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Title アンネマリー シュヴァルツェンバハにおける反ナチス : エーリカ クラウス マン そして山との関係 Author(s) 武田, 良材 Citation 研究報告 (2008), 22: Issue Date URL

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Title

アンネマリー・シュヴァルツェンバハにおける反ナチス :

エーリカ、クラウス・マン、そして山との関係

Author(s)

武田, 良材

Citation

研究報告 (2008), 22: 91-111

Issue Date

2008-12

URL

http://hdl.handle.net/2433/134494

Right

Type

Departmental Bulletin Paper

Textversion

publisher

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ア ン ネ マ リ ー ・シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ン バ ハ に お け る 反 ナ チ ス ― エ ー リ カ 、 ク ラ ウ ス ・マ ン 、 そ し て 山 と の 関 係 ― 武 田 良 材 1.エ ン ガ ー デ ィ ン の 闘 士 1944年7月20日 、軍 人 た ち の 実 行 した 、総 統 ア ドル フ ・ヒ トラー を 爆殺 して クー デ ター を起 こす 計 画 が失 敗 に 終 っ た 、 数 あ る ヒ トラー 暗 殺 計 画 の な かで 最 も有 名 な この7月20日 事 件 で、 元 帥 、大 将 含 め お よそ 千 五 百 名 が 逮 捕 され 、そ の 内 お よそ 二 百名 が処 刑 され た 。処 刑 され た 一 人 、 ア ル ブ レ ヒ ト ・ハ ウス ホ ー フ ァー の 遺 体 か ら、拘 留 中に 書 か れ た一 片 の 詩 が 見 つ か っ て い る。刑 務 所 の名 前 を 取 って 「モ ア ビー ト ・ソネ ッ ト」 と題 され たそ れ の 後 半 を紹 介 す る。 そ して君 は 夢 の 中 で ぼ く を確 か め る。 夢 の 中 で は 、 も う痛 く も 悲 し くも な か っ た。 君 は うなず い て 、囁 く。 も う治 った? ぼ くは静 か に 横 に な っ て い る。 静寂 の 中で'L臓 が 鼓 動 す る。 残 っ て い る 一 感 謝 の 気 持 ち が 。 そ の 感 謝 は き っ と エ ン ガー デ ィ ン に あ る君 の墓 か ら引 き 出 され て い る。1 エ ン ガー デ ィ ン とは ス イ ス 東 部 、ベ ル ニナ ・ア ル プ ス麓 のサ ンモ リ ッツ の 町 を含 む 大 きな 谷 で 、 「君 」 は この 谷 を拠 点に し、 先 に こ の 世 を 去 つ て い た 作 家 ・フ ォ トジ ャ ーナ リス トの ア ンネ マ リ ー ・シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ(1908-1942)を 指 す。 地 理 学 者 ハ ウ ス ホ ー フ ァー は か つ て シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ との 結 婚 を望 み 、1929年 に も詩 を贈 つた こ とが知 られ てい る が 、 友 だ ち付 き合

1Georgiadou , Aren: Das Leben zerfetzt sich mir in tausend St ke"Armemanze Schwarzenbach. Eine Biographie. M chen 1998,5.102.

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い を超 え る こ とは な か つ た。2拘 留 され 、暴 行 を 受 け 、銃 殺 を 待 つ 境 遇 に置 か れ た彼 が 、 恋 人 で も親 友 で もな か つ た こ の 女 性 を想 つ た の は 、彼 女 が 印 象 深 い 反 ナ チ ス の 闘 士 だ った か らで は な い だ ろ うか。彼 が こ こで彼 女 の 代 名詞 に用 い た エ ン ガ ー デ ィ ン を 絡 め て 、す な わ ち 山 との 関 わ りに 注 目 して 、反 ナ チ ス 作 家 ア ン ネ マ リー ・シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 人 物 像 を浮 き彫 りにす るの が 本 稿 の課 題 で あ る。 この よ うな課 題 を設 定す る理 由 は 、後 世 の彼 女 につ い て の評 価 が 低 か った こ と に あ る。 トー マ ス ・マ ン とそ の子 ども た ちエ ー リカ 、 ク ラ ウス らが彼 女 を愛 した の で 、知 名度 こそ あ れ 、彼 女 の 果 た した役 割 に つ い て よ く知 られ て い るの は、 ク ラ ウ ス ・マ ン の 亡命 雑 誌 「集 合(Sairsrnlungj J の 出 資 者 で あ っ た こと 、 「胡 椒 挽 き 」 事 件β の原 因 とな つ た こ との 二 点 く らい で あ る。 後 者 は 彼 女 が 直接 関 与 して い な い の で 評 価 と関 わ りがな く 、前 者 につ い て は 金 持 ちの 道 楽 と理 解 して い る 人 が 多 い だ ろ う。そ の 通 りの 認 識 で な か っ た と して も、片 手 間 に手 伝 っ た 程 度 と考 え る こ とが す で に彼 女 を過 少 言剰面して い る こ とに な る。 云 縮,謄 「集 合 」 は 商 業 的 に 失 敗 した と はい え 、亡 命 者 に 表 現 の 場 と原 稿 料 を 提 供 し、隔 月 で 発 行 され る一 万 部 が毎 号 四 日足 らず で 売 り切 れ た 、 亡 命 文 学 を 語 る 上 で 最 も重 要 な 雑 誌 で あ る。 そ の発 案 者 は 実 は クラ ウス ・マ ン で も、 出版 人 ブ リ ッ ツ ・ラ ン ツ ホ フで もな い。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 親 友 クmド ・ブル デ ュが 着 想 し、シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は独 仏 両 語 併 記 に した い と構 想 を膨 らませ 、そ の 計 画 を 聞 い た マ ンが 乗 り気 に な つ て 実 現 した とい う経 緯 が あ っ た。 シ ュ ヴ ァ ル ツ エ ンバ ハ は フ ラ ン ス語 の 出 版 社 を確 保 す るた め努 力 した が 徒 労 に終 わ り、ラ ン ツ ホ フが 共 同 出 資者 で あ るオ ラ ンダ の ク ウ ェー リ ド社 か ら ドイ ツ語 の み で 出版 され た。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 親 は 大 富 豪 だ った が 、 とも あれ 「集 合 」 に 出 資 す る た め に 彼 女 は 稼 が ね ば な らな か っ た。 そ れ ば か りか 両 親 はナ チ ス の支 援 者 で 、 「集 合 」 の 計 画 を 聞 い た 父 親 は 「ナ チ ス に 協 力 す る よ うに 」 と書 き送 って きた。 つ ま り彼 女 の反 ナ チ ス活 動 は 、金 持 ちの 道 楽 な どで な く、主 体 的 な もの だ っ た 。 亡 命 文 学 研 究 の 側 か ら見 た と きの 彼 女 の魅 力 は そ の 社 会 参 加 に あ る 。 ア ンネ マ リー ・シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ 個 人 の魅 力 は 語 り尽 くせ な い。 少 年 を 思 わ せ る容 姿 、詩 情 あ ふ れ る文 章 、 富豪 令 嬢 の 自 由 奔 放 さ、 政 治 参 加 、 同性 愛 、 麻 薬 中 毒 、 自分 探 し、 ア メ リカ 、

2Miermont , Do血que Laure:Annemazze Schwarzenbach. EFrie befl elte Ungeduld( ersetzt V. Susanne WiLtek)Z ich 2008, S.54ff.

3「 胡柵 免き」事件 にっい ては トーマス ・マ ンが1934年11月17日 の 日記に詳 しく記 してい るので そ こそ こ 知 られている。 ただ し注釈 を含 む邦訳 の 清報は、共産主義 者 とみ な され たエー リカ ・マ ンへ の右翼組 織に よ る攻 撃 とい う表 立つた面のみであ り、シ ュヴァル ツェンバハ 家が嘘 の レッテル を貼つてまで特 にエ ー リカを 目の敵に した理 由、すな わちアンネマ リー ・シュヴァル ツヱンバ 八 とこの事 件の関わ りについて は説 明 され ていない。 そのため 日記 のこの箇所 を読んで も事件 の こ とは不可 解である。真 相については後述 する。 トー マ ス ・マン 『トー マス ・マン 日記1933-1934』(岩 田行 一 他 訳)紀 伊國 屋書店1985年 、592-593頁 』 -92一

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ソ連 、イ ス ラ エル 、 イ ラ ク 、イ ラ ン、 ア フ ガニ ス タ ン、 イ ン ド、 ア フ リカ へ の 旅 、 それ も しば し ば 自 ら車 を運 転 し、テ ン トに寝 泊 ま り しな が らの 冒険 これ ほ ど多 彩 に 魅 力 を放 つ 人物 は稀 で は な いだ ろ うか 、少 な く と も ドイ ツ 文 学 研 究 の対 象 と して は 、 シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ は 際 立 つ た 特 権 階 級 に 属 して い た 。父 親 は ス イ ス で も有 数 の 資本 家 、母 方祖 父 は 第一 次 世 界 大 戦 時 の ス イ ス 陸 軍 大 将 、母 方 祖 母 は 鉄 血宰 相 ビ ス マル ク の従 姉妹 、両 親 の サ ロ ン に ゲ ー ア ハ ル ト ・ハ ウプ トマ ン 、 リ ヒャル ト ・シ ュ トラ ウス 、 ヴ ィル ヘ ルム ・フル トヴェ ン グ ラ ー 、 アル ト ゥー ロ ・トス カ ニ ー 二 、 ブル ー ノ ・ヴ ァル ター 、 ヴ ィルヘ ル ム ・バ ックハ ウス とい つ た 鬼 才 た ち が 訪 れ る文 化 的環 境 に 育 つた 。成 績 が よ く 、チ ュー リ ヒ大 学 博士 号 を取 得 して い る。 フ ラ ンス の 外 交 官 と結 婚 した が 、 夫 婦 そ ろ って 同性 愛 者 で、 お 互 い を束 縛 せ ず に済 ん だ 、 家 柄 と莫 大 な 資 産 、 高 い 教 養 と優 秀 な頭 脳 と鋭 い 感 受性 、文 才 とピア ノ演 奏 とダ ンス の 才 能 、外 交 官 特 権 、 自由 、 さ らに 美 貌 ま で 彼 女 は備 えて い た 。 しか し、幸 せ な 人 生 を 謳 歌 す る に 十 分過 ぎ る これ らの 特 権 を 、彼 女 は ナ チ ス との 闘 い に注 ぎ込 み 、 疲 れ 切 り、 心 身 を 荒 廃 させ た 末 に 、34歳 で この世 を 去 つて い る。 何 を考 えそ の よ うに生 き た の か 、 それ を 知 りた い と思 う人 は 少 な く ない 。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 反 ナ チ ス 性 につ いて はA聡 廿Geo噛adouが す で に1994年 の博 士 論 文 「遊 牧 民 の 逃 路 一 ア ンネ マ リー ・シュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 世 界 一 生 涯 と作 品 研 究 」4で 議 論 を展 開 し、シ ュ ヴ ァル ツ エ ン バハ が 真 剣 に政 治 と向 き合 っ て いた こ と、エ ー リカ 、 ク ラ ウス ・ マ ン姉 弟 との 見 解 の 相 違 か らそ の真 剣 さが 十 分 に 理 解 され な か つた こ と、さ ら に シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 自身 の 理 解 で は ナ チ ス の 影 響 下 か らの脱 出 も ナ チ ス との対 決 だ っ た こ とを解 き 明 か して い る。 こ れ は そ れ ま で 影 響 力 の あ つ たCharles Hnsmayerに よる伝 記 ―1987年 に再 刊 され た シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 長 編 ノ」説 『幸 福 の谷 』 に]Linsmayerが 編 集 者 と して添 え た もの5― で の 金 持 ち の 道 楽 とい うイ メー ジ を 打 破 す る画 期 的 研 究 だ つ 鳥 そ して 再 刊 に値 す る 著 作 は 『幸 福 の 谷 』 だ け と考 えたLinsmayerの 判 断 を否 定す る か の よ うに 、 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 著 作 は次 々 に 出版 され て き た 。近 年 は シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ 家 のAles Schwaxzenbachが 親 族の 強 み を生 か して 、誤 解 され て き た 母 娘 関係 の深 層 を暴 き 出 し、シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 研 究 の 分 野 で

