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筑紫文学圏論 第一山上憶良・第二大伴旅人、筑紫 文学圏

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筑紫文学圏論 第一山上憶良・第二大伴旅人、筑紫 文学圏

著者 大久保 廣行

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 文学

報告番号 乙第111号

学位授与年月日 1999‑03‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004059/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

II

筑 紫 文 学 圏 の 論

(3)

1 1  地 川 的 位.

第 一 章  筑 紫 文 学 圏 の 時 問 と 空 問

地 理 的 位 相

地 名 表 現 と の か か お り

小論では︑まず﹁筑紫﹂の地川的状況を概観しておきたい︒

1 地名の分類

筑紫丈学圈にかかかる諸作品に見える地々い⁚を楠出し︑現在の行政区川を基準に分類すれば 人養孝氏丿虹の戸・し・

参川一︑次ページの通りである ・ご外閲の国︲\筑後のプなどの劣へ⁚は除く・︑

この人を概観するに︑人卒府とその周辺に当たる福岡県に地名が渠中するのは当然であろう︑佐賀県ではほとん

ど淑松浦郡・唐津地方に限られ︑旅人の巡行によるものである︒北は対馬で面⁚は斤鳥列島柚汀高のく片楽︑雨は鹿

2  1

(4)

第 ・'・;y 筑 紫 七学 圈 のI靖=川 と十│川

H

福岡県︹筑前

I像郡

柚岡巾

糸島郡 筑後・

紫 3.︲.ハ︑4︑6

川 5︑5

山 6

山 6に几

郡 

油 6.託

㈲ 6.託

潟 6

山ljむ 6.fy1 べχ.・.・Q.χJ山 1ノ こ 

y3f︲jFI p7  kals`a回 5.ノ

家 4

筑前14 1心賀 師二八六〇〜八八六几題

滓屋郡心賀村 拓〜八六〇〜ミ八六几左

ぶ賀 国べ八六く∴よ八六几

ぶ賢の山 師〜八六二

人池川沼 師〜八六.べ

ぷ 貿 の 浜 辺 4 斤 六 六 且 且 八 入 ⊃ レ ﹁

︷ バ ︸ 原5 八 八 三︿ こ

八一四題

202

(5)

地 川 的 位 相 I 1

人野城巾

筑紫野巾

iIiIIIIIIIIIIIIIIIII

︑.LI. ヽ

jyH

fykj ︷祐白尚

八八

山6 六大いい

几 九六六左︑

城の山 5八二〜

6

χ

人城の山 8一四じ四題∴四じ囚

次川湯泉 6九六一題︷

易の京 6九六.

筑前田蘆城駅家 4斤四几〜に汪.託コ題

言 ∩ く □

安の野 4片片片

言摩祁 5八〇〇〜八〇九左

松浦 5八斤六・八六〜

松浦県 5八八E.〜八六ぺ序︑5八に

松浦跡 5八じO

4斤六八〜hじ

松浦尚川姫・・ 5八しI〜八じ五題︑5八じ

松浦・前哨 5八六尺〜八六ヒ題

松浦の浦 5八六.仔

町 5.・〜fk

松浦の川

松浦に潭 5f.仔

題︑8

叫‑‑

O

.・

L1

し三・八じ四・八じに几︑八八二題

三題︑5八斤斤・八六〇・八に

に旺八

5八六国〜八六じ題 .一

20^

(6)

11  弟 万  几 紫 とf:│捌のll,川]  い 順│

徨雌郎 高 5.h.川

川 5.片

浦 

島1  5.片..

領巾座高 5八じ.〜八し.瓦題

松浦山 5八八万

辿4

8FIIiIILII

lli1111艮崎県︹肥前・壱岐・付馬一

長崎巾か彼杵郡

柚汀巾

︲県郡

熊本県︹肥後︺

︲益城祁

肥前川彼杵部平敷 5八一三・八

   四題

肥池田松浦郡足弥良久崎 16一〜八六〇〜

対馬 16三八六〇〜〜八八几左万 回

対馬の結石山 5八▽〇・八.一辿

てユー川州八千几ベゾハソペ﹂ご づミ

鹿児島県︹薩摩・人隅い

阿久根巾隼人の脇門 6

ノぐ

〇 

児島県阿久根巾と長島の闘の﹁隼人の喘門﹂・てXヴの辿門一に及び︑それぞれ万薬関係地の最果ての地である︑

これらの地名がどんな場やテーマにおいて歌中に収リトげられているか分類を試みると︑およそ三群に集約され

てしまいそうである︒次長のA・B・C群がそれで︑それら以外のD群がむしろ例外的存在である︒︷ ︾内は︒題訓・ダビ

2(  4

(7)

地 坪 的 位 相

]1

B

)   (c )   (d)㈲(b)  領 同  松 鎖 桔・  志 件

.   巾 辿  沁 傾 斜  貿 ・ 胞 和  河‑fi" の   ∩ 伝 の   に  目  水 説 嶺   遊  本  郎 と

ぶ   琴    A

(dバ ○(b )㈲

借 賤 集 荷 宴 別 宴 宴 旅

卵 白 ∩ 宍ジt八H, の 丘 れI   沁 ..

 Mi   斑 馬111 ド バ 白 ∩ コ ノ

,佐 佐 ・ ヅ   Ill ;"  ?i│f  な]

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   回 賞

, ニ ヴ 勺 浦   ダ 原Ill,,;

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佐 リ5 

松 ・  A ぶ ⊃ 八  

浦 f   ⌒y]│,

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河 負  V   像n   斤   ・ 原  

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松  ●   fミ  竹      lie   二沁

−.     の 珂  九 月 JS  川 郡     国 八       し 伊     忖 じ      lト 知l    沁/l

こ      高 郷    y

` 姦     芙 ソ    皆 川 5     久

・ 八     崎 に 一     ・ 高 べ     刈・

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−    ぶ5  囚     八

斤      志j  

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① ⑤0    ⑥ ① 言二v   完

言A

山  水'・)'■  タバ 回 朝 道4  ・ 城 駅4       予 予 ぺ

汗 水 ゛ 家 汗  篇it

城   ゛ ':   ① 腿 t 祐 

づ や 丿       口   /l. じ 6 几 只  四  . 

