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ポッツィ カルロ エドアルド は世界一周旅行のための蒸気コルベット艦 ガリバルディ号 Garibaldi へ乗船することになった 軍艦 ガリバルディ号 の大洋横断旅行の主な目標の一つは 教育訓練として トンマーゾ王子が海上生活に慣れ 海軍に関する理論的 政治的な知識を取得することであった 5 軍艦

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(1)

トンマーゾ・ディ・サヴォイア王子の来日と

対日外交政策におけるイタリア王国外務省内での

意見対立について

─イタリア側公文書を中心に─

ポッツィ・カルロ・エドアルド

はじめに

サヴォイア王家は 1861 年(文久元年)にイタリア王国が成立して以来、

国際貿易による利益の追求や、ヨーロッパにおいてイタリアが国際的に重要

な地位を獲得するために、海上進出してイタリアの存在を主張する必要性を

感じていた。そこで、サヴォイア家は、新生イタリア王

レジーナ・マリーナ

立海軍(Regia

Mari-na)

1

内で強い影響力を行使する目的で、まず、自国の海軍に王族の王子を

入隊させ、彼らを軍艦に乗船させて、士官候補生向けの長期の訓練旅行に参

加させていた。これは王家の代々の慣習でもあった

2

そのような政治的、王朝的な慣習に従って、また国王ヴィットーリオ・エ

マヌエーレ 2 世

3

自身の強い意向もあって、第 2 代ジェノヴァ公すなわちト

ンマーゾ・ディ・サヴォイア王子

4

(国王の父方の甥)はイタリア王国海軍

における軍事キャリアを開始した。1871 年(明治 4 年)5 月 1 日に少尉に任

命されたのをきっかけに、彼は様々な軍艦に乗船した。例えば、翌 1872 年(明

治 5 年)10 月、その当時まだ若い(わずか 18 歳であった)トンマーゾ王子

1 サルデーニャ王国によってイタリアの統一がなされた後、同国はイタリア王国と名を改め、 統一以前に存在した旧国家(サルデーニャ王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国および教皇領) の海軍部隊を統合し、1861 年(文久元)3 月 17 日にイタリア王立海軍を組織した。Cfr. Scalva (2009: 35). 2 Cfr. Scalva (2009: 33).

3 Vittorio Emanuele II di Savoia (1820-1878), 即ちサルデーニャ王国の第 8

(2)

は世界一周旅行のための蒸気コルベット艦「ガリバルディ号」

(Garibaldi)へ

乗船することになった。

軍艦「ガリバルディ号」の大洋横断旅行の主な目標の一つは、教育訓練と

して、トンマーゾ王子が海上生活に慣れ、海軍に関する理論的、政治的な知

識を取得することであった

5

。軍艦「ガリバルディ号」が寄港した全ての主

要な港では、トンマーゾ王子は、海軍士官候補生向けの訓練以外に、王族と

しての外交代表の任務も受けており、様々な諸国の支配者および国家元首と

外交関係を築いたり、維持したりする重要な役割を果たすことになった

6

このような軍事的なねらいと政治的任務を受けたトンマーゾ王子は、蒸気

コルベット艦「ガリバルディ号」の世界一周航海中、1873 年(明治 6 年)8

月 23 日から同年 11 月 1 日にかけて、初来日を果たした。その当時、在東京

イタリア公使館の運営に携わる責任者は駐日代理公使バルツァリーノ ・ リッ

タ伯爵(Conte Balzarino Litta Biumi-Resta, 1832-1880)であった。代理公使リッ

タ伯爵の指導の下、トンマーゾ王子はイタリア貿易拡大および国際舞台での

積極的な役割を目標に、イタリア王国を代表する公式の使節として明治政府

および皇室との外交関係を深めることに関与した。

確かに、1873 年(明治 6 年)のトンマーゾ・ディ・サヴォイア王子の来

日に関する重要性はこれまで何度か研究に簡単に紹介されており、この来日

の公的な詳細は周知のところである

7

。しかし、日本で代理公使リッタが行

なった活動と、外交政策の一部として行なわれたトンマーゾ王子の来日を分

析する研究はいまだ行なわれていない。従って、本稿では、ジェノヴァ公ト

4 トンマーゾ・アルベルト・ヴィットーリオ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ(Tommaso

Alberto Vittorio di Savoia Genova, 1854-1931)は 1854 年 2 月 6 日にトリノの王宮で生まれた。彼は、 初代ジェノヴァ公フェルディナンドとその妃でザクセン王ヨハンの娘であるマリア・エリザ ベッタの長男であり、後にイタリア王国の第 2 代国王ウンベルト 1 世の妃となるマルゲリータ・ ディ・サヴォイアは彼の姉にあたる。 5 Cfr. Leva (1992: 150). 6 Cfr. Sanfelice di Monteforte (2009: 11-12). 7 例えば、旅行者や、商人、海軍将校などの旅行書籍と私的な文通に基づいたサヴォイア王 子の訪日というテーマを取り上げる注目すべき研究について、Fossati (1994) と Puddinu (2007) の功績が挙げられる。トンマーゾ王子の訪日の際の日伊間の関係状況に関して、Ugolini (1987; 1994) と Zavarese (2005) の論文が挙げられる。

(3)

ンマーゾ・ディ・サヴォイア王子の来日を契機として、駐日イタリア代理公

使リッタ伯爵が明治政府に対して取ろうとしていた外交姿勢について可能な

限り包括的な検討を試みたい。

特に、本稿の主な目的は、ジェノヴァ公による来日にあたり、イタリア王

国の対日外交政策を巡って代理公使リッタ伯爵と当時の外務大臣ヴィスコン

ティ・ヴェノスタ侯爵との間で意見の対立があったことを詳細に紹介し、そ

の対立のポイントを検証することである。この目的を達成すべく、ロマーノ・

ウゴリーニ(Romano Ugolini)

8

、クラウディオ・ザニエル(Claudio Zanier)

9

フランチェスコ・ザヴァレーゼ(Francesco Zavarese)

10

などの優れた先行研

究において紹介された要点を押さえ、主にイタリア外務省歴史外交資料館

(Archivio Storico Diplomatico del Ministero degli Affari Esteri – ASDMAE)に保管

されている未刊の一次史料(書簡)