4Georgiadou , A㈹U:Fluchtwege einer Nomadies. Die Welt Annernarze Schwar-enbachc Eine 砺 鱒ucゐ ㎎ 別Lθ 伽 αηゴ駈U㎡ 》ers雌t Fran㎞t(Dissertation)1994.

5T,incmayer , Charles:Leben und Werk Annemarie Schwaエzenbachs. Ein tragisches Kapitel Schweizer Litera加rgeschichte. ln:Schwaxzenbach, Annemarie:刀 馳gl klicke 7'al.伽aη. lllit einem biographischen Na(.hwort von Charles Linsmayer. Frauenfeld 1987, Sl159―224.シュヴァルツ ェンバハ生 誕 百年を機 に、若 干の{鉦 を加 えて単独 で 出版 された 、Linsmaye靖Chafles=14㎜ ㎜ 餌b 5励 照㎜ 加c血 Ein Kapitel tragische Schweizerliteraturgeschichte. Frauenfeld 200$.

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最 も影 響 力 あ る 研 究 者 と な っ て い る。6他 方 で 、 ク ラ ウ ス ・マ ン 研 究 者 で も あ る ス イ ス ・フ ラ ン ス 語 圏 のDominique Miermont(G1℃nte)は1989年 と2004年 に 伝 記 を 出 版 し 、7Alus Schwaxzenba(;hよ り も 客 観 的 な シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ン バ ハ 像 を 提 示 して い る 。 以 上 の よ う に シ ュ ヴ ァル ツ ェ ン バ ハ 研 究 は最 近 二 十 年 ほ ど で急 激 に 発 展 し て き た 。82008年5 月 を も つ て 生 誕 百 年 を 迎 え た 今 、現 在 の シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ン バ ハ 像 を ま と め る 作 業 が 必 要 で あ ろ う。 し か し従 来 の 研 究 に は 欠 落 が あ る。 こ の 間 の パ レ ス チ ナ 問 題 や ア フ ガ ニ ス タ ン 戦 争 、 イ ラ ン ・イ ラ ク 戦 争 、湾 岸 戦 争 、今 世 紀 の 対 テ ロ 戦 争 を 背 景 に セ ン セ ー シ ョ ナ ル な 中 東 に 研 究 者 の 注 目 が 集 ま り 、そ の 他 の 地 域 で の 彼 女 の 活 動 と 彼 女 の 思 想 と の 連 関 を 解 き 明 か す こ と は 疎 か に され が ち で 、 山 と の 関 わ り も 具 体 的 な 事 実 が 紹 介 さ れ る ば か り だ つ た 、本 稿 で は 彼 女 の 反 ナ チ ス の あ り方 を 理 解 す る 一 っ の ア プ ロー チ と し て 、エ ン ガ ー デ ィ ン 谷 な ど 、山 の 果 した 役 割 を 考 え る 。と い うの も 、 彼 女 は ワ ン ダ ー フ ォ ー クシレで 撚 …精 神 を 培 い 、エ ン ガ ー デ ィ ン 谷 の シ ル ス に 反 ナ チ ス の 仲 間 た ち が 休 暇 を 過 ご す 「猟 師 の 家(J臠erhaus)」 を 用 意 し 、 自 ら も そ こ で 英 気 を 養 つ て 世 界 へ 飛 び 出 た わ け で 、 山 は 反 ナ チ ス 作 家 と して の 彼 女 の 拠sだ っ た か ら で あ る 。 そ れ に 例 え ば ワ ン ダ ー フ ォ ー ゲ ル と い え ば 日 本 で も1930年 代 に も た ら さ れ た ナ チ ス 時 代 の 遺 物 だ が 、 本 場 ドイ ツ に お い て は 「血 と 土 」 の 思 想 に 容 易 に 搦 め 捕 られ て し ま つ た 負 の 歴 史 を 抱 え て い て 、 ワ ン ダ ー フ ォ ー ゲ ル と ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 結 び 付 き が 本 質 的 で あ る か の よ う な 、筆 者 に と っ て 残 念 な イ メ ー ジ が あ る の だ が 、シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ン バ ハ な らば 逆 に ワ ン ダ ー フ ォ ー ゲ ル と反 フ ァ シ ズ ム の 関 わ り の あ り様 を 教 え て く れ る だ ろ う。 2.美 しい 人 sAlus Schwarzenbachの 著 した 次 の 伝 記 は 今 後 の シ ュ ヴァ ル ツ ェ ン バ ハ 研 究 で、最 も重 要 な 資 料 とな る に 違 い な い 。Schwarzenba(江Ale》ds:Auf der Schwelle des Fremden.伽Leben der Annemarie Sehwalzenba(.h M chen 2008。 「誤 解 され て きた 母 娘 関 係 」 とは 、 例 え ば 母親 が娘 の 厨 性愛 傾 向 を抑 え よ う と、また は隠 そ う と必死 にな り、そ れ を巡 る母 娘 の対 立が あ つた とい うよ うな解 釈>Alus Schwarzenbach

は母 親 自身 が 隠 し立 て しな い 同 性愛 者 で 、母 娘 は 強 い 愛 庸 で結 ば れ て い た こ と を 明 らか に して い る。 後 述 す る よ うに 、 強 く 愛 し合 うが ゆ え に葛 藤 が 生 じ た の で あ る 。 こ の 件 に っ い て は 次 の 論 文 を 参 照 の こ と。 Schwaizenbach, Alexis:。Der Anfang aller Dixige``. A皿iemarie Schwarzenb臘h und it皿e Mutter Renee Schwaraenbach-Wille. hi:F臧nders, Walter/Rohr Sabine iHrsg.):Annemarie Schwarzenbach. Analysen undErstdrucke. Mit einerSchwarzenbachBibliographie. Bielefeld 2005,5.21-43.

7Grente , Domitrique/M ler, Nioo】e:五卸 加 α㎜ 轍Une blographie dAnnerrlarie Schwatzenbach. Paris 1989. Miermont, D minique Laure Annemarie Schwarzenbach ou le mal de lEurope. Biographie. Paris 2004.後 者 はA】QXIS S(,hwarzenbachの 伝 記 に 図版 の 豊 富 さ で及 ば な い も の の 、 内 容 の 充 実 度 は 勝 る とも劣 らない 。

eAisthesis社 が 註6のF臧nders/Rohlf(2005)か ら間 を 置 か ず 再 び シ ュ ヴ ァル ツ ェ ン バ ハ論 集 を編 ん だ こ と が シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 論 の 盛 り上 が りを 象 徴 して い るだ ろ う。D㏄odらSofie/Schaffens, Uta(Eirsg.): inside out Textorienk'erte Erkundungen des Werks uonAnnemarie Schwan-aerlbaclz Bielefeld 2008.

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シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ とい え ば 、まず そ の容 姿 が 目を 引 く。 『チ ボ ー 家 の人 々 』の 作 者 ロジ エ ・ マ ル タ ン ・デ ュ ・ガー ル が1932年 の 『ア フ リカ 秘 話』 に 「ア ンネ マ リー ・シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ に捧 げ る 、あ な た が慰 め が た い 天 使 の麗 しい顔 で この地 上 を さま よ つ てお られ る こ とに4鮏謝を 込 め て 」 とい う献 辞 を添 え て 彼 女 に 贈 つた こ とは 、 ク ラ ウス ・マ ン の 自伝 『転 回 点』(第 七 章) で紹 介 され た こ とか ら有 名 な逸 話 で あ る。こ の美 し さは シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 研 究 の 動 因 と もな っ て き た。 1987年 の シ ュ ヴ ァル ツ ェ ン バ ハ 再 発 見 を 受 け て 書 か れ た 最 初 の 伝 記 、NiODIe M ler、 Dominique Grente共 著 の 『慰 め が た い 天使 一 ア ンネ マ リー ・シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ の安 らぎ の な い 生涯 』(1989)は 、 「始 ま りは...写 真 で した。」 とい う印象 的 な書 き 出 しで 、1987年 春 の 「アル ター ク(Alltag)」 誌 の 表 紙 を飾 つた シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 顔 に 心 奪 わ れ た こ とか ら 語 り始 め る。 こ の 写真 は抗 い が た く惹 き 付 け、 注 意 を 引 き 、 問 い を呼 び 起 こ し、 要 す る に、 信 じ られ な い魅 力 を放 ちま した。 誰 かが 写 真 を 強 奪 し よ うと本 屋 の シ ョー ウ ィ ン ドウ を打 ち割 つ た とか 。 あ り得 まYoい ず れ に せ よ写 真 が 私 た ち を 強奪 した の で した。 とに か く こ の写 真 を 見 て 下 さい!一 体 ど う して、こ の繊 細 に造 形 され た顔 の独 特 な 美 し さ と、 眼 差 しか ら放 たれ る計 り知 れ ない 哀 しみ とか ら逃 れ られ る で し ょ うか!9 熱 狂調 が ま だ 続 くが割 愛 す る。 この 写 真 とい うの は 写真 家 マ リア ン ネ ・ブ レス ラ オ アー が撮 影 した も の で 、Areti Georgiadouの 前 述 の 博 士 論 文 は、こ の写 真l彼 女 自身 に とつ て は再 刊 され た 小 説 『幸 福 の 谷 』 の表 紙 写 真 一 が ブ レス ラオ ア ー に よ っ て 撮影 され た状 況 を解 明す る と こ ろ か ら話 を始 め る 。 こ の論 文 に は 対 談 が ち りば め られ て いて 、そ れが シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ の人 柄 を巧 み に浮 き 上 が らせ る の だ が 、ブ レス ラ オ アー の話 題 の前 に 挿入 され た マル ゴ ・フ ォ ン ・オ ペ ル10と の 対 談 で は 写 真 の魅 力 が 強 調 され て い る。 A.G.:ど う して 私 が 彼 女 に つ い て書 くの か と、質 問 され た こ とが あ りま す よね? M.vO.:え え 。 AG.:こ の 写 真 を 見 て 、 これ が とって も素 敵 だ と思 つ た ん Yo

gM ler , Nicole l Gren艶, Do面qqe:Der unitristliche囲 。伽ruhelose Leben der Annemarie Schwazzenbach(ワbersetzt v Eliane Haltedorn/Barbara ReitaJ M chen 1995,5.7.

