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究がなされているが l2l r~ 労党の結成過程に北労党が関与した実態やソ連箪が下した指令については未だ ~ ペ Stalin) がこれに賛同することとなった 英国の立場は戦後に去るまで 不明瞭だったが I:tl

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J.Fac. Cul.Edu. Saga Univ.

Vol.7, No. 1(2002)63~78 63

高北朝鮮労働党の研究(酉)高朝鮮労働党の結成〔前編〕

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MORI はじめに jivJ f!.i.ï:~1三品の南北をえとソド奇策が分割占 ~l'! した~.え況下、北朝鮮地域では 1946 :1ド 8 月以持に北朝鮮労働党 {以下「北労党Jと11自記}の結成とその活動を通じて政治発展が図られ、共産主義努力が中心となる政府樹 立へと向かっていった。北労党の活動は、

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本による植民地統治からの解放後に朝鮮半烏で高揚した民族 主義のパッションを民衆に鼓吹することで、北朝鮮地域に南朝鮮地域「解放」のための「民主基地J と われる政、治経済体制を創設することに成功した ¥]1。 これに対して北緯

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度線の南半分では、

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月に米軍が軍政を敷いた当初Jから政治的、絞済的、 社会的な混乱が生まれ、北朝f(f(:地域と比較するとはるかに複雑な政治情勢が醸成されていった。解放後

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ヶ月間jの政治指勢は、一方の娠に米軍政と結んだいわゆる「大韓民国臨時政府J [以下

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郵政J と11併記} 支持勢力を、他方ではソ述E誌を後ろ腐としたいわゆる f朝鮮人民共和IJiIJ[以下 f 人共J と 11IÍ'T ~ê] 支持勢 力を形成し、次第にこの両IJ1I常が真っ向から対立するニ;随分解の政局へと展開していった。この展開の転 換点を磁したのが

1945

年末頃から翌年

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月にかけて巻き起こった「信託統治紛争jであり、朝鮮半島に 対する

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際的信託統治Jの実施条項を践り込んだ

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モスクワ協定jの是非をめぐり両陣営は激突するに 至る。 このこ極分解の政局中で開始された米ソ共同委員会を背景に、米軍政との協力の下に左右翼の雨綴端を 排絡し認健な勢力に政治的な主導権を学掘させようとする f左右合作J

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が推進された。この運動は決 して成功しなかったものの、これにより左翼部営が分裂し、朝鮮共産党、朝鮮人民党、南朝鮮新民党の一 党合党の動きに撲を打ち込んだ。すなわち左翼陣営は、朝鮮共産党の最高指導者と見なされていたキ卜議永 を支持する勢力と彼の主導権に反対する勢力とに内部分裂して争うことになった。 時あたかも南朝鮮地域で、は

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月ゼネ・ストjが起こり、これに続いて陪年

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月に

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lO 月人民抗争J と言われる民衆蜂起が勃発、分裂した左翼勢力は充分にこの蜂起を指導できなかった。この }:~I てやキト滋永に対する北労党の支持声明が 11\ され、事態は辛うじて収枯へ向かったが、この 3 ヶ月間の民衆 蜂起が鎮圧される過程で生まれたのが南斡鮮労働党[以下「南労党J と略記]た、ったのである。 本稿は次総の後編と合わせて南北朝鮮労働党を研究する第4[tJi!=:lの連載論考として、米軍政の占領下で 抑配を受けた共産主義勢力が「信託統治紛争jを経た後に戦術を転換し、民衆蜂起の誕っ只下:11

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64 森 議 宣 11月に北労党の協力により南労党を結成するに至るまでを再検証する。この時期に関しでは既に多くの研 究がなされているが l2l 、 r~労党の結成過程に北労党が関与した実態やソ連箪が下した指令については未だ 明らかにされていない。前編にあたる本稿ではまず、米本部政府ならびに米軍政と南朝鮮地域の諸勢力す なわち

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海政jや「人共jなどとの関係を検討する。そして、その1::11から大韓民国{以下「韓国j と略記] で現在まで継続する反共主義イデオロギーの原型が形成される へと戦術を転換する有様を描く。 朝鮮共産党が対米協調から反米闘争 さらに次稿では、南労党の結成過程での左翼陣営内部の分裂、すなわち朝鮮共産党、朝鮮人民党、荷車

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鮮業

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民党という三党の路線の柱i速について後二者の政治指導者の主張を紹介しながら る。この左翼 陣営内部の分裂には米軍政の強力なテコ入れで推進された「左右合作J運動に対する態度の定異に加え、 北朝鮮地域の北労党とソ連軍からする南朝鮮地域の各政治指導者に対する働きかけが絡まり、強く作用し ていた。 次稿では米軍政の内部資料と共に、新たに発掘した

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シトゥイコフ舗忘録;ゃ?レベジェフ備忘 録Jなどを用いて、

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*

、憲永を支持する北労党の決定を導くに奈る南労党結成の経緯をその結成大会の模様 と合わせて再構成する。 本捕の研究により左翼陣営内部の分裂は、詰まるところ朝鮮共産主義運動が!毒性として抱えていた民族 と共産主義とのズレから由来することが理解できるはずである。また、その運動を担った諸勢力関で 繰り広げられた迎動の主導権をめぐる派組闘争がソ述の威光を受けた北労党の決定により収拾される有様 は、朝鮮共産主義運動における路線闘争が派閥鴎争と一体だった証左として碕縦認されよう。 第10章 米 箪 政 の 朝 鮮 政 諜 南朝鮮地域の米軍政は、米本国政府の指令に従いながらも暁地での情勢判断の下に独自の政策を打ち出 していき、ついには米本国政府の政策転換を引き出すのに成功した。本主主では南朝鮮地域で米軍政が施行 した政策を検討するのに先立ち、まず第

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立界大戦中における米国の朝鮮政策の基鵡を概観する。 第

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節 米 閣 の 朝 鮮 政 策 の 護 謡 米国の朝鮮政策は、第二次初:界大戦中に構想された対

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占領政策との寝接な関連の1:13で考えられており、 その基調には「国際的信託統治j計画があった。 戦中の「国際的信託統治

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計甑 迎合国間で戦中になされた朝鮮半島の戦後処理計画の研究に先鞭をつけたのは、カミングスの研究であ ったにき}。この計阪をより深く究明した鄭容郁は、米国務省内の「戦後対外政策に関する諮問委員会 (The AdvisOIY Committθθon Post j,1,匂rForeign Policy)Jカ1171くも1942年夏に朝鮮を「一定期

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泌が経過した

後に独立させるが、期間中は連合住!の共同管理(国際機構)による信託統治を通じて自治能力を培養するJ と決定していたことを示したいい。 米

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大統領のローズベルト (FranklinD.Roosevelt) は速からず生まれる国際連合の下、朝鮮に対す る「毘

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際的信託統治j計会商を1943年

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月、英国外相イーデン (AnthonyEden) に初めてiむかした (5)。 興味深いことは、後述する南朝鮮地域だけの選挙を主張したレングダン (WiJJjamLangdon) その人が、 朝鮮半島を信託統治による国際管理下に損くことを早くから提案していた事実である{ヘ この f国際的信託統治J計画は、カイロ、ヤルタ、ポツダムの3会談を経てソ連首相のスターリン

