• 検索結果がありません。

高松藩に於ける砂糖爲替の研究-香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "高松藩に於ける砂糖爲替の研究-香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
49
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

南畝藩の砂糖は、墟及び綿と基底二.鼓岐﹂賢吾と謂はれ、療川時代に於ける此の藩の.主要物産衆牒しこと 富 ー序 こ 敦が圃に於ける﹁港替﹂意轟の史的考察 三 砂糖兎替の藤野史的啓琴 四 砂糖為替の種規と冬場合の革萄 六 砂糖曾所及び出容顔の間組 五 役所系統と糖築統制問題 七 法糖生産力邁檜の開腹 1 八・衷株・仲買株・砂糖組舶株譲渡の開腹 旨 九 結 q

第寸七巻 第二、三淑

高校港に於ける砂糖為替の研究

−序 言

兇 玉 浮 一

︵二土六︶ 三六

(2)

は世間周知の轟贋であるが、こゝに日本経番史上乃葛藤顔政策史の立場よりして極めて瀧目すべき㌦つの現象 が存すj。 それは明治維新の療に他の諸藩が未曾有の経済的嫌局に彷捜せるさなかに、ひとり我高松藩は天保初年の極 度の財政窮迫を切扱けて伺六登以後の、方策よみ七きを得たるがた欄、靡藩の際に暗大蔵省へ引楷ぜし金の サ ︵﹂︶ ても首萬閲を下ちなかったと侍へられろ配管であサ、此等の成功せる菅例め研究を常時の﹁砂折方御用日記−類 より推心て驚謹的に集約し髄系を峯へようとするのが潮稲の目的である。 概観して此の砂桝虜替の研穿はこし期に分割し得よ㌔其の第ザ斯は寛政六年よト天保六年造、第二潮薩天保 六年より明治維新迄、第三期は明治維新以後とす き、嘉稔藩lが警P芸致ぎんが篤に晒発か蕃経済の基幹とし、新設の大坂砂弼食所に於丁水揚し、主とレて関西 \Y 方面に費捌を行ひ、大いに積極的璽間瀬似簡を断行した所謂大坂砂簡命桝時代に菜鮎を串くべくみ珂せるもの である。かゝる藩政時統制経済下の仕方と理念が、今や大衆車共薬園内の資金統制馬塙問題の虞剣忙顧慮せら へ2︶ れるとき、幾分かの瘍考肇料ともならば密着蟄外Ⅵ幸せであ各。

こ凌が圃尤於ける﹁鷹番﹂想轟の究的漕察

今日われわれが馬魯と呼ぷ場合、それは我が国に於ても外囲に於ても、現金を使用する事なくして残席手形 山放校薄に於抄る砂糖籍替の研究 ︵二三七︶ 三七

(3)

を用ひて貸借の決済をする仕方乃至組織を指摘す各が、本邦に於ける﹁かわせ﹂はすでに中世の﹁かわし﹂に

警教訟ル文献上の初見は﹁沙汰露草倉皇せ濃か㌻最約鞄に於けるかゝる著︵柑詣謂

鴇︶覚猷の警は交針凱朴便とい

鍬督す億︵器叛︰牲㌫警米碧以てす急難訂あり二恵じて﹁かわし妄はれ牒う

でみ一等いよ詑に・﹁凰争百合文苦﹂及び﹁湖崎稜威主文書﹂にょり鎌倉。室町に於ける為替手形の饗例を示し

右女膚匹よれば、鎌倉に廃るよりひらは五貰文の替餞を受取サ債務を負ふた濁であるが、その頭金支彿は自 ら般灘人となつセ五日以内に京都硬骨の瞥相苛の大夫なを伶侶巳講に夷彿ばせるといふのであり、絶対に文軽 / つ1兵の意義を検討しょう。 、不仁元年十二月の†束寺百合霊芝等装ゐ督ものが雪。 ︵替鰻︶ ﹁うけとるかへせにの軍 あはせて五箕文者 へ伸︶ 石くたんのかへせに﹂ のもとより、五月がうう濫庭、五貫文をきたんまいらせられ険へく候、もしいかなる革も候てヤくそく日をもサき供 ︸ ︵諾︶ ︵倍︶ はゝ、仙はいのさたをいたすへく供、よてのちのた必に、しヰうくたんのことし、 永仁元年サニ月二日 第寸七令−第二、三衆 ︵鎌 倉︶ 丸.封 ぐむにて給供ヒぬ、ふのせにのかはタは、とうしのしっぎうしのたいふのいかうの御はう ︵末寺︶ ︵箕相寺︶ へ大夫︶ ︵己詩︶ へ房︶ ︵一三八︶ 三八 よ り ひ ら 在 朝﹂

(4)

約東口を違へぬ事∵若しかゝる番あらば償額雛償の茸に臨やべき単位明記してゐるー藤名﹁ほりひら﹂は鎌倉 サィフ ¢割符屋と見ら咋るが、中世に於けるかゝる恰侶の金側磯構¢掌握は月掛及び√クリー経済界の研究に於てわ れわれの特に注目せんとする朗である。而しで申せ前期の交通芥便なる時代に、あつて ′ ︵5︶ 要するが為に、その間に利息を附する契約も存しザでに永仁五年の徳政では之が問題となつてゐる。此の場合 利息を附したる時裸麦彿に及ばずとされたる事例も存するが、結局利息なき場合は勿論の事、利息附の場合と ● 鐸も支彿人に於てともかぐ替餞の元本は絶封支挑を聾すといふ元東経持・焉懲保護の方寸確立せるため愈々魚 水′一l︻ノ 懲手形は苛政経臍を背景とし穏潜屋。割符巌を耽介梗摘として費達するに至つた。謂ふまでもなく馬替取引の ′ 成立する焉には、多しの場合隔地者問の寄なるが放、に>取扱者の僧用が問題となる。如何に拾保文言が立旗奮 、 あつても、為替の引受乃至文挟行焉着に其の琴カと信用が無けれぼ所詮成立を保し難く、蔑称柴務の帝達は望 めないのである。√玄に於七蛍時の有力なる財政的背景に東尊或は熊野三山の存在せし畢は、蓉町の銑世とはい 叫 べ、其の取引の安全性老骨骨せしめるに十分であるといへよう。

草徳二年八月の熊野三山層鼻輔鍍威︶欝の如せ急が雪。

借二周申御料旦之事 合拾貰文者 ヽヽ、ヽ 有之御用途ハ、那智山らうの御坊のにて供、借用申研也、侶和泉之堺ようをち割符を取低て、参詣の先達に署博候てさ 廿聞ぬ滞に於ける砂糖海替の研究 ︵〓ニ九︶ 三九

(5)

を思ひた!邪智山まで釆りしも、此虚七於て旅費釈乏せるため﹂此慶の有力なる御師廊ノ坊よカ十選文を倍 ︵7︶ 用せる為替許文であlか。 言は窒町に於ける利息の・観念を確認しうるもの。為替はかくして﹁かわし﹂文よト語感し、徳川時代に於て は、殆ど甥今見るが如さ細粒化せる形式を備ふるまでに畿達し世ので藩る。 ■ 十人せ紀の初頭から十九せ紀の前年宜かけ七の近せ江戸はまさにせ界最大の都市であり、其の全備時に於け る人口は百三四十詫を擁し尭と謂はれるが、〟八〇〟年のロンドン人口八十六詰恵千に比して優にせ界最大の ︵8︶ 消費地止乳づ す藩物資の配給㍉道職上資金決済の方傭の螢達せ官る理由は見出し難い。而しで謂ふまでむなく商取引陀於て は、大坂は常虹債横着の立場た泡ち∵江戸は倍額着払地政を帯び \ 右の

後日状如件

尊徳嘗閣八月廿四日

︵叫四〇︶ 四〇 第十七筍 第二、三鋭 た可申供、共時此状ふ邦吉粘蓉御鵬心供て其先達に可渡給供、もし釆九月申過晩ハ、正文子の利分を加供て可憩之供防食 ナ なち山らうの御坊へ イフ 備後千光⊥苛免論鹿︵花押︶ 土 屋 弾 正 政 宗︵花押︶

(6)

更に明治維新の鴻賛成少﹁新政府樹立されるや政府常局は、明治二年敷革,大阪.西京蒜戸。癖警大津 恥

ヽヽヽヽヽヽ 新潟及び敦賀濫通商・為替の雨愈赦を設立するが﹂此の馬替愈乾こそ我開銀朽葉伊濫傲ともいはるべきもの替

ヽ●ヽ︳ ある。斯くて明治初期に於てほ一馬菅と金融の意義・は極めて密接不可離の関係を有するに至るが.、政府は首初 此等溜の窒︵金融︶巣窟増せ急に蒜竃本濱てげ七ゐる。例へば大覧著敢には、堅ハ乳、 ヾ

9︶

東京為替合祀には蓼拾蓼萬就千園の貸下金を交伸してか逐の

lニ砂凍鶉層の経漕史的意義せ 眈虹上釆精しく冷静したる如く、﹁かわ︵軋︶し﹂の概念は、中世に於ても凝に叉最近世に於ても、金融・喪金

融通の観念と密接不可離の柑係にたらものであるが、高松港が瘡英傑護奨励のため天保六年以後確立せる資金

なつた事は贅言を要しない。

もいはれよう。かゝる鴬賂取引の磯達に′まり東販・江戸間の資金交通が中世にまして、よ、少頻紫とな亙自由と

江戸.の開港商に下して預置き他日賄其他諸費用に其都度取出したものであつて、これが﹁江戸席巻﹂の濫腸㌢ のである。大阪より江戸棟の簡物代や如乳は、r下鳥替と柄して今日の所謂代金取立手形を商人より買入れ之を 肘盲れた。欝中高衛門︵那詣宗︶の璧息にれ.立江戸葛誓さ蒜侯の借金と商人の債警道警るも

