実験会計研究からみた農業会計における記録と開示
:開示が生み出す信頼と集落ガバナンス
著者 田口 聡志
雑誌名 同志社商学
巻 71
号 4
ページ 673‑704
発行年 2020‑01‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2020.0000000092
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示:
開示が生み出す信頼と集落ガバナンス
田 口 聡 志
Ⅰ 問題意識
Ⅱ 農業の「特殊性」と農業における会計記録の意義を巡る先行研究
Ⅲ 組織規模の相違と会計記録の有用性:農業会計と企業会計の比較で考える(1)
Ⅳ ガバナンス形態の相違と会計記録の必然性:農業会計と企業会計の比較で考える(2)
Ⅴ 開示が生み出す信頼と集落ガバナンス:CSRを超えて
Ⅵ 本稿のまとめと今後の展望:農業×AI×実験×会計の融合
Ⅰ 問 題 意 識
本稿は,人類にとって最も重要でかつプリミティブな産業といえる農業を具体的題材 として,記録・計算・開示といった会計の原初形態(prototype of
accounting)のあり方
1 のうち,特に記録と開示の意味について検討することを目的とするものである。本研究で農業を取り上げる理由(および,本研究の根源的なモチベーション)は,大 きく
2
つある。第1
は,会計の原初形態へ接近する大きなヒントとなる可能性が高いか らである。すなわち,会計の基礎は,記録・計算・開示にあると考えられるが(田口2019 c, 2019 d),これらの会計の本質により深くアプローチするためには,具体的産業
を想定したうえで検討することが重要となるかもしれない。そして,ここで具体的産業 として何を取り上げるかが問題となるが,特に農業は,人類にとって最もプリミティブ かつ重要な産業のひとつであるという意味で検討に値するし,かつそれを巡る会計研究 は,農業の特殊性など後述する理由から,いわゆる企業会計とは離れたところでなされ ていた感があ2
るため,逆に会計の原初形態を考えるうえで鍵を握る対象になりうるかも しれないからであ
3
る。
────────────
1 会計の原初形態を巡る議論については,田口(2019 c)のほか,友岡(2012, 2018 a, 2018 b, 2018 c)も 併せて参照。
2 特に日本における農業会計研究は,農業の特殊性,および,その(農業簿記という)計算システムの特 殊性もあいまって,これまで企業会計研究から少し距離をおいてなされてきているようである。この点 については,農業会計における先駆的研究といえる阿部(1972, 1986, 1990)のほか,貝原(1970),藤 谷(1995),古 塚・源 田(2008),小 田・珍 田(2011),家 串(2015),戸 田 編(2014),戸 田(2017, 2018 a, 2018 b)などを参照されたい。他方,海外における農業会計については,たとえば,Poppe
(1991)など会計情報の有用性に関する先駆的な実証研究を参照。
3 その意味で,本稿は,筆者が田口(2019 c)を皮切りに想定している一連の「会計の原初形態」を探求 するプロジェクトの重要な端緒のひとつとして位置づけられる。
(673)1
第
2
は,会計の社会性へ接近する大きなヒントとなる可能性が高いからである。会計 は,社会規範として自生的に生成される(広い意味での)ルール,およびルールの集合 体であり,本質的に社会性を帯びたものであるといえ4
る。そして,他方で,農業につい ても,現在,大きな時代の変化の中で,フードシステムの概念など,食生活を起点に川 下から川上を捉える観点が求められてい
5
るし,かつ,農業自体を環境・資源の視点から 見つめ直す社会的な要請も存在する
6, 7
など,いままさに社会性を大きく問われている状況 にあるため,農業の社会性を考える中で,会計の社会性を顧みる何らかのヒントが得ら れるかもしれないからである。
このように,農業という具体的産業を想定することで,翻って会計の本質(会計の意 義やその社会性)に迫りたいというのが,本研究が有する大きな野心であるといえる。
さらに,本研究で鍵として考えたいのは実験研究である。すなわち,方法論につい て,近年,社会科学研究全体において,実験的手法の重要性が高まっている(西條・清
水編
2014)。特に,開発経済学や環境経済学の領域においては,その傾向が強まってき
ている(Banerjee and Duflo 2011,栗山
2018,三谷 2018
等)。実験研究は,他の方法論 と比較して,原因と結果の関係を厳密な統制条件のもと捉えることができることから内 的妥当性が高く,かつ事前検証性(現実にはまだない制度や仕組みを実験室やフィール ド内に創出し,そのもとでの人間行動に係るデータを採取することができること)を有 するため,経済学のみならず,政治学や経営学など社会科学研究において注目が集まっ ている手法といえる。会計学においても,特にアーカイバルデータの入手が難しい管理 会計や監査論の領域を中心に,国内外でその重要性が大きく高まっている。さらには実 験室でおこなうラボ実験だけでなく,フィールド実験なども会計研究に徐々に取り入れ られてお8
り,実験を用いた会計研究は,将来有望な手法のひとつといわれてい
9
る。
────────────
4 ここでは,このような社会性(ないし社会規範性)を,会計がそ!も!そ!も!本質的に有しているという点が 極めて重要なポイントである。この点については,たとえばSunder(2016 a, 2016 b)や斎藤(2019)
などを併せて参照。
5 この点については,たとえば日本学術会議(2019)p.4や新山(2014)を参照。
6 この点について,たとえば日本学術会議(2019)は,「OECDがリードして重視されるようになった農 業の多面的機能も,そのかなりの部分は広義の環境・資源の視点から説明できる。農業の持つ水源涵養 機能,洪水防止機能,自然環境保全機能,良好な景観形成機能等,いずれも資源・環境の視点から農業 のあり方を見直すことにつながる。なお,農業が持つ環境への負のインパクトも重要である。農薬の生 態系への拡散や硝酸態窒素による地下水汚染等がある。」(p.6.但し下線は田口)と述べている。また,
出村(2008)は,農業は自然の循環機能を活かした産業であることから,農業と環境の関係(農業は生 態系に対して良い自然循環機能を発揮する一方で,農薬投入等による自然環境に対する環境汚染・負荷 を与えるものであること)を検討し,持続性を志向することが重要であることを指摘している。