10晩 年 のシュ ヴァル ツェンバ ハ と親 しか った人物 、夫は 自動車会 仕 オペルの創業 者の孫 で、 「ロケ ット・ブ リ ッツ」の異名 を持 つブ リッツ ・フォ ン ・オペ ル6プ リッツは持株 の全てをGM#tに 譲 渡 して亡命 した。 -95一

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MvO.:あ ら、 ど う して?11 シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ の弟 ハ ン ス(ハ ズ ィ)の 孫 で あ るAlexis Schwarzenba(;hは 、写 真 集 『ル ネ ・シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ=ヴ ィ レ ー 説 明文 付 写 真 集 』(2005)の 編 集後 記 に こ う記 す 。 写 真 を見 て 、私 は13歳 の 大 伯 母 ア ン ネ マ リー の 顔 に 魅 了 され て しま つ た の です 。 お よ そ15歳 の とき に初 めて そ の写 真 を 見 て 、 ま さ に そ の と き 、彼 女 のf稼 、 ジ ャ ー ナ リス トそ して 写真 家 と して の 業 績 を 再 発 見 しま した 。 他 の 多 くの 人 た ち と同様 、 私 も ア ン ネマ リー の息 を呑 む ほ どの 美 し さの 虜 とな りま した 、 私 は彼 女 と写 真 の 中 の別 の 人 物 た ち とを繰 り返 し見 較 べ ま した。 彼 女 の 母 親 ル ネ 、弟 フ レデ ィ とハ ズ ィ、 姉 ズ ツ ァ ンネ 、 それ に従 姉妹 グ ン ダ レナ と。 こん な に も美 しい 人 が こ の 家 族に 現 われ よ うが あ る とい うの が不 可解 で した。12 見 る人 に こ う も衝 撃を与 え る の は 単 な る美 し さで は な い 。女 と も男 と も違 う曖 昧 な 妖 し さで あ る。そ れ とも う一 つ 。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は レ ンズ に 自然 体 で 向 き 合 うこ とが で き た。 そ れ ら の 秘 密 は彼 女 の 家 庭 に あ る。 3.令 嬢 の生 い 立 ち シ ュ ヴァル ツ エ ンバ ハ の母 親 ル ネ は 家 族 の 写 真 を 撮 つ て ア ル バ ム に ま とめ る の を趣 味 と して い た。 彼 女 は14歳 か ら死 の 直 前 ま で 六 十 年 以 上 に渡 つ て 撮 り続 け 、 アル バ ム に 整 理 され た 写 真 だ けで も一 万枚 を超 え 、16㎜ フ ィル ム も十 時 間分 以 上 残 され て い る。 もち ろ ん そ の 陰 に 、 ア ル バ ム に入 れ られ な か つ た 、 あ るい は プ リ ン トされ な か っ た 写 真 が 存 在 す る。 そ れ だ け の 量 を 1883年 生 まれ の ア マ チ ュ ア が 撮 影 した とい うの は特 筆 す べ き こ とで あ る。 この 女 性の 娘 と して シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ は撮 られ るの に 慣 れ てい た 。彼 女 の 持 つ 雰 囲 気 が 写 真 に そ の ま ま収 ま る こ と、そ れ が彼 女 の 写 真 が 人 々 を魅 了 す る理 由の 一 つ で あ る。 これ だ け写真 に の め り込 め た の だ か ら、ル ネ は 自由 な 人 だ つ た。 さ らに 奔 放 とい う言 葉 を 足 し た 方 が よい 。乗 馬の 腕 もス イ ス代 表 に な る ほ どの 名 手 だ つ た。 ち な み に シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ の 弟 ハ ンス は1960年 ロー マ ・オ リン ピ ッ ク乗 罵団 体 の 銀 メ ダ リス トで あ る。 ル ネ は男 装 を好 み 、 若 い頃 か ら女 性へ の 愛 を公 言 した。 ヴァ ー グナ ー 歌 手 の エ ミー ・ク リュー ガ ー と恋 仲 で 、 そ れ は 不 倫 だ つ たの だ が 、 エ ミー を家 族 の 一 員 と して 扱 わ せ た 。 u Georgiadou X1994), S.1. ―96一

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ル ネ の夫 で 、シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ の 父 親 の ア ル フ レー トは控 え 目な 人 で 、妻 の 不 倫 を容 認 し、 折 に触 れ て新 しい カ メ ラ を プ レゼ ン トして 妻 を喜 ばせ た 。二 人 の間 に は 子 が 五 人 い て 、シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ンバ ハ は 第 三 子 で あ る。 法 学 博 士 の 聡 明 な 父 親 と活 発 で 音楽 好 き の母 親 、そ の 双 方 の 長 所 を取 り込 ん で 、 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は学 問 で も、乗 馬で も 、写真 で も 、 ピア ノや ダ ンス で も非 凡 な 才能 を発 揮 した 。 ま た 、父 親 の 経 済 力 は 巨大 な も ので 、絹 の工 業 家 と してイ タ リア、 フ ラ ン ス 、 ドイ ツ 、ア メ リカ に 工場 を、 ロ ン ドン 、 リヨ ン 、ベ ル リン 、ニ ュ ー ヨー ク、 ミ ラ ノに販 売 店 を展 開 し、 お よそ 一 万 三 千 人 の 従 業 員 を抱 え てい た。 こ の よ うに 恵 まれ て い る シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ を束 縛 した の は、 自 由 を謳 歌す る母 親 だ っ た 。 そ の始 ま りは 早 い 。ノ」・学 校 に通 い 始 め て ほ ん の数 週 間後 に狸 紅 熱 で 臥せ つた 娘 を、そ れ を機 に付 き つ切 りに な つた ル ネ は 、治 癒 後 も虚 弱 を理 由 に 二度 と小 学 校 にや らな か つた。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 姉 ズ ツ ァ ン ネ は 妹 へ の 依 情 贔 屓 を 、母 親 の似 姿(Ebehb且d)だ つ た か ら と説 明す る。13 同性 愛 者 のル ネ に とつ て 、同 じ傾 向 を持 ち 、14外 見 も、や ん ち ゃな 性 格 も少 年 の よ うな 娘 は 愛 し 過 ぎ る対 象 で 、 娘 の 親 離 れ は認 め られ な か つ た。 家 庭教 育 は 実 に14歳 にな る まで 続 い た 。 幸 い そ の 後 ギ ム ナ ジ ウム 卒 業 試 験(1927年 秋 合 格)ま で 学 校 で 学 び 、 ワ ン ダー フ ォー ゲ ル に 参 加 す る こ と も、 同級 生 の 女 の 子 に 恋 す る こ と もで きた。 そ の頃 の寮 生活 な どは処 女 長 編 小説 『ベ ル ン ハ ル トの 友 人 た ち』(1931)に 描 か れ て い る。 大 学 へ は 従 姉 妹 の グ ン ダ レナ と共 に通 っ た。1927年 の 冬 学 期 か ら始 め、 チ ュー リヒで の 二 セ メ ス ター の 後 、 ソル ボ ン ヌ で 二 セ メ ス タ ー を過 ご して15ま た チ ュ ー リヒ に戻 り、 そ の 間 に歴 史 、 文 学 、 哲 学 、 心 理 学 な ど を学 んt す ら り と した176cmの 長 身 に エ レ ガ ン トな服 を ま とい 、立 ち居 振 る舞 い も貴 族 的 、 自分 で 車 を 運 転 して通 学 し、顔 は 性甥 杯 詳 、 とい う学 生 だ つ た か ら、学 生 た ちの 視 線 を集 め 、彼 女 を 「殿 下(lhre k nigliche Hoheit)」 と呼 ぶ 学 生 た ち も いた 。 さ らに 若=F23歳 に して チ ュー リ ヒ大 学 博 士 号 を 得 て 、16そ の 直後 に 処女 長 編 小 説 を出版 す る。 この 驚 異 的 な学 生 が 、 さ ら に 上 を 行 く女 性 と出 会 い 、社 会 の あ り方 に 目を 向 け させ られ る。 そ

の 女 性 と は、 奔 放 な 女 優 工 一 リカ ・マ ン で あ る。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は1930年9月 に ミュ ン

12Schwarzenbac】 馬A】ex蛤(Hrsg.):Renee Schwazzenbach-Wille. BildermitLegenden―Z ich 2005, S.155. ia Geoxgiadou(1998) ,5.35. 141925年 にシュ ヴァル ツェンバハ は女性に しか恋愛感 清を抱けない ことを ワンダー フォーゲル を指導 してい た牧 師エルンス ト・メル ツ に告 白してい る。M ler/Grente(1995), S.39. 15家 か らの解放 を意 味 した が、完全 に 自由ではな く、従姉のグンダ レナ とエ リザベー トの二人が同伴 した。 16異 常 に早 い博 士号取得 と、博 士論文 と同時に処女長編小説 を軸筆 していた事実か ら、富豪 令嬢への優 遇措置 があつたのでは ないか とい う疑 いが生 じて くる。Kurt Wanuerは シュヴァル ツェンバハの行った研 究が先 進 的な もので あ り、そ の論 文が歴史 学の分 野で親 在 もその価1直を失っ ていない ことを報 告してい る。Warmer, Kurt/Breslauer, Marianne:"wo ich」rrlich leichterf le als anderskり`Amzemarre Schwarzenba(カ ロηゴ ihre Zeitin Graubunden. Chur 1998,5.21£