Uoseph ~ペ Stalin) がこれに賛同することとなった。英国の立場は戦後に去るまで、不明瞭だったが、I:tl

国はこれに対する賛意を表明していた(加。カイロ宣言では朝鮮半烏を fl )ずれ(的 duecourse) 日出か っ独立とするj と定められたが(9)、迎合国では戦後すぐの時期に ljQl鮮民肢が独立する能力はないと考えら

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南北1;的鮮労働党の研究(限)南朝鮮労働党の結成〔前編〕 65 れていたのて・ある。 カミングスは、この「寝際的信託統治j 計画の I~ I~Iせが戦後に樹立される米国主導の菌際秩序にソ速を包 摂するところにあったとする。これに加えて郊容

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][lは、日本敗退後に!日植民地すなわち朝鮮半島の独立を 保証することにより、間際的な角遂と当該地域民衆の民肱主義的な燦発の両方を避けるところにその計爾 の程いがあったと述べているけ0)。 したがって、この吾-1碩が朝鮮民族のためと言うよりも迎合国とりわけ米国のために企踊された経緯から して、米国の朝鮮政策が戦況の変化によりソ速に対抗する性格を強めていったのは、国器関係を:自く権力 政治の本質ーから由来するものた、った。朝鮮に対する「間際的信託統治J計部

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の実現は、連合間

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閣の協議を 不可欠としていたが、ソ速による対日参戦後の戦況が米ソ協訴路線を変化させたのである。 米ソ協調路隷の変化 1945年8月9'11:にソ速が対日参戦を行い、

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ttU竹の勢いで1'11満州・朝鮮地域へと進製すると、米国はソ 連による朝鮮半島の全罰支配を警戒し始めた。こうして北部

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度綿の提案が作成されることになったが、 その作成に痘接かかわった元米国務長官ラスク (D

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によると、米国はソ連が北緯

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度線を境 とする南北朝鮮の分説占領案を拒否するのではないかと考えていた(日}。 しかしスターリンは、 [1本の分割占領にソ連を参加させる政治的取引だと考えて、この提案を受け入れ た(1九この結果、朝鮮半島は日本改戦後の「カの真空Jを怨めるために分割占領されることになり、朝 鮮半島で、米ソ雨簡が対1I1寺する事態が突然のように現れた。この経緯を詳*Illに研究したカミングスは、この 北緯

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度線を境とする潟北朝鮮の分都占領の提案こそ米国による戦後最初の f封じ込めj政策た、ったと規 定している(問。 ともあれ米ソ雨期は朝鮮半島の南北各地域を占領することになったが、既に北朝鮮地域へ赤軍を遊撃さ せていたソ連とは異なり、米国は急きょ南朝鮮地域へ米軍を派遣させることになった。ローズベルト亡き 後に米関大統領となったトルーマン (Harry

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Truman) は、ポツダム会談I↓iに日朝占領政策の具体化を 指示し、これを受けてマツカーサー (Douglaslv1acArthur) 一司令部の原案をもとにいわゆる「ブラック リスト (Blackhst) 作戦J が立案されていた。この作戦は、日 j;~J の主要なIì攻略地点を占領し、既存の行政機 関を通じて間接統治する計図だったけ4)。その計画を実践に移す過程で、

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1絡 に い た ハ ッ ジ (John R.Hodge) 少将のヰ丸、る米第24klIl'l1が南朝鮮地域へ派遣されることが決定されたのである。 ところが第24箪団は、朝鮮に駐留していた日本軍から8)=J31日に受信可能となったラジオ放送を通じ て、反共主義的な対ソ;芳成心をl吹き込まれたという。「王子稿!と秩序を撹乱しようと現状を利用して暗躍し ている共産主義者Aや独立煽動家たちがいるJi!5)と か じjt鮮ニ珍ケル治安ハニト三日以昨急激に悪化シ、 邦人ノ生命財産ハ危殆ニ瀕シ鼠レルガ、現状ノ {fJi放霞センカ、有事態ハ f~(;j朝鮮ニモ波及シJ てくる、など と訴えられた。 そこで米軍は現地の日本軍に治安活動を命令{山、1=1本軍将校の案内により竿二島へ上陸することになっ た。米第241'戸別は南朝鮮占領の準備がほとんどなく、現地の事情にも疎かったので、自ずと日本の案内に 従 L、情勢を認識し、行動することになった。 第

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節 解放政痛と米主義政 米軍が上陣したときに見たのは、 f事実上の (defacto) 独立jだった{! けだし朝鮮解放後すぐに 「朝鮮建問準揃委員会J、通称 f建i引 を 立 ち 上 げ た 呂 連 平 は

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日、朝鮮共産党の再建のため京城に灘 し、戻ったイ:ト窓永と ~1 って「人共J の樹立 して政治活動に乗り出していた。 しており (18)、即時独立を切裂する朝鮮民衆がこれに呼J;e,;

(4)

66 森 一r cs 向 日 一 主 に 米軍政の開始と韓国民主党 9月8日に仁川に上陸した米軍本!¥款は、「ブラックリスト作戦jに則り日本朝鮮総督府を利用して溺朝 鮮地域を閤接統治しようとしたが、民衆の強力な反発に遊い、箪殺を敷くこととなったけヘ米軍政は降 伏受諾の自然な成り行きとしてまず最初に百本軍将校と接触し、彼らから現地の卒j持許:人を紹介された。こ のう作家政で情報収集にあたった“G-2"と呼ばれる情報機関では、これら臼本人の紛介した朝鮮人から現 地の情報を得ることになった。 日本人が米軍将校に紹介した朝鮮人には f親

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ヨ派j と総称される対日協力的な朝鮮人が多かった (20)。 披らは植民地時代に日本の統治を受け入れ、それに協力する代償として自らの様子去を日本から係樟された 人たちである。彼ら対日協力的な朝鮮人は日本の敗戦に

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1丸、突然、 f民族反J!L!者j と指

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される政治的、 肉体的な生命の危機に座間ずることになった。 そこで、ソ連が潟朝鮮地域まで進駐すると予測される1:1:1、「建準Jが立ち上がると彼らは保身の行動 を始めた。

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親日派j勢力がとったのは民肢主義勢力の右派を1:1:1心として

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日に正式な結成を 昆た「韓国民主党J[以ド「韓民党j と11併記]へ身を隠すことでゐった。 隣民党は「当時、唯一の勢力 団である建国準備委員会に対抗するため反共産勢力であれば諜でも包摂しようとし、こうしてここに過去 の日市時、親日的だった勢力が結集するようになった。しかし、この努力は自己を大衆の前に押し出すほ どの名分がなかったから、仕方なしに上海翻H寺政府を奉戴するという看板で、大衆に訴えたのである。そう しながら誰よりもまず先に米軍と連結し、その軍政に協力し、政治的、社会的、経済的な実権を掌隠した。J 米箪政は f親日首長j勢力との接触を通じて、この韓民党こそが「主要な民主的政党であり、朝鮮民衆の 大多数を代表するj と認識した ω。実擦にハッジの政治顧問となったレングダンが認めているように、 米箪政の開始にあたり彼らは同誌裕で、保守的な人々を不棺応にたくさん選び出したjのである。彼は「実 際の目的のために我々は、英語を話す人を}淫わねばならなかったが(中 l格)英語は朝鮮人の1M]て 品 た 、 ったj と説明したm。だが呂逆亨、キト窓永はじめ英語遂行能力を持つ指導者は左翼陣営にも少なくなか った事実が、彼の説明を反駁している。 米軍政は

