日本語における文タイプとその成分 : 第十一部 事 象と言明
著者 西田 稔
雑誌名 言語文化
巻 12
号 3
ページ 439‑537
発行年 2010‑01‑20
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012058
439 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
日本語における文タイプとその成分 ― 第十一部 事象と言明
西 田 稔
序
外国人に対する日本語教育では、たとえば、
︵1︶ これ︵ ︶いくらですか。
という文の括弧の中の助詞が﹁が﹂であるか﹁は﹂であるかを選ばせる問題がある。この例文では通常﹁は﹂が入り、
︵2︶ これはいくらですか。
となるだろう。もちろん表現としては、
︵3︶ これ、いくらですか。
という、︵1︶の括弧内に何も入れない言い方も使われ、﹁これは﹂という形に特別な意味を与えない場合にはむしろ
﹁言語文化﹂
12―3.
439―
537 ページ二〇一〇年. .
同志社大学言語文化学会
©西田稔
︵3︶の方がこなれた言い方に思える。また、親しい間柄の会話表現としては、
︵4︶ これ、いくら?/いくらだ?/いくらなの?
のようなスタイルでの文の終わり方がある。本稿は日本語教育の方法について論を進めるものではないが、本稿が扱
う話題との関連性が強いので、予備作業として、日本語教育の観点から上記の例文について観察しておこう。
︵一︶ 助詞の選択
―
︵1︶における﹁は﹂の選択、あるいは、︵5︶ これ︵ ︶下さい。
︵6︶ これ︵ ︶欲しいのですが。
︵7︶ これ︵ ︶おいしいですね!
のような文の括弧内に入れるべき、あるいは入れられる、ひとつ、あるいはいくつかの助詞の選択はどのようになさ
れるのか。さらに、複数の助詞が入れられる場合には意味の差をどのように説明すべきか。
︵二︶ 助詞の有無
―
例文︵2︶における﹁これは﹂と、︵3︶における助詞なしの﹁これ﹂との差はあるのか。また、︵5︶~︵7︶についても、助詞を入れないままで使えるので同じことが言える。
︵三︶ 文体の選択
―
たとえば、石田淑子﹃日本語教授法 (1)﹄では、外国人が学習する日本語の文体を﹁デス・マス﹂体と﹁ダ・デアル﹂体に分け、はじめに学ぶべき文体に関して次のように述べられている。
﹁はル﹂体は普通体またイデンフォーマルな文体とア・﹁寧デス・マス﹂体は丁体ダ、フォーマルな文体、﹁呼
ばれている。初級レベルでは﹁デス・マス﹂体から入る。日本語の社会的・公的会話では、﹁デス・マス﹂体が
441 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
使われ、日常会話ではもっとも普遍性のある文体だからである。これに対して学習者が日本で日常耳にするのは
親しい友人間で使用される﹁ダ・デアル﹂体であるから、こちらの方を先に教えるべきであるという意見もある。
しかし、﹁ダ・デアル﹂体がどのような場面でなら使えるかの判断ができない段階でこの文体を教えるのは危険
である。﹂︵一三〇頁︶
ここでは、用語上、多分に書き言葉である﹁だ・である﹂を使う文体と、例文︵4︶のような、親しい間柄で使わ
れる、いわば﹁気軽体﹂とでも言うべき文体︵そこには﹁だ﹂も含まれる︶が、同じ﹁ダ・デアル﹂体のグループと
して語られている点に問題があるが、主旨は明瞭であり、納得のいくものである。
︵四︶ ﹁デス・マス﹂体の利点
―
日本語を文体としての﹁デス・マス﹂体から学ぶことの利点として、右の引用文で述べられていることに加えて、﹁です/ます﹂の使い分けによって、最初から文の構成における体言と用言の違い
が鮮明に意識されるということが挙げられる。
本稿では、日本語における文の組み立て方を一元文/二元文という二つの大きなタイプに分け、それぞれのタイプ
における、︵a︶外界で生起する事象の捉え方、︵b︶三上章の﹁主語廃止論﹂との関連性、︵c︶助詞の使い分けの
問題、以上の三つを議論の柱として話を進める。さらに、その作業を通じて、日本語の文には組み立ての二つの大き
なシステムがあり、日本語の特質として筆頭に挙げるべき項目はその二つのシステムの使い分けであることを論じて
いく。そして、最後に、その使い分けにおいて問題をはらんでいる分野をいくつか概観し、本稿での考え方を述べる。
第一節 用言文と体言文
本節では、﹁日本語における文タイプとその成分 (2)﹂という総タイトルのもとに日本語の文についてこれまでに述べ
てきた事柄のうちで、本稿で扱う話題にとって欠かすことのできない事項についての紹介を行う。
︵一︶ 本論はもともと日本語についてではなく、﹁文﹂というものをどのように捉えるべきか、という問題意識から
書きはじめられた。素材として日本語を取り上げたのは、微妙な事柄については母語でしか分からない点が生じると
考えたからである。﹁文﹂は文法の要であるが、それでいて﹁文﹂についての単一的な定義を求めると様々な困難に
出会うことになる。本論では、まず、ソシュールによるラング︵=慣習によって成り立っている、体系としての言語︶
とパロル︵=個々の発話︶の二つの領域の区別に従いながら、﹁文﹂について次のような二重の定義を与え、二つの
方向からのアプローチを比較検討していく方法を考えた (3)。
︵た関係で結ばれ句法の、最大単位的文a域︶ ラングの領でには、成分が互い。
︵問の解釈による句点︵疑符録・感嘆符を含む︶によ者記b発︶ パロルの領域では、話、の最小のまとまりでありっ
て示される。
︵二︶ この二重の定義のままでは﹁文﹂について語るための手がかりは得られない。それにもともとソシュールによ
443 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
れば文はパロルに属している。そこで、本論は、ソシュールがラングのレベルでも捉えられると言っている﹁連辞の
型 types de s (4)yntagmes﹂と、それに加えて、ブルームフィールドの言う﹁文タイプ s (5)entence-type﹂に助けを借りた。そ
して、ラング/パロルの二つの領域のどちらに当てはめても﹁文﹂であると言うことのできそうな、基本的な文タイ
プに出発点を求めた。その上で、最初、日本語における基本的な文タイプを、次の表1の六つにまとめてみた。
表1
1出来事文
︵例︶ ﹁海が青い。﹂
2説明=判断文
︵﹁すで事幹が私。﹂例い青は海﹁︶ 。﹂
3命令=依頼文
︵返いさ下でいなし/てしを事﹁例。﹂なるめ閉/ろめ閉を窓﹁︶ 。﹂
4意志=勧誘文
︵例︶ ﹁映画を見に行こう。﹂
5希求文
︵しいしほてい書が/を紙手﹁。﹂い欲例が水﹁。﹂いたみ飲を/が水﹁︶ 。﹂
6疑問文
︵る助詞﹁か﹂に終わ文疑で、1~5の変種問は﹁よ誰・何・いつ﹂のういな疑問詞か、ある︶。
︵三︶ しかし、表1に示された文タイプからの出発は、事実上は︵a︶︵=ラングの領域︶での研究への方向性を示
している。それで、︵b︶︵=パロルの領域︶からの方向性に備えて、発話としての文を﹁表現・表明・言明﹂の三つ
の分野に分けてみた。そして、言明は論理的意味論で扱われるような﹁真/偽によって判断のできる文﹂、表明はオー
スティンやサールの言語行為論に見られるような﹁状況に対する適切さが問われる文﹂、表現は﹁言葉の印象・効果
によって聞き手・読み手に反応を期待する文﹂であるという目安をたてた。その後、ひとつには、この表現/表明/
言明の区分は佐久間鼎の「表出/うったえ/演述」の区分 (6)にほぼ対応していることが判明し、もうひとつには、本論
での用語を使うにしても、﹁表現・表明・言明﹂の三つの分野は並び立つものではなく、すべては表現であり、表現
の中に表明が含まれ、表明の中に言明が含まれる、という修正がほどこされた。
︵四︶ 表1の六つの文タイプに話を戻すと、それは多分に西欧文法の﹁文型﹂を意識したものであったと言える。西
欧の伝統的文法、たとえば英文法では文の構成タイプを平叙文・疑問文・命令文︵さらには感嘆文︶のように分け、
さらに平叙文についてSV/SVO/SVC/SVOO/SVOCのような構成タイプに分けている。それに対し
て、日本語では、表1の文タイプを使ったとしても、たとえば、
︵1︶ 海が青い/海は青い/私が幹事です。
︵2︶ お前が窓を閉めろ/お前は窓を閉めるな/あなたが返事をして下さい/あなたは返事しないで下さい。
︵3︶ 私たちは映画を見に行こう。
︵4︶ 私は水が飲みたい/私は水を飲みたい/私は手紙を書いてほしい/私は手紙が書いてほしい。
︵5︶ 君は映画を見に行くのか/誰が何を見に行くの?