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ヘ ンで エ ー リカ と知 り合 い 、12月 に は そ の弟 ク ラ ウス と も仲 良 くな っ た 。 マ ン姉 弟 は シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ンバ ハ の 兄 ロー ベ ル ト=ウ ル リヒ、姉 ズ ツ ァ ンネ と同 じ年 頃 で 、17マ ン家(母 方 は プ リン グ スハ イ ム家)は 上 流 に属 した し、 さ らに 二人 の 父親 トー マ ス ・マ ン が1929年 に ノー ベ ル 文 学 賞 を受 賞 して い た ので 、金 も名 誉 も あ っ て 、加 え て コス モ ポ リタ ン な 文 学 青 年 と い う傾 向 ま で も 共 通 して い た 。 この こ ろ とい えば 、 ク ラ ウス が ジ ャ ン ・コ ク トー の 『恐 るべ き子 ど もた ち』 を翻 案 した 戯 曲 『兄 弟 姉 妹 』 をエ ー リカ 、 ク ラ ウス 、名 優 グ ス タ フ ・グ リュ ン トゲ ン ス 、パ メ ー ラ ・ ヴェー デ キ ン ト(作 家 フ ラ ン ク ・ヴェー デ キ ン トの娘)の 四 人 で 主 演 した の が こ の年 の11Aの こ とで 、 それ 以 前 の1927年 に エ ー リカ とク ラ ウス は 二 人 で 世 界 一 周 旅 行 を して い た し、 ま た 翌 1931年 にエ ー リカ は リ ッキ ー ・ノ〉レガル テ ン の 挿 絵 で 『シ ュ トッフ ェ ル の飛 行 船 』 を 出版 し、18 さ らに1933年 元 日に はエ ー リカ の劇 団 「胡椒 挽 き」 が 初 公 演 を行 っ て い る。 男 性 中 心 の 社 会 に 強 い反 発 を覚 え る シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ に とっ て エ ー リカ は 、 自 立 して い て 魅 力 的 で強 い 、女 性 の 鑑 だ っ た 、 マ ン家 の人 た ち は 皆 、ナ チ ス を嫌 悪 して い た が 、これ が シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ に とっ て 刺 激 的 だ っ た。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 家 は ブ ル ジ ョア 、 母 方 の ヴ ィ レ家 は軍 人 で 、親 族 は 逆 に ナ チ ス に 好感 を抱 い て い た。 特 に ヴィ レ家 に は 国 を侵 略 か ら守 る使 命 が あ っ て 、脅 威 と友 好 を結 ぼ う と し た。 具体 的 に は1922年11月 にル ドル フ ・ヘ ス が党 へ の 寄 付 を 求 め て チ ュー リ ヒ近 郊 の シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 家 を訪 問 して い る。ヘ ス は 目的 を 達 した に違 い な い。 とい うの も1923年8月 に は 党 首 ヒ トラ ー が チ ュー リヒの ル ネ の 弟 ウル リ ヒ ・ヴ ィ レ を訪 ね て い る。 そ の際 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 家 を 交 え て 会 食 して い るか ら、シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は ヒ トラー と言 葉 を 交 わ した はず で あ る。 ヒ トラー の お 膝 元 ミュ ンヘ ンの マ ン家 が 逆 にナ チ ス へ の 危 機 感 一色 に染 ま つ て い た の は極 端 なま で の 対 比 だ っ た。マ ン家 に感 銘 を受 けた シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ン バ ハ はナ チ ス との 闘 い を 自分 の も の と して 引 き受 けた。 エ ー リカ は あ る時 は 母 とな り、19ま た あ る時 は 姉 と な り、両 親 か ら 自立 す る よ う発 破 を掛 け た。 エ ー リカ か ら見 た シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 欠 点 は 、家 庭 や 自分 自身 の こ とに ば か りか か ず らつ て 政 治 に 目 を向 け られ な い こ とだ つた 。散 漫 で プ ラ イベ ー トな 領 域 に 留 ま る シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の文 学 世 界 を眺 め る 限 り、mそ れ はま っ と うな批 判 だ つ た ろ う。た だ しそ の 文 学 は 占有 し よ うと 17生 まれた年がエー リカは1905年 、クラウス1906年 、ローベル ト=ウ ル リヒ1904年 、ズツ ァンネ1906儀 18エ ー リカ ・マ ン 『シュ トッフェルの飛行船』(若松 宣子 訳 〉岩 波 書店2008年

isシ ュヴァル ツェンバ ハはエー リカ との交際の初 期か ら、手紙の 署名 に 「あなた の子(Dein Kind)」 とい う 表現 をよ く用いた。

20彼 女のノ」説 の雰 囲気 はクラウス ・マンの初 期小説群 のそれに よ く似 てい る。例 えば彼女 の処女長編 『ベルン ハル トの友 人たち』の場 合、マ ンの長編J・説 『敬度 な踊 り』(1925)と の類1以性を指摘で きる。 どち らも芸 術 と同性愛がテーマで、少数 の若 者た ちが散 漫な物 語を展開す る。文 学的 傾 向がよ く似通 っていた こ とがこ .;

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迫 る母 親 か らの 逃 避 の 場 だ つ た 。エ ー リカ か らの働 き か け は 母親 を刺 激 して 過 激 化 させ 、た だ で さ え抑 圧 され た 気 持 ち を必 死 に な つ て発 散 す る必 要 の あ つ た シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ を 、さ らに追 い 詰 め た 。彼 女 は 愛 す る母 親 と愛 す る エ ー リカ との 間 で板 挟 み とな つ て 、 激 しく苦 悶す る。 そ して シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は ア ル コール 中毒 、麻薬 中 毒 にな る。 博 士 号 取 得 後 に作 家 と して 滞 在 した ベ ル リ ン で 、上 流 家 庭 の 躾 か ら開 放 され た 反 動 か ら か、飲 み 明 か し、 ま さ に夜 が 明 け る ま でベ ッ ドに入 ら な い 乱 れ た 生 活 を して い た の だ が 、1932年10月 に親 友ル ー ト ・ラ ン ツ ホ フ= ヨー ク21の 紹 介 で モ プ サ 盟(作 家 カ ー ル ・シ ュテ ル ン ハ イ ム の 娘)と 知 り合 う。 モ プ サ の愛 人 、 芸 術 家 ル ドル フ ・カ ー ル ・フ ォ ン ・リ ッパ ー が 麻 薬 を入 手 で きた シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は1932 年11月 、 この モ ル ヒネ を初 め て 服 用 す る。23モ ル ヒネ 初 体験 にマ ン姉 弟 が 立 ち合 つ た可 能 性す ら否 定 で き な い が 、そ うで な く と も、す で に麻 薬 に 溺 れ て い た ク ラ ウス が 彼 女 の警 戒L・を低 めた に違 い な い し、エ ー リカ が シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ 家 の母 娘 関係 を緊 迫 させ な か つ た な ら、エ ー リ カ とい う高度 な 目標 が 現 わ れ な か つ た な ら、シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は 麻 薬 に 溺 れ ず 済 ん だ か も し れ な い。 母 親 に迷 惑 して い て 、麻 薬 中 毒 で 危機 的 な状 態 に あ っ て 、政 治的 な 女 性 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 存 在 は 、マ ン姉 弟 との 付 き合 い 無 しに は 考 え られ な い。 た だ し、姉 弟 に とつ て シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は それ 程 に は重 要 で な く、 心 底 理 解 し合 うに は 至 らな か った よ うt 4.冒 険 の始 ま り 1933年 、 ナ チ ス が政 権 を握 り、 ユ ダヤ 人 を 中心 に大 勢 が 亡命 した 。 この と きシ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は 、 冒頭 で 紹 介 した よ うに 、 亡命 雑 誌 「集 合 」 の 刊 行 に 尽力 した 。 しか し彼 女 は 編 集 者 に 名 を連 ね て い な い し、非 政 治 的 な もの しか 寄稿 して い な い。 そ こに は 表 立 っ て 反 抗 で きな い 理 由 が あ っ た。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ 家 は 単 に 資 本 家 と して ナ チ ス を支 援 してい た の で は な く、心 晴的 に もナ チ ス を応 援 して い て 、ア ンネ マ リー ・シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ に もナ チ ス へ の 協 力 が 期 待 され て い た 。 そ こ に揺 ら ぎ が 生 じる の は 、 よ うや く1934年6A30日 の レー ム 事 件(「 長 い ナ イ フ の 夜 」) の二人 の信頼 関 係の基礎 となった と考 え られる。ただ し、マ ンが亡命を境 に 目覚 しい成長 を見せたの に対 し、 シ ュヴァルツ ェンバハの方 はあま り変化 しなかつた。 21グ スタフ ・キーペ ンホイ アー社 、ク ウェー リ ド社 の共 同経営者 プ リッツ ・ランツホフの従姉妹 、また、フィ ッシ ャー社経営者 ザムエル ・フ ィッシャーの姪,Miermont(2008), S―66. 毘 本 名はテーア(ド ロテーア)。同名 の母 親 と鴎rJして 「モ プサ」 と峨 まれ.る。マ ン姉弟 と親 しく、クラウス ・ マ ンの 陪 鳳 削 で作家 ルネ ・クル ヴェル の自殺 を扱 った場面(第 九章の最後)に モ プサは印象的に登場 す る。 クル ヴェル は同性愛者 だつたが、彼女 との結 婚を望 んだ ことがあった。Ebd.,5.101. 23Ebd . ―99l

