかという問題に決着をつけなかった。パリのエリートのなかには,フラン スにたいする極めてフランス的な見解をとる者もいた。すなわち,ヨーロッパ系フラン ス人のみがネーションにおける市民権の資格を有するという見解を,である。しかし 1789 年までには,砂糖で潤う植民地サン=ドマングの白人の農園主が,市民権とは自分たち の島を好きなように統治することを意味する,と主張していただけでなく,「gens de couleur」と呼ばれる,自由で,資産を有する,フランス人の父親とアフリカ人のあいだ に生まれた人々の子孫もまた,自らの市民権への権利を主張していた。パリにいる指導 者たちは,その人民が国民的なのか帝国的なのか分からず,その場をごまかした。そし て 1791 年,奴隷たち―かれらは革命の混乱と市民権の可能性を知っていた―が蜂起した。

王党派の反革命的抵抗,他の帝国による侵略,そして奴隷蜂起に直面し,革命政府は帝 国の視点から市民権について考える原理的な理由のみならず実践的な理由を見出した。

まず,「自由な有色人種」(gens de couleur)が市民となり,そして 1793 年には奴隷が解 放され市民となった。かれらの指導者であるトゥーサン・ルーヴェルチュールは,フラ ンス共和国の弁務官となった。自由と市民権の希求が,フランス帝国を内部から変える 試みから帝国からの離脱の試みへと変わったのは,ようやく 1802 年にナポレオンが奴隷 制の強要を復活させようとしたときのことだった。

同じように,北米および南米における諸革命もまた,帝国に抗する革命になる以前は 帝国内部での革命であった。アメリカの愛国者というイデオロギーは 「自由なイングラ ンド人」(free-born Englishman)の概念が海を渡って運ばれることで生まれたのであり,

かれらは君主制が自らのルールに従っていないとみるやトーマス・ジェファーソンがい うところの「自由の帝国」(Empire of Liberty)の建設に乗りだした。北アメリカのイギ リスの 13 の植民地が合衆国を形成すべく寄り添い続けた主因のひとつは,帝国が標準で あり,他のライバル帝国が脅威であるような世界を歩んでいくためだった。ふたつ目の 主因は,空間を横断して権力を伸長させ,ネイティブ・アメリカンや奴隷の例にみられ たように,帝国内のすべての人々が自由を共有するわけではないような差異化された政 体をつくりだす必要があった,ということである。同じように,ラテンアメリカの諸共 和国のナショナリズムもまた,革命的プロセスの原因である以上にその結果であった。メ キシコとブラジルにおいては,指導者たちが自分に皇帝の称号を与えた。19 世紀が始まっ たとき,政治における提携と対立の構造は,少数の帝国による支配と,それ以外のすべ

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てがそうした構造に従う必要性,あるいは抵抗する必要性とによって形づくられた。ネー ションは,帝国と調和されねばならなかった。

ヨーロッパがネーションと近代に向かって一直線に邁進していくという考えは,19 世 紀におけるその乱雑な歴史とうまくかみ合わない。フランス革命後の 75 年間は,フラン スは王あるいは皇帝を自称する者によって統治され,アルジェリアが植民地化されたの は君主制下であり,インドシナへの重要な動きがとられたのは第二帝政下であった。ナ ポレオン 3 世が「私はアラブ人の皇帝でもあるのであり,ただフランス人の皇帝である わけではない」と述べたのは有名な話である。1870 年,この皇帝が敗北したあと,プロ イセンのウィルヘルム王は,「ドイツらしさ」に徴づけられた場所においてではなく,偉 大なフランス王ルイ 14 世の宮殿であるヴェルサイユにおいて,カイザー(Kaiser)―つ まりシーザー(Caesar)―として王位についた。彼の帝国は,フランス語,デンマーク 語,ポーランド語圏の人々を含んでおり,1866 年に軍事的には打ち負かしていたにもか かわらず,オーストリア帝国のドイツ語圏を統合することを彼は控えた。その後,ドイ ツ帝国は海外に拡張し,中国と太平洋の飛び地をアフリカの植民地とは異なるかたちで 統治した。ヨーロッパのこれらの諸政体が,19 世紀に自らを複合体として表象しようと したということは,20 世紀の歴史家の歴史の 解 釈 における過度に「ナショナル」な読み 直しを複雑なものにする。そして,かりにロシアが時に中央アジアの征服地を「ロシア 化」する誘惑にかられたとしても,皇帝の権力は現実には現地の中間者たち―ムスリム のエリートを含む―との取り決めにかかっていたのであり,国家は変化をおよぼす力の 限界を慎重に認識したのである。