放、三度飛脚を用ひで債樺者側に現金。馬沓を現法したので透ろが、此の規を除去せん為に﹁江戸馬警が某

高松滞に於ける砂糖食管の研究 ︵叫四一︶ 四一

(7)

︵10︶ 融通方接を何が故竺毎鶴懲﹂と汎柄し、更に叉個々別々 甘征尻 代享保。元文の噴より盛行せる名目貸の観念を以てせざるを得ないぐ ﹁鶴巻﹂に名を籍るところの合法朋貸付 ♂ シドゥヰン 金であると見られる。嘉し七高稔涛に於中るか、る移出焉替金融狽占の▼望口は、他の同党金◎勧化金成は諸像 、 ︵12︶ 貸付金に歴々見られたる加尊慮端座る高利貸附ほ行はれすして、月八朱九発といふ、寧ろ常時としては低利の 生産費食貸付が行はれたる鮎に藩敦富の根瀕が存する如く思はれる。盲人は斯かる高松渾め臍要者に封する貸 β 資金の理論を以てせられ、然も貸付には多くの場合藩札を以てし、納入にば利子附帯の甥銀を以てする朗に無 限の藩財政の矧みを感する。蓋し、徳川時代に於ける各滞は、′楷解町費行橋に就ては幕府認可の してゐたが、硬貨の々れは有じ′なか・つた筈であ㌔恐らくは高給溶が意識的に行つたであらう灘の此の正貨賂 ︼ 絡擁護の琵簑未完ける極めて進歩的な経済政策墓して﹂政党奥の轟からも﹂應究東本らるべ なるであらう㌶州論を瀾的に雷へ∫ば、高松藩に於ては天保方年砂糖の聾賢贋碧蒜に於ける滞礼賛行高は四億 弼に過ぎなかつたが、後に虻七八十乳酪に上つたと謂はれ、これによつて吸収し得た正貨は天保七年以降明治 ︵13︶ 和牛に卓るこせハ年間に千八百八十三萬繭徐に上るであかうと推算される専管であり、生辟九増加の間攣怠ハ 叱仰せ考ふべき軋題となる。 ノ′hソ 高橡藩に於ては、文化年間麟儀め時代に於て、∴ずでに﹁禰通用録札大数に相成一正金銀引換多く迫々札食掛 第十七巻 第二、三折 、〓四二︶ 四二

(8)

︵14︶ / 之引換元金銀沸底、撃徐撃御濫貰の御貯金を以引換候楼戚行﹂とある如く藩札インフレーションあ周他に / ︵ 15︶ 苦しみ、東に正貨準備の不足をつげてみる楼である如、文政蛍初と蝉も﹁高松藤記﹂劫公上に ﹁文誉年壬午秋朝雨御礼部琴レ成供特典、東而御免代以凝御膵事向必至と御指支之申、昨年御隠居御家層今年京都御 健脚勒彼足之御物入に羊†大久保飛騨知行高之内千石薔分謹上、御家老共の内高藤之聾憬何勃も知行高之内相應持上 げ御急場之御凌方御手僚仕供、此義は古来例も無レ、之至而御不本意之御養に付、程なく態々御返⊥被レ車焼得ども飛騨 精選は多分2義政御行贋、警量工賃天保五年甲牛に至漸み学義レ†供∵ ヒP と見える如く、天保五年に至るまで、九代藩主畷恕の賢明さむ以七しでも、財政的・忙徐裕を生ぜし.めしも欄と \ ぼ混られないので雪て、疫人の減俸を、大久保飛騨守の毒口を除き、ノ漸︷十三年目に復活した藤枝であ る〇 斯かる満席疲弊最札慣値の下落ぜる菅闘時代に直面して準真東恕︶は寛速水︵政典∀木村通明︵獣老︶両家老 の如き財政家を資用し、文政八年十こ月にぼ、久米典左衛門の思ひ切った行財政薬理策を用ゐんせしてゐ巧? ︵16︶ 、 今、彼の模範案を要約せぼ次の如くである∩ ︵こ 癖財源の増魔方迭を講する琴 ︵ィ︶ 砂膳製遵染着の保護策 ︵ロ︶ 坂出川田を開くこと 高松滞に於ける砂糖僑替の研究 二四三︶ 四三

(9)

等であるが、此慶に問題上すべき滞財源の獲得に就では、坂出墟田を開き、宇多津増田の築造設計、特に袈蜘 業者に封しては徹底した保護籠、番安類似の放棄にいで、砂糖栽培資金・肥料代等の生産資金、大阪へ砂特を 除法する馬の鶴巻資金の貸付を行はんとし隠のである。久米柴左衛門は此等に放ては金く城私奉公自らを犠牲 とし、決死の餞悟を以て常り、坂出蛭田開蟄の問題に放ては憶に大成功を収め凌のであるが、彼は事前に中歯 地方.阿波。舟簡等の墟悶を巡硯し、饗壊方法・其の他資質商慣習等を賓地に躇奄して胸中成算を得、表せ製 糖薬の儀詮籠を辞す、べきこと、併せて坂出墾地の喋る有利にtて港の取巻む増し得ること、砂糖の利子金育三 十悪風目。地肌の口銀百四十草月合せて二百七十五賞、之を米に直して四千石となり、輸入を減サること六′七 草賞自徐となる、べき寄を藩に向つて建白したのである、。 既に柄蟄革安政発にいでんとする藩主臓部の此の女政末の気道は、天保六1年十二月に︸たり、札命朗元占役 日下俵屋街門の卓見にょり、一應勘定奉行の争を離れ、猫立合計準し方として金婁成り、諸説赦々養る中に噺 ︵17︶ 行﹂大いに鹿功を収めたのである。﹁高聴滞記﹂に従へば、此の問の事情を次の如く侍へる。 ′ 第†七筍 第ニ、三窮 ︵ハ︶ 宇多津墟田築建設計 ︵二︶ 魂下への輸入商品を制限して閥産品を奨励する事 ︵三︶ 嵐ケ年間諸寄節約の厳命を賛する事 ︵四︶ 節約年限中役人聖二分の正に減ずる事 〓四四︶ 四四

(10)

﹁鬼や角評議申今年も葛に及、御役人君田感のみにて致方無之妖魔、右儀左葡門軍、経済に長じ非常之辞盟有之者に付 迫々防人相嗜、璽二年之後は、毎年八九烏南飴拾亀爾、其後は拾四五番爾賦拾萬爾に至、十月よケ十二月迄に御貸薇下 か掛い㌫掛恥恥 御借金銀御返済之叫筍密卜勘定智行の手を離し、儀左衛門へ御委償相成供崎ヾ、必其任に堪可申旨、覚速れ中上俄に付 ヽヽlヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、ヽヽヽヽヽヽヽヽ、 御瀾屈に相成、女之温故仰付供、こゝに於て只今迄、御世背カに而御借ク金銀御返沸方に指向供墳之米、金銀品々御酒 ヽ ヽ・ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ.ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1・、1、、、、1 1、 1 1 1 1、、1 1、、、 ヽ ヽ ヽヽ ヽ ヽ ヽ し方役所へ受取、元立と致、急に札曾所之在銀札各級咄し憐て有之潜糖御希替金御貸付に致、元利共速に正金を以大阪∵ ヽヽヽヽヽヽヽヽ 桝屋敷へ相納させ、御借り金親元利少々蒐相排、か漁少に御義理を鼠申候十有馬替御貸付、今年は初年故少数に険待共 ]ヤ掛れ臥軌臥軌動乱軋仇乱や凱軋れ軋軋軋仇針欺凱か蹴軋軋机、卦中郡掛㌫か朴卦勘掛 ヽヽヽ 約任侠﹂﹁傍鮎筆者︶ 斯くの如く天保六年末、御臍し方開設の準備金は御世背方より〟時借入れたる米及び金銀の簸であつたが、 之を引歯として札倉所より銀札を繰出し、扁謂椅懲を敏行して﹁沙桝御為替金御貸付に致し元利共速に正金む ■ヽ︳︳ヽヽ●● 以大成御屋敷へ相納させ﹂たのであるが、此の繁衆の基礎は重く御馬事金御貸付に存するめであつて、此の御 為替玖意義たるや決、して狭義の罫紙なる迭金髪息昧するのではなく、あく㌢でも窮義現貸付事柴庭包含せ各資 金融通を汎解するものでかると解きれる。斯︷て高松港に於ける砂旭馬沓は、代金取立手形、大阪移出の為替 資金の麿付等の外に、生産資金の貸付方面に於ても遷要なる役割を嘱する事となる。更に叉方式の完備せる審 には↓下部組織に於て組胎の・制を採少、渾肢を以て劃組とし、焉沓金の返済を滞る苺なぎ楼.次の如く連帯笥 任制を線らしめ、隣保互諒の精神に知り、大いに楽典簡を諦ぜしあとが親はれるり 高松津に於ける砂糖食管の研究 二四五︶.四五

(11)