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以 降 で あ る。 と りわ け母 親 ルネ はナ チ ス に強 い 共 感 を抱 い て い た し、そ の愛 人 は ヒ トラー か ら賞 賛 され る歌 手 エ ミー ・ク リュ ー ガ ー だ つた か ら、 取 り付 く島 が な か った 。 そ うした 状 況 で 、亡命 生活 を 始 め た トー マ ス ・マ ン が 、シ ュ ヴァル ツ エ ンバ ハ 家 の あ るボ ッケ ン とは 幅 の 狭 い チ ュー リヒ湖 を挟 ん で 向か い の キ ュス ナ ハ トに居 を 構 え 、エ ー リカ は チ ュー リ ヒ で 劇 団 「胡 椒 挽 き 」 の公 演 を、 ク ラ ウス は ア ム ス テ ル ダ ム で反 ナ チ ス 文 学 の 出 版 を始 め る。 我 が 子 へ の 愛 時 と亡 命 者 へ の反感 か ら、ル ネ は娘 を 引 き戻 そ う と必 死 に な り、両家 に 強 い 愛 情 を抱 い て い た シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は板 挟み に な つ た。 愛 す る 両 親 と親 族 の た め 、彼 女 に は マ ン姉 弟 の よ うに堂 々 とナ チ ス に反 抗 す る こ とが で き な か っ た 。 そ れ で 「集 合 」 の編 集 者 に 名 を 連 ね な か っ た のだ が 、 そ れ で も1934年6月 、 ゲ シ ュ タポ は 「扇 動 雑 誌 」 で あ る 「集 合 」 との 関 わ りを理 由 に シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ の ドイ ツ滞 在 禁 止処 分 を 求 め 、 そ れ が 認 め られ る。 この 板 挟 み 状 況 の深 刻 さを教 え て くれ る の が 「胡 椒 挽 き」 ス キ ャ ンダ ル で あ る。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ がペ ル シ ア旅 行 で 不 在 の1934年11月16日 、チ ュー リ ヒで の 「胡 椒 挽 き」の公 演 に 「フ ロ ン ト(前 線)jと 呼 ば れ る右 翼 グル ー プ が集 団 で チ ケ ッ トを購 入 して 入 場 し、 叫 ん だ りスパ ナ を振 り回 した り した。 現場 を指 揮 した の が シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 従 兄 弟 ジ ェー ム ズ ・シ ュ ヴ ァ ル ツ ェ ンバ ハ で 、彼 を 含 め二 十 四名 が 逮 捕 され 、19日 の 「新 チ ュー リ ヒ新 聞 」 に は 、 エ ー リカ ・ マ ン は共 産 主 義 者 で ス イ ス の 中 立 を 阻 害 して い る と 中傷 す る 、彼 の 投 書 が掲 載 され た。 そ の後 も 扇 動 が続 き 、 「フ ロ ン ト」 の 首 領 と 目 され る 人 物 も逮 捕 され 、 エ ー リカ は 誘 拐 の 脅 迫 も受 け た。 警 察 の警 備 付 で な けれ ば 公演 で き な くな り、12月 に は ス イ ス で の 公 演 を休 止 した。 エー リカ は母 親 ル ネ ・シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ の 陰 謀 だ と直 感 し、盟 警 察 に もそ う主 張 した 、シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ の祖 母 ク ラ ラ ・ヴ ィ レが11月16日 の 日記 に 、 「胡 椒 挽 き が 襲 わ れ た 、 ブ ラ ボ ー!」 肪 と記 して い る くらい だ か ら、そ うで あ っ て も不 思 議 で な か っ た。 しか し証 拠 は な か つ た。 ジ ェー ム ズ は 警 察 で 、エ ー リカ が シ ュ ヴァル ツ エ ンバ ハ を 同性 愛 関 係 に引 きず り込 んだ 、 と 主 張 した か ら、26こ の 事 件 の根 底 に あ つた の は ル ネ とエ ー リカ との 問 で の シュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 奪 い合 い で あ る。 だ か らも しシ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ が エ ー リカ と同 じ政 治 活 動 を した な らば 、 両 家 を 一 層深 く傷 付 け る結 果 と な つ た だ ろ う。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は 家 族 を安 心 させ る た め 、 別 シュ ヴァルツ ェンバハはルネ黒幕説 を採 らなかつた 「フ ロン ト」は 「胡椒 挽 き」を襲撃 すれば シュ ヴァル ツェンバハ家 とヴィ レ家が喜ぶ ことを知 つていたか ら事件 を起 こしたの であって、ル ネの責任はエー リカへ の敵意 を隠そ うとも しなか った ことだ、 とい うのが彼女 の分析 だった、情報 を糸急合す る限 りではそ うい う判 断にな る。 25Schwarzenbach(2008) ,5.223. 器 エー リカは、 自分 は女優テ レーゼ ・ギーゼ と恋愛関係に あつて、シュ ヴァル ツ ェンバハ との間 にはそ うい う 関係 はない、 と述べた。警察は知 らなか った。ルネ に厨 性の愛 人がいて 、祖 母ク ララだって子 どもの頃は将 校 にな りたか つた こ とを。警察はエー リカの 性的誘惑 がシュ ヴァル ツェ ンバ ハ家の人間を怒 らせ た原 因なの だと理解 した。 -100一

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1935年5月 に フ ラ ン ス の 外 交官 ク ロー ド ・ク ララ ク と結 婚 す る。即 話 は 前 後 す る が 、1933年9月 に 「集 合 」 の 創 刊 号 が 出 た の を 朋 け る と、 シ ュ ヴ ァル ツ エ ン バ ハ は 両家 の争 い を休 止 させ る か の よ うに、 お10月 に オ リエ ン ト急 行 で 旅 立 ち、 七 ヶ月 か けて トル コ 、パ レス チ ナ 、イ ラ ク、 イ ラ ン な ど を巡 っ て い る。 これ に 関 して は そ れ 以前 に 、1932年 春 か らシ ュ ヴァル ツ エ ンバ ハ とエ ー リカ とク ラ ウ ス 、それ にノ〉レガル テ ンの 四 人 で 二 台 の フォ ー ドに 分 乗 してペ ル シ ア に行 く計 画 が あ つた 。 ペ ル シ ア とい う 目的地 は1930年 に 小説 『ア レ クサ ンダ ー 』 を出 した ク ラ ウス ・マ ン と 、歴 史 学 者 シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ 博 士 の意 向 で選 ば れ た の だ ろ う。 この 計 画 に 、SA(突 撃 隊)の 攻 撃 対 象 で あ る が ゆ え に舞 台 に 上 が れ な くな っ た 女 優 エ ー リカ も乗 り気 に な つ た。 そ れ に エー リカ は1931年 の フ ォ ー ド社 一 万 キ ロ レー ス の 勝 者 で あ る。 詳 しい 事 庸は ク ラ ウス ・マ ン の 自伝 『転 回 点 』(第 八 章 の 最 後)に 譲 るが 、ナ チ ス の 台 頭 に 対す る不 安 に 耐 え切 れ ず 出発 二 日前 にハ ル ガル テ ン が 自殺 し、実 現 しな か つ た 。29だ か ら一 旦 は行 く 気 に な つ で 情報 収 集 した こ とが あ つ た の で 、それ に 作 家 と して の成 功 も求 め て 、中 東 ぺ 旅 立 った の だ ろ う。 これ が 第 一 回 オ リエ ン ト旅 行 で 、生 涯 に 四度 、 中 東 を旅 して い る。 こ の 時 、 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ博 士 は遺 跡 や発 掘 現揚 を 訪 ね て い る。 テヘ ラ ンか ら ク ラ ウス ・ マ ン に 宛 て た 手 紙 に は 、 ア メ リカ人 た ちが 発 掘 して い る現 場 を紹介 し、 「そ こ で秋 に 三 ヶ月 間 働 くこ とで ほ ぼ 決 心 が つ い た よ うな 気 が して ま 洗 」30と あ つて 、 実 際 に そ う した。 マ ンの 立 揚 に 立 て ば 、 と りわ け 「集 合 」 の 資 金 繰 りに 苦 労 して い る とこ ろ に 、13世 紀 の話 や 考 古 学 の 発 掘 の 話 を され るの だ か ら、何 を 能 天 気 な 、 と非 難 した くな つ て 当然 だ ろ う。 す な わ ち 、マ ン姉 弟 の 目 に は 、 ヨー ロ ッパ を離 れ る こ と が 、考 古学 に興 味 を 抱 く こ とが 、逃 避 に 思 われ た。 しか し当人 に とっ て は 逃 避 で な い。Georgiadouは こ う解 説 す る。 所 クmド ・ブルデ ュが結婚 相手 として有力 だったが、1934年 にシ ュヴァル ツェ ンバハが結婚の意志 を伝え た ときは彼の母 親が死 の床 に臥 して いて、彼は承諾す ることができなか つた。シュヴァル ツェンバハは1935 年1月12日 に 自殺 未 遂事件 を起 こ してい るくらいで、支え を必要 と していた。 クラウス ・マ ンも候補だつ た と思 われるが、シュ ヴァル ツェンバ ハ家 から激 しく憎 まれ ているエ ーリカ ・マ ンの双子同然の弟は、シュ ヴァル ツェンバハ家 に とつて最悪 の選択 肢であつて、彼女 には選 ぶ こ とができなか った と考 えられ る。シュ ヴァル ツェンバ ハ家 はプ ロテス タン ト、クララク家はカ トリソクで 、テヘラ ンでの結婚式 に家族 は参 加 せず 、 立 ち合 った のは皮 肉に もイ ラン駐 在 フラ ンス大使 で、 クロー ド ・ブルデ ュの母方お じだつた。Miermont (2008),5.157,167,178. 圏 懸 念が的 中し、 この旅行 中に 「胡棚 免き」事件が起 きた。 29た だ しそ の直後 、シュ ヴァルツ ェンバ ハ とマ ン姉弟は「緒 に二度 自動 車旅行 を している。ヘ ルベル ト・フラ ンツを加 えてベ ニスへ行 き、後 に トーマ ス ・マンの小説 『ヴェニ スに死す 』の舞 台 となるホテルに滞在 し、 それ か ら三人 で フィンラ ン ドへ行 き、クラ ウス ・マ ンの小説 『北への逃避』の舞 台 となるハ ンス ・ア ミノフ 家 に滞 在 してい る。

3D Schwarzenbach , Annemarie YVn-welri'en es schon zuwege bringen, das Leben`:Annemarie Schwazzenbach an Erika undKlausMann. Brzefe 1930-1942(Hrsg. v Uta FleischmanxワHerbolzheim 2001,5.111.

