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プーチン政権下における「愛国主義」政策の変遷
―「カラー革命」と青年層―
西 山 美 久
(九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程)
Transformation of Patriotic Policies under Putin:
‘Color Revolutions’ in the CIS Countries and Russian Youth
Nishiyama, Yoshihisa
Postgraduate student, Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University
Abstract
This paper traces the changing course of the patriotic policies of Putin’s government, and shows that the ‘color revolutions’ in Georgia, Ukraine and Kyrgyz had a great impact on the Russian political process.
Post-communist Russia has suff ered from serious political and economic distur-bances, comparable with smuta in tsarist Russia. In the fi rst period of the New Russia,
while Yeltsin’s government adopted a series of western-oriented policies, the opposition put forward an alternative line based on Russian nationalism. As Russian citizens displayed anti-western sentiments, however, president Yeltsin also changed course and modifi ed policies to take national feelings into consideration. As a result, almost all political forces in Russia became proponents of Russian patriotism. Therefore, we need to examine the real contents of the patriotism held by political forces, particularly in each administration.
President Putin, who followed president Yeltsin in 2000, stressed the importance of patriotism in his policies. Valerie Sperling, who analyzed patriotic policies in post-Soviet Russia, argues that Putin practiced various policies based on ‘militarized pa-triotism’ toward Russian youth, because his government needed to foster their loyalty to the state and their interest in joining the Russian army. Although I agree with her claim that Putin pursued patriotic policies, Sperling appears not to have grasped a turning point in policy transformation under Putin, in particular the real meaning of the ‘color revolutions’ that took place in the former Soviet Republics in 2003–2005.
This paper analyzes the two programs for promoting patriotism among Russians, each of which was adopted under Putin’s government in 2001 and 2005. The diff erence between both programs is that the fi rst was directed at all social and age groups, while the second mainly targeted the younger generation. Why did the latter program focus on youths? This paper examines the political impact on Putin’s administration of the
Keywords: patriotic policy, color revolutions, patriotism, youth, ‘Nashi’
‘color revolutions’ in the CIS countries in which the younger generation played a signifi cant role, and clarifi es Putin’s eff orts to prevent these revolutions from spilling over into Russia, through organizing a new youth organization named ‘Nashi,’ publish-ing a new edition of the guidebook for teachpublish-ing Russian history, and other eff orts.
は じ め に 本稿は,プーチン政権下で顕著となった「愛国主義」政策の内実を明らかにすることを目的 とする。 ソ連崩壊により新たな体制の下での国家運営を余儀なくされたロシアでは,体制転換に伴う 未曽有の混乱が「スムータ」に喩えられたように(1),そこからの脱却は容易なものではなかっ た。この社会的混乱の最中,エリツィン政権が当初,親欧米的な「大西洋主義」政策を採用し ていたのに対し,共産党等の反エリツィン勢力は旧来のイデオロギーに代わり得るものとして 「愛国主義」を鼓吹し始めた。その後,欧米諸国に対する力の後退を意識させられた国民の間 で「愛国」的心情が昂進するに伴い,エリツィン政権も「愛国」を一種の政治シンボルとして 重視する姿勢に転じ,次第に与野党がともにそれを強調するようになった。このような状況を 反映して,ロシア政治においては,「愛国」を語るか否かではなく,むしろいかなる意味でそ れを語るのかが争点になったといわれている(2)。2000 年に大統領に就任したプーチンもエリ ツィン同様にそのスローガンの重要性を認識し,それを実行に移したことから,「愛国主義」 は現代ロシア政治理解に欠かせないファクターとなった。 このプーチン政権の「愛国主義」政策に注目した研究は,管見の限りでは以下の 2 点が挙げ られる。まず,プーチン政権期に採択された「愛国プログラム」に着目したダグラス・ブルム は,プログラムの対象が青年層であると捉え,政権が若者の意識改革に努めていることに注目 した(3)。ブルム以上に当該政策の内実に迫ったスパーリングは,政権が,軍の栄光を讃える 「軍事愛国主義(militarized patriotism)」に基づき,ロシア国民,とりわけ青年層をそのター ゲットにして,祖国へ尽くす若者を育成することに努めてきたことを指摘している(4)。 いち早くプーチン政権の「愛国主義」政策に注目した両者の議論は貴重だが,彼らが当該政 策全体に十分に目配りをしたとは言い難い。特に,政権がもっぱら青年層を政策の対象に設定 しているとの指摘は,政権のスタンスをやや単純化して理解している嫌いがある。彼らは共に 「愛国プログラム」に着目しているが,その主な対象が全社会層から青年層に変化した点を考 慮せず,政策の対象が青年層だと断じている。しかし,そのような断定は早急であり,まずは プログラムの対象が変更された理由に注目すべきだろう。そしてその変化の背景を明らかにす (1)Shiokawa Nobuaki, “Russia’s Forth Smuta: What was, Is, and Will Be Russia?” in Ieda Osamu (ed.), New Order in Post-Communist Eurasia, Sapporo: Slavic Research Center, Hokkaido University, 1993, pp. 202– 221.
