示された。これは,労働需要が大きく,失業が減っているならば企業は名目賃金を引上げていく一 方,労働需要が少ない場合,名目賃金が下がっていくとともに労働者は労働供給を減らすことを意 味する。このフィリップス曲線の理論的説明は Lipsey(1960)によって提示された。また,Samuelson and Solow(1960)は,失業率と名目賃金変化率との組合せを,失業率とインフレ率に置き換えた。6) つまり,名目賃金を一般物価に変換し,失業率とインフレ率の関係を表すものに改めてフィリップ ス曲線を示したのである。この変換の根拠は,企業が財価格を設定する際に行う労働費用のマーク・ アップである。7) しかし一般物価変数に置き換えるさいに注意すべき問題がある。それは,賃金に変 動があってもすべての企業が一様に価格の設定し直しをするわけではないことである。各期ごとに 価格を変更しうる企業ばかりではなく価格を据え置きする企業もある。そこで,一国の企業は価格 の設定を除き同様であると仮定し,企業が価格を据え置く確率をθ,価格変更を実施する確率を1 −θ,そして P を財価格指数,P* を改定された財価格の指数とする。このとき t 期の財価格は次の ように示される。 lnPt=θlnPt−1+(1−θ)lnP*t 上式を書き換えるとインフレ率π(π=lnPt−lnPt−1)は次式となる π=(1−θ)(lnP* t−lnPt−1) 上式のθ の値が高まれば,実体経済そして労働の超過需要が変化する中で物価の変動は鈍くな る。上式におけるθ の値,すなわち各企業が財価格の改定を実施しない確率は,物価変動予想の 仕方によっても異なると考えられる。実証分析では,主にこの点を考慮して改められたフィリップ ス曲線のモデルも用いられるようになった。 2‐2 インフレ予想変数を追加した修正モデル
失業と物価の変動にトレード・オフ関係があるとした Phillips(1958),Lipsey(1960),Samuelson
ば外的なショックが発生した場合でも,すべての企業がただちに財価格の調整を実施できるわけで はない。価格調整を次期以降まで先送りし価格据え置きを選ぶ企業も少なくなければ,過去の物価 変動の影響が残ると考えられる。そこで,フォワード・ルッキングに加えバックワード・ルッキン グの予想変数も追加したモデルが検証に用いられるようになった。それらはハイブリッド・モデル と呼ばれる。Gali et.al(2001),(2005)はこのタイプのモデルで検証を行い,バックワードとフォ ワードのインフレ予想変数の影響を比較している。ハイブリッド・モデルを用いた実証分析も一様 の結果を示しているわけではないが,Gali and Gertler(2000),Gali,Gertler and Salido(2001)
等はハイブリッド・フィリップス曲線仮説を支持している。15) 2‐4 グローバル化とフィリップス曲線 比較的最近の実証分析例には,ニューケインジアン・フィリップス曲線をモデルの基本とし,イ ンフレ率に影響を及ぼすと考えられる他の要素を追加して分析を行う例もみられる。分析の対象国 が,開放小国のタイプであると考えられる場合,貿易とりわけ輸入投入財の価格変動が輸入国の物 価に及ぼす影響の分析は重要であると考えられる16) 。また主要工業国も含めて,近年フィリップス 曲線の傾きが緩やかになってきている―フィリップス曲線のフラット化―との指摘がある17) 。フィ リップス曲線のフラット化が生じているとすれば,通貨当局が物価変動の調整を行うたびに実体経 済の不安定性が懸念されることになる。仮にインフレ・ターゲットを達成するために引締め策を実 施すると失業の悪化が生じやすいことを意味する。逆に,財サービス市場の需要側のショックが生 じても物価変動への影響は小さくてすむともいえる18) 。フィリップス曲線がフラット化してきた要 因として指摘されることが多いのは,近年におけるグローバル化の進展である。19) ひとつには,外 国製品との競争が激化したため,需要が高まっても価格を引上げにくくなっていると言える。ある いは,貿易および現地生産が急拡大したことで需要圧力が高まっても価格の反応が鈍化していると の指摘もある。また労働市場において,仕事が奪われないよう,賃金上昇が抑えられる傾向がある との見方もある。 もちろんフィリップス曲線のシフトをもたらすインフレ予想がグローバル化以外の要因により安 定化したこと,あるいは企業による価格設定の仕方が変化したということも考えられる。反対に, フィリップス曲線はその傾きがきつくなると唱える説もある20) 。そのようになる原因として Rogoff (2003),(2006)はグローバル化に伴い価格設定の調整に慎重な企業の比率が低下する(上述のθ の値が下がる)と主張している。以上をふまえると開放小国タイプの国を対象に分析する場合,貿
