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序論マイスター エックハルト(Meister Eckhart, ca )は中世ドイツに生きたドミニコ会の神学者であり 主に14 世紀に活躍した思想家であるが キリスト教徒が最終的に追及すべき目標たる至福(beatitudo )について 彼の著作 創世記比喩解 のうちでは次のように

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マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解

 

  マイスター・エックハルト( Meister Eckhart, ca.1260-1328 )は 中世ドイツに生きたドミニコ会の神学者であり、主に 14世紀に活躍 した思想家であるが、キリスト教徒が最終的に追及すべき目標たる 至 福( be ati tu do に つ い て、 彼 の 著 作『 創 世 記 比 喩 解 』 の う ち で は次のように述べられている。 (…前略…)至福は永遠の生命であるから、本来的には知性の うちに、ないしは神の本質認識のうちに存するのであって、そ れ は 次 の 言 葉 に よ っ て い る。 「 永 遠 の 生 命 と は、 唯 一 の 真 な る 神であるあなたのみを知ることです」 (ヨハ 17 : 3 (( ( )   エックハルトはトマス・アクィナス『命題集注解』にしたがい、 至 福 が 本 来 的 に は 知 性( in te lle ctu s ) の う ち に 存 す る と 理 解 し て い るのである が (( ( 、ここではその知性の内に存する至福が、ヨハネ福音 書 の 文 句 を 権 威( auctoritas ) と し て、 特 に 神 の 本 質 認 識( cognitio

dei per essentiam

)であるとされているのである。   ではしかし、こうした神の本質認識を、エックハルトはどのよう に生ずるものとして理解していたのだろうか。本稿ではこの点を検 討したい。その際、神認識の手段としての人間知性の働きに着目し、 エックハルトが理解した知性の働きに二つの側面があったことを指 摘したい。それはまずタブラ・ラサとしての側面であり、次にあら ゆ る 存 在 者 の 像( im ag o ) と し て の 側 面 で あ る。 本 稿 で は こ の う ち 第二の、あらゆる存在者の像としての知性という性格が、エックハ ルトより時代を遡るドミニコ会の先達であるフライベルクのディー トリヒ( Dietrich von Freiberg, 1240-1318 )による知性論の伝統を 色濃く受け継いでいることを指摘したい。エックハルトはディート リヒ的な知性論に変更を加えつつこれを受容し、人間の知性を神認

マイスター・エックハルトの知性理解

 

 

功一郎

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識に際して不可欠の契機として理解していくのである。以下に詳述 する。

タブラ・ラサとしての人間知性

  ラテン語著作集を見渡してみると、エックハルトが人間知性を白 紙、ないし拭われた板と表現している箇所が多数目につく。エック ハルトによれば、種としての人間が持つ特性、すなわち種差は知性 的 な も の( intellectivum ) に 存 す る が、 こ の 人 間 知 性 は 神 の 知 性 か らはるかに遠ざかってお り (( ( 、神、天使などといった知性的なものの 序列においては最下位に属するものであ る (( ( 。このように限界を設け られた人間知性は外界の対象を感覚があらかじめ把握しなければ自 力 で は 何 も 把 握 す る こ と が な い の で あ り、 拭 わ れ た 板( ta bu la rasa ) の よ う な も の で あ る (( ( 。 こ の 意 味 で 人 間 知 性 は 感 覚 の も た ら す 表象像に依存していると言われるのであ る (( ( 。例えば著作『創世記比 喩解』においては次のように言われている。 (…前略…)まず第一に断っておきたいのは、人間は「理性的 動 物 」 に し て「 神 の 似 像 に か た ど っ て 」( 創 世 記 1 : 27 ) 造 ら れているのだから、感覚的なものよりもいっそう高い何かであ り、理性的なものであるということである。しかし我々の知性 は哲学者[アリストテレス]によると、裸で拭われた板のよう なものであり、知性的なものの位階においては物体的なものの 位 階 に お け る 第 一 質 料 と 同 じ く 最 下 位 に あ り、 そ れ は 注 釈 者 [ ア ヴ ェ ロ エ ス ] が 言 う と お り で あ る。 さ ら に ま た 我 々 が「 表 象 像 な く し て 知 性 認 識 す る こ と は 不 可 能 で あ っ て 」、 そ れ は ちょうど物体的道具なくしては「織ったり、建てたり」するこ と が で き な い の と 同 じ で あ る。 ( … 中 略 …) そ れ ゆ え に、 最 初 の議論から最後の議論までたどると、人間は感覚的なものなく しては完全ではありえないことにな る (( ( 。 人間とは 「理性的動物」 ( animal rationale ) である、というボエティ ウスの定 義 (( ( とともにアリストテレス『霊魂論』第三 巻 (( ( が引かれ、種 差 と し て 人 間 を 他 の 動 物 種 か ら 区 別 す る 知 性 が、 感 覚 的 な も の ( sensitivum ) に依存することが語られている。 それゆえここでエッ クハルトはアリストテレス以来の伝統に則り、感覚に対する知性の 依存性と、いわばア・プリオリな知の否定とを「拭われた板」とい う言葉で定式化したと見ることができるのである。   以上、エックハルトがアリストテレス『霊魂論』を典拠として、 人間の能力であるかぎりにおける知性について理解したところを見 てきた。しかしながらこと神認識において、この種の知性が役割を 担うことがないのは明白である。というのも神とは一切の質料性を 欠いた存在そのもの( ipsum esse )であり、人間の能力である限り の知性が感覚認識に絶対的に依存している以上、いかなる感覚的質