﹁為替﹂の重責は釈義の立場に執着する必嬰な軒もの主断定されるのであ′る。 ︹ま︺ T︶ ﹁興業意見﹂攣l、血二〇束︵﹁明治前期財政経野史料集姐﹂第†八替︶ ︵2︶ 谷口博士﹁大東盗耗野の哩諭﹂二〇九−三鵬仙克 / ヽ 第†七魯 第ニ、三獣 ︵劇四六︶ 四六 ヽヽヽヽヽヽヽ ﹁沙糖を硫送る‘には粗糖と科する著あ少、組贈は瓦版を以て仙組と為し、鶴仙界替滞る時は親内よう之を償ふの漁なか 少しが其の後は馨捌口餞の内よりニ†分の山を沙糖曾所に預け置き、此の内よク之を償ひ、串にして無事の歳は其の噴 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 金を以て田畑を買入れ、組舶の共有物と渇し、其の徳光を各自に分配し、萬劃焉替滞る時は、其の田地海曹所へ柄むる ヽヽ の約を盆せり、甘亦此の挨を叢みして、特に組船の硯を増減したり、其の後親船の者共に田を殖すことを書び、又抵嘗 の田を納れず不納ある時は組舶の者互に金を出して之を併ふの按を立てたり﹂︵傍鮎筆者︶ ︵18﹂ と﹁高冷藩記﹂に見え、海上の強固計る掛軸組織と見られるがJ文中﹁撃鶏替滞る掛﹂、の訂財など金ぐ欝軒 ヽヽ ヽヽ● 金と同義に鰍してよからう。右は熊野三Ⅷ関係文書虹於ける借用詮交が悉く蒜野三山番御修襟綻公儀御寄附 ︵19し 被薦療於﹂と必ず用ゐて、﹁御修琴﹂、﹁御寄附﹂が殆ど名目的意義以上に出なかつたの,と、同様の意味に於て、 ﹁法制史の研究﹂九一三1二四頁。古事嬢苑、産業部︵二︶四八六東 ;1︶ ﹁日本経済乳融典﹂上攣こ八八廣 ︵5︶ ﹁金融大部典﹂第仙聡三三〇頁 ︵6︶ 拙者﹁熊野二山経済ぬ﹂山七二寛 ︵3︶.本庄・巣庄両博士﹁日本経済史﹂二〓ハ巽。平泉博士﹁中世に於ける社寺と政曾キの関係﹂ 山九七頁。三浦博≠

(12)

\ ︵7︶ 斯かる場合の﹁沙扶﹂は﹁公命に應ず七いふ﹂法制史的置董より遊離して﹁年貢凍上納する﹂、﹁物を貯ク分服し する﹂といふ軽層史的意義に解すぺ習である。すくなくとも聾者今日までの乏し針見解では斯ぐするが最も賓客 で・あると考へる。 ● − ︵計︶′声胃○鼠○−嶋Fe.ぎ計ia已Eg喜邑?l︼訂○ぢ㌔J名an、内叫。t。こ讐∬pマ一合⊥∞ぺ・ ︵9︶ ﹁日本経済史解典﹂上螢、二九〇某 ヽヽヽ ︵10︺ 此の﹁御篤替﹂ド於ては﹂誤孝に非ざる固白雪﹁馬御替﹂が﹁御用日記﹂に見られる。林田浦の大荘屋であタ、 ヽヽヽ 更に督所引請人でぁクた涯洩慣之助氏研赦ゐ彪大た﹁御用日記﹂﹁沙静方御用日記﹂の随所に﹁焉御潜﹂の文章が 散見する。 ︵H︶ 吾川秀治﹁脚治政府と名日金﹂経済史研贋第劇髄。菅野博士1﹁尾州家名日金﹂繹済度研究第四“折。堀江保赦 ﹁徳川時代の寺祀名日金﹂饉所論遊撃.石巻六駄 ︵ほ︶ 日本経済史静輿、−上螢七二二見、下巻〓血八〇頁。拙著﹁熊野三山経済史﹂三八〇1三九三賞 ︵13︶ 堀江保赦.﹁近世日本の耗弊政簡﹂二九⊥ハ京″ も ︵14︶ ﹁増補高松簿記﹂〓九大頁 ︵15︶ 岡津記、三町二頁。賢に徳川時代の役人の磯俸に就ては、拙稿﹁紀伊両親公の経済改発﹂︵﹁内外研究﹂第七懲、 第書籍四紫朗収︶今高の新法の項参照。紀州藩に於ては、′初代機宜脚の時代に既に官吏減俸のあとが見られるが 高松藩に於ても岡津記年表︵五九七頁︶に徒へば、.天保元年﹁九月雁座元支従来の減俸の外夏に藩士の祓を城ず﹂ / / とあつて、天保曹初の財政不如意の要が歴然と窺はれる。 高松薄に於ける砂糖禽替の研究 二、四七︶ 四七

(13)

四 砂糖鶉替の囁腰と各鰯食の層義 高賂潜に於げる完備虻ちか逐馬懲御慶は、適切なる晒業務制と相伐って、よく藩札の暴落を防ぎ、藩財政の 急迫を救つたのであるが、これは叉晒業者。生産者の側へも少からざる利便を提供した。いま此の砂糖為替の ︵て︶ 種類を﹁御用日記﹂及び﹁高松港記﹂の両者より併せ考へると次の七種が考へられる。 −○ ︵イ︶.般中濱替 産桝者は米・穿の如く秋牧獲の時静男する蕃が出来す公布の納入に窮するから各其の必要 ノ に應じて田畑の不動産を措傑に﹂.臍し方﹂樗出鼠せ、質際入用の叡を精奄の上貸付ける。此め貸付は、十月 よ少十二月の製線季節に於て製糖め倍格の七分恕貸付け、豊年八月、に精算返納させる。利子は月九発として ゐるが、英内二朱は禽所得灯し七術策者への貸付安住に任じてゐる。 √︵2︶ ︵q︶輪中荷為替大阪へ積出す腐高に應じて荷主に貸付を行ひ、潜阪より五日以内に大阪の砂腑食所に返 納せしめた。此利子叫分〓芥であつ宅内国凍は愈例の諸費に宛て、七衆を藩に約めた。 ㌧ ︵柑︶ 拙著﹁熊野三山経済変﹂近世第二こ七1四四二束 第十七替 第二、三携 ︵16︶ 岡田唯苦﹁久光発売額門建策の経済政発﹂︵﹁瓢潜免許究﹂第十五箇四班所収︶︷ ︵17︸ ﹁噂締高松涛記﹂三八二束 ︵18︶ ﹁同 上﹂附銀、九〇頁 ︵仙四八︶ 四八

(14)

︵ハ︶ 別段駕鱒甘庶植付人は、短年十で月を降り碗絨の八分を納め﹂層年六月を限り洩りの二分を約めて みたが、何れも石代買納でみつた。、然るた∴これで鱒節税期に白下特を安倉ぐ弊を生じる蔑め、自下牌を見 込んで栽培者に登金を貸付ける方韓を用ゐたⅧ ︵蟹座應二年寅十二月の帳簿︵憫透野犬氏析疲文啓︶にJ別段御篤替鮮並御所雰押頂銀貸方指引嘘﹂といぷのホあ るが、鴨柑千六首腎林園付紙千五官爾、西庄村千四宮前、鹿部柑九官爾、細谷竺ハ官南.∵高屋付千爾、江尻紆七膏 爾、\稽江村五官爾、坂出柑五首爾、御供所紆六拾嗣1カ生柑嘗五拾爾、腎海相観音南と失意各村別軒別殴食替及び御 滑し方への残を示して多ごり、之に墟って別段食潜貸付が各軒盟位に行遮れし均とがほヾ明察される。 ︵こ︶∴痕藤島替 振沓貸。挨馬懲とも呼んガザ、砂糖個格の騰貴を待つに必婆塘る資金を貸付ける方法であ 号、大概十月に貸して翌年九月に収納せし思と謂潜る。 ︵ホ︶ 奥印為替 肥料買入資金の貸付けで.ある。甘庶は.多ぐの肥料を聾し、牧柁塵を多くする為には最も多 ぐの胞料を施さねばならない.。政に作付後該肥料の資本宜して通常の貸下食を要する。此の貸付には里正女 ≠ \ は大庄屋の奥書を受け、砂糖愈所へ申儲つべきも切としてゐた。それ故輿印拝借の如名が思ったのであら うご冗憺資金を貨興し窄が.他に流用する弊を生常食から、のちには贋物即ち乾組。糖等の類を貸付けたと 晋はれるl。 ︵へ︶ 苗為替 廻臓媒彼等の大災其伯非常時攣に遭遇したる場合行はれ・た貸付方法である。之は預てより砂 高松滞に於ける砂糖為替の研究 ︵岬四九︶ 四九

(15)

随所に﹁葬倍仕金之事﹂.として、砂折方より数千簡の資金を仰げる鳥のが見られる。 ダ 、 二五〇︶五〇 第十七懲第l﹁三渋

柄貪に貯増せて瑠蔓よ鎧摘即絹謂㌫翫紺︶叉墓所品を以て償却させても溜年に捗らなけ

れば精寛し得ぬ場合があつたから斯く名付けたのであら・㌣而して此の為替金の償還に胱七は無利子年賦償 還の特典を異へてゐた。 ︵上 春希沓 製僻時期北殿出しなかつた隊糖賀春になつて凝殺す各時、其間の翻通を焦す、ものである・。 此め懇篤替は飴絆瞥城したらしぐ安政四年の﹁砂折方御用日記﹂”けどには/﹁春雷替ハ御出方甚ク六ケ数億而 ・ぐ御付登り老節迭り書並和英役励へ御差出ヒ成割印御名儲ヒ成候両船頭へ御渡シ可ヒ威儀無さ條而ハ大阪率 ニ而取柄不致候﹂とあるq 以上述べたるところにより船中為替。船中荷為替↓別段雷替。振替為替。奥印僑替車高為替も容廃墟等は牒 目こそ馬蘭であるが、其の鷲質は全く藩 薫らは㍉此等の敷金貸付が勘定奉行或は砂折方の役八が直接行ひ︺ものかとい溝、決して左様でぼなべ∵儲 釆め砂瞬間屋より抜擢一せられ・たる禽所引受人が.、適料の欣込から資金の貸付軋、いたるまで.、利殖の賓際的方執 を引受けた叫である.r、而しで、これには村役人を疲って、村協位に資金む放出し、自ら鱒容こト三首唱青入資 金を砂臍方に仰ぎ、秋十両何に元利共砂肝方︷上納してゐた。涯蓮氏焚書には﹂簸歳の﹁砂雛方御用口記﹂の 拝借仕金之壌

(16)