(2)塩川伸明『国家の構築と解体―多民族国家ソ連の興亡Ⅱ』岩波書店,2007 年,255–260 ページ;同 「概観―ロシア政治への視点」ユーラシア研究所編『情報総覧 現代のロシア』大空社,1997 年,
103–104 ページ。
(3)Douglas W. Blum, “Offi cial Patriotism in Russia: Its Essence and Implications,” POMARS Policy Memo, No. 420, 2006, pp. 1–5.
(4)Valerie Sperling, “Making the Public Patriotic: Militarism and anti-militarism in Russia,” in Marlène Laruelle (ed.),Russian Nationalism and the National Reassertion of Russia, New York: Routledge, 2009, pp. 218– 271.
るに当たっては,アイデンティティ危機や大国としての地位の喪失などの当時のロシア社会の 状況,さらには旧ソヴィエト圏で生じた政変等を視野に入れ,なぜプーチンが「愛国心」の重要 性を強調し,独自の政策導入を図ったのかを改めて広い視点にたって再検討する必要がある。 そこで本稿では,プーチン政権下での「愛国主義」政策が,①連邦崩壊後のロシア社会の難 局打開を目的にロシア国内に住む全ての社会層を対象にした初期の方針から,②次第に青年層 を主たる対象にしたものへと目的をシフトさせたこと,そしてその背景には,2003 年から 2005 年にかけてグルジアやウクライナなどで生じた「カラー革命」の要因が大きかったこと を指摘したい。 1 社会的連帯を求める「愛国主義」政策 (1)「愛国プログラムⅠ」の策定 ソ連崩壊後のロシアでは,政治的経済的混乱のみならず,アイデンティティ喪失ともいえる 状況が生じ,その結果,ロシア(人)とは何かを問い直す必要性に追われた(5)。連邦崩壊後 の混乱がロシア国民に与えた影響は大きく,ソ連崩壊後に行われたある社会学的調査によれ ば,「現在のロシアで誇れるものは何もない」と回答した国民は 23.7% にも達していたという。 それに対して「過去に対して誇れるもの」については,軍隊(26.3%)や愛国主義・力強さ (15.8%)などが挙げられ(6),過去に対するある種のノスタルジーが現れていた。 このように,祖国に対する尊厳が揺らぐ状況を目の当たりにしたプーチンは,首相時代に 「千年紀のはざまにおけるロシア」なる論文を公表し,「愛国心」について以下のように述べて いた。 大多数のロシア人にとってこの言葉は,本来の,完全に肯定的な意味を保持している。 これは,自分たちの祖国とその歴史,偉業を誇りとする感情だ。これは,自分の国をよ り美しく,より豊かに,より強固に,そしてより幸福にしたいという欲求だ。……これ は国民の勇気と不屈さ,力の源泉である。われわれは,民族的な誇りや尊厳と結びつい た愛国心を失い,偉業を成し遂げる能力を持つ国民としての自己を喪失しつつある(7)。 また大統領就任後,「わが国民に固有の愛国主義,文化的伝統,共通の歴史的記憶がロシア の統一を確固たるものにしている(8)」と述べ,「愛国心」がロシア国民の団結と統一を図る重 要な精神的紐帯であることを強調した。 このようなプーチンのイニシアティヴに刺激され,2001 年に,下院や連邦政府などの提案 に基づいて「2001 年から 2005 年までのロシア連邦市民の愛国心教育に関する国家プログラム」 が立案され,その後,連邦政府によって承認された(以下,「愛国プログラムⅠ」とする)(9)。 (5)Shiokawa,op.cit., pp. 204–205. (6)Л.А.Степнова, “Социальная символика россии,”Социологические Исследования, № 6, 1998, с. 98. (7)Независимая газета, 30 декабря 1999 г., с. 4. 日本語訳は,ウラジーミル・プーチン(武井伸訳)「千 年紀のはざまにおけるロシア」『ロシア・ユーラシア経済調査資料』第 811 号,2000 年,28 ページを 参照した。 (8)В.В.Путин,Избиратеранные речи и выступления, М., книжный мир, 2008, с. 42. (9)Собрание законодательства Российской Федерации, 2001 г., № 9, с. 822.