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EI に「米軍政庁顧問会議j を組織させ、 f親日派j 頭 iヨ格の金性沫ほか 10 名の翻 I~司を任 命した{制。この顧問には北朝鮮地域にいた

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娩櫛や参加を辞退した呂連平も含まれており、実j祭には実 業家、銀行家、医師、弁護士など有産者たちが顧問の大半となった。斡民党やこの f顧問会議jの反共主 義的な主張を受けて、米軍政の中には次第に米国人に特有な反共主義的な感情が酪成されていき、米本1J'

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に反共主義の短角から朝鮮政策の再検討を求める動きを生み出していった。 米軍政内での8i.共主義の台頭 米軍政内で進駐後の非常に早い時期から反ソ反共的な言明がなされ、本本国政府へ伝達されていたこと を観察するのは、いくらか奇異な感じを受ける。なぜならば

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月頃には米国務省が朝鮮半島に対 する「国際的信託統治J計f@を米国の朝鮮政策として米軍政に通迷し、早くから米ソ協調に基づくソ連軍 との意思正束通を指示していたからである畑。 米軍政内で反共主義が台頭したのは、ひとつには北朝鮮地域のソ連軍が米軍政との接触を避けたこと、 もう一つは南部鮮地域で地方への進駐に伴い f人共J支持勢力が多数を占めていることを理解したからだ った。前者に関連して米軍政では「おそらく 〔駐京城ソ連〕領事がソウルの朝鮮共産主義運動を助けてい るjと推定していた制。 確かに当時のソ連積率館にいたシャプシーナ(日 1.Shabshina)はそのI:e]想録で、北ljijj鮮地域の共産主 義勢力が南朝鮮地誠の運動を助けたと述べている m o しかしf走者との関連でハッジは

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日、東京の マッカーサーに「共成主義努力の活動は、積極的な行動がとられないならば、支配

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労働党の研究(問)

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鮮労働党の結成〔前編〕 67 しつつある。最も急進的な勢力はロシアに操縦されていると確信するが、明白な託拠はつかめない。J と証拠カまないことを1:1

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話した。 さらにハッジは次のように述べていた。 f親米派という言葉が親司派という日本の協力者すなわち民族 の裏切り者の中に加えられている。(

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:11背任)私の考えで、は朝鮮人は共産主義を望んで、いないが、不安定な 状況、将来に対する明確な政策の欠如、

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期の人民主権への期待の欠如は、米国の地域で容易に人々を共 はないにしても急進的な左翼へ押し流すだろう。J'出 この現地にいる米軍将校の戸に賂響された米本国政府でも、朝鮮半島に対する「国際的信託統治jの適 用は不適切だという後述する米軍致の立場に同調する動きが現れ始めた。

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朝鮮地域を訪問してハッジと 会見した隊第次官補のマックロイ (J

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は、「彼の関心は共産主義勢力が直接的な方法で設 が地域に政府を樹立するだろうというところにあるJ と米自務次官のアチソン (D

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へ打電 した制。これに励まされた米軍政は、一方で韓民党が主張する

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臨政Jの帰還を急がせ、他方で f人共J 支持努力への抑圧を次第に強化していった。 第

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節米軍政と{朝鮮人民共和国

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米第政が施行した政策が反共主義を基llilliとして展開した結来、レングダンは 1945年12月 に く も 政 権 の核となるべき「管翌日委員会

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J組織の橋元自において「もしもロシアの参加がな し、場合、言

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闘は381史料lの南で実行されるべきjだと述べていた制。 [大韓民掴臨時政府j要人のj議選 この構想で核心的な人材と見なされたのは f臨政j要人たちであった。特に米国で独立運動に従事して し、た李永│段は、反共主義を揺ることにより米本

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政府が「臨政J を政府として承認するよう繰り返し打診 していた (3110 だが米国務省は従米、彼らを「朝鮮のどこにも行政権を行使したことは一度もないし、今 日の耕鮮民践の代表とは考えられない(中世話)亡命朝鮮人たちに過ぎなしリとしか認識していなかったω。 それで米国務省は、その要人たちがあくまでも個人の資格として帰国するように求めていた制。 しかし米軍政は執掲に f臨政J要人としての帰国を要求した。例えばベニングホフは「連合間の斡旋でJ 彼らを帰国させることを考慮せよと求め、李承i吸を f朝鮮の孫 11:1IJIJ と呼んで称えた例。このため、つ いにアチソンは fどんな政治グループへの I

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r~! な支援も意図されなしリとしつつも「朝鮮 1;);1 の混沌とした 状況ゆえに建設的な能力を持ち、軍政の粋総みの 11:1で、喜んで働く要人は入国が契励され、余裕があればIfl に統制される飛行機で輸送され得るJ とこれを認めたのである畑。 こうして米準機により米関から伝説的な反日闘士の李;ポ11免が東京経由で1945年10月 16臼に帰国したo f人共Jの大統領職就託を期待されていたように側、左翼陣営からも歓迎された李承晩は反共闘士として の言明を控えていたが、河月 20 日にそのデヴュー演説で激烈な言辞をJf:J~、てソ連に言及した也九ここか ら彼を媒介とした左右翼の協力は水泡と帰し、米ソ協調を命じられていた米祭政との協力も表部的には│本! 難となった。 子 ム グ 次に帰国したのは f臨政J

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務委員会主席の金九、同副主席の金姿植ら当時の重度にいた要人たちであ った。ところが彼らは f政府jとして行政権の委設を米軍政に要求したので、表罰的なりとも f不偏不党j の立場をとらざるを得なかった米軍政としては彼らと駁甑的に協力するわけにはし、かなかった。{附 こうして米軍部〔は一旦、 flWfi¥故j要人に政局の主導権を掌握させる政策に代えて、左翼部常を抑任する 政策を本裕イとした。その政策は、具体的には「人共Jへの干渉と非難であり、それによる左翼陣営の切り 崩し策た、った。 米翠政による左翼陣営の抑圧 米軍政は去百五的な立場とは哀腹 lこ、李承晩、会九ら flWn'i政J婆人を保護した反語、「人共jに抑圧

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68 森、 合z,.,. ~ ←仁子 主主 り返した。まず韓民党が f人共Jを否定する声明を出すに際し、米箪政情報部長のへイウッドは f観念的 にはどのような政府も云々できるかも知れないが、事実上、政府は米主寧李政府以外にはあり

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得得尋尋hない。朝鮮人 民共手和口国云々は認定でで、きなLリ、j との談話を発表した(倒3泊拙9剖) 次にア一ノlルレド (A必r

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hiba討ldV. Arnoldω)箪政長

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宮宮主言'が{侮毎蔑的な雷辞でで、「人共jを非難した。彼は f軍政 当局では絶対中立の立場から個人と団体はもちろん、誰を称揚し誰を抑在する、そのようなことはないJ と述べていた州。しかしアーノルドは「命令の性質を持った要求j として10月10日、次のような発表を 新聞紙上に掲載させた。「自薦自任の官吏だとか警察だとか国民全体を代表したという大小の会合た、とか 自称朝鮮人民共和国た、とか自称朝鮮共和由内閣は、権威と努力と実在が全然ないのである。万一このよう な高官大織を僑称する者たちが興行的側植さえ疑われるほどの{鬼嬬剰を行う俳優であれば、当然この間に 即時その離を閉幕しなければならない。J刷 この発表に猛然と反発した f人共」からは翌日に反毅声明が出されたが、米箪政からは次に、 f人共j 支持勢力が1945年11月206に開催する f全密人民委員会代表者大会jに先立ち、 f人共Jを「朝鮮共和 党Jへ改名せよと要求した。同大会では米軍政との協力を強調しつつもその要求を拒否し、同月