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ア ンネ マ リー ・シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ は ペ ル シ ア へ の た だ の旅 行 者 で は な く、 つ ま り訪 問 者 で は な く、 こ の土 地 の広 大 な荒 野 に 、没 落 しつつ あ る彼 女 の 故 郷で あ る 大 陸 の 運 命 を 映 し見て 嘆 く女 性 に な る。 ペ ル シ ア の 山 々 は世 界 苦 、故 郷 喪失 、 そ して根 無 し草 に な る こ とを表 わす 誇 張 され た書 刮 に な る。 彼 女 が ジ ャー ナ リス トと して オ リエ ン トで 書 い た 文 章 で も、 記 事 を支 配 す る の は 疎 遠 さ と喪 失 感 だ 、 他 方 工 一 リカ、 ク ラ ウス ・マ ン は ヨー ロ ッパ の 地 で 国民 杜 会 主 義 に抗 す る闘 い に 積 極 的 に 関 わ る こと を 自分 た ち の絶 対 の使 命 と捉 え て い て 、 そ こ で は トー マ ス ・マ ン が ドイ ツ亡 命 者 た ちの 最 も重 要 な人 物 の一 人 に な る 。 こ の時 期 に広 大 な ア ジ ア の 孤 絶 し た 場 所 に 赴 い て、1934年 冬 に 発 掘 現 場の 風 通 しの よ い テ ン トで泥 の 中 に 沈 ん で い る滅 亡 した 文 化 の残 り津 を拾 う とい うア ンネ マ リー ・シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ の 行 動 は 、 マ ン姉 弟 に は理 解不 能 だ つた 。 それ で こ の 友 人 関係 に 、 二 度 と完 全 に克 服 し よ うの な い 疎 外 感 が 生 じるの で あ る。31 Georgiadouは 、孤 独か ら生 み 出 され た 、根 源 的 で 汚 れ な き も の へ の 憧 れ が 、 ゴー ギ ャ ン にお い て は 南 の 島 に、 ラ ン ボー に お い て はア フ リカ に 向 か っ た の と同 じで 、 シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ の 場 合、 ク ラ ウ ス ・マ ン の よ うに ヨー ロ ッパ の ホ テ ル で 孤 独 を 味 わ うよ り も、オ リエ ン トに 向か う こ と を選 ん だ の だ と解 説 す る。32彼 女 は 親 兄 弟 た ち と の縁 を 切 る こ とは で きな か っ た。そ れ で 彼 女 は、 ヨー ロ ッパ を飲 み 込 ん で ゆ く フ ァ シ ズ ム か ら逃 れ る こ と 自体 を 闘 い とみ な し、中 東 の 辺 境 で 文 明 の 根源 を見 詰 め る こ とに 意 味 を見 出す6 5.ソ 連 の社会 主義 、米 国 の格 差 社 会 ヨー ロ ッパ で フ ァシ ズム の 嵐 が 吹 き荒 れ る な か 、そ れ に背 を向 け る か の よ うに 中東 、後 に は ア フ リカ に 行 っ た か らとい つて 、 シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ が 世 界 情 勢 に無 知 だ った とか 、政 治 か ら逃 避 した とか と考 え るの は大 きな 誤 解 で あ る。彼 女 は 家 庭 環 境 か ら して 経 済 と軍 事 に 明 るか つた の に 加 え、積 極 的 に世 界 を訪 ね て い た 。認 特 に強 調 して お き た い の は 、 ソ連 を二 度 、米 国 を 四度 訪 31Georgiadou , Apet江:。Das Leben zerfetzt S]CII m廿 血tausend StU(,ke`∼Annemarie Schwarzenbach Rekonstruktion einer Lebensgeschichte. In:Willens, Elvira(Hrsg.):Annemarie Schwarzenba(血 Autorin-Rei.sende-Fotografu2. Lbkumentation des AnnemariSchwarzenbach Symposiums in Sils/ Engadin vom 25. bis 28. Juni 1998. Herbolzheim 2001,5.29-46, hier 5.125.

毘Georgiadou(1994) , S.B.

認 シ ュ ヴァル ツ ェ ンバハ の世 界紀 行 は 次 の文献 で概観 で きる。Schwaxzenba(:h, Annemarie:Auf der ,Schattenseite. Ausgew臧lte Reaortagen, Feuilletons und Fotografien 1933-1942.(Hrsg. v Regina I}ieterle/Roger Perret)Base11995.

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れ 、 社 会 主 義 と資 本 主 義 の あ り方 を つ ぶ さ に観 察 して い た こ とで あ る。 1934年 夏 に ソ連 で 開催 され た 国 際 イ稼 会 議 に 、 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ がIE式 な招 待 を受 け た こ と は あ ま り知 られ て い な い。 一緒 に行 った ク ラ ウ ス ・マ ン の 付 添 い と の誤 解 が 多 い よ うだ が 、 女 性お よび ス イ ス 人 を代 表 して い た。 麗 「USSRの 印 象 はポ ジ テ ィ ブ で 、い くつ か の点 で納 得 の い く見事 な ものlそ りゃ あ 、 こ こで は 愚 か なユ ー トピ アが 実 現 され て 、 コ ロ ン ブ ス の卵 を頭 の 上 に置 い た よ うな もの だ け ど。」35と 書 か れ た彼 女 の 原 稿 が 残 つ て い て 、 これ と同 じ調 子 の手 紙 で 資 本 家 の 父 親 を 失 望 させ た。 ま だ ス ター リン に よ る 粛清 の 嵐 が 吹 き荒 れ る前 で 、彼 女 は 労働 者 た ちが小 説 を,,,.・に 読 む 姿 、 ゴー リキ ー が、 党 の 見 解 に反 して 、 あ ら ゆ る戦 争 に 反 対 した こ と に感 銘 を受 け た。 ソ連 に い ろ い ろ 問題 が あ つて も 、そ れ は ヨー ロ ッノ儲 国 よ りひ どい とい うこ とは な く、それ に ヨmッ パ で 流 布 され て い る ソ連 の 姿 は 言正 で 済 ま な い根 本 的 に間 違 っ た もの とい うの が彼 女 の 印 象 だ つ た。 ク ラ ウ ス ・マ ン の考 え は 、ナ チ ス 問 題 の 解 決 が 根 本 的 な 解 放 を もた らす とい うも の で、 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は そ れ に 共 感 で きず 、 ヨmッ パ の没 落 と社 会 主義 の 勃 興 とい う図 式 の 方 が どち らか とい うと納 得 が い つ た 。彼 女 は ス イ ス に戻 らず 、文 明 の 根 源 を 見詰 め る た め に 再 び ペ ル シ ア に 向か っ た。 ち な み に1937年 に モ ス ク ワ を再 訪 して ヨハ ネ ス ・R・ベ ッ ヒャ ー と話 した 際 に 、 彼 の 態 度 か ら、 ソ連 が 全 体 主 義 に 変 質 した こ とを知 る。36 また1936年 か ら38年 ま で 三度 に 分 け て 、米 国 の貧 困社 会 に つ い て現 地調 査 を行 な つ て い る。 フ ラ ン ク リン ・ル ー ズ ヴ エル ト大統 領 のニ ュー デ ィ ール で は 、写真 家 の チ ー ム を編 成 して貧 困状 況 の 調 査 力桁 わ れ た が 、シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は バ ーバ ラ ・ライ ト37と 二 人 で そ の 手 法 を踏 襲 し、 黒 人 の多 い地 域 を写 真 に 収 め て 回 つ た 。スイ ス の 出版 社 か らは 作 家 の紀 行文 を期待 され た の だ が 、 彼 女 は ジ ャー ナ リス トに 徹 して 、米 国 社 会 の 闇 の 深 さを浮 か び 上 が らせ た。銘 シ ュ ヴ ァル ツ ェン バ ハ 家 は 弟ハ ン ス を米 国 に 派 遣 して 、シ ュ ヴァル ツ ェ ンバ ハ 家 の 工揚 を 訪 ね た この 二 人 の ジ ャ ー ナ リス トを 断 固 と して 立 ち入 らせ な か った 。 そ うせ ね ば な らな い ほ ど、彼 女 らの 写真 に は 資本 主 顕 唯― のスイス人女 臨 他 の国で は妻 あるいは秘 書と して作家 に同伴 した女 性は少 な くなかつたが、作家 と し て招 待 された女 性は少 なか つた。尤 も、知名度力砥 くて愛 らしい シュ ヴァル ツェンバ ハは、他 の作家 たちか らク ラウス ・マ ンの付添い と誤 解 されて いた。 この会議につ いては次の論 文が詳 しい。Geoxgiadou, Areti=

。Die unendliche Trauer血Herzen``. Annemarie Schwarzenbach(1908―1942)in der Sowjetunion. ln: Brack, S血one u.a.(Hrsg.):Jahrhundertsrlucksale.」Frauen加sowjetischen、 翻 Berlin 2003, 5.210-215.

35Annemarie Schwarzenba(;h(1995) , S.51― 36M沁 ㎜o就(2008) , Sl233.

37夫 クロー ド・ク ララクはシュ ヴァル ツェ ンバハ との結婚以前、ライ トとの結婚 を考 え 自分 の両親 に紹介 した こ ともあつた。Eb(1,5.189.

認Schwaxzenbach , Annemarie Jenseits von New】fork. Ausgew臧lte Reportagen, Feuilletonsαηゴ Fotografren aus den USA 1936-1938. iHrsg. v lioger Perret)Base11997.