易財価格の変動を考慮することが適切であると言える。Gali and Monacelli(2005)は前出の Calvo
(1983)のモデルを基礎とし,開放小国のケースに適したモデルとするため,以下のように貿易財
価格を導入した。Gali and Monacelli(2005)にしたがうと開放小国の消費者物価 P は,国産品物
価 PHと輸入財価格 PFを用いて次のように表される。
lnP=(1−α)lnPH+αlnPF
輸入価格と国産品価格の比率を交易条件と定義して S=PF/PHと表し,上式を変化率,すなわち
率以外の変数も導入する。推計にはマクロ経済の時系列データを用いるので,はじめに各変数の定 常性に関する検定を行い,モデルを設定する。 3‐2‐1 単位根と共和分関係の検定 分析に用いるのは四半期の時系列データである。各変数の定常性を検定するために拡張型 Dickey -Fuller(ADF)と Phillips-Perron(PP)による単位根検定を行う。変数の水準値が定常ではなく単 位根を持ち,一階の差分では定常過程に従うならば次数1で和分された変数―I(1)―であると判断 される23) 。ADF および P P の修正された t 値が臨界値より小ならば帰無仮説「変数が単位根を持つ」 との帰無仮説は棄却される。ADF と PP による検定の結果(表2),ほぼすべての変数について1%
表4
表4
(
続き)
計係数はインフレ率の短期的な変動に及ぼす影響を反映すると考えられるが,個別の係数に関する 解釈は困難であるため表からは省いた。ただし,トレード・オフ関係にあるとされるインフレ率と 失業率変数の階差変数については,統計的に有意であったものを表示し,統計的に有意な推計値が ない場合は t 値が最も高かったものを表示した。またラグの長さは AIC を参照し,3四半期または 4四半期とした。以下,推計結果をまとめておく。ますモデルの全体的なあてはまりについてみる と,自由度調整済み決定係数の値が約0.45から0.74の範囲であった。同決定係数の値は,推計の期 間を,全期間1985年から2012年にした場合も,アジア通貨危機の前と後を別々に推計した場合も大 きな相違はなかったといえよう。また誤差修正項の推計係数は負値で統計的に有意であった。これ は,各モデルの共和分関係すなわち長期均衡関係の存在を示唆するものと解釈しうる。一方,誤差 修正項の係数の絶対値はインフレ率の調整速度を表すと解釈すると,1四半期の調整度合いは約 60%から90%であることを示唆するものとなった。この点についても調整済み決定係数の場合と同 様,推計の期間を全期間およびアジア通貨危機の前と後に分けた場合とも,大きな違いがあること を示していないと考えられる。 次に,以下の各点について推計結果をまとめる。まず,タイのケースに関するフィリップス曲線 仮説の妥当性,インフレ予想におけるフォワード・ルッキングとバックワード・ルッキングの比較, そしてアジア通貨危機以前と以降との異なる期間の比較である。インフレ率と失業率との間のトレ ード・オフ関係について調べるため,失業率変数については次の4通りを設定した。それらは失業 率 Ur の水準(ln Ur),失業率の変化率(d(ln Ur)),失業率および,ダミー変数と失業率の積変数
の組合せ(d(ln Ur))と DAd(ln Ur),または(DB d(ln Ur)と DA d(ln Ur))である(DA の A
注
1)実証研究に関しての最近のサーベイについては Mitra(2012)を参照。 2)詳しくは Shahbaz(2012)を参照。
3)Kuttner and Robinson(2008)を参照。
4)Bhanthumnavin(2002)が推計した実証モデルでは,失業変数に代えて GDP ギャップ変数を用いている。四半期の データで,期間は1993年第1四半期から2000年第4四半期までである。
5)Lipsey(1960)“The relation between unemployment and the rate of change of money wage rate in United Kingdom 1962−1951.” Economica,27
6)Samuelson and Solow(1960)“The problem of achievement and maintaining a stable price level : analytical aspects of anti-inflation policy.” American Economic Review,50.