このことは,19 世紀の歴史におけるナショナリズムの重要性を軽んじてよいというこ とを意味するわけではない。それは,ナショナリズムのイデオロギーと動員とが,ナショ ナルな境界を越えて権力が拡張することに由来し,支配者にたいする「人民」の関係が 一様ではなく曖昧であるような諸国家に支配された世界において展開せねばならなかっ た,ということを言っているのである。例えば,1830 年のオスマン帝国からのギリシャ 独立の例を見てみよう。ギリシャの国民主義者たちは自らの主張を発信し,信奉者たち を動員したが,かれらの成功はオスマン帝国にたいするイギリス・フランス・ロシアの 策謀に負うところが大きかった。つまり,ナショナリズムは他人の帝国の内で奨励され ることになったのである。そして,王がギリシャの王位へと持ち上げられたのには互い に競合する諸帝国の力が大きかったが,その時,その王はバイエルン系だったのである。

そして,後に続く数十年間,アナトリアへのギリシャ人の大規模な移民が起こったが,そ

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れはすなわち,ギリシャがまさにそこから独立したことになっているはずの帝国への移 民であったのであり,その主な原因は,帝国が繁栄のための機会を生み出したというこ とだった。

帝国間競争は継続した。フランスとイギリスは,ロシア帝国のほうがより深刻な脅威 と判断すると,従来オスマン帝国へ向けていた敵意を翻した。1853 〜 56 年のクリミア戦 争は,普墺戦争,普仏戦争およびその他のいくつかの戦争と同じように,この 間 帝 国 的政治の一部であったのであり,そこではすべての存在が,人的,物資的な資源をナショ ナルな境界の外側に求めていた。

間帝国の観点から考えることは,論者によっては新しい帝国主義に特徴的とされる海 と陸での行動を理解する手助けとなる。とりわけアフリカ分割は,「先取り」のポリティ クスであった。すなわちそれは,潜在的に自分のものである資源を誰か他の相手が独占 することのないよう,特に必要がなかったり,搾取するだけの能力がないと分かってい たりする場合でも,植民地を引き受けることだった。台湾と朝鮮における[日本の]帝 国建設も同時代に到来したのであり,それもまた,間帝国的ポリティクスから生じてい た。当時,中華帝国の弱体化とともにヨーロッパ勢の侵入がその隙を埋め始めており,そ のことは日本が経済的進展に向けて真にナショナルな経路をとるのを困難にしており,

よって帝国のゲームのなかに飛び込むことになったのである。

帝国間の争いは第一次大戦へと連なっていったが,この戦争においてはアナトリア,西 アフリカ,インド,シベリア,そしてオーストラリアの若者が自分たちを支配する帝国 のために戦うことになった。大衆のあいだの国民主義的な感情は,帝国のエリートが長 引く動員に取り組むなかで現れたものだったが,それ自体,戦争の起源と何の関係もな かった。オスマン,オーストリア=ハンガリー,そしてロシアの各帝国をネーションの 世界のなかで消滅してしまうものとして簡単にしりぞける歴史家たちは,これらの諸帝 国が,戦争に巻き込まれた他の人々と似たような忠誠と弾圧の組み合わせをもって戦っ たということ,そして,たとえそれが自ら選択したわけではなく不本意な同意からだっ たかも知れないものの,アフリカ人やインド人もまた帝国戦争を戦ったということに注 意してみたらどうだろうか。

19 世紀の技術と組織の格差の拡大は,果たして植民地統治が新たな形態をとったかと いうこと,あるいは,イギリスとフランスがオスマンあるいはモンゴルの改良版だった のかどうか,という問題を生じさせる。クリストファー・ベイリーは,19 世紀における インドの行動が,いくつかの側面において,帝国へのオスマン的アプローチを反映する

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ものであり,空間の支配に焦点を合わせ,地租を抽出し,新旧の経済ネットワークが帝 国の結節点を経由することを確保し,過度の社会変動を避けたのだ, と提唱している。ア フリカにおいては,イギリスとフランスは自身が認めるよりもはるかにモンゴルに近い ものであり,そこでは機関銃と電信が,モンゴル人が 13 世紀に史上最大の帝国を築くこ とを可能にした弓矢を振りかざす騎兵隊と馬に乗った使者のリレーに似た役割を果たし ていた。