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義 の生 ん だ格 差 社 会 を糾 弾 す る 力 が あ っ た 。シ ュ ヴァル ツ ェ ン バ ハ が 、フ ァシ ズ ム の敵 で あ る米 国 を美 化す る マ ン姉 弟 と立場 を 異 に して い た こ とは言 うま で もな い 。 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は ジ ャ ー ナ リス トと して ヨー ロ ッパ 、 ソ連 、 中東 、ア メ リカ を丹 念 に 見 て 回 り、社 会 の 様 々な 闇 に 目 を向 けて い た 。彼 女 の ル ポル ター ジ ュ と写 真 か らは 、社 会 の 悪 に 立 ち 向 か う真 剣 な 姿 勢が 感 じ取れ る。彼 女 の 表 現 と行 動 は そ れ だ けの 広 い 知 識 と体 験 と熱 い志 に 裏 付 け られ て い た。 しか し反 ナ チ ス 活 動 が 自 由 に な らな い 状 況 で 、焦 燥 感 に苛 まれ な が ら、文 明 の 根 源 や 自分探 し とい っ た 、 よ り本 質 的事 柄 を志 向す る。 向 か う先 の 一 つ が 山 だ った 。 6.上 ヘ シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は1933年 ごろ か ら、友 人 た ち を 泊 め られ る家 を持 ち た い と考 え て い た 。 そ れ で 、 父親 の 同 意 を 得 られ ず 購 入 は で き なか っ た が 、1935年1月1日 よ りエ ンガ ー デ ィ ン谷 の シル ス に 「猟 師 の家 」を借 りた。39家 賃 負 担 は重 か っ た が 、 シ ュ ヴァル ツ エ ンバ ハ 家 が 世 界 恐 慌 後 の 経 営 不 振 に 喘 い で い て 、父 親 に 家 を 建 て も ら う とい う希 望 は最 後 ま で 叶 わ な か つ た。 小 道 を挟 ん で 向 か い の 小 さめ の家 に 移 つ た り、地 元 の 牧 師 に 家 賃 を 立 て 替 え て も ら つ た り、家 賃 を稼 ぐた め に コン ゴに行 く仕 事 を 引 き 受 け た り して 、 な ん とか 死 ぬ ま で 家 を借 り続 け た。死 に 至 っ た 自転 車事 故 の と きは 、no父 方 祖 母 の 遺産 で そ の 家 を購 入 す る 手続 き に行 く と こ ろだ っ た。手 放 せ な い 拠 点 だ っ た の だ 、 山 との 関 わ りを振 り返 ろ う。 幼 少 の 頃 、 一 家 はチ ュ ー リ ヒの 街 中 か ら郊 外 の 風 光 明 媚 な 地 所 、 ボ ツケ ンに 引 っ越 した。 子 ど もが 五 人 に 増 えて 手 狭 に な っ た こ と、そ ち らの 方 が 父 親 の 事務 所 に 近 か つた こ とが 理 由で あ る。 遺 伝 的 に 心臓 の 弱 か つ た 父 親 は 、長 い 日寺間 か け て 散 策す る の を 日課 と し、 子 ど もた ち を連 れ歩 い た。 そ の影 響 が あ っ て か 、 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は1924年 か ら ワ ン ダー フォ ー ゲ ル に 参 加 し、1925、26年 に は 機 関 誌 「ワ ン ダ ー フ ォー ゲ ル(Wandervogel」 に 三 度 寄 稿 して い る。 彼 女 は 青 年 牧 師 エ ル ン ス ト ・メ ル ツの 指 導 す る ワ ン ダ ー フォ ー ゲル を 通 じて 批 判 精 神 に 目覚 め た。 山 歩 き を楽 しむ 彼 女 が 特 に 気 に 入 つ た 場 所 が エ ン ガ ー デ ィ ン谷 だ っ た 。 「猟 師 の 家 」 を借 りる前 か ら、 エ ー リカ ・マ ン に宛 て た 手 紙 に は 、 「エ ン ガー デ ィ ン、 完 全 に な じん で い るわ が 家 で 、南 の 暖 か さ と青 い 空 が と っ て も素 敵 で 、そ れ に信 じ られ な い く らい 雪 原 で 遊 べ る と ころ 」(1930年12月24日 付)、 「エ ン ガ ー デ ィ ン 、他 の どこ よ りも確 実 に行 動 で きて 、 細 彼女の希望通 り、マン姉 弟 、テ レーゼ ・ギーゼ、 クロー ド・クラ ラクそ の他の仲間た ちが 、シュ ヴァル ツェ ンバハ が不在 の ときにも逗留 した。 もちろんクラ ウス ・マ ンは ここでノ」説 を執筆 し、代表作 『メ フィス ト』 (1936)の 題名 を思レM寸いた のもここであ る。 如 自転車で転 倒 した結果 として死亡 したのではな く、精 神病治療 に問題が あつた可能 性があ る。なぜ な ら事故 による怪我 は軽 傷だった し、得意 の自転 車で転 倒 した ことも不 可解で ある。この点につい ては今後 の調査が 待 たれ る。 -104一

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軽 い気 分 で い られ る 私 に 〈ぴ つ た りの〉 土 地 」(1932年12月24日 付)と 書 かれ て い た。41世 界 的 に 有名 な この 景 勝 地 を初 め て 訪 れ た の は12歳 の と きで 、 そ れ か らは年 明 けの 数 日を家 族 と こ こで 過 ごす の が 習 慣 に な っ た。1925年 秋 か ら二 年 間 は 下 エ ンガ ー デ ィ ンの 女 学 校 で 学 び 、 チ ュー リ ヒ大 学 に提 出 した 博 士 論 文 の 題 目は 「中 世 お よび 近 世 初 めの 上 エ ンガ ー デ ィ ンの 歴 史 につ い て」。 姐 彼 女 は こ の 地 に 魅 了 され て い た。 彼 女 に とつ て も う一つ 重 要 な 山地 が 、新婚 の と き に避 暑 の キ ャ ンプ 生 活 を した テ ヘ ラ ン近 郊 に あ る標 高 二 千 五 百米 の ラー ル 谷 だ が 、 これ につ い て は代 表 作 『幸 福 の 谷 』お よび オ リエ ン ト旅 行 と絡 め て 稿 を改 め て 取 り上 げ た い 。 1933年 に 書 か れ た 長 編1・説 『上 へ の 逃 避(Fluchtna(:b oben)』 が 彼 女 の 垂 直 志 向 を表 わ して い る。 この題 名 は ク ラ ウス ・マ ン が 翌 年 出版 した 長 編 小 説 『北 へ の逃 避(Fluchtirr den Norden)』 と似 て い て 、 しか もマ ン は1932年 に シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ とフ ィ ン ラ ン ドに行 つた 体 験 を下 敷 に し、 主 人公 ヨハ ナ の モ デ ル も紛 れ も な くシ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ とい うわ け で縁 は 深 い の だ が 、 こ の 『上 へ の 逃 避 』 はイ ン ス ブ ル ッ ク 近 くの ス キ ー 場 の ス キー 教 室 を舞 台 とす る全 く別 の小 説 で あ る。 彼 女 の 処 女 長 編j・説 『ベ ル ンハ ル トの友 人 た ち』 が 極 め て狭 い 人 間関 係 しか 描 い て い な か つ た の に比 べ れ ば 、登 場 人 物 が 多 い 分 だ け 視 野を 広 げた 小 説 で あ り、政 治的 な雰 囲 気 は薄 い もの の 、反 ナ チ ス小 説 と して 見 れ ば 、 リ ッキー ・ハ ル ガ ノレテ ン を 自殺 へ と誘 った 時代 の 風 潮 を捉 えて い た。ク ラ ウス ・マ ン らは この 作 品 を 評 価 した が 、反 ナ チ ス的 で あ るが ゆ え に 出版 で き なか つた 。 原 稿 は 行 方 不 明 とな つた が 、 幸 い1997年 に発 見 され 、1999年 に 出 版 され て い る。 ボ ッケ ン、 エ ン ガー デ ィ ン、 ワ ン ダ ー フ ォ ー ゲル を軸 とす る シュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ の 山は 、軽 い 山 歩 き とス キ―一 の 世 界 で あ る。 上 で 紹 介 したエ ー リカ ・マ ン宛 て の 手 紙 の 内 容 か ら して 、彼 女 は 澄 ん だ 、素 朴 な 世 界 に 安 ら ぎ を求 め てい た のだ ろ う。 と ころ が意 外 に もそ の彼 女 が 、数 々 の 初 登 頂 を記 録 した 登 山家 に 強 く引 き付 け られ て 、彼 の伝 記 を執 筆 す る。 一 体 ど うい う気 持 ち が 、そ こに働 い た の だ ろ うカ0 7.登 山 家 ザ ラ デ ィ ン ス イ ス の登 山 家 ロー レ ン ツ ・ザ ラ デ ィ ン(1896-1936)は 南北 ア メ リカ で 武 者修 行 した 後 、 カ フカ ス でい くつ も の初 登 頂 を果 し、1936年6月 、 天 山 山 脈 第二 の 高 峰 ハン ・テ ン グ リ娼 登 頂 41Almemaぬe S({hwa配eh匿)ach(2001), Sl42,82.

覗Schwarzenbach , Annemarie。 施 翻 蜘 烈π6b曲 肋 掬 由50㎞ 塑 曲 ε加1堕 ―'ttelalter zmdzu Beginn derNeuzeit"Universit舩 Z ich ipissertatioxワ1931.

娼 当時は 標高7 ,200米 とされ 、世界最北 の七千米峰かつ天 山山脈 最高峰 と考 えられ ていた。新 しい測量では標 高6,995米 で、万年 雪を含 めれ ば七千 米超 、最高峰の 称号 をポベーダ に譲 つた今 も山容が美 しさか ら人気が ある。 ヒマラヤ の八千米級 に相 当す る難 しい山で、登頂 したザラデ ィンは一流 の登山家だ った といえる。 -105一

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後 に麓 で 病死 した。 そ の存 在 を シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は1937年5月 、 チ ュー リ ヒで 知 る。 必 高 峰 へ の登 頂 の成 否 を左 右 す るの は 、登 山家 の 能 力 に加 え て 気 象 で あ る。気 象 次 第 で難 度 は 大 き く変 化 す る。 遠 征 に は数 週 間 を 要す る の で 、 天 気 の 安 定 す る季 節 に 挑 戦 ナる の が 基 本 とな る。 ザ ラデ ィ ンは 経 ―験豊 か な登 山家 だ つ た が 、 ソ連 か らの ビザ 発 給 が 遅 れ て 、有 利 な 時期 を逃 した。 そ れ が 彼 の 死 の 遠 因 と な つた 。 菊 政 治 性の 薄 そ うな この テ ー マ に 、46シ ュ ヴァ ル ツ ェ ン バ ハ は の め り込 む。 ス イ ス で タ クシ ーi転 手 を してい た 、ザ ラ デ ィ ン の弟 か ら委 任状 を 受 け 取 る と、遺 品 を引 き取 りに ベル リ ン経 由 で モ ス ク ワへ 行 く。独 ソ不 可 侵 条 約 よ り前 の こ とで あ る。 モ ス ク ワ で 生 き残 つ た 隊 員た ち の話 を聴 き 、ザ ラデ ィ ンの カ メ ラで 撮 影 され た 千 二 百 枚 の ネ ガ と彼 の メ モ を入 手 した。そ の後 ス トック ホル ム か らク ラ ウス ・マ ン に宛 て た 手 紙 に は 、ザ ラ デ ィ ン に つ い て 、 「彼 の名 前 は 私 の 意 識 の 中 で 大 き な 、 そ して 全 く も っ て 活 き 活 き と した役 割 を演 じて い ます 」 (1937年6月2日 付)47と そ の影 響 の大 き さを 記 して い る。 山登 りが 全 て とい う登 山 家 の 何 が 彼 女 の 琴 線 に触 れ た の だ ろ うか。 この モ ス ク ワ行 き の成 果 で あ る伝 記 『ロー レ ン ツ ・ザ ラデ ィ ン ― 山 に 捧 げ た 生 涯 』(1938) は 、 シ ュ ヴ ァル ツ エ ンバ ハ の 生 前 に 最 も売 れ た 著 作 だ が 、後 に入 手 困 難 とな つ て い た。 しか し山 好 きの 作 家 工 一 ミー ル ・ツ ォ プ フ ィに よっ て 蚤 の 市 で 古 本 が 発 見 され 、2007年 に再 刊 され て い る。 これ は 登 山 家 の 自伝 と遜 色 な い 的 確 な 表 現 で 仕 上 げ られ て い て 、 著者 シ ュ ヴ ァル ツ ェ ン バ ハ が 登 山技 術 そ の 他 を十 分 に理 解 して い る こ とが わ か る。 彼 女 の よ うに 山並 み を 望 む 高 原 に住 み 、 辺 りを散 策 す るの と、登 山家 と して頂 を 目指 して 禁 じ上 る の とは 確 か に 別 物 だ が 、 ア ル プ ス は 、 日本 版 の それ と違 っ て 、アル プ と呼 ば れ る草 原 が 広 が り牧 畜 が行 な わ れ て い て ア プ ロー チ が よ く、 山登 り(klettern)よ り容 易 な 山歩 き(wandem)の 範 囲 は 日本 に お け る よ りも遥 か に 広 く、 両 者 の 世 界 は 隣 り合 つ て い る。娼 だ か らシ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ に も、ザ ラ デ ィン の 生 き た 世 界 を 理 必 それが本人の主張だが、 ところが1936年6月22日 付 の 「チ ュー リヒ画報」 にシュ ヴァル ツェンバ ハ とザ ラデ ィン両方 の顔 写真 が同 じ頁 に掲載 され てい る。Schwanenbach, Annemarie:Lorenz Sala(血F,in