7 こ れ に 関 連 し て,た と え ば,現 在,農 林 水 産 省 も,国 連 の 掲 げ るSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)を意識した食品産業のあり方を問う取り組み(「SDGs×食品産業」)を推 進している。
8 会計やファイナンス研究を巡る近年のフィールド実験の動向については,たとえば,Floyd and List
(2016)などを参照。
9 会計研究における実験研究の将来性については,Bloomfield, Nelson and Soltes(2016)のほか, ↗ 2(674) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
他方,農業会計における実験研究は,(国内のみならず海外の動向を見ても)まだほ とんどない状況であるが,前述の会計学全体における実験的手法の重要性の高まりや,
農業というビジネスモデルにおける人間の重要性を鑑みるに,今後,人間心理や人間行 動を捉える実験的手法は,農業会計においても重要な鍵を握る手法となるかもしれな い。よって,本稿では,農業会計の本質を捉えるため
10
に,今後どのような実験研究が想 定しうるかについても考えてみたい。
上記のような視点から,本稿では,以下のような構成で議論をすすめる。まずⅡで は,農業における記録の意義を巡る先行研究のサーベイをおこなう。ⅢとⅣでは,組織 規模・ガバナンス形態の相違と,記録の有用性・必然性との関連性について検討する。
特にここでは,農業会計の特殊性を,企業会計との対比で明らかにする。続くⅤでは,
主に開示について,実験研究からヒントを得ることで,農業会計の「ひとつの体系とし てのあり方」というものを考えることにする。最後にⅥで本稿のまとめと今後の展望を 明らかにする。
Ⅱ 農業の「特殊性」と農業における会計記録の意義を巡る先行研究
本節では,農業における記録の意義を巡る先行研究をサーベイすることにする。な お,ここでは,あくまで代表的論点に焦点を当てるため,先行研究全てを網羅すること をそもそも企図するものではない点には,くれぐれも留意されたい。
そもそもまず,会計の記録・計算・開示を巡って,農業会計の分野でどのような論点 が議論されてきたかについて整理すると,図表
1
のようになる。まず第
1
は,「記録」に関連して,農業における会計記録の意義を巡る研究である────────────
↘ Bonner(2008)や田口(2012, 2015, 2019 d)を参照。また特に,管理会計研究については田口(2013)
を,監査研究については田口・上條(2012)や田口(2016)を,それぞれ併せて参照されたい。
10 その意味で,本稿のもうひとつの大きな主題は,農業会計な!ら!で!は!の本質はなにかということに,企業 会計の本質との比較からアプローチすることにある。
図表1 先行研究の全体像:記録・計算・開示の視点から
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (675)3
(図表
1
左側)。第2
は,「計算」に関連して,公正価値適用(IAS第41
号)を巡る研11
究 である(図表
1
中央)。第3
は,「開示」に関連して,農業の社会的責任とCSR
会計を 巡る研究である(図表1
右側)。本稿では,特に,第1
の記録と第3
の開示に関連する 部分を掘り下げていくことにする。ここで具体的な議論に入る前に,あとの議論の前提として,農業会計の背景について 述べることにする。多くの先行研究によれば,農業そのものの「特殊
12
性」に起因して,
農業会計は,一般の企業会計とは異なる部分が多いとされてきた(阿部
1972, 1986, 1990,貝原 1970,藤谷 1995,古塚・源田 2008,小田・珍田 2011,家串 2015,戸田編 2014,戸田 2017, 2018 a, 2018 b
など)。たとえば,長命等(2015,第1
章)によれば,農業の「特殊性」としては,①技術的特質(植物体の生命現象を利用した生産をおこな うものであり,かつ,天候など自然条件に大きく左右されるものであるこ
13
と),②商品 的特質(農産物の多くは腐りやすく潰れやすいなど,品質保持に制約があること),③ 主体的特質(生産が,一般的に家族労働力に依存した家族農業経営に担われてきたこ
14
と)の
3
つが挙げられるという(pp.7-158)。
────────────
11 会計における公正価値評価の論争は,通常,金融商品に関するものが多いが,生物学的資産の公正価値 評価を規定するIAS第41号は,その農業セクター・バージョンといえる。金融商品を巡る公正価値評 価の問題については,たとえば,Barth(1994),石川(2000),笠井(2000),田口(2005)などを,ま た公正価値会計全体に係る論争については,Barth(2007),Nissim and Penman(2008),Botosan and
Huffman(2015)などを,それぞれ参照。なお,IAS第41号の基準の詳細については,多くの先行研
究 が あ る。た と え ば 日 本 の 文 献 と し て,永 利・古 塚(2006),林 田(2006),吉 田(2008),井 上
(2011),浮 田(2012),川 原(2013),姚(2013),岡 田(2013),玉 川(2015),戸 田(2018 b),松 本
(2018)などが挙げられる。さらに,海外における実証研究や国際会計基準の適用に係る研究として,
Elad(2004, 2007), Herbohn and Herbohn(2006), Lefter and Roman(2007), Argilés, Blandón, and Monllau
(2011), Argilés, Aliberch, and Blandón(2012), Fischer and Marsh(2013), Silva, Rezende, and Braunbeck
(2016), Daly and Skaife(2016), Gonçalves, Lopes and Craig(2017), Argilés, Miarons, García-Blandón., Be- navente, and Ravenda(2018), He, Wright and Evans(2018), Huffman(2018)が挙げられる。
また,農業会計における「原価vs. 公正価値」の問題は,企業規模(会計主体)の問題などとも関連 する。この点については,小田・珍田(2011)を参照。また,資産の評価は収益の認識基準とも表裏一 体の関係にあるが,農業会計における生産基準の位置付けとして,珍田(2008)も併せて参照。
