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蚕録 06-07 1 1

【06-07】赤城山西麓の蚕村=昭和村

赤城山北西麓とは利根郡昭和村、沼田市の片品川中上流域の右岸、つまり県道62号線沿線が

このエリアになる。この付近はもともと水田には恵まれない地質であったことと、平地が

少なかったこと、さらには寒冷な地域が多かったこともあって、古くから養蚕業が盛んなエリア

だった。しかし養蚕業が終焉を迎えたとき、このエリアでは作付けの転換に苦労が伴った。

昭和村では河岸段丘の平坦地にコンニャクやレタスを栽培し、何とか養蚕の減少を補ってきた。

さらにはイチゴの栽培、サクランボやリンゴなど果樹にも取り組み、苦痛をともないながらも、

新しい農業に転換してきた。今ではコンニャクは日本一にレタスの栽培も軌道に乗って、

農業収入も回復してきている。しかしすべての農家がコンニャクやレタス、果樹で、成功した

わけではない。零細な農業を強いられている農家も多く、その一方ではリンゴやサクランボ

など寒地性の果樹で成功している農家も少なくはない。だが全国各地の農村と同様、過疎

化と高齢化、そして後継者不足に悩まされている。このエリアは幸いにも関越自動車道が

走り、観光地化への道は開かれている。とはいえ、観光資源に恵まれているわけではない。

筆者はこの養蚕農家の屋敷郡を何とか観光資源の一つに加えることは出来ないものかと考えて

いる。だが昭和村のお年寄りに蚕屋敷はどの辺に残されているのか質したところ、この老婆は

「そんなモノは昔の話で、今は残っていない」との返事だった。知っていて言わなかった

のか、それとも本当に知らなかったのか・・・。昭和村ではこの間『日本の一番美しい村』

に加盟した。だが、住民意識の中にそうした認識は極めて乏しい。廃材を山のように積んで

いる建築業者や、農業廃材においてもその処分への取り組みが、他村より大きく進捗している

わけではない。住民意識不在のまま『美しい村』に変貌させることは難しい。まず教育改革

から美しい村への取り組みがなされなければ、これは本末転倒と言うことになるだろう。

筆者は町役場の企画課で、蚕屋敷の話をしてみると、多くは貝野瀬地区に残されているとの

情報を得て、早速そちらに向かった。老婆は一体何を考えていたのか。貝野瀬地区にはかなり

老朽化しているものの、様々なタイプの蚕屋敷が林立していた。ファインダーが蚕屋敷で

満たされることさえあった。老婆は蚕屋敷をいわば昭和村の近代化からの立ち遅れとして恥ず

べきこととでも思っていたのだろうか。

筆者には複雑な都市と農村の発想の違いが思い浮かんで

いた。かつて福島県の白河の隣にあった大信村(現在は白河市と合併)に、しばらく滞在した

ことがあった。地元民は、筆者を快く歓迎してくれたが、その裏には東京コンポレックス、

東京志向が根強く存在するように感じられた。村の近代化こそが、村の誇りで、東京との

格差は村の恥と考えているようなところを、しばしば感じ取ったのである。それからすでに15

年が経つ。村の意識も東京コンポレックスも大いに変化しただろう。高速道路や新幹線が通じて、

自動車が普及して、関東一円の農村は東京まで日帰りできる。ウオシュレットのトイレも

普通になったし、キッチンも風呂場も東京と何ら変わりない。

しかしどの農村へ行っても感

じられることは、もっと自村の歴史や遺跡に興味と誇りを持って欲しいものだと思ったことである。

自分たちが生まれ育った町に誇りを持ってこそ、観光資源として生かされ、人口の流出にも

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歯止めがかかる。村役場で貰った観光地図にしたところで、県道などのナンバーは記載されて