同プログラムの前文によれば,「愛国プログラムⅠ」が採択された背景には,今日のロシア で社会的亀裂や精神的価値喪失が生じ,それらはロシア社会に対してネガティヴな影響を与 え,また「愛国心」を育む重要な要素としての教育や文化政策が疎かにされたことがあった。 加えて,ロシア社会にエゴイズムや個人主義が広まり,国家への敬意が払われていないことも 指摘される。そして,そのような状況を打破するために,精神的紐帯としての 「愛国心」 の重 要性が強調された。制定されたプログラムは,ロシア国民であるすべての社会層および年齢グ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ループ0 0 0(все социальные слои и возрастные группы)を対象に,国家統一や社会経済的な安 定確保を目的に愛国意識の形成を目指していた。 上記目的を掲げるプログラムは,①世界の中でのロシアの役割や歴史的価値観に基づいた 「愛国心」の促進,②国益の守護者たる国民の育成,そして③「愛国心」を高揚させる効果的 かつ機能的な国家システム構築の必要性を主張した。特に「愛国」意識を抱かせる手段として 着目された方法が,教育やメディアへの関与である。具体的には,映画や書籍,教科書等の出 版活動を通じて国民の「愛国」意識を養うとされている。プーチン政権は国民の「愛国心」を 高揚させるツールとして帝政期の戦勝を取り上げるが,それにも増して強調しているのが,ス ターリン時代に当たる大祖国戦争での勝利である。エリツィン政権は,スターリンのテロルな どの負の側面に力点を置き,ソ連時代を否定的に描き出す傾向にあった。他方でプーチンは, テロルなどの非人道的行為に対して批判的見解を述べつつも,スターリンの指導の下でナチ ス ・ ドイツに勝利したとし,エリツィン政権下の評価に一定の修正を加えた。このようなプー チンの姿勢は,以下の彼の発言に見て取れる。 スターリンはもちろん独裁者だった。彼は個人的権力を保持するという目的に相当程度 従った人物だった。問題は,彼の指導の下に国は第 2 次世界大戦に勝利し,そして,そ の勝利は彼の名としっかりと結びついているということだ。この事実を無視することは 愚かなことであろう(10)。 このように現在のロシアでは,「スターリンの号令の下でのソヴィエト人民がナチス・ドイ ツと闘った『大祖国戦争』の記憶は,国威発揚のための不可侵の神聖な物語(11)」であり,「ロ シアの誇りとすべき偉業」と国民の間で認識されている大祖国戦争での勝利(12)は,「愛国」 感情を高揚させるツールとしてあからさまに用いられることとなった。 プログラムの目的を実現する重要な機関には,ロシア連邦教育科学省やロシア連邦国防省な どの連邦機関に加えて,連邦構成主体も挙げられており,中央・地方の協働の下に計画が進め られることとなった。そして,プログラムに与えられた予算は,総額 1 億 7 千万ルーブルにも のぼり,その多くが連邦予算からの支出となっている。 以上見てきたように,本プログラムは,ソ連崩壊後のロシア社会の難局打開に向けて,ロシ アに住む全社会層を対象にしていたことが理解できよう。以下では,「愛国プログラムⅠ」採 択後の「愛国主義」政策について検討していく。 (10)Коммерсантъ, 20 января 2005 г., с. 8. (11)渋谷謙次郎「現代ロシアの国家統一と民族関係立法(一)」『神戸法学雑誌』第 52 巻第 4 号,2003 年, 9 ページ。 (12)Мониторинг общественного мнения: экономические и социальные перемены, № 5, 1997 г., с. 12; № 1, 2005 г., с. 17; Вестник общественного мнения. данные. анализ. дискуссии, № 1, 2003 г., с. 30.
(2)歴史政策 a.ソヴィエト・ルネサンス まず,教育現場で使用される教科書記述に関する政策から見てみよう。ソ連崩壊後のロシア では,脱ソヴィエト化を最優先にしていたため,ソ連時代に関する教科書記述はネガティヴな 評価が並び,かつ欧米に遅れたロシアという構図で描かれていたことから(13),「現在のロシア 人は過去を全否定している」と受け止められる状況にあった(14)。 しかし,プーチン政権下では前政権の政策は踏襲されず,教科書記述への国家関与が顕著と なった(15)。特に教科書記述への関与が強化される要因となったのが,2002 年に出版された歴 史家イーゴリ・ドロツキーが執筆した教科書だと指摘されている(16)。同教科書は,ソ連時代 およびプーチン時代を否定的に記述していたこともあり,プーチン政権にとっては受け入れ難 いテキストであったようだ(17)。そこで,プーチン政権は「愛国心」を高揚させる新たな歴史 教科書の編纂を進めることになった。それを誇示するようにプーチンは,「祖国に尊厳を抱く 教育の必要性」について指摘するとともに(18),「歴史叙述には社会的分断より統合が求められ ている」ことを強調した(19)。 このようなプーチンの意向により,プーチン政権初期における歴史教科書では,大祖国戦争 での勝利ならびに当該戦争でロシア(ソ連)を勝利に導いた退役軍人らを讃える記述が多くを 占めるようになり,国家からの推薦を得るには,プーチンや彼を支持するエリートの意向を反 映させることが重要になったのである(20)。 また教科書記述の他,政権がロシア国民の「愛国心」を育むために重要視したのがメディア の活用である。というのも,すでにエリツィン政権期においてテレビの国民に与える影響力が 絶大であることが証明されていたため,プーチン政権にとってそれは無視できないツールと判 断された。そこで,メディアの放送内容に関しても一定程度の規制を設けようとする動きが出 てきた。プーチン与党「統一ロシア」のヴァレリー・ガリチェンコは,「テレビ放送は祖国へ 尊厳を抱く感情や愛国心を国民へ教えるという課題を負っていない」との理由から,「テレビ 放送における国内映画の上映および重要情報の配分に関する法律」なる法案を提出し,国内に おける外国番組の放送割合に一定の規制を設けようとした(21)。しかし同法案への批判も根強 く(22),最終的にその法案は否決されたものの(23),連邦政府は新たなチャンネルの開設に着手 しメディア政策に乗り出した。つまり連邦政府は,国民の「愛国」意識形成に向けて「ズヴェ (13)天野尚樹「ロシアにおける日露関係史の現在―『複数の歴史認識』に向けて」木村汎・袴田茂樹編 『アジアに接近するロシア―その実態と意味』北海道大学出版会,2007 年,175 ページ。 (14)和田春樹「スラブ研究の未来―歴史研究の側から」『スラブ・ユーラシアの変動―自存と共存の 条件』スラブ研究センター,1998 年,155 ページ。 (15)Собрание законодательства Российской Федерации, 2002 г., № 26, с. 2517.