六   几 六 柝   几 蘆 柚

■ S 城 潟]

ぃf. 十三6 乃 ャ ヶ 

−・  玩/

\ / へ 号    8 :卜 八  / 、   

五S■ じ4

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名児山

人伴熊凝 ︿貿

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IIdlIlfildjIIFIirillllillllllIIIFIIIII11111111111iII︱−1111FFIsIFILL

−   −20^

(8)

11  槐 筑 紫 丈早 圈 の 峙 間 とや 間

D

㈲ ㈲   ㈲ ㈲ 締 恋  祁 歌 の 上 作 他 り 撰

C

(b)       望        亡 大 郷       友 の 悲II差 陽 嘆

筑 人 余 筑 こ 紫 野 宍 紫AI. "

 en) 3  .国 二 笠 八   . 一   城 . a し]

。.O 人 令 ○4 城 へ 犬 山   八 ゝ     

〃』8  

中 口O  ⑥  ① 人 。 城 一 一 の 次 の 人 筑 記 淵 田 山 野 紫 門'/"l  山 の 城 泉5  ゛6     ^八5  8 几 湯  こ じ5 六 の  し 几 じ 四

原  几 玩 じ 四 二6  

几      一 六      四 一       し

2 歌群の内容

以下︑各群の特徴をつかむために︑右の個々の歌群について通覧しておこう︒

A群

㈲ 神亀五万万年トー月︑大宰府の官人たちが仲哀天白E・神功自E后を祀る香椎廟の祭祀に携わったタ朝であろう

か︑香椎の浦に馬を駐めて︑帥の旅人・人弐の小野老・背前守の宇努男人がそれぞれ懐を述べたもので︑いずれ

も﹁首椎︵の︶潟﹂を共通項として冰み込んでいる︒宴の席ではないが︑儀式を終えたあとの解放感に溢れ︑そ

206

(9)

地川 的 位 相 i 1

の歌い継ぎぶりは宴席歌に準じて考えてよいだろう

㈲ 大宰の諸卿人夫とI人たちが蘆城の駅家で夏した時の二件で︑作者は未詳︒蘆城の駅家は人字府の束南約四キ

ロの所で︑田河道の回遊が通じ︑公務往来の駅馬を置いた︑宴の目的は明らかではないが︑第一件に女郎花や秋

萩を詠じ︑第二竹に蘆城の川を愛でているところからすると︑犬養孝氏の討われるように︑﹁人和に似た山河清

閑﹂面相お⁚・の趣が郡出身の官大たちの郷愁を誘ったものだろう︒

㈱ 二群とも蘆城の駅家での賤宴の折のものである︒

① 人宰少弐石川足人の選任の折のはなむけの歌で︑作者未詳︒石亀︒比年︶

O 旅人が大納じ⁚に任ぜられて帰京する当たり︑府の官人たちが送別の宴を張った時の作︒作行は筑前禄門部石⁚

足人典麻田陽春・防人佑人伴囚綱ら︒ズ〜︒︒午

㈱⑦ 人弐の丹比県守が民部卿に選任することになった折︑旅人が友を失う悲しみを詠じて川った作︒

○ 人平二年六川︑旅人が脚に愉を生じて片しんだ時︑庶弟稲公・甥胡麻Mが勅命を受けて9 舞に馳せつけた

が︑数句にしス平復し︑いよいよ帰京するに際して︑人監人伴百代・少瀧ハ山︲若麻り∵家0 らが駅使を送っ

て火守の駅家心岡巾多多羅というが木Iに到り︑別れを悲しんだ時の作︒作者は︒自代・若麻I⁚︒

○ 人ず一年ト大川旅人卜京の折︑水城まで見送ってきた府吏の中に児島という遊行にズ婦かおり︑涙をぬぐって

自ら袖を振る歌を吟い︑旅人がそれに和えたもので︑児島への思いやりに満ちている︒

○ 旅人ト京後︑造筑紫観吐六万別当沙弥満誓・ゾ﹃麻いから送られた歌に旅人が和えた作で︑遠く友を9 よ心が

にじみ出ている︒

20 フ

(10)

ご 川 端の 吋 間 と 言 川 筑 紫

H

みや χ﹄① ﹁城の山﹂は佐賀県ミ徨払部払山町の払山︑筑後の国府久留米巾 からこれを越えて人字府に到るもの︒ゝ一

れも旅人に京後︑筑後守鎬片人成が悲しみ嘆いて作った歌︒

このようにA群は︑行人たちの什水に際して生み出された歌々であることが理解される︑それが︑夏のような集

凹の中で旅人よりト位の行の詠出にかかる場介は︑おおむね公的・社交的・讃歌的様相を⁚巨する︒だが︑㈱ににら

れるように︑惜別をテーマとする旅人の個人的贈答歌になると︑切々とした輿情の溢れる心の通い介いを汲み収る

ことができる︒また︑㈲の場介は公的な集宴ながら︑美的対象を求めるものである点に七に︲したい︒ゝ﹂れは︑後に

触れる望郷やみやび追求の心に通ずるものである︑

B群

これは悲劇的乍件や伝説に取材したり︑物謡的なぽ構を創作したりする際に地名がかかおりを持つ場介である︒

前記の地名の人1 がこの範時に詐まれるのはまことに興味深い︒しかも︑㈲の追和の作が⁚⁚川八白の⑤が三島

に︑巾が坂ト郎女であることを除けば︑あとはすべて旅人または憶良か︑旅人に随行した府のI人の作である点も

きわめて特徴的である︑このようにBグループに地名が偏在し︑しかも特定の人物にその使川が集巾するという現

象は︑筑紫丈9 圏の丈学を捉えるトで或る示唆をソえよう︒以下︑旅人と憶良に絞ってその傾向を概観しておこ

︹旅人作︺

㈲ 部の藤原房前に対馬産の梧桐で作った︲本琴を贈るに際して認めた書簡丈である︒しかし︑その巾身は︑初め

に漢丈の前文を付して場而設定・状況説明を行い︑しかるのちに和歌による贈欠⁚をはめ込み︑叫び漢文でその結

2(  8

(11)