12 あえて「 」(カギカッコ)を付しているのは,筆者が,先行研究で挙げられている農業の「特殊性」の すべてが(会計の特質を考えるうえで)本当に他の産業と比較して特殊といえるのか検討の余地がある と考えているからである。すなわち,先行研究で挙げられている「特殊性」について,一部は農業固有 のものとして会計で考慮すべき点であるものの,しかし,ある部分は農業だけでなく,他の産業にも関 連するものである(特殊なものとして会計で考慮する必要のある部分とまではいえない)と考えられ る。この点は大事な点であるので後述する。
13 たとえば貝原(1970)は,「農業会計は,会計を農業によって特徴づけているものであり,この種差は,
実は有機的生産といわれているものである。農業は,その本質的生産行程が,生物の生長(個体の肥 大)や繁殖(個体の分裂)を利用する。したがって,資産ないし,具体的資本といわれるものに生物体 が入ることもあるし,さらに,それを対象とした作業も,きわめて特徴的なものとなる。」(p.8.。但し,
下線は田口)と述べている。
14 この点をさらに深堀りしたうえで,小田(2014)は,農業のガバナンス形態が,場合によっては,「フ ァミリーガバナンス」や「集落ガバナンス」の影響を受けやすいと述べている。特にこの「集落ガバナ ンス」は重要なポイントとなるため,後で改めて触れることにする。
15 このような性質を踏まえて,阿部(1986)は,「企業会計原則」から独立した「農業会計原則」の確立 の必要性を示唆している。
4(676) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
そして,それらの「特殊性」を背景に,たとえば小田(2014)によれば,農業会計 は,以下のような
3
つの「特殊性」を有するという(p.25)。すなわち,①イン プ ッ16
ト・アウトプットの人為的コントロール不可能性(農業は,生命現象を利用した生産で あるため,工業生産のようにインプットとアウトプットとの関係を人為的にコントロー ルすることが基本的に困難であること),②収益・費用対応の困難性(天候リスク・在 庫リスクに起因する収益変動リスクがあるため,期間費用・収益の対応を因果関係に基 づいて理解することが難しいこと),③生産期間の長期性による期間帰属の困難性(農 業生産は,多くの場合長時間を有し,会計期間に収まらない場合が発生するため,収 益・費用の期間帰属の決定に関する合理的な理由付けが概して困難であること)であ る。このような点において,農業会計は通常の会計における基本的職能を果たすことが 本来的に難しいとされる(小田
2014, p.25)。なお,これらの(農業および農業会計の)
「特殊性」については,議論の余地があると考えられるが,(これらの検討については,
後の節でさらに深堀りすることにして)差し当たり,以上を念頭に置きつつ,以下議論 を進める。
図表
2
は,農業における会計記録の意義を巡る主な先行研究の大17
枠を示している。
図表2 会計記録の意義や有用性に係る先行研究
No 論文 手法 内容と結果
1 Garcia, Sonka, and Mazzacco
(1983)
サーベイ 米国イリノイ州の200エーカー以上の農場を有する農業事業者に対するサーベイ調査
(1979年,N=288)→①農家が財務諸表を作成する可能性は,それらの財務諸表に含 まれる情報の予想コストと便益に影響する要因に関連(ex. 規模大&借入資本大→財 務諸表を作成),②B/Sは自らの事業の成長を分析するために有用であり,予測Cash flow計算書は購買,マーケティングおよびタックス・プランニングの意思決定に有用
2 Streeter(1992) インタビュー 米国オハイオ・イリノイ・インディアナ州の200-1500エーカーの農場を有する5つ
の農業事業者に対するインタビュー調査→成功している農家は,管理会計情報システ ム(MISs)を有し,またそれを使用することで意思決定を改善できている(時間の 節約,効率の向上を実現)
3 Argilés(2001) アーカイバル 実証
1989-1991年のFADEN(Farm Accountancy Data Network)データを利用し,会計情報 の使用が,スペインの農家の非存続性(倒産可能性)を有意に予測できるかを検証→
会計ベースの変数を含まないモデルと,会計ベースの変数を含むモデルとを用いて分 析した結果,会計ベースの変数が,農家の非存続性を予測するために重要な情報を統 計的に有意に付加しうる
4 Argilés and Slof
(2001)
サーベイ&イ ンタビュー
スペインのFADEN加盟の農業事業者に対するサーベイ調査(N=137)とインタビ ュー調査→FADEN加入を契機に会計記録をつけ,それを経営管理目的で利用できて いることが判明
5 Argilés and Slof
(2003)
アーカイバル 実証
スペインのFADEN(Farm Accountancy Data Network)データを利用し,農家の会計 記録の利用と財務実績との関係を検証(N=170)→経営意思決定目的に会計記録を 使用する農家の財務実績は,会計記録を使用しない農家よりも有意に良好である(会 計記録の経営管理上の有用性)
────────────
16 ここでもあえて「」(カギカッコ)を付しているのは,筆者が,先行研究で挙げられている「特殊性」
のすべてが本当に特殊性として論じることができるものなのか検討の余地があると考えているからであ る。この点も,脚注12と同様,大事な点であるので後述する。
17 なお,本研究の最終的な関心事は実験研究のあり方を考察することにあることから,以下のサーベイで は特に実証分析に焦点を当てることにしたい。
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (677)5
6 大室・新沼・井 形(2008)
ケース 網走市の営農集団における会計システムの発展過程のなかで,どのような会計システ ムが採用され,またそれらがどのような機能を有していたのかについて検討→①生産 組織の会計システムは構成員に対する説明責任を果たす機能を有し,それを充足する 構造となっていること,②意思決定に必要な物的情報を提供するシステムが組み込ま れていること,③農協等の外部主体がシステムの構築・発展に寄与していることが判 明
7 飛田・岸保
(2012)
ケース 農事組合法人化以降の会計管理の効果についてケースを用いて検討→①農業法人全体 の資産状況の把握,特に農業機械等の固定資産管理に会計情報が有用であること,② 複式簿記による処理を行うことで,誤りのない情報を作成することができるようにな ったこと,③法人内部における成果・資金の分配(賃金,次期投資等)に関する合意 形成が可能になったことを示唆