確かに,19 世紀の植民地化の提唱者たちは自分たちがやっていることを新しいものと して描きたがった。1874 年に,ポール・ルロア=ボーリューが著書De la colonisation chez des peuples modernes(『近代諸民族の植民地化について』)を刊行し,新たな植民 地化は征服者ではなく医者や技術者の関心ごとであって,近代のネーションと被植民者 に利益をもたらすものだと主張したとき,彼は文字通り成功を修めたのである。ただし これらはあくまで主張に過ぎなかった。またそれらは唯一の主張であったわけではなく,

ましてや当時の唯一の実践だったわけでもないのであり,そのようなテクストから植民 地主義の本質を「読みとる」試みは,今日の植民地研究に多くみられる欠点である。

「近代性」についてそれを[実体ではなく]ひとつの主張として考えることは,しばし ば使用される「植民地近代性」の概念の弱点を克服するための手助けとなるはずである。

それによって,なぜ政府のなかには,自分たちが他と同じように「近代的」でなければ ならないのだと主張する者があったかを理解することができる。何人かの歴史家が指摘 するとおり,日本と朝鮮においては,近代的であるという主張は,ヨーロッパと同等で あるという主張であった。日本は,あるいは朝鮮もまた,ヨーロッパが経験したのと同 じ変遷の芽を有していた,と論じることも可能である。しかしもし,ヨーロッパが近代 的であったと言うこと,あるいは,各帝国におけるヨーロッパの諸国家のプロジェクト が近代性を生み出すことであったと言うこと,にそもそも意味がなかったとするならば,

果たしてどうであろうか。今日の社会科学者たちが「近代性」について語るとき,かれ らは自身がそれを使って意味するあらゆること―そこには矛盾した定義があふれている

―を,19 世紀あるいは 20 世紀初期に人々が当時語っていたことと混同してしまう。もっ ともシンプルな解決策は,この用語を分析概念として使うことを避けることである。か わりに,我々は政府が植民地を統治するときに何をするのかを問うべきであって,それ が「植民地近代性」か否かを問うべきではない。近代性という用語を使うことは,それ と合うような諸属性の詰め合わせ―統治,経済組成,人的属性などに関するものから成 る―の存在を前提としてしまうことであるが,それよりも歴史家の関心はそれらを引き

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離すことにこそあるべきであり,また,異なる複数のプロセスがいかに働くのかを理解 することに,そしてそれらの互いの関係性について,それを前提とするかわりに問うこ とにこそあるべきである。さらに問題なのは,数々の「多様」な近代性たちの存在―ヨー ロッパのものだけでなく,日本,朝鮮,アフリカのものも含む―を仮定することは,歴 史的な軌跡をネーションの特性としてしまうということであり,そうした立場は政治的 に危険であるだけでなく,歴史的に不正確である。

帝国の支配者たちは植民統治技術による近代化の可能性を認識していたけれども,そ うした可能性を利用することには慎重だった。バーナード・コーンが植民地における

「近代 統 治 性 」の証明に持ちだした例としてのインド国勢調査を見てみよう。区分けし,

数え上げ,分類することが可能な「人口」(population)の概念は,そのようなコンセプ トに中心的なものであった。確かにその通りであって,実際インドにおいてイギリスの 政府はそのような進路をとったのである。ただその際,アフリカにおけるほとんどの英 領植民地において初めて国勢調査が行われたのが第二次大戦後だった,という事実から 何を導きだせばいいのだろうか。ヨーロッパの植民地における近代統治性について一般 化を行うことはできない。1890 年代から 20 世紀前半,英領および仏領アフリカにおいて,

人口を分析するものとしてアフリカ人を監視することは,植民地官僚たちの念頭にはな かった。むしろ,かれらはアフリカ人を,族長の自然な支配権下のエスニックな集合体 として分析されうる部族集団の成員として捉えていた。20 世紀初期のアフリカにおける 帝国権威とは,何よりもまず垂直的

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であって,中央権力,地方の官僚,現地人のエリー トと本国のエージェントの手頃で,現実的なあらゆる組み合わせのヒエラルキーであっ た。それは,ミシェル・フーコーやベネディクト・アンダーソンにとってかくも重要な 水平的

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な人口概念ではなかった。アフリカのイギリス人官僚が,移民,地域交易,およ び海外との接点によって形づくられたアフリカという地において実際にどのように物事 が運ぶのかについて,自分たちがいかに無知だったのかを悟ったのは 1930 年代後半およ び 1940 年代のことだった。

時代によって統治の諸形態を区別しようとするかわりに,もっと焦点を絞ったやり方 をもって,諸政府が統治の諸戦略を現場で直面した各勢力の関係へといかに適合させて いったか見ること,そして,それらの 技術の 幅 が新たな 手段および新たな挑戦ととも にいかにシフトしていったかを見ることの方が有益だ。このことは,帝国を治めること の[以下の五つのような]一般的諸問題の幅広い考察へと我々を引き戻す。