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マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解 料性をも持たない神を、この種の知性が把握することは不可能であ る か ら で あ る。 そ れ で は 至 福 が 知 性 の う ち に 存 す る と い う と き、 エックハルトはいかなる事態を想定していたのであろうか。このこ とについて見るため、エックハルトの知性理解に影響を与えたとお ぼしき、ディートリヒの知性論について以下に概観したい。

フライベルクのディートリヒによる知性論

  エックハルトとトマス・アクィナスの共通の師にあたる人物とし て、 「普遍博士」 ( doctor universalis )と呼ばれたドミニコ会士、ア ル ベ ル トゥ ス ・ マ グ ヌス ( A lb er tu s M ag nu s, c a.1 19 3-1 28 0 ) が い るが 、 アルベルトゥスの唱えた新プラトン主義的知性論は、当時のケルン に お い て 大 き な 影 響 力 を 持 ち ((( ( 、「 ア ル ベ ル ト ゥ ス 学 派 」 と 呼 ば れ る 学 統 を 形 成 し て い た。 シ ュ ト ラ ー ス ブ ル ク の フ ー ゴ ー( H ug h vo n St ra ß bu rg , ca .1210 -70 )、 シ ュ ト ラ ー ス ブ ル ク の ウ ル リ ヒ( U lric h von Straßburg, ca.1220-1277 )等がこれに属するが、ディートリヒ は彼らと異なり、アルベルトゥスに直接教えを受けたという事実は 確認できず、それゆえアルベルトゥス学派の第二世代と呼ばれるこ ともあ る ((( ( 。   では、ディートリヒの唱えた知性論について見ていきたい。エッ クハルトと同じく、ディートリヒの思想もまた、その目指すところ は「至福なる生のうちで、神をその本質の純粋性において直観する こ と ((( ( 」に他ならないのである が ((( ( 、ではこのような直観の主体となる 知性を、ディートリヒはどのように理解していたのであろうか。   デ ィ ー ト リ ヒ は 著 作『 至 福 直 観 に つ い て 』( D e vis ion e be ati -fic a ) の う ち で、 ア ヴ ェ ロ エ ス『 形 而 上 学 註 解 』 第 5 巻 に 則 り、 全 て の 存 在 者 を「 自 然 に 関 し て 見 出 さ れ る 実 在 的 存 在 者 」( ens reale repertum apud naturam )と、 「魂の内なる存在者ないし概念的存 在者」 (

ens in anima seu conceptionale

) とに区別してい る ((( ( 。ディー トリヒによれば、実在的存在者とはアリストテレスのいう実体や他 の九つの範疇の類が適用されるものであり、これは例えばトマスの いう実在的存在者と概ね同じである。他方概念的存在者とは「知性 的に存在するあらゆるもの」 ( omne id, quod intellectualiter est ) であり、それゆえ知性的に把握されたもののみならず、知性や知性 的 活 動 そ れ 自 体( ip sa in te lle cti o ) を も 含 ん で い る ((( ( 。 つ ま り、 再 び トマスとの比較でいうならば、ディートリヒの概念的存在者は、ト マ ス の 概 念 的 存 在 者( en s ra tio nis を 内 包 す る ば か り か、 概 念 把 握を行う当の知性や、知性的活動それ自体をも含んでいるというこ とになる。   そしてこうした概念的存在者は、自然に関して見出される実在的 存在者とは異なり、十の範疇によって区別されないとディートリヒ は語る。ディートリヒの言うところはこうである。 知性は諸範疇の類の外側にあり、いかなる諸範疇の類の内にも

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ないのであるが、その理由は第一に、単純なものが範疇的なも のの諸々の類による区分の外側で見出されるからであり、第二 に自然的なものが概念的なものに対置される限りにおいて、諸 範疇の諸々の類は自然および存在者の自然的方法に即して分け られているからであ る ((( ( 。 アリストテレスの十の範疇は自然における実在的存在者の区分を意 図 し て 立 て ら れ た も の で あ っ て、 概 念 的 存 在 者 は そ う し た 範 疇 に よって規定されず、むしろその区分を超出するとディートリヒは言 うのである。   さらにディートリヒは、こうした認識の際の知性の無規定性とい う と こ ろ か ら、 以 下 に 見 る と お り、 知 性 の 対 象 を 何 性( qu id ita s ) 一 般、 な い し 存 在 者( en s ) 一 般 で あ る と し て い く。 デ ィ ー ト リ ヒ は次のように語っている。 知性認識の際このものや他のものに規定されない、という知性 の本質の固有性からして、知性とは一般的かつ普遍的な本性で ある。このことは知性の対象から明らかである。その対象とは あれこれの何性ではなく、普遍的な仕方であらゆる何性なので あり、また存在者である限りにおける存在者、すなわち存在者 の理念を有するあらゆるものである。然るに知性の本質とは、 知性的な仕方で存在するあらゆるものであるのだから、知性自 体が本質によって、あらゆる存在者の似像を自らの内に知性的 な仕方で、しかも単純な仕方で、すなわちその単純な本性の属 性にしたがって産むことが必然であり、そして知性そのものが 知性的に何らかの仕方で全存在者であるということが必然であ る ((( ( 。 認識の際に範疇によって規定されない、という知性が持つ前述の固 有 性( pr op rie ta s ) を 根 拠 に、 知 性 の 対 象 が あ ら ゆ る 何 性( qu ae -cumque quiditas )であり、存在者である限りにおける存在者( ens inquantum ens ) で あ る と さ れ て い る。 す な わ ち デ ィ ー ト リ ヒ は 知 性の無規定性を理由として、知性が範疇によって規定されない以上、 知性認識は本来的に存在一般、そして何性一般へと向かうはずだと いうのである。しかし問題は、ここで知性が「何らかの仕方で全存 在者である」 ( quodammodo omne ens esse )とされていることで ある。ディートリヒは知性の対象が存在者一般であるということと、 知性が何らかの仕方で全存在者であるということを直ちに結びつけ ているが、この論理展開はどのようにして可能となるのだろうか。 この点を次節にて論じたい。