(16)Karina Korostelina, “War of textbooks: History Education in Russia and Ukraine,”Communist and post-Communist Studies, Vol. 43, 2010, p. 131.
(17)Коммерсантъ, 28 ноября 2003 г., с. 7. なお,資料入手が困難なため,教科書の分析を断念せざるを得 なかった。
(18)Там же, с. 1.
(19)Thomas Sherlock,Historical Narratives in the Soviet Union and Post-Soviet Russia: Destroying the Settled Past, Creating an Uncertain Future, Palgrave Macmillan, 2007, p. 172.
(20)Ibid, p. 179.
(21)Коммерсантъ власть, 2–8 июня 2003 г., с. 34–36; Независимая газета, 21 февраля 2003 г., с. 2. (22)Там же, с. 36.
ズダー」なる全国規模のテレビチャンネルの開設を決定したのである(24)。さらに注目に値す るのが,プーチン政権誕生後に行われたオリガルヒの排除であろう。エリツィン時代,彼らは 主要なメディアを支配し,政権との癒着を強めたが,プーチンは,オリガルヒ傘下の主要全国 ネットを国営企業に買収させ,政権の支配下に置いた。そのような事情から,放送内容も政権 寄りのものになった。特に力を入れているのが「愛国」的番組の制作・放送であるが,その中 でも大祖国戦争での勝利が強調されている。 上記メディア政策に加え,大祖国戦争での勝利を讃える政策も実施された。プーチンは戦勝 60 周年を目前にして,赤の広場に隣接するアレクサンドロフスキー公園内に並べられた英雄 都市を記した記念碑の一部の名称を,ヴォルゴグラードからスターリングラードへと変更する 決定を下した(25)。この名称変更には,もともと退役軍人会がイニシアティヴを取り,ヴォル ゴグラード州議会へ働きかけ,同議会が連邦議会に名称変更を求める活動を継続してきたとい う背景があった(26)。当初プーチンは,「スターリングラードの戦いは疑いもなく我が国の歴史 に名を残すけれども,名称をスターリングラードに戻した場合,今日,スターリン時代へと回 帰しているとの疑念が生じうる」と述べ,名称変更に消極的な態度を示していたものの(27), 最終的には名称変更を支持する姿勢に転じ,退役軍人らの運動は成功を収めたのである。 これらの動きは連邦中央のみならず,連邦構成主体でも見られた。例えば,モスクワ市で は,戦勝 60 周年に先駆けて,2003 年にルシコフ市長が地下鉄の新駅を設けることを決定し, 新駅は「戦勝記念公園」と名付けられた(28)。また 2 年後の 2005 年には,イズマイロフスカヤ 駅を「パルチザン駅」と改称する決定もなされた(29)。戦勝を記念する動きが各地で見られる 中,ロシア南部のオリョール州では,スターリンを再評価する動きが出てきた。『イズヴェス チャ』によれば,オリョール州議会は,スターリンの歴史的役割を再評価するとともに,過去 に移設された彼の記念碑を元の場所に戻すことも視野に入れていた(30)。実際,オリョール州 議会の声明には,上記報道と同様に,「最高司令官としてのスターリンの歴史的役割を評価」 し,通りや広場の名称を彼の名称に戻すことが記されていた(31)。 このようにプーチン政権誕生後の連邦中央および地方は,スターリンの否定的評価よりも肯 定的評価に重きを置き,その作業を積極的に推進してきた。そしてその作業を通して国民のプ ライドを刺激し,彼らの意識改革に取り組んできた。しかし,「愛国心」を高揚させるツール として注目されたのは,なにもソ連期の偉業に限られない。政権は,帝政期の伝統,すなわち 「ロシア的なるもの」を用いて国民の意識改革に努めたのである。 b.「ロシア的なるもの」の活用 プーチン政権は,「愛国心」を鼓舞させるために帝政期の伝統文化ともいえるコサックを用 いることにした。コサックは,帝政ロシア時代,皇帝へ絶対的な忠誠心を誇り,巨大な版図を 抱えるロシア帝国の「守り手」として認知され,次第にロシアの領土を守る正式の役割を与え (24)Коммерсантъ, 27 января 2005 г., с. 3. (25)Распоряжение президента Российской Федерации от 19 июля 2004 г. № 320-рп; Российская газета, 24 июля 2004 г., с. 3. (26)Коммерсантъ, 6 июня 2003 г., с. 3. (27)Коммерсантъ, 24 июля 2004 г., с. 1. (28)Коммерсантъ, 7 мая 2003 г., с. 1. (29)Коммерсантъ, 7 мая 2005 г., с. 2. (30)Известия, 14 апреля 2005 г., с. 1. (31)Там же, с. 2.