いない。単なるイラストマップで重要な情報が抜けている。東京からやって来るお客さんが、

リンゴ畑やサクランボ畑、あるいは温泉にしか行かないと勘違いしているのではあるまいか。

筆者は都会にないものすべてが、観光資源の端緒にあるものと考えている。桜やチューリップ

の見事な公園もいいだろう。だがもっとコストのかからない既存の施設なり自然の景観を

利用すべきではなかろうか。そして何処の市町村にも言えることだが、マップの文字があまり

小さくて、老眼鏡なしには見えない。観光者は若者ばかりではない。最近ではむしろリタイア

して暇をもてあました老人の方がよほど多い。そうした東京事情ならぬ日本事情を何処の

村がいち早く読み取って、自村へと反映させてゆくか。こちらの方が今では優先課題の

ように見える。それともう一つ、道路標識の案内があまりにも杜撰で、目的地までなかなか

行けず、遠回りさせられることも多い。特に県道以下の小さな道への入り口がわかりにくい。

行く先の他に現在地と道路の名称を小さい道ほど、はっきりと表示すべきであろう。村の近代化

の優先課題はこうしたインフラを如何に整備してゆけるか、そこにかかっているような気が

してならない。大事なことは一度自分の立場を捨てて、観光客やご老人の立場に置き換えて、

いかに改革すべきか、を考えてみることであろう。ベンチを一つ置くにしても道標を作るに

しても、常に休憩者や運転者、歩行者の立場に立って、いわば異邦人になって、考えること

が重要なのである。しかも現代社会では高齢者の増加等から、段差や、障害物のない『バリア

フリー』が求められている。村の近代化にはこうした未来的な発想も必要になってくる

だろう。地方公務員がやることは多い。長時間残業の批判が高まる一方で、9時出社、5時

帰宅制度こそ問題なのである。新しいアニメも新しいコンピュータソフトも東京から生まれ

て来る。コンピュータソフトの制作会社で9時~5時勤務の会社などありえない。すべての

歴史もすべての文化もすべての発明も、すぐれた個人のカレンダーも休日もない生活から

生まれてくる。すべての発想を逆転させて新しいものの価値よりも古いものの価値を認める

ことを考えてはいかがだろうか。新しい物は金さえ払えばすぐにでも手に入る。だが古い物は

金で手にいれることは出来ない。千年桜しかり、ブナの森しかり、京都の町並みしかり、

古都奈良の風情しかりなのである。ここらで村に残る蚕屋敷も取り壊して新しくするよりも、

改築して残すことを考えるベきではないかと思う。あの独特な屋根のデザインは、日本人が

古くから心の奥に抱いていた故郷のような哀愁が漂い、♪うさぎ追いしあの山、こぶな釣りし

あの川♪の歌がよみがえる。今、何が必要かを見ることも大事だろうが、100年後何が貴重に

なって来るかを念頭に、村を見つめ直すべきではないだろうか。日本人はとかく右の人は

左側の隣人と同じことをしたがり、左の人も同様で、一人独壇的に行うことを嫌う。行政に

携わる人間は、業者のプレゼンテーションをそっくり受け入れる習慣を捨てて、業者の思い

違いや大いなる勘違いを如何に見つけて、町の発展に役立てるか。問題はこうした細かい点に

配慮の欠けた行政に責任がありはしないだろうか。今こそ、問題が起こってから動き出す行政を

捨てて、問題点を事前に見つけ出し、町の活性化を促す行政を目指して欲しいものである。

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関越自動車道の昭和インターを下りるとまず飛び込んできたのはこの一コマであった。

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蚕録 06-07 4 4 米作に恵まれなかったこの地では、昔から養蚕が盛んで、今もその遺構があちこちに残る。 左側の黒い屋根の家、その隣テマエの赤い屋根、そして突き出した青い屋根、その右手の赤い 屋根、こんなに狭い視野の中にも、4軒の蚕屋敷を見ることが出来る。これこそ観光資源の材料だろう。 村役場について真っ先にこの村で、蚕屋敷の多い所を尋ねてみた。そして5分と経たぬ内に たどり着いたのがこの家だった。驚いたことにブリキ屋根の蚕屋敷だった。

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こちらはその隣の家で、このあたりでは最も大きな蚕屋敷だそうだが、これもブリキ屋根である。

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次に驚かされたのはこの家だった。今までに見たことのない形をしており、屋根を赤く塗っていた。

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よく手入れされており、県道251号線に沿って5棟ほど建てられていた。

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しばらく歩くとブリキ屋根の変わったスタイルの蚕屋敷に出会った。話には聞いていたが これが榛名型と言われる蚕屋敷の姿らしいが、榛名山周辺では見たことがなかった。

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このあたりは蚕屋敷の集中地帯であるが、村役場から徒歩10分程度の市街の中央付近である。

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蚕録 06-07 1 0 10 珍しくも今まで見慣れた高窓スタイルの蚕屋敷があった。かなり大きな家のようだ。 背景の丘の上に展開する住宅街は沼田市郊外で、この間を片品川が流れる。