30

日に 「国号変更または解体問題jは「我々が米軍政に対立すると謀略をめぐらした反逆者の離潤jによるもの と批判する決議文を発表した仙。 そこで、さらにハッジは自ら声明を出して次のように述べた。「斡鮮人民共和国はそれ自体が採択した 名称いかんを問わず、どのような意味においても『政府jでもなく、そのような機能を遂行する何らの権 利もない。南部朝鮮で機能する唯一の政府は、連合箪最高指揮官の命令により樹立された軍政があるだけ である。J(431 このように米軍政は「臨政」要人とも表立つては連合できない窮J:tkの中、一方で「国際的信託統治J計 部 に 反 対 し な が ら 他 方 で は 「 人 共J支持勢力への抑圧を強めていった。米箪政の窮地を救ったのは、 1945年末頃に勃発した「信託統治紛争jであり、この紛争を転換点として左右翼の対立が決定的に激化 していった。これを受けて朝鮮共産党は、対米協調から反米関争へとその戦術を転換するに至る。 第11章 左右翼の対立激化と戦術転換 南労党の結成過程を研究する上で、この「信託統治紛争jがもたらした政治的な影響は過小評価できな い。すなわち、この紛争を契機として左右翼の対立激化とそれに伴う左翼部営の分裂が引き起こされただ けでなく、現在まで韓国で保持される f反共主義イデオロギ-Jの原型が形成された。 第

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節 転 換 点 と し て の

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信託統治紛争

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前述の朝鮮半島に対する「閲際的信託統治J計阪は、戦後処理問題を話し合うために1945年12月16日 からモスクワで開催された米英ソ三留外相会談でその具体化を見ることになった。この会議で採択された 「モスクワ協定j 中の「朝鮮に関する決定jが「戟鮮臨時民主主義政府J樹立への道筋を示すと同時に、

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年間を限度とする「国際的信託統治jを朝鮮半島に実施すると定めていた。 紛争勃発の背景 この「閤擦的信託統治J計画については早くから米軍政にその計画が伝達されており、また米国務省極 東局長ヴィンセント (J

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がその意向を表明していた州。これに対して米軍政からは、そ れが f偶人の意思に過ぎJず f米国政府の方針ではなしリと発表したのみならず州、マックロイがヴイ ンセントへの不信と「我々のアフローチが異なった路線に従うべきJだとの意見を米田務省に伝えていたは印。 これに対して米国務長官のパーンズ (J

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は fソ連から朝鮮の統合と独立のための適切

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南北朝鮮労働党の研究(問)南朝鮮労働党の結成〔前編〕 69 な保障が得られるなら、信託統治を主張し続けなくてもよしリとその計画がやむを得ない選択であること を強調した。彼はレングダンの「管狸委員会j提案に対しでも「ソ連が不快に思い、協議に賛同しないJ と答えていた{問。 もちろん潟朝鮮地域の朝鮮人たちは、この「国

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祭的信託統治j計商に激しく反対していた。百本による 長い植民地統治からの解放後にひときわ高揚した民族主義の熱靖は、祖爵の即時独立を求めていた。また 北緯 38度お~も未だ封鎖されてはし、なかったから、多くの人々に南北朝鮮の統合が困難だとは考えられてい なかった。朝鮮共産党を含む左翼陣営でもこの計画に反対の意思を明確に表しており、 f人共jと「臨政j とを問わず南朝鮮地域の政治勢力は即時独立を求める一般民衆の熱情に従う外はなかったは由。 このような中で fモスクワ協定Jが

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、米国が「即時独立Jを、ソ連が f信託統治jを 主張したかのように南朝鮮地域で報道されると、「臨政j外務部長の組素昂がこれに反対声明を出すと共 に、韓民党や国民党でも信託統治反対の決議文を採択した州。かかる声明や決議文はソ連と信託統治を 結び付ける印象を民衆に与え、ソ連に対しては米軍政さらには米本間政府の占領政策を反ソ的なものと見 なさせる結果を招来した側。 紛争の勃発と進展過翠 翌

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28

日に「モスクワ協定Jの全文が南朝鮮地域で報道されると、金九は「臨政jの名義で f反託 (=官託統治反対の創的決議文jを採択すると問時に「信託統治反対国民総動員委員会jを結成し、これを政治 的な求心点としようとした。金九の「反託J運動は涼く民衆の支持するところとなり、ついには「全国憲 政庁の宮公更は総辞職せよj との条項を含む行動鱗領を採択するに至った。この時点では左翼陣営でも 託統治反対の姿勢は同様であり (51)、左右翼を間わず信託統治に反対する立会演説集会や示威行進が広範 に組織された。 事態を重視した米軍政で、はハツジが信託統治の超器を説明するため各政党の指導者を招集した他、アー ノlレドも記者会見を行い、事態の沈静化に努めた問。またハッジは同月

29

日に韓民党々首の宋鎮蕗と会 見して事態打開への協力を説いたが、宋鎮馬はその翌

30

日に暗殺されてしまう問。 邸時独立を切望する 民族主義の感情が高揚する中、信託統治に賛意を唱えることは、肉体的な死さえもたらす危険があること を示した。 南朝鮮地域の紛争を受けて年が明けた

1946

1

1

日、パーンズは信託統治の不必要性に言及する放 送を行ったが刷、かえって燃えとがった f反託j運動の火に油を注いだ。また同日、「人共J中央委員会 は「臨政」との統一政府樹立方案を提示し、信託統治反対で結束した機会に政府を樹立しようとした問。 ところが翌1丹2呂、朝鮮共産党中央委員会は fモスクワ協定Jへの支持を表明し、金九が「あたかも 術関主義的委任統治制と張出し、連合国と敵対する方面へ大衆を欺摘する政策Jをとろうとしていると非 難した刷。これに続いて同月

4

日に f人共」中央委員会からも同様に「モスクワ協定」支持の声明が出 されたのである問。こうして f人共j と「臨政j との統一政府樹立方案は、後者の拒否により水泡に

1

認 すことにならざるを得なかった。 このように事態が進展する中で、韓国で現在も「国家保安法jの精神として維持される反共主義イデオ ロギーの原型が形成されることになった。それは荷揚した民族主義の熱J青を利用した政治的な諜作の産物 であった。 第

2

節 反共意義イデオロギーの形成 前述のように米軍政内で次第に台頭した反共主義は、ソ連が北朝鮮地域に進駐したソ連軍を通じて南朝 鮮地域へ共産主義運動を浸透させており、その運動を担うのが斡鮮共産党だと考えるものた、った。この観 点からすると、信託統治反対をH昌えていた朝鮮共産党ならびに「人共j支持勢力が突然「モスクワ協定J

(8)

70 森 皆 Ç"~7 tニ'1 1主主 賛成へと転じたのは、ソ述の指令によると見る他はなかったであろう(問。 授共主主義イデオロギーの原型 盛り上がる

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5Z:託j運動の真っ只I=

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で「モスクワ協定J賛成へと転じた朝鮮共産党では、 f信託統治 (trusteeship)Jではなく 「援見制 (Ol1eKa)Jだと強弁することにより事態の収捨を溜ろうとした。