られることになった(32)。プーチンはこのコサックに着目し,2003 年に彼らの復権を図る大統 領令を出した(33)。 周知のように,ソ連崩壊後のロシアでは軍隊内部でのいじめが多発し,それは若者の徴兵拒 否の増加という形で現れた。そのため政権は,徴兵拒否を行う若者の比率を下げ,祖国に尽く す若者を育成する必要性を痛感せざるを得なかった。プーチン自身が「知的な将校団と,高度 に専門性を有した若い司令官が必要だ(34)」と指摘したのも,この点に関係していた。そこで 政権は,「愛国」的な青年将校を養成する軍人学校を設立し,徴兵拒否の割合増加に歯止めを かけようとした。このようにプーチン政権は,コサックを「愛国者」の象徴とし,青年将校育 成を目的に彼らを利用することにしたのである(35)。 2 「反カラー革命」としての「愛国主義」政策―青年層への「愛国」教育 (1)「愛国プログラムⅡ」の策定 2005 年,連邦権力執行機関および連邦構成主体権力執行機関,さらに社会団体の提案に基 づき「愛国プログラムⅠ」の改訂版である「2006 年から 2010 年までのロシア連邦市民の愛国 心教育に関する国家プログラム」案が提出され,その後,連邦政府によって承認された(以下, 「愛国プログラムⅡ」とする)(36)。 本プログラムは前プログラムの改定版であったことから,『コメルサント・ヴラスチ』は, 前プログラムの内容を踏襲し基本的には変化がないと指摘した。しかし同時に,国旗・国歌な どのシンボルの使用,プログラムの予算増額(4 億 9 千万ルーブル)等の点で前プログラムと の違いを見出していた(37)。だが「愛国プログラムⅡ」には,上記相違点に加え,プログラム の対象が異なる点に注意する必要がある。本プログラムは前プログラムと同様にロシア連邦市0 民 0 の愛国心教育に関するプログラムであり,全国民を対象にしたものであるが,とりわけ本プ ログラムでは児童および青年層0 0 0 0 0 0 0 0(детей и молодежи)に優先的地位が与えられた(38)。つまり, 「愛国プログラムⅡ」では,国民全般への奨励を続けながら,青年層を対象にしたより一層の 「愛国主義」振興策を講じるようになった。 では,いかなる理由で彼らに目が向けられたのであろうか。その際に重要となるのが,ロシ アを取り巻く国際環境を考慮に入れることである。特に 2003 年から 2005 年にかけてグルジ ア・ウクライナ・キルギスで生じた「カラー革命」は,当時ロシアで再現される可能性がある と考えられていたため,当該革命のロシアに対する影響について考慮することは重要であろ う。例えば,ロシア国内で実施された世論調査によれば,回答者の 32% はグルジアやウクラ イナで生じた「革命」がロシアで生じる可能性を否定したが,それを上回る 42% がロシアで 生じ得ると回答していた(39)。また,あるジャーナリストは,「革命」の連鎖を「一昨日がベオ (32)コサックの歴史は,中井和夫『ソヴェト民族政策史―ウクライナ 1917–1991』御茶の水書房,1988 年,3–21 ページ;塩川伸明『ロシアの連邦制と民族問題―多民族国家ソ連の興亡Ⅲ』岩波書店, 2007 年,164–175 ページなどを参照されたい。 (33)Собрание законодательства Российской Федерации, 2003 г., № 9, с. 850. (34)Путин,Указ. соч., с. 179. (35)NHK 取材班『揺れる大国 プーチンのロシア』日本放送出版協会,2009 年,210–268 ページ。 (36)Собрание законодательства Российской Федерации, 2005 г., № 29, с. 3064. (37)Коммерсантъ власть, 18 июля 2005 г., с. 20. (38)前注(36)の с. 7739. (39)Известия, 19 июля 2005 г., с. 3.