可能知性の本質的原因としての能動知性

  以上前項では、範疇によって規定されないというディートリヒの

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マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解 知性理解を確認したのち、この知性の無規定性から、知性の対象が 存在者一般であるとされるに至る論の流れを見た。では、この知性 の対象が存在者一般であるということと、知性が全存在者であると いうこととは、どのように関係するのだろうか。   アリストテレスの知性論の伝統をついだトマス・アクィナスは、 知 性 は 認 識 対 象 の 可 知 的 形 象 ( sp ec ies in te llig ib ilis を 受 け る こ と で 、 或る意味で認識対象と等しいものになると理解した。すなわち知性 は可能的には全てのものたりうるのであり、知性のこのような働き は可能知性( intellectus possibilis )と呼ばれる。このことを逆に言 えば可能知性は認識作用が生ずる以前は何ものでもないのであり、 外界からの形象を待ってはじめて対象と一致するのである。一方で、 感 覚 か ら 引 き 受 け た 可 感 的 形 象( sp ec ies se ns ib ilis か ら 質 料 性 ( m ate ria lita s ) を 捨 象 す る 役 割 を、 ト マ ス は 能 動 知 性( in te lle ctu s ag en s ) と 呼 称 し た ((( ( 。 ア リ ス ト テ レ ス が『 霊 魂 論 』 の う ち で 提 起 し た知性の二区分は、中世において以上のような形で受容されていた のである。   しかしながら、ディートリヒがこの構図を踏襲していたとすると、 知性が全存在者で ある 4 4 、という先の言明は成りたたなくなる。なぜ なら知性は外界からの形象を得てはじめてなんらかのものに なる 4 4 の であり、その形象が到来する以前、すなわち認識以前は何ものでも ないことになるはずだからである。それゆえここから予想されるの は、ディートリヒがアリストテレス─トマス的伝統とは異なった知 性論に与していたという事態である。ではその内容とはどのような ものか。   ディートリヒの思想を特徴づける論のひとつに、 「本質的原因論」 ( die Theorie der causa essenti a ((( ( lis )というものがある。すなわち ディートリヒは著作『分離された存在者の認識について』において、 原 因 を 二 つ の 種 類 に 大 別 す る。 そ れ は 本 質 的 原 因( causa essentia -lis )と附帯的原因( causa accidentalis )である。そこでディートリ ヒ は 本 質 的 原 因 を、 「 そ れ 自 体 と し て な ん ら か の 実 体 を 生 じ さ せ、 そ の 作 用 の 根 拠 も 実 体 で あ り、 附 帯 的 な も の で は な い 実 体 」( su b-stantia, cui convenit per se producere aliquam substantiam et cui ratio agenda est sua substantia et non aliquid accidens )と定義す る ((( ( 。 さ ら に デ ィ ー ト リ ヒ は、 本 質 的 原 因 が「 知 性 的 生 命 」( vit a intellectualis )であり、かつ「現実態における知性」 ( intellectus in actu )に他ならないというのであ る ((( ( 。   そして、以上の本質的原因論によってディートリヒが述べようと していたことのひとつが、能動知性と可能知性との関係なのである。 す な わ ち デ ィ ー ト リ ヒ は、 能 動 知 性 が 可 能 知 性 に 対 し て、 「 能 動 的 原 理 が 基 体 と し て の 質 料 に 」( pr in cip iu m ac tiv um ad su bie cta m m ate r ((( ( iam ) か か わ る よ う な 仕 方 で か か わ る と 理 解 し、 現 実 態 に お ける知性としての能動知性を、可能知性を実体たらしめる本質的原 因と見なすのであ る ((( ( 。可能知性がそれ自体としては純粋な可能性で あり、形象なしには存在しえないということは先に述べたが、能動

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知性は可能知性に形象を与えることで、可能知性を存在せしめると いうことになる。それゆえ、実体化した可能知性が先述のとおり存 在者一般を認識するとするなら、能動知性もまた、本質的に全存在 者の似像でなければならない。 このことをディートリヒは、 著作 『知 性と知性認識されるものについて』で次のように表現している。 考慮されるべきは以下の事柄である。全ての知性は知性である かぎりにおいて、存在者全体の、或いは存在者であるかぎりに お け る 存 在 者 の 一 つ の 似 像 で あ り、 こ の こ と は 知 性 の 本 質 に よってそうである。哲学者が『霊魂論』において、能動知性が 全ての事物を造る能力を持っており、一方可能知性は全ての事 物になる能力を持っていると指摘しているのは、このことに基 づく。実にこのことは、それぞれの知性が本質的に全ての存在 者の似像であるがゆえに起こるのである。それらの一方、すな わち能動知性が作用において似像であり、他方すなわち可能知 性が、それが理解する前の可能態において似像であるとしても、 先述のことは真であ る ((( ( 。 能動知性が本質的原因として可能知性を実体化させ、実体化した知 性があらゆる存在者の似像である以上、能動知性は認識成立以前に、 全ての存在者の形象を含みもつものでなくてはならない。形象を絶 対 的 に 外 界 か ら の 抽 象 の 結 果 と 考 え る ト マ ス 主 義 的 伝 統 に 対 し、 ディートリヒは可能知性を実体化させるイデア的形象の由来を能動 知性と見ることで、能動知性のうちに形象がいわばア・プリオリに 備わると説くことができた。そして知性認識が本性的に存在者一般 に向かう以上、能動知性に備わる形象は全ての存在者のものでなけ ればならなかったのである。