御巻﹂捧妄どとせるものが乱打内容竺管七て、此の﹁御薦藤こ加二.貸付金﹂とひとしきむのと骨かせられ

る。隠して、金銀貸借に就いては、何時の世に優っても資金融通に射し、その返済期限に臍心得ず滞れ

多く存するが、百問町選民の蒼入れたる文書に封し﹁其方親CO有生中去ル申年製鵠替御貸附金御仕入肥代金 \ 莫大不納m釆且亡組父機御舞倍銀等相濁候分夫々政調急度申付溝も在之候得共山件調申00偶数腐死最卑右済 候儀二付不及其沙汰﹂とて藩は﹁格別之御憐慾ヲ以其方1仰引続砂糖愈所引訴人申付候﹂とされたる菅例も存し 阻治元年十一月の﹁大阪命断金恋敵書取納帳﹂に就いて見れぼ∵前掲各為替の場合を叫結んて 高松藩に於ける砂糖席替の研究 肴潜此度砂糖難御貸方之蕊引受ヒ 仰付酪二付琴空比倫二面右之通拝借任侠所安正也引常之我ハ先達而持上御座供由地 山林等御見込可被下快挙ル止ハ患〃月八朱之利息チ加へ兆ル十﹂∬限正金モ而上納可仕供食後日偽如件 文久﹂ニ年亥正月 林田浦砂糖砂肝引受人 砂 糖、方 御 役 所 仙金千八百嗣也 一九膏爾也 劇九官嗣也

渡㌧退

儀 助 之 ︵〓皿二︶ 訂二 弼 ﹁牛︵歳︶製鵠 ′

(17)

\ 二空こ 五こ 第十七懸 軍一ごエ鮮 之に封し、﹁家内共和順−姦後見人共申合摘節倹相守精々元銀上納方出来健棟心梯町中候﹂と結んでゐる。高松 港が愈所引請人に封して斯かる寛大な乙甜濃をとりつゝも、、其の貸出に就ては撤珂徹尾限月準椚教理貸酎を奴

有之過敏仰波有之伺宥之趣大庄崖へ役所ゑ申参不洩様相々へ申開三相成事﹂

依之讐∵是潜の砂釈鑑別は共慧の貸出に於て訝なる純粋教義の金融的況損力葡のみに限らや、簑的

流通の部澄も深く鯵透し二更忙村役人を通じて指導的立場妃たち這めて細線胡に貸竪行ひ、役人に封し、 /

ては取立茸任逐負はしめし跡が撼然と窺はれる。

軍 役臍茶統と嬢黄統制問題

めたる例として次の如きものが存すろ。

東 西. 砂 糖骨 折

甘凝付之肴共へ細仕入凪2義肴製作人英霊校ニト格別之讐望蒜嘗と下供撃有望乗而相箸之低温辱歳 三月限元利返納可仕窄孟近頃限月延納三相成中1嘉署御貸波之時節二至ル迄屯営約不相成村空有之警相聞如

何之睾工候有食付方之義ハ何役人共へ御任芸之義付着機不締之義ハ有之間数警快慶全紡各手元二而大任成貸方仕供

養共ハ無之蔵粂申開有之追付後入見込之人別分外工芸快哉ハ不相成倍又甲二而モ返納相滞留供村雲ハ蒜貸渡無

用二可仕供

月 正 ︵4︶

(18)

高松港は砂臍禽例の上忙資本家として君臨し、田地・山林等の不動産む措保としで藩札、主と心て儀礼を琴 付け、必賓なる正金銀の艶得に便を得たのであるが、天保六軒には極めて紐椒的をる産臍保諾政簸が棉立せら ︵5︶ れてゐる♪砂借方・辞し方・砂桝合所・砂輝取蘭役の四役所の設置がそれである。前二索は藩吏を任用せかも のであ虹、後二者は農民及び町人の有力者を起用計る民吏であるが、.就ヰ愈所は最も濃霧なものであり、之に 放ては改めて次項に述べよ′ュ。 ︳ヽヽ ヽヽヽ 砂緒方は砂特に関する㌦切物事務を綿増し,砂簡閲係の貸下金を許可し、乏を廃し方に通歯し貸付を偽さし める役所であるが、此等野栄従専の官吏全般に腋年々潤肴を賜ひ、特に下級膚吏の優遇せられし例が﹁徴用日 y

記・夏所に散掌る、酔いかはも守宣礎奉行に隷攣る恩義鼠の賃で雷と見られるが

開設常軌た於ては乱倉掛の充占役日下儀左街門の卓戊は高く買はれた。之に就ては彼の意見を楳碍しで薄主に 取次げる家老償速水の功繹も見過す事は出猟ない。常時文化初.期の錦札イシフレイシヲツ の㈲に、斯かる貸付寄柴の危険性多きを主張して反射せる蛮多かうしは、﹁扱右焉沓御貸付之銀札は、多分札禽 呵之祭礼を借受、御貸付に致候事に候得共、先年之如く、通用銀札之多きに苦み候寄は曾て無之慣1此寄初之 ︵6︶ 緯は如何危み候者多く有之候得共‘儀左衛門故初より洞見致候義有之朝も相動き不申候﹂とあるによつて諒知 ヽヽ▼ される。而して此の解し方の意義は、楢葉の利潤によつて燕僚を朔僻する義に解きれることば二見松藤記﹂懲公 ㌻/︶ .= こ、 高松藩に於ける砂糖馬替の研究 二五三︶ 五三

(19)

● 、 ー 、 二五四︶ 五四 第十七巻 第二、ニ﹁既 ヽヽヽヽ ﹁天保六年乙未十二月九首 新に御暫し方と軒倭所御取立、札骨折元占役日下儀定衛門へ有役所引受乗数轟仰付、吟味 ヽヽヽヽ 役松原新平、北村佐七郎へ指加ク鹿仰付供、有御瀞しカと申は、江β上方其鎗とも、御借金銀御返耕方相計ひ供養ぷ、て 前々より勘定奉行持前之為に御座険魔此度引分ガ別人へ被仰付倹子細は:::昨甲午年にて満期に付、今年遊より相應御 ㌧いー、 排方無之候而は相済不申﹂ − とあるに依って明察されよう。斯くて此の高給藩に於ける前記二役朗系統奴﹁御世帯方﹂札禽所とは水魚の如

いにて御層公︵雛飢慧末年に恩恵駒場全署し\て、御酒し方にて針食酢備蓄傾ご・・

只今道雄義之賂刷たる御借金鋭御返班方、並札合併引替克之差配を、御済し諸にて引受申候問、漉後は何角之 、l 融温能く、今年より少々宛之御遽ひ凍り金有之候而、公御莱年虹は御軍用並周年御手常之御厨食も糾應相備中 ︵8J 候﹂とて、大いに治績をあげたる廟がしのばれる。 ヽヽヽtヽ 砂糖取締役は川単に砂臍係とも謂はれ、砂糖鞄魔の直利あること㌢農民に誘導・勧奨するを臥て任務とし、こ れには叫郡尊の富盛特志の人を選び、其功如何によりて砂桝倉新校長上帝しく帯刀を許しハ或は士族に列しハ 拝謁を賜ふ特典があつた。選に下部組織と

乃還朴に琵隼、昔は賢溜㌢の春秋工学に警旦掴認詣叉︶しか年行計略

時々各村の製糖場を祓察して粗製濫造を禁じ、叉甘庶紆相場及び搾り人の労賃をも決定し、放で不都合の寄 ヽヽ 意き棟勉めたものでかる。独文製造象の長たるものに二十嵐軒に意の細我があり、共に民選ではあるが其の J

(20)

ぜ ノ 壷官選と均しき樺九を有し、臍染下部自治組織下に放て大阜陀活躍レ、、生産力の逓増に買赦せるむのであるヶ 砂鞘倉所は大川那辟永の大山家文書にょみと﹁寛政†嘉鍬朴讐などには政所の欒形せるものJして﹃砂糖 蒜此巳後禽所高取扱歴とあるものも存するが、其の虜ぐは の→牛民寧官的の霊であつて意ハ引請倉貰裕誉者多く→自らの嘉。田地姦管して藩諒闇し、 藤よりは茸額の銀礼賛拇甘受帝、之凌殆ど自己の危険に於て糖共著に野付け、乾蒜凝着が文飾に應ぜざる場 合、或は能はぎる場合は、自ら桝償の薯詰む負うてゐたのである。 ’ヽ︳\︳︳ 他方生産者側の牌巣組織より見れば∵綿小屋及び搾屋が作する。常時讃岐の小農民ば東部分縮小屋に於て石 串せ使用しつ昌→特の褒迫を行言ゐ芸で揚るが、夷保六年、蕗は此の白下桁製造警株制度下に奄部硫 、 ・ポ 坤ヽヽ 制せんと企固し、願出による鑑札を交付する事とし之針尊株と稲した。畢株竺、故に付き毎年二分の冥加金を 徴収し、之は取恥を通じて砂糖屠所に納附せしめたが、楷華黄金時代の串株は五千償眉の多数に上ったと謂は 、、. ︵9︶ れる。吏把天保六年に腰、従来より白砂時の密造を行ってゐ空自農には搾り株が交附せられ、か、る株制度下 ︳ に其の礪占的地位を保障せられると同時に、領内百家に限られて厳嶺なる統制監督下に入そ﹂と⊥放つた。 ︵註こ 而して藩に代つて、草株◎搾少株。仲買株の下附並に冥加余の徴収に開興せるものは勿論砂晒命所で思っ ヽ た。 ︵詰こ 仲買棟とは蹄小屋Ⅵ製造せる自下楷の購入を発とする仲買人の徴であク、此等の伸異人も亦統制せら ︵=血五︶ 五五 高松滞に於断る砂潜替烙の研究 ′

(21)