のような組み立てが可能であることを考えると、西欧文法のようなタイプ分けは日本語には厳密には適応できず、ま
たその必要もなく、すべては平叙文に相当する文型で扱えることが分かってきた。
︵五︶ 表1の文タイプで言うと平叙文は、希求文を出来事文の一種としてそこに含めると、﹁出来事文﹂と﹁説明=
判断文﹂とに分かれる。しかし、その区別は多分に意味的なもので、二つに分ける必要がないか、あるいは分けるな
ら明確な、たとえば構成上の基準を示すべきである、ということになった。他方、主として日本語における﹁は﹂と
445 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
﹁が﹂の使い分けと判定詞﹁だ・です (7)﹂の機能に関する問題から、述部が述語用言であるか、名詞+判定詞であるか
によって (8)、文を少なくとも二つの構成タイプに分けておく必要性が明らかになり、最終的に日本語の文を用言文/体
言文の二つの構成タイプに分け、定式化することになった︵定式は後で掲げる︶。
︵六︶ 本論での用言文/体言文の定式は、一方においては佐久間鼎と三上章による日本語文の分類と、他方において
は金谷武洋による日本語の﹁基本文﹂の延長上で考えられている。それで、この三人による分類の紹介を欠かすこと
はできない。まず、佐久間=三上の分類について、﹃現代語法序説 (9)﹄に述べられている三上自身による説明を引用する。
ただし、三上の例文は引用個所のすぐ後に挙げられているものを、本稿の筆者が引用文中に書き加えたものである︵原
文ではカタカナ書き︶。なお、三上が言及している佐久間鼎の﹁言いたて文﹂は、上記︵三︶の項で述べた佐久間の﹁表
出/うったえ/演述﹂のうちの﹁演述﹂の機能を担う文である︵佐久間では﹁いひたて文﹂と表記されている︶。
﹁
佐久間文法の言いたて文︵平叙文︶の分類は
一、物語り文
イ、性状規定
二、品定め文
ロ、判断措定
となっている。私はこれを祖述するものであるが、ただ内容本位の命名を、形式本位の名称に戻して次のよう に改める。
一、動詞文
︵ 例:イナゴが飛ぶ︶
イ、形容詞文
︵ いだ害有はゴナイ/しこ例ばすはゴナイ:︶
二、名詞文
ロ、準詞文
︵ ︶頁〇四﹂︵虫だ例害はゴナイ:︶
︵七︶ 次に、金谷武洋が﹃日本語に主語はいらない )((
(﹄の中で掲げている日本語文の分類についても見ておこう。金谷
は、英仏語におけるSV/SVC/SVO/SVOCの基本文型を紹介した後、次のように述べている。
﹁St-) 7119 (esJaqu数の言うように、以下3本通りがそれであるも語がほ少なく、かつ驚くどの短い。は文日本基。
︵さ︶ 名詞文:N - da ︵例 : 赤ん坊だ︶
︵し︶ 形容詞文:Adjective︵例 : 愛らしい︶
︵す︶ 動詞文:Verb︵例 : 泣いた︶
︵﹁詞、日本語教室ではな容形容詞﹂と呼ばれるも動形さど︶には﹁元気だ﹂なもは含まれる。学校文法での
を述語に含む文だが、文法的には名詞文となるにすぎない。なお、この﹁だ﹂はもちろん﹁です・でした・だっ
た﹂なども含んでいる。基本文とはそれだけで自立している文、という意味である。﹂︵三七頁︶
︵八︶ 佐久間鼎の﹁物語文/品定め文﹂の区分は、本論の﹁出来事文/説明=判断文﹂の区分と同じく、文の構成と
447 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
意味を勘案したものである。それに対して三上章の﹁動詞文/名詞文﹂の区分は、それを﹁形式本位﹂の観点から捉
えなおしたものである。金谷武洋は三上章の主語廃止論の支持者であるが、三上の考え方を徹底させ、三上の日本語
文は述語だけで成り立つという主張︵これについては第四節で詳しく述べる︶を、﹁基本文﹂の例文によって実践し
てみせたと言える。本論も三上の路線をたどり、さらに金谷の視点をも取り入れながら、日本語の文を成り立たせる
最小限の成分からなる構成タイプを考え、それを次の表2のように定式化した︵表中の括弧内の成分は、実際には伴
うことが多いが、なくても文が成立するという要素である︶。
表2
用言文 :
︵︶子作操部述+︵用言+構子作操項︶︵+項文︶
体言文a :
︵構文項+︶︵項操作子+︶体言+述部操作子 b : 体言+「は/が」+体言︵+述部操作子︶
︵九︶ 表2の用言文の定式と体言文aの定式は、日本語の文が述語用言または体言述部だけで自立するという考え方
にもとづいている。用言文では、動詞・形容詞・性状詞 )((
(のうちの一語だけで、たとえば、
︵6︶ a あった!/動く。/動いた!