エックハルトの知性理解

  以 上、 デ ィ ー ト リ ヒ が 能 動 知 性 を 可 能 知 性 の 原 因 と み る こ と に よ っ て、 能 動 知 性 の 内 に 全 て の 存 在 者 の 形 象 が 存 在 す る と 説 く に 至った過程を見てきた。エックハルトもまたこうした考えをディー トリヒから受け継いでいくのであるが、エックハルトのテクストに おいて、能動知性という語が登場する頻度は、ディートリヒのもの に比してはるかに少ない。すなわちエックハルトは能動知性という 語にかえて、単に知性という語をもってディートリヒ的能動知性に ついて多く語っているのである。この様子を以下に確認しよう。   エ ッ ク ハ ル ト は 著 作『 創 世 記 註 解 』 の 第 115節 に お い て、 「 我 々 に か た ど り、 我 々 に 似 せ て、 人 を 造 ろ う 」( fa cia m us ho m in em ad imaginem et similitudinem nostram )という創世記の言葉を解釈し、 人間が神に似せて造られたということはいかなる意味を持つのかに ついて説明している。エックハルトによれば、知性的存在者として の人間をのぞくあらゆる被造物は神の内にその原因となるイデア的

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マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解 な 像 を 持 ち、 そ れ ら を 原 因 と し て、 種( sp ec ies と し て 限 定 さ れ る形で存在す る ((( ( 。このような知性的でない存在者のあり方に対し、 知性的な存在者のあり方について、エックハルトは次のように語っ ている。 (…前略…)知性的存在は神のうちにイデア的なものとしてあ る或る何かではなく、むしろ神そのものを似像として持つ。こ の 理 由 と し て あ げ ら れ る の は、 「 知 性 そ れ 自 体 は そ れ に よ っ て [ 事 物 の 認 識 に 際 し ] す べ て の も の に な る と こ ろ の 能 力 で あ っ て 」、 種 に 関 し て こ れ こ れ し か じ か に 決 定 さ れ て い る も の で は ないからである。それゆえに哲学者[アリストテレス]によれ ば「 知 性 は 或 る 意 味 に お い て す べ て で あ り 」、 全 存 在 者 で あ る。 ( … 中 略 …) そ し て こ の こ と が こ こ で 言 わ れ て い る、 我 々 の う ち の 或 る も の に よ っ て で は な く、 「 我 々 に か た ど り、 我 々 に 似 せて人を造ろう」という言葉の意味であ る ((( ( 。   エックハルトが人間の知性を理解する際、アリストテレスに由来 する伝統を踏襲していることは先に述べたが、ここでエックハルト は、知性とは「あらゆるものになる能力」であ る ((( ( というアリストテ レスの言葉を権威とし て ((( ( 、知性理解においてさらに一歩を進めよう としている。   先に述べたアリストテレス─トマス的伝統に比して、ディートリ ヒ─エックハルト系列の知性論が特徴的であるのは、任意の認識対 象と同一化しうるという知性の可能的性質によって、知性が種的な 限定を被っていないと理解されることであ る ((( ( 。それゆえ上の引用に あるように、知性的存在者とは神の内にある何らかのイデアに似せ て 造 ら れ た の で は な く、 「 む し ろ 神 そ の も の を 似 像 と し て 持 つ 」 ( ipsum deum similitudinem habere )とされているのである。つま りエックハルトは、対象と同一化するという知性の可能的性質に着 目し、知性が種的な限定を免れていると理解する結果、知性的被造 物が何らかの個別的イデアによって規定されているという考えをと らず、それをむしろ神そのものの像と捉えるのである。このことを エ ッ ク ハ ル ト は 別 の 個 所 で、 「 人 間 は 神 の 全 実 体 の 像 に 即 し て 造 ら れてい る ((( ( 」と言っている。   さらにエックハルトによれば、像に属するのは、それが像である ところのものの或る規定が表現されているということではなく、そ れが像であるところのものの全体が十分に表現されているというこ とであ る ((( ( 。つまり神の像である知性は、ディートリヒの場合と同様、 神を、或いは存在の全体を十分に表現するものでなくてはならない。 そ こ で エ ッ ク ハ ル ト は、 「 知 性 は 知 性 で あ る か ぎ り に お い て す べ て の存在者の似像であり、それ自身のうちに存在者の総体性を含んで いるのであって、これとかあれとかを切り離して含んでいるのでは な い ((( ( 」 の で あ り、 そ れ ゆ え ギ リ シ ア 人 た ち は 人 間 を 小 宇 宙( micro -cosmos )と称したのだと述べてい る ((( ( 。