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3

日に開かれたソウル市民大会では f反託反対Jを決議したものの、その大会を信託統治反対の大会 だと思って参集した人たちが少なくなかった明。 そこで朝鮮共産党支任秘書(=捺誌にのキト憲永は、 1 )=j5日に内外記者を集めて会見を行い、│三i党の 政策転換について説明を行うことになった。朴滋永はこの会見の中で金九の「反託デモは大きな過ちを犯 しているJ と非難、「託治〔二時誠治のおむの本質的説明をせず、 il

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立に司本償問主義の委任統治制と混同さ せ (ι11目指)民衆を惑い意味で混乱させている J と述べた。また「ラジオ使用を許可し、また示威運動を称 賛する言辞を

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すことは、軍政が民連合

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示威を援助することだjと米軍政を批判した ((5

ところがこの1946年1)'J

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の記者会見の模様を報道したジョンスタン (RichardJ.Johnston) によ る;ニューヨーク・タイムズ;紙の

8

[:]付記事では、あたかもキト芯永がソ述玄jによる朝鮮の信託統治を 希望しているかのような内容が掲載されていた。この記事はまもなく南朝鮮地域の新聞紙上でも報道され、 そこでは次のような会話が交わされたことになっていた伽。 「ジョンスタン・あなたは朝鮮をソ連一国だけで信託統治を行うということについて、どう思いますか? 朴怒永:私は悪くないと思う。ソ述は帝国主義国家ではなく最も勤労階級を代表できる国家だから、朝 鮮はソ連の信託統治となっても

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惑ない。 ジョンスタン:朝鮮をソ連の迷邦に包含する怠志の如何は? 材、滋永:現在はJnき当ではない。それはl;iill勾情勢が{采守的だからである。しかし、将米10勾三ないしは20 年間、朝鮮を準慌させればソ連の連邦になるだろう。J キト窓永がこの記事の取り消しを求めたのに対し、ジョンスタンは同月 18 日に記者会見を i刻~、 r ニュー ヨーク・タイムズ;は正!確な事実だけ報道する新聞だ。(下

1

1111行)私と朴氏とは英語で話した(後Il!針。私は 上手く聞き取れないことはなかったJ と述べたi印。だが、李承晩を fハッジ将箪のゲストjだとするジ ョンスタンの記事が米国務省から叱設されたように (63) ジョンスタンの記事には信溶性を疑わせるとこ ろがあり、特にこの

8

日付記事の取り扱いでは fニューヨークへの送信中に渠曲されたので公開されなか ったjという不自然な経緯があった。カミングスの研究でも、折、;ぷ永がこのような言明を行った託拠はな かったという(制。 しかしながら、この朴志永の記者会見報道を契機として南朝鮮地域では信託統治反対がソ速の全朝鮮支 配に反対する主張と結び付き、「反託j運動は「共産党とソ速を排!壊する示威へ発展j していったm oま た後日、ハッジがオフ・レコの記者会見で述べたように、この記者会見の報道を境として「信託統治、共 ロシアの支配は全て得意諾となったjと米軍政では判断したのである跡。 米軍政による政築転換の鵠耀イヒ こうして米軍政では、「モスクワ協定j中の f朝鮮に関する決定jで開催が予告された来る米ソ共同委 員会に、自勢力と連撰する「臨政」支持勢力を押し出そうとした。すなわち金九が提案して2月1~2

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1 に関かれたリド常関民会議Jを仁

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亥として、同月14

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に米軍政庁内で「南

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洋大斡悶畏代表民主議院j 通称 f民主議院jを発足させた。 この「臨致jを政局の中心に据えようとする動きは、前述した f管理委員会Jの線上にある勤きとして、 少なくとも表面上は f不偏不党j を襟携した米憲政が政策転換を明確化したものだった。「人 ~tJ 支持勢 力は

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言託統治紛争Jを通じて相当提度その支持基盤を喪失することになったが、米軍政による政策転換

(9)

雨:.Itl:現金下労働党の研究(凶)f{'j朝鮮労{動党の結JJX:[j'jiJ*~jð) 71 の明確化に対抗して同月15日に「朝鮮民主主義民族戦線j、略称「民戦jを結成し、白勢力の結集を│翠っ た。 しかし、米軍政ではこれより先の2月 8日に出現した「北朝鮮臨時人民委員会jを北部鮮地域だけの 「完全な1:1:1央政府j し、これにより南北朝鮮の「政治的な統合は不可能となった J と判断していた。 そして、 3月に開怒された米ソ共同委員会本会談前にハッジは「朝鮮の政治はただ一つの思強的な争点を めぐって分裂している。そのそ(rr'1くとは、共産主義だ。J と東京に書き送った日}。さらにハッジは明確に f南北朝鮮の全体が共産主義となることをロシアが確信しない限り、決して統一はしないというのが私の 最良の推測だjと述べた制。ここから予想される通り米ソ共同委員会は、告託統治をめぐる米ソ両軍代 表の見解の相違により、協議の進展に難航を来すようになった。 ソ連軍代表は fモスクワ誠定j に反対して反共的な言動を繰り返す畏族主義勢力の右派が f戟鮮臨時民 主主義政府jの樹立に際し協議対象から鵠外されるべきだと主張した。これに対して米軍代表では「表現 の自由Jを盾に「穏健な右翼勢力j まで除外しようとするソ連の主張に反対した。だが実際には、米ソ共 同委員会の協議中に米軍政への反対ビラを昇和、たために逮捕された者がいたように、米軍政の主張する

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完全な表現の自由

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Jなど南朝鮮地域では保障されていなかった酬。 米ソ共同委員会本会談が失敗へ:隠する中で、米軍政は共産主義勢力の弾圧に本絡的に乗り出した。その も典型的な ~f~ {Lj: が、|佼にう「精版社事件J だったヘ当日寺のソウル近浮ピル内の精版社は朝鮮共産 党の出版社として党機関紙?解放日報;などを印離していた。ところがここで多様の偽札が印刷されてい たとして、警察当局は

1946

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から共産党幹部

2

名を含む検挙に乗り出したのである。朝鮮共産党で は事実無根として反駁声明を出したものの、?解放日報J は{,~î 刊処分とされ、逮捕された関係者は裁判に かけられ有罪が宣告された mo 一方、同月

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日に訪朝した米関賠償能部団特使のポーリイ

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は、朝鮮半烏が「アジア において米国の成散がかかっている,思想の戦場Jだ と の 認 識 を ト ル ー マ ン に 報 告 し た 。 今 や 米 本 際 政 府からも昨JjIQjf('\;~地域の状況において共産主義か反共主義か、が政局の焦点と見られるようになった。こう して従来からの米軍政の主張は、

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f:l:界的規模で進展していた東関冷戦の脈絡の中で米本国政府から事実上 のポ認を勝ち得たのである。 { 他 也j方

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反瓦共主義を訴える巡!回豆ヨ

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出Llカか通けたO この旅行で李求晩はついに

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、いわゆる 「井邑発言jを通 じて「南方だけでも臨時政府または委員会のようなものを組織し、

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以北からソ連が撤退するよう世界の 公論に訴えなけれぜならなしリと主張した<,九ここに反共主義を南朝鮮「単独政府j樹立と結び付ける イデオロギーの原型が現れ、これ以降にI{i;j北分断体制の儲立へと向かう中でこの主張が次第に実現されて いく。 この反共主義イデオロギーは、日本による椴民地統治からの解放後に高揚した民族主義の熱情、とりわ け外国勢力からの独立を