b 大きい。/きれい・・・。
のような表現ができる。体言文aでは、何かを目撃したり、気づいた時に用いられる、たとえば、
︵7︶ 火事だ!/牛だ。
のような表現、あるいは質問の答としての、
︵8︶ ﹁そこにいるのは誰だ?﹂―﹁私です。﹂
のような表現ができる。
︵十︶ 最小限の成分からなる構成タイプという観点からすると、体言文にはもうひとつ別の定式が考えられ、表2の
体言文bがそれである。たとえば、
︵9︶ 花は桜。
と言う場合、この文は述部操作子を伴って、
︵
10さねだ桜/ね桜/桜︶ /よ桜/だ桜は花。
のようになるのが普通だが、それがなくても﹁花は桜。﹂のままで文として成立する。つまり、体言文bでは述部操
作子がなくても、体言+﹁は/が﹂+体言という名詞文ネクサス )((
(が文としての構成を支えている。そして、︵9︶の
文でも、何か︵=花︶についてアルコトを述べるという形式が成立している。その際、この例での﹁桜﹂は形式的に
体言だけの述部となる。体言文の二つの定式のうち、aの方は、述部操作子が支えるなら体言ひとつでも文が成立す
ることを示し、また、bの方は、﹁は/が﹂︵さらに﹁も﹂も加えてよい︶で結ばれる体言が二つあれば、述部操作子
の支えなしでも文が成立することを示している。しかし、体言文の本領は体言からなる二項の間の関係を述べるもの
であるので、体言文aと体言文bの定式が合流して例文︵
10るうろだい多がとこな︶に方れわ使なうよの。
︵十一︶ 本論では、表2の定式に合致する文を構成的文と呼ぶことにしている。そして、構成的文のかたわらに、フ
ランスの言語学者リュシアン・テニエールの言う語句文 )((
(、たとえば、
449 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
︵
11お・・・やおや/︶ !っ痛/。いは。
のように、﹁文法的に組織されない﹂﹁統語的に分節されない﹂﹁構造的に分析不可能な語句﹂︵テニエール )((
(︶、あるい
は慣用的に固定した語句をも﹁文﹂に含めている。語句文とは異なり、構成的文にはある統語的構成が与えられると
そこから無数の文が生成されるという特徴が見られる。
︵十二︶ 構成的文は、本節のはじめに提示した﹁文﹂に対する二つの定義のうちの︵a︶︵=ラングの領域での定義︶
に完全に適合する。そして、日本語の構成的文に対して、形態=機能的に互いに結ばれた成分によって構成され、ひ
とつの述部で終わる連辞の最大単位、という定義を仮説的に与えた。他方、語句文の方では、使われる語句そのもの
はラングに属していても、そこには、実際に発話する際のリズム・イントネーションなど、パロルの領域でしか捉え
られない事柄が大きく関係してくる。また、語句文を書き写した場合、たとえば、
︵
12︶ 雨。/雨?/雨!/雨・・・。
のような表現では、これも﹁文﹂であると言おうとすると、その場合にそれを﹁文﹂としているのは句読法︵句点・
疑問符・感嘆符、その他︶でしかなく、﹁雨﹂だけを取り出すと単語にすぎない、ということになる。そして究極的
にはそれは、たとえば会話を写した、
︵
13︶ ﹁・・・。﹂
という表記に見られるような沈黙をも含み込むことになる。
第二節 一元文と二元文
前節の表2で掲げた用言文/体言文の定式は、日本語の文を成り立たせる最小限の成分からなる構成タイプ、とい
う観点からまとめられたものであった。実際には用言/体言に修飾語や限定語がついて複雑な用言句/体言句を形成
したり、文そのものに導入的な成分がついたりする。そこで本論では用言文/体言文の定式に従いながらも、今度は、
多くの成分を含む文に対応するために、ひとつの文に含まれる最大限の成分を整理をし単純化するという方向から文
の構成をまとめ、定式にすることを試みた。本節ではその結果として得られた一元文/二元文の定式 )((
(を示すことから
始めて、前節で紹介した﹁日本語文は述語だけで成り立つ﹂ということの意味を検討する。
︵一︶ ここでまず右に述べた日本語文の基本構成を示し、その後で説明を加えることにする。
表3
一元文 : 導入部+述部
二元文 : 導入部+自立項(+限定詞)+述部
また、この表3での述部は次のようになっている。
表4
用言述部 : 基底部(=用言句(=用言の支配域にある補語+述語用言))+補足部
451 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明 体言述部 : 基底部(=体言句)+補足部
︵二︶ 表4に示されているように、表3での﹁述部﹂は基底部と補足部からなる。その際、不可欠の基底部は用言句
または体言句に他ならない。補足部は用言句/体言句に続く成分である︵これについてはすぐ後で述べる︶。
用言句/体言句はそれぞれ用言/体言の一語を核として構成される統合句であることは言うまでもない︵ただし、
この用語法では用言/体言が一語だけのケースも﹁用言句/体言句﹂に含まれる︶が、﹁は﹂と﹁が﹂をめぐる議論
に備えて、用言句にのみ統合句の範囲を見定めるための﹁用言の支配域にある補語+述語用言﹂という基準が示され
ている。そして、たとえば、
︵1︶ 太郎がきのう駅で財布を拾った。
という文では、主体補語﹁太郎が﹂・状況補語﹁きのう﹂・状況補語﹁駅で﹂・対象補語﹁財布を﹂・述語用言﹁拾った﹂
が用言句を形成している )((
(。このような場合、それぞれの補語に対して、それらが用言の支配域にあると言うことにし
ている。もちろん、補語が連体修飾語によって修飾されたり︵たとえば﹁大きな財布を﹂︶、用言が連用修飾語によっ
て修飾されていても︵たとえば﹁二度も拾った﹂︶、事情は変わらない。
︵三︶ 日本語文の述部では、基底部︵=用言句または体言句︶の後に、たとえば、
︵2︶ 太郎がきのう駅で財布を拾ったのよ/拾ったらしい/拾ったんだ/拾ったらしいんです。
の﹁のよ/らしい/んだ/らしいんです﹂のような語句が続くことが多い。それが、表4に掲げられている、述部の
補足部である。補足部は前節の用言文/体言文の定式の中で﹁述部操作子﹂として掲げられていたものに相当する。
しかし、述部操作子は、たとえば﹁らしいんです﹂の﹁らしい・ん︵=の︶・です﹂のそれぞれの語を示すのに適切
な用語であるので、述部操作子のまとまりを﹁述部の補足部﹂という用語のもとに捉えることにした )((
(。例文︵2︶の
基底部﹁太郎がきのう駅で財布を拾った﹂は用言句であるが、補足部は、たとえば、
︵3︶ 花は桜だ/桜よ/桜さ/桜ね/桜ですね。
の﹁だ/よ/さ/ね/ですね﹂のように、基底部=体言句︵この例では﹁桜﹂の一語︶の後にも続く。そして、こち
らの場合には、いわゆる﹁体言止め﹂を除くと、むしろ補足部が続くのが一般的で、しかも体言述部では補足部が叙
述機能のさまざまな展開を可能にしている︵とりわけ判定詞「だ・です」が重要な働きをしている︶。