8 戸田編(2014) ケース&イン タビュー
日本の農業者を規模や組織形態により5つのレベル(モデル1:小規模兼業農家,モ
デル2:自立志向を有する農家,モデル3:農業法人,モデル4 : 6次産業体・農商工
連携事業体,モデル5:農業関連上場企業)に分類し,インタビューをもとに簿記の 役割を考察→簿記へのニーズや有用性は組織規模によって異なることを示唆 9 戸田(2017) インタビュー 日本においてこれまで展開されてきた農業簿記が,なぜ農業経営の発展や競争力強化
に資することができなかったのかをインタビューをもとに考察→日本の農業簿記の背 景には,通常の簿記とは異なる3つの背景(「税務」「統計調査」「農協」)が存在し,
通常の複式簿記が前提とする(原価を把握し正確な損益計算をおこなうことで経営管 理に資するという)「記録」の役割を十分に果たすことができなかったことを示唆
10 田邉・桂
(2018)
サーベイ&イ ンタビュー
農業経営者の会計的意識と経営との関係を,サーベイ調査(N=106)とインタビュ ーにより検証→①農業経営者の年齢が高ければ,会計的意識は高くなること,②「資 本金」が大きい法人の経営者は,会計的意識が高いことを示唆
図表
2
に示されるとおり,会計記録の意義や有用性については,すでに1980
年代か ら実証研究の蓄積があり,様々な議論がなされてきていることが理解できるが,ここ で,ポイントは大きく3
つある。第
1
は,農業経営体自体にとっての有用性である。たとえば,Streeter(1992)(図表18
2, No.2)や,Argilés and Slof(2001, 2003)(図表 2, No.4, 5)は,会計記録をつけたり,
管理会計情報システム(MISs)を利用することにより,農業経営体は,時間の節約,
効率の向上など意思決定を改善することができることを実証的に明らかにしている。す なわち,会計記録をつけないよりも,会計記録をつけたほうが,マネジメント・コント ロールをより高いレベルでおこなうことができるということがこれまでの研究で明らか にされている。なお,これらの研究における「会計記録」は必ずしも複式簿記記録を前 提 と し た も の と は い え な
いが,他 方,Garcia, Sonka, and Mazzacco(1983)(図 表19
2,
No.1)は,複式簿記を前提とした会計情報である貸借対照表が自らの事業の成長を分析
するために有用であることをサーベイ調査をもとに明らかにしている。また,飛田・岸────────────
18 農業を営む主体の定義ないし呼称は色々ある。たとえば日本の農林水産省が発行する『農林業センサ ス』によれば,農業を営む主体として,「農業経営体」と「農家」(もしくは「土地持ち非農家」)とを 規模等により峻別している(たとえば,「農業経営体」は,①経営耕地面積が一定規模(30 a)以上,
②作付面積が一定の外形基準以上(露地野菜作付面積15 a以上など),③農作業の受託事業のいずれか に該当する事業をおこなっている経営体をいう)。しかし,本稿では,特にこの点について厳密に峻別 することなく,農業を営む主体を広く「農業経営体」と呼ぶことにする。
19 農業会計における財務会計と管理会計の関係については,貝塚(1970)のほか,大室・新沼(2006)な ども参照。
6(678) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
保(2012)(図表
2, No.7)は,複式簿記を前提としたうえで,農業法人全体の資産状況
の把握,特に農業機械等の固定資産管20
理に会計情報が有用であることをケーススタディ により明らかにしている。このように,農業経営体自体にとって,(複式簿記を必ずし も前提とはしない)管理会計情報だけでなく,複式簿記を前提とした財務会計情報も含 めた意味での会計記録が有用であるということが,これまでの研究から明らかにされて いるといえる。
第
2
は,外部利用者にとっての有用性である。たとえば,農業経営体の持続可能性(倒産予想)は,外部利害関係者(たとえば金融機関など債権者)にとって非常に重要 といえるが,この点について,たとえば
Argilés(2001)(図 表 2, No.3)は,FADEN
(Farm Accountancy Data Network)とよばれる欧州の農業経営体に係る会計情報のデー タベースを用いて,会計情報の使用がスペインの農業経営体の非存続性(倒産可能性)
を有意に予測できるかについて,会計ベースの変数を含まないモデルと,会計ベースの 変数を含むモデルとを比較することで実証的に分析している。そしてその結果,会計ベ ースの変数が,農業経営体の非存続性を予測するために重要な情報を統計的に有意に付 加しうることを明らかにしている。
第
3
は,上記の有用性とは少し異なる視点として,会計記録が利害関係者をめぐる何 らかの調整を果たす点である。たとえば,大室・新沼・井形(2008)(図表2, No.6)
は,網走市の営農集団を捉えたケーススタディにより,生産組織の会計システムは構成 員に対する説明責任を果たす機能を有し,それを充足する構造となっていることを示し ている。また,飛田・岸保(2012)(図表
2, No.7)は,会計記録によって,農事組合法
人内部における成果・資金の分配(賃金,次期投資等)に関する合意形成が可能になっ たことをケーススタディで明らかにしている。以上のように,会計記録を巡る先行研究によれば,大きく
3
つの論点(農業経営体自 体にとっての有用性,外部者にとっての有用性,調整)が存在することがわかる。次節 では,これらの論点を,特に,組織規模・ガバナンス形態の複雑性の観点から深堀りし てみる。Ⅲ 組織規模の相違と会計記録の有用性:
農業会計と企業会計の比較で考える(1)
Ⅲ-1 記録に対するインセンティブを巡って
本節と次節では,先行研究のサーベイから得られた知見を,組織規模・ガバナンス形 態の相違の観点から深堀りすることで,農業会計と企業会計との関係性を明らかにする
────────────
20 固定資産の計上は,発生主義をベースとした複式簿記の特質ともいえる(友岡2018 a, 2018 b, 2018 c)。
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (679)7
こととしたい。
ここでまず注目したいのは,農業経営体の記録に対するインセンティブ,つまり,会 計の記録をおこなうようになる「決定要因」である。これは,Ⅱで示した
