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グスタフ・ラートブルフ : 生涯と作品

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グスタフ・ラートブルフ : 生涯と作品

著者 上田 健二, カウフマン アルトゥール

雑誌名 同志社法學

巻 60

号 1

ページ 1‑86

発行年 2008‑05‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011389

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アルトウール・カウフマン

グスタフ・ラートブルフ 生涯と作品

上 田 健 二 (訳)

訳者まえがき

 この訳文は1987年に刊行されたグスタフ・ラートブルフ全集第 ₁ 巻、刑法

Ⅱの ₁ 頁から88頁までに掲載された本全集の総編集者であるアルトウール・

カウフマンの論文『グスタフ・ラートブルフ―生涯と作品―』(Gustav Radbruch ⊖ Leben und Werke, in: Gustav Radbruch Gesamtausgabe (=GRGA)

Band 1. Rehitosphilosphie. Ⅱ C. F. Müller, 1987, S. 1⊖88)を、すでに2001年 ₄ 月11日に物故されている著者アルトウール・カウフマンの寡婦ドローテア・

カウフマン(Drothea Kaufmann)の2007年12月 9 日付けの書簡による快諾 を得て訳出したものである。

 私はカウフマンのその膨大な著作物のなかでも最も重要であると思われる ものをこれまでにもそれぞれの刊行のつど個別的にご存命中のカウフマン先 生からそのつど承諾を得て訳出してきた(これらはアルトウール・カウフマ ン著・上田健二訳『法哲学 第 2 版』(ミネルヴァ書房、2002年)の巻末の「ア ルトウール・カウフマン著作刊行物目録」に付記されている)のであるが、

その死後も訳すべくしていまだ果たせなかった重要著作物も数多くあり、そ れらもすでにこの間にほとんどすべてを訳出している。これらは、カウフマ ンの死後 ₇ 年を経過した段階でようやく私に『55年を体験したアルトウー ル・カウフマンの法哲学―およびそこから生じてくる刑法上の諸々の帰結』

と題する論文の構想が固まり出した段階で相応の箇所でこれに組み込まれる はずのものである。ところでアルトウール・カウフマンの法哲学は、周知の ように、その開始の時点からラートブルフの生涯を賭けたその法哲学から出 発している。それゆえに私の構想している上記の論文には、何よりも先ずこ の出発点となるラートブルフの法哲学―そしてそれと一体となっている刑

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法上の諸帰結についての必要最小限の描出を先置くことが不可欠であ る。しかしラートブルフの全著作物は1987年の第 ₁ 巻『法哲学I』から始ま って2003年の第20巻『補遺と全巻索引』で完結するというように、ドイツ語 圏でも類例のないほどの膨大な内容を含んでいる。これらすべてを読破した うえで概括的な評価をすることは、もちろんいまの私には時間的にも能力的 にも可能ではない。そこでこの難行を成し遂げたカウフマンの表記の論文を いわば案内図としてラートブルフの法哲学上の全著作物からそのエッセンス をなしている一本の、もしくは数本の赤い糸を紡ぎから引き出すほかにはど のような術もない。このような理由からドローテア夫人にカウフマンの編集 物を含めた著作物の包括的な翻訳の承諾を求めたところ、彼女は寛大にもこ れを快諾するばかりでなく、私の今後のカウフマン‐研究に心温かい励まし まで賜った。かくして私はいま、彼女に心から感謝する立場にある。

 それはともかく、ドイツ国内だけでなく、世界の多数の国々における多数 のラートブルフ愛好者が期待していたグスタフ・ラートブルフ全集を、いま やわれわれ日本人もまたこれを眼前にすることができる状態にある。これ は、法の領域に限っていえば、ドイツではいまだかつて存在していなかった 大掛かりな全集であるといってよい(なお、ラートブルフ全集全20巻の各巻 の構成と内容については前記上田訳『法哲学 第 2 版』の版末の「アルトウ ール・カウフマン著作刊行物目録」II. 28、a)31頁を見よ。またこの全集の 成り立ちについては同書432頁以下を参照)。

 ところで周知のように、わが国ではすでに1960年代初期にラートブルフ著 作集全11巻が刊行されている。これは、世界ではもとより、ドイツでもいま だこの種のものが現われていなかったことから、画期的な刊行物であったこ とはいうまでもない。これによって私を含め、多くの日本の研究者にラート ブルフ法哲学への関心を大いに掻き立てたといってよい。しかしそれらは、

カウフマンの評価によれば、「日本の読者にとってさえ、それらの根底には ラートブルフのテクストの批判的な検証が置かれていないがゆえに、またそ れらがわずかな注釈しかされていないがゆえに、条件づけられた価値しか有 していないのである」(本巻の「まえがき」VII)。これに対して「この全集 は正確で信頼すべきテクストの慎重な調整を通して、各校訂者0 0 0 0の序文と編集 報告を通して際立っている。編集報告では、ラートブルフに現われている人 格性、諸々の出来事、歴史的資料およびこれに類するものが、それらの知見 を今日ではもはや一般的に前提とすることができない限りで解説されてい

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る。これについてならびに各巻の契機と目標設定について知るに値するもの はこれに続く序言とともにこの巻で搭載されているラートブルフ‐伝記を読 んで調べることができる」(本巻の「まえがき」VII)。実際のところ、ラー トブルフの同世代の知識人たちにとってはほとんど周知であるような諸々の 人物や出来事が周知のこととしてその出典や諸事実が省略されているところ を、各校訂者たちはこれらが今日ではもはや知られていない、もしくはほと んど忘れられていることを前提として、当該箇所をほとんど丁寧に補足する 労を惜しんでいない。これによってラートブルの自身の諸々のテクストも新 規な装いのもとに再現されている。そのうえに、上記の著作集の訳者たちに はほぼ半世紀もの前の時点では、おそらくはいまだラートブルフという人間 像の全体的な把握とその著作物の読み込みが不十分であったことから、また ラートブルフの膨大な著作物がいまだ散在していたために当時の日本人には ラートブルフ法哲学の全貌を把握することがきわめて困難であったことか ら、いずれにせよ誤っているか、もしくは少なくとも不正確なラートブルフ の人間像を念頭に置いているために随所に誤訳や不適切な日本語表現が見ら れる。とりわけ「ダマスカス回心」論議の契機となったラートブルフの戦後 初期の重要な論文『法律上の不法と法律を超える法』が訳者(小林直樹)に よって『実定法上の不法と実定法を超える法』と訳されているようにその表 題からして明白な誤訳である。訳者は、ラートブルフがナチス‐不法体験の 印象のもとに自然法論者から法実証主義者に「転向」したというドグマが無 反省的に念頭に置かれているのである。私はそれゆえにこの種の先入見に支 配されている人々によって訳されているラートブルフ著作集のなかの諸々の 訳文を、これについてドイツではほとんど議論され尽くされている今日的な 視点のもとに訳しなおされる必要を強く考えている。いずれにせよ、この著 作集はもはや全く古びてしまっているのである。そのうえ、グスタフ・ラー トブルフを偉大な人物にしているのは、法哲学上の重要作品ばかりでなく、

刑法上の、とりわけ1922年のラートブルフ‐草案に見られるような刑法改正 上の諸々の作品、そして「限界侵犯」に属していながらもその天分を発揮し ている諸々の文学的、芸術的、歴史的な作品がこの著作集には決定的に欠落 しているのである。