11

を活用しながら、以下のような順序で

結論へと導きたい。

まず、ローマ外務省の外交政策を中心に、リッタ伯爵が駐日代理公使とし

て日本に着任した理由と状況を明らかにする(第 1 章)。次に、近代化過程

における日本の経済的かつ政治的情勢をめぐるリッタ伯爵の視点と認識を踏

まえた上で、駐日イタリア代理公使として彼が行なおうとしていた対日外交

姿勢を浮き彫りにする(第 2 章)。そして、トンマーゾ王子の来日に関して、

リッタ伯爵はイタリア外務大臣からの指示どおりに動いたのか、あるいは、

彼自身が適当と考えた行動をとったのか、その経緯を確認する(第 3 章)。

最後に、リッタ伯爵が取り計らったジェノヴァ公の訪日は、日伊外交関係の

状態にどのような影響をもたらしたのかを詳細に検証する(第 4 章)。以上

8 Crf. Ugolini (1987); (1994). Ugolini の研究の日本語版については、ウゴリーニ・ロマーノ(1987) と(1997)を参照。 9 Cfr. Zanier (2006). 10 Cfr. Zavarese (2005). 11 特に、1873 年 5 月から 11 月にかけてイタリア外務大臣と在日イタリア外交官の間でやり取 りされていた公式な報告書を活用する。Archivio Storico Diplomatico del Ministero degli Affari Esteri (Roma), Fondo Moscati VI (Cina e Giappone): registro lettere in arrivo b.1288 (1868-1873), registro copia lettere in partenza b.130 (1867-1886). イタリア外務省歴史外交資料館(ローマ)、モスカーティ文 書(中国と日本):到着文書 b.1288(1868-1873 年)、出発文書 b.130(1867-1886 年)。以下、 「ASDMAE, Moscati VI,」などと記す。

(4)

の検証から当初の日伊外交関係の経緯を明らかにすることで、1870 年代に

おけるイタリア王国の対日外交政策の一貫性の欠如を示唆する一つの判断材

料としたい。

1.

駐日イタリア代理公使リッタ伯爵の任命および外務省の対日

外交政策

1872 年(明治 5 年)11 月 16 日に「ガリバルディ号」はナポリから出港し、

日本に向かって航海を始めた。当時の在東京イタリア公使館の首席代表者は、

1870(明治 3)年 10 月上旬から代表を務める、第二代駐日イタリア特派全

権公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵(Conte Alessandro Fè

d’Ostiani, 1825-1905)であった。しかし、フェ・ドスティアーニ伯爵は、明

治政府から当時の工部省副大臣佐野常民(1823-1902)が主導する日本委員

会の一員として 1872 年(明治 5 年)年 2 月にウィーン万国博覧会に派遣さ

れていて、日本にはいなかった。そのため、駐日イタリア特派全権公使とし

ての職務から一時的に離職していた。また、フェ・ドスティアーニは翌

1873 年(明治 6 年)5 月 9 日から 6 月 3 日まで自国で岩倉使節団を護衛し、

その後、ローマにおいて同年 11 月に予定されていた「日本伊太利国公使館

新庁舎」の落成式に参列するため、イタリアに更にとどまることとなった。

日本に戻るのはその後のことであった

12

そこで、特派全権公使の不在期間中、当時のイタリア外務大臣エミリオ・

ヴィスコンティ・ヴェノスタ侯爵(Marchese Emilio Visconti Venosta,

1829-1914)はフェ・ドスティアーニの代わりに在東京イタリア公使館の運営に携

わる代理公使としてバルツァリーノ ・ リッタ伯爵を日本に派遣した。代理公

使リッタ伯爵は、同 1873 年(明治 6 年)5 月 1 日に横浜に上陸した。翌 2

日には、リッタ伯爵は、その間、暫定的にフェ・ドスティアーニ伯爵の任務

を代行していた当時の在横浜駐日イタリア領事ディェゴ ・ デ ・ バッリーリス

(Diego De Barrilis, 1835-1881)によって迎えられ、目的地、在東京イタリア

12

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア公使フェ・ドスティアーニ伯爵より、イタリア外 務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 2 月 10 日付)。

(5)

公使館に到達した。日本に着任してから、リッタ伯爵は外務大臣ヴェノスタ

に次のように書いている。

[前略]小生は 3 月 13 日にミラノを去り、16 日にフランスの郵便船に乗ってマル セイユから出港してから、無事に、今月(1873 年 5 月)1 日に横浜、翌 2 日に東京 に到着しました。[中略]フェ伯爵のウィーン万国博覧会出向から小生の到着まで の間、イタリア公使館を管理していた王立駐日領事、バッリーリス氏に略式でこの 公使館の記録文書を手渡していただきました。また、バッリーリス氏からは、フェ 伯爵の出発以降の、突然起こったいくつかの重要事項をはじめとする出来事につい て詳細にお知らせいただきました。[後略]13

ここで留意すべきことは、日本に送られた駐日代理公使などの重要人物の

ほとんどが北イタリアの出身者(特にロンバルディア州)であるということ

である。当時、イタリア王国が各国に送っていた公使館および領事館の外交

官は南イタリア出身であったから、その傾向とはまさに対照的なものであっ

た。

このように南部でなく北部の出身者を、日本に向けた外交官に選んだこと

は、イタリア王国の対日外交政策における外務大臣ヴィスコンティ・ヴェノ

スタの考えに基づくものであり、日伊蚕種(つまり、蚕の卵)貿易について

日本との関係を特に考慮したものであった

14

。そのため、特派全権公使フェ・

ドスティアーニ伯爵をはじめとする多くの駐日イタリア外交官たちと同じよ

うに、代理公使バルツァリーノ ・ リッタは北イタリアの出身者であり、当時

の外務大臣ヴェノスタの側近に属する政治家であった。それも、リッタはミ

ラノの旧貴族の名高い家柄のメンバーであった

15

13 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡 (1873 年 5 月 4 日付 )。[...] Partito il 13 dello scorso mese di marzo da Milano, ed il 16 da Marsiglia col corriere francese, sono giunto, dopo felice traver-sata, il primo del corrente mese (maggio 1873) a Yokohama ed il 2 a Yeddo [...]. Il nobile Signor Barrilis, Console di S. M. al Giappone, che fra la partenza del Conte Fe’ e il mio arrivo, ebbe la gestione di questa R. Legazione, si compiacque consegnarmi sommariamente gli archivi della Legazione e mettermi al corrente accuratamente e minuziosamente al fatto degli affari precedenti, ed avanti tutto di qualche questione impor-tante sorta all’improvviso dopo la partenza del Signor Conte Fe. [...].