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1 統治の限界

古代ローマ,中国,そして 19 世紀ロシアは,アフリカとアジアに進出するヨーロッパ の各政府と,多様な人口構成の広大な空間が,遠距離からいかに統治されるかという問 題を共有していた。コミュニケーション速度,軍事技術の優位性,より厳格な組織のヒ エラルキーが帝国の拡大を助長したが,地域ごとにみると,統治を具現化する難しさは 常につきまとった。征服数が増えれば増えるほど統治する空間も増大し,それゆえ,よ り多くの中間者が必要とされた。確かに,ヨーロッパ人エリートは次第にインドの藩王 やアフリカの族長にたいしてへりくだっていったが,1900 年代初めにおいては,植民地 帝国を拡大させるために必要な現場の白人官僚がほとんどいなかったので,現地人エ リートを必要に応じて便宜する課題が残った。

考えうるかぎり最も近いのは,多くの白人入植者が存在する植民地―南アフリカある いはアルジェリア―であるが,これらにおいては,現地の入植者が激しい要求を突きつ けて現地人を怒らせ,時には蜂起を引き起こしたのであり,独特の行政的悪夢であるこ とが判明した。インドの場合,徴税を統制したいというイギリスの願望は,藩王・地主・

書記官の持つ現地に関する知識および権威にかかっていた。つまりそれは,妥協と暗黙 の了解を必然的に伴うものだったのだ。実際には,これらの藩王国におけるイギリス人 の「駐在官」は実質的に孤立しており,社会に深く干渉可能な官僚組織を監督する権能 も限られていた。

アフリカにおいては,征服の方がルーチンワークの行政よりも簡単だった。植民地的 征服は,機動性,移動可能な軍事力(たいていの場合,以前征服した現地人社会から調 達)の集中,村落での暴力による恐怖政治,女性と牧牛の確保と分配,さらには,最小 限の行政構造しか残さずに引き続き別の場所での暴力へと移動すること,にかかってい た。確かに,初期のイギリス人官僚たちは,宣教師や反奴隷制運動家の圧力下で,奴隷 取引に手を染めている王や族長に反対する行動をとることを約束していたが,中間者を 無視できないことをすぐに悟ると,より穏健な統治形態に落ち着いた。フランスはイス ラム教指導者たちを攻撃していたが,やがてそれは協力にとってかわられた。たとえ奴 隷制が廃止されなければならなかったとしても,それはより狭義に定義されえたし,エ リートの権力を維持することも可能だった。遂には,英領アフリカにおけるそうした実 践には「間接統治」の名称が与えられたが,すべての植民地権力が少なくとも一時期こ のようなことをおこなっていたのである。アフリカのほとんどの植民地は行政コストが

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安上がりの場合にのみ経済的に成り立ったのであり,サラ・ベリーが呼ぶように,それ は「細々としたヘゲモニー」に過ぎなかった。トラブルの気配が漂いはじめれば見せし めの恐怖が呼び込まれ,肉体的懲罰と刑事的制裁が労働者の規律化のために使われた。人 道主義者たちは,こうした専横な植民地主義は,近代的で,文明化された人々が行うは ずのものではない,と力説し続けた。しかしそのような実践は,近代的でもなければ非 近代的でもなかった。それらはただ,醜悪で,残忍で,現実的だったのである。

2 多様な利害と思惑

このことは,帝国のフレームワークに関して私が掲げるふたつ目のポイント―つまり,

関係するそれぞれの人々の思惑の複数性―へとつながっていく。人によっては,植民地 とは平凡な仕事が最小限の競争下で行われる守られたゾーンであった。しかし同時に,人 によっては,植民地とは魂が救済される場所であって,アフリカにおいては,医者,技 術者,学校教師などの世俗的近代化の代表者のすべてを合わせたよりも宣教師のほうが 圧倒的に数が多くかつ重要だった。