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望ずる民衆のパッションをソ連による朝鮮半島の全部支配に反対するというレ トリックに絡め取り、

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単独政府j樹立を正当化するものだった。「反共jはよ

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散を去勢ないしは除去して、自政権 に欠落した支配の正当性を補うことにより権力の維持を隠るようになる。 しかし米軍政としては未だ「単独政府jを主張する李承晩に同調するわけにはいかなかった。ハッジが り返して主張した「モスクワ協定j履行のためには、米ソ共同委員会の再開に向けて李承晩のような畏

(10)

72 j集 ヨ~,~ ,~ι2 ^lf!i~ Jは 族主義の極右派でも共産党のような急進的な極左派でもない、政治的に穏鑓なけI同派を米軍政の協力者と して育成しなければならなかった。 第

3

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左右合作

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運動とその失敗 政治的な穏健派を糾合する fl1]題は、 i旺 lこ 1946 年初めに米本悶政府内の I~~~船主i 務三省政策調整委員会 (SV¥別CC)の f政策文書J にその出来を見て取ることができる刊。米本国政府では米ソ協調を旨として 再開されるはずの米ソ共同委員会に先立ち、ソ連が受け入れるよう左右翼の穏健派をハッジのドに結集し、 それ令米ソ共同委員会へ押し出そうとした。 「左右合作j運動の障始と展開過程 これまで述読してきた「甑政J要人ついては米国務省から、彼らが

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手の故治的な志;見の代表者とは えられていないし、朝鮮での民主主義の際立あるいは米国による目的達成に本質的に重要だとは忠われ ないj と 伝 え て い た 。 こ れ を 受 け て ハ ッ ジ は1946年5丹、 ff,皮の最高権力の jごに朝鮮人の

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非行政的 な内!調と立法府Jを創り出そうとしてjいた刊。 この政策は南朝鮮:I:illJ::攻で「左右合作j運動として具体化され、ぽj労党の結成過程と密接に述関しながら 好余曲折の展開過棋をたどった。米準政の

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でこの運動の中心的な推進者は、首脳部の他にはパーチ

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cJ訪中尉だったと言われる m。パーチはハッジとの緊密な連携のドで、この運動に粘 り強く取り組んだ。 「左右合作j運動が本i俗化したのは、米ソ共同委員会が失敗に帰した後の

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、呂運王子が

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踊政j を上海で立ち上げた当初からの報友だった金袈櫛と区内、 f民主議院」と「民戦J との代表

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名ずつで会 合を持ったことによる。そして開月

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の会合では次の

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支出が合怠され、発表された。「対内問題 ブルジョア民主主義共和国を樹立する、対外問題 善隣友好政策を樹立する、参加対象 左右を問わず真 正な愛留者または革命家はこれを除外しない。」 この会合はパーチの自宅で開かれ、このH守には右翼側から金室稿、元j仕勲、左翼

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から呂淫王子、与が 出席していた。興味深いことにこの時、 f民議側一金進樹、安在鴻、元

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士勲、民戦側一呂運亨、宇ト:長永、許 道、六人は速やかに平壌に赴き、北!器開人民委員会側 金日成、益

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暴、武員、三人を加えて、平縫で九 人会議を澗催することとするJと決定された。この「九人会議で、南北の左右合作方法が決定されるならば、 これを朝鮮人誌の総意として米・ソ隠匿!政府および朝鮮駐屯の両軍最高指揮官におのおの米ソ共同委員会 続開要望者を提出することJになっていた {7ヘ つ ま り 「 左 お 合 作j運動は、少なくとも朝鮮人の立場か らは米軍政の思惑を越えて、 liiに南朝鮮地域だけでなく北朝鮮地域も射程に入れて推進されていたわけで ある。ただし、この決定は実行されなかった。

3

週初ほどの準備期間を経た後、「左右合作j運動の成果として

7

25

日に第一回目の正式会談が開か Jカシグク ソ 〆 シ ュ シ ? チ ヨ シ ノ シ ク れた。正式代表として一方の左翼fH~は岳連亨、許議、李段匡!、成問主主、 鄭魯淀、地方で右翼

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立金翠槌、 元社勲、安在鴻、窪東n午、金月~j ~寄とそれぞれ 5 名ずつ代表を決定していたが刊、このうち許憲だけはこの 会談に参加しなかった。 ところが8丹 2日に持たれた第二四国の会談では、左右需翼の「合作原則jだけを交換して別れた。左 翼剥はし、わゆる f左右合作五原尉jという右翼部が欽めない条件を出してきたのに対し、右翼側は「左右 合作八原則jという極めて保守的な条件で答えたため、この会合は物部れとなったのである制。 左翼{1mが立i誌を醍化したのは、ひとえに朝鮮共産党の最高指導者た、ったキ卜永が「左右合作J運動に強 く反対して出てきたからだった。彼は

7

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日にラジオ放送を通じて党の立場を戸院していたが、このfI寺 は fモスクワ協定j支持、よ己肢反逆者や反ソ反共勢力の除外、テロ行為の中止とテロ間体の解体という三

(11)

[ふItiiV以下労働党の研究(四)南朝鮮労働党の結成(i:Jij編〕 73 条件を示していたに過ぎなかった副}。 米軍政の情報によると、キト窓永は

7

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日に平壌からソウルへ戻った後、この運動を痛烈に批判したと いう問。確かに彼の著作で、は「スターリン、ローズベルト路線は世界を指導jする「正しい路線Jだと して、この路線に反対したりこれを無視する陣営が主張する路線との闘争を訴えていた。この著作の ~I:I で キト窓永は「ふたつの路線の対立は、必然的に両陣営の対立をもたらし、この分裂は原

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出生を欠如している。 一部の機会主義者と中部派は、このこつの陣営をもって朝鮮固有の派閥主義の表現だとか、あるいは朝鮮 国有の現象であるかのように考え、最も愛民族、愛出者完投として公正性を云々して

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左右統一jだの?七 党統一Jだの 5自主統一;だの?民主議院に入らねばjだのと、いろいろな幻認するほどの標語をもって 出て来ているj と述べていた刷。キト;吉永がここで言う「スターリン、ローズベlレト路締Jとは、一般に

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豆!捺路線」と呼ばれ、大国協調により国際問題を解決しようとする路線を意味していた。 この朴志永による「左右合作j運動への強烈な反対を受けて、 f民戦」でもその反対怠忠を表明した。 米軍政ではこの動きに朝鮮共産党とそれを支持する「民戦J傘ドの労働組合や農民組合が「北朝鮮の命令 と指令の下にあるJと判断し 184)、引き続き f左右合作j運動を推進するr:j:1で

1946

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日に朴窓永は じめ朝鮮共政党首!脳部に対する逮捕令を

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:1¥した。このため朴窓永は潟朝鮮地域から逃亡して10月

6

日に北 朝鮮地域に到着、海州、

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から南朝鮮地域の共産主義運動を指導することになった問。海州は黄海に商し、 当時は干潮時に北緯38/主総を越えでの往来が可能なところであった。 キト露永と[正当姑衝の逆攻勢

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永が「左在合作J運動に反対したのは、米軍政に対して許患が述べたという言葉を借りると「彼が 現時点で而子を失うと、 臼述亨が左翼問陣l営 の4相、官日当背剖部│日:分を獲