14 日伊蚕種貿易関係をめぐる駐日イタリア公使の活動についての詳細はベルテッリ(2007b:

(6)

実は、ミラノ出身であった外務大臣ヴィスコンティ・ヴェノスタは、ロン

バルディア州の養蚕家と深い結びつきがあり、約 10 年間(1866 年から 1876

年にかけて)にわたり、ロンバルディア州の蚕種商人が日本で行う蚕種貿易

の活動を支援してきており、日伊関係の商業的道筋に大きな影響を与えた

16

また、彼の対日外交政策方針は、他の欧米列強の国際的な取り決めを遵守し、

日伊間の蚕種貿易に関する事柄に限定されていた

17

。実際、外務大臣ヴェノ

スタにとっては、イタリア独立戦争により達成したばかりの統一国家、イタ

リア王国の国際的地位を強化することが必要であり、新生イタリア王国を平

和的に安定させるため、自国にとってそれほど不可欠ではない他の欧米列強

に関わる国際政治の問題にあまり干渉しない姿勢を取り、非常に慎重な外交

政策を講じなければならなかった

18

。その結果、イタリア公使として東京に

派遣された明治初期の外交官の主な任務は、ローマ外務省の指示に従って、

他国の利害を侵害せずに、日本の蚕種を仕入れるために毎年来日するイタリ

ア商人の貿易活動を支援し、もっぱら蚕の卵に関する日伊貿易の繁栄を維持

することであった

19

以上の経緯から、リッタ伯爵が外務大臣の意向を受けて、特に日本の蚕種

の供給を優先的に扱わなければならなかったことが分かるであろう。しかも

リッタ伯爵は外務大臣ヴェノスタの旧知の友人であった。それでも、リッタ

伯爵は初代駐日イタリア特派全権公使ヴィットリオ・サリエ・ド・ラ・トゥー

ル伯爵(Conte Vittorio Sallier De La Tour, 1827-1904)をはじめとする彼の前任

者たちと同じように、ヴィスコンティ・ヴェノスタの期待と異なり、蚕種貿

15 バルツァリーノ・リッタ伯爵は 1832 年 5 月 19 日にミラノで生まれた。1859 年 11 月から 1860 年 3 月までの間、無報酬でミラノの県庁に務めた。その後、1862 年から 1872 年にかけ てリッタ伯爵は、イスタンブル、バーデン、シュトゥットガルト、ストックホルム、ベルリ ンなどにおいてイタリア王国の外交官としての務めを果たした。次いで、1872 年 11 月に駐日 イタリア代理公使に任命され、1874 年 9 月の特派全権公使フェ・ドスティアーニ伯爵の帰日 までの間、在東京イタリア公使館を指揮した。その後、1875 年 3 月 13 に弁理公使としてワシ ントンにおける在米イタリア大使館に派遣された。その勤務中 1880 年 3 月 4 日に死亡した。 Cfr. Grassi (1987: 527-528). 16 Cfr. Zanier (2006: 40). 17 ベルテッリ(2007a: 56)を参照。 18 Cfr. Chabod (1951: 533-534). 19 ウゴリーニ・ロマーノ(1997: 172)を参照。

(7)

易に関連した問題を解決するだけでなく、日本に対する最も積極的な外交政

策を講じることをも目指していた

20

。何よりもまず、日本に到着して以来、

日本の政治的状況に関して正確で信頼性のある描写ができるように、彼は国

内問題および明治政府の外交政策についてできるだけ多くの情報を収集する

ことに専念した。しかしながら、彼が何度も外務省に通告したように、リッ

タはその当時公使館が抱えていた多くの苦境に直面しなければならなかっ

た。特に、ヴィスコンティ・ヴェノスタに対してリッタが書いた報告書(1873

年 5 月 21 日)では、現在の態勢ではイタリアが日本の外交政治において活

動的な役割を果たすことのできる重要な情報が得られないということを指摘

している。その理由は以下の通りである。第一に、駐日イタリア外交官のた

めの日本語通訳者の不足があった。その結果、外交官たちは他国の公使館に

勤めていた通訳者や短期滞在のイタリア蚕種商人を頼りにすることを強いら

れた。 第 2 に、日本問題の専門家との接触の不足があった。第 3 に、在東

京公使館と在横浜領事館の間で分断されていたイタリア外交団内の情報交換

に関する問題があった。このような苦境に関して、リッタ伯爵は以下のよう

に述べている。

[前略]この公使館の管理を引き受けるために日本に着任して間もなく、小生の最 初の関心事は、この国の国内情勢、その国民の様々な傾向、それに帝国政府の動向 について情報を得ることでした。しかし、渇望された情報を得るために、多くの困 難に直面いたしました。まず、通訳者が旅行中であるか、または辞職してしまった ために、不足しています。それに、我々は日本のことを正しくかつ詳しく知ってい る知人に乏しいのです。その上、一部は横浜、一部は江戸に常駐する外交団内が分 20

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 6 月 25 日付)。

21 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 21 日付)。[...] Appena giunto al Giappone nell’assumere la reggenza di questa R. Legazione fu mia prima cura quella di mettermi al cor-rente delle condizioni interne di questo paese, delle varie tendenze di queste popolazioni, e delle disposizioni del governo imperiale. Ma ad ottenere le bramate informazioni mi si presentavano parecchie difficoltà, fra le quali vanno notate la mancanza degli interpreti, in viaggio o congedati, la pessima conoscenza delle persone pratiche ed attente nelle cose del Giappone, e la dispersione del corpo diplomatico che risiede in parte a Yokohama ed in parte a Yeddo, per cui difficile o per lo meno scarso diventa il contatto fra le varie legazioni, e quello scambio di idee e di informazioni che tanto avrebbe giovato al caso mio. [...].

(8)

裂しているので、様々な公使館との間の接触はもちろん、小生に非常に役に立つは ずであった意見や情報の交換が困難になったり、あるいは少なくともそういった情 報の交換をする機会が乏しくなります。[前略]21

2.

代理公使リッタが目にした日本の情勢およびその対日外交姿勢

前章で述べた問題があったにもかかわらず、代理公使リッタは短期間で当

時の日本の情勢を理解した。そこで、日本における様々な出来事に関して常

に最新情報を外務省に報告し、特に日本の工業化および近代化の過程に沿っ

て明治政府により行われた進展を指摘した。事実、バルツァリーノ ・ リッタ

がヴィスコンティ・ヴェノスタに書いた公式の報告書では、明治政府におい

てはかなりの財政難が認められる上に、この新しい支配階級によって促進さ

れた変革に敵対する派閥がなおも勢力を得ていたこと、それにもかかわらず、

明治政府はできるだけ早く西欧列強の勢力と同レベルに到達することを目標

にして、文明開化を続ける決心を抱いていたようであったことが述べられて

いる。その状況に関して、代理公使リッタは次のように書いている。

[外国人外交官の間では]誰でも皆、日本が文明化する状況がすばやくかつ継続的 であることに同意しています。ヨーロッパの文明国が何世紀もかけて達成したレベ ルに短時間で到達しようとする帝国政府の過度なほどの熱心さは時に非難されるべ きほどです。しかし、苦労して克服しなければならない困難や破壊しなければなら ない偏見、因習に打ち勝ってきた日本新政府に対して一致して称賛しています。異 論がありません。[中略]政府は、日本にはなおも旧来の党派があるためにそれが 及ぼす主な障害に出くわしています。この党派が非難するにとどまらず、新政府や 新しい制度を憎悪していることは言うまでもありません。[後略]22

22 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 21 日付)。[...] Tutti conven-gono che rapidi e continui sono i progressi fatti da questo paese nella civilizzazione europea, e se talvolta al governo imperiale si può rimproverare troppa premura per giungere in poco tempo al livello di quei paesi che contano parecchi secoli di civiltà, tuttavia unanime è il plauso che gli si tributa, vinte le difficoltà ch’ei deve combattere e sormontare, i pregiudizi e le inveterate abitudini ch’ei deve distruggere. [...] Le difficoltà maggiori il governo le incontra nell’esistenza di un vecchio partito giapponese. È inutile il dire quanto questi disapprova anzi odia le nuove istituzioni. [...].