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  以上エックハルトがタブラ・ラサとしての知性というアリストテ レス的な伝統から出発しながらも、そうした知性の持つ受容可能性 に着目し、そのことから知性を神の全実体の像、ひいては全存在者 の像と表現するにいたったことを確認した。これが意味するのは、 人間の知性が潜勢的に全ての存在者についての知を、いわばア・プ リオリに含んでいるという事態であるが、エックハルトはこのこと を著作『創世記比喩解』において、次のように表現している。 「 す べ て の 知 恵 は 主 な る 神 か ら く る 」( シ ラ 1 : 1 ) そ れ と い うのも霊魂には自然本性的に神から刻印されたさまざまな第一 の始原があるが、それらの始原の力のうちに、全ての知はそれ ら全ての点において、潜勢的にして根源的に含まれているから である。これゆえにまたプラトンが主張したところによれば、 知は霊魂のうちに先天的にあるが、探求と感覚との修練によっ て、霊魂の秘所より知性体の突端へと呼び出されるのである。 かくてまた、或る昔の哲学者が主張するところによれば、全て の実体的形相は質料のうちに隠れていたのであり、また今も隠 れているのである(…後略 … ((( ( )。 霊 魂 の 内 な る 第 一 の 始 原( pr im um pr in cip iu m ) の う ち に、 「 全 て の 知 」( om nis sa pie nti a ) が「 潜 在 的 に し て 根 源 的 に 」( vir tu alit er et ra dic alit er )、 な い し 先 天 的 に 含 ま れ て い る、 と 明 確 に 述 べ ら れ ている。ここにおいてエックハルトの知性理解が、先述のアリスト テレス的タブラ・ラサとしての理解から離れ始めていることは明確 であり、それはプラトンの言 葉 ((( ( がひかれていることからも明らかで あ ろ う。 す な わ ち 全 て の 知 は「 霊 魂 の 秘 所 」( mentis abditum ) の う ち に、 あ た か も 実 体 的 形 相( for ma subst anti alis ) が 質 料 の う ち に隠されているかの如くに隠れてされている、とされるのである。   さてここで再度強調しておきたいのは、人間の知性が全ての知を 有していると言われた際、その知はむろん経験的な知ではないとい うことである。そのことは、著作『ヨハネ福音書註解』第 29節にお い て、 エ ッ ク ハ ル ト が 事 物 の 理 念( ra tio に 二 種 類 の も の を 区 別 していることからも知られる。エックハルトは次のように述べる。 第二に注目すべきことは、理念は二重の意味において受け取ら れるということである。というのは、事物から知性によって受 け取られた、ないし抽象された理念があり、この理念はそれが 抽象されてくる事物よりも後なるものである。さらに事物に先 立つ理念もあり、それは事物の原因であり、定義が告知する理 念であり、その理念を知性は、事物の内的な始原において把握 するのであ る ((( ( 。 引用前半に述べられた第一の理念、抽象された理念は、人間が経験 の結果、いわば帰納的に何事かについて抱く理念である。これに対

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マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解 してエックハルトは、事物の原因として、事物の存在に先行するよ うな理念があるという。これは神の内にあって事物の原因となるよ うなイデア的理念であり、それゆえ「先なる理念」と呼ばれている。   これら二つの理念のうち、知性のうちに先在するのが第一の理念、 すなわち事物から抽象された理念でないことは、先に知性が拭われ た板( tabula rasa )と呼ばれていたことからも明白である。それゆ え知性が潜勢的に有する理念とは後者の理念、すなわち本来的には 神の内に存するイデア的理念であり、知性がこれら全ての理念を有 するがゆえに、そのようなものとしての知性はまさしく神の像、と 呼ばれていたと考えられるのである。

像と範型

  以上前節ではエックハルトが人間知性の或る種の働きを指して、 それを「神の像」であると理解していた点について指摘した。では、 このように神の像である知性と神とはどのような関係に立つもので あろうか。本節ではこのことを探っていきたい。エックハルトは著 作『 ヨ ハ ネ 福 音 書 註 解 』 の 第 23節 か ら の 箇 所 に お い て、 「 聖 書 の な かの非常に多くのこと、特に神の独り子について書かれていること、 例えば彼が 「神の像」 (Ⅱコリ 4 : 4 ) であることについて」 ( plurima in scriptura, specialiter illa quae de filio dei unigenito scribuntur, puta quod est imago d ((( ( ei )解釈し、像( imago )と「それが帰属す る対象」 ( obiectum, cuius est imago )すなわち範型( exemplar ) との関係について九つの特徴を挙げている。それによれば、像は自 らの全存在を範型からのみ受け取るのであ り ((( ( 、像は範型の内に先在 するとともに、範型は像の内に存在するとされ る ((( ( 。そしてこのよう な像と範型とは一方の全存在が他方の内にあり、いかなる異質なも のも存在しないかぎりにおいて、それら自体としては一であると言 われるのであ る ((( ( 。こうした範型と像との関係は無論、神の三位一体 における父と子との関係を念頭において、それを一般化する形で語 られたものであり、エックハルトはこうした関係を、同じ著作にお いて同名同義的( univocus )な関係と呼んでい る ((( ( 。   以上のように像とその対象との関係は、三位一体における父と子 との関係と同様に同名同義的なものなのであるが、このことゆえに 『 ヨ ハ ネ 福 音 書 註 解 』 第 486節 に お い て は、 人 間 の 内 な る 神 の 像 に つ いて次のように語られてくることになる。 (…前略…)上にすでに言われたように、あらかじめ自分自身 のうちに形象、ないし像が形成されていなくては、或る人が語 るということは不可能であり、そのような形象ないし像は、そ れが語るものであるかぎり、自分自身のすべてを表現する子孫 ないし子であるということである。さらにその上に、あらかじ め聴く者自身のうちに形象と像、すなわち子孫自身が形成され ていなくては、或る語っている人の言うことを聴き理解するこ