3
つの特徴の うち第1・2
の「有用性」の裏返しと考えることができるが,たとえば,Garcia et al.(1983)(図表
2, No.1)は,農業経営体が財務諸表を作成する可能性は,財務諸表に含
まれる情報の予想コストと便益に影響する要因に関連することを明らかにしている。具 体的には,組織規模が大きくなり,借入資本が大きくなると,農業経営体は財務諸表を 作成するようになることを,サーベイ調査により明らかにしている。また,日本の場合 について,戸田編(2014)(図表2, No.8)は,日本の農業者を規模や組織形態により 5
つのレベル(モデル1:小規模兼業農家,モデル 2:自立志向を有する農家,モデル
3:農業法人,モデル 4 : 6
次産業体・農商工連携事業体,モデル5:農業関連上場企
業)に分類し,インタビューをもとに簿記の役
21
割を考察し,そのニーズが組織規模によ って異なることを明らかにしてい
22
る。
これらの知見からすると,Ⅱで述べたとおり,会計記録をつけないよりもつけたほう が有用ではあるものの,コスト・ベネフィットの関係を踏まえると,単純に「どんなと きでも,どんな農業経営体でも,会計記録をつけるインセンティブはある(会計記録を つけたほうがよい)」と!は!い!え!な!い!ことがわかる。すなわち,事業者の規模が小さい
(もしくは,組織や事業の複雑性が低い)場合には,(記録コストを上回るほどのベネフ ィットが期待できないため,ネットの意味での)記録の有用性は小さく,他方,規模が 大きい(もしくは組織や事業の複雑性が高い)場合には,(記録コストを上回るベネフ ィットが期待できるため,ネットの意味での)記録の有用性はより高くなるという関係 があることが理解できる。このことをイメージ的に図示すると,図表
3
のようになる。図表
3
のPanel A
は,記録をつけることによるベネフィットとコストを峻別し示しており,他方,Panel Bは,両者を相殺した差分の意味での(net の)有用性を示してい る。いずれも,点
A
より左の領域,つまり事業規模・複雑性がそれほど大きくない(高くない)状況では,コストのほうがベネフィットを上回るため,農業事業体にとっ て,会計記録をつける(差分としての)インセンティブはないといえる。そして,A
────────────
21 ここでは,複式簿記が,管理会計的な役割と財務会計的な役割との2つを有しているという点が重要と なる。この点については,友岡(2012, p.31)や友岡(2018 a, p.199)などを併せて参照。
22 また,決定要因の議論に関連して,(戸田編2014の「続編」ともいえる)戸田(2017)(図表2, No.9)
によれば,日本の農業簿記の背景には,通常の簿記とは異なる3つの背景(「税務目的」「統計調査目 的」「農協との関係性の記録」)が存在していたため,通常の複式簿記が有する(経営管理に資するとい う)有用性を十分に果たすことができなかったという。ここで,多くの先行研究では,農業経営体は比 較的小規模であることが多いとされるが,このことを踏まえると,複式簿記が有用性を十分に果たすこ とが出来なかったというよりはむしろ,小規模であるがゆえに会計記録の有用性(便益)が記録のコス トを上回るほどではなく,その結果,会計記録が(納税や統計調査,農協との取引以外の場面で)重視 されてこなかったものと考えることができる。
8(680) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
より右側の領域になってはじめて,農業経営体にとって会計記録をつける(差分として の)インセンティブが存在することになる。そして,これまでの農業経営・会計に係る 先行研究によれば,特に日本における農業経営体の事業規模・複雑性は実に多様である ことが明らかにされているため(つまり,点
A
より左側の状況にある事業者も,他方,点
A
より右側の事業者も,どちらも存在する(し,むしろ点A
より左側の事業者が多 い)ため),農業簿記ないし農業会計は,記!録!を!つ!け!る!イ!ン!セ!ン!テ!ィ!ブ!が!な!い!主!体!ま!で! も!含!め!て!ど!の!よ!う!に!取!り!扱!う!か!を!議!論!し!な!け!れ!ば!な!ら!な!い!と!い!う!意!味!で!,特殊であると されてきたものと考えられる(図表3 Panel B「農業会計の対象領域」)。
ただし,素朴に考えると,(取り扱う対象の広さについては確かに特殊といえるかも しれないが,しかし)図表
3
のような規模と記録の関係自体は,必ずしも(農業や)農 業会計の特!殊!性!と!は!い!え!な!い!かもしれない。すなわち,一般のビジネス(ないしビジネ ス組織)を前提としたとしても,同じような関係性は成立しうるように思われる。この 点に関連した実証研究として,たとえば,Davila and Foster(2005)は,78の米国スタ ートアップ企業のサンプルを用いて,管理会計システムのうち,営業予算の採用に関す る決定要因を分析し,その結果,組織規模(従業員数),ベンチャーキャピタルの存在,経営システムに関する
CEO
の信念が,その採用を有意に後押しすることを明らかにし ている。また,Cassar(2009)は,米国の起業家へのサーベイ調査から得られたデータ────────────
23 ここでは,ごくシンプルに右肩上がりの直線として表現したが,厳密には,以下の点を考慮する必要が ある。すなわち,厳密には,①(Panel A, Bに共通して)線形関係ではなく,非線形関係かもしれない こと(右肩上がりの直線ではなく,何らかの曲線となるかもしれないこと),②(Panel Aについて)
記録のbenefitとしても,管理会計に係る内部利用のものか,財務会計に係る外部利用のものかで,2
本の線を描く必要があるかもしれないこと(その場合,両者の傾きや形状は異なるかもしれないこと)
にはくれぐれも留意されたい。
図表3 事業規模・複雑性と会計記録の有用性:イメージ
23
図
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (681)9
により,起業プロセスにおける財務諸表作成の決定要因を分析し,外部資金の利用,競 争のレベル,組織規模が,財務諸表作成の決定を有意に後押しすることを明らかにして いる。Waymire(2009)は,これらの実証研究を踏まえて,会計記録に対する根源的な 需要は,より収益性の高い取引へと導く役立ち(exchange guidance)にあると述べてお り,「組織規模の拡大→会計記録の採用(効果的な利用)→ビジネスの成長→組織規模 の拡大→・・・」というフィードバック・ループにおける会計記録の有用性を指摘して いる。さらに,Allee and Yohn(2009)は,SEC規制の対象となっていない米国非公開 企業(スタートアップだけに限定しない非公開企業全体)の財務報告慣行をアーカイバ ルデータを用いて分析し,その結果,財務諸表作成の決定には,組織規模(従業員数,