帝国が有する選択肢にはいまだに最悪の類の略奪行為が残されていたのであり,レオ ポルド王のコンゴはその悪名高い例として知られることになった。しかし,商業的同業 者連にとっては,特に沿岸部西アフリカにおいて,アフリカ人を貿易のパートナーとし て扱うので十分であり,そうした「道理的な通商」は,利潤面によってだけでなく一つ の原則に属する事柄として擁護された。鉱業の同業者連は,技術力を 16 世紀のペルー銀 鉱山に相当する労働調達術と組み合わせることが可能だった。土地保有に関しては,植 民地支配者はたいてい手心を加えた。19 世紀インドでは土地保有権を改革し土地市場を 創り出すことも議論されたが,役人たちは農業社会関係の旧構造を乱し,自分たちが依 存するインド人エリートの利害を損ね,暴力を挑発することを恐れて実際には農業資本 主義を発展させなかった。アフリカにおいては,ゆうに 20 世紀にはいっても,南アフリ カが実質的には唯一の徹底した資本主義的変容のケースを示していた。それさえも,1860 年代のダイヤモンドと 1890 年代の金の発見だけでなく,経営者による労働者監視および 白人役人によるシステムの全体管理を可能にするのに十分に奥行きある旧来の白人入植 パターンの存在によって可能だった。そして,南アフリカの資本主義は,単に人種化さ れているのみならず部族化された形態をとっており,アフリカ人は実際には「労働者」―

マルクス主義理論における匿名の労働力の意―ではないという虚構,すなわち,男たち

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は手つかずの伝統的共同体の成員であって,一時的にそこを離れて働いているに過ぎな いという虚構,をベースにしていた。19 世紀後期のアフリカ分割は,複数の異なる帝国 のあいだで展開された「先取り」の植民地化の実践であった。そのことは,以下の問い を理解する手助けになる。すなわち,短期間に性急にアフリカの所有権を主張しつつも,

なぜイギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガル・イタリア・スペインは投資 をほとんどおこなわず,脆弱な行政インフラしか発展させなかったのか。なぜこれらの 国々は,アフリカ社会を救いがたい搾取対象とも,ヨーロッパの基準に沿って作りかえ られる文化的対象とも見なさず,それが「伝統的」なものにとどまり続けるという考え を受け入れたのか。

金融資本のために必要になったとレーニンが考えた類いの植民地投資は,決して現実 化することはなかった。それは,資本には[それ以外の]より魅力的なオールタナティ ブが存在したからであり,またそれは,アフリカのほとんど,そしてアジアの大半にお いて,幅広い経済活動への投資を魅力的にするためのインフラ構築を植民地体制が行う ことがめったになかったからでもあった。植民地主義最盛期において顕著なのは,経済 的変化の不均等さである。それはあたかも,政府が何も関知せず,何が起こっているか 気にもしない大海において,深刻な搾取の対象である島々が散らばっているようなもの だった。第二次大戦後に状況が変わった後,企業は政府よりも先に資本主義が植民地主 義を必要としないことを見いだした。その発見は,戦争そのものの帰結を反映していた。

つまり,この戦争による相互破壊は,ヨーロッパの諸帝国も,あるいは日本も,供給確 保や自国製品の販路のための競争において,[以前のように]競争相手が潜在的に重要資 源を先取って独占するのではということを恐れることなく,ようやく市場メカニズムに 頼ることができるようになった,ということを意味したのである。これはアメリカ合衆 国に都合のよい状況であり,そしてそれへの最も明確なオールタナティブとして浮上し たのがソ連であった。

3 帝国と道徳空間

1540 年代,南北アメリカのインディオにたいするスペイン人の残忍さについての 小冊子のなかで,バルトロメ・デ・ラス・カサスが展開した自説は,カトリック君主の 帝国空間に居住する人々にたいする義務についてであった。19 世紀初期イギリスにおけ る強力な反奴隷制運動は,ほとんどのイギリス人が見たこともないイギリス領の島にお

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ける奴隷制が,非道徳的でイギリス国旗を汚すものだということを多くの人々に確信さ せた。かれらの主張は,植民地支配を行う側の国々の義務についての論争へと―そして 最終的には植民地主義そのものへの批判へと―つながっていった。我々にとってここで 興味深いのは,そのような主張が植民地支配者の行動規範を生みだしたということでは ない。植民地支配のイデオロギー的根拠とは何なのか。そして,あるひとつの帝国を「イ ギリス」あるいは「フランス」などと見なしておきながら,同時にそうした帝国のある 部分の住民たちを本国では考えられないようなありかたで扱って果たしてよいのかどう か。上記の主張が,論争を決着させることなく,むしろこうした問いについて不確実性 を残したということこそが興味深いのである。