グラード,昨日がトビリシ,今日がキエフ,そして明日がモスクワだ」と評していた(40)。こ のような危機感は,政治家レヴェルでも見られた。当時,大統領府長官であったメドヴェー ジェフは,「政権の無能力さを国民に知らしめる選挙結果は,国家の不安定さの根拠になって しまう。我々はそのような例をしっかりと記憶している」と述べ,警戒感を露わにした(41)。 このように,ロシアで同種の「革命」が生じる可能性を窺わせる発言が各方面からあがり,「革 命」のインパクトは相当なものだったといえよう。 そして,「愛国プログラムⅡ」が青年層に着目した背景として,「カラー革命」の主たる担い 手が青年層だった点は見逃せない。特に「革命」が生じたグルジアやウクライナでは,青年層 が中心となり青年組織を結成し,全国的に活動を展開していった(42)。またその組織へ技術 的・金銭的支援を行ったのが欧米の NGO であった(43)。この点に注目して,政治エリートの 間では,「カラー革命」が欧米諸国による介入の結果生じたとみなされていた(44)。大統領府副 長官であったウラジスラフ・スルコフは,この点について以下のように述べている。 主権の脅威となっているものは,国際テロリズム,競争力のない経済,そして外からの 影響に対する免疫を低下させるオレンジの技術[革命を成功に導いた技術]を用いたソ フトな干渉である。……オレンジの技術は主権に対する現実的な脅威なのである(45)。 つまり,政権中枢は,青年層を主たる担い手として生じた「カラー革命」は,欧米諸国の内 政干渉の結果生じ,それはまさにロシアに対する潜在的脅威だと理解していたことになる。そ して,危機感を募らせる政権に対して「ヤブロコ」や「右派勢力同盟」などの野党陣営は,同 種の「革命」を実現させようと努めた。また,「革命」を機にロシアでも「防衛」「青年ヤブロ コ」「ダー」などの青年組織が次々に設立され,反プーチン活動を展開した(46)。そのような状 況を反映して,ロシア国内のメディアでも特集が組まれ,関連する青年組織への注目度は高 まっていった(47)。『アガニョーク』誌は,「青年層は政権にとって恐らく危険な存在であり, キエフでの事件[オレンジ革命]は,政権の目を積極的に彼らに向けさせた」とまで指摘し た(48)。実際,国内の反プーチン勢力の動きに警戒感を覚えた政権は,より影響力のある政策, すなわち,中央主導による青年組織の設立に着手したのである。 (2)官製青年組織「ナーシ」の設立 2000 年のプーチン政権誕生に伴い,同政権を支持する青年組織「共に歩む(Идущие вме-(40)Итоги, 7 декабря 2004 г., с. 11. (41)Российская газета, 1 июля 2005 г., с. 3.
(42)Taras Kuzio, “Civil Society, Youth and Societal Mobilization in Democratic Revolutions,” Communist and Post-Communist Studies, Vol. 39, No. 3, 2006, pp. 365–386; Michael McFaul, “Transitions From Postcom-munism,” Journal of Democracy, Vol. 16, No. 3, 2005, p. 13.
(43)Graeme P. Herd, “Colorful Revolutions and the CIS: “Manufactured” Versus “Managed” Democracy,” Problem of Post-Communism, Vol. 52, No. 2, 2005, p. 6.
(44)斎藤元秀「ブッシュ政権と『九・一一』後の米露関係」『国際政治』第 150 号,2007 年,139 ページ; 袴田茂樹「ロシアの対外政策とロシア人の世界認識の変遷」木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシ アを見る目―「プーチンの十年」の衝撃』NHK 出版,2010 年,222 ページ。 (45)Московские новости, № 8, 10–16 марта 2005 г., с. 10. (46)Коммерсантъ, 7 февраля 2005 г., с. 7; 4 апреля 2005 г., с. 7; 12 октября 2005 г., с. 7 など。 (47)Московские новости, № 21, 3–9 июня 2005 г., с. 16–17. (48)Огонёк, № 41, 10–16 октября 2005 г., с. 18.