︵四︶ 次に表3の説明をする。そこでの二元文に掲げられている自立項は、たとえば、
︵4︶ これ、いくらですか。
︵5︶ これはいくらですか。
︵6︶ これ、欲しいのですが。
と言う場合の、﹁これは﹂の体言﹁これ﹂、あるいは助詞なし体言﹁これ﹂を指す。そして、︵4︶︵5︶を例にとると、
自立項﹁これ﹂︵+﹁は﹂︶+述部﹁いくらですか﹂︵=基底部﹁いくら﹂+補足部﹁ですか﹂︶の構成になり、述部の
前に立つ自立項が二元文を特徴づけている。同様に︵6︶も二元文である。それに対して、たとえば、
︵7︶ これが欲しいのですが。
の﹁これが﹂は述語用言﹁欲しい﹂の主体補語であり、﹁これが欲しい﹂という用言句に統合される。そのため︵7︶
の文は、基底部=用言句﹁これが欲しい﹂+補足部﹁のですが﹂の構成になり、述部だけで成り立っている一元文と
453 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
なる。
︵五︶ 表3の二元文の定式に見られる﹁限定詞﹂について説明する︵この用語は本稿で初めて導入される︶。日本語
の構文について語ろうとすると、自立項+﹁は﹂の形をした成分と絶えず出会うことになる。しかし、このような構
成では、﹁は﹂だけでなく、﹁では・には・からは﹂などの結合体も現れる。三上章が単独の﹁は﹂も含めて﹁提示補
足語﹂と呼んでいる成分 )((
(なのであるが、本稿では、同じく単独の﹁は﹂を含めて、これらを限定詞と呼ぶことにする。
限定詞には、「は・には・へは・では・とは・からは・までは・のは・なのは」などが含まれる。
︵六︶ しかし、問題もある。上記の定義では、たとえば﹁学校では﹂を﹁学校・では﹂と区切って﹁学校﹂と﹁では﹂
について語ることになる。しかし、﹁学校で・は﹂と区切って﹁学校で﹂と﹁は﹂について語るべきだという見解も
あるだろう︵﹁学校で﹂が補語の形をしているので尚更である︶。ところで、本論では、語句の内部での成分の結合に
ついては認知的な観点を優先させて、﹁a+b+c﹂のそれぞれの部品が、認知的に、①「[a+b]+c」としてま
とまっているのか、②「a+[b+c]」としてか、それとも③「a+b+c」としてか、という点を見分けること
を重視している。問題の﹁学校では﹂について言えば、たとえば﹁学校で残りの仕事をするつもりだ。﹂という発言に、
﹁いや、学校で、はよくない。﹂と答えるような例外的なケースでは﹁学校で・は﹂︵上記の①︶もありうるが、通常
は﹁学校・では﹂︵同じく②︶の認知的まとまりをもっていると考えている。
︵七︶ 限定詞には﹁は・には・へは・では・とは﹂などがあるが、このうち﹁には・では・とは﹂は異なる二通りの
機能をもっている。それを簡単に例を用いて示しておこう )((
(。
﹁には﹂・・・﹁学校には行かない﹂︵﹁に﹂格助詞︶/﹁医者にはならない﹂︵﹁に﹂判定詞﹁だ﹂の連用形︶
﹁では﹂・・・﹁その店では買わない﹂︵﹁で﹂格助詞︶/﹁学生ではない﹂︵﹁で﹂判定詞﹁だ﹂の中止形︶
﹁とは﹂・・・﹁太郎とは話さない﹂︵﹁と﹂格助詞︶/﹁行けとは言わない﹂︵﹁と﹂表示助詞 )((
(︶
︵八︶ 表3の一元文/二元文の話題に戻ろう。この二つのタイプの差は述部の前に自立項が立てられているか否かで
ある。定式では﹁自立項︵+限定詞︶﹂として掲げられていて、典型的な構成としては限定詞が文における自立項の
役割を示すことになる。場合によっては限定詞の位置に、﹁も・にも・へも﹂など、あるいは﹁こそ・すら・さえ﹂
などが来ることもあるし、また、自立項が助詞なし体言であることもある。しかし、日本語の表現における﹁は﹂と
その結合体﹁には・へは・では・・・﹂の重要性を考慮すると、定式としてはまず﹁は﹂を中心とする限定詞を掲げ、
そこからの距離でもって他の成分や形態の役割を考えるのがよい。それで、例文︵4︶~︵7︶で言うと、「これは」
は自立項+限定詞となって二元文を特徴づけることになり、「これが」は補語として用言句に統合され吸収される。﹁こ
れは﹂と﹁これが﹂に対するこのような扱いは恣意的であるように見えるかもしれない。しかし、日本語文の組み立
てを考える場合にはこの扱いは不可欠である。本稿では一元文/二元文の区別が中心的な役割を果たすことになる
が、それは﹁これは﹂と﹁これが﹂に対する上記のような扱いを基盤としている。それで、以下に続く様々な記述の
中でその有効性が試されることになるが、ここでも簡単に説明しておこう。
︵九︶ まず、典型的な二元文の例としては題述文が挙げられる。そして、たとえば、
︵8︶ リンゴは花子が皮をむいた。
455 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
︵9︶ 費用は太郎が預金を下ろした。
のような例を考えると、そこでの﹁花子が皮を・太郎が預金を﹂は補語として述語用言﹁むいた・下ろした﹂に支配
され用言句に統合される。ところが、これらの文の︿題﹀となる自立項﹁リンゴ・費用﹂にはそのようなことは起こ
らない。意味的なレベルにかぎるなら︵8︶の﹁リンゴ﹂には、述部の中の﹁皮﹂との関係が見出せるものの、︵9︶
になると、﹁費用﹂に対してそのような関係づけができる語も見当たらない。つまり、いかに日本語文が述部だけで
成り立つと言っても、題述文を表3の一元文のようなタイプにまとめることはできない。
︵十︶ 次に、﹁が﹂と﹁は﹂の使い分けによって生じる意味の差を説明する際に、補語が用言句に統合される文︵=
一元文︶と、自立項と用言句が文レベルで結びついている文︵=二元文︶の区別が有効である例を観察しておこう。
︵
10 だいし苦が活生らか。︶ いなか働が郎太a。
b 太郎は働かない。だから生活が苦しい。
︵
11 ︶ a太郎が広島に行くらしい。
b 太郎は広島に行くらしい。
例文︵
10﹁のに対して、bでは生れ活が苦しい﹂のは太るわ︶しのaでは﹁生活が苦い思﹂のは太郎の家族だと郎
だと思われる。また、︵
11なう事態に推量的保と留をつけて報告しい﹂︶﹂aでは﹁らしいはく﹁太郎が広島に行て
いるのに対して、bの﹁らしい﹂は、﹁太郎﹂の活動に関して、﹁広島に行く﹂という事態についての推測を述べてい
る。︵
10︶︵
11とろうが、文脈自由文し能てはまず右のようにだ可︶特のどちらの例文でも殊もな文脈での別の読み解
釈されるだろう。その解釈のもとで、これらの例文の自立項を︿ ﹀、用言句を︽ ︾で括って表記してみると、構
成が分かりやすくなる。
︵
12︶ a
︽らいし苦が活生︽か太だ︾。いなか働が郎︾。
b ︿
太郎﹀は︽働かない︾。だから︽生活が苦しい︾。
︵
13︶ a
︽太郎が広島に行く︾らしい。
b ︿
太郎﹀は︽広島に行く︾らしい。
例文︵
12、﹁い﹂の支配域にあり太か郎﹂の主体としてのな働︶合aの﹁太郎が﹂は複用﹁言︵後述︶としての役
割も﹁働かない﹂で終わってしまう。それに対して、︵