フランス帝国では,奴隷制は 1794 年に廃止され,1802 年に復活され,そして 1848 年 に再び廃止された。1850 年代,60 年代の第二帝政下,ある法律が臣民と市民の区別を法 制化し,前者には一切の権利が賦与されなかった。理論的にはかれらは市民になること ができたが,それはもし,民事裁判においてイスラム法もしくは慣習法の下に置かれる ことを放棄してフランスの民法典を選び,フランス人の生き方を取り入れていることを フランス人役人に説得すればの話であった。そして,実際にはほとんど誰もそうしなかっ たのである。共和主義的支配が 1871 年に復活したとき,立法者のなかには共和国内では そうした区別は維持できないと主張する者もいた。しかし行政官たちは,異なる人々を 異なるあり方で統治しなければ自分たちは統制を失うことを知っていたのであり,そう した区別は,定期的に問題視されることはあっても,1946 年に至るまで存続した。

人種的思考と人種主義的実践は,19 世紀および 20 世紀の植民地主義に本質的なもの だったが,それらの分析はそれほどたやすいことではない。むやみに範疇的区分を設け たがる啓蒙主義的思想に特有とされる傾向を,諸国民間の詳細な範疇的区分を白人支配 の正当化の根拠とした科学的植民地主義の台頭に直接結びつけることには我々は慎重に なる必要がある。ヘレン・ティリーおよびアリス・コンクリンによるそれぞれイギリス 帝国,フランス帝国に関する近年の研究は,20 世紀の植民地主義と科学的人種主義をそ のまま同一視する見方をほぼ完全に打ち砕いている。異なる諸人種はヒエラルキー的に 順序づけされている,と主張した人々が 立 派 な科学者のなかに存在したことは,確かに その通りである。しかし,そのような立ち位置に関して科学的なコンセンサスがあった ことはかつて一度もなかった。範疇としての人種の無意味さを主張する者もいれば,人 種の範疇はたとえ科学的に興味深くても差別の根拠たりえないと主張する者もいたので ある。

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いったんそうした一般化から自由になれば,人種,文化,社会,経済のあいだの相互 作用について,語るべきことが多く出てくる。英領西インド諸島や南アフリカに関する 諸研究は,19 世紀の宣教者たちの宗教的普遍主義を描き出している。改宗にたいし,そ して小農や小規模事業者の世界への参入にたいし,アフリカ系の人々にも等しく開かれ てという見方がそこで示されている。だが全く別の文脈では,生き方について自分流の 考えを持つ人々との出会いが,宣教師のあいだに挫折感とほろ苦さを生みだし,アフリ カ人またはかれらの子孫が果たして本当に贖われうるのかどうかを疑い始めることにつ ながっていった。宣教師の諸団体は,異なる諸人種が現状もしくは潜在的に互いに平等 なのかどうかについて,あるいは人々が同じキリスト教徒であってもなお不平等なのか どうかについて,自分たち同士で論争し始めた。さらには,同世紀のさらに後の西アフ リカにおける植民地支配の強要の結果,文明化のプロセスと見なされえたかも知れない ものから最も遠いところにいたアフリカの人々が,周縁化されることになった。正式な 官僚任用ルートは白人だけのものであり,アフリカ人中間者は[「近代的」でなく]「伝 統的」であるとされる状況が生まれ,教育を受けた教養ある沿岸部社会のアフリカ人は 排除された。ここでも再び,そうした議論は論議の対象となった。とりわけ,教育され たアフリカ人自身によって論議されたわけであるが,世紀末,政治の組織化および独立 したキリスト教会の設立におけるかれらの革新は,植民地主義をまさにその起源から批 判することに道を開いていたのである。20 世紀における植民地化がほかの時代のものと 異なっていたと論じるとすれば,その最もよい論拠は,それが論議の焦点となっていた 事実であろう。

区分・ヒエラルキー・包摂・内包の諸問題をめぐる主張と争いを意味する<差異のポ リティクス>の概念は,ヨーロッパの諸帝国のみならずアジアの諸帝国における区分の 生成にたいしてもさらにダイナミックな視点を持つことを可能にするであろう。植民地 支配者が被支配者を劣等者として,完全な人間以下として扱った際,かれらは特定の社 会的文脈で道徳上の選択を行ったのである。「ポスト啓蒙主義的思想」,「共和主義」,あ るいは「新儒教主義」といったものの抽象化がそうした行動を引き起こしたわけではな かった。

4 帝国世界における 革 新

帝国様式は,20 世紀の革新―種類は非常に多岐にわたる―に余地を残していた。確か

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にナチス帝国は,露骨にドイツ的な帝国を創るべく,特にスラブ系住民の住む東方にお いて,諸コミュニティーを統合し中間者を登用するという通常の帝国経験を拒絶したが,