сте)」が設立された。しかしこの組織が明確な指針を欠いたプーチン応援団的な組織にとど まっていたため(49),新たな団体が「上から」設立されることとなり,その役割を担ったのが スルコフであった。彼は先に見たように「革命」に対して否定的な見解を示しており,新たに 設立される組織が,政権支持はもとより「反カラー革命」を標榜する組織であったことは想像 に難くない。 2005 年 2 月,新組織設立に関する会議がモスクワ近郊で開催され,スルコフは「共に歩む」 をベースにした新たな青年組織「ナーシ(Наши)」の設立を明らかにした。会議に同席した 「共に歩む」のリーダーのヴァシリー・ヤケメンコは,「オレンジ革命およびアメリカによる侵 略を阻止する」と述べ(50),ロシアへの内政干渉を牽制した。そして 2005 年 3 月,ヤケメンコ が「ナーシ」の設立を公式に発表し(51),その後,彼が組織の指導者として選出された(52)。 組織の設立発表後ヤケメンコは,「ロシアに私がいる限り,オレンジ革命派(оранжевые) は政権にたどり着くことはできない」と述べ(53),「革命」阻止を再度強調した。また組織の HP には,「ウクライナの『オレンジ革命』やグルジアの『バラ革命』は国内的要因で生じたが, しかし,外からの重要な影響の下でも生じた0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。外国勢力は,当該革命ならびにその結果を準備 した。そのため,『カラー革命』が生じた国々は,自国の主権を失ってしまった(54)」(傍点引 用者)との記述があり,同「革命」は内政干渉の産物と位置付けられていた。このように見る ならば,官製青年組織「ナーシ」は,一部の論者が指摘したように(55),「カラー革命」をロシ アで防ぐことを目的にしていたといえよう。 「反革命」を目的とする組織ということもあり,「ナーシ」は過去の歴史的事件を高く評価し ている。組織のマニフェストは,ロシアは 20 世紀史上,世界史に名を残す偉業を達成し,か つ重要な役割を果たしてきたとしている(56)。このことが含意するのは,過去の歴史について 悲観的にならず,逆に過去の偉業を讃え,最終的には祖国への忠誠心を高揚させることであっ た。このようにプーチン政権は,「カラー革命」に対する応答として「ナーシ」を設立し,若 者に「愛国心」を注入することで国家主権を保持し,外敵から祖国を守ることをその狙いとし ていたと考えられる。 実際,「ナーシ」が初めて行った活動は,「我々の勝利」なるスローガンを掲げた大祖国戦争 での勝利を讃えるものであり(57),ソヴィエト期に代表される過去の偉業を強調することで青 年層の意識改革に努めた。示威行動を行う彼らに注目して,一部のメディアは,「彼らは現在 のロシアではなく,今は亡きソヴィエト時代で生活することを提唱している」とまで評し た(58)。この記述の妥当性は措くとしても,「ナーシ」が過去の偉業を用いて「愛国心」形成に 努めていたことは否定できない。もっとも,組織の「愛国心」は,過去の偉業を讃えるという (49)Regina Heller, “Russia’s ‘Nashi’ Youth Movement: The Rise and Fall of a Putin-Era Political Technology
Project,” Russian Analytical Digest, No. 50, 2008, p. 3. (50)Коммерсантъ, 28 февраля 2005 г., с. 7. (51)Известия, 2 марта 2005 г., с. 2. (52)Коммерсантъ, 16 апреля 2005 г., с. 1. (53)Огонёк, № 29, 18–24 июля 2005 г., с. 6. (54)ナーシの HP <http://www.nashi.su/manifest/comments>(2010 年 11 月 5 日参照)。 (55)Heller, op.cit., pp. 2–3;森下敏男「メドベージェフ政権成立をめぐるロシアの政治状況」『神戸法学年 報』第 24 号,2008 年,61 ページなど。 (56)Известия, 18 апреля 2005 г., с. 8. (57)Известия, 15 мая 2005 г., с. 2. (58)Московские новости, № 22, 10–16 июня 2005 г., с. 4.
意味でロシア連邦共産党のそれと親和性があるが(59),共産主義思想が基底となっているので はない。また,反ファシズムを主張するヤケメンコの発言からも伺えるように,エドゥアル ド・リモーノフ率いるナショナル・ボリシェヴィキ党とは敵対関係にあり(60),排外性を帯び るものでもない(61)。むしろ「ナーシ」は,過去の偉業を用いて多民族国家ロシアを統合に向 かわせる意味での「愛国」を主張しているのである(62)。そして,組織が若者の意識改革に力 を入れているのが,サマー・キャンプでの教育である。2005 年から 2007 年までの間に行われ たキャンプでは,国際政治におけるロシア(人)の役割やロシア国内での「革命」阻止が参加 したメンバーに叩き込まれたとされる(63)。このような活動を行う彼らに共鳴する議員も現 れ(64),「ナーシ」は政治の表舞台で注目を浴びる存在となった。 組織の誕生後,プーチンは「疑いもなく,君達は国家状況に影響を与え得る存在だ。また, そうだと確信しているし,期待している」と述べ(65),また別の機会では,「地味な活動だが, 必要不可欠でもある」と彼らを激励した(66)。そして,2007 年にメンバーと面会した際,プー チンは,国家の政治活動に若者が積極的に参加することの重要性を強調し(67),自身への支持 を訴えた。 以上のように,政権はロシアの青年層を取り込み,彼らに「愛国心」を教え込むことで体制 護持者としての若者の意識形成に努めてきたことは疑いない。そしてこの取り組みは,プーチ ン政権の「カラー革命」に対する対抗措置,ある種の警戒感の現れとも受け取れる。 (3)教員用指導書の作成 2007 年 6 月,プーチン大統領は人文・社会科学の代表者からなる会議に出席し,代表団に 対して青年層,とりわけ未成年者への「愛国心」教育,そして歴史と社会科学の役割について 強調するとともに(68),「我が国の現代史における出来事を奥深くかつ公正に記した実用的な教 科書がない」と不満を口にした(69)。 会議後,『ロシア現代史 1945–2006 年』なる教員用指導書の出版が明らかになった。プーチ ン政権が教員用指導書を作成した目的は,「カラー革命」の理念を普及させないとする政権側 の意志が働いていると考えられる。言うまでもなく,政治的態度の形成期での教育は重要であ り,その担い手として教育機関が主要な役割を担っていることから(70),教育の場で政権の思 想を若者に教え込むことは,同種の「革命」をロシアで未然に防ぐという政権の狙いが反映さ れているといえる。 (59)共産党の「愛国」については,永綱憲悟「新ロシア共産党議長ジュガーノフ―愛国共産主義の相貌」 『国際関係紀要』第 4 巻第 1 号,1994 年を参照されたい。 (60)Известия, 2 марта 2005 г., с. 2. (61)「ナーシ」は他人種への排外的行為を非難している。<http://www.nashi.su/news/354>(2009 年 10 月 29 日参照)。 (62)Известия, 18 апреля 2005 г., с. 8.