12い味意、にずれさ束拘に﹂な︶か働﹁は﹂は郎太﹁のb的
に﹁生活が苦しい﹂にまで関係をもつことができる。︵
13﹂事のつとひてしと体全がく︶行に島広が郎太﹁はでa態
を捉えるので﹁らしい﹂がその全体に関係をもつ。それに対して︵
13太く行﹁言用は﹂郎﹁︶項立自、はで文のb﹂
の支配域にないので、﹁広島に行くらしい﹂の部分が﹁太郎は﹂に対して何らかの関係をもつことになる。例文︵
12︶
a・bの場合には﹁が﹂と﹁は﹂の使い分けという話で済ませられるかもしれないが、︵
13︶a・bのようなケース
では、補語と自立項の差によって生じる、補足部﹁らしい﹂の位置づけの差が見落とされる可能性がある。
︵十一︶ ここで、例文︵
12︶︵
13ておこう。そし、し視覚的に一元文てに︶一で用いた記号を般う化して使えるよ/ 二元文の差を見やすくする必要がある場合には、一方で自立項を︿ ﹀で、他方で述部を構成する用言句または体言 句を︽ ︾でマークすることにしよう。そうすると、たとえば、
︵
14︶ a
︽・言用的元一・・海。ね︾い青が文
b ︽
火事︾だ!・・・一元的体言文
457 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
c ︵
太郎﹀は︽働かない︾んだ。・・・二元的用言文
d ︿
鯨﹀は︽哺乳動物︾です。・・・二元的体言文
という四つの文タイプが視覚的に明瞭に捉えられるようになる。また、︿題﹀または主体項となる自立項 )((
(の後にも別
の自立項が来る場合がある︵特に否定文に多い︶。たとえば次の︵
15︶bがそれである。
︵
15︶ a
︿をだん︾いなわ吸草太煙で外︽は﹀郎。
b ︿
太郎﹀は︿外﹀では︿煙草﹀は︽吸わない︾んだ。
このようなケースでも﹁二元文﹂という呼称は維持しよう。つまり、︽ ︾のみの文が一元文、︿ ﹀と︽ ︾をもつ
文が二元文、ということになる。
︵十二︶ 一元文/二元文に関する表3で、述部の前に位置する成分として掲げられている導入部となるのは次のよう
な語や連辞である。
―
︵a︶﹁あ・おやおや﹂のような情動、﹁ねえ・ほら﹂のような注意の喚起、﹁よし・さあ﹂のようなかけ声、などを表す間投詞の類
―
︵b︶﹁そして・しかし﹂のような論理的推移を表す接続詞の類―
︵c︶﹁今・ここで﹂のような状況を表す指示語
―
︵d︶﹁~している間に・もし~ならば﹂のような、状況的・イメージ的な前提を表す前提節
―
︵e︶﹁おそらく・きっと﹂のように、自らの発話内容に対する話し手の構えを表す副詞の類
―
︵f︶文頭におかれた﹁突然・ガタガタと﹂のように、聞き手への効果を期待する表現。︵十三︶ 導入部の位置づけを曖昧にしないためには、一元文での導入部/述部の分かれ目、二元文での導入部/自立
項の分かれ目を明確に決めておく必要がある。例文に即して本論での扱いを説明しよう。なお、例文には導入部の終
わりに∥の記号を入れてある。
︵ 16︶ あっ、あそこに∥太郎がいる。
︵
17︶ あそこにいる。
︵
18もいないてっ持何︶ は郎太∥どれけ。
︵
19のうろだのいなし加参はに会大日︶ 今は郎太∥くらそお、とるす。
︵
20のたっましてし消を姿は郎太者︶ け怠のあ∥に間ういとっあ。
︵
21んいない違にたっかなた立に役どと︶ ほ∥もてしとたいが郎太えとた。
まず、例文︵
16︶の主体補語﹁太郎が﹂、および、︵
18︶︵
19︶︵
20なは郎太﹁ると︶主体項はたま〈題〉の (()
(﹂を便宜
的に〈かしら〉︵=頭︶と呼ぶことにする。そして、導入部は︿かしら﹀の前で終わる。また、︵
17︶︵
21︶のように、
明示されていなくても意味的な主体が想定できる場合には、そこに︿かしら﹀があるものとみなし、その前で導入部
は終わる。事実、︵
17︶の﹁あそこにいる﹂、︵
21のがとこう補を﹂は彼﹁はに前﹂︶いない違・・・どんとほ﹁ので
きる。また、︵
20し体修飾語は当然︿から・﹀に含まれる。以下連語︶のの﹁あの怠け者の﹂よ定うな、体言の連体限、
必要に応じて導入部と︿かしら﹀の分かれ目に∥の記号を使うことにしよう。なお、前項の︵f︶﹁聞き手への効果
を期待する﹂導入部としては、次の例文のように、長々と続くものがある )((
(。
︵
22 低るように∥雲がくさたれこめていたせ予感んa重苦しく、どよ︶ りと、不吉な嵐を。
b 重苦しく、どんよりと、不吉な嵐を予感させるように∥雲は低くたれこめていた。
︵十四︶ 本節では最後に、用言句における補語の編成を示す場合に備えて、︵十︶の項で使った﹁複合用言﹂の用語
について述べておこう。たとえば﹁手紙を書かない/書きます/書いている﹂のような表現において、語句のまとま
459 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
りを認知的観点から眺めると、それぞれ、﹁手紙を書か﹂+﹁ない﹂、﹁手紙を書き﹂+﹁ます﹂、﹁手紙を書いて﹂+﹁い
る﹂のまとまりとして捉えるよりも、﹁手紙を﹂+﹁書かない﹂、﹁手紙を﹂+﹁書きます﹂、﹁手紙を﹂+﹁書いている﹂、
というまとまりとして捉える方が、はるかに自然である。それで、本論では後者の捉え方における﹁書かない/書き
ます/書いている﹂を複合用言と呼び、補語を含めた用言句の編成を示す場合には、補語が複合用言の支配域にある
形で書くことにしている。次の表は複合用言として扱うのがよい分野のリストである。
表5
複合用言
―
A 動詞の変換形からの活用変換によってできるAS動詞・AR動詞・AS―AR動詞・否定動詞 )((
(
︵れなか書︶・るれらせか書︵るさ例か書・るれか書・るせか書︶い
B1 動詞の不定形+動詞によって形成される合成動詞︵多数︶
︵るぐなき書・るけかき書・わ例おき書・るめじはき書︶る
2 動詞の不定形+様相詞 )((
(﹁たい・たがる・やすい・にくい・そう﹂、または補助用言﹁ます﹂
︵書書きにくい・きいそう・書きま・す例書︶書きたい・きやたがる・書きす
C1 動詞の中止形+アスペクトの補助用言︵多数︶
︵ておてい書・うましてい書・くいい例書・るくてい書・るいてい書︶く
2 動詞の中止形+対人関係の補助用言
︵く・書いていただ・例書いてくださるるやてい︶書いてもらう・書いてくれる・書 (()
(
D1 形容詞の語幹+様相詞﹁そう﹂
︵例︶優しそう
2 性状詞本体+様相詞﹁そう﹂
︵例︶頑固そう
第三節 個別語レベルの統語と一般機能レベルの統語
本節ではまず、用言句に統合される補語が意味的にも述語用言と一体となり、そこで形成される用言句が全体とし
てひとつの事象を表現していることを確認する。その後で、そのような用言句の構成がもつ形態=機能的な特徴につ
いて検討する。
︵一︶ 次の二つの例文を比べてみよう。
︵1︶ a この映像の中では太郎が走っている。
b この映像の中では太郎は走っている。