此等役所側及び民間生産者側の統制細緻確立するやっれ、すでに串株。仲買株秒紬舶株の蛍買譲渡する者も 規はれるが、此等に放ては項を改めて述べよう。元来砂糖は生産者側より或は販賛時機の間組よりして相場の ︵詫二︶ 欒動甚しき鴻のであるが 前者に封して吟高松港は下部組織に連帯安住恕とらしめ、後者に勤しては㌦種の1倉 慮制をつくり、\大阪方袖に粒出の産糖を最も通常なか時機に於て殿も高備に褒却せんと企閲し、ために大阪砂 ︵10︶ 折合析に敵別商人をおき.常時最も借用ありし豪商厨川屋などが其の局に常つたのである。 ∴寧一︶ 砂糖相場の醸動性激甚なるを天保六年蒲統制宋確立前の停承と伸詫に就い見れば、興暁探巻封比が坐れる。寛 政未の停承には、﹁四斗樽血挺の白砂糖は四斗樽山掟の践に?められて大l況よダ締る﹂とあるが、天保初期流行の 子守唄には﹁砂糖作計太ら菰から作れ、末は薦着て門にたつ﹂と詫はれたと首はれる。前者後者を判比すれば、 よくその得意と失意の相貌か戯はれるか 天保五年頃大阪に於ける蘇州方砂特阻屋及び仲買につい㌧て見牒砿、高松滞桝屋の問屋仲間は﹁讃州方和桝引 変相屋﹂と謂はれ、藩指定の特定の問屋に依って﹁東軍﹁なる仲間が肘衆てゐ尭。一而して文久元年秒記録にほ 大阪に於ける問屋吟、丸清√阿波螢ノ↓丸富・泉苧。丸罵之助・阿波仁\・阿波菩。但馬小・佐野紫。東庄一。阿波 /︵11︶ ′ 儀。阿波定・加賀脚ヤ加賀甚Ⅶ池伊。大根屋元助・。佐野屋市太郎・砲旛尊助の拾八軒で臥つたと謂はれる。 天傭十五軒相野郡汝どでは、砂晒値段下落切ため小百姓共上約束物に困窮し、天保草年以来の無利碗貸米伺 第十七巻 第二、三舵 加金〓朱を納めた。 ︵二鳳六︸ 山嵐六

(22)

十五年に約むべ澄を厳に蒜年鵜預されん事を吸出押組頭勘九郎還御供所柑係助以下・東庄村議l谷村′。か

も相違海相蒜江村。林町村。高屋相違部材。乃生村◎江尻柑未津村の十哀針庄屋が大庄屋涯遜八郷

右街門。岡本條利太右循門に軟願し、此両名の大鑑屋は﹁此節に重砂糖値段苓1下落仕其上碇と買入も無御庄

:∵・中年軌貸空茶魯宣御指骨恩顧之⑥芸嘗とて姦鞘十‡甘司巌願そ周っ

● 人12︶

いでゐる。

最彼に砂桝島竹挿倍に就ては杵役人がその倍諸に連帯保護の引受を為し、奥印等にて丼侍し、相場欒勤の危

険負擦等をも馬すの故を以

七、蓋㌃さ針嘉㌻牒吹急き惹膚㌃女竺砂糖敷革︵班調氏︶の

終りに見える。

劇、砂糖馬御替拝借之儀二骨而ハ毎歳入歩御年翼等稽支供節私共引請奥印二而拝借仕大坂琴へ引常砂糖碩麗高利上納仕 死居中御蔭チ以譜上納無象瞥止私共おゐても難有仕合存候併有砂糖此元二而雷排且下落等之節不納相成限月遅滞倫曳 転変拝借等奉頗候節引恩田地米篠政調描出来居申候右奥印食御替之儀者大下落等之節たり共元元爽村役人共引締拝借 ▼bヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 之撃−付仮令到達仕供而宅急迄聯御厄介不審麒無事相立居申供給ル﹂轟倍仕快人別之併三而ハ右加判等者村役人共役 ヽヽヽ J前之校相心得居申低特典砂糖仙條こおゐては私共始組頭至迄大二手間取甚迷惑仕供万両見込達相滞供節潜列迷ヒ仕無 事相立院政是迄九朱之御貸方御座候得共蜜朱御上萱ケ月璧歩苑之御貸方披仰付璧未着村役人共筆紙料として鞍下供ハ 高松繕に於ける砂糖食管の研究 口 上 ︵叫五七︶ 五七

(23)

が斯かる引受行革は役人の歯讐役前なる如く考へ′るは言藷同断賢とし、砂糖為替に於ては甚だしく手数か

⊥意、筆紙料竃目にて宗の利上漕要求し、之濾務滞空倍量凋に是せしめ、儲芸政所の役負

句 / ・ヽ に下附きれん寄乱数廟して\ぉる? 六 砂糖食瀞及び出骨折の簡題

軌条蚤†にあつて蓋優惹剖㌢るも

の所詮に典接しで、爽の如く附録に添人てゐ′るが、厳密な定義は別と←て要鮎が窺はれる。 ﹁天彗ハ年高松と大阪とに沙掛曾所肇設け叉梶葵の讃港には沙糖問屋脅置き之に諸宛替貸付金等を据任せしめ、沙糖は大 へほ︶ . 阪に癒せ鍔蒜ふに随ひ盾に其の代金を骨柄に約めさせ、曾所は昇の正金を獲る忙院ひ、藩札引換の準備と発したるなけこ とある。 1 ︵妄八︶ 五八 第十七魯 第二、三親∴ 、雛有仕官壷焼左供ハ、拝借人別之者細則願出供節英殴串間候標可仕供此殴御間空相成憤棟宜被伸上可被下供 以 止 9林 田 村 政 所

十 一 月

庄 料 八︵欝酎−エ ﹂\

疲逸棋之助 棟、

右の如て奥印為替に裁ても村役人が連帯しで引受け、上司に迷感をか〃ざる棟数し居るⅧ拘らす、債務者側

(24)

天帆六年に設定せられたる禽所の融身は∵九死砂醜聞屋でJ名で、此等校風のうちに鳩民間より起用せ〆れ

士分に取立られたる者多きだけに、其の柄巣夢路に‘は精通してゐ嘩忘管肯は極めて低利に銀札の軸通を受り

之を柄発着に自2の免償に塗し貸付るもので雪て、其のため若し資金の回収不能に陥りたる場合は自ら舞臍

跨り、其の時警去へ凄肥料晶よ晶入し妥品分する時の基の口威かも蘭ま有、窟へ玲逸し絡ウ 匂

すべ奮賓を負ふてゐ宅﹁砂桝方御瀾日記﹂叱従へば、其歳の屈月より始め、十〓月までに、田地山林等を舐雷

として、禽所引請人が砂桝方役所よ

であらう。

砂桝鶴巻には、船中馬警別段鶴巻晶印焉替等の如く、\資金が所謂生産的金剛砂方面におもむく場合、啓∵

に船中荷馬懲の如く鰭期の純粋馬巻金融を馬す場合、其他振替薦替の如く債格胎費を待機する投機的金融に差

向けられる場合等各種の場合が考察されるが、禽斬の仕漂資金を蕃に仰いで蓮輔資本となしっ1此等勘考に

て貸付利率と借受利率の差額収麦芽にい告迄、幾回となく巧みに慧若造蛸しで表慮富ましむる償動

力姦いたので雪。儒しで、砂誓所は、草株蒜品・仲買株の→瀾並に冥加余の徴収軋募り、藩に代

つて製糖業者の直魔の監督を行ってゐた番勿論であるが、更に搾屋十縮小屋などが紐解によつて牒の大阪砂糖

雛㌻肯する砂糖は、悉く此等高蛋愈所の番前検閲を受けてゐ庭のである。

︵空︶夫阪木津川蝉に高給藩砂糖合併の創設せられたの時、天保六年である。然しな′がら此の曾所は大阪商人の群衆 ″ 高松藩に於ける砂糖食管の研究 ︵仙五九︶ 五九

(25)

︵﹁六〇︶ 六〇 第十七啓 第二、三携 h可 を退け褒糖を有利に欺頗せん弟に藩が企園せる山積直皆の倉康集束務制のものであって、糖勢資金贋典を本務とサ ま同校薄内の癖糖骨柄とは、自豊ハの趣増を異にしてかたと富ひ得る 斯くの如く砂糖倉新株高松港の櫓光政策上重要なる意義を有してみたものでかるが、今文久四甲子年正月﹁砂 〝 ︵孝 ︹空︺ ︵14︶

か愚計垂掛︶同郡靂菟敬離翠駅︶寒川郡酎恥揃︵閥即刻離︶同郡か斉諾齢︶

城三

、涌出 ) ヽ 誰劃 此の砂糖方役所より各曾所引請人に通告せる文輩の主旨は、江戸簡潮解一下目の豪商森田屋牛典衝に封し、年額 一 約定薦楷の御周糞に於灯る直賓を許可せんとする旨鯨承方を乞へるものであるが、江βへの直賢を統制上差痙へる 建前な少し常時としては相常無理な命令であつた。併し、、巨額の冥涌金もあり、涛席仝髄としてこわ措置はやむを 得なかうたのであらケ。 謹二 乏しき筆者の見解では∵今日迄に野栄されたる諭衣・爾典では1・高松滞に於ける砂傭骨折として、林田浦・郡家 浦・浮元浦。志度浦。浄田浦・三狙松浦・庖清浦・城下甘間町い吼隊旗町を撃げるのみであつて、.配下出骨折を拍 ●●0 痛せるものは皆無であれ、哀に輝元潤に就ては、隠草本の絶ては浮を潟に訂正すべ巻である。;の諏膠箇所の指 軸足部伸許︵相即和樹所︶ 下) ′一−−・・人⊥−−ヽ 丸占官○ 穐○問ノ○ 町○町○

(26)