 それはともかくとして、グスタフ・ラートブルフ全集第 ₁ 巻法哲学IIの「序 言」のなかでこの巻の校訂者であるアルトウール・カウフマンは、「グスタ フ・ラートブルフは今世紀[20世紀]におけるドイツ語圏の著名な法思考家 の一人であり、それを超えて世界的な妥当を有している数少ないドイツの法

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律家の一人である。彼の死後40年を経た今日でも彼の法哲学の、そしてまた 刑法改正上の学問上の討議は中断されていない。それどころかラートブルフ 研究はまさにごく最近においても甚だしく活発になっている。過去数年のな かでラートブルフに関する数多くのモノグラフィーと論文が刊行されてい る。信頼すべき情報によると、今日では東アジアの様々な国で、イタリア、

ポーランド、スペインそしてアメリカ合衆国で(疑いもなく別々の仕方で)

ラートブルフの作品の学問的な評価についての作業がなされている。しかし 至る所でグスタフ・ラートブルフの全作品の信頼に値するどのような包括的 な把握も存在していないことに苦情が申し立てられている」と述べている

(序言 ₁ 頁)。そこでこの全集のひとつの本質的な目標はラートブルフの著作0 000完全に把握すること0 0 0 0 0 0 0 0 0とされる。最初の包括的な著作刊行物目録はゲル ド・レフラー(Gerd Löffler)によって1969年に作成された文献目録である(in:

Gedächtnisschrift für Gustav Radbruch, hrsg. von Arthur Kaufmann, 1968, S.

577 ff.)

 これをもって全二十巻を数えるグスタフ・ラートブルフ全集が提示される。

世界の数多くの国々における多くのラートブルフ愛好者はこれを期待してい た。

 日本語での一一巻の部分的著作集はすでにかなりの時間以来存在してい る。この著作集はもちろん関心のある大多数の人々が読むことができない が、しかし日本の読者にとってさえ、それらの根底にラートブルフのテクス トの批判的な検証が置かれていないがゆえに、またそれらがわずかな注釈し かされていないがゆえに、学問的な価値が条件づけられたものでしかないか らである。

 この全集は正確で信頼すべきテクストの慎重な調整を通して、各巻校訂者0 0 0 0 0 の序言と編集報告を通して際立っている。編集諸報告では、ラートブルフに 現われている人格性、諸々の出来事、歴史的諸資料およびこれに類するもの が、それらの知見を今日ではもはや一般的に前提とすることができない限り で解説される。これについてならびに各巻の契機と目標設定についての知る に値するものはこれに続く序言と同様にこの巻で印刷されているラートブル フ‐伝記を読んで調べることができる。

 そこでこの全集のひとつの本質的な目標はグスタフ・ラートブルフの著作0 0 物を完全に把握する0 0 0 0 0 0 0 0 0ということになってくる。すでに最初の著作刊行物目録 が、既述のようにゲルト・レフラー(Gerd Löffler)によって1968年に文献

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目録として作成されていた(in der Gedächtnisschrift für Gustav Radbruch, hrsg. von Arthur Kaufmann, 1968, S. 577 ff.)。それはこの巻に続く文献目録 をなしている。それを基盤にしてホルガー・オットーが1982年にひとつの新 しい、著しく拡大された目録を完成した(Holger Otto, Radbruchs Kieler Jahre (1919⊖1936), 1982 (Kieler Dissatation), S. 268)。しかしこれもまたい まだ完全なものではない。とりわけヴァイマール時代にラートブルフはきわ めて多くの記事を公刊しているのであるが、これらを見つけ出すのはただた だ困難でしかない。本巻が印刷に付せられる前に、先に挙げられた目標が最 善の仕方で達せられるために、集中的にいまだ知られていないラートブルフ の公刊物が追及された。この全集がいまや実際にもラートブルフのすべての 作品を包括しているとは、確かに絶対的な確実さをもって言うことはできな いが、それでも、いずれにせよ本質的なものをいささかも欠けていないとい うことには、大きな蓋然性が成り立っている。いくらかの数少ない事例では、

ラートブルフが原作者であることを確かめることができなかったので、この ような著作物の採用は見合わせられた。

 この全集のもうひとつの重要な目標をカウフマンは、「ヴァイマール時代0 0 0 0 0 0 0 0 の究明への寄与0 0 0 0 0 0 0を果す」(序言 2 頁)ということの努力に置いている。ラー トブルフはきわめて決定的にこの画期的な時代の形態化にともに、社会民主 党のライヒ議会議員として、ライヒ司法相として、とりわけ真剣に打ち込ん だ大学教師として活動した。彼のきわめて多くの著作物は、最初のドイツの 民主主義の政治的、文化的および社会的な背景のうえに見られなければなら ない。この全集は、あの時代のなかをよく馴染んでおり、ラートブルフに通 じている多くの者にさらに新規なものを提供するであろうというように、そ の総編集者であるアルトウール・カウフマンはこの全集の刊行目標を設定し ている。

 ラートブルフ‐全集にとっての主要根拠は、カウフマンによれば、しかし ひとつの学問的な0 0 0 0それである。ラートブルフ以来時間が静止しておらず、わ れわれは、今日では彼の作品のなかに多くの時間に制約されたものを、確か にまた多くの誤謬を認めるにもかかわらず、それでもその法哲学と刑事政策 は全体として将来を指し示している結果として、将来の研究もまたこれを避 けて通ることができないのである。ラートブルフは、哲学的および科学上の 形式主義の一世紀よりも多くの後に、再び内容的な法哲学を構想した最初の 人であった。たとえひとがその場合に多かれ少なかれ彼から広く隔たってい ようとも、ひとはこの出発点につねに思いを馳せていなければならないので

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ある。そして刑事政策に関して言えば、ラートブルフが70年前にあったほど にわれわれもまたほとんど近接しているということである。このような意味 においてアルトウール・カウフマンは繰り返しこのラートブルフ‐文献目録 に目を配るように指示している(この意味におけるラートブルフの全0作品は 2003年に刊行されたラートブルフ全集第20巻(GRGA, Band 20, Nachtrag und Gesammtregister)の153頁から172頁まで刊行年度別に収録されている。

これに対して上記ラートブルフ著作集では、その別巻のなかでラートブルフ の著作物が203頁から208頁までの ₅ 頁にわたって収録されているにすぎな い。これだけからしても60年代当初のわが国の学術面での情報収集能力がい かに低レベルであったのかがわかる)。

 それはさておき、カウフマンによれば、ラートブルフ‐全集は既存の著作 物の単なる復刻では決してなく、ひとつの学術的な出版物0 0 0 0 0 0 0である。確かに狭 い意味において歴史的‐批判的な版の完全性には努められない(どのような テクストの系譜も、どのような印刷の変型もない)。しかし目標は厳密であ0 0 0 0 りながらも判読可能なテクスト0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0の(すべての源泉提示、引用、注等々)、そ して、その知見がより若い世代の教養ある読者によって、そして外国人によ って直裁に予期されることができ、どのような(場合によっては異国の)辞 書のなかにも読んで調べることもできない諸々の人物、出来事、表現および これに類するものが出来するところでのその編集報告のなかでの注釈0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0を作り 出すことである。