総資産額),負債比率,オーナー数などの要因が有意に関連していることを明らかにし ている。これらの研究からすると,事業規模・複雑性と会計記録の有!用!性!との関係性 は,農業に限らず,一般のビジネス(ないしビジネス組織)においてもみられるもので あるといえ
24
る。
Ⅲ-2 実験で考える記録の意味
このことをさらに,経済の複雑性と記録の重要性にまで拡張して議論する実験研究と して,Basu, Dickhaut, Hecht, Towry, and Waymire(2009)がある。Basu et al.(2009)
は,経済社会における記録の有用性について,信頼ゲーム(trust
game)を拡張し,「記
25 録あり条件」(取引をしながら,コンピュータ上にその記録を残し参照することができ る条件)と「記録なし条件」(それができない条件)という2
つの比較検討をおこなう ことで実験的に検証している(図表4)。
────────────
24 このほか,中小企業における管理会計の現状に係る研究を網羅的にサーベイしたものとしてLópez and Hiebl(2015)を,中小企業の企業会計研究の多様性を示唆したものとして佐藤(2019)を,それぞれ 参照されたい。さらに,農業に特化したうえでの管理会計研究として,メタ分析をおこなっているもの
としてNdemewah, Menges, and Hiebl(2019)を,ABCの適用可能性を論じたケーススタディとして
Lu, Sridharan., and Tse(2016)や武井(2011)を,標準原価計算や製品別原価計算について保田(2017 a, 2017 b)を,林業の管理会計について梶原(2014)を,それぞれ参照されたい。
25 信頼ゲームとは,投資家(送り手)と経営者(受け手)との資金の投資・運用・分配を簡略化したゲー ムであり,送り手の投資額は信頼性の指標として,また受け手の送り返す分配額は互恵性の指標とし て,それぞれ捉えることができる。
図表4 Basu et al.(2009)における記録オプション付き信頼ゲーム実験の構造
10(682) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
そして経済実験の結果,「記録あり条件」のほうが,相手への信頼度や互恵性,そし て経済全体としての生産性も向上するということが明らかにされてい
26
る。これは,「記 録が(人間の)記憶を補完すること」の有用性を示している。すなわち,経済が複雑に なればなるほど,次の意思決定にあたり,相手の評判や,自分の過去の行動に関する情 報が重要となるが,そのような情報の保持を脳の記憶だけに頼ることは不可能である。
そこで必要となるのが記録である。すなわち,「記録あり条件」では,取引に関する記 録を随時行うことで,過去を踏まえた行動決定が可能となるため,より効率的な意思決 定をなすことができるし,また同時に,人々は評判を気にしながら行動するようになる ため,必然的に相手を裏切るような行動は控えられることとなる。つまり,記録がある ほうが,信頼性や互恵性のより高い社会環境が成就され,結果として経済全体も発展し ていくということが,この実験結果から示唆されるところであり,ここにも「記録→経 済の発展→記録→経済の発展→・・・」というフィードバック・ループにおける記録の 有用性がみてとれる。もっとも,Basu et al.(2009)は,農業経営体のみを前提とした 実験研究ではないが,農業を考えるうえでももちろん参考になる研究といえる。このよ うに,ひとつの事業,ひとつの産業にとどまらず,経済全体レヴェルでみても,規模拡 大・複雑化と記録の有用性の関係を捉えることができるというのが,Basu et al.(2009)
の重要なポイントである。
Ⅳ ガバナンス形態の相違と会計記録の必然性:
農業会計と企業会計の比較で考える(2)
本節では,前節での考察を承けて,単!な!る!有!用!性!と!は!異!な!る!別!の!意!味!で!の!会計記録の 意義ないし社会的な必然性(社会的要請)を考えてみた
27
い。すなわち,ここでさらに注 目しておきたいのは,先に取り上げた
Davila and Foster(2005)においてはベンチャー
キャピタルの存在が,他方,Allee and Yohn(2009)においては負債比率やオーナー数 が,それぞれ重要な要因として挙げられていることである。これらに着目すると,単に 組織規模だけでなく,資金調達源泉の多様性,ひいてはガバナンス体制の複雑性も会計 記録の採用と密接に関連していることがわかる。そしてこれはおそらく,先のⅡで述べ た第3
の「会計記録が利害関係者をめぐる何らかの調整を果たす」点と関連しているこ とが予想される。つまり,単に「事業者にとって,もしくは外部者にとって,情!報!の!有! 用!性!が存在する」ということ以!外!の!意義がみてとれる。よって,本節では,このことを────────────
26 Basu et al.(2009)については,Dickhaut(2009),田口(2015)第5章,田口(2019 d)第3章におけ る解説も併せて参照。
27 有用性とは異なる次元で会計を考えることの重要性については,田口(2019 a, 2019 c)を参照。
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (683)11
深堀りしてみたい。そして,そのヒントとして,(いったん農業会計を離れて)友岡
(2012)の整理を確認することにする。
友岡(2012)は,企業の規模に注目して,会計というものを複数の者を前提とした情 報提供と捉える場合には,図表
5
のような順序で登場することになると整理している。図表5 企業の規模と簿記・会計の登
28
場
企業の規模 簿記・会計の登場
①ごく小規模な企業の段階 経営者が自分で自分の財産を管理するために自分でやる簿記
②ある程度の規模の企業の段階 経営者が自分で自分の財産を管理するために従業員にやらせる管理会計
③資本と経営が分離した企業 経営者が他人の財産管理を受託するためにやる財務会計
図表
5