(9)

もちろん、リッタが指摘したように、日本の近代化の過程で設定された目

標を実現するために、明治政府は大量の外国資本を必要としていた。その結

果、日本は高い金利で融資を与えていたイギリスをはじめとするヨーロッパ

諸国の商業と政治的影響下に入りつつあった。同時期に、相互に一定の競争

をしていたヨーロッパの様々な債権国は、極東地域において自国の優位性を

主張するために巨大な経済的資源を投資したため、常に破産の危機と金融危

機にさらされていた(特に、明治政府が彼らと契約した借金を返済できなかっ

た場合がそうであった)

23

。したがって、リッタ伯爵は以下の結論に達した。

[前略]確かに、ヨーロッパ人が考えているほど多くの金鉱山が日本にあるわけで はありません。しかし、だからと言って日本に金鉱山がなくなったわけではありま せん。この国に資本を投入することでそこから利益配分がより多く得られさえすれ ば、それでいいのです。しかし、国際市場におけるこの国の貸付金額は減少する一 方です。日本政府が新たな融資を頼む場合、ロンドンのようなヨーロッパの重要な 首都の経済は大変困難となり、経済的な失敗が避けられないでしょう。[中略]遠 い国への遠征は極めて危険です。それに、軍事力を見せつけたからといって、それ で資本の回収も利息の支払いも得られると限りません。おそらく遅かれ早かれ、い くつかの列強国が資本や利子の回収不能になることは避けられない事態でしょう。 [後略]24

このような状態の中、リッタは、イタリア王国がその当時までに講じた慎

重な政策をやめ、代わりにさらに積極的な政策を開始するべきと考えた

25

というのは、日伊貿易の拡張およびイタリアの日本への投資はわずかであっ

23 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 7 月 9 日付)。

24

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 7 月 9 日付)。[...] Se il paese non contiene tutte quelle inesauribili miniere d’oro che gli attribuisce l’Europa, non è però esausto, soltanto l’uso delle sue ricchezze va meglio ripartito: ma quello che si fiacca e si va fiaccando è il suo credito sui pubblici mercati, e se al giorno d’oggi il Governo Giapponese volesse contrarre un nuovo prestito, sia a Londra, sia in altra grande capitale dell’Europa, le difficoltà sarebbero enormi ed un fiasco inevitabile. [...] Le spedizioni in paesi lontani sono molto arrischiate e pericolose, con una dimostrazione di forze non si ottiene talvolta né il ricupero dei capitali, né il pagamento degli interessi. Eppure sono di quelle eventualità alle quali forse col tempo qualche potenza non potrà sfuggire. [...].

25

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 6 月 25 日付)。

(10)

たために、たとえ日本の経済発展が失敗に終わっても他国に比べてイタリア

の損失は少なく、それゆえに、イタリアは極東において欧米列強間の勢力均

衡の調整役として決定的な役割を果たす可能性があったからである

26

。その

結果として、イタリアは起こりうる金融危機の中でも深刻な損失を被る危険

に身をさらすことなく、日本における自国の貿易を拡大させるための良い機

会も有していた

27

。事実、リッタ伯爵が述べているように、「幸いなことに、

この帝国との貿易関係は我々に問題をもたらすようなものではありません。

そして、いくらこの海域で我々の貿易が発展しやすいとしても、我々は我々

の資本を失う危険にさらされることは決してありません」

28

このような状況から生じる可能な限りの商業・政治的利益をつかむために、

リッタは日本においてイタリア海軍の存在を強化すべきであると示唆した。

特に、蚕種貿易において、それまで半年ごとに日本へ送られていた海軍艦艇

だけでは日伊貿易を発展させるには不十分であり、さらに横浜沖の日本の領

海に恒久的にイタリアの艦隊が駐留すべきであると示唆した。彼は、このよ

うな措置を取らなければ、日本人の目に、国際的な威信を備えかつ、尊敬す

べき強国としてのイタリア王国を印象づけることはできないと考えた

29

。以

下、その必要性に関する代理公使リッタの意見を挙げよう。

[前略]小生は、日本の海域において三隻の軍艦が駐留することが必要であると存 じております。このうち、一隻は横浜にとどまり、他の二隻はこちらに拠点を置き 年二回インドと東シナ海における諸港を訪問すべきです。イタリアから日本までの 旅行中、小生がお会いした領事から教えていただいたとおり、その地域において我々 の商業的利益が拡大しつつあるようです。[中略]また、イタリア商船がつい最近 26

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 6 月 25 日付)。

27 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 7 月 9 日付)。

28 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 7 月 9 日付)。[...] Fortunatamente i nostri rapporti commerciali con questo impero sono di natura a non crearci complicazioni, e per quanto il nostro commercio sia suscettibile di sviluppo in questi mari, non ci troveremmo mai esposti al pericolo di vedere sfumare i nostri capitali. [...].

29

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 28 日付)。

(11)

寄港するようになった港、バタヴィアにおいても、イタリア商船は多大な信用を得 ているという話を耳にしました。イタリア王国の政府が軍艦を日本近海に駐留させ ることによってこのような遠国にいるイタリア王国の通商保護に役立ち、それは信 用の獲得に役立つでしょう。それによって我々の通商関係は絶え間なく発展し、目 下のところ我々の予算の制約によって許されていないような犠牲[軍艦派遣]を将 来補うことができるでしょう。[後略]30

3. 王子の来日を巡るローマ外務省と駐日公使館の間の意見対立

代理公使リッタは、極東での貿易とイタリアの政治的重要性を拡大させる

べきであると説明したにもかかわらず、イタリアの政府と外務省が日本と東

アジアの状況に対して関心が欠如していると考えざるをえなかった。それど

ころか、外務大臣ヴィスコンティ・ヴェノスタはリッタが東京から頻繁に送っ

ていた情報や要求をわずらわしく思い、リッタの政策に強く反対した。特に、

1873 年(明治 6 年)8 月 19 日に当時の外務省領事であったアウグスト ・ ペ

イロレーリ(Augusto Peiroleri, 1831-1912)に書かせたリッタ宛の書簡の中で

ヴェノスタは以下のように代理公使を叱責し、政府予算に重い負担をかけな

いように伝え、書簡は緊急の場合に限定するよう指示した。

[前略]我々は貴下が外務省宛に送る文通の頻度と量に言及しています。このよう な距離では、こうした諸書簡はかなりの費用の原因となります。政府向けの重要な 情報になる可能性が高い便りの選択に関しては、外交官らによる慎重な評価が必要 です。[中略]通常は、外務省に送る情報伝達を制限し、必要以上に通信費の負担 30