 「最も重要な編集上の諸原則のひとつは、ラートブルフのテクストに対し0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 て最大限に忠実である0 0 0 0 0 0 0 0 0 0ということである。明らかに正しくないこと、すなわ ち誤字と誤植は暗黙裡に修正される。ラートブルフの引用の仕方は、たとえ 彼がこれに関して統一的に処理していない、時には矛盾して処理している場 合であってもそのまま保持された。諸々の強調は統一的に斜字体で表示され た。たとえばある引用がいくらか訂正されなければならない限りで、このこ とは編集報告のなかで、とくに引用に関しては、短絡表示においてなされた。

オリジナルテクストのなかで矢印(←)をもって編集報告のなかで解説され るテクスト箇所が指示される。諸々の注は、ラートブルフの体系論を保持し て新たに番号が付けられる。原典頁数は、テクストのなかでと同様に各欄の なかに鍵括弧のなかに見出される。テクストでは原典ページ番号はそれぞれ の頁の最終語の後ろに鍵括弧のなかに書き留められる。これに従ってラート ブルフの頁指示はテクストにおいても事項索引においても保持し続けること ができる」(序言、 2 頁)というように、カウフマンはきわめて木目細くて

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骨の折れる作業を、彼自身とその各巻の校訂者に課している。

 全体計画は第0 20段階において実行される。最初の段階では(1993年までは)

ラートブルフの諸公刊物を含む諸巻を刊行することが求められる。このため には17巻が予定されている。序言は基本的に、この分類の内部で時間的に、

実質的な諸視点のもとに従われる。法哲学の第 ₃ 巻は文化政策的な著作物を 伴う巻と文献史的な著作物を伴う巻がそのつど従っている。これに接続する フォイエルバッハの巻は刑法への移行を、それも第 2 巻からなる一般刑法 の、 ₁ 巻の刑法改正、 ₁ 巻の行刑および一巻の刑法史をなしている。これに 2 巻からなるヴァイマール時代に由来する政治上の著作物が、巻毎に国家、

憲法および法史が続く。第 ₁ 段階は自伝的な著作物をもって完結される。な お注目されなければならないのは、それらがラートブルフによって編成され ている論集(たとえば『人と思想(Gestalten und Gedanken)』や『刑法雅 論(Elegantiae juris Climinalis)』は解消されたということになる。個別的な 論文はそれぞれの管轄領域に割り振られる。

 第0 20段階では、ラートブルフの書間の選択というもの( 2 巻)、ならびに ライヒ議会での演説の編集を続けることが求められる。講義の草稿の場合と は異なって、広汎な公共にとって決定的であり、印刷されてもいるこのよう な形式に接近させられたライヒ議会での諸演説の場合では、ラートブルフの 意見表明が問題になっているのである。そこからそれらはこの全集における 正統な場所を有しているのであり、そのうえにヴァイマール時代がこの版の ひとつ重点をなしていることがよく考えられるならば、ひとつの重要な場所 を占めているのである。

 個別的などの巻もひとつの索引が当てがわれる。このようにして全集が完 結するや否や、全体事項とラートブルフの作品および関連文献目録の巻が締 め括りの第20巻として刊行される。1987年の第29巻の完結をもって終わった この全集の、このような綿密な作業方針に従った各巻の校訂者の仕事の見事 さには感嘆の念を禁じ得ない。

 さて、この全集の第 ₁ 巻の中心に置かれているのは『法学への手ほどき

(Einführung in die Rechtswissenschaft)』(前記著作集第 ₃ 巻で『法学入門』

と 訳 さ れ て い る が、 こ こ で は948年 の『 法 哲 学 入 門(Vorschule der Rechtsphilosophie)』と明確に区別するために、ここでは『手ほどき』とい う表現を用いる)である。この第 ₁ 版を一方とし、(最後の手による)第

₇/₈ 版を他方とする両者の間には部分的にまさに著しく異なっていること

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から両者が完全なテクストをもって採用される。第 2 版、(第 ₄ 版と同じで ある)第 ₃ 版および第 ₅/6 版に関しては、編集報告のなかで各版の変型が 伝えられる。これもまた入念な仕方で、些細で非本質的ないっさいの変異が 顧慮される歴史的‐批判な版においてではなく、関心のある読者にラートブ ルフが個々の版のなかに企てられていいくらかの重点の変更すべてに関する 情報を与える、実用的な視点から作成された外観においてなされている。

 『法学への手ほどき』は―『法哲学(Rechtsphilosophie)』と並んで ラートブルフの最も成果の豊な本である。これは真似のできない美しい 言葉遣いを別としてこの本の目標設定からして明らかである。ラートブ ルフは、彼自身が駆け出しの法律家として彼自身が読みたいと思っていたの であろうが、しかしいまだ存在していなかった当の0 0本を書こうとしたのであ る(Gustav Radbruch, Einfühlung in die Rechtsphilosophie, 1. Aufl. 1919の

「まえがき」のなかで)。存在していたし、また繰り返し存在しているものは、

初心者にとってはあまりにも詳細に過ぎ、これに対して前進した学生たちに あまりにも専門知識が少なく伝えられる個別的な法領域についての百科全書 的な概観のものであり、両者はいずれも、いずれにせよ、『手ほどき』によ って予期されることができるもの、すなわち法の科学理論ではない。しかし まさにこれを提供しているのがラートブルフの『手ほどき』であり、これは とにかく読者に、とくに若い読者が、ここでは彼に「理論」が前置きされて いるという印象を一瞬たりとももたないほどにさりげない仕方で書かれてい る。このなかには、無数の法律家が彼の職業への喜びのために少なからず彼 らの学問上の原体験を獲得するのを助けた、この唯一無類の本の秘密が置か れているのである。

 この『手ほどき』は、ラートブルフの自伝から伺えるように、彼の法哲学 上の諸作品のなかでもより大きな関連のもとに位置づけられる。しかしなお 注目すべきは、ラートブルフが第二次世界大戦後に、「新しい諸事情への移 行と、戦後に帰還した最初の世代の帰還した学生たちのためにある特別の 版」を書こうとしていた、ということである。残念なことに彼にはこのため の時間がもはや許されていなかった。 

 なお、以下の序言と同じ年に、アルトウール・カウフマンは『グスタフ・

ラートブルフ:法思考家、哲学者、社会民主主義者 (Gustav Radbruch:

Rechtsdenker, Philosoph, Sozial- demokurat)』と題するラートブルフ⊖伝記を 刊行している(これについては、中義勝・山中敬一訳『グスタフ・ラートブ ルフ』(成文堂、1992年)という優れた日本語版が存在している)。彼はこの

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なかでラートブルフという人物をより幅の広い視点のもとも捉えているが、

しかし法哲学の核心領域では内容的に下記の「序文」とほぼ重なっている。

 さらにいまひとつの注意を。以下の「序文」のなかでは、当然のことなが らラートブルフの作品から数多くの引用がなされているのであるが、しかし この巻が最初に出版されたために出典が原典に限られている。そこで全巻が 完結している現在では、それらはそれぞれの巻のなかにも指示されていなけ ればならない。私はそれらを各巻のなかから[ ]のなかでその頁番号を指 示するというようにしてこれを補うことにした。

I.