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になるカかミらだつたと思われる(附8部削6印} キ村朴!ト、;志奇永としては米f策区政カか道らの抑圧に抗して強1硬距な対応に出る{他也なカか込つたのでで、あろうが、左右翼の両極端を 排除する米軍政の政策により左翼隙常における自らの主導権を喪失する危機に直閉したことが、ついに彼 をして戦争I~j転換に踏み切らせた理のだった。 この戦術転換は「正当防衛の逆攻勢jと言われ、朴窓永が

1946

7

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日に 11:¥した「新戦争

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[jに対する 指 示 書jに よ り 指 令 さ れ た と 言 わ れ る 問 。 こ の 「 指 示 者Jそのものは資料として発見されていないが、 後述する flO月人民抗争jを捕し、た共産主義勢力の作成した宣伝資料にその戦術が示されている。またシ トゥイコフが践した?備忘録i に「米軍政は、初級毘体に発送された米軍政反対 IJ~争についての朴議永の 指令を没J&したj とあるところから見ても側、この戦争

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転換がなされたことは間違いない。 こうして事実上、米策政との協調を通じて「朝鮮臨時民主主義政府Jを樹立しようとする従来の「匡

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探 路線jが終了した。 f8月テーゼjで「進歩的民主主義国家Jだった米田は今や f俗国主義的、反動的政 策jをとっているとされ、 lt[司共産党や日本共産党などとの共同した反米闘争に打って出ることが指令さ れた。そして、この指令の実行においては「葉大な困難と犠牲も覚悟して、自己の犠牲的闘争を賠蕗わな いことJが強調された。こうして「南朝鮮における合法的破壊活動の指令j と言われる戦争

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転換は結局、 暴力的な民衆蜂起へとつながっていったのである。 次稿で述べるようにこの戦術転換に対し、「左右合作j運動を推進する立役者として呂運亨は、この後 の9月から10月にかけて平壌を訪問し、北労党からの支持を現り付けようとした(89)。既にこの時点でソ ウルで、は「左右合作J運動を支持する勢力とこれに反対して朴諮永を支持する勢力との関で対立が表面化 していた。朝鮮共産党内ではキト選永の強引な指導に反対する勢力が党大会の招集による新執行部の選出iを 求めて、キト怒永に反旗を寵

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していた。 米軍政は詞朝鮮全域に広がってし、く反乱の中、この左翼都営の分裂を詳しく観察しながら、呂運王子が北 朝鮮旅行の結果として北朝鮮地域の政治指導者+たちから支持を現り付けたと判新した。そして、米軍政が

(12)

74 j茶 -,_V~ ,,',~ f 討会 ~l したえミるべき南朝鮮地域だけの選挙で「右翼勢力の圧能的な大多数が選ばれるJ と予測した (9070 南 労党が結成されたのは、まにかかる状況下であった。 小結論 米軍政の反共主義政策は

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A:J ~J 支持勢力への抑圧と「臨政j 支持勢力に対する保護、支援として始ま り、「信託統治紛争jを契機として米本密政府の質問を得るに去った。

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人共J と「綿政jこの両勢力の対 立が激化する中、一方に反共主義イデオロギーが朝鮮民族主義のパッションを利用しながら形成され、李 承晩など民抜主義勢力の右派のおー動を支える政治的な武器となった。しかし米軍政によるこの勢力への支 持は、米ソ共問委員会を失敗させる大きな原剖となった。 地方、米軍政は米ソ共同委員会の再開に向かい、左右翼の悩極端を切り捨てた穏健派に政治的な主導権 を学謹させようとした。この米軍政の強力なてこ入れで、推進された「左右合作j運動を通じ、

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A :J ~J 支 持でまとまっていた左翼 I~ff憶は分裂することになった。{欠陥で詳継に述べる通り、民族の統合が至上の課 題だった当時の政治状況下、朝鮮共産主義運動が内包する民族主義と共産主義のズレを巧みにつく結架と なった米軍政の政策は、その本来の白的達成には失敗したものの共産主義勢力だけなく左翼陣営内にその 諮響力を拡散した。 f左右合作j運動に対する朝鮮共産党、朝鮮人民党、南朝鮮新民党の路線闘争は、左 翼陣営の主導権

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字!と連動することにより、ついに朴志永をして北労党、したがってその背後にいるソ述 軍に白ヰの路線とイニシャチヴを正当化させるための決定者採択を求めさせる。 ( 1 )この点については、拙稿の本研究(三)北朝鮮労働党の活動[,誌編

1

[後編〕を参照されたい。 賀大学文化教育学部研究論文集J 第 6 巻第 l 号および第 2 号(位賀、 2001~2002年)に所!IX。 (2) この時期1の研究は枚挙にi騒がないが、特記するに位する総合的な研究として次がある。徐仲錫 国 現 代 民 政 運 動 史 研 究 一 一 解 放 後 民 族 関 家 建 設 運 動 ヰ 統 一 戦

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守合,歴史批評mJ:, 1998年。

(3) Bruce Cumings,

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Separate Regimes 1945

…1947…一一 (New Jersey Princeton University Press,

1981) ,p.68n.

(4) 鄭容部 r1942~47年美 i選J 9.J封韓政策斗温度政府形態 構想」 λう音大翠校大宗院文学問 I~学位諭 文 (λ守合,1996年)、 p. 22

(5) Robeτt Dalle

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1932-1945 (New Yo点 :

Oxford University Press, 1979) p.389. (6)契i[容部、前掲論文、 p.26.

(ア)ヤルタ会談でローズベルトが rl~1 捺的信託統治J が司ifj 鮮の場合、 2051三から 30 年の期間となろう j

と述べたのに対し、スターリンは「期間は短ければ恕いほど良しリと苔えていた。 United States,

State Department,

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, 1945,‘Conferences at Malta and Yalta' (Washiηgton.,D.C.,1970) ,p.770. [以下“F尺

US"

と略記}

(13)

南北朝鮮労働党の研究(凶)南朝鮮労働党の結成 [i諸島副 75

が達成されたと考えていた。‘DraftMemorandllm to the Joint Chief of Staff",FRUS, 1945,

VoL VI, p.l038.

(9)最終コミュニケでは“Theaforesaid three great powers, mindflll of the enslavement of Korea, are determined that in dlle COllrse Korea shall become free and independent"と オ工ていた。 “THE COMMUNIQUE AND IRS RELEASE'う ,FRUS, 1943, Conferences at Cairo

and Teheran' p

.

4

49. (10) Cllmings, op,cit.♂ 111.鄭容部、前掲論文、 pp.29“31 (1])FRUS, 1945, VoL VI, p.l039 (] 2)和田春期は、そもそもスターリンが朝鮮半ぬに政治的な関心を持っていなかったとする。和田「ソ 速の朝鮮政策一一一九時五年八月一十月一一j市:会科学研究f第33巻第4汚(東京、 1981:!:1三日月) p.105. (13) Cllmings, op,cit. ,pp目120-122. (14)五 百 旗 ~.米出の日本占領政策一一戦後日本の設計 (上)中央公論告:、 1985年、 pp.222-225. 鄭容程;1、前掲論文、 p.40

(15) United States Armed Forces in Korea, Hjstory of the UnIted States Armed Forces jn Korea (Seolll and Tokyo, 1948印)

(け16印)森回芳夫、長!日かな子編鮮終戦の記訴、資料編~j 第 l 巻「日本統治の終 I号 j 、東京、 j議南堂、 19791、1三 pp.113司121.