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蚕録 06-07 1 1 11 こちらの蚕屋敷は素晴らしく腰屋根が大きい。換気性を高め雨風をしのいだのだろうか。 こちらはハイカラな西洋館と、高窓一つの蚕屋敷がまるでセットのように並んでいた。

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蚕録 06-07 1 2 12 高窓生活を廃業して建築関係の工事会社を始めたらしい。建築機械がたくさん並んでいた。 昭和村には高窓一つの蚕屋敷が意外と多く、これが半ばスタンダードのようだ。

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蚕録 06-07 1 3 13 こちらも同様である。間口は7間程度だから中規模である。冬の寒さのためかもしれない。 昭和村の最も典型的な景色は、古い蚕ハウスと最近そこここ目立ち始めたハイカラハウスと、 それにはるか遠方の高台に聳える沼田の住宅街の景観かもしれない。

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蚕録 06-07 1 4 14 珍しく土蔵が着いた榛名型の蚕屋敷があった。かなり大きな榛名形である。 関越自動車道が昭和村をまたぎ、その下にはこんな真っ赤な屋根の蚕ハウスがあった。

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蚕録 06-07 1 5 15 こちらの家も高窓一つのスタンダードである。中央のミドリの木の枝の先、濡れ縁によく 吼える茶色のワンちゃんが居たので、「オスワリ」と声をかけると、神妙にオスワリしてくれた。 こちらは昭和村でも屈指の蚕屋敷だった。折から沈丁花の花が季節の香りを届けてくれた。

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蚕録 06-07 1 6 16 大きな腰屋根である。ここ昭和村ではむしろこの程度の腰ハウスが標準のようだった。 望遠レンズで撮影したわけではない。むしろ標準程度で撮影してもこれだけ住宅が密集する。

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蚕録 06-07 1 7 17 昭和村の屋根を見るとデザイン的に凝った家が多い。両側2軒とも屋根にストライプを入れている。 そして県道251号線に沿って真っ白な土蔵が続く。これを観光資源に出来ないのだろうか。

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蚕録 06-07 1 8 18 どっちを向いても蚕屋敷。これだけ多くのタイプを見ることが出来るのは昭和村ぐらいだろう。 県道251号線沿いで見つけた『榛名型』の蚕屋敷だが、この片品川流域に多く見られるところ から、筆者はこのタイプを『赤城山西型』と呼ぶべきと思った。これは北側の屋根である。

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蚕録 06-07 1 9 19 昭和村は片品川の深い谷間に出来た村である。河岸段丘の高台を走る関越自動車道が、 まるで村をまたぐように一気に沼田まで走りぬける。そして静かな村は今日も快晴である。 県道251号線は昭和村の幹線道路で、沼田側の県道62号線も村を縦断する。県道にそって土蔵が多い。

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蚕録 06-07 2 0 20 昭和村にはそこここで、新しいハイカラな家と高窓のある蚕屋敷が混在して、新旧ハイブリッドである。 昭和村の養蚕業の中心地はこの貝野瀬地区である。さすがに蚕屋敷も住宅もクラシックなスタイルである。

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昭和村の糸井地区と貝野瀬地区の境界付近である。この辺りが最も蚕屋敷が多い。

昭和村は蚕屋敷の宝庫だと何かで読んだことがあったが、実際そのとおりだった。

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蚕録 06-07 2 2 22 赤い帽子を被った2体のお地蔵様が、蚕屋敷を見つめていた。まるで我々の旅姿そのものだった。 昭和村の蚕屋敷密集地である。後方丘陵の上には沼田市の戸神山(772m)が見えている。

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蚕録 06-07 2 3 23 形状の異なった蚕屋敷が4通りある。とかく地方は同じ形式が連続するケースが多い。ところがこの 昭和村では同じタイプが連なる景観にはついぞお目にかからなかった。自由を尊ぶ傾向があるのだろう。 近景の3軒をアップして見ても、そのことは理解できる。各戸の工夫が家の形に生かされているのだろう。

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蚕録 06-07 2 4 24 一番奥のもう一軒をアップしてみると、これは赤い屋根同士ほとんど同じ形状だった。 屋根の青い家をアップしてみると榛名型では珍しく南西が入母屋になった兜造りだった。

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蚕録 06-07 2 5 25 この蚕屋敷集中地区を過ぎると、あちこちにかなり大きな屋敷が点在するようになった。 路地の奥にも榛名型の蚕屋敷が見える。ここも棟に乗った屋根がやたらと大きかった。