 グスタフ・ラーとブルフが1949年11月26日にハイデルベルクの山の墓地に葬られた とき、カール・エンギシュ(Karl Engisch)はその棺に向けて「われわれから立ち 去り、その活気のある光線がわれわれをもはや喜ばせないことこそ、第一級の星であ る。彼を見つめていたのは、ドイツにおけるだけでなく、彼らにとって法、文化およ び自由がいくらか重要であり、彼には法の進歩が、権力に反対し、文明開化に賛成す る闘争が問題となっているドイツにおけるだけではなく、地球上の外国における人々 である」と告げた( ₁ )。第一級の星とは!すでにその前には、ゲオルク・シュタットミュ

ラー(Georg Stadtmüller)はラートブルフを「生存中のドイツの法律家のなかでも

最も偉大な人物であろう」と呼んだ( 2 )。そしてエリック・ヴォルフ(Erick Wolf)はラ ートブルフにその死後ほとんど15年にして、彼がラートブルフを『ドイツ精神史の偉 大な法思考家たち』のなかで―シュワルツエンベルグ、サヴィニー、フォエイエル バッハ、イエーリング……と並んで―等しいランクに配列した( ₃ )

 グスタフ・ラートブルフにより近しいところから言明されたこれらの判断は、その

(1) Karl Engisch, Gustav Radbruch zum Gedächtnis, in: ZStW 63 (1950), 117. Denselben, Gudtav Radbruch, in: Jahreshefte der Heidelberger Akademie der Wissenschaft 55 (1946), 79, をも見よ。

(2)Georg Stattmüller. Das Naturrecht im Lichte der geschichtlichen Erfahrung, 1948, S. 31.

Albert Auer, Naturrechtsproblem der Gegenwart, in: Salzbruger Jahrbuch für Philosophie und

Psychlogie 3 (1959), 29は、「ラートブルフは現代の法哲学者のなかでも最も深遠な学者の一

人である」と評価している。

(3)Erick Wolf, Großen Rechtsdenker der deutschen Geistgeschichte, 4. Aufl. 1963, S. 713. これ に先行しているのが、in: Gustav Radbruch, Rechtsphilosophie, hrsg. von Erick Wolf, 4. Aufl.

1950, S. 17 f.

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比類のない人物の抗い難い力においてあまりに高く把握されていないか。それらは、

ラートブルフの死後35年の今日でも成り立っているのか。ラートブルフの著作物の全 集というものを正当化することが問題になっている場合に、このような問いをわれわ れは提起しなければならない。われわれは、彼に出遭った誰もが惹きつけられた彼の 個人的な放射力によって惑わされてはならないであろう。ここではもっぱら彼の作品 を、とくに彼に出遭うことが全くのなかった人々のために語らなければならないので ある。

 ラートブルフを個人的には知るにいたっていない若い人々の一人であるパウル・ボ ンスマン(Paul Bonsmann)は「ラートブルフの法哲学上の創作に賦与される法に とっての意義は成り立っているのか」と問い、これに簡単明瞭に否と答えた。「その 法哲学上の思考の偉大な影響は」と彼は考える、「人々を捉える、愛すべき人格性の 放射力からのみ理解することができる( ₄ )」と。この見解に与されなければならないとす れば、ラートブルフ‐全集のような刊行に立ち入ることはできないであろう。この刊 行は、ラートブルフの学問上の作品がその死を超えて、今日を越えて影響するという、

そしてなお来るべき諸世代に彼と対決する契機を有するであろうという前提に基づい ている。ドイツの法学生だけが今日でもなお―そしてまさに今日において―ラー トブルフの思考界への生き生きとした関心を有しているというのではない。彼らは多 くの現代人についてよりもしばしば彼についてよく理解していると感じている。外国 の人々との、アングロおよびラテン・アメリカ、東アジア、いずれにせよヨーロッパ の人々とのコンタクトにとっても、ラートブルフは決して過去ではないことが体験さ れる。

 何ゆえにそうであるのかは、しかしながらこれを容易には根拠づけることができな い。ボンスマンの判断は差し当たってすでにいくらかの説得性を有している。繰り返 しひとは、私もまた、ラートブルフについての偉大さは、その生涯とその理論がひと つの分かち難い統一をなしているという、まさにこのことであった。これが正しい分 だけ、ラートブルフの後続影響を明らかにするためには、それだけでは十分ではない。

ラートブルフを扱った見渡し難いほどに多くの文献が存在している。しかしラートブ ルフの理論の将来的展望を究明することを課題としたものはほんのわずかしか存在し ていない。広く構えられた仕方でこのことを、見渡し得る限りでは、これまではハン ス-ペーター・シュナイダー(Hans-Peter Schneider)が果したにすぎない( ₅ )。ひとつ

(4) Die Rechts- und Staatsphilosophie Gustav Radbruchs, 2. Aufl. 1970, S. 103.

(5)Hans-Peter Schneider, Gustav Radbruchs Aufluß auf die Rechtsphilosophie der Gegemwart, in: Gustav Radbruch, Rechtsphilosophie, hrsg. von Erick Wolf und Hans-Peter Scnneider, 8.

Aufl. 1973, S. 351 ff.

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の示唆を、もちろんギュンター・シュペンデル(Günter Spendel)が与えた。彼は ラートブルフを「一人の転換期における法律家( 6 )」と呼んでいる。これは実際のところ、

ひとつのキーワードである。ラートブルフがひとつの転換期に立っていたということ

(これは多くの者にとって確かに妥当する)、このことだけが決定的であるのではな く、彼がこの転換期をともに形態化したということ( ₇ )、その法論、とくに法哲学が過去 の思考諸方向から明日のそれらに弧を張っているひとつの橋であるということが決定 的なのである。

 とはいえ、なおいくらかよく考えてみるべきことがある。ひとはそもそも法律家と して偉大さに到達することができるのか。そのさい何が偉大であるのか。諸法律を知 っていること、それらを解釈し生活諸関係に適用することか。グスタフ・ラートブル フ自身はかつて(この文章の執筆者[すなわち、アルトゥール・カウフマン]とのあ る対話のなかで)、彼が偉大な立法者である場合のみ、ある法律家が天才であること の実を証明することができると述べたのであり、そのさい彼が考えていたのはパウ ル・ヨハン・アンゼルム・フォン・フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach)である。ところでラートブルフは確かに立法者としても働いたのであり、

彼がこのような者として果したのは、疑いもなく並外れた卓越さを表わしている。し かし彼をこのような、立法者としての活動で、フォイエルバッハという人物と同様に ひとつの「偉大さ」であると証明することは、やはり疑われもしよう。

 しかしながらおそらくはラートブルフを、まさに彼が本来的に法律家ではなかった

―もしくはよりうまくは、法律家でなかったばかりでなく、第一次的に法律家では なかったがゆえに「偉大さ」にまで持ち上げることができたのであろう。彼自身はか つてある友人に次のように書いている。「もしあなたが、私が本来的にどのような法 律家でもないと言われるのであれば、あなたは正しい。しかしまさにそれゆえに私は 法学から、法学を別の側面から概観する者に与するであろう諸側面を勝ち取ったので す。まさにそのうえに私の教育活動の成果も基づいているのです。なぜかというに、

法的なものに入り込むということは、私自身が難しくなっていたからです( ₈ )。」他の多 くの人々と同様にラートブルフもまた法学への傾向に引きずられるということはなか った、それどころか、彼は法学上の研究に明白は嫌悪というものを有していたので

ある( 9 )。しかし他の人々とは違ってラートブルフにおけるこのように距離を置いた法に

(6) Günter Spendel, Jurist in einer Zeitenwende; Gustav Radbruch zum 100. Geburtstag, 1979.