(17)笠Il寺の米第将校が残した記録にこの言葉が発見できる。 E.GrantMeade, Ameriacan Military Government in Korea (New Yor、iく:King's Crown Press,1951) , pp.5ト53.

(l8) この点については撒論の本研究(二)北朝鮮労働党の結成、を参

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立 さ れ た い 。 大 学 文 化 教 育 学 部fJJf究論文集j第5巻第

2

号({主賞、 2001年)に所11](。呂運王子とお、議永ほか

2

人が、入院中た、った 許患の病室で f人共J樹立宣言を話し合ったという。朴悶述「南努探勝批判j、金市植編

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南持拡j luf究資料集3第Illl、港 λ守合,鹿大翠校ヨ;1制I:}iflJj1題研究所,1974l:f:.,p.335.[以iマ5資料集jと111市己] (19)

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渡海隠!務政策調繋委員会 (SWNCC)から1945年9)"J10日にマッカーサー宛の指令が勧告されて いる。 FRUS,1945, VoL Vl, p.l 045. (20)ハツジの政治顧問として活躍したベニングホフ (H.Merrell BenIηghoffJ は、宣教師や早稲田大学 講師として在日勤務が長く臼本通だったからか、「政治状況中で最も励みとなる一つの要因は、ソウ ルでは年配の良く教育された朝鮮人の悶に、数百人の保守派が存夜することだ。技らの多くは日本 人と一緒に働いたが、その不名誉は特別に帳消しにされるべきである。j と占領当初から主張してい た。 FRUS,1945, VoL Vl, p.l050. (21)韓太議?斡i必i政謡史

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会,

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fT太陽主1:出版局、 1961年、 p.13

(22) United States Army Military Government in Korea, G-2 (intelligence) section, G時2Perjodjc

尺θ'port(Seoll,l 1945-1948) ,No. 10 (September 20, 1945) (この引用は f美憲政1'寄報報告書j

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会, 司丹書鴎, 1986年、による。) (23) FRUS, 1945, VoL Vl, p.1135.

(24)最近、韓国で「親日派j名簿が公

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され、この中に金性沫も含まれている。「閤愈民族正試旦官設

(14)

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日だった。「自由新

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[以下?韓国史

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李承晩がトルーマン宛に送った書信で‘「共産党と国民党の戦争後、朝鮮における内戦の可能性をな くすためJ という理由をあげて「鵠政J承認を求めたことは、その後の展防

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をJ;

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る我々には考えさ せられるところが多分にある。 FRUS,

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弱僚としては主席に李承晩、副主席に 部長に金姿椴などが就任するよう予定されていた。 国務総理に 内務部長に金九、外務

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李承晩は“Ar

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?"と述べることにより、ソ連占領下の北朝鮮地域を

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として描いた。李庭植 「解放前後斗李承晩斗美関

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、弁場叫編?李承晩研究一一樹立運動ヰ 大韓民国建国ー…

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立大塁手校出版部,

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東亜日報

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臼、『韓国史

pp.514

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マックロイ宛の手紙でハツジは、「民衆が 望み、米闘が承認するまでは臨時政府を樹立する活動はしなしリとの念書を金九からとった、と明 カミしている。“

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1995

年、

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3

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[以下『ハッジ文書集

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と略記]

(

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この談話は、将=民党の宣伝材料として使用された。韓関民主窯賓待部「朝鮮人民共和国会不認 芙箪政府J情報部長談

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l'愛図版

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1946

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(40) 毎日新開~

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毎日新聞.l1945年 10 丹 11 日、?韓国史~

p.227

(42) 中央来rr 閤~

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声明の原文は次を見られたい。“

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ヴィンセントは

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日、米国外交政策協議会の演説で「閤祭的信託統治

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実施を示した。 f毎日新報~

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翠史.l

pp.278

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(15)

南北籾鮮労働党の研究(問)南朝鮮労働党の結成〔前編〕 77 (45)これはアーノルド軍政長官が自ら記者会見で述べたものだった。 f韓国史 p.328 (46)F:尺US,1945, Vo. VlI, p.1124. (47) FRUS, 1945, Vo V.lI, p.

1

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38 日新報 1945年10月31日、 (48)ヴィンセント声明に反対の意思を最初に示したのは f人共j中央委員会の10月25日の談話だった。 行's:自新報.i1945年10月26日、?韓国史 pp.308-309 (49)['東亜日報 19451:下12月28日、?韓国史jpp.678-680.国民党は「建準J創設に加わった安在鴻 がその左傾イヒを嫌って離脱、 1945年

9

月25EIに結成した政党である。 (50)スターリンは1946年1月23呂、 ii主ソ米i翠大使のハリマン (WAverell. Harriman)に「朝鮮で 我々の関係が好ましいスタートを切らなかったj と述べた。 FRUS,1946, Vol.VllI, p.622. (51)東亜iヨ報j 1945年12月30日、?韓国史jpp.686-688.左翼陣営からは「人共j中央委員会から 翌29日に、またl';1)j鮮共産党や朝鮮人民党からは掴人資格ながらそれへの反対が相次いで、表明されたo f λ守合新開j 1945年12月29自、 30日、「韓関史 pp.697-698目 (52) ~東亜日報j 1945年12月30日、日明君史.ipp.703-704. (53)

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東亜日報 1945一年12月31日、 市~I主i 史j p.p713-714. (54)FRUS, 1946, Vol溜, p.606. 朝鮮日報j1946年l月2目、:勝国史jpp.743“744. (55) j朝鮮日報~ 1946年1

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1 日、 ~f;fif. 爵史j p. 742 (56) 中央日幸Ai.1946年1月3日、 f韓j主i史 pp.748同749. (57)

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朝鮮日報j1946年1月4日、?韓国史 pp.766同768. (58)実際に米本国政府で開かれた控海国務三三省政策調整委員会 (SWNCC)では、この点をあげて朝鮮 共産党が「その態度を変える指令を受けたjと結論付けていた。 FRUS,1946, Vol.¥哩, p.681. (59)金南植?南持議研究Jλ4金,号1:lJ

1

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1

1

,1984年,p.213. (60)λ4 金新[部 1946年 l 丹 6 司、 J~!年間史~ pp.775ω776. (61)

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東亜日報j1946年l月17日、『韓国史 p.799.会話は次からの再引用による。 f大東新liI'Jj1946 l)=J 23日、?斡属製生建国運動史…一反託・反共翠生運動中心一一Jλf会, I祉閣法人斡閤反託・反 共翠生運動記念事業曾, 1986年,pp.89-90. (62) 亜日報 1946年1月20日、?韓関史jpp.867-869. (63) FRUS, 1945, Vol. VI, p.1104. (64)米軍政が収集した朴憲永とジョンスタンとの会話内容を英文で示した記事では、キト憲永が fロシア 一国の信託統治に反対しない (Wehave no objection to a single nation Russian trusteeship) J

と述べたとされている。“RequestingOick Johnston's explusion from Korea (1946.1.26)" fハッジ文書集 1. pp.7ト72.Cumings, op. cit., p.225.

(65) HUSAFIK, Vo

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1

2, ch.2ヲpp.65同66.

(66)“Press Conference at 8ando Hotel(1 947.7.23)" ハッジ文書集~ 3,p.260. (67) HUSAFIK, Vo

.

1

2, ch.2, pp.61, p.92.

(68) FRUS, 1946, Vo.l¥l1lI, p.629. (69)FRUS, 1946, Vo.lVllI, pp.66ト662.

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