1 1  地 坪 的 位 相

木を締め括るという短編物語的構成がとられている︒しかも︑その発想たるや︑夢の中で琴が娘了に化して作者

と問答を交わすというきわめて幻想味に富んだものである︒﹃文選寸与吟や﹃遊仙窟﹄に想を借りながら︑そ

れを巧みに和歌的世界に取り込んで和漢混淆の文芸を造やし︑琴を贈るにふさわしい詩文と成しえている︒

㈱ これは松浦の県に島の潭で出会った仙媛と蓬客との恋物語である︒まず漢文の序によって神仙・譚的な淑件の腱

開を詳述し︑その中の二人の問答を二組八俘の唱和形式の和歌によって目一八体化し︑さらに後人追和のご︒佇を加え

るという新形式を用いて抒情の高まりを形成している︒これもまた﹃文選﹄︷帖賦一や﹃遊仙窟﹄に想は借りてい

ても︑ト鳥川の景観が憧れの︒⁚野の仙境を眼前に蘇らせ︑鮎を釣る鄙の現実︵紳や⁚ごの故Iから叫︲■i<'︱oi;鮎を釣る

のをがいとするといダ・に触発されて︑漢和混然たる一人歌物語世界を意識的に創造したのである︵八轟〜八牡と八五八

〜八六II俳の贈政⁚はそれぞれ別の町の八人の吟︑

㈲○ 人伴狭1 彦皿提比﹈は旅人の組人伴企村の三男で︑書紀によれば二度も半島に外征して戦果をLげた実在

の人物であるしあ歌群は︑狭工彦が朝命で任那へ向けて出航した際︑愛人の松浦佐川姫が今の鏡山︵詰疆

れなりしにひって御面を脱いで振り続けたという哀話を偲んだものである・屈前風九回には挟ト彦と篠原弟︲如fとの

い説夕仏える・︑歌は﹁領巾振りしよリソ﹁領巾を振りけむ﹂﹁領巾振りけらし﹂﹁領巾振らしけむ﹂というふうに︑

すべて現時点から過去を回想する形をとっている︒漢丈の前文を伴う点け前二者と同様であり︑それに後人辿

和の作を加える形式は︑㈲の場八⁚と似ているが︑﹁後人八和﹂︹八︒︺は人宰府竹人︑﹁殷後人八州﹂︵・じ︒しは別

の府の宮人︑﹁殷々後人辿州に几じ四人尽﹂は憶良の作らしい仙岡耕︱氏万什旅う山ト億八講座︲参Iよなど

このように︒㈲と㈲は歌物語的匪児作の現出をぷ向する確かなえス意識にえつ創作であって︑きわめて幻恕的ない

209

(12)

艮 紫 俘 リ 順

11

わば仮字世児︲の構築が図られている︑作れは自らその夢幻窄間に分け入り︑夢から醒めてのちそれを追想して懐し

回向の⑨で作行が作中に飛び込めず︑外側から眺めて川恕しているのは︑すでに狭L彦と佐川姫の伝説が碓川た

るものとして存在しているので︑フィクション化の余地が残されていないからであろう︑

﹇憶良作﹈

㈱ 筑前田余像郡のよ形部津麻り⁚に代わって︑対馬への送校船の船頭として出航したぷ賀村の荒雄が暴風雨のため

に遭難した事故に取材し︑残された妻了の悲しみを歌い卜げている︒この歌群の成立・構成については論が多い

か︑ぶ賀島の風俗歌として伝誦されていたものに︑憶良が創作の1を加えて成ったものと考えられるに令ってい

る︒ここでは特に︑左注の末咤の﹁筑前国守山L憶良臣︑妻fの傷を悲感しび︑ぶを述べて此の歌を作れりとい

ふ﹂という憶良の態度に注目しておきたい︒

㈲ 筑前国拍上郡深江村子負の原に鶏卵状の二つの美しい石があって︑占老の々⁚い伝えによれば︑神功自E后が新羅

征討の折これを袖の中に挿んで心の鎮めとしたという︒前丈に謡られたこの伝説は︑記紀のほか﹃筑紫風化記﹄

・﹃筑前川風ヒ記﹄にも見え︑広く知られていたものらしい︑歌も︑永遠不滅の﹁訂魂﹂としてそのや石性を強

調讃美する︒

㈲① 直接伝説そのものをテーマとした作ではなく︑肥前国松浦地方へ巡行できなかった無念の心を旅人宛の書簡

で三首の歌に託して開陳しかものである︒第一首は佐川姫の領巾摩の嶺を偲び︑第二俘は神功白ど肩がト島川で

鮎を釣った時のゼに思いを馳せている点で︑伝説地へのなみなみならぬ関心と憧憬の心を読み収ることができ

210

(13)

1 1  地 坪 的 位 相

㈲ 肥後国益城郡の占年人伴熊凝が相撲の使の従夫としてレ京の途中︑安公田佐伯郡高庭の駅家で︑老いたる父け

を気遣いながら病没した悲劇に収材︑憶良自ら熊凝の身になり代わって夭折の嘆きを連ねたものである︑

このように︑㈲と㈲の①にあっては︑記紀・風土記に見られるような筑紫の伝説に格別強い関心を寄せ︑自らそ

の地を足で確かめたいとの意欲に燃え︑それが果たされた時は伝説を眼の当たりに再現する思いで感動し︑そのよ

って来る所以を創作化するのである︑また︑㈲と㈲にあっては︑大寿を全うしえず突然乾か襲いかかってくる悲劇

的個件に対して︑憶良はきわめて深い人間的同情を寄せ︑自ら本人その夫あるいは妻八のえ場になりきって︑事件

に直面した人々の心情のくまぐまを生き生きとあぶり出して見せる︒しかも︑詳細な前丈や序文両・㈲・や書簡丈

山の口を伴っていることち旅人の場介と同様で︑特色ある表現形式である︒

以しのように旅人・憶良にあっては︑地名は個件や伝説や虚構と結びついて和歌に収り入れられたのであった︒

二人の興味と関心は見てきたような食い違いはあるが︑﹁漢文十和歌﹂という散丈と韻文の融介化は︑まさにこの

時代の新しい丈芸様式と︑一⁚える︑その散文も︑田心想を語るものとしては他にも憶良は愛川しているが︑物語的叙述

に川いてその頂点に和歌を据えるこのあり方が︑この際︑特に重要視されてよい︒折しも同時代の高机虫麻呂はよ

り典や的に伝説歌人として活躍したが︑こうした伝説への強い関心は︑筑紫と束田という遠く祁を離れた犬ざかる

鄙にあってy﹄そ昨能であり︑それがまた新しい丈芸の開拓にもつながったのであった︑

C群

旅人が筑紫にきて失った辰人のものは友の人伴郎女であり︑それがまた失った故郷への田心いを一川つのらせるヽ﹄

ととなった︒

2 口

(14)