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 28 日付)。[...] Io penso che una stagione navale di tre legni nelle acque del Giappone non sarebbe di troppo. Uno di questi legni dovrebbe rimanere fermo a Yokohama, e gli altri due far centro qui, ma visitare due volte nell’anno i vari porti del mare delle Indie e di quello della China, dove, a quanto mi dissero i Regi Consoli che ebbi l’onore di vedere durante il mio tragitto dall’Europa al Giappone, i nostri interessi commerciali prendono un notevole sviluppo. [...] Mi si dice che anche a Batavia la marina mercantile italiana, dappoco apparsa in quel porto, va acqui-stando molta fidenza, e questa fiducia non potrà a meno che avvantaggiare, allorquando si vedrà che il Regio Governo tutela con la presenza di legni da guerra il commercio italiano in quei lontani paesi: e così collo svi-luppo incessante dei nostri rapporti commerciali, si verrà a compensare quei sacrifici, che forse per il momento non ci permetterebbero le strettezze del nostro bilancio. [...].

(12)

をかけないよう注意して下さい。そのために、こうした情報の重要度は、事件が起 きる現場での印象によってではなく、それらを受け取るべきである政府の見地から 測られることが必要です。[後略]31

上記の内容からもわかるように、トンマーゾ・ディ・サヴォイア王子の来

日に際して、ローマ外務省が与えた指示と在東京イタリア公使館が取った政

策活動との間にはギャップが激しかった。代理公使リッタは、ジェノヴァ公

が乗船する蒸気コルベット艦「ガリバルディ号」が横浜に上陸する予定であっ

たことをイタリアの地方紙で知ると、すぐにローマ外務省に王族を迎え入れ

る方法についての指示を求めた。彼はこのようなイベントに多くの重要性を

持たせなければならないことは当然だと思っていた。当時、1872 年(明治 5

年)にちょうど訪日したロシア大公アレクセイ

32

が心のこもった歓迎を受

けた直後であり、リッタは明治宮中においてサヴォイア家の王族による公式

訪問が確かに日本でのイタリアの威信拡大に大きく貢献できると考えてい

た。その結果、トンマーゾ王子の訪問は日伊外交関係の質を高め、在横浜イ

タリア人居留地に利益をもたらす可能性もあった

33

。代理公使リッタは、ト

ンマーゾ王子の来日に向けてイタリア王国が取るべきアプローチに関して以

下のように書いている。

[前略]小生は、まだヨーロッパにいた際に、ジェノヴァ公爵殿下がイタリア王立 海軍の軍艦「ガリバルディ号」に乗って世界一周航海中横浜港に寄港することになっ

31 ASDMAE, Moscati VI, Registri copia lettere in partenza (1867-1878), b. 1130, イタリア務省領事アウ

グスト・ペイロレーリより、駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵宛の書簡(1873 年 8 月 19 日付)。[...] Intendo alludere alla frequenza ed alla mole delle corrispondenze che Ella invia al Ministero le quali, a questa distanza, sono cagione di spesa non indifferente. Alla scelta delle notizie destinate a diventare oggetto di informazioni pel Governo, deve presiedere un giudizioso apprezzamento nel quale appunto si rivela l’accortezza degli Agenti all’estero. [...] Ella vorrà studiarsi, in generale, nel regolare le sue comunicazioni al Ministero di non aggravare più del necessario le spese di corrispondenza, misurando l’entità di quelle comunicazioni piuttosto dal punto di vista del Governo che deve riceverle, anziché dalla impressione del luogo dove accadono i fatti. [...].

32 アレクセイ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ(Aleksej Aleksandrovič Romanov, 1850-1908)

はロシア皇帝アレクサンドル 2 世と妻マリア・アレクサンドロヴナ皇后の間の第五子であっ た。

33

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 12 日付)。

(13)

たという話を新聞で読む機会がありました。[中略]小生は、大臣閣下にこのよう な状況において何をすべきかについて必要な訓令を与えていただければ幸いです。 [中略]小生は日本国側に公式に知られることなくこの来日を行なうことが我々に とって役に立たないと存じております。アレクセイ公爵の最近の先例があるにもか かわらず、なぜ我々の国の王子がミカドからの心のこもったご接遇を避けるべきか については、小生はそれを存じあげません。こうした懇意な行為は、両国間の良好 な関係の確認であることはもちろん、この国における我々の威信を高め、我々の居 留地にさらなる重要性を与えることにも役立ちます。[後略]34

このような経緯で、天皇もトンマーゾ王子の来日が差し迫っているのを知

らされることとなった。また、明治政府はこの来日を岩倉使節団がイタリア

で受けた大歓待に対する感謝の気持ちをサヴォイア家に示す機会と見なし

35

。そこで、リッタは、ジェノヴァ公の訪問を公式なものとすることに関

心を持っていた日本当局の要請により、1873 年(明治 6 年)5 月 28 日に外

務省に書簡を送り、再びトンマーゾ王子の来日について詳しい指示を求めた。

特に、リッタはサヴォイア家の王族の来日を公式訪問として行う許可を願い

出た

36

。しかし、リッタは、ローマ外務省から返事がすぐに届かなかったた

め、ヴィスコンティ・ヴェノスタの沈黙を公式訪問に対する同意と解釈した。

そこで、明治政府側はイタリア王子に敬意を表する名目の盛大な式次第を準

備することになった。だが、ちょうど軍艦「ガリバルディ号」が横浜に上陸

する数日前の 8 月にリッタへの返事として外務省からの公式の報告書が届い

37

。1873 年(明治 6 年)7 月 8 日に当時の外務省総務局長イサッコ ・ アル

トム(Isacco Artom, 1829-1900)が外務大臣ヴィスコンティ・ヴェノスタの名

34 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 12 日付)。[...] Allorché io mi trovavo ancora in Europa ebbi occasione di leggere in alcuni periodici che S.A.R. il Duca di Genova, a bordo della “Garibaldi”, legno della R. Marina, nel suo viaggio di circumnavigazione avrebbe toccato questo porto, [...] io bramerei che l’Eccellenza Vostra mi desse le opportune istruzioni sul da farsi in quella circo-stanza [...]. A me pare che la stretta osservanza dell’incognito non faccia a caso nostro. Abbiamo il recentissimo precedente del Granduca Alessio, e non saprei per quale motivo un principe nostro avesse a sottrarsi alle cor-tesie del Mikado, le quali oltre a essere una conferma dei buoni rapporti esistenti fra i due paesi, servirebbero ad aumentare il nostro prestigio in questi paesi e a dare maggior risalto alla nostra colonia. [...].