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とは不可能であり、それらの形象と像とは全ての点において、 語るもののうちにあるものへと向けられているのであって、そ れ は 次 の 言 葉 に よ っ て い る。 「 全 て の も の は 私 の 父 か ら 私 に 引 き渡されている。父以外の誰も子を知らないし、子以外の誰も 父 を 知 ら な い 」( マ タ 11 : 27 )。 ( … 中 略 …) 神 が 語 る こ と は 生 むことであり、神の語ることを聴くのは生まれることであ る ((( ( 。 は じ め に 形 象( species ) な い し 像( imago ) が そ れ を 語 り だ す も の の 子 孫( pr ole s ) で あ る こ と が 言 わ れ、 神 と 神 の 言 葉 と の 関 係 が 語 ら れ た の ち、 「 あ ら か じ め 聴 く 者 自 身 の う ち に 形 象 と 像、 す な わ ち 子孫自身が形成されていなくては、或る語っている人の言うことを 聴き理解することは不可能」として、神の言葉を聴く人間の内にも、 神の像があらかじめ存在しなければならないとされる。すなわちこ こでエックハルトは、人間の内なる神の像としての知性を、神の子 ないし子孫と呼んでいるのであり、このことからも分かるとおり、 神と神を映しこんだ人間知性とは範型と像、ないし父と子などと同 様に、同名同義的な関係に立つものと理解されるのである。そして この種の知性理解を徹底していくならば、それは知性が非被造的で あるという結論を指し示すのであり、エックハルトの教説が含むそ の種の思想内容が異端として特に非難されたことは周知のとおりで ある。

 

  以上本稿では、エックハルトが至福を知性による神認識と見ると き、その神認識とはどのような種類のものであるかという点につい て見てきた。エックハルトは知性が可能的に全てのものであるとい う点に着目した結果、それが神の内なるイデアではなく神そのもの の像であると理解するのであり、さらに神と神の像である知性とは、 三位一体における父と子とがそうであるように一なるものであると 考えられているのであった。そしてこうした知性をエックハルトは、 罪に覆い隠されてはいるが恩寵によって露わになりうるものとして 見 て い る。 『 ヨ ハ ネ 福 音 書 註 解 』 に お い て は、 次 の よ う に 述 べ ら れ ている。 我 々 が 神 に 祈 る の は、 ( … 中 略 …) 本 性 に よ っ て わ れ わ れ が そ れであるものが「像にしたがって」 、恩寵によって、 「似像にし た が っ て 」( 創 世 記 1 : 26 ) 現 れ る こ と で あ る。 そ し て こ れ は ヨ ハ ネ が 次 の よ う に 言 っ て い る こ と で あ る。 「 彼 が 現 れ た と き に は、 我 々 は 彼 に 似 た 者 に な る で あ ろ う 」。 す な わ ち[ 神 の ] 似 像 に よ っ て「 我 々 は 神 の 子 ら で あ る 」( Ⅰ ヨ ハ 3 : 2 ) 罪 を 犯 す こ と に よ っ て も、 「 人 は[ 神 の ] 像 に 留 ま る 」( 詩 38 : 7 ) 「しかしそれは明らかになっていない」 、というのもそれは罪に

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マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解 よ っ て 覆 わ れ て い る か ら で あ る。 「 し か し 露 わ に な っ た 顔 と と もに」 「彼が現れたときには」 (Ⅱコリ 3 : 18 )、 恩寵によって [神 の ] 像 が 新 た に 形 成 さ れ て、 「 わ れ わ れ は 彼 に 似 た 者 と な る で あ ろ う 」( Ⅰ ヨ ハ 3 : 2 ) 。( … 中 略 …) [ 神 の ] 像 は、 た と え 人 が 罪 を 犯 し た と し て も そ の う ち で「 人 が 留 ま る 」 本 性 に か か わ っ て い る の で あ り、 似 像 は 恩 寵 に か か わ っ て お り、 そ れ に よって像が新たに形成されるところのものであり、それは像が 現れるためであ る ((( ( 。   人間の本性的なものたる知性は確かに神の像ではあるが、それは 罪によって覆い隠されている。そしてエックハルトの考える神認識 とはまさしく、この人間の内に本来備わる神の像としての知性が神 からの恩寵によって露わにされ、人間がその像に則って新たに形成 されるということに他ならないのである。以上をもって当初の問い に答えたことで、論考を終わりたい。 注 ( 1)   In Gen.II, n.83; LWI, 545, 4-6: ‘[...] beatitudo, cum sit vita aeterna, prop -rie consistit in intellectu sive in cognitione dei per essentiam, secundum illud Ioh.17: ‘haec est vita aeterna, ut cognoscant te solum verum deum ’.’ 本 稿 で 使 用 し た テ ク ス ト は 次 の も の で あ る。 M eis te r E ck ha rt, D ie deutschen und lateinischen Werke, herg. im Auftrage der Deutschen Forschungsgemeinschaft, Stuttgart 1936ff. 引用、参照指示については、 ラテン語著作に関しては該当箇所の存在する著作名、節、巻 ( Lateinische Werke = LW )、 頁、 行を、 ドイツ語著作に関しては著作名、 巻 ( Deutsche W er ke = D W )、 頁、 行 を 順 に 示 し た。 著 作 の 略 記 法 は こ の 全 集 版 テ ク ス ト の も の に 従 っ た。 ま た ラ テ ン 語 著 作 の 訳 出 に あ た っ て は、 中 山 善 樹 訳 『エックハルトラテン語著作集Ⅰ─Ⅴ』 (知泉書館、 2004─2008年) を参考にしたが、訳語等については適宜これを改めた。 ( 2)  