II  第億  筑 紫 七学IS] C7) ││丿i け 空 川

㈱① 1記火城﹂は城の山の城塞で︑人字府の巾面︑肥前との境をなす要衝︑勅使として弔問に派遣された式部人

輔石上曜魚と' J' Jにひって望遊しか折︑旅人が︑敗った橘の花を慕って鳴く雷公鳥にことよせて︑かの急逝に

遭って悲嘆にくれるわが身を詠んだものである︒

⑨ この二つの地名表現は憶良の﹁目本挽歌﹂に9 え︑旅人その人になりきってしガヘのゆすりトげるような良

慟を歌いLげている︒これに先しって漢丈による悼亡文および悼ご詩を添え︑反歌も斤俘を連ねていて︑相当

力を汗いだ作であることが理解される︒

O この﹁城の山﹂は﹁大野山﹂一川トが巾と同じ︒作は大宰人監人伴バ⁚代のもので︑天ず∇〜年止月旅人の

・官邸で催された梅花の宴での一佇︒この歌宴は︑府の宮人に八国二鵬瓦前・筑後・り後・薩摩・人隅・壱岐・対島

宮人らを加えた三二おが順次歌い継いだ集中最大のものである︒

⑤ ﹁次川の温泉﹂は人宰府郊外の二日巾混泉で︑旅人は心の痛1を癒やしによれたものか︒折しも時も定めず

鴫く蘆鶴を聞いて︑﹁わがごとく妹に恋ふれや﹂とわが身に引きつけていぶかるのである︑

旅人の先の床構が確固たる文芸意識に根ざしたものであるとすれば︑これらは巧まずして︲をついた心情衣

出である︒旅人の作品の中で︑このし女辿慕のこころはさまざまな形を借りて顔を出すが︑とりわけ人平二年

冬の帰京に際して冰んだ︑ぺ群し佇スヤ0 二半︶から成るに夏悲傷歌群に結品する︒実に友の死こそ彼を

武人から真の抒情詩人に変身せしめたのであり︑その記念碑的な作品を完成させて間もなく︑彼自身もまた他

界したのである︑

せ レ﹂       あゆ㈲ ﹁隼人の濡門﹂は鹿児島県所在説によれば︑万葉故地の⁚な南端となる︑そこのげ⁝石ちなお年魚走る︒⁚野の宮滝

212

(15)

1 1  地川 的 位 相

の激流の景観には遠く及ばないと︑旅人は歌う︒ここで佐意しなければならないことは︑そこには長川工の作

︵3.︒四八︶のように自然の景観への素心な驚きのないことである︒かりにそれが勤機づけとはなっても︑すぐにぶ⁚

定的要素に反転して︑懐かしい︒⁚野の渋流へと思いを馳せる︒遠く異郷にある旅人にとって︑占野もまた故郷の

一つであった︒旅人には故服と呼ぶべきものが三つあった︒家郷のある奈良の都皿汗︑生育地の飛ハ︑幽逡な

仙境L⁚野がそれであることは︑3三三一y一ノ五の望郷の迪作によって明らかである︑さやかな象の小河や宮滝

付近のし⁝︲の有なりは︑彼の神仙趣味を満たすにト分であり︑まさにユートピアであった︒

にか右慕歌と望郷歌は︑地わとのかかおりこそ少ないが︑実は旅人文学の根幹に据えるべき有要な作品群であ

る︑

鄙の意識

さて︑以トのように概観してみると︑問題は旅人と憶良に集杓されてくる︒

これほど多くの地瓦⁚にかかおる歌がありながら︑その地の風物を紅正面から取リトげてy一れを讃尨するものが一

つも見当たらないことは︑一体どう解すればよいのか︒そもそも辺境に生きることをどう考えていたのか︒これま

で見てきた限りでは︑旅人は火ったものあるいは失わんとするものへの愛惜を深めて︑反現実の吐界の枯築に桁魂

を傾けており︑対して憶良はおおむね死にまつわる人事をねばっこく歌いLげるという形で︑それぞれがそのヒ地

とかかおり全持ったのだった︒これはどう乙︑遠く都から隔絶された人ざかる鄙に在り続けることへの沁痛に発し

ているのではないか︒

213

(16)

京川 ノ)峙祁 に 筑 紫 七学 圈 り J

H

旅人は人宰帥着任後︑愛が人9 郎反の叱︑政治的生八四に望みを託していた長麗トの死︑自身の叱を覚悟させるほ

どの病片等︑色齢の身にして続けに運命の残酷な仕打ちをぐけた︒旅人は﹁匪の中は察しきもの﹂つa足二という

認識を休験的に深める中で︑運八叩の終末が確実に身に辿っているのを︒︷⁚応なしに自覚させられたはずである︑対馬

の結八山の梧桐に﹁空しく溝壁に朽ちむこと含恐るるのみ﹂と嘆かしめたが︑それはそっくりそのまま旅人の当時

の心境を示すものであったと9 てよいだろうドペ平犬年の初め冰んだ﹁口外︑故郷を田心へる歌﹂︵5八四し人川八︶は︒

♂I.`rj〜俘︒逓となって嘆色から望京へと巧みに転じて︑一筋に祁への怖憬を⁚り楊させているが︑ 111 いたく降ち﹂果てた

自己を﹁いやしき五⁚が身﹂と捉えたのは︑孤独と憂悶の中に叩の気に染まりきってただただ老残の度を加えてい

く︑厭わしくもみじめな姿をそこに兄出だしたからに外ならない︒征隼人持節人将車として隼人族の反乱鎮圧に勲

功のあった旅人にしてみれば︑野蛮にして粗暴な鄙の地は︑乍定醇化すべきものであって︑その中におのれを融け

こま廿て生を楽しむ場所では決してなかった︒だから︑彼は最後まで叩に馴染めぬばかりか︑むしろ鄙に在る嵯嘆

は増幅し︑鄙を厳しく拒絶し続けたのであった︒

方︑憶良は閥守としての任務を忠実に遂行し︑また彼自身のヒューマテズムから鄙の民衆に温かい︲を注いだ

が︑だからといって鄙の地の任に満足し︑それを積価的に七︲定していたわけではない︒それは旅人帰京の折の

 1 敢

へて私の懐を布べたる歌三俘﹂﹁5八八﹂〜八竹︶の第〜自でフ人ざかる鄙に五乍住まひっつ都の瓜習忘らえにけり﹂

と深く嘆き︑第三佇でフ五⁚がトの御霊給ひて存さらば奈良の祁に昌トげ給はね﹂と郡への召還を熱望しているとこ

ろからも明らかである︒また︑それから三乍後で北も鳥近な病床で︑憶良は﹁Lやも空しくあるべき万代に語り

続ぐべき名は立てずして﹂︵6七八︶と慨嘆したが︑人ざかる鄙に在っての地味な職務は︑やはり▽に﹂たる律令宮

214

(17)