35 ウゴリーニ・ロマーノ(1997: 193)を参照。 36

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 28 日付)。

(14)

義で書いたその書簡によれば、軍艦「ガリバルディ号」の大洋横断航海はト

ンマーゾ王子のための訓練旅行に過ぎなかった。そのため、代理公使リッタ

の意向とは異なり、ローマ外務省の首脳(特に、ヴィスコンティ・ヴェノス

タ)にとってはジェノヴァ公の来日は匿名で私的な訪問として行われなけれ

ばならなかった

38

。実際、アルトムは、トンマーゾ王子の来日に関しては、

以下の通りに述べている。

[前略]この点で、貴下に次の情報を伝える必要があります。すなわち、海軍省は、 訓練のためにジェノヴァ公爵殿下がコルベット艦「ガリバルディ号」への乗船に際 し、船上で小さな執務室での海軍将校生活をすることになった旨を本省に通知した ということです。殿下は殿下が自ら望まれる訪問のために上陸した場合に限り、王 族としての役割に戻ることになります。そこで、ロシア帝国の皇族アレクセイ公爵 と我々の王子の比較は、このような状況で取るべき姿勢を定める材料として考慮さ れるべきではありません。事実、ロシア皇帝の息子である大公爵は、海軍の戦隊に よって護衛され、王子として旅行されていました。この旅行は、ロシア帝国が日本 と共に自国の領土問題を定義することに興味があったため、政治的な意味を持って いました。一方、トンマーゾ王子は単なる訓練旅行をされています。殿下が乗船さ れた軍艦は会見のために準備されるべきではありません。その上、絶対に必要な場 合を除いては、殿下の今回の旅行は非公式の旅行の規則から除外するにはあたりま せん。[後略]39

しかしながら、結局リッタは、明治政府と共に立てられた計画の急激な変

37 ウゴリーニ・ロマーノ(1987: 169-170)を参照。

38 ASDMAE, Moscati VI, Registri copia lettere in partenza (1867-1878), b. 1130, イタリア外務省総務局

長イサッコ・アルトムより、駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵宛の書簡 (1873 年 7 月 8 日付 )。

39

ASDMAE, Moscati VI, Registri copia lettere in partenza (1867-1878), b. 1130, イタリア外務省総務局 長イサッコ・アルトムより、駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵宛の書簡(1873 年 7 月 8 日付)。[...] Io debbo a questo riguardo farle sapere che quando S.A.R. il duca di Genova si è imbarcato sulla Corvetta Garibaldi il Ministero è stato avvisato che a bordo S.A. farebbe la vita del semplice ufficiale di marina e che solamente sbarcato per le visite che personalmente vorrà fare, S.A.R. ripiglierà il suo grado di Principe del sangue. Il Confronto fra il Granduca Alessio di Russia ed il nostro Principe non potrebbe quindi essere la norma determinante la condotta da tenere in questa occorrenza e il G. Duca, figlio dello Czar, era accompagnato da un’intera squadra, viaggiava come Principe, ed il viaggio aveva un senso politico interessando alla Russia di definire le sue questioni territoriali col Giappone. Il P.pe Tommaso fa invece un viaggio di semplice istruzione. Il legno sul quale è imbarcato non deve esser disposto per ricevi-menti, ed egli non deroga alla regola dell’incognito che quando la convenienza assolutamente lo richieda. [...]

(15)

更は当時、深刻な外交上の問題を引き起こす恐れがあったため、以上に述べ

たローマ外務省からの指示に従わないことを選んだ。そこで、リッタは、

1873 年(明治 6 年)8 月 23 日に軍艦「ガリバルディ号」が横浜港で錨を降

ろすとすぐに、その蒸気コルベット艦に乗り込み、艦長デル・サントとトン

マーゾ王子に状況を説明した。その結果、リッタは彼らと共に、まるでヴィ

スコンティ・ヴェノスタの指図がまだ届いていなかったかのように、日本当

局の期待に沿った公式訪問としてジェノヴァ公の来日を行うことを決定し

40

。その後、リッタ伯爵は外務省に書簡を書き、ヴィスコンティ・ヴェノ

スタの指示に対する自分の不従順さを正当化しようと試みた。特に、1873

(明治 6)年 8 月 27 日付のこの報告書によれば、代理公使は、「渇望された

訓令」が届いていなかったことを理由として、日本当局にトンマーゾ王子の

到着を公式に知らせることにしたとしている。すると、天皇が熱意をもって

ジェノヴァ公の来日を迎え、盛大な歓迎を行おうとしていたため、リッタは

公式訪問としてトンマーゾ王子の来日を行うしかなかったとしている

41

4. 宮中におけるサヴォイア王子の公式訪問とその外交的影響力

ジェノヴァ公は、日本当局と代理公使リッタによる計画に沿って、軍艦「ガ

リバルディ号」が日本の海域に停泊していた際、宮中へ公式訪問に赴き、天

皇と皇室からの全ての申し出を受け入れることになった。この訪問が終わっ

た後、トンマーゾ王子は、日本から出発時に天皇への正式なお別れの挨拶を

するまでの間、蒸気コルベット「ガリバルディ号」での訓練に支障が出ない

範囲で、お忍びで日本での滞在を続けることになった

42

しかし、1873 年(明治 6 年)8 月 23 日にトンマーゾ・ディ・サヴォイア

が日本に到着して以来、天皇から、イタリア王子に対し、このような状況下

40 ウゴリーニ・ロマーノ(1997: 193)を参照。

41 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 8 月 27 日付)。

42

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 5 月 12 日付)。

(16)