(7) Günter Spendel, Jurist (Fn. 6), S. 11, は、確かにこれを示唆したが、しかしこの思想をさ らに追及していない。

(8)Gustav Radbruch, Briefe, hrsg. von Erich Wolf, 1969, S. 222: an Walter Spiess, 3. Juni 1948.

(9)Gustav Radbruch, Der Innere Weg; Aufriß meines Lebens, 2. Aufl. 1991, S. 38.[Gustav

(13)

携わることへの態度は決して失われることはなく、彼はつねに「良心の疚しさをもっ た法律家」であり続けた。そしてこのことがまさに彼をして法と法学をより大きな関 連のなかに置き、分離されたものを結びつけ、諸々の橋を構築することを可能にした のである。ラートブルフの強靭さは、関係的なもののあらゆる協調にあって、悟性の 分析的な活動のなかにではなく、理性の総合的な活動のなかに置かれていた。今日で はもちろん法理論における分析的な契機が大いに書かれ、そしてそれがひとつの重要 な契機であることには何ら問題はない。とはいえ諸々の徴候に偽りがないとすれば、

分析するものをもってするだけでは法にとって何ものをも獲得することができないと いうことが再び認識され始めている。単に分析家でしかない者は確かに数学者とし て、論理学者として、法理論家として重要なことを果すことができる。それを法学に おいて重要なものにまでもたらすためには、ひとは少なくとも、それも主として、諸々 の全体性を認識することができる総合家でもなければならないのである。このような 能力を、ラートブルフは高い程度において所持していた。とくにそれゆえに彼の作品 は将来を指し示しているのである。ボンスマンはまさにこのような側面を十分によく 考えなかったかのように、私に思わせようとする。

 スケッチふうに輪郭づけられたラートブルフの生涯作品のこの評価を根拠づけるこ とが、以下に続く諸々の詳述の優先的な目標である。それゆえに問題となっているの は徹頭徹尾実質的な関心事である。多様に語られているラートブルフの生涯の道もま た、可能な限り冷静に描出することが求められる。しかし私は、何よりも先ずグスタ フ・ラートブルフという人間のひとつの個人的な像を描くことが正しいと考えており、

そして私は、私が四半世紀も前に執筆した評価をここで―削除することもなく、付 け加えることもなく―再現するというようにして、これをなすのである。それは主 観的に、体験とのわずかな時間的間隔から書かれているのであり、学生たちの筆にな るより見事な諸証言も確かに存在している(₁₀)のであるが、しかしそれはすでにして私自 身のものでなければならないのである。

II.

 私は前置きとして次のことを述べなければならない。私は1941年に大学入学資格を 獲得した後にフランクフルト・アム・マイン大学に入学登録をしていたのであるが、

しかしその後まもなく兵役を命じられた。1945年に私は帰還した―器具的観察を不

Radbruch Gesammteausgabe=GRGA Bd. 16, 1988,S. 195.]

(10)たとえば、 Helga Einsele, Erinnerungen an den Lehrer Gustav Radbruch, in: Gedächtnisschrift für Gustav Radbruch, hrsg. von Arthur Kaufmann, 1968, S. 57 ff., 参照。

(14)

可能にしたような障害を負って。物理学はもうおしまいであった。法学を、私は考え ていなかったし、何をなすのかを、私はそもそも正しく意識することはなかった。フ ライブルクで私はハイデガーに出会ったのであるが、彼は私に何の印象も抱かせなか った。そしてここに私の体験報告(₁₁)が始まるのである。

 「私がグスタフ・ラートブルフと最初に出遭ったのは、記憶に値する1945年の冬の 始まりであった。私はその直前に戦争捕虜から解放されて大学町から大学町へと、ど こかで私の勉学を受け容れてくれる幸運にめぐり合うためにさまよい始めた。私がす でにあれほどに多くの門戸を空しく敲いていた後に、同じきっかけからやってきた他 の人々とともにハイデルベルク大学の古い建物のなかの法学部の部長室の前で待ち受 けた。ついに列が私の番になり、私が部屋に立ち入った時には、すでに老齢に達して いる、見るからに身体的に重く病んでいる、小柄で小太りの体つきの男との対面に立 った。私が学部の部長とかかわっていたということのほかでは、この男が誰であった のかを、私はかすかにしか気づいていなかった。その作品が数多くの言語においてす でに地球を越えて広がっている、現在の法哲学者の最も著名な人物の前に私が立って いるということを、私は意識していなかった。私は、この男が、その筆から進歩的社 会的で人間的な精神を有するひとつの大胆に構想された刑法改正草案が由来する一人 の卓越した刑法改正者であることを意識していなかった。ここで手の届くこの人がす でにまた政治家として、ライヒ議会議員(1920-22年)として、そしてライヒ司法相

(1921-22、1923年)として決定的な役割を演じていたこと、そして彼から勇敢で正 直な、民主主義的で自由主義的な信条を理由に国家社会主義者によって高い名誉が剥 奪され、1933年には第一級のドイツ大学教師としてのその職務を解任処分にされてい ることを、私は意識していなかった。これらすべてを、私は当時では意識していなか ったのである。しかしひとつのこと、すなわちこの瞬間において私が一人の偉大な人 物と出会っているということを、私は直ちに意識した。ラートブルフの容貌はきらき らと輝いいている、生き生きとしている精神性というものの表現であった、それは形 態化した精神であった。何をわれわれは互いに話し合ったのかを、私はもはや記憶の なかには有していない。しかし、すでに当時にその声の類まれな柔和さがどのような 印象を私に与えたのかは、私の記憶のなかにとどまり続けている。それは弱々しく、

感傷的な性質のものではなく、ひとつの男らしい善意を、強靭な、事情に通じている 魂を現わしているような柔和さであった。ラートブルフを知るようになった者は、彼 がかつてフランツ・フォン・リストに関して形づけた次の言葉を理解した。「伝統的

(11) Arthur Kaufmann, Ein Leben im Geiste. Zum 80. Geburtstag von Gustav Radbruch, in:

Heidelberger Tageblatt vom 18. 11. 1958, S. 6. 諸々の注が付け加えられている。

(15)

な道徳理論はあまりにも明確に知性と性格とを区別することを、あまりにも好んで純 真な魂の善意を称揚することをつねとしていた。実際には善意の充満度は賢慮が最高 度にある場合にしか到達することができないのである(₁2)」。そしてもうひとつのこと:

私がラートブルフに挨拶をして彼に別れを告げたとき、彼は立ち上がった。彼は、こ の病弱な、年老いた、功労のある男は一人の名もない若い学生の前に身を持ち上げた のである!このようなことは、上官から体験されられていたすべてのことからして予 期すべくもなかった。しかし私は程なく、このことが単なるひとつの高貴な仕種でな く、ひとつの内心的な態度から発したものであることを知るに至った。ラートブルフ にとっては大学での位階、出自、職業および年齢といった諸々の差異は全く通用して いなかったのであり、他の人々のなかにむしろつねに同胞を見たのであり、そして人 から人へと彼は交じり合った。誰かが話しかけもなく、もしくは感情を傷つけられて さえ彼から去ったというようなことは、考えることができない。私は当時、私はこの 人を聴かなければならないという明確な意識をもってラートブルフを後にした。

 ちょうど四年後に私は私のラートブルフとの最後の出会いをもっていた。私は彼の 71歳の誕生日の前に、彼に私の願望を伝えるためにフリーゼンベルク(Friesenberg)