I  地 川 的 位 川

1

人としては﹁空しかるべき﹂ものであり︑宮人として後匪にわを残せぬ人生は︑意に満たぬものであったに違いな

こうした鄙への向背の姿勢が︑憶良には生病老死への思索を深めさせることになり︑旅人には人恋しさや祁への

憧れをかきえてさせて個人的抒情に深く沈潜せしめることとなったのである︒

旅人についてさらに付︒⁚すれば︑5八丁に〜八六三までの四群から成る歌群を︒みやびの歌巻と称してみたこ

とがあるが末八⁚︑I第︒ぐ叩︑遂に鄙に㈲化しえぬ違和感は︑その反作用によってIひなび﹂に対する﹁みやび﹂

を強くぷ向させる11とになる︑鄙に対するばねのような反撥力が幾たびとなく郷愁を歌わ廿︑亡妻に迫慕の歌を捧

げさせ︑新傾向の虚構の文芸を生み出させたのである︒そのいずれもが鄙にある現実に対して︑眼前には実在しな

いところのいわば反現実の匪界をテーマとしている︒現実を厭えば厭うほど︑彼は反現実世界の中に深く分け入っ

ていったのである︒晩年の集中的な歌作の子不ルギーの源泉こそ︑実にこの異郷の地に対する抗いに発するもので

あった 乍牡⁚︑1第︒や︒︑︑H弟ごり︒フ︒

O 結   び

かくして︑旅人にとって歌を詠むということは︑泗を飲むのと同様 1 情を避る﹂︵3.㈲ハ︶ためのト段であった︒

億良もまた﹁斤蔵の修結を写かむ﹂T辻穴〜・Iぶ土ために歌作に励んだのである︒それによって鄙にある現尺

からの離脱を強くこいねがい︑反現実空川川における自に解放を図ったのである︒こうしたありぢを巾核的基盤とし

て︑そのトヒ︑に統的I廷和歌とはじ竹内新しい筑紫に丈学の成しをに几だのであった︒       78・1

2n

(18)

φ?  筑 紫・i;7:isiのil.lllilと 空 間 H

人  宰  府

けじめに

筑紫の中でとりわけ大字府は︑丈学とどのようなかかわりを保ち︑それはどのような様相を⁚︒巨しているか︒祁か

ら派遣された官人たちにとって︑あまりにも人きな空間的・心理的懸隔は︑人京府を都と等質のものと感じること

はならず︑いわば都の反排定として意識されたはずで︑そのことがどんな丈学を生み出してくるのか︒彼らの求め

てやまなかっかものは︑一体何であったかIふつふつと湧いてやまぬこれらの疑問に対する人王かな把握を示し

て︑個々の目︷休的考察は各論に譲ることとする︒

□ 犬率府の沿革

人宰府の淵源は︑宣化元年八づ筑紫那津に修造された﹁I家﹂にあるとされている︑それは︑溥多湾に而した

現福岡巾尚区三宅付近に位回し・あるいはげ尽区の1 骨訟ヤそれ乍乙う﹁人⁚収の食禄を蓄枝してヽ半島出兵のための兵

姑雌地としての機能を有していた︑やがてここに筑紫 人  宰という官が置かれ辰⁚紀の初見は椎占.じ〜ハご︾四

2  16

(19)

人 十 府

1  ■ >

リ︑地方の統括︑海辺防備︑海外使節の応接などをしな任務としたらしい︒

その後︑唐・新4 連合車の攻撃によって滅亡した打済を救援するために錦汀う︲汀ヽ・河︲まで出勤した︲本水軍

は︑そこで人敗を喫し︑多くの白済遺民を伴って1 島から総退却する︒人智二年スプ九川のことである︑その余

勢を駆っていつ攻撃されぬとも限らない北九州地方は︑防衛態勢の整備強化が急務となった︒そこで︑啓二年︑対

馬・壱岐・筑紫などに防人と蜂を置いて来冠に備え︑筑紫に大堤を築いて水を貯え︑水城大I府巾・人野城﹈と称

した︑さらに四年には百済からのに︿万只族に命じて長門や筑紫に朝鮮式山城を築かせた︒このうち筑紫の人野城

予見町・人万府巾・人野城﹈は人宰府政庁の背後の川ト ー山塊にあって北の備えをなし︑橡・八寸城﹈吐計石山世は

背振山地の束端の坊住山飛山に設けて南の備えとし久米を備蓄したらしい多くの介庫群が確認され︑危1  の

揚介の避難龍城を考慮したものという︒

方︑那津は海に面して危険度が高まったので︑これらの防衛施設の整備と乍行して︑筑紫人字の内陸部への移

駐が図られ︑人智三︑四年のころ︑現太字府淑付近まで後退し︑⁚れ初の造営一一第1刈︶が行われたらしい︒それは車

川令部的な車㈹であったらしいが︑さらに飛鳥浄御原律令・大宝律令・養老律令など相次ぐ律令の制定施行にけっ

て︑人宰府の政庁およびI司の幣備∴元成を9 るに至る・第H期へ即ち︑人宰帥の補任の・記録は校紀人Iこ年已づ

八月ト六目条の人坤︒⁚有卜朝臣麻⁚y⁚⁚が殼初であるI Iとから︑人宰府の官制が人宝令に規定されていたと推定され︑

y﹄の時期に人宰府がち実共に成えしたものとやえられている・而村闘原氏実生府探究し︒従って︑人字府建置の構想

は︑藤原I・藤原京の建設とかかわって持統朝に発し︒その造営は持統朝から文武朝にかけて行われたものとみる

ことができるし同︲︑

217

(20)