で習慣的に行なわれる外交儀礼を越えるきめ細かい心遣いがあった。例えば、

軍艦「ガリバルディ号」の横浜への入港の歓迎や、横浜に駐留していた他国

の軍艦と共にサヴォイア王子に名誉を親授するために、数隻の軍艦が派遣さ

れた。その小艦隊を率いていたのは、後の 1894 年(明治 27 年)9 月 17 日

に清国海軍北洋艦隊に対する黄海海戦 (日清戦争)の勝者になった旧薩摩藩

士、当時の海軍大尉伊東祐亨(いとうすけゆき、1843-1914)であった

43

その間、在横浜駐日イタリア領事デ ・ バッリーリスはすぐにトンマーゾ王

子の意向に沿って、1873 年(明治 6 年)9 月 1 日の午前 11 時にジェノヴァ

公が公式に横浜港のイギリス波止場に下船した際の歓待を用意した。トン

マーゾ王子を出迎えるために、宮中の最高当局者をはじめ、前述の海軍大尉

伊東祐亨、政治家・実業家である神奈川県知事大江卓(おおえたく、1847-1921)、全ての駐日外国総領事など様々な重要人物がその催事に参加した。

その後、トンマーゾ王子は横浜から馬車や電車で東京へ赴き、彼の滞在のた

めに浜御殿に一時的な住居を与えられた

44

同日、サヴォイア王子は艦長デル・サントと代理公使リッタ同行のもと、

皇居で天皇と皇后に歓迎された。それから、天皇は、珍しいことに、ちょう

どトンマーゾ王子が浜御殿に戻った直後、そこへお返しに彼を訪問した

45

その後の数日間、ジェノヴァ公は彼の住居を何度も訪ねて来た日本の役人お

よび欧米諸国の外交官と会見した。このように、トンマーゾ王子は、皇室の

主賓として 8 日間もてなしを受けた。そして 1873 年(明治 6 年)9 月 9 日に、

軍艦「ガリバルディ号」での自分の任務を再開するため、浜御殿にある住居

を去り、非公式に横浜に赴いた

46

。同日にリッタは、ヴィスコンティ・ヴェ

ノスタに書いて送った報告書において、サヴォイア王子による日本公式訪問

43 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 8 月 27 日付)。

44 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 3 日付)。

45 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 3 日付)。

46

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 9 日付)。

(17)

について記述して、王子が取った態度に対して高評価を下している。特に、

リッタの書簡によれば、旧佐賀藩士であった当時の外務卿副島種臣(1828-1905)がリッタと会見した際にトンマーゾ王子による公式訪問に対して感謝

の意を表し、「この訪問後、イタリアと日本の間に存在していた隔たりが消

失した」

47

と言ったようである。さらに、代理公使にとっては、ジェノヴァ

公に与えられた特別な歓迎は明治政府が他の欧米列強よりむしろイタリア王

国に共感を抱いているという証であった。例えば、代理公使が述べているよ

うに、公式訪問の最終日には、「天皇陛下、ジェノヴァ公爵殿下、殿下の軍

事系家臣らと、在日公使館の諸外国首脳部向けに朝食会が催されました。信

任状を手にそこへ派遣された各国外交官がミカドと共に宴会場で座していた

のは初めて」のことであった

48

以上に述べた公式歓迎のほかに、トンマーゾ王子は、9 月 9 日に横浜に戻っ

た際に、幾人かの日本の貿易業者による経済界からの重要な出迎えも受けた。

その商人たちは彼らの銀行で休息するようにとサヴォイア王子を招いて、そ

こにいた日本の様々な商社の実業家がイタリア王国向けの表敬の書状を朗読

し、ジェノヴァ公に貴重な日本製のインク壺を贈った

49

。おそらく日本の実

業家はサヴォイア王子に敬意を表して催された祝賀の素晴らしさに惹かれた

のだろう。確かに、彼らは、取引および利益の可能性を高める好機をつかむ

ために、自国においてそのような重要人物の存在から便益を引き出すことを

目指していた。そのため、トンマーゾ王子に対する彼らの親切心の現れや贈

り物は、イタリアとの貿易を拡大し多様化するという計画の提案として受け

47

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 9 日付)。[...] Il Sig. Soyedzima, Ministro degli Esteri, stringendomi ieri sera la mano, e ringraziandomi per la visita fatta dal Principe alla corte Imperiale di Yedo, mi disse che dopo questo avvenimento, era sparita la distanza che esiste fra l’Italia e il Giappone. [...].

48 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 9 日付)。[...] (venne) appron-tata una colazione per l’Imperatore, S.A.R. il Duca di Genova, la casa militare di S.A. ed i capi missione esteri. Era la prima volta che i diplomatici qui accreditati sedevano a banchetto col Mikado. [...].

49

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 9 日付)。

(18)

取られるべきである。しかしながら、代理公使リッタが既に外務省に指摘し

た通訳者および日本問題専門家の不足のため、サヴォイア王子に対する親切

な態度の背後にあった商業的な提携に関する日本の商人の意向はイタリア側

からあまり理解されなかったようである

50

。しかし、リッタにとっては、こ

の出来事は、宮中における外交的な成功と同様、公式訪問としてジェノヴァ

公の来日を行うこととした決定による好ましい結果であった。また、日本商

人からのこの出迎えは日伊間の通商関係に利益をもたらす可能性もあった

51

以上を踏まえ、代理公使リッタはサヴォイア王子の公式訪問およびそのお

かげで得た結果に満足していた。特に、リッタがヴィスコンティ・ヴェノス

タに対して書いた報告書(1873 年 9 月 17 日)によれば、その公式訪問は明

治政府および皇室との外交関係を深めることに非常に貢献したと書かれてい

52

。事実、リッタ伯爵は以下の結論に至っている。

[前略]小生は、通商関係はもちろん、この国との政治関係に関しても、この訪問 が好ましい結果をもたらすと確信しております。横浜の日本人商人による出迎えは 非常に心を打ち、副島氏(つまり、外務卿副島種臣)の言葉から日本政府が我々と の良好な関係を持つ意思があることを感じています。[中略]日本政府では、宮中 におけるジェノヴァ公爵殿下の訪問はイタリア王国に関する疑いを全て晴らした上 で、両国と両宮廷の間にさらに親密な絆を確立することに貢献しました。[後略]53

さらに、1873 年(明治 6 年)9 月 13 日に起こった岩倉使節団の帰国がそ

の外交的な成功に加えられたことを考慮し、トンマーゾ王子の公式訪問が日

50 Cfr. Zavarese (2005: 74). 51

ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 9 日付)。

52 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 17 日付)。

53 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288, 駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イタ

リア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 9 月 17 日付)。[...] Io sono con-vinto che questa visita avrà buoni risultati tanto per i nostri rapporti commerciali quanto per i politici con questo paese. Le dimostrazioni dei negozianti di Yokohama sono abbastanza eloquenti, e il linguaggio del M. Soyezima è tale da far comprendere che il suo Governo, brama ed intende essere bene con noi. [...] presso il Governo Giapponese la visita di S.A.R. il duca di Genova alla corte contribuì moltissimo a far cessare qualsi-asi sospetto ed a stabilire un vincolo ancora più stretto fra le due Corti ed i due paesi. [...].