摘は、此虞では者ぐことと乗る。撃督の典墟資料は勿論膿通英夫氏所赦文替である。 註三前記芙留の御用是では、このところ只松太郎・息五郎の羊冬の甘藷入湯慧るのみであるが、此遠出 文の﹁附札﹂により首間町・丸亀町の嗣人 以上の九脅祈。土ハ舶脅研があり、此等二十草骨所が常時の療典故籠金融上小菅俸を掌握して.ゐたと云へよ

スノ℃

斯くで高給溶の禽朗は藤野強力的販茸統制の中指機関となつたのであるが、元水、高松港の砂研承引に於て ノ

‖■

捻﹁二分荷中津﹂が原則として採附された二・こ分荷の撃とは細船の船頭が税登れ′る砂晒荷の中、身の二分は 東阪砂糖愈桝に水揚して、禽斬より直接御岸数立入仲買に蛍り捌き、残りの八分は訟州方砂癖引諮問屋匿水塊 ︵15︶ \ して▼骨所に於ける落札憤格懲梗準として褒捌く仕方である。安政二年五月、但馬屋小兵街の改革案に鳩首樽 のれち武拾得は間食桝上ケとし、嬢額八ね縛に付ては、囚拾博は附問屋とし、北ハ餞用捨椅は四等分圃引とし ﹁是迄荷物上り余儀ものえも平等に相成﹂嶺均質せしめようとし七ゐる。 定 仙御国元御迭ク状高砂糖古癖恵三制 止内 御骨折止ケ 仙賦拾楯 高松蒋に於け各砂糖秀替の研究 ︵二ハニ 大山

(27)

附問屋上ケ 依 〆 脚四拾櫓 筏四拾梧註を四ツ‖ニ劉拾櫓四軒外ノ問屋闊引を以水塊鹿致痕苧尤是迄問雪々二掛り在之椀細々者掛り間璧ハ隼 水損偽致相磯ル分仲間勉立食二而閲引いオし相恩り供名荷物申受候事 仙御荷物積管す何撃扁も有利合を以取扱之事且百楓以下.は御許所ね水損蝕は附問屋ね皆野荷受番数看官檻以上は割 合之事尤以下たカとも贈誠衆L口之寄 附少 者鎗荷物訃撃姦陵時は是迄禰物上り乗慎ものねも平等に相成扇相宿可仕首然不法いたし供者ハ有閑之節■ や ■ ﹂ 由隙取締致し飯事 而して斯かる場合、問屈は猫立計算を碍さやして、ロハ単に砂糖の栗東挽きを委託されるのみであって、砂糖 代金は禽別の手を経七彼等の手に入㌔触頭への文殊卜必す砂釈静所町計算をくゞつたのである。 藩の此の強力的放資統制も安政に入㌃に及んで弛みを生じ、搾屋の・Jちにば、船頭に委拝して直接犬阪の砂 糖問屋と相封褒賞を始年取貯封岸の三倍緒払、兵傭・三河。尾張¢伊勢q江戸方面より北園地方へ也凝訂砂 糖を嚢甘如く者も生じた牒沿安政三年に草 相成其上で旦入札﹂と決定され、二歩荷の法も∵障入札﹁手殊に変じたが、然し﹁御国馬巻付居中鍛分ハ格朝 l ノ畢∵散乱迄之通取扱はれ∵貸付ほ依顔行はれたもの︷考やられる。今∵常時安政五年頃の造貸を見るに、 ﹁盲砂糖嘗下地欝星空潤箕宗厘之所此度画展相檜痕都会空Å綱謂凱摘詣︶ ︵16︶ 山楯物資挺二付足迄運倭武匁之虞わ此度五分相噂退部合賦匁五分﹂ 第十七啓 発二、三鋭 二六二︶ 六二

(28)

とある。韮に輿保革ことは∵但馬屋小兵街の叫壷乍愚存率科上候﹂にある如く、御国届篠湘より東は銀高に相

成敗夕飯行くも、浄田よれ西ば勘定恵数胎々鹿批にて不正の轟も出来る政道食掛方被偽仰什様忽朗せる番であ

㌦、 る。大阪への蹄離か常戯考慮に入れられるべく、上梓賃。仲仕皆の騰貴が問題となつてきたのであらう。′

七廃館生産力遮嗜の問題

喝 メ 静岐の砂糖は寛政二年、/向山周於が始ゆて白砂桝四五十斤を製造してよわ、逸材の爵農によつて≠庶の栽 培、秒糖の製造が試みられ、藩の蘭越的保護策にせ少、寛政六年には耽に黒砂晴々、同十年には白砂糖む大阪 ︵け︶ に麟出したのであるが、之が慶應二年には糾千萬斤、数糖輸椚撼激闘拾萬樽、甘深作付反別八千町歩の丘額に ︵18︶ 上b・、鼻息に幕末に於ける金団塵楷額の八割艶世占むるに至つたのであa。・嘘って、こゝに製造工程を概観し で、計数比較の問題に移らう。 \ ︵こ 甘庶の栽増尭づ原料たる甘掛は、四月頃排水良好なる土地に植付けられる。甘蔚の栽培には多量の 肥料を聾し、大腰〟投身嘗りの適畳鰯粕は三十巽目、。油粕は七十業目上される。それ故、此の肥料代こそ讃岐 砂糖生産費目の重要茂る部分を占めると富へるが、遍傲時代には姦歩につき三柄二分の鹿度迄の奥印貸付が ′ 行ほれたと謂はれる。いま﹁明治四年欝岐全図甘庶初製折損盆比較表﹂によ少歯時の原慣計算をするに、初製 ′ 板生産費︻肥料・地代。輌靡苗。地輸入夫ち敷培人夫・漁漑人夫。収穫人夫・別皮女、・繰千人犬。製煉人夫・ 高松祷に於ける疹糖為替仇研究 ︵二ハ三︶ 六三

(29)

︵二ハ四︶ 六四 第十七魯 第二、吉野 絞牛蒜械損料蒜。栂・絆費の合計︼三か三園十九鍬瓦屋の中、肥料代︵鰯粕。適粗品︶は十蒜八十んハ 錦を占めて屈少、驚に白下牌生象費の三六パーセントである。 ︵〓︶ 自下糖輿蓮工程、和製胎を自下糖と晋ひ、其の製造は締小屋と雛する興研場で行はれる。締小屋は、 十⋮月よゆ二月まで、即ち甘庶政嘩虻り自下楷押迫の完了翠て約三ケ月間の恨小屋である。其の中では三伯 ′ の石串から成る甘庶搾什器を叫頭或はユ頭の牛が廻韓せしめて居や、之によつて山目的二百五十箕の甘庶が搾 汁せられる。甘蔚汁は釜屋で焚き詰められ、最後に冷し瓶に移され、瓶の串で砂糖の結晶が出来るっこれが白 †警柄する合蜜楷せあつで∴二百五木貰の甘庶から約芹︵訂冊虹︶嘉島た。 ︵三︶ 白砂桝製造工程 白砂柄製造扮工粗は、主として搾屋と謂はれる製開業者によ・つて行はれ、自下臍の 蜜を分離するにある。而して∴J.のエ程は、搾屋Ⅵ邸内にある軸場で行はれるのが普通で参る。押場は縮小屋 の如く傾設的なものでぼなぐて常設的なものセあり、其中には稜々の製糖器具が設備されてゐケ兜づ自下駒 を白布袋に入れて、職人が手で練磨し、次に押胎に入れて盈石をかけるd押般は、醤油搾りの群械に類似して をり、白下糖の蜜を分離する磯城である。練磨と腰搾はくゎかへし行はれて、二重夜の後に至つて漸く白砂糖 ︵19︶ が拇凍る。 斯か告二段階を経て行ばれる首砂糖の生魚は、盤政末年J讃岐楷葉が勲糖淡研究時代を脱して畿展期に八つ 雀頃には既に先成してゐたものと思痺れ\る。而しで、.此の家内手工柴的な生産方淡には、他面暇柴的には、徐

(30)

々に分化が行はれ、一般農民たる癖薬着は甘庶の栽増む日下胎盤迭のみを行ひ、富旗たる製特発者は甘薦栽培一 自下腑典故。白砂糖製造の、全工程を営んだのでみろが∵幕末に小たると萬下膳の製品庭締小屋より買込んで、 白砂術製造のみを柴とする搾屋も現はれた。かくて高低藩に於ける搾屋は、問屋制的家内工柴的性質を帯びて 欠いに敬屈するに革ったのであるが、、轟は特発統制政築の立場から之を抑止して、搾屋汰領内盲人と限ってゐ 0 たのである。藩の拇柴政策が幾晩共著を強力に疏制せる時代は、搾屋も縮小屋も共に畢なち製桝発着に過ぎな ぉったが、幕末に至つて滞の統脚力が弛綬し、搾屋は大資本を擁してヽ自己の傘下に滴小鼠を統率するに至つ た。而して、其の最盛期に於ける搾屋の設備を見るに、常時爵岐糖葉の中心地であった米西部の静軒の㌦搾屋

誉邸内には=高が締場︵‰舶琵≠盲場喪緋牒首ヤ押場牒六嘉針と其れ高宮

る器具を紐し、一匹の馬、、教頭の牛が飼養され、収穫人夫。剃皮女・馬方。故人。製法人●再製人。少年など 整ハ十人の労働人員が使附されたと云はれる。斯かる盲犬なる搾屋の教生蘭、鞍末鹿先島藩・岸和田藩。沖縄 等に於ても見られぎる桝であカ、此の叫寄鷲は、高稔蕃に於ける産僻生産力の増大をも裳零するもの′と言へよ ■ 次に讃醜生産力逓増の計数的間題ぬ入るが、潜牌の主要生産地、大内・審判雨郡に就て見る.に、寛政二年よ

ゎ慶應元年にいたる八十年問に、毎年鷺に制十七町弄段歩の平均を以て耕作段別を増してをり、就中弘化。凝

永の頻発全盛時代には、郡内甘蔚の田畑恰も林の如し、其の産楷額九百萬斤を節し、、内閲物産の主位を占めた

’︶ 高松準に於ける砂糖慮替の研究 ︵二ハ瓦︶ 夫妄

(31)