にある彼の友好的な居宅にやってきた。私は当時ではもちろん、彼にはすでに死が見 取れていたことに気づくことができなかった。それにもかかわらず私にはわれわれの 対話のほとんどどのような詳細も今日でもなお記憶に残っている。われわれは主とし て、ラートブルフがそのなかに法哲学的思考の今日的な諸々の根本的関心事を見詰め た「事物の本性」についてのキケロの思想について話し合った(₁₃)。私は年年の流れのな かで彼の教養の広さと諸々の関心を知るに至っていたにもかかわらず、―彼はその 諸作品が証明しているように、法律学にと同様に芸術的なものに精通していた―そ れでもなお私は繰り返しこの多面性に驚嘆したのであるが、しかしそれらは何ら趣味 と関係していたのではなく、またそれらが分散というものに導いたのでもなく、彼が つねにその本職を超えて考えたがゆえに、彼の思想のすべてが絶えざる交互関係にお いて相互的に置かれていたがゆえに、そこではすべてが、果たしてラートブルフにあ ってはそもそもつねに全体が一役買っていたような中庸へ向けて関係づけられたので ある。そこで彼がキケロを現在の哲学上および法学上の問題性の全くの中心点に置く ことを知っていた、そしてどのような宝物を人本主義的な教養が秘めているのかが新 たに明瞭になったこの対話のなかでも再びそうであった。われわれはしかしまた、

1948年 ₇ 月13日のその忘れ難い告別講演のなかで感動的な仕方でそれへの信条を告白

(12)Gustav Radbruch, Einführung in die Rechtswissenschaft, 7./8. Auf. 1927, S. 5. [GRGA Bd.

1, 1987, S. 10]

(13)ラートブルフはこれを私に教授資格論文のテーマとして与えていた。

(16)

し て い た 宗 教 上 の 諸 問 題 に つ い て、『 生 ま れ つ き の キ リ ス ト 者 の 気 風(anima naturaliter christiana)』について話し合った。そして私が彼から聞いた最後の言葉は こうであった。すなわち、結局のところすべてが恩寵、宗教性もキリスト教会のひと つの帰属性も恩寵であり、そこからつねに神の呼び声に対して敏感であることが妥当 したということである。数日の後、1949年11月23日に、次いで彼に対して呼び声が発 せられ、死がその不撓不屈の力をとりこにした。

 この間に二人を出遭わせたものは、ラートブルフの際立って祝福に満ちた年年であ り、そのなかで彼は恩寵に恵まれた教師であり、創造的な研究者としてわれわれの大 学の革新に決定的に関与した。三年間にわたってラートブルフは、その重い身体上の 病を軽んじつつ、不断の献身を独裁と戦争を潜り抜けた学生世代に捧げ、それを彼は、

「以前にはなかった」ほどの「種の播いてある耕地」と呼んだ。この種が芽吹いてい たのか、さらに芽吹くであろうか、このことを誰が今日すでに言うことができるのか。

しかしラートブルフはその最善を尽くしたのであり、彼は偉大な力を有するひとつの 人間的な例を与えたのであって、それというのも彼はその全人格をもって支払ったか らである。彼が古典的な美しい言葉と思考の運びの簡明的確さにおいて完全に自由な 弁舌のなかで提供したその諸講義において、彼はその聴講生たちに正しい思考の範を 歴然として示した。彼の足元に、彼の諸々の本もまた非法律家の間で数多くの読者層 を見出したように、あらゆる学部の学生たちが席を占めた。それというのも彼の諸々 の詳述は干からびた専門学者性から免れており、それらは現実との、具体的な人間と の関連を有していたのであり、そしてつねにそれらは諸物をそれらの本質的な核心に おいて適切に表現していたからである。ここではいまだ真の研究を全般的に見出すこ とができたのであり、真のというのは、それが意図的に進められたのではなく、事物 それ自体から、それゆえにある程度まで暫定的に生じたという理由からである。刑事 訴訟法ほどに扱いにくい素材でさえラートブルフは魅力的かつ興味深く形態化するこ とを知っていた。しかしいよいよもってその偉大な諸講義が、なかんずく法哲学、と りわけ名声を博したその法学への手引きが無数の人々に法職の理解への門戸を開いた のであり、多くの者にとってさえそれらは、かつて学問上の原体験と呼ばれたものに なったのである。

 ラートブルフについての偉大さは、その生涯とその理論がひとつの分かち難い統一 をなしていたということであった。作品はつねに同時に人間を表しているのであり、

人間はすでにつねにまた作品であった。それゆえに、ラートブルフという人格にまで 浸透していない者は彼の理論もまた十分に理解することができないのである。しばし ば彼の法哲学上の相対主義が懐疑と諦念の態度として誤解されたように、この法哲学 がその信奉者たちに最高度の人格的決断と犠牲を要求しているということが気づかれ

(17)

ていない。ここでもラートブルフはその理論を、彼が独裁の不法に、彼を懐疑主義に 引き込んでいた人々の多くが見出さなかったような明確性と勇気をもって立ち向かっ たときに、実例を通して高貴なものにした。彼は諸価値の絶対性を決して否認したの ではないのであるが、しかし彼は人間の認識力を控え目に考えたのである。それだか ら彼が無条件的な確信の忠誠を深い人間的理解と高貴な寛容とに結びつけることを意 識していたことが明らかになる。

 ラートブルフの本質を一言で特徴づけようとするならば、彼はゲーテ的な一人の人 間であったと言うことができる。彼にとってはしかし、つねに単なる経験的な事実性 よりも多くのものであった生き生きとした現実性への忘我的な献身において彼は究明 することができるものを究明し、究明することができないものは、しかしこれを安ら かに尊敬することを求めた。彼は日常生活に公然と肩入れした。落ち着き払った明朗 さをもって、しかし安っぽい楽観主義のすべてから離れて彼は日常の諸々の課題と義 務に身を置いた。ゲーテと等しく彼にとっても当てはまったのは自身を知れ!ではな く、自身を試せ!であった。そして彼は卓越した偉大さにまで成長したのである。

 このような意味においてわれわれはラートブルフに関して、彼自身がかつてゲーテ について語ったことを言うことができる。

 『われわれにはしかし、このように完結した生涯という財産が残されている:

     われわれに半端なことをやめさせること、

     そして全体に、善に、美において      決然として生きること!(₁₄)』」

III

 グスタフ・ラムベルト・ラートブルフ(Gustav Rambert Radbruch)はリューベ ック市の一人の息子であった。知られているように、あの時代に由来するリューベッ クの唯一の偉大な息子ではなかった。彼はそこで1878年11月21日に裕福な商人ハイン リッヒ・ラートブルフ(Heinrich Radbruch)とその妻エンマ(Emma)、旧称プラ ール(Prahl)の第三の、そして最も若い子として生れた。彼の生れ故郷の町に彼は その生涯の時期にわたって好感を持ち続けていたのであるが、しかし「このように狭 い壁のなかであらかじめ指示されたひとつの軌道を歩まなければならない」抑圧的な

(14)Gustav Radbruch, Gestalten und Gedanken, Acht Studien, 1944, S. 188 (2. Aufl. 1954 ⊖ zehn Studien ⊖ , S. 13).