Leben izir die Beige. Herausgegeben und mit einem Essay versehen von Robert Steirer und Emil Zopfi. Base12007,5.248£. 菊 寒 さの緩む時期を逃 して しまった ことの他に も、失敗 の要 因はい くつ も挙げ られ るが、高所 順応 が不足 して いたがゆえの高 山病 が大 きな近因だ ろ う。ただ し、早 く入 山で きてい たな ら、高所 ―頂応 に日≒澗 を割 いたに違 いな く、やは り寒 さが深 まって ゆ く切迫感 が登 山隊を死のスパ イラル に追 い込んだ と思 われ る。 ns高 峰への登頂は国の蜘 言を賭けた事業だつたので、実際 は政治 と深 く関わ り、ザラデ ィ ンの死につ いて もソ 連 側か ら参加 した隊 員に暗殺 された とす る説が根強 かつたが 、シュ ヴァル ツェンバハはそ うした側 面に興味 を示 していない。 a7 Annemarie Schwarzenbach(2001) ,5.158. 娼 ここでは山岳部 とワンダーフォーゲル(ワ ンゲ ル)部 の違い の よ うな こ とが問題 なので はない。 日本 の高山 は深い森 と森 林限界 の荒野 とか ら構成 された人 里離 れた分 け入 り難い領域 だが、ヨー ロッパでは森林限 界を 越 えた ところまで牧 畜の行 なわれ る里 山の領域で 、麓 か ら日帰 りで歩け る範 囲が格段に広 い。山 の有 り様 が 一106一

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解 で きた のだ ろ う。 しか し理 解 で き た に して も、や は り山 歩 き と 山登 りは違 う し、ま してや ザ ラ デ ィ ンの それ は 極 限 へ の 挑 戦 で あ る。彼 の 何 を評 価 した か が 、彼 女 の 内 面 を 映 し出す鏡 とな る。彼 女 の 関心 の所 在 は 次 の 箇 所 か ら読 み 取 れ る。49 ず ば 抜 け て エ ネ ル ギ ッ シ ュ だ つ た け れ ど、 彼 に並 外 れ た 才能 が あ つ た と主 張 す る人 は きっ とい な い 。 しか し彼 は 山 の た め に 生 き た。 彼 に とつ て 人生 を意 味 した 山 とい う媒 体 に よ つ て 生 き た 、 と言 え る か も しれ な い 。 彼 の 信 仰 告 白の素 朴 さ、 生 き 方 の 一 貫 性 は どん な批 判 も寄 せ 付 け な い し、解 説 し よ う とす る どん な試 み も嫉 ノJ叱に な って しま う。50 過 酷 な 山登 りに 付 き ま と う山 へ の 一 途 さへ の感 嘆 は 、 「山 に捧 げ た 生 油 とい う副 題 に も表 れ て い る。 す で に 見 た通 り、 逆 に シ ュ ヴ ァル ツ ェ ンバ ハ は 多 才 だ った 。歴 史 学 者 で 、 小 説 家 で 、 フ ォ トジ ャ ー ナ リス トで あ つ た し、若 い 頃 は 、痙 攣 の た め 断 念 した が 、 ピ アニ ス トに も なれ そ うだ つ た し、 ダ ン ス で も非 凡 な 才 能 を 見せ た。 乗 馬 で もそ こ そ こ活 躍 した。 山が 全 て の登 山家 は彼 女 と正 反 対 だ った 。 世 界 中の アル ピニ ス トた ち に名 前 が 知 れ て 、 も し紀 行 文 を書 い て写 真 集 を 出版 して 欲 しい と求 め られ た な ら、 彼 は そ の 至極 当 然 の 名 声 を存 分 に利 用 し堪 能 す る こ とが で き た は ず だ っ た。 今 で ば 馴 染 み に な っ て 、 登 頂 して 名 を付 け るべ き頂 が ま だ 沢 山 あ るカ フ カ ス に 引 き 返 す こ と も容 易 に 可能 だ っ た は ず だ 。 カ フ カ スは ザ ラデ ィ ン に とっ て確 か な 投 資 の よ うな も の に な り得 た はず だ っ た 、彼 が 財 産 と安 定 に意 味 を見 出 し さえ し た な ら。 しか し彼 は そ ん な こ とを考 え な か っ た。か つ て ロー レ ン ツ ・ザ ラデ ィ ン を 「徒 歩 旅 行 者 気 質 」 と呼 ん だ 人 が い る。 この 表 現 は 少 な く とも今 ど きの ―部 の老 年 スイ ス 人 の 特 性 を言 い 当 て て い るか ら、ザ ラ デ ィ ンに も 当て 嵌 ま るか も しれ ない 。 彼 は どん な企 画 に も新 た な や る気 と新 た な勇 気 を 見 出 し、 長 く苦 しむ こ とな ど なか っ た の だ か 異な る。 娼 ツォプフィはシ ュヴァル ツ ェンバハ が写真家の立揚 か ら、ザ ラデ ィンが撮影 した写真 の芸術 性 と民俗学的価 値 を評 価した と考 えてい る。 しか し彼女 の謝 ・た伝記 は写真 ではな く彼の人格 に注 目している し、民俗学的 興味 で あれ ば、 自分 で撮 影 して 回 った こ とだ ろ う。 ツ ォプ フィの説 明 は 不十 分 で あ る。Annemarie Schwarzenbach(2007),5.249. 50Eb〔1,5.95. -107一

(19)

ら。51

小説 家 としては成功 しなかつたシュ ヴァル ツェンバハ は紀行 文 を書 き、それに 自分の撮 影 した

大量の写真 を添 えた。親 の財 産 にも頼 って いた。家族 を気 遣 うせ いで、マ ン姉 弟の よ うに堂々 と

反 ナチス活動 を行 うこ とがで きず 、『

上への逃 劃

も出版 でき なかった。つ ま りザ ラデ ィンにつ

いて ここに書いた ことは、彼女 自身の あ り方 の裏返 しで ある。52シ ュ ヴァル ツェンバハ はザ ラデ

ィンの生 き様を振 り返 りつつ、自分 を見詰 め直 していたの だ。 山 とい う馴染みの世界 で繋つてい

たか らこそ、

彼 女 と正反 対のザ ラデ ィンが特 に印象深 くて 、資料収集 に突 き動か され たのだ ろ う。

ザ ラデ ィンの伝記が書き上 げられたの は、翌1938年 の麻 薬 中毒 の隔離療 法 中のこ と。 米国 の

貧困状況のルポル タージュの仕事のた め彼女 は疲れ 、麻薬 に溺れて いた。にもか かわ らず彼女 の

活動は 目覚 しい もので ある。3月 、併合 され たばか りのオー ス トリア に乗 り込み、 「

胡椒 挽 き」

の ピアニス ト兼作 曲家マ グヌス ・

ヘニ ングを連れ 出す と同時 に、亡命者 とオー ス トリア国内の抵

抗者 との繋が りを作 ることを試み る。 ミュンヘ ン会談の9月

にはプラハ をル ポル タージ ュす る。

スイ ス航 空が特男磯 を用意 して彼女 を含 む スイスの ジャー ナ リス トた ちを帰 国 させた とい うそ

の結末か ら、緊迫 の度合いが知 られ る。そ して翌年 には 自らハ ン ドル を握 りアフガニス タンへ行

き、そこで第二次世界大戦 の勃発を知 る。ザ ラデ ィンの生 き様 に束1轍を受 けて、必死 に行動 した

よ うに見 える。

彼女の最高傑作 とい えるであろ う長編 小説 『

幸 福の谷 』の執筆 を始 めたの も、1938年 秋 、『ロ

ー レンツ ・

ザ ラデ ィン』出版後 のこ と

。 『

幸福の谷 』での孤独 な、底無 しに切 ない 自分探 しの堂 々

巡 りには、孤高 の人ザ ラデ ィンに対す る引け 目が潜ん でい るのだろ う。例 えば次 の引用 は主 人公

が発掘 の仕事 を辞 めた後 の場 面である。

君 たちは問 う、

何 を 目標 に してるんだい?」

私 は訂正す る。鷹 や猟 犬を使 って追跡で きるよ うな 目標 は私に はない のだ と。

さらに私は付け足す。 私は恐れる ことを学ぶ ために 出かけただ けなのだ と。

す る と君たちは私に警 告す る、

君はぼ くた ちの礼儀 作法や 貫習か ら外れ てい る。考 えてみ ろ、人は拠 りどころを必

要 としてい る。だか ら道徳が発明 され、神官 に権 威が 与 え られ たのだ。気 づ くんだ、

ei Ebd ,5.113.

52ツォプフィはそれを労働者階級と資本家階級の差と理解する。その差が土台なのは事実だが、しかしシュヴ

ァルツェンバハが注目しているのはそこではない。Eb乱,

s.255.

i:

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