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蚕録 06-07 2 6 26 しばらく行くと、懐かしい埼玉県深谷付近で見慣れた高窓式の蚕屋敷があって、なぜかほっとした。 しかしこの家は農業を諦めて、建築関係の仕事を始めているようだった。

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蚕録 06-07 2 7 27 昭和村の屋根はほとんどがブリキであるが、茅葺をブリキで覆った様子はない。養蚕業の歴史が浅く、 ブリキ屋根は当初からのものかもしれない。ちなみにブリキの歴史は古く世界的には13世紀に遡る。 とはいえ筆者にとっては高窓の蚕屋敷が一番美しいと思う。ことに高窓が3つ以上あると心が踊る。

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蚕録 06-07 2 9 29 しかし相変わらず屋敷の形式は様々で、昭和村は蚕屋敷の展示場のように感じた。 貝野瀬地区の奥で出会った大きな家である。豪壮な蚕屋敷といった方がよいかもしれない。

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蚕録 06-07 3 0 30 そんな屋敷には彼岸枝垂が咲き揃い、春風はそっと花びらをどこかへ連れ去って行った。 こちらが最も典型的な筆者が言う所の『赤城山西型』の蚕屋敷である。しかしこれを榛名型というらしい。

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蚕録 06-07 3 1 31 これも立派な蚕屋敷である。束柱をふんだんに用いてでデザイン的にも美しく仕上げている。 これも典型的な『榛名型』の蚕屋敷だが、こちらが南で、左の西側が入母屋になっている。

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蚕録 06-07 3 2 32 こちらは榛名型とは異なる造りである。屋根のどこを探しても狭間(サマ)がない。これは いわば単なる寄棟作りのブリキ葺き蚕屋敷で、屋根には榛名型に多い棟窓が乗っている。 これも新方式で、腰屋根の上に2本の煙突を設けている。それなりの意味があったのだろう。

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蚕録 06-07 3 3 33 高台にそびえる『榛名型』蚕屋敷である。隣接して最近の住宅が建てられていた。 この昭和村では腰屋根の蚕屋敷もかなり多い。だがその屋根はやたらと大い。これを従来どおり 腰屋根と呼ぶには違和感がある。そこで筆者はこれを『棟屋根』(ムネヤネ)と呼ぶことにした。

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蚕録 06-07 3 4 34 これを高窓と呼ぶにもいささか抵抗がある。かと言って腰屋根でもなかろう。そこで筆者はこれを 『棟窓』(ムネマド)と呼ぶことにした。建物の屋根構造を調べても、特に記載がなかったからである。 こちらも『榛名型』であるが、開口部が北側にある。『榛名型』の形状は実に多彩である。

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蚕録 06-07 3 5 35 『榛名型』の蚕屋敷と高窓型を連結したような住宅と出会った。昭和村の発想は実に多様である。 こちら側がその正面である。その理由はさておき、ここに『昭和村魂』があるような気がした。

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蚕録 06-07 3 6 36 こちら側は拡大すると、高窓式の蚕屋敷と変わらない形式になっていた。 これは蚕屋敷ではない。おそらく最近蚕屋敷のデザインを模して建設したものだろう。

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蚕録 06-07 3 7 37 昭和村の各家に桜は乏しかったが、ここには『紅彼岸枝垂』が見事な花をつけていた。 遠くに高速道が見える。しかしここには我々が高速道からは知ることのできない暮らしがあり、 歴史がある。自由闊達で、人真似をしない個人の生き様を主張した文化が、ここにはあった。

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蚕録 06-07 3 8 38 安らかな毎日の生活を約束するかのように、オイナリ様が村人たちへ心を配り、桜はそれに応えて 満開に咲いていた。昭和村には都市部とは異なった独自性に富んだ平安があるのだと思えた。 そしてこの鳥居の笠木こそが『榛名型』の原点だったのかもしれないことを再認識した。榛名型 の棟木にそっくりな形をしている。だとするならこの『榛名型』を今後は正式に認めることにしよう。

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蚕録 06-07 3 9 39 山裾に見つけた寺院のような榛名型の蚕屋敷である。昭和村の蚕屋敷はとにかくデザインが美しい。 ここが我々と昭和村との別れの場所となった。我々は県道62号線にそって沼田に向かう。そして村は 桜とも別れを告げようとしていた。春は紅彼岸枝垂から染井吉野に塗り変えて、北へと向かう。【続く】

参照

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