本論では、文や句によって描写・記述される内容を場面にたとえている。そして、その内容を捉える手がかりとな
る﹁ヒト・モノ・コト・トキ・トコロ・サマ﹂の六つの要素を場面要素と呼んでいる )((
(。例文︵1︶で言うと﹁この映
461 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
像の中・太郎・走っている﹂はそれぞれ場面要素としての﹁トコロ・ヒト・コト︵およびサマ︶﹂を担っていて、そ
の点ではa/b同じであり、この二文の違いは助詞﹁が/は﹂のみである。
例文︵1︶a・bはともに、場面要素︵=トコロ︶を示す表現﹁この映像の中﹂での、ひとつの事象﹁太郎が走っ
ているコト﹂を捉えている。ただ、文として︵1︶aのように﹁が﹂を用いると、そこでの用言句﹁太郎が走ってい
る﹂は全体としてひとつの出来事を表すことになる。そのため、活動の主体︵=ヒト︶はその出来事の中で捉えられ、
﹁太郎﹂は映像の中の人物を指していると解されるだろう。
それに対して、︵1︶bのように﹁は﹂を用いると、﹁太郎﹂はひとまず﹁走っている﹂という叙述から切り離され
た形で話題として取り上げられる。そこでの﹁太郎﹂は、発話の場を取り巻く展望的環境︵言語外の事物の世界、あ
るいは頭の中にある知識や観念、あるいは発話の文脈、さらには交わされる言葉そのもの、など︶の中で言及されて
いる。そして、その後で、﹁太郎﹂についての情報・観察・主張などが述べられる。したがって、︵1︶bの﹁太郎﹂は、
映像の中に見られるヒトではあるが、それにとどまらず、あるいはそれ以上に、発話を取り巻く展望的な環境から取
り出されて話題の的となる人物である。
次のように︵1︶a・bの二文に前節で導入した記号を加えると、活動の主体﹁太郎﹂が映像の画面の中に取り込
まれている/画面から距離をおいて言及されている、ということが視覚的に容易に見てとれる。
︵2︶ a この映像の中では∥︽太郎が走っている︾。
b この映像の中では∥︿太郎﹀は︽走っている︾。
︵二︶ 本論の出来事文/説明=判断文のタイプ分け︵第一節の表1参照︶に使った、次の例についても観察してみよ
う。 ︵3︶ a 海が青い。
b 海は青い。
後者の﹁海は青い。﹂が典型的な判断文としての意味をもっているとしよう。そこでは展望的環境としての自然界
における﹁海﹂という存在について、紋切り型の、あるいは常識的な判断が述べられている。それに対して前者の﹁海
が青い。﹂のような表現が用いられるのは全く異なった状況においてであるだろう。つまり、海の、予想外の青さ、
または期待はしていても現実に目の前にした時の感覚的な青さについて、それを、自然現象における出来事、あるい
は心の中で起こった出来事として述べていると解せるだろう。
︵三︶ 本論の説明=判断文のタイプ分けに使ったもうひとつの例文は問題を宿している。
︵4︶ 私が幹事です。
この文は意味を考えて説明=判断文に配置されているが、この文が、
︵5︶ ︽私が幹事︾です。
と表記できる一元文であることを確認しておかなければならない。と言うのも、本論では﹁体言Aが体言α﹂という
構成をもつ連辞において、Aとαが意味的に「Aがαである」という関係にある場合には、Aを動詞﹁ある﹂の主体
補語、αを帰属補語 )((
(として扱っているからである。つまり、例文︵4︶の﹁幹事﹂は補語になる。その意味で︵配置
は大きな問題ではないが︶これを出来事文に入れる方がよいだろう。また、﹁私﹂と﹁幹事﹂の結びつきをひとつの
出来事として捉えていると見ることも可能である。仁田義雄は﹁現象描写文﹂の例として )((
(、
463 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
︵6︶ アッ、隣が火事だ。
という例を挙げているが、この例文の方が、
︵7︶ アッ∥︽隣が火事︾だ。
と表記できる出来事文であることがよく分かるだろう )((
(。
︵四︶ しかし、﹁体言Aが体言α﹂の構成において、Aとαが意味的に﹁Aがαである﹂という関係で捉えられないケー
スもある。また、その点に関しては﹁体言Aは体言α﹂の構成においても同様である。たとえば次の例文︵8︶a・
bがそうである。
︵8︶ a ぼくはウナギだ。
b ぼくがウナギだ。
aは有名な﹁うなぎ文﹂、bはそのヴァリエーションであるが、いずれの場合にも﹁ぼく﹂と﹁ウナギ﹂の間に﹁A
がαである﹂と言える意味的な関係が見られない。本論ではそのような二つの体言を、二項組み合わせとして扱って
いる。しかし、その場合でも、文の構成としては、
︵9︶ a
︿ぼく﹀は︽ウナギ︾だ。
b ︽
ぼくがウナギ︾だ。
のように捉え、aを二元文、bを一元文と見ればよいだろう。その際、aは﹁ぼく﹂を話題の的として﹁ウナギだ﹂
という情報を与える題述文であるが、bでは﹁ぼく﹂と﹁ウナギ﹂の組み合わせが対︵つい︶となることを、ひとつ
の出来事として捉えている、と見ればよい。なお、本論では、このような二項組み合わせで使われる場合、そこでの
枠助詞﹁は )((
(﹂と格助詞﹁が﹂について、それらが機能的に連結助詞として使われている、と言うことにしている )((
(。
︵五︶ 次に、補語+述語用言を用言句に統合することがどのような形態=機能的な特徴に関わっているのか、という
点について検討する。次の二文を取り上げてみよう。
︵
10布いしら︾たっ拾を財︶ で駅うのきが郎太︽。
︵
11財いしら︾たっ拾を布で︶ 駅うのき︽は﹀郎太︿。
例文︵
10構補足部﹁らしい﹂の成﹂からなる一元文であり+た︶太は基底部=用言句﹁郎っがきのう駅で財布を拾、
︵
11+う駅で財布を拾った﹂補き足部﹁らしい﹂の構成の﹁︶定は自立項﹁太郎﹂+限詞句﹁は﹂+基底部=用言か
らなる二元文である。︵
10︶︵
11に太郎﹂である点はが変わりがない。﹁体︶っともに動詞﹁拾た主﹂が表す活動のた
だし、︵
10れによって明示さてがいるのに対して﹂﹁︶体の﹁太郎﹂が主で詞あることは格助、︵
11︶では文中の﹁太
郎は﹂の﹁太郎﹂が直接的に﹁拾った﹂の主体として置かれているかについては議論の余地がある。しかし、ここで
は仮に︵と言う意味はすぐ後で述べる︶、︵
11たるいてしを割役す表を体主の﹂っ︶拾﹁も﹂郎太﹁の﹂は郎太﹁のと
しよう。その際、自立項にも限定詞にも述語用言との意味的関係を明示する機能はないので、本論では、そのような
自立項が文中の他の語との意味的な相互関係によって︵言い換えると、解釈によって︶、主体・対象のような役割を
担うことを、連携的解釈によって意味的役割が決められる、と言っている。また、このようなケースについて、本論
では、﹁太郎が﹂の﹁太郎﹂を主体補語と呼んでいるのに合わせて、﹁太郎は﹂の自立項﹁太郎﹂を主体項と呼んでいる )((
(。
意味的に見れば、︵
10て言句が全体としひうとつの事象を表し用い︶うでは﹁太郎がきの駅とで財布を拾った﹂て