(18)

感情が彼をして「他の若いリューベック人と同様に、リューベックの外にひとつの職 業活動を探し求めることをともに決めさせた(₁₅)」。それゆえに彼は、その彼への印象が 間違いでなかった大都会を優先させたのであり、それは、最初はミュンヘンであり、

次いでライプツィッヒそして最終的に、当時では実際にいまだ世界であったベルリン であった。

 しかし差し当たり彼は父の家で成長したのであり、それは言葉通りに「父の」家で あった。それというのも、彼の「圧倒的な部分について本質的なものは母にではなく、

父の遺産と例に負っていることを(₁6)」彼が認めていたからである。父から人間における 善への信念を有していたのであり、父が彼のなかに歴史的感覚を呼び起こしたのであ り、父とは、技術とか自然科学とかに対する関心の欠如を分かち合ったのであり、若 きラートブルフが音楽とも、そしてまた宗教ともにどのような関係をも有していなか ったこともまた、しかし父に遡る―二人はともかくもより円熟した年年に順応した のである。どの程度まで父がラートブルフの場合に早くに育った道徳意識をともに形 成したのかは、その資料からはほとんど確認することができない。ハインリッヒ・ラ ートブルフは国民自由主義者であったのであり、善く状況化された市民的環境に由来 している一人の男にとっては、社会民主主義は考え得るだけでも程遠いものであった のであり、それは彼には「部分的に馬鹿げており、部分的に忌まわしいもの」として 現われる他はなかったのである(₁₇)。それでも彼はその息子の後の政治上の道を、我慢を もってだけではなく、善意のかかわりをもって見守ったのである。「それを他のもの よりももってほしくはなかった(₁₈)」息子の政治的参加にとっての動機は、父にとってお よそ無縁なものであったに違いない。

 ラートブルフはリューベックでカタリーネ・ギムナジウム(Katharineum)に入学 し、模範的な少年であり、模範的な生徒であったが、それにもかかわらずどのような 努力家でもなかった。彼はしっかりした人本的な教養を身につけた結果として生涯に わたってラテン語とギリシャ語をマスターしたのであるが、しかしそのうえに数学も 無視することはなかった。彼はどのような学科も困難を来たしていなかったとはい え、どれについても卓越した才能というものを有していなかった。とはいっても早く にその芸術的な天分が姿を現わしていた。すでにそのギムナジウムの時代に彼によっ て詩が公刊されていた。

(15) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 11. [GRGA Bd. 16, 1988, S. 171]

(16) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 14. [GRGA Bd. 16. 1988, S. 174]

(17) Gustav Radbruch, Der innere Weg, S. 16. [GRGA Bd. 16. 1988, S. 175]

(18) Gustav Radbruch, Der innere Weg, S. 81. [GRGA Bd. 1988, S. 231]

(19)

 ラートブルフがその内的な傾向に反して法律学を勉学したのは、その父によって表 明された願望に応じたのであり、父は「父はこの種の自明性というものをもって」対 抗し、「とくに私はこれとは別の願望と能力を無条件的な確信力をもって主張するこ とができなかったことから、反対というものは締め出されていたのである(₁9)」。ミュン ヘンへ、この「素晴らしい町(2₀)」へと彼を異国的なもの、南ドイツの感覚性と官能性、

とりわけミュンヘン人の芸術および芸術者生活が彼を呼び寄せたのである。大真面目 に彼はここでの最初のゼメスターを営んだわけではないが、しかしともかくもこの時 代からひとつの持続的な印象が、ルドルフ・ゾーム(Rudolf Sohm)の『諸制度

(Institionen)』が残った。他では、彼は主として非法律学的なもの、いま一度ホメロ スおよびとりわけゲーテを読んだ、それどころかゲーテは彼をその生涯を通して付き 添っていたのである。その勉学の終わりにラートブルフはミュンヘンのゼメスターの 後にひとつの叙情的なため息を追想している。

     どうにかこうにか最初のゼメスターに      それはひとつの幸運にあずかった時であった      そこで私は多くの姉妹をもつ

     聖ヴィーナスの聖堂から解放された。

     それでも休暇がやってきたとき、

     現にさらば、そしてブラボーと呼ばれた。

     いまや私はひとつの試験の前にある、

     これはひとつの時であった!やれやれ。

 「鼻持ちならぬ大言壮語である」とラートブルフは、その老齢期の記憶のなかでこ の詩を呼んだ(2₁)。ラートブルフを知った者であれば誰もが、彼にカサノヴァの役割を割 り当てるというようなこと、いずれにせよ信じなかったであろう。自らの証言によれ ば、彼は内気で抑え気味であり、これにはすでにむしろニンヘンベルク城公園での小 柄なシュヴァーベン女性マリーとの一対の熱中した時間の歴史が適している。内気な 大学生は「決心に至らず、むしろそもそも固く手をつけるという考えには至らなかっ たのであり」、この少女を失望させたのはきわめて確かなことであろう(22)。ラートブルフ は確かに婦人たちにとってどのような英雄でもなかったのであるが、夫人たちの一人

(19)Gustav Radbeuch, Der innere Weg, S. 19. [GRGA Bd. 16, 1988, S. 178]

(20)Gustav Radbruch, Briefe (Fn. 8), S. 8: an Hermann Stolterford, 5. Mai 1989.

(21)Gustav Radbruch, Der innere Weg, S. 33. [GRGA Bd. 16. 1988, S. 33]

(22)Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 32 [GRGA Bd. 16, 1988, S.188]

(20)

のフアンでは彼はあったのであり、それゆえに一人の夫人を何らかの仕方で危うくす るであろうことを思い切って口にするか、もしくはその筆から流れ出たことは決して なかった。彼女との短い結婚をしながらひとつの悲劇をもって終わった彼の 最初の夫人についてもたった一言の好ましくない言葉をも述べ、そして書くことは決 してなかった(2₃)だがわれわれは時間を先取りしすぎている。

 ミュンヘンにはライプツィッヒが続いた。三ゼメスターをラートブルフは、「当時 のドイツではおそらく最も優れた諸々の頭脳を揃えていた(2₄)」その地の法学部で過ごし た。彼はここで、そのキリスト教の深い見解が彼にひとつの大きな影響を与えたルド ルフ・ゾーム(Rudorf Sohm)とカール・ビンディング(Karl Bindig)と出遭った。

確かに彼はビンディングをそれほど高くは評価しなかったのである(2₅)が、しかしそれで もビンディングは希な仕方でラートブルフの運命となった。つまりある講義のなかで ビンディングはリストの教科書の「危険性」について警告を発したのであるが、これ はラートブルフにとってこの本を読むのに十分な根拠であった。「いったん読むと、

しかしそれは私にもその危険な魔力を実証したのであり、私をフランツ・フォン・リ ストの一人の敬愛する信奉者に、そしてリスト学派の一人の共同闘争者にしたので ある(26)。」

 かくしてそれは、ラートブルフをして、リストが教えていたベルリンへと赴かせた。

しかし、スフィンクスのように新来の者に働きかけた世界都市ベルリンは、法律学の 勉学に対するもともとの嫌悪を再び強めさせた。当時の時代的気分と呼ばれたような

「上質な世紀(fin de siecle)」が、全面的な憂愁をもって、見捨てられているという その感情をもって、その死にいたる病をもって彼を捕らえた―実存主義の前触れで ある。だがラートブルフの社会的信条はここで決定的な刺戟を、特徴的なことに彼が 当時に読んでいたカール・マルクスの『資本論』によってではそれほどなく、むしろ はるかにゲルハルト・ハウプトマン(Gerhardt Hauptmann)のドラマ『織物師(Der

Weber)』によって受けたのである。 ₄ ゼメスターという最小限数の後に、―補習

教師も欠いたままで―ベルリンの区裁判所で「優」の成績をもって第一次司法国家 試験に合格した(1901年)ということは、今日の法学生たちにとっては、ひとつの別 世界に由来するひとつのメルヘンであるかのような気持ちを起こさせるに違いない。

 司法試補職のためにラートブルフはリューベックに帰還した。しかしそれは彼をそ

(23) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9). S. 67 ff. [GRGA Bd. 16, 1988, S. 221 f.]参照。

(24) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 35. [GRGA Bd. 16, 1988, S. 198.]