それはひとつの極端な例に過ぎなかった。そしてそれでさえも,より旧来の表象のフレー ムワークに立ち返ったのである。つまり,それはただ単に帝国であるだけでなく,第三 帝国でもあったのであり,神聖ローマ帝国および皇帝たちの帝国の後継者であることを 主張したのである。そして,1000 年帝国であるはずのものがたった 12 年しかもたなかっ たという事実は,その反スラブ的人種主義があまりにも激しく,最初のふたつの帝国を 含む過去の帝国によって実践されていた中間者の登用を踏襲しなかったという事実と大 いに関係があった。もうひとつの後発国たる日本は,あるレベルにおいてはヨーロッパ の諸帝国の過去の実践を踏襲しようと乗り出したが,別のレベルにおいてはアジアの兄 弟たちの長兄というセルフ・イメージをはっきりさせようとした(少なくとも日本の中 国侵略によってその実態に疑いの余地がなくなるまでは)。そして,ソ連の存在があった。

ソ連は,その前任者から領土および帝国統治の諸実践のいくつかを受け継ぎ,ナショナ ルな諸共和国の連邦として自らを構成したが,実際,それは後の多国間的な政治形態の モデルとなるものだった。そして最後に,アメリカ合衆国が挙げられる。アメリカは先 住民族を絶滅させたり「保護区」に封じ込めたりすること,そして奴隷と自由領土の区 別を廃止することにより,19 世紀に比較的「ナショナル」な政体になった。海外では占 領をおこなったものの植民地を創ることには消極的だったが,その理由としては,非白 人の人々をたとえ従属者としてであっても 国 体 に含みたくないということが少な からずあった。

5 帝国への反抗

従来的な立論は,国民国家の発展を近代化の一部と見なしてしまっている。植民地的 君主に対抗する政治運動は,自らの国民国家を必要とするものとされてきた。そうした 主張は,朝鮮だけでなくセネガルやガーナにたいしても適用されている。しかし,最も 近年の研究は,「想像の共同体」が必ずしもナショナルなものとは限らかなかったことを 示唆している。政治的発言権を持ち,社会的,経済的向上への要求を打ちだすとはいか なることかについて,見方は多様だった。ここで講演の最後の数分を,私が過去 10 年間 行ってきた研究からの例を提示することにあててみたい。

たいていの仏領アフリカ人は,第二次大戦後に続く時期,国家的独立を望まなかった。

(18)

かれらは,自分たちが生活する植民地があまりに小さく,貧しく,弱体だと感じていた。

かれらはフランスの臣下とフランスの市民のあいだの区別を取り払うこと,そしてアフ リカ人がフランス市民としてヨーロッパ人と平等であることを求めたのである。フラン スが第二次大戦後は弱い国家だったことは―それはドイツに打ち負かされ,また最も経 済的利益のあるインドシナの植民地の支配権を日本に失っていた―,帝国を支配する新 たな基盤を見いだす必要性をフランスの指導者たちに痛感させた。このことは,アフリ カ人およびその他の被支配社会の指導者たちに開きかけた扉をさらに押し広げるチャン スを与えた。かれらは市民権を主張しただけでなく,「ヨーロッパ系フランス」(European France)の市民の法的立場が民法(Civil Code)の下に置かれることが義務づけられる 一方で,海外の市民に関しては私的な立場をイスラム法あるいは慣習法の下に保つこと ができるようにすべきだ,と力説した。言い分を通すことは,新憲法の草案を練ってい る議会からの劇的な退出行動を伴わなければならなかったが,アフリカ人の議員たちは すべての海外在住者への市民権の拡大を勝ち取った。即座に,政治組織だけでなく労働 組合が,理論的に市民に相当するものを用いて,政治的のみならず社会的意味での平等 性―等しい賃金,平等な社会保障,そして学校教育と医療への平等なアクセス―を主張 した。アフリカ人は,ヨーロッパ系フランスにさらに自由に入国して住む権利を獲得し たのである。ほとんどのアフリカ人政治家たちは,それぞれの領土が普通選挙権の下で 選ばれた独自の議会および官庁を有するような連邦へとフランス帝国を改造することを 望んだ。これらの諸領土―つまり,多分すべてのアフリカ領を一緒にしたものとなる―

は,アフリカ以外の旧フランス帝国領とヨーロッパ系フランス自体をひとつの連邦内に つなぎ合わせ,そこではあらゆる人々が共通の市民権を共有することになるであろう,と 考えられた。あるアフリカ人指導者の場合,「国民国家という帝国主義的概念が,多 国 民 国家という近代概念にはっきりと道を譲ることが必要だ」と 1955 年に極言するに至った。

1959 年,圧力にさらされたフランス政府は,フランス共同体は複数の国籍を持ちうるこ とさえ認めた。結局はそうした考えが失敗に終わったことを我々は知っている。しかし,