Cf. In Gen.I, n.135; LWI, 288, 1-6, In Ioh., n.673; LWIII, 587,

1-3. ( 3)   Cf. In Gen.I, n.237; LWI, 381, 13-14, 382, 1. ( 4)   Cf. In Gen.II, n.138; LWI, 604, 5-7. ( 5)   Cf. In Gen.I, n.229; LWI, 374, 9-10, 375, 1-2. ( 6)   Cf. In Gen.II, n.138; LWI, 604, 7-9. ( 7)   In Gen.II, n.138; LWI, 604, 3-11, 605, 1-2: ‘[...] suppono primo quod homo, utpote »animal rationale« et ‘ad imaginem dei ’, est quid altius sensitivo et est quid intellectivum. Intellectus autem in nobis se habet sicut tabula nuda et rasa, secundum philosophum, et est in ordine intellectualium sicut materia prima in ordine corporalium, ut ait commentator. Item nobis etiam »non« contingit »intelligere sine phantasmate«, sicut nec »texere vel aedificare« sine instrumentis corporalibus. [...] A primo ergo

ad ultimum oportet quod ipse homo in sua integritate habeat sen

sitivum. ’ ( 8)   ボエティウス『イザゴゲー註解』第1巻第 20章を参照。 ( 9)   『霊魂論』第3巻第4章 430a 1を参照。 ( 10)   約140年後にニコラウス・クザーヌスがケルン大学を訪れた際もなお、 アルベルトゥスの知性論は実質的に損なわれることなく教えられていた。 Vgl. ‘The Agent Intellect in the Writings of Meister Dietrich of Freiberg and its Influence on the Cologne School ’, Markus L. Führer, in: Dietrich vo n Fr eib ur g. N eu e P er sp ek tiv en Se in er P hil os op hie , T he olo gie un d Naturwissenschaft, Amstedam/Philadelhia, 1999, S.70. ( 11)   Vgl. Dietrich von Freiburg. Neue Perspektiven Seiner Philosophie, The

(12)

-ologie und Naturwissenschaft, Amstedam/Philadelhia, 1999, S.70-71. ( 12)   Vis. 4. 3. (1); p.198: ‘quod in beata vita visuri simus eum in claritate suae essentiae ’. 『至福直観について』のテクストは、次のものを使用した。 Tractatus de visione beatifica, Theodoricus de Vriberch, Georgia, 2003 [= Vis.] ( 13)   『中世における理性と霊性』 、K・リーゼンフーバー、知泉書館、200 8年、 280頁を参照。 ( 14)   Cf. Vis. 3. 2. 9. 1. (6); p.148. ( 15)   Cf. Vis. 4. 3. 4. (5); p.222. ( 16)   Vis. 4. 3. 4. (6); p.222: ‘[...] sit extra genus praedicamenti et non sit in ali -quo genere praedicamenti, tum quia simpicia sunt extra coordinationem generam praedicamentalium, tum etiam quia genera praedicamentorum distincta sunt secundum naturas et naturales modos entium, secundum

quod natural distinguitur contra conceptionale

’. ( 17)   Vis. 1. 1. 4. (2); p.33-34: ‘[...] quoniam intellectus generalis quaedam et universalis natura est secundum proprietatem suae essentiae intellectua -lis, qua non determinatur ad hoc vel ad aliud tantum intelligendum. Quod manifestum est ex obiecto eius, quod est quiditas non haec vel illa, sed universaliter quaecumque quiditas et ens inquantum ens, id est quod -cumque rationem entis habens. Quia igitur eius essentia, quiquid est, intellectualiter est, necesse ipsum intellectum per essentiam genere in se intellectualiter similitudinem omnis entis, modo tantum simplici, id est secundum proprietatem simplicis essentiae, et ipsum esse intellectualiter

quodammodo omne ens

’. ( 18)   トマスは能動知性の必要性を証明するにあたって、感覚が形成した可感 的 形 象 な い し 表 象( phantasma ) か ら 質 料 性 を 捨 象 す る 力 が 知 性 の 側 に 見 出 さ れ ね ば な ら な い と い う こ と を 根 拠 と し た。 『 神 学 大 全 』 第 1 部 第 79問 題第3項主文を参照。 ( 19)   他 に die causa essentialis-Theorie な ど の 表 記 が あ る が、 本 稿 で は 代 表 的研究者である Mojsisch の表記に倣う。 Vgl. Meister Eckhart. Analogie,

Univozität und Einheit, Burkhard Mojsisch, Hamburg, 1983, S.29.

( 20)   Cf. Cogn. 75. (1); p.271. 『分離された存在者の認識について』のテクスト は、次のものを使用した。 Dietrich von Freibergs Traktat. De cognitione