(19)

伊関係の一般的な枠組みの中で好影響を与えたことを付言する必要がある。

実際、イタリアに戻る前に、ジェノヴァ公は岩倉具視と会見し、彼の好感を

得たようである

54

。確かに、トンマーゾ王子は、天皇だけでなく、岩倉具視

をはじめとする多くの日本の政治家とも堅い友好関係を結ぶことに成功し

た。その結果、明治政府の多くの役人は、1873 年(明治 6 年)9 月 9 日から

ジェノヴァ公がお忍びで少尉として日本での滞在を続けるために軍艦「ガリ

バルディ号」に乗船した後も、トンマーゾ王子と度々会見し、彼に対してき

め細かい心遣いをした

55

。日本における約 2 ヶ月の滞在の終わるころ、トン

マーゾ王子は、1873 年(明治 6 年)10 月 13 日に天皇にお別れの正式な挨拶

をした後

56

、同年 11 月 1 日についに横浜から出港し、サンフランシスコに

向かって軍艦「ガリバルディ号」での大洋横断航海を続けた。

おわりに

外務省宛ての様々な書簡を通じてリッタが詳細に記述したトンマーゾ・

ディ・サヴォイアの訪問の政治・外交上の成功は、ヴィスコンティ・ヴェノ

スタにあまり考慮されることなく、イタリア王国のための利益にも十分に生

かされなかった。むしろ、リッタはジェノヴァ公の来日を匿名で私的な訪問

として行うという外務省からの指示に逆らったため、外務大臣はリッタに対

して非常に腹を立てていた

57

。それでも、不本意ながら既成事実を受け入れ

たヴィスコンティ・ヴェノスタは、ジェノヴァ公が日本に滞在している限り、

その訪問に関して東京から届いていた多数の報告書に直接返事するのを避け

ようとした。それに、ヴェノスタは、事態が日本に関する自分の外交政策に

沿ったものになることを、静観して待つことにした

58

。一方、リッタは外務

54 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288、駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イ

タリア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 10 月 7 日付)。

55 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288、駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イ

タリア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 10 月 7 日付)。

56 ASDMAE, Moscati VI, b. 1288、駐日イタリア代理公使バルツァリーノ・リッタ伯爵より、イ

タリア外務大臣ヴィスコンテイ・ヴェノスタ宛の書簡(1873 年 10 月 20 日付)。

(20)

省から何の音沙汰もなかったにもかかわらず、日本における様々な出来事に

関して常に最新情報を外務省に知らせ続けた。また、ヴィスコンティ・ヴェ

ノスタの無関心さおよび敵意に対しても、代理公使は日伊関係の発展を促進

するための自身の様々な活動に固執した

59

。駐日イタリア代理公使として

リッタ伯爵が日本で行った様々な活動の様子は、現在のところまだ十分に検

討されておらず、今後の研究テーマとすべきではないだろうかと考えている。

本稿では、主にイタリア外務省歴史外交史料館に保管されている未刊の一

次史料の分析に基づき、駐日イタリア代理公使リッタ伯爵が明治政府に対し

てとろうとしていた外交姿勢について可能な限り包括的な検討を試みた。そ

の結果、1873 年(明治 6 年)におけるトンマーゾ・ディ・サヴォイア王子

の来日にあたり、イタリア王国の対日外交政策を巡ってリッタ伯爵と当時の

外務大臣ヴィスコンティ・ヴェノスタ侯爵との間で意見の対立があったとい

う結論に至った。実際、日本に関してヴィスコンティ・ヴェノスタの外交政

策は横浜におけるイタリア蚕種商人の活動を支援することのみであった(第

1 章)。一方、駐日イタリア代理公使リッタは外務大臣の政策に反し、イタ

リア王国の威信を高め、日伊貿易を多様化しようとした。そのために、リッ

タ伯爵は明治政府および皇室との友好の絆を深めることを目的とした(第 2

章)。以上を踏まえ、代理公使リッタはイタリア貿易拡大および国際舞台で

の積極的な役割を目標にして、外務省の指示に従わずジェノヴァ公の訪問に

公式な性格を与えることにした(第 3 章)。その結果、トンマーゾ王子は、

代理公使が事前に決めた政治・外交計画に沿って、天皇および多くの日本の

58 ウゴリーニ・ロマーノ(1997: 194)を参照。 59 例えば、日本からサヴォイア王子が出発する少し前に、リッタは日伊関係のために可能な かぎりの利益を実現し、宮中の高官および明治政府の役人向けの高勲章が東京へ送られるよ うにあらゆる手段を尽くした。というのも、彼にとって、他の欧米列強よりも進んでイタリ ア王国が天皇および日本の支配階級に自国王家の最高名誉称号を授ける最初の国となり、そ うすることでジェノヴァ公の公式訪問によって確立された日伊両国の友好関係もさらに強化 される可能性があると考えていたからである。にもかかわらず、日本の当局に前述の勲章を 授けるというリッタによる提案も外務大臣によって十分に考慮されなかった。むしろ、ヴィ スコンティ・ヴェノスタは外務省の指示を仰がず自主的に決定をするリッタの姿勢に対して 強い不快感を抱き続けながら、日本へ位階の高い勲章を送るという代理公使による執拗な要 求を様々な理由で拒否した。宮中の高官および明治政府の役人向けの高勲章の授与に関する 小事件についての詳細はウゴリーニ・ロマーノ(1997: 194-196)を参照。

(21)

政治家と堅い友好関係を結ぶことに成功し、イタリア王国を代表する公式使

節として明治政府および皇室との外交関係を深めることに貢献したと考えら

れる(第 4 章)。

最後に、対日イタリア外交政策を巡る前述の意見対立のために、ジェノヴァ

公による初来日の政治的な重要性およびその成功は大幅に縮小した。確かに、

明治政府は、リッタによって行われたトンマーゾ王子の公式訪問を両国間の

さらに親密な政治・経済関係の構築に対するイタリア王国の大きな好意とし

て解釈した。しかし、日本の支配層は、1874 年(明治 7 年)9 月にリッタ伯

爵が帰国することになった後の日伊外交関係停滞のため、日伊関係に対する

イタリア政府(特に、ローマ外務省)の関心が蚕の卵に関する日伊貿易に過

ぎなかったと理解した。確かに、日本におけるサヴォイア王子の最初の滞在

は皇室に良い印象を残した。にもかかわらず、代理公使およびサヴォイア王

子が得た成功は、外務省によって調整された一義的なイタリア外交政策の欠

如により、非常に制限されたままであったと思われるのである。だだし、ト

ンマーゾ王子の来日が日伊関係の状況に与えた影響の程度をきちんと確認す

るために、日本の当局はこの来日をどのように扱ったのか詳細に説明する必

要がある。実は、日本側の一次史料に基づいて 1873 年のトンマーゾ王子の

来日について分析した研究は現在のところ行なわれていない。その結果、こ

の来日に対する明治政府と皇室の姿勢がまだ全く明らかにされていない。し

たがって、日本にある公文書館で保存されている史料を活用しながら、これ

を今後の課題としたいと思う。

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