(25) Gustav Radbruch, Briefe (Fn. 8), S, 222: an Walter Spiess, 3. Juni 1948. [GRGA Bd. 18, 1995, S. 276]

(26) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 35. [GRGA Bd. 16. S. 191]

(21)

こに長くは留めなかった。すでに早くに彼は自らにその本質の「ある種の自然離脱」

と「ある種の主知主義」を認めていた(2₇)。それゆえに彼が実務に親しむことができなか ったことは、驚くべきことではない。そしてこのことは、司法相職にもかかわらず後 になってもそうであり続けた。彼はそれを、どのような刑法上の演習も妨げることを 要しないほどに整えることに探し求めたのであるが、これは彼にとってその私講師時 代においても、第二次世界大戦の後のその教育活動の最後の時代においても成し遂げ られている。しかしこれを、彼はつねにひとつの欠陥として感じていた。われわれは 彼自身に聞こう。「私の関心を引いたのは当時〈すなわち司法試補として〉では個別 事例ではなく、一般的なものであり、具体的なものではなく、抽象であり、生活では なく、概念であり、実定的なものではなく、無制約的なものであった。理念を諸物の なかに探究し、理念を現実の意味と魂として把握し、「事0物の本性0 0 0 0」と呼ばれている、

生活諸事実関係に内在している秩序を探究するには、いまだ十分には成熟していなか ったのである。私はそれゆえに実務のなかにどのような満足をも見出さなかったので あり、それらのうえに、私は当時では理論と哲学をもっぱら見出すことができると信 じた純精神的な諸々の高みを求めて全力を尽くしたのである。今日では私は私のあま りにも早い実務からの転向を後悔している。私は後にしばしば空虚な諸概念を意味の ある直観をもって充足することが私にできたであろう広い経験がないのを残念に思 った(2₈)」。

 ラートブルフはベルリンへ向けてリストのゼミナールに帰還し、その博士論文に全 力 を も っ て 没 頭 し た。『 相 当 因 果 惹 起 の 理 論 (Die Lehre von der adäquanten Verursachung)』というテーマは、それに関するひとつの自家製の刑法解釈論上の作 品を書くことには確かに適していたであろう。ラートブルフの「哲学上の激しさ(29)」 のもとでは、しかしそれは主としてひとつの法理論的および方法論的な研究になっ た。彼は急速に先へと進め、すでに1902年 ₅ 月に彼は博士学位習得のための口述試験 に「優等にて(magna cum laude)」合格した―ヨゼフ・コーラー(Josef Kohler)

はこの作品は不十分であると呼んでいたにもかかわらず。ヨゼフ・コーラーは他でも いま一度全くこれと並んで、ラートブルフの有名になった『法学への手引き(Einfuhlung in die Rechtswissenschaft)』についてコメントしたとき、「ラートブルフの小著『法 学への手引き』は、全く不十分な叙述であり、むしろ触れられなかったほうがよかっ たような表面的な通俗性と駄弁性を示している(₃₀)」と査定した。

(27)Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 13.[GRGA Bd. 16, 1988, S. 183]

(28)Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 53.[GRGA Bd. 16, 1988, S. 208]

(29)Erick Wolf, Rechtsdenker (Fn. 3), S. 725.

(30)Josef Kohler, Aufgabe und Ziele der Rechtsphilosophie, in: ARWP 3 (1909/10), 508.

(22)

 驚くべき速さで教授資格も先へと踏み込んだ。博士論文後のほとんど半年にして、

1903年の秋に、その行為論に関する教授資格論文を、カール・フォン・リリエンター ル(Karl von Lilienthal)が彼を教授資格志願者として採用していたハイデルベルク 大学の学部に提出していたのである。とはいえ、ラートブルフにはこれが責め苛むほ どに長いように思われた。彼は ₃ ヶ月から ₄ ヶ月までに成し遂げられていることを願 っていたのである(₃₁)が、しかし、しばしばそうであったように、法学を営むことへの、

そしてそれに任用されることへの疑問が再び彼を襲った。そしてそれに加えてさらに カール・フォン・リリエンタールが彼に回送されてきた草稿を確かに良くできている が、しかしあまりに短すぎるとみなしたとき、ラートブルフはいよいよもって絶望状 態に陥った。これに対応する諸々の手紙を、彼が家宛てに書いた結果として、彼を父 はついにハルツ(Harz)のシールケ(Schierke)に呼びつけた。「そこでのホテルの ヴェランダで、われわれに知られていたホテルの客の全員の緊張した関与のもとに作 品がついに完結された。それはその二つの部分をもって[ラートブルフは、リリエン タールの刺戟を充足するために、行為概念に関する探究を法学的体系論の本質につい ての先行させた論述を通して拡大した]、半分は刑法解釈論、半分は法の一般理論と いうように、ひとつの珍奇な怪物になった。……(₃2)」。1903年の終わりに、25歳にして ラートブルフは私講師であった。 

 彼はきわめて間もなく「彼が講師の役割としてはとにかく若すぎた」ことに気づい た。「志向と知識が完全に未熟のなかで、私はすでに教えるために任用された。性格 的に私は未熟であったので、私はあの権威[考えられているのは、学部である]に対 して正しい地位を作り出すことができなかった。加えて私は治癒し難いほどの内気で あったのであり、何重にもなる扮装のなかで私を覆い隠すことに務めている内向性と してしばしば、そして酷く誤解されることは何もなかった(₃₃)。」ラートブルフは、ドン キホーテふうに、うっかり言って嫌われることから別のものへと手探りして求めた。

ハイデルベルクの学部の上層階級の思い上がりに対する最悪の一撃は、しかし、はじ めは「進歩的国民党」での、次いで、チューリッヒにおける1913年のアウグスト・ベ ーベル(August Bebel)の葬儀の体験後には、「ドイツ社会民主党」での彼の始まり つつある政治活動であった。大学教師としてひとは当時では社会民主党員ではなかっ たのであり(₃₄)、それは今日でもまさにふさわしいことではない。ラートブルフはしかし、

(31) Gustav Radbruch, Briefe (Fn. 8), S. 9: an die Ertern, 14. Janual 1903. [GRGA Bd. 17, 1991, S. 22 f.]

(32) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. S. 59 ff. [GRGA Bd. 16, 1988, S. 212 ff.]

(33) Gustav Radbruch, Der innere Weg (Fn. 9), S. 65 ff. [GRGA Bd. 16, 1988, S. 219 ff.]

(34) Vgl. Richard Schmid, Versuch über Gustav Radbruch, in: KJ 1970, 63: 「ヴィルヘルムドイ

参照

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