根付段別より見るもァ天保七年には千三百七十八町八段一畝なりしが、安政友年には三千七官十葦町歩とな・り

斯くの如く﹂天保以前僅かに三叫萬樽の蛮膀が、天保申年に政八鹿±干害三十栂た、十二年後の弘化五

年には十二馬二千六官十将に、更に甚後十年安政五年には蟹に二十二萬二千九首椅の激増を示してゐる。甘腰

▲ 約三倍の増加率を示しでゐる。而して明治時代に入れば必ずしも北の逓増卒を以て増加してゐないのであつ

第十七巻 第二、三携 ︵20︶ と謂はれる。 ︵21ノ て、同工十三叶kは三千九望ハ十二町八段飴となつてゐる。 今こゝに天保六年保鼓政資質施後の讃特産額逓増表を示さんに、 \ 備考 言竺垂辛目、償金二匁三分とレて lJ の表を得・天保七年よれ胡治四年にいたる三十六郎問崎通計を見るに、植付紙段別八萬七千九百草十九町六段 /▼ 八卦九歩とな打、一節年右期間の卒均植付段別二千田宮四十き町≡劫十五歩となる?樽数より隠れは、仙段歩

○ ニ○

︵〓二〇 六六

(32)

平均六樽として計算せば、五宙二十小筒十干五宜八十樽飴の宜額にのぼり、二開平均宙斤入とし、/副斤毎に懲

藩札二匁三分として計算し、、金品六十川匁五分の相磯にて除すれ管管に其の通計千八百八十き蹄三千五百

二†〓桐三朱の莫大なる額紅蓮する′之空一手六にて除し平均値を求むれば、五十二高二手首五十三爾飴とな

. 八 草梯・蘭監株。砂纏線船株譲渡の問層 近世軋於ける讃痛の領域経済清新・尋資仕法。株仲簡の精神には多分の囲管m位保持の覇気献あり、社々利 ′ ︹22︶ 塩を優外税せる血路中軸線。英米の紐帯や、蓮簡扶助の気分の横路せるもの正謎められる。而して融通性なし と見られる藩政統制経済にも、ノ其の営業樺の移稀などには、:裸身の便法があつた。例へば、家潜相続による諸 株譲渡の外、各自成魚が白弓の碓利株を賛部課渡する蕃も認められてゐたのである? 別所則文民所蔵女垂弘化四年十二月め店株御鑑札並肇晶寄人別相渡臍の連判帳には、′香川郡に於ける合計嵐 義︶ 百参緻参名の店株鑑札受取の連記各群認められでゐる。其の筈入線項には、立湯こそ異なれ、現時訂統制経済 の道徳律把努霧たらし偽るものが⑬り、各自が信州を保持して層品苔以外の商品は安らぎる寄、安く且つ正札 販資する寄、既納破りはせぎる尊等滋申合せ、更に女子供が買物に米′りたる時など﹁別而気付本営之商仕間数 、候﹂と云ひたるは、商索道徳局揚の問題が滞要請されんとする現時、以て他山の石ともすべきであらう? 少、これが‡末に於ける潜岐の㌻閏年製桝慣粛と見て差文へなからケ。 高松滞に於ける砂糖秀替の研究 ︵二ハ七︶ ⊥ハ七

(33)

鰭て次に︵イ︶串株、︵豊仲買株、︵ハ︶砂桝粗放株等の賛異議渡の問題に移駐う。 ︵イ︶翠株 砂牌認の殊に就いて堅剛に述べたる如く、高松港が自下脾製改発を株制度下に統制し、農民の聞 出常よつて鑑札を下附し、之を単株と科して、毎年叫株に付き金芦分の夷加金を徴収したのであるが、貞兄は 之貯依って、其の製造棟む確認せられ、此の権利は必要なる場合、譲渡者被譲渡者合意の上、移持せられたの ︵飢︶ であ驚次に、天保十五年の﹁御用‖記﹂に依って、其の驚例堅不さう。 ︵二ハ八︶ 大入 策十七懸 第二、三助 コ此度店株御鑑札並褒鼠啓御渡ヒ下難有頂戴任侠褒品番之外商仕間敷快哉ハ勿論惣崩御趣意之通諸品位入骨折坑共下級 二店々申合せ馨直段相崩貌ハ歴任間数倹銘々落舛千両正札商可任侠 l﹁商可仕供 奉防止供以上 天保十五辰年 九 月 安 井 新 四 ▼郎 殿 但東子供買物−¶蘭越供瑚ハ別而嵐チ朴不懲之商仕間数供 \ 有之通相守可申候著相背傾へば如何授典御脊可敦仰付除籍後日依而連邦如伸 未 † 二 月々 率 願 上 口、上 有ハ貴様私所蒋仕居申除塵此度膠手工付竿足郡東川津村官妹新赦わ磯波串原傑周何卒額之邁相済供機宜教伸上可ヒ下供 阿 由∵郡 北 稲 孤 柑 姐 首 萬

(34)

束條 和 太 有 衝再澱

ヰ 右の場薫阿野郎北福江村の百姓萬赦は自己所有の串株を年足郡東川津村百姓新赦へ安却し度き意思ある寄 を、闊江村の庄屋、安井瓢四郎に願出た伊であるが、同庄屋は更に、大井屋渡遜八郎右街門及び束條和太右衝 刊掟放つい招ゐる。囁の通り許可をれたと夢見告発に、か﹂る㈲の譲渡には相拡の場合もあるの㌣あるが、 之はまた別の磯愈の研究に護らう。 ︵ロ︶仲買株 縮小屋と搾屋の間樗介在し、小遊民縮小屋ひ製作せる月下糖の購入を啓発とする者に仲買人が ゐ凍のでぁるが、藩は此の仲買を沌株制度下笹統制し、仲買路札を下附して、冥加金二朱を納めしめ、英数糖 柴の靡穣時には千人に達してゐ克と謂はれる。而して、斯かる権利株は、嶺た資質譲渡された事勿論である・が、 藩は特発政策の立場から新磯を停止し、其の繹朝敵な檜さざる方針を森つてゐたものと早見次の如き、・弘化元 ︵25︶ 年十﹁月の庄屋より大庄屋へ宛たる﹁口上﹂壷員が存する。 \ ﹁ 右之蘭願出申供間鹸之温相済供機宜被伸上可ヒ下儀以上 九 月 膀 適 八 郎 有 府 門 殿

ニ 忘首二者砂糖仲買極少ク毎度菜支之哉申出供特典近頃軌株之義郷間屑難破成敗申開記御座候塵外宵者格別而砂糖製作

高松落に於甘る砂糖褒替の研究 口 阿野郡北閥江抒庄屋 安 ︵〓ハ九︶ 六九 けnl︼ ︼艮

(35)

斯かる庄屋謙蔵よりの申請に勤し.大群屋渡遼本僚両氏は阿野郎北西庄村百姓惣兵衛む新仲買人として推薦 したⅥであるが、.胱の畔上司にょちて用ゐられ・たか香かは明らかではな′\、用ゐちれたとしても特例喧騒する。 ︵ハ︶砂析組舵株 高薇滞に於ける砂桝阻酢は二百飴娘あり、之等腋五般を以て、〟細とし、、親令を仕且て、大 阪へ積登ったのであるが“〟株毎に菟許税金誹歩を約めて鑑札を受けさせでゐた。癒に述べたる如く、粗放蛛 高慣な砂糖を多く積達する関係上﹂非常の際の償却用与して道管の二十分の・ご質軍夙に開け、之を以て田畑を 購入、共有としてゐたのであるが、此等細般の株も、必要に應じて安却せられたのであが 以下其の文書を示 lヽ さう。

容顔 上 凋 上

r ∵私折井之砂糖粗糖株此皮膠事之筋御座候二付酋郡乃生繊度瀬丸楕五郎と申膚に課渡申度奉存供間此段相野憐様耳ヒ仰 げ 、 ′ 二七〇︶ 七〇 第十七懸 軍一、三胱 人且叔屋商人も御座候問ダミ大罠之著者仲巽家人宛。新袈ふ逆数行憐而小感之着ね者伸質相成不申万事事後二相成存 外損失等仕供養も毎度御座候面難漉任侠間今家人御周ヒ下供横断申出快足迄仲買手足不申差支混雑仕政義密毎度之事二 御座候閉路別之詩チ以申出之卦麗人御野せ被下供様宜数伸上何夜下候以上 阿 野 郡 北 西 庄 村

辰 †一月

庄 屋 渡 追−八 郎・羞 衝 円 本 條 利 大 石 緒 門 赦 」二

(36)

﹂ 漸くの如く祖胎株譲確を希望する坂出浦位晋丸、発音と譲請を希望するカ生浦贋瀬丸、清五郎の両者は砂糖 合併正向つて輝署を差出し、二月十四日砂糖方に申請、三月方日には塀相済とて許可されたものである。 上可ヒ下僚奉隣止焼己j 安 政 四 年 己 二月

砂 糖 御 曾 所

奥否定揺仕渡 奉 耕 土 口 上 忘度私義防手之筋御座候ノニ付常郡坂出浦佐書丸発奮萌黄之砂糖破粗糖株譲請申度奉備険問此殴相野僚機宜ヒ伸上可ヒ 下供奉防止憐己上 ≠

砂、糖 御 曾所

布者定法奥撃溝十四日仕腰精出供魔王片五日働相済陳殴曙光険二付英殴申渡膵 砂 糖 曾∵ 所 安 政 四 年 已 二月 高松滞に於ける砂糖食管の研究\ 坂 出 浦位.薯丸 ′ 乗 カ 生 浦 凝 滞 丸 ︵山七ご 七劇 苦 列

(37)