いる。それに対して、︵
11離支配域から切りし句、﹁きのう駅で財布の言︶﹂では限定詞﹁はが用主体項﹁太郎﹂をを
465 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
拾った﹂という事態が述べられる前に、﹁太郎﹂という人物を展望的環境から取り出して、その人物について言及し
ている。
なお、補足部となる述部操作子﹁らしい﹂は、本論で品詞として様相詞と呼んでいるグループに属する語である。
様相詞は事象︵=コト︶・事物︵=モノ︶・言葉に対して、話し手の評価を加えたり、あるいは不特定の人たちの評価
を話し手が伝えたりする語句である )((
(。
︵六︶ 前項では例文︵
11こうと言ったが、のて例文の場合、﹁太郎扱し︶にの自立項﹁太郎﹂つといて、仮に主体項﹂
はむしろ題述文の〈題〉として扱う方がよい。と言うのも文中の﹁太郎﹂が活動の主体であるとすると、その役割は
﹁拾った﹂で終わる。そのため、
︵
12駅たっ拾を布財でう︶ のき︽は﹀郎太︿︾。
という文にはその解釈を適用することができる。その際には、そこでの﹁太郎﹂は主体項であると言えるが、︵
11︶
には﹁らしい﹂が付されているので、︵
11示ま﹂いしら﹁いなのとこるれさ明︶、の﹁太郎﹂はそがれ自体の主体で
の部分と何らかの関係をもっている、と考える方がよい︵つまり、﹁太郎﹂を︿題﹀とみなす方がよい︶。ただし、
︵
12物く、﹁太郎﹂という人をで特徴づけているというなの︶もの﹁太郎は﹂について、﹁る太郎﹂の活動を描写す解
釈のもとでは、﹁太郎﹂は︿題﹀であると言うことができる。このように、自立項+﹁は﹂を題述文の︿題﹀と見るか、
主体項と見るかが、文意または解釈によって決められることもある。しかし、たとえば、
︵
13﹂たっ言は女彼と/う思は私とた︶ っ拾を布財で駅うのきは郎太﹁。
の﹁私/彼女﹂をこの文の︿題﹀と呼ぶことには無理があるだろう。また、たとえば、
︵ 14︶ 煙草は太郎は吸わない。
という文において﹁煙草﹂を︿題﹀とするなら、そしてひとつの文には︿題﹀はひとつしかないとするなら、﹁太郎﹂
については主体項と見るのが理にかなっている。
︵七︶ ここで、補語と述語用言の関係と、自立項と用言句の関係との差をさらに確実に捉えるために、文の組み立て
における﹁個別語レベルの統語/一般機能レベルの統語﹂という言い方を導入して、統語の二つのレベルを区別して
みよう。まず、ある成分がある用言の個別的な意味と結びついてまとまった連辞を形成することを個別語レベルの統
語と呼ぶことにしよう。それに対して、ある成分が、ある用言の個別的な意味を越えて、用言が表す一般的な文法的
機能、たとえばアスペクト・時制・肯定/否定・題述関係・様相などと関わる場合に、その間に見られる関係を一般
機能レベルの統語と呼ぶことにしよう。例文︵
10で﹁詞動は分成各の﹂を布財・駅︶・うのき・が郎太﹁とう言で拾
う﹂との関係で個別語レベルの統語がなされている。このことをさらに一般化して言うと、用言とその補語は個別語
レベルの統語によって結ばれているということになるだろう。それに対して、様相表現﹁らしい﹂は﹁太郎が・・・
拾った﹂までの部分と一般機能レベルの統語によって結びついている。なお、﹁用言とその補語は個別語レベルの統
語によって結ばれている﹂と言うことと、﹁補語は述語用言の支配域にある﹂と言うことは同じことを意味している )((
(。
︵八︶ 本節で述べてきたことのうちでとりわけ大切なのは、︵
11郎で駅うのき﹁と﹂は太︶﹁とう言てっとに例を財
布を拾った﹂と﹁らしい﹂が文レベルにおける一般機能の統語によって結びついているということ、さらに一般化し
て言えば、自立項+「は」は意味的役割を明示せず、したがって用言との間で個別語レベルの統語がなされないとい
うことであり、したがって、用言との関係を決めるにあたって解釈が介在するのは避けられない、という点である。
467 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
第四節 主述関係と題述関係
本節では、﹁主語廃止論﹂に関する三上章の考え方を、引用文にもとづきながら振り返ってみる。そして、その作
業を通じて、本稿で導入した一元文/二元文の区別がもつ意義について確かめる。
︵一︶ 本論での用言文/体言文の定式、および本稿で展開している一元文/二元文の区別は三上章の﹁主語廃止論﹂
との関わりが大きい。その間の事情はすでに第一節・第二節でも述べているが、ここでは、﹁主語廃止論﹂自体がも
つ意味を再検討するために、論点を絞りながらもう一度、﹁主語﹂をめぐる三上の議論を振り返ってみよう。
︵二︶ その点で、﹃続・現代語法序説 )((
(﹄の前書きが、三上章の考え方が整理され提示されていて参考になる。それで、
そこからの引用文︵1から3まで︶と、同書の本文からの引用文︵4と5︶にもとづいて話を進めたい。
引用文1
―
﹁日本文法の構文論はまことに幼稚である。幼稚の原因は一つではないが、中でも最も大きい原因は、土台がゆがんだままなことである。土台、すなわち構文論のイの一条に﹁文は主語と述語から成る﹂とい
う虚構が据えてあることである。﹂︵五頁︶
引用文2
―
﹁︵略︶第二章は主語廃止論であるが、少しくわしく言うと、日本語文法では次の三つを廃止しなければならないという主張である。
一、主語という用語
二、主述関係という観念
三、単文、複文、重文という区別
中でも重大なのは、二の主述関係である。これは西欧文法には必要な観念であるが、日本文法では無益
有害な錯覚である。そして、一の﹁主語﹂は、腐れ縁で主述関係を喚起するからいけないのである。﹂︵六
頁︶
引用文3
―
﹁主語を廃止すると、述語だけが残る。述語一つがセンテンスを背負うのである。西欧の文が主述の二本立て (bipartite) であるのに対し、日本文法はいわば述語の一本立て (unipartite) である。述語︵広義︶は
用言の種々の活用形が受け持つ。だから構文の研究は、まず活用形のはたらきの研究でなければならな
い。﹂︵七頁︶
引用文4
―
﹁日本文法では、﹁Xガ﹂と﹁Xヲ﹁Xニ﹂などとの間に根本的な相違はないのであるが、わが﹁Xガ﹂と西欧の主語との間には根本的な相違があることを忘れてはならない。西欧の補足語は、述語の形態を決
定しえるものとそうでないもの、つまり主語と主語以外の補足語とに二分される。わが補足語は、全く別
の基準から次の二系列に分かれる。
Xガ、Xヲ、Xニ、Xカラ・・・
Xハ、Xニハ、Xカラハ・・・
469 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
前者はただの補足語であり、後者は題目をなす補足語である。単純補足語、提示補足語のように呼び分
けることにする。﹂︵六〇頁―六一頁︶
引用文5
―