に示されるとおり,企業の規模が「①ごく小規模な企業の段階」から「③資本 と経営が分離した企業」に移行するにつれて,簿記・会計も「経営者が自分で自分の財 産を管理するために自分でやる簿記」の登場から,それに付加されるかたちで,管理会 計ひいては「経営者が他人の財産管理を受託するためにやる財務会計」の登場まで至る ことになる。これに関連して,さらに友岡(2012)は,資金調達源泉の変化に注目して,組織にお ける資本の状況やおこなわれる会計との関係を,図表
6
のように整理している。図表6 資本の状況とおこなわれる会計との関
29
係
資本の状況 会計の目的 おこなわれる会計
自己資本だけ 資本の運用 管理会計
他人資本の生成 資本の運用
他人資本の調達
管理会計
債権者相手の財務会計 資本(自己資本)と経営の分離 資本の運用
他人資本の調達 自己資本の調達
管理会計
債権者相手の財務会計 株主相手の財務会計
図表
6
に示されるとおり,資本の状況が「自己資本だけ→他人資本の生成→資本と経 営の分離」と推移していくにつれて,おこなわれる会計も「管理会計→管理会計+債権 者相手の財務会計→管理会計+債権者相手の財務会計+株主相手の財務会計」と推移し ていくことになる。これらの図表
5
および図表6
のような整理からすると,組織の規模やそれに伴うガバ────────────
28 友岡(2012)p.91より田口引用。
29 友岡(2012)p.31より田口引用。
12(684) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
ナンス形態(資本構
30
成)が変化していくにつれて,用いられる会計のあり方も変化して いくことが理解できるが,ここでさらに,会計記録の中でも,特に複式簿記が用いられ るようになる社!会!的!な!要!請!な!い!し!必!然!性!は,どのタイミングから生じるのかということ を,踏み込んで考えてみ
31
る。すなわち,これまでは特に会計記録という場合に,「複式 簿記による記録」かどうかということは,あまり意識してこなかったが,複式簿記の大 きな特徴は,二面性により利益計算をおこなうことであるから(笠井
2000,田口 2019 c),この必然性が生じるのは一体どこからなのかを考えてみたい。
このことを考えるヒントとして,井尻(1976)の会計責任の議論を取り上げてみる。32 井尻(1976)は,複式簿記による二面的な利益計算をおこなう社会的要請ないし必然性 について,①自己資金だけでなく,他人の資金を預かり事業をする場合に,すべての取 引について釈明する契約上の義務(会計責任,つまり,二面的な複式簿記により利益を 記録から導出する責任)を負うことになること,また,②すべての取引について記録を つけるのは,有用性だけでなく,出資者のためにそれが期待されるからであることを指 摘している。
これらの議論からすると,複式簿記による利益計算が社会的に必然的なものとして要 請されるのは,他人の資金を預かる段階(他人資本の受け入れのタイミング)からであ ると考えられる。これを図示すると図表
7 Panel A,そしてこのことを先の図表 3 Panel B
に取り込むと,図表7 Panel B
のようになる。図表
7 Panel B
に示されるとおり,事業規模・ガバナンス形態に係る領域は,会計記録の有用性・複式簿記の必然性との関係性で次の
3
つに区分できる。第1
は,「有用性 マイナス,必然性なし」の領域である(図表7 Panel B「領域 1」)。これは,点 A(ネ
ットの有用性がマイナスからプラスになる境界点)の左側の領域であり,ここでは,会 計記録を使うインセンティブがなく(コストに見合わない),かつ,複式簿記を使う必 然性もないことから,農業経営体としては,「会計記録を用いず経営をおこなう」こと が最適行動となる。第
2
は,「有用性プラス,必然性なし」の領域である(図表7 Panel B「領域 2」)。こ
れは,点
A
と点B(他人資本を受け入れるか否かの境界点)の間の領域であり,ここ
────────────
30 「資本構成」と「ガバナンス形態」とは,厳密にいうと異なるものであるが,以下では,これらを広く
「ガバナンス形態」と呼ぶことにする。
31 なお,図表5・6では,(友岡(2012)に従い)複式簿記は管理会計でも用いられうるという視点(つま り,複式簿記は管理会計にも役立つという視点)からの整理がなされている。すなわち,「財務会計=
複式簿記,管理会計=非複式簿記」という位置づけではな!く!,「財務会計=複式簿記,管理会計=複式 簿記or非複式簿記」(管理会計でも複式簿記情報が用いられる余地がある)というスタンスを前提にし ている点には留意されたい。
32 井尻(1976)のいう会計責任については,AI時代の利益の「危機」をどう考えるかを検討している田 口(2019 c)も併せて参照。
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (685)13
では,何らかの会計記録(但し,複式簿記であってもなくてもよい)を使うと有用だ が,複式簿記を使う必然性はないことから,農業経営体としては,「会計記録を用いた 経営をおこなう」ことが最適(しかし,それが複式簿記かどうかは無差別)となる。そ して最後の第
3
は,「有用性プラス,必然性あり」の領域である(図表7 Panel B「領域
3」)。これは,点 B
の右側の領域であり,ここでは,何らかの会計記録(複式簿記であってもなくてもよい)を使うと有用だし,かつ複式簿記を使う必然性(社会的要請)が あることから,農業経営体としては,「会計記録(複式簿記)を用いた経営をおこなう」
ことが最適となる。
上記を踏まえて,農業会計と企業会計との相違を確かめるために,図表
7 Panel B
に,さらに,ガバナンス形態として「所有と経営の分離」の境界線となる点C
を入れ て考えてみよう。この点C
は,要するに株式会社か否かの境界線と考えることができ るが,図示すると図表8
のようになる。図表
8
に示されるとおり,点C
33を入れることで,先の図表7 Panel B
の「領域3」
(「有用性プラス,必然性あり」の領域)は,さらに
2
つに細分化される。すなわち,「有用性プラス,必然性あり,非株式会社」の領域(図表
8「領域 3 α」)と,「有用性プ
ラス,必然性あり,株式会社」の領域(図表8「領域 3 β」)である。ここで,企業会計
は,文字どおり企業,すなわち株式会社の会計ということで,図表8
の「領域3 β」を
────────────
33 点Bと点Cとが別の点として分かれるものかどうか(つまり,井尻(1976)のいう「自己資金だけで なく,他人の資金を預かり事業をする場合」の「他人の資本」が,文字どおり借入などの他人資本を意 味するのか(この場合,点Bと点Cは別の点となる),それとも他!者!か!ら!の!自!己!資本(経営者とは別 の者からの株主としての出資)を意味するのか(この場合,点Bと点Cは一致する))解釈の余地が あるかもしれないが,ここでは,言葉どおり素直に(そして図表6でみた友岡(2012)の整理をそのま ま承けるかたちで)両者が別の点となるものとして図表を描くことにする。