允釆、 て行ひし金銀の貸側室口ふ町であかが、諸像は何れも名白金の貸附を行ひ得たかといふ、灯左棟ではなく幕府の 一 ︵27し 御三家たる水戸・尾張・紀伊の諸侯把限られゐ夜といふのが畢界通詭となつでゐる。いま、水戸藩の分身とも 見られる高松藩の砂糖為替に放て見るに、其の名は船中為替。別段為替◎春為懲等の名目を附してぁるが其の

牒は掛鼻緒窮謂攣︶或は億といふ針㌢に行へる苧の資針僚附聾湾写れが、 ヽヽヽ

単純なる金融的流通行程笹於ける資金の増殖1少くとも熊野≡山貸付金の如き銀婚供大名貸1ではなく、生産 的金倒に深く鯵透立脚し、終乎ねる企意と統制の㌢とに行はれたる藩瞥統制の仕放であったし、熊野三山貸付 衆望ハ拾五萬五千四眉七拾威繭藤の債権を残して失敗せるに反し、高松藤のそれは成功したのである。 ︵ガ︶ 此の金軸乃至生産統制は慶應三年﹁散開問屋水場共通令﹂の出される幕末紅至つて大いに抽接し、落自照の ︵β︶ 政策にせ遺憾の鮎が砂ぐなかったのであるが、文化一文政の米主糖彼の時代を脱し、天保末から弘化琴氷に中 朝ての所謂砂析寄欝の横磯的保護策断行時代にあつては大いに治績を功げたものと見られる。兜づその第∴の 琵点は生産力の檜大でかるが、天保七年の甘庶作付段別干三百七十八町八段飴が十二年度や弘化五年には、 第十七替 第二、三教 九 結 1 −経済史撃界への⊥試纂− 二七三︶ 七〓

(38)

二千四十三町五段殴打増加してをり、製糖斤数卜八百二サ七警手十方斤より子二甘二十六萬子九十七斤へと 飛躍的増大を示してゐる。常に、い主要五年十月の﹁御名替銀諸株緒引帳﹂を見か陀、役所語放として十鮒 月分呑も銀札〆八司三拾三賞八百五拾六匁、換算して此金変乱町子八百爾に登つでゐるの拾何分五千三官四

拾三南∵拾二月分筆啓二溝芸紛議猷歩栗等より粗推しで高年拾悪書るまいと護れる。

天保の初年藤原の疲弊を救はんとし 財政を救ふは常時漸く勃興せんとする研柴にしくはなしとし∵勘定賓何日下儀左衛門・如奉行杉野九郡長衛門 代官竹内輿四郎に絢ぺ富宇地辰克郎払顧問として、鋭意検討の結果待望成案咤藩螢直責の仕渉にあ㌃と し、先づ従来後衛の藩札腐馬面−年増し七胎盤東療金の資本とし、之を貸付んと計諾した。之に就小ては、文化 鷺初ゐ銀札インフレ木シノヨ︶ン一考慣験して快か切つた滑極論者もゐた酢、此等竺蹴して、主としで日下俵左衛 ′ ︵30︶ 門の意見を用ゐて箆溢水は藩公陀上伸し・たのである。﹁高松港記﹂愚息下按此の問の事情七述べて遺憾がない。 而して,此の御為替金はV更に船中各藩。別段為替・輿印焉審等の名目を附して農民・製膳家た貸興し、其の 製品は藩公吏決定の密慣にょらしめ、荷主其他の組般、へは夫々地中荷慮療等の短期貸付金の融通を為し、大阪 砂糖禽所へ永接し声る後は禽例の指令を適して砂糖問屋を掛かし﹂数滴黒川屋などの専門家を顧問として帝慣 欒動性多き砂柄の敬愛築に成功したのである。斯くて階乗者に勤しては↓方増産統制を箆し、更に二分道上 ︵譜鍼咽謁首株・伸計電機株等の鑑札下附、 二七三︶、七三 高松藩に於ける砂糖食替の研究 き

(39)

慮甲

黎窟第二、王威∵

︵忘四︺七四 製年内中大坂表義凝滞ね私共配下よ少積出候砂糖敵将数取調他見申候磨別紙面之通白砂糖畠下地栂物共都合七 萬八千七盲犬隆之出樽二御座候戯ル廃昔年者御領萬何連も甘庶飴程棺俄雪相成申健三付督年之斯着年内中拾 ノ秒 ︵33︶・

れ静め御貸付金暗﹁今年︵天保六年︶は初年故少数匿候得其追々臍人相檜、爾三年之後は、毎年八九萬両飴、

︵31︶

萬丙、女後は拾四五萬爾、式拾萬爾へと逐年逓増し、歯槽生産鶴ノに正比例しつゝ藩財政は潤か来ったのであ

︵軍︶

る。いま元治元年砂糖愈所引請人が惣連名にで調奄の美砂蘭方に櫨出せる文書たよれば﹁先不敬敢去ル老年

萬栂位之積出二重御庄候而ハ00統之融通方指支候義卜率存候﹂とみカ、更に其の内諸に、 〆四千入官五挺︵﹁白砂糖三千首九拾三挺 て白下地四官給家挺血、櫨物干武官馨挺︶

、 水田 ∴砂 糖 倉 所

〆冨苧好芙拾萱楔

′家苗七千八拾七挺︵一二白砂糖窓前五千九首試拾八挺 γ、▲白地下地首四瘡挺 \ 林 遍∵ 浦 〆蛮蔚三千八百四拾六挺︵﹁白砂糖愛馬大官九給費挺 血、白下地試百五拾八挺 御 城 下

亥年製年内中積出砂糖惣穏数欝出

〆武千九拾七挺︵て白砂糖千七首八拾武挺 仙、白下地給費挺 ≠ − ∵∵櫓物三百四挺︶

川 療

て∵楷物干拾九挺︶ 砂 糖. 曾 所 叫、櫓物試干八嘗九拾七挺︶ 砂 糖 骨 折 糖 骨

(40)

と雪が、芙三葵亥年怠ける北の六阪琉登の贋産、ヒ莞干害六挺は寛政六年頃の窯砂糖の試験的移出

志 〆冨撃九拾八挺︵∵、墓相冨四育三拾四挺卜一、白孟宗隆 浄 〆萱琴八百七拾徒︵盲砂糖九千九冨拾八挺 側、白下地官給五挺 言 〆五千四官四拾酪抵︵ぺ白砂糖五千八拾試挺 〆 者之邁御座悦 子 † 月

有 之 寄

七萬八千七百六班 劇白砂糖六整ハ千七官給九抵 山白下地武千八拾五挺 仙櫓物九千九官爵挺 高松藩に於ける砂糖食管の研究 て首咋地‖式拾三挺 ﹁槽物三宮三拾七挺︶ /

馬、宿 浦 砂 糖手管 ㍉所

渡 滴 砂 糖 曾、研

一、感物干六百三拾四鞋︶

田 浦、砂 糖

て櫓物入官七挺︶

殿 村 砂 糖 骨 〝所

′/ ︵一七五︶ 七五

(41)

︵34︶ に比して、まさに飛躍的教展の戦がある。此の債格、砂糖十斤二匁三分と見て概算こ冶八馬術と軋られよう。 更に、其翌元治元年には甘薦の根付段別増加せトとて、拾萬椅の積出を希望するあたり、合併の側よりする稗 / 廟的方寸が窺知せられ、甘庶増産と金融の不可離の阻係にあるを強調せる鮎が注目される。 高訟滞に於ける鶴巻金の貸付は、慶應末よゎ明治にかけてもー独活澄に行はれたるものである。明清二年の ﹁砂折方御用日記﹂近よるもり砂糖合併引請人が﹁甘贋作付人別け常年も正肥御貸被下候問仕込万貸涯等之儀 者其方共払被仰付囁問萬端是迄之通相心得⋮取扱可申候尤代銀取立之義濱‡灯限二俣朗近年打者三寄酪珂折 方及遅滞傾向も衣之哉三相細喚問摘十言切蒜無滞取立候見込ヲ以人別政調貸渡候摸索而轟か村綬人共わ申 渡夜之倣得共餞叉此度相改限月顛相違相納候椋厳数申開候間右様相心得於手元こも等閑之貸方無之横取扱可申 へ36︶ 恢﹂と替ってゐるが、其の資金として、林田浦の初糖合閉引請人渡避桟之助が例の如く砂糖方御役所よわ貸付 元金の融通を仰いでゐる。同氏文書のうち、式千両は珍しい方であサ、且つ此東把至って棚息も月萱歩となつ て冨、金札となつてみる鮎も注自さるべきで告徳 ﹁ 右者此度正凪御貸方之哉引受敢仰付焼こ付鈴元洩産金二而冶之遁辞借仕飯麿簡雪高座俵引常之董啓発連而稽上御座焼 印磯山林御見込可薇下鹿然ル上着璧ケ月萱歩克之利息チ加へ森十叫月限ヱ孟単三而返納可仕倹馬後日俵如伸 第十七管 第二、三耽 拝借仕金札之事 一金札賦千爾也 己三月元 ︵血七六︶ 七六

参照

関連したドキュメント

昭和62年から文部省は国立大学に「共同研 究センター」を設置して産官学連携の舞台と

また,文献 [7] ではGDPの70%を占めるサービス業に おけるIT化を重点的に支援することについて提言して

機械物理研究室では,光などの自然現象を 活用した高速・知的情報処理の創成を目指 した研究に取り組んでいます。応用物理学 会の「光

北陸 3 県の実験動物研究者,技術者,実験動物取り扱い企業の情報交換の場として年 2〜3 回開

「心理学基礎研究の地域貢献を考える」が開かれた。フォー

高(法 のり 肩と法 のり 尻との高低差をいい、擁壁を設置する場合は、法 のり 高と擁壁の高さとを合

関西学院大学手話言語研究センターの研究員をしております松岡と申します。よろ

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を