﹁わが﹁X︵ニ︶ハ、シカジカ﹂こそは、語義通りの主述関係なのであるが、それをそう呼ぶことは非常な混乱を起こすことになるから、由緒ゆゆしき古名は英文法に一任して、こっちは新たに題述関係と名
乗らざるをえないのである。﹂︵八五頁︶
︵三︶ 引用文3で﹁述語︵広義︶﹂と書かれているものが本論の﹁述部﹂である。したがって、ここで述べられてい
る﹁述語の一本立て﹂は本論では﹁述部の一本立て﹂になり、本稿での一元文になる。ただ、本論の用言述部は﹁用
言句︵=用言の支配域にある補語+述語用言︶+補足部﹂であるので、あらためて狭義の﹁述語﹂に対する説明が必
要となる。本論では述語を、コトを述べる一般的機能から眺めた用言と定義している。その点で、体言は述部操作子
︵=補足部︶を伴うか、もしくは﹁は/が﹂を介する名詞文ネクサスの中で述部を形成するが、それ自体は述語では
ない。
︵四︶ ところで、述語を上記のように定義すると、今度は前述の定義の中で言及されている﹁コト﹂についても説明
しておかねばならない。用言のうち動詞の主要な機能はコトを述べることだろう。それで、たとえば動詞﹁走る﹂に
ついて、その叙述機能を﹁走るコト﹂という表現で捉えることができる。その点、形容詞・性状詞の主要な機能は連
体修飾であると言えるが、日本語ではこの形容詞類は叙述機能をも持っている。そのためその機能を、たとえば﹁青
いコト・きれいなコト﹂という表現で捉えることができる。つまり、コトを述べる、という言い方で用言のもつ機能
を一般化できる。ただし、たとえば用言と体言を区別する際には﹁走るコト・青いコト・きれいなコト﹂と言えば十
分であるが、事象としてのコトを捉えるためには、﹁太郎が走るコト・空が青いコト・花がきれいなコト﹂のように、
活動や現象の主体が必要であるという点には留意しておかなければならない。
︵五︶ 引用文の4と5で述べられていることを、三上が有名にした、
︵1︶ 象は鼻が長い。
という文について、三上自身の用語を使って言うと、﹁象は﹂は題目となる提示補足語、﹁鼻が長い﹂は述語︵広義︶、
そのうちの﹁鼻が﹂は述語の単純補足語としての主格となる。三上の言う﹁単純補足語﹂は本論では補語である。﹁X
ガ﹂は三上では﹁主格﹂と呼ばれているが、本論では主格補語または主体補語と呼んでいる。また、三上の﹁提示補
足語﹂は、本論では、限定詞を伴って︿題﹀、もしくは主体項・対象項・状況項となる自立項である )((
(。
︵六︶ ところで、引用文3の﹁西欧の文が主述の二本立て (bipartite)であるのに対し、日本文法はいわば述語の一本
立て (unipartite) である﹂という言明についてはどのように考えるべきなのだろうか。と言うのも、本文を含めて読む
と、同書の中で三上が題述関係を︽ bipartition ︾であると考えていることは明らかであるからである。したがって、
引用文3での言い方は、西欧の主述関係と比べた場合の話として理解すべきである。事実、﹁日本文には bipartiteな﹁主
語―述語﹂型なんか存在しないのである﹂と述べられている個所もある︵一〇二頁︶。また、引用文5では、日本文
で題述関係となる形式に関して、それが﹁語義通りの主述関係なのであるが﹂という言い方もしている。そうだとす
ると、前書きとして語られている﹁日本文法はいわば述語の一本立て (unipartite) である﹂という言明は強すぎると言
わざるをえない。しかし、そうではなく、三上には﹁代行﹂という考え方があることを考慮しなければならない。た
471 日本語における文タイプとその成分―第十一部 事象と言明
とえば例文︵1︶については、その﹁中味﹂が、
︵2︶ 象ノ鼻ガ長クアルコト
として分析される )((
(︵八七頁︶。そして、ある例文について、﹁表現意図ハ﹂が﹁表現意図ヲ﹂を代行している、と述べ
た後に﹁代行は従の兼務であり、主の本務は、題目として全文を宰領することである。動力学的な呼応の本務と、静
力学的に中味 (dictum) を形作る兼務との共存を構文の二重性と呼んでおくが、この二重性を理解することが日本文法
への開眼であり、開眼を妨げるものは主述関係である﹂と言っている︵九六頁︶。つまり、日本文の﹁述語の一本立て﹂
は﹁中味﹂に関する事柄なのである。
︵七︶ 題目︵=本務︶と中味︵=兼務︶との二重性に関して注意しておくべきことは、三上が、題目は文を越えると
考えていることである。﹃象は鼻が長い﹄からの引用であるが、彼は﹁堤題﹁Xハ﹂にピリオドを越える底力がある﹂
と言っている )((
(。したがって、場合によっては、題目をもつ︽ bipartite ︾な文の後に︽ unipartite ︾な述語だけの文が
続く可能性があり、そのような文は文字通り﹁述語の一本立て﹂となる。
︵八︶ 結論的に言うと、題述文が﹁二本立て﹂になることは、日本文は﹁述語の一本立て﹂であるという指摘には含
まれていない、ということである。金谷武洋は三上のこの﹁述語の一本立て﹂という見方を受け継ぎながら、日本語
の﹁基本文﹂を提示している。これは三上の﹁主語廃止論﹂がもたらした重要な成果であると言える。そして、本論
もまた、佐久間↓三上↓金谷の路線をたどりながら、日本語の文は述部だけで成り立つという考え方のもとに、用言
文/体言文の構成タイプを提示した。そして、述部だけで成り立つ文の構成タイプを一元文と呼んだ。それに対して、
本稿で言う二元文は必ずしも題述文とはかぎらず、自立項︵+限定詞︶+述部の構成を想定しているが、題述文がそ
の中心を占めていることには変わりがない。日本語の文の構成の基本を押さえ、文の成分の分析をするためには、三
上の﹁述語の一本立て﹂、金谷の﹁基本文﹂のような観点が有効であると本稿の筆者は考えている。しかし、そのこ
とによって、その傍らに題述文を中心とする﹁二本立て﹂の文の構成タイプがあることが視野の外に出てしまう恐れ
がある。本稿では第六節で一元文/二元文の共存という視点から、そのことのもつ意味について考えるが、その前に、
次節で、一元文を成り立たせている﹁述語の一本立て﹂の構成と大きな関わりをもつ、﹁人称﹂の表現の問題につい
て触れておこう。
第五節 人称とコソアド体系
本節では、西洋文法での﹁人称﹂に相当する表現が、日本語の文では述部の構成の中に収まっていること、そして
その表現においては﹁コトアド﹂の体系が大きな役割を果たしていることを述べる。
︵一︶ 西洋文法、とりわけ国文法が大きな影響を受けた英文法における主語と動詞の結びつきについては三上章も繰
り返し語っているので、ここでは繰り返さないが、その結びつきによってマークされる人称について少し考えておこ
う。﹁一人称/二人称/三人称﹂︵および﹁単数/複数﹂場合によっては﹁双数﹂︶は、一般的に言えば人称代名詞と
動詞の人称語尾によってマークされる。そして、国文法の整備のために参考にされた英語・フランス語・ドイツ語で