7)詳しくは Calvo(1983)“Staggard prices in utility maximizing framework” Journal of Monetary Economics, 12, Gali and Gertler(2000)“Inflation dynamics : a structural econometric analysis” NBER Working Paper7551を参照76.。
8)主な反論には以下がある Friedman(1968) “The role of monetary policy” American Economic Review, 58, Phelps (1967)“Phillips curves, expectations of inflation and optimal unemployment over time” Economica, 34, Phelps(1968)”
Money-wage dynamics and labor market equilibrium” Journal of Political Economy,76. 9)それらは expectation augmented Phillips curve と称される。
10)例として次を参照。FRB, Tulip(2000)Finance and Economics Discusshion Series : Do Minimum Wages Raise the NAIRU
11)バックワード・ルッキングに否定的見解を示した研究例には以下がある Rotemberg and Woodford(1999)“Interest trate rules in an estimated sticky price model” in Taylor(ed)Monetary Policy Rules1999, MaCallum and Nelson(1999) “Performance of operational policy rules in an estimated semiclassical structural model “ in Taylor(ed)Monetary Policy Rules1999.
12)例として Gali, Gertler and Salido (2001) “European inflation dynamics” European Economic Review45(7), Gali, Gertler and Salido(2005)“Robustness of the estimates of hybrid New Keynesian Phillips Curve” Journal of Monetary Economics,52(6)を参照。
13)詳しくは Gali and Gertler(2000)を参照。コブ・ダグラス生産関数 Y=AKαLβを用い,実質限界費用を MC=(W/P)
/(∂Y/∂L)と表わす。書き換えると MC=(WL/PY)/β となる。
14)例として次を参照 Dua and Gauer “Determination of inflation in an open economy Phillips curve framework : the case of developed and developing Asian countries” Working Paper no178, Center for Development Economics, Depart-ment of Economics, Delhi School of Economics.
15)ハイブリッド・フィリップス曲線を支持している例に以下がある Christiano, Eichenbaum and Evans(2005)“ Nomi-nal rigidities and the dynamic effects of a shock to monetary policy” JourNomi-nal of Political Economy, 113(1), McAdam Will-man(2004)“Supply, factor shares and inflation persistence : re-examining Euro Area New Keynesian Phillips vurves” Oxford Bulletin of Economics and Statistics66(s1).