空 間 七学 咽 の 時 間 と u  第‑''; ■‑筑 紫

人野山の山麓の中火に位置を占める人字府政庁は︑東白〜○メートル︑山北〜工メートルの現収を有し︒川

川には築地と㈲㈹が張りめぐらされて︑いわゆる朝堂院様式の建物加配置された︒正面には心川の南門を︑その北

側には中門を設け︑さらにその正面には︒111殿・後殿が一八線に拒び︑束西にはおのおの二棟の協殿加配置されると

いうもので︑据立式だった最初の建物とは企く災なって︑祁のI殿に倣って人陸風のものに姓て替えられたのであ

る︒建物のみならず︑政庁を北側の中火に据えて︑束西に各万一坊︑南北に二二条の区画を設け︑条坊制の郡巾造

りを行ったのであった込山4 氏実ヅ府祁城の研究﹂︒その都巾的景観は︑まさに律令田家の中枢を表し︒︲本の成容

を内外に誇示するものであって︑  1 此の府は人物股繁にして︑人ドの一祁会なり〜八紀・神碓以I.﹃︒〜八八〜ト川 と自

ら称するほどであった︒

それは人宰府の組織・機能と不町分のものである︒﹃令義解﹄﹇令集解Lなどの職員令によれば︑人I府の行人は

ト仲・帥以下︒託○ちによって検成されており︑人和・河内などの人国の几わという定□に比較しても︑地方行㈹と

していかに人規模なものであったかが知られる︒また︑帥︑人弐・少弐︑人鵬・少監︑人肌ハ・少典という四等官の

合計▽∴名という数も︑中火の八宵よりも多く八部竹の︒︒︲が辰人二律令制ト晨人のI川とI︒︒⁚える︒しかも︑人田

・L国の守の官位は従五位であったが︑人率府は組〜は四品︑諸王・諸臣は従三位で︑格付けも高かっか︒ヽド神お

よび人判浙からI厨までのI〇種計∵ハの官職は一般諦田には9 られないものであって︑四等官に加えてまさに中

央政府の縮小版と9 ることができる︒

人宰帥の職掌についてはおよそ〜八項目が挙げられており︑人1 〜斤項目・は人田の守と共通するが︑﹁蕃客・

帰化・饗護﹂の三項目が特有のものとして付加されていて︑いずれも海外特に新羅からの使者や渡来者への対応が

218

(21)

人 字 府

重要な職務であったことを示している︒

こうして人宰府は︑七世紀後半にあっては北九州防備の拠点としての機能が最重要視されたが︑人陸からの進攻

の危険性が遠のいた八世紀以降は︑対外的には外田使節あるいは渡米者の応接など︑外交・貿易交渉の門リとし

て︑対内的には西海道所属の九国三島を政治・経済・車事の各面で統括する統治の府としての役割に力点加圧がれ

るよヽつになった︒

{‑丿

文学圏形成の契機

人宰帥人伴卿の︑凶問に報へたる歌一汀

禍故胆畳し︑凶問累集す︑水に崩心の悲しびを懐き︑独り断腸の泣を流す︑但し両君の人きなる助に

依りて︑傾命 乱慰に継ぐのみ︒づ壮牡牡に

匪の中は窄しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり︵5与︒︶

人宰府における見学活動が︑万葉染巻斤の劈頭の右の一首を契機とすることはきわめて象徴的である︒

作者人伴旅人は神亀四年勺ゾトニ刊・︱川とらいう力︑詳しくは不凹に人宰帥に任ぜられて︑その年のうちに筑紫へ

向かったらしい︒筑紫には八年前征年人持節人将車としてにnヶ川ほど滞在して以来二度目の下向であって︑すでに

六ト四歳の老齢に達していた︒武を以て刺廷に奉仕することを伝統的な職掌としてきたわ門人伴氏の棟梁たる旅人

べっ人打の遠の刺廷﹂︵3〜︻︑5足︻︼と称された人率府の長官として赴任し︑その中心的存在となったことは意

義深い︒ところが︑着任後数ヶ川と経だない夕神亀斤年四川には最愛の伴侶人伴郎女を忽病で喪ってしまう︒彼は

219

(22)

訓 白にの﹁傾命しを自豆するだけでなく︑友の急逝と続く部の近祝行・弟の絹奈麻Iか 川形7反らIしか の死というI︒横I一一ター一大 故屯畳﹂に遭遇して︑石⁚応なLに叱との対価を余儀なくされる︑匪問ぽ仮の認識を休験を迦して一川深め︑人間存

い 衣の悲しみにまで逢着したことを示すのがこの三﹇である︒さらにタ年二川人伴氏にとって拠り所であった方人臣︱

で 長屋トの悲劇的個件を耳にし︑挙句は人平二年〜︒六月自身も脚に﹁愉﹂を生じて生死の境をさまよう破目に陥紫

筑  る︒かかる死との対決とそれを︲几拙える︲が旅人のぷいては筑紫‑>;;■" 叫の︒・丈学の根底に絶えず光り続けていることa

−に を見逃してはなるまい︒それが彼をしス長い空山期問を経て歌を歌おしめ︑武人から文人へと転向させる強力な安H

囚となったのである米お⁚︑I第ゾにく

また︑歌に先しって添えられた文章は書簡丈であるが︑図らずも漢丈と和歌が結介した形になっており︑のちに

はこれを意識的に川いて新機軸の文学様式を編み出すに至る︒林川正⁝力氏も︑書簡と歌とが一体となった作品構成

に注目し︑その書晴丈芸が倭漢混合の新史学の生成を導いたと説かれる一丿巣告雛歌壇i旅人歌か中心に/万妃叱筑紫歌

の論い・内容的にはヽ歌中の

 1 匪

の中尚平﹂の意義はとりわけ倍ヅ艮に掬い収られてヽそれに対する省察の深化を見

ることになる︒

このように叱をめぐる叶息のような旅人の一節⁚は︑筑紫文学圏の文学飢ハ隆に人きな波紋を投ずることになるのだ

が︑その原動力としてもう一人山に憶良の存在を忘れてはならない︒おそらくは︑旅人と憶良のいずれが欠けて

も︑豊穣な筑紫丈学圏丈学の実りは得られなかフ

たに違いない︒憶良は︑人字府の置かれた筑前田の多分初代の国司として︑すでに神亀三年七万には赴任してい

た︒関節リウマチの悪化と無札の度を加える肉休に鞭打って・有限︲時六トし雌︑ト年前の伯包⁚守時代の経験を生か

220

(23)