つい最近に至るまでそれらが想像可能だったのはなぜなのか。

実際,固有の文化的属性と歴史的記憶を備えたフランス国民が存在するという考えは,

すでに長い間,複合体―たとえ不平等なものであってもそれが複合体であることにかわ りない―としての帝国と緊張関係にあった。1945 年,フランス帝国は植民地支配者と被 支配者にではなく,以下の複数の構成要素に分かれていた。

(19)

・ヨーロッパ系フランス

・1848 年以来,誰もが市民として認められていたカリブの旧来の植民地

・ アルジェリア;領土はフランス共和国に不可欠な一部とされたが,1946 年まで人 民はイスラム教徒の臣民と非イスラム教徒の市民に二分されていた

・ モロッコ,チュニジア,ベトナム,ラオス,カンボジアの各保護領;実質的にフ ランスに支配されていても,主権と国籍は維持していた

・ 国際連盟によりフランスに委任された旧ドイツ領;フランスは指導的立場には あっても主権者ではなかった

帝国を治める術は,帝国権力のレパートリーの様々な諸要素のあいだのバランスをシフ トさせることにあったのであり,それこそが,フランスが海外の人々に市民権を拡大す ることによって実現しようとしたことだった。フランスは,新たな中間者―アフリカ人 の有権者に選ばれたアフリカ人でありながら,改革されたフランスの政治システムを理 解し,それに自ら乗っかっていく人々―を通して統治しようとしたのである。

しかし,あることがこれまでと違って新しかった。それは,この時代が福祉国家の時 代であり,フランスのアフリカ人市民は今や貧困を脱するのに必要な資源を強く要求す ることができたということである。結局,フランスはその最貧の市民を,ヨーロッパ系 フランスの生活水準に引き上げる重責に耐えきれなかった。権力を委譲し,責任を放棄 することが好ましい選択肢だったが,アフリカ人エリートたちは,政治的権力を獲得す ることを条件に平等要求を撤回した。脱植民地化のダイナミクスは,帝国そのもののダ イナミクスから生まれた。アフリカ人の為政者たちが,自分たちは国父だと宣言し始め たのはこの事実の後のことである。なぜなら,独立した国家は彼らがそれまで求めてい た政体とは異なっていたからである。

フランス帝国の終焉に関して我々が見てきたものは,ひとつの帝国における,統合と 差異化の複雑で,当時としては予測不能だった関係性である。日本・中国・朝鮮に焦点 を合わせる論文において,イム・ジヒョン[Jie-Hyun Lim;林志弦]は我々に「自然史 の鎖」から脱出するよう呼びかけている。こうした呼びかけが,東アジアの諸帝国だけ ではなくて,市民から成るネーションの概念が創造された坩堝として時として見なされ るフランスという国家にたいしても同じように適合する,ということを私は提起しよう としているのである。

(20)

1 )本稿の主題およびタイトル(原題:ʻMore questions about colonialismʼ)は,クーパー氏 の 2005 年の著作『植民地主義を問う』(Colonialism in Question)と連動したものである

(この本については水谷智「植民地主義と近代性の関係を再考する:フレデリック・クー パーの論考から」『社会科学』(同志社大学人文科学研究所),79 号(2007 年),pp.173-185 を参照)。この著作で示された議論を要約しつつ,2005 年以降の動向も含め,特に脱植民 地化に重点を置きながら植民地研究について論じて欲しい,というシンポジウム企画側の 要望にクーパー氏に応えていただいた結果としてできたのが本稿である。尚,クーパー氏 の 新 著Citizenship between Empire and Nation: Remaking France and French Africa, 1945-1960はまもなく(2014 年 7 月)Princeton University Pressから刊行予定であり,

その議論の一部は本稿の最後の部分で披露されている。尚,翻訳の際,フランス語の文献 について同志社大学グローバル地域文化学部准教授の伊藤玄吾氏に助言をいただいた。

2 )[Itagaki, Tobe, Mizutani 2012: 299] . シンポジウムへのクーパー氏招聘に携わったのがこ の論文の著者でもある板垣(Itagaki)と水谷(Mizutani)であった。二人は,シンポジウ ムでの講演原稿準備にあたって東アジアの植民地経験も比較の視点から議論して欲しいと 要請し,その際,上記の論文を参考資料として渡していた。ここではクーパー氏のほうが 参照するかたちになっているが,そもそもこの論文―特に「植民地近代性論」に関する部 分―が,氏の『植民地主義を問う』に大きな刺激を受けて執筆されたものであったことを 付言しておく。

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