16)Genberg and Pauwels(2003)“Open econoy New Keynesian Pillips curve : evidence from Hong Kong SAR” Pacific Economic Review10(2),2006を参照。
17)IMF World Economic Outlook(2006)を参照。それによるとグローバリゼーションの進展による競争激化が価格引 上げを困難にしたとしている。
18)Jackson Hole26/8/2006“Cpmments on Ken Rogoff : “Impact of globalization on Monetary Policy”
20)Riogoff(2003)“Globalization and global disinflation “Monetary Policy and Uncertainty : Adapting to a Changing Econ-omy, Federal Reserve Bank of Kansas City, Rogoff(2006)“Impact of globalization on monetary policy” The New Eco-nomic Geography : Effects and Implications, Federal Reserve Bank of Kansas City を参照。
21)Bhanthumnavin(2002),熊谷章太郎(2012)を参照。 22)熊谷章太郎(2012)(2013), Panda(2011)を参照。
23)自己回帰式(AR(1))y=a+byt−1+e において−1<b<1であれば y は定常である。
24)Hjalmarsson and Osterholm “Testing for cointegration using the Johansen methodology when variables are near−in-tegrated” IMF Working Paper WP07,141を参照。
25)表記した共和分関係式は,すべての変数に1期のラグが伴うため,バックワード・ルッキングの予想変数は2期のラ グ(−2)が記載され,フォワード・ルッキングの方はラグがゼロとなり,末尾の( )は記載されない。
26)なお Bhanthumnavin(2002)は,タイの賃金契約の頻度に関する実証分析は欠如していると指摘している。
参考文献
Ali(2013)“Estimating the New Keynesian Phillips curve for Tunisia : empirical issues” Middle East Development Journal, 5,3
Bhanthumnavin(2002)“The Phillips curve in Thailand” University of Oxford Working Paper
Boca et al(2008)“The Phillips curve and the Itarian Lira, 1961―1998” prepared for the Conference Market and Models : Policy Frontiers in the AWH Phillips Tradition, Wellington New Zealand, 9―11July2008
Dua and Gauer “Determination of inflation in an open economy Phillips curve framework : the case of developed and de-veloping Asian countries” Working Paper no178, Center for Development Economics, Department of Economics, Delhi School of Economics.
Fanelli(2007)“Testing the New Keynesian Phillips curve through vector autoregressive models : results from the Euro area” J.E.L. classification C32, C52, E31, E32
Furuoka Fumitaka(2007)“Does the ”Phillips Curve” really exist? new empirical evidence from Malaysia” Economic Bulle-tin5,16
Furuoka Fumitaka(2008)“ “Phillips Curve” in selected Asian countries : new evidence from panel data analysis” Sunway Academic Journal16
Gali and Gertler(2000)“Inflation dynamics : a structural econometric analysis” NBER Working Paper 7551(Journal of Monetary Economics44(2)1999)
Gali, Gertler, and Salido(2001)“European inflation dynamics” European Economic Review,45(7)
Gali, Gertler, and Salido(2005)“Robustness of the estimates of the hybrid New Keynesian Phillips curve” Journal of Monetary Economics,52(6)
Gali and Monacelli(2005)“Monetary policy and exchange rate volatility in a small open economy” Review of Economic Studies,72
Genberg(2003)“Open economy New Keynesian Phillips curve : evidence from Hong Kong SAR” J.E.L. Classification, E 33, E12, F41, N15, C51
IMF World Economic Outlook2006 IMF International Financial Statistics cd-rom
Kuttner and Robinson(2008)“Understanding the flattening Phillips curve” Research Discussion Paper, ESAM08 confer-ence NewZealland
Lakova(2007)“Flattening of the Phillips Curve : implication for monetary policy “ IMF Working Paper WP/07/76 Mihailov et al(2008)“The small open economy New Keynesian Phillips curve : empirical evidence and implied inflation
dynamics” Department of Economics Johannes Kepler University of Linz, Working Paper no.0817September2008 Mitra(2012)“The U.S. Phillips curve : new empirical estimates”
Phillips(1958)“The relation between unemployment and the rate of change of money wage rates in the United Kingdom, 1861―1957.” Economica25.
Puzon(2009)“The inflation dynamics of the ASEAN?4 : a case study of the Phillips curve relationship” Report and Opin-ion1, 2
Raehsler, Woodburne(2012)“The dynamic Phillips curve revisited : an error correction model” International Journal of Ad-vances in Management and Economics1, 5
Shahbaz(2012)“Phillips curve in a small open economy : a time series exporation of North Cyprus” Bangladesh Develop-ment Studies no.4
熊谷 章太郎(2012)「なぜタイの失業率は低いのか? 低失業率の背景と物価への影響」 ESRI Research Note no.20 内閣府経済社会総合研究所