人十 府

した篤実な勤めを果たしていたと想像されるが︑その彼が筑紫の地で旅人と出会えたことで︑自らの文学を独自の

方向へと展問せしめ︑特攻の歌人としてそのわを不朽のものにしたのであった︒

そのきっかけは︑光の旅人歌に強く心を動かされた億良が︑しき郎女の﹁⁚︲供養を期して言卵付哲人氏一万更叱介

几をIり︑長人な悼亡詩丈に加えてで反歌斤俘も伴う﹁︲本挽歌﹂︵5穴四〜足とを完成し︑旅人に献⁚Eしたゝ一と

であった︒

哀悼の詩丈では︑匪の中の察しさから逃れえぬ痛ましさを疾し︑友を喪った空莫たる狐独を哀しみ︑厭離綸L・

本願往生をひたすら願わんとする︒そして︑歌にあっては︑どの突然の死と人の狼狽・悲嘆を︑旅人の心になり代

わってしハ体的に人問的やさじきに満ちて歌い尽くしている︑その代作のあり方は︑柏1 の心情に深く沈潜し︑その

人自身になりきってその魂を絞り出すようなものへと︑億良によって進展が図られ︑憶良の1法の︷つともなった

のであった︒

ここにI人としての土トの隔たりを越えた人川川的通い介いが生まれ︑中断していた二八の歌の泉源は再び幣かに

温れ出て︑﹁じへざかる鄙﹂︵5・ここに一人歌巻を繰り広げることになるのである︑こうして旅人・憶良を中心とし

て︑その川辺や彼らと触れ介う人々の歌の生仏は︑匪に筑紫歌壇と称されるほどに︒時期一つの歌圈を形成した

のであったが︑部とは異なった特色ある丈9 ㈲をそI︸に認めることができる︒彼らの丈9 活動の中心に帥である

旅人と場としての府を据えてに几る限り︑それをI人I府丈学咽﹂と称することも瓜に︒副明氏万更更とI万二ブヘり更叱

レー中岡七宍弔で1^' ' ‑;‑‑卜分好能であろう︒

旅人の帥在仔巾1時は︑︒人〜四年 じ︑︒︒ から始まる今田的な瓦⁚︒とそれによる飢饉や︑人乍じ乍に府の管内から人

221

(24)

II  硝 筑 輩 妙・圖 斗り叫Ill] 'l空 川

流行した人然分ちまだ発生か地ず︑また丁盾客﹂の新羅使との川にトラブルもなかったことから︑平城京も人宰府

も泰平と活気に溢れていた 川︲闘原氏−た宰・白鴻櫨館・政叩⁚八回Iり嘸の肝⁚外に︒丈雅を尽くすには雌適の機が熟して

いたとにうべきであろう

こうして肢問する筑紫え学問の丈9 匪児︲の特性として︑辰巳削明氏が的確に要約された次の採点は﹁ね柴生を︒八の

弔︷\三〜⁚叫大湊に声ト代・巾︲⁚ヽ︑常に怯本に据えて考えられねばならない︒

① そこか人宰府であることよって︑奈良の中火件は希簿化し︑辺境意識が神仙・老荘空間を生み出し勺

② 人I府であることで律令的身分意識が希薄化し︑身分を越えた人問関係が構成され︑交友を意識した自山

な容川気が醸成された︑

③ 旅人・億良が丈人としての立場で交流した︒

④ 旅人の老荘・神仙的関心が︑儒教に加えて億良の道・仏への関心を導き︑深く六朝的思想匪界を現出させ

た︒

⑤ 良文は人手府では交友の目一八として機能し︑歌と等価に共存した︒

叫  新 文 学 の ぷ 向

1 園梅の風流

その典型的な結実の一つとして︑梅花の歌宴がある︒

権化の歌三トニ佇 坪せて庁

222

(25)

人平 府

1  2

人〜二年正月じ三︲に︑帥の老の宅にぎまりて︑宴会を申く︒・中略・ 片し翰苑にあらずは︑何を以ち

てか情を櫨べむ︒詩に落梅の扁を紀す︒占と八とそれ何そ賜ならむ︑宜しく㈲の梅を賦して聊かに短詠

を成すべし︒

止川えち存の来らばかくしてこそ梅を招きつつ楽しきを経め

梅の花ケ咲ける如敗り過ぎずわが家の闘にあり一せぬかも

梅の花咲きたる園のに日柳は薇にすべく成りにけらずや

芥さればまづ咲く宿の梅の花独り︲mつつや芥︲汗さむ

匪の申は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にも成ら圭しものを

悔の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今収りなり

巨︲柳梅との花を折りかざし飲みての後は敞りぬともよし

わが園に梅の花故るひさかたの人より雪の流れ来るかも 卿 ︵5

人 

夫 

・9人 

この作品打ちまた人字府文学を特徴づける多くの注目すべき傾向を内包している︒

第︒に︑﹁宴会﹂における災1 11詠という詠出のしかかが挙げられる︒旅人の官邸に実生ノた当目の参会者は︑旅

人以ドの府の宮人と府の所轄国のうち斤国〜高のI人によって占められ︑それに造筑紫観匪八︲I別当の笠沙弥を加

えた検成であった︑しかも︑そのべ〜名がことごとく歌を詠じ︑そのまま残されたということは川八例に属する︒歌

交の記録は万蒙四開にばとんと実申し︑人ヅニ年以前のものは僅か二回しかないI﹄と︑第四期のものでも集宴歌の

22 ろ

(26)