図表7 会計記録の有用性・必然性と事業規模・ガバナンス形態の関係 14(686) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)
対象とするものであるが,他方,農業会計は,先に図表
3
の考察でも述べたとおり,領 域1
から領域3 β
までを広く対象とするものである。そして,こ!こ!に!こ!そ!,農業会計の特殊性の本質があるといえ
34
る。つまり,農業会計 は,会計記録の位置づけが異なる
4
つのタイプの農業経営体を統一的に扱うという意味 において,特殊性を有するといえるし,そこに会計の体系としての「難しさ」があると いえる。特に,「領域1」の経営体,つまり,そもそも会
!計!記!録!の!イ!ン!セ!ン!テ!ィ!ブ!が!な! い!し!,必!然!性!も!な!い!農!業!経!営!体!を!も!含!め!て!「会!計!」と!し!て!の!ひ!と!つ!の!体!系!を!構!築!す!る!の は極めて難しい問35
題であるといえるが,この点については次節で検討することにする。
────────────
34 この点に関連して,たとえば新山(2014)は,(農業会計の議論ではないが,農業そのものについて)
「農業は産業としてもっとも幅の広い企業形態を抱えている。」(p.7),「家族経営,企業経営ともに,そ の幅の広さ,コントロール性の長短はこれからの研究課題だと考えている」(p.8)と述べている。
35 このような会計記録のインセンティブがない経営体(領域1)や,インセンティブはあるが複式簿記で ある必然性はない経営体(領域2)に対して,(ある意味での「支援策」として)生み出されたものが,
実は「簡易農家経済簿」「自計式農家経済簿」(「京都大学式農業簿記」(田邉・桂2018, p.23)や「京大 式農家経済簿記」(戸田2017, p.25)とも呼ばれる)であるように思われる。これは,単式簿記をベー スにしつつも,複計算をおこなうことで(計算構造としては,単記式複計算簿記となる)財産純増加額
(複式簿記の貸借対照表における純資産増加額に相当すると考えられる)と農家経済余剰(複式簿記の 損益計算書における利益に相当すると考えられる)とが一致する体系であり,複式簿記よりも簡便な手 法である(この概要や実際の利用については,阿部(1990)などを参照)。この特殊な簿記体系は,「複 式簿記が農業に根付かなかった原因」としてマイナスの評価を与えられることもしばしばあるようであ るが,しかし本稿での分析によれば,そうではなく,むしろ領域1や領域2を支援するものとして,プ ラスに評価すべきものであるのかもしれない。この点についての詳細な議論は,別稿を期したい。
図表8 企業会計と農業会計の相違:対象領域の違い
実験会計研究からみた農業会計における記録と開示(田口) (687)15
Ⅴ 開示が生み出す信頼と集落ガバナンス:CSR を超えて
本節では,前節で述べた農業会計の体系としての「難しさ」を克服することができな いか検討することにする。すなわち,図表
8
における「領域1」(そもそも会計記録の
インセンティブがないし,必然性もない農業経営体)にも,会計をおこなうインセンテ ィブをもたせることはできないのだろうか。ここで,いくつかの先行研究によれば,そ のことを考えるヒントが(会計の原初形態(図表1)の中の)「開示」,特に CSR
にあ るとされる。そこでまず,Ⅴ-1では農業におけるCSR
研究を概観することにする。そ のうえで,Ⅴ-2では,CSRを超えて考える必要性を論じるとともに,V-3では,実験 研究からのヒントを踏まえて,この問題を深堀りすることにしたい。Ⅴ-1 農業における
CSR
たとえば,アグリビジネスにおける
CSR
研究を広くサーベイした論文であるLuh- mann and Theuvsen(2016)によれば,アグリビジネスにおける CSR
は,フードチェー ン全体に焦点を当て,企業とステークホルダー間の継続的な交流プロセスを重視したも のであり,そのため多次元的で複雑なものになっているという。たとえば,環境特性(持続可能な土地利用,有機食品の生産),動物福祉(畜産業,動物の取り扱い),食品 の安全性と健康(栄養学的側面)は,産業固有の重要な側面であり,アグリビジネスに おける
CSR
を考えるうえで 重 要 な 鍵 と な る と いう。こ の 点 に 関 連 し て,Hartmann36
(2011)は,フードビジネスにおける
CSR
の脅威と機会は,単一企業レベルからフー ド・サプライ・チェーンやフード・ネットワークへと移行していると述べている。ま た,Kambalame and Cleene(2006)は,農業部門におけるCSR
は,ステークホルダー とのパートナーシップを構築するのに有用であること(たとえば,NGOとのパートナ ーシップを構築し,かつ,そのことにより農業経営体とNGO
とが一緒に持続可能性を 高めるための農業のやり方を考えるなど)を,マウライの農業経営体を対象としたケー ススタディで明らかにしてい37
る。
────────────
36 これに関連して,たとえば,Hartmann, Heinen, Melis, and Simons(2013)は,アグリビジネスにおける CSRの産業固有の側面として,動物福祉(畜産,動物の扱い),雇用(従業員の訓練,公正な賃金,良 好な労働条件),環境(企業の環境保全,食品の現地生産),フィランソロピー(従業員のボランティア 活動,企業の寄付)などを挙げている。このほか,Wierzbicka(2015)は,欧州の農業経営体に係る CSRに着目し,CSRと農業政策はともに「欧州2020」(Europe 2020 : A strategy for smart, sustainable
and inclusive growth)に含まれていることから,CSRを農業に適用することは,ステークホルダーが認
識する農業のイメージを向上させることに貢献しうるという。
37 このほか,フードセクターにおけるCSR開示戦略の実証としてはCuganesan, Guthrie and Ward(2010)
を,上場企業の農業CSR開示水準の実際についてはAljanadi(2016)を,(農業だけでなく一般の事業 会社も含めた)小規模企業におけるCSRの適用の実際についてはDemuijnck and Ngnodjom(2013) ↗ 16(688) 同志社商学 第71巻 第4号(2020年1月)