(63)Коммерсантъ власть, 25 июля 2005 г., с. 19; The Times, 25 July 2007, p. 29. (64)Коммерсантъ власть, 11 июля 2005 г., с. 8. (65)Известия, 27 июля 2005 г., с. 2. (66)Известия, 19 мая 2006 г., с. 2. (67)Известия, 25 июля 2007 г., с. 2. (68)Коммерсантъ власть, 16 июля 2007 г., с. 15. (69)Коммерсантъ власть, 25 июня 2007 г., с. 19. (70)オフェル・フェルドマン『政治心理学』ミネルヴァ書房,2006 年,27 ページ。
実際に中身を見ると,同指導書では,スターリンのテロルには否定的見解が示され(71),ま たフルシチョフのスターリン批判にも触れられているが(72),他方で,旧ロシア帝国領土の回 復や工業化,大祖国戦争での勝利などが肯定的に捉えられ(73),スターリン時代について肯定 否定の両側面が記されている。これは,プーチンのスタンスを表したものといえよう。また 「CIS 諸国におけるカラー革命と呼ばれるものは,アメリカの政策の結果である(74)」,「多くの 西側の社会団体,またアメリカやポーランドなどの国々,さらには EU や NATO などの国際 機関は,ユーシェンコ支持を表明した(75)」などの記述があり,「革命」に否定的な記述が多く を占めている。 このように,歴史的な偉業を教えるとともに「カラー革命」を否定的に描くことで,ロシア の若者の政治意識形成に影響を与え,最終的には「愛国」意識を高めようとする政権の思惑が 明らかとなった。 お わ り に 以上本稿では,プーチン政権下で実施された「愛国主義」政策を検討してきた。最後に本稿 全体を総括し,今後の展望を述べることにしたい。 プーチン第一期の政策は,連邦崩壊後のロシア社会の難局打開を目的として全社会層を対象 に「愛国」理念の下で国民統合を進めてきたが,第二期の政策は,国民全般への奨励を続けな がらも青年層に力点を移し,「カラー革命」阻止を主眼に官製青年組織の設立や教員用指導書 の出版に着手した。また「ナーシ」の活動が示すように,プーチン政権下の政策は他民族排斥 を助長するのではなく,多民族国家ロシアを統合させる意味での「愛国」が奨励された。そし て名称変更の過程で示されたように,当該政策には地方や退役軍人会などの働きかけもあり, 必ずしも中央の一方的な措置とはいえない。もっとも,政策形成や履行をめぐる各アクターの 動向を詳しく取り上げることはできなかったので,それは今後の課題として残される。 プーチン政権第二期に入る頃から「愛国主義」政策は青年層を対象としたものへとシフトし たが,この変化は,少なくとも政治エリートにとり,彼らが無視できない政治的アクターとみ なされていることを物語っているものかもしれない。それとの関連で,官製青年組織「ナー シ」が,今後,政治過程でいかなる役割を演じ,政権との関係を構築していくのかを検討する 必要があろう(76)。また,プーチン・メドヴェージェフの双頭体制と称されて久しい今日,リ ベラル派と目されるメドヴェージェフが「愛国主義」政策をどのように続けていくのかは,今 後のロシアを検討する上で重要なイシューとなろう。 本稿では,プーチン政権下の「愛国主義」政策を明らかにすることを試みてきたが,その検 討の対象となったのは文字通り「政策」であり,その対象たる国民には十分に目を配っていな い。そのため,政策によってもたらされた社会の実態を明らかにする作業が,本稿に残された 課題といえよう。 (本論は複数レフェリーの審査を経て編集委員会が採択したものである。) (71)А.В.Филиппов,Новейшая история России 1945–2006 гг.: книга для учителя, М., Просвещение, 2007, с. 89, 94. (72)Там же, с. 100–103. (73)Там же, с. 81, 83, 93. (74)Там же, с. 460. (75)Там же, с. 461. (76)「ナーシ」については,拙稿「ロシア官製青年組織『ナーシ』の登場―プリンシパル・エージェント 関係としての政権と組織」『政治研究』九州大学政治研究会,第 58 号,2011 年(近刊)を参照願いたい。