ぐ 川 剤の 時 川 字 川 筑 紫

[I

え録が▽Ot自を越えるものが川柿 ⁚七万〜八﹇ しかないことを以てしても︑その特災性は明らかである︑即ち︑

宴の歌は乍米公席で誦詠され︑その揚で消えてゆく性質のものであるから︑﹁発時几の歌を記さずして漏火せり﹂

︹ワゾ六万︺という結米になるのが4 日迦だったのである︒宴で詠まれた歌が記憶に留められた陽介にのみ︑その

いくらかがよ録化されて残ったわけである︑だからノ尖を返せば︑梅花の公の歌詠のおそらくそのすべてが残され

たということは︑最初から111確な記録化がもくろまれた﹄とを意味している万万⁚つてよい 奉に⁚︑H第︒ヅ︒︒

そのことは歌群全休に丈飾を凝らした庁えを付したこととも深くかかわっている︑この序の丈び構成や謡句がト

義之ので閑亭集序にやL勃・駱吉トなどの初唐砧序などに倣った点が多いことはつとに指摘されており︑初めから

確固とした創作意識に基づいたものである二とは疑う余地がないI格訓の高さを目指して昂揚した気分は︑え木の

﹁訪に落梅の扁を紀す ︒目と今とそれ何そ異ならむ︑竹しく㈲の梅を賦して聊かに短詠を成すべし⊃との呼びかけ

に凝叱されている︒この企川と記述の中心に旅人がいることは論を僕つまいが︑蘭亭の会を意識し︑祁の詩苑を擬

して︑集団によって一つのえ芸的匪刄作を現出せんとの意図に□かれた催しだったのである︑宴のあとの二次的田心い

つき的な歌会などではなくて︑初めから宴そのものが歌宴として計画され︑参会者令封に﹁落梅の扁﹂を編むため

に混詐ならぬ倭歌で︒短詠を成す﹂ことが斤め伝達されていたものと考えられるI

そうして催された歌宴は︑混丈の歌序に応える形で︑梅という中田沢米の珍しい花木を賞美しながら次々と和歌

を詠出するという︑きわめて毀田趣味の帰心した風流糾jであった︑人陸丈化の受容に最短距離にある人字府で行

われたものだけに︑碩かな現実感の巾で座は人いに成Eり仁かっかことであろう︒まさに人字府ならではの風雅の極

みであった︑

224

(27)

・ ' I ‑ ' K ' J

そのことは同時に︑フ人ざかる鄙﹂に在る意識を超えて︑邪の風流にまさるとも劣らないみやびを尽くしている

のだという自負につながった︒なればこそ︑旅人は︑この歌群に 1⁚只外︑故郷を思へる歌圃俘﹂︵5八四じ人四八︶と

﹁後に皿ひて梅の歌に和へたる四酋﹂︵5八四八〜八﹃﹄の二極の個人詠を添え︑さらに新たに第この自信作である松浦

川辿遥歌甘I︑5八︒〜丁八六︺も加えて︑祁の詩壇の盾ぶ

創造のありようを︑郡の詩人に胸を張って問陳Lたかったのである︒都や離宣⁚の丈学とは異なった︑人宰府ならで

はの独自の艇問を誇らしげに示して︑それこそ新しい時代の丈学の先駆けをなすものとして︑邪人に認めさせたか

ったものと考えられる︒同時にそこには︑今は亡き人伴郎に作入と良風トの鎮魂・慰霊のために︑梅花を1向け歌文を

捧げたいとの︑旅人の個人的目論見も潜んでいたちのらしい・本に⁚︑H吊し〜

2 幻想と望郷

一方︑旅人の土人詠から紡ぎ出された幻1  叫緊は松浦川歌群として新たな糾品を見る︒これは祁の白人が松浦川

にに川一万仙暖に遭遇し︑偕老を約して恋の歌々を・収り交わすものであるが︑物語的な長人な﹁松浦川に遊ぶの序﹂

に始まり︑まず白人の詠歌︒竹谷〜︶と仙媛の答詩一俘λ臨︶があり︑続いてつ逢客らの史贈れる歌三俘﹂入江

〜恰白とっ娘らの史報へたる歌ぺ俘﹂八人〜八六︶の贈答があり︑最後に︹後の人の辿ひて和へたる詩く酋゛

谷ハ︒〜八六︺を以て収束する一人雄編をなしている︒一読して明らかなように︑唐代の小説﹃遊仙廠しをド敷きに

した趣向であるが︑これとても宴にあづて旅人およびその川辺の泳者・府の亡人たら による渠団冰の所産であるし︑

形式的にも内容的にも和浪浪雨の新休の交芸の構築を︲指したものであン

22^

(28)

】l 第‑'i:  筑 紫 七学 圈 の 時 川 ど 判 川

しかもそI}に展開する匪県は︑現実を超えた9 構の今回であることが改めて沁目される︒それは祁の藤原︒陽前に

﹁梧桐の︲参琴二間﹂を増った折のI壮︵5八︒・・竹√万⁚ヤ にも顕笞で︑人伴狭ト彦尚提比︱⁚ と松浦佐川姫の領

巾噌の嶺の伝説にまつわる歌俳︵5八り〜八しとにも共通している︑旅人はしばしば夢という川路を川いてその非現

実的ず問に遊ぶことを好んだがつI︵し︑八≒︑柚桐の︲だケサ︑これらは自分の殼も欲する自在な空闘として創造

し︑その中に誼遥すること今願ったのであった︒この非現実的な物謡窄回は︑だから積価的な丈学愚識に根ざし

た︑自分・た〜だけの小I宙的な賜次元窄間であった︒

このような傾向へと旅人を走らせたのは︑胆に丈学意識や妻の死だけでなく︑⁚︒収後まで馴染みきれない筑紫の風L

にあった 誇り高き祁のt目ハ族人伴旅人にとっては︑個人的には人宰府は﹁人ざかる鄙﹂という辺境に過ぎなかっ

た︒部からはるか隔たった辺販の気に閉じ二められて︑身勁きのとれぬまま老いを深めていく自分は︑圭さにっい

やしき〜⁚が身﹂︵5八四八︶以外の何物でもなかった︒その﹁いやしさ﹂は祁をに几ることによってしか消し去ることが

できないから︑叩こそ稿らわしきもの・⁚雌視すべきもの・拒絶すべきものとしてあり続けたのであった︒だから︑

筑紫の現実の風花・風物は︑祁人の目を驚かせ心を慰めるものとして正面から掬いトげて讃丸されることはなく︑

常に自にの心情のフィルターにかけられて︑︒︷⁚定的に捉えられるか人きな変形を遂げるしかなかったのである︑

いくら非現実令問に遊んでみたところで一時的な回避に過ぎず︑結岫は鄙を忌避する心は一途に望郷の念をかき

してることとなった︒都への田心いは府の宮人もさらに熾烈で︑旅人邸の集宴の揚で披ぷされたと考えられている︒

人宰少弐小野老朝臣の歌一14

あをによし寧楽の京帥は咲く化の薫ふがごとく今成にりなり︵3⁝⁝⁝ハ︶

2  26

参照

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 第2項 動物實験 第4章 総括亜二考按 第5章 結 論

第二次審査 合否発表 神学部 キリスト教思想・文化コース