entium separatorum, Theodoricus de Vriberch, Bochum, 1977 [= Co

gn.] ( 21)   Cf. Cogn. 23. (4)-(5); p.173. ( 22)   Cf. Vis. 2. 1. (2); p.102. ( 23)   デ ィ ー ト リ ヒ に お け る 能 動 知 性 と 可 能 知 性 と の 関 係 は、 『 哲 学 と 神 学 の ハ ル モ ニ ア ── エ ッ ク ハ ル ト 神 学 が 目 指 し た も の ── 』( 山 崎 達 也 著、 知 泉書館、2013年) 36─ 40頁参照。 ( 24)   Int. 2. 1. (1); p.57: ‘Est igitur considerandum, quod omnis intellectus inquantum intellectus est similitudo totius entis sive entis inquantum ens, et hoc per suam essentiam. Et super hoc fundatur dictum Philosophi in III De anima, scilicet quod intellectus agens est, in quo est omnia facere, intellectus possibilis, in quo est omnia fieri. Quod quidem contingit ex hoc, quod uterque istorum intellectuum est per essentiam similitudo omnium entium, quamvis unus eorum secundum actum, scilicet intellec -tus agens, alter secundum potentiam ante intelligere, scilicet intellectus po ss ib ilis .’ 『 知 性 と 知 性 認 識 さ れ る も の に つ い て 』 の テ ク ス ト は、 次 の も のを使用した。 Schriften zur Intellekttheorie (corpus philosophorum Teu -tonicorum medii aevi, tomus1), Theodoricus de Vriberch, Hamburg, 1977 [= Int.] ( 25)   Cf. In Gen.I, n.115; LWI, 270, 5-9. ( 26)   In Gen.I, n.115; LWI, 270, 9-13, 271, 13-14: ‘natura vero intellectualis ut sic potius habet ipsum deum similitudinem quam aliquid quod in deo sit ideale. Ratio huius est quod »intellectus ut sic est, quo est omnia fieri«, non hoc aut hoc determinatum ad speciem. Unde secundum philosophum

(13)

マ イ ス タ ー ・ エ ッ ク ハ ル ト の 知 性 理 解 »est quodammodo omnia« et totum ens. [...] Hoc est ergo quod hie dicitur:

‘faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram

’. ( 27)   アリストテレス『霊魂について』第3巻5章 430a 14を参照。 ( 28)   Cf. In Gen.I, n.115; LWI, 270, 10-13. ( 29)  

Cf. Quaet. Par. II, n.7; LWV, 52, 5-6.

( 30)   In Ioh., n.549; LWIII, 479, 3: ‘Homo autem creatus est ad imaginem

totius substantiae dei [...].

’ ( 31)   Cf. In Gen.I, n.115; LWI, 272, 1-2. ( 32)   In Gen.I, n.115; LWI, 272, 3-5: ‘Intellectus enim, in quantum intellectus, est similitudo totius entis, in se continens universitatem entium, non hoc

aut illud cum praecisione.

’ ( 33)   Cf. In Gen.I, n.115; LWI, 272, 2-3. ( 34)   In Gen.II, n.217; LWI, 694, 7-12, 695,1: ‘Eccli. 1: ‘omnis sapientia a dom -ino deo est ’. In virtute enim primorum principiorum naturaliter animae impressorum a deo est virtualiter et radicaliter omnis scientia secundum omne sui. Propter quod etiam Plato ponebat scientias animae concreatas, per s tud iu m ve ro et e xe rci tiu m se ns uum e x m ent is abd ito ad ac ie m int el -lig en tia e re vo ca ri, sic ut eti am qu id am an tiq uo ru m po ne ba nt om ne s

formas substantiales in materia et latuisse et latere [...].

’ ( 35)   『メノン』 81CD, 85C-86A を参照。 ( 36)   In Ioh., n.29; LWIII, 22, 13-14, 23, 1-2: ‘Secundo notandum quod ratio dupliciter accipitur: est enim ratio a rebus accepta sive abstracta per intellectum, et haec est rebus posterior a quibus abstrahitur; est et ratio rebus prior, causa rerum et ratio, quam diffinitio indicati et intellectus

accipit in ipsis principiis intrinsecis.

’ ( 37)   Cf. In Ioh., n.23; LWIII, 19, 3-4. ( 38)   Cf. In Ioh., n.23; LWIII, 19, 5-6. ( 39)   Cf. In Ioh., n.24; LWIII, 19, 13-16. ( 40)   Cf. In Ioh., n.24; LWIII, 20, 1-4. ( 41)   Cf. In Ioh., n.5; LWIII, 7, 1-9. ( 42)   In Ioh., n.486; LWIII, 418, 3-10: ‘[...] sicut supra dictum est, impossibile est aliquem loqui nisi prius formata in ipso specie et imagine quae proles est et füius est expressivus sui ipsius totius, in quantum loquens est. Adhuc autem impossibile audire aliquem loquentem et intelligere, nisi formata prius in ipso audiente specie et imagine, prole ipsa ad eandem per omnia quae est in loquente, secundum illud Matth. 11: ‘omnia mihi tradita sunt a patre meo, et nemo novit filium nisi pater, neque patrem quis novit nisi filius ’. [...]; dicere enim dei generare est, audire ipsum gen -erari est. ’ ( 43)   In Ioh., n.575; LWIII, 504, 3-9, 505, 1-2: ‘Rogamus ergo deum, [...] ut quod sumus per naturam appareat ‘ad imaginem ’, per gratiam ‘ad simlilitudi -nem ’. Et hoc est quod Iohannes ait: ‘cum apparuerit, similes ei erimus ’; ‘filii ’, inquit, ‘dei sumus ’per imaginem, Psalmus: ‘in imagine pertransit homo ’ etiam peccando; ‘sed non apparet ’, utpote velata peccato; ‘cum autem apparuerit ’, ‘revelata facie ’, Cor. 3, ‘similes ei erimus ’, reformata imagine per gratiam. [...] Imago ad naturam pertinet in qua ‘pertransit ho m o’, eti am pe cc an do , sim ih tu do ad gr ati am pe r qu am re fo rm atu r imago, ut appareat. ’

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