後藤新平 「
学俗接近」論と軽井沢夏期大学の実践
― 新 渡 戸 稲 造 の か か わ り を 中 心 に し て ―中 島
純 は じ め に 後藤新平 については、これまでの社会教育史研究において、彼がかかわった社会教育事 業の一部が断片的に紹介 されることはあっても、個別の研究主題 として取 り上げられるこ とはな く、 さほど重視 されてこなかった人物である。 後藤新平 (1
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は、陸中国胆沢郡塩釜村 (現在の岩手県水沢市)出身で、その 社会的出自は医師である。後藤は公衆衛生行政を専門 とする技術官僚 として内務省入 りし、 並外れた才覚で出世 し、1
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年、衛生局長のポス トに登 りつめる。 日清戦争後、第4
代台 湾総督児玉源太郎 にその行政才腕 を兄いだされ、台湾総督府民政局長 ・長官 (1
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に起 用 される。 日露戦争ののちに初代満鉄総裁 (1
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とな り、台湾 ・満鉄付属地 での治績 を評価 され、国内政治の表舞台に登場 していった人物である0
「科学的政治家」(宿 夫清三郎) と評 されるように1)、公衆衛生、社会政策、植民地経営等の幅広い領野で、科 学的調査主義 に貫かれた国家プロジェク トを数々試みたことか ら、こんにちなおその事績 が多方面か ら評価 されている。 他方で後藤は、教育家 としての発言や著作 も多 く、またその生涯にさまざまな教育事業 を手がけてきた。 「教育家」後藤の思想 と行動は、台湾総督府、満鉄での植民地行政官時 代 において も見て取れるが、国内政界 に復帰 してか ら、 とくに大正デモクラシー期 に顕著 になるよ その例が、戦前 ・戦中 ・戦後 を通 して間断な く続いている大学拡張事業、信濃木崎夏期 大学 (1
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開講)であ り、東京市長時代 (1
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に新設 された社会教育課で行 われた市民教育事業である。 これらはいずれ も成人を対象に、後藤が持論 とする 「学俗接 近」 を具体化する形で実施 された社会教育事業であ り、 ともに戦前のわが国の社会教育 に 先取 をつける歴史的意義 をもつ ものであった。 日本の社会教育は、 「いわゆる大正デモ クラシー期 にはじめてその現代的な姿 を浮 き彫 りにするようになった」 といわれるが2)、後藤新平 は、まさにその時代 にあって各種の社 会教育事業を手がけることで、 日本の社会教育に現代的 な性格を刻印 した役割 を果た した というのが、筆者がこれまでに一連の論考において示 してきた評価である3)0 後藤の刻印 した 「現代的性格」 については、すでに別稿で論 じてお り、ここではあえて暁星論叢第52号 (2003) 多言 を弄 しない。後藤は、第一次大戦後の独 占資本の成立 にともなう、人口の賃労働者化 により社会的比重 を増 した都市勤労大衆、お よび新 しく市民的階層 として台頭 して きた新 中間層の動静 をにらみなが ら、公民教育 を内容 とす る社会教育 を重視 した。そ して国民生 活上の市民的諸権利 を構成する普通選挙 ・社会政策 ・大学拡張 といった政治 ・経済 ・文化 的価値 を国民 に配分 しつつ、啓蒙、教化事業 を試みることで、国民の政治的統合を果たそ うとした。 この ことが、大衆向けメデ ィアの積極的利用 に象徴 される社会教育の方法的革 新 と結 びつ き、戦前の社会教育 に現代的性格 を付与するもの となった。すなわち、後藤は わが国の大衆社会的状況 に即応 した利益誘導 による国民統合 を、社会教育 を方法 として実 践 したのである。 本稿 は、後藤の大学拡張 についての思想 と行動 に照準 し、彼の 「学俗接近」の主張が、 Liかなる社会的文脈 において提起 され、 またそれが大正デモ クラシー期の社会的、文化的 動向 と応 じあいなが ら、 どの ような形で実践 されていったのかを明 らかにす ることを意図 して.いる。 さらには、後藤新平の国益 を本位 とす る政治的発想が、いかに して新中間層 をヽヽヽ 中心 とする国民大衆の利害 に近づ くことがで きたのか。 この点 を、後藤の言説 に即 して確 認するとともに、彼が立 ち上げた通俗大学会の組織 と、夏期大学事業の実際に照 らして論 じてい くことにする。 思想は物質的関係 を獲得す ることでその本質を表象する、などとい うつ もりはないが、筆者は後藤 自身の言説 とあわせ て、彼の とった行動 にも着 目したい。 後藤は、理論家 とい うよ りは、事業家 としての資質 を多分 に有 してお り、後藤の社会教育 思想 と実践 について、その核心 と振 り幅 をとらえるには、 こうしたアプローチが有効であ ると考 え られるか らである。 その際に、通俗大学会の活動で、信濃木崎夏期大学 とともにもっとも成功 したケース と いえる軽井沢夏期大学の実践 を取 り上げる。従来の社会教育史研究 においては、戦前わが 国の大学拡張の試み としては、民衆の 自己教育運動の歴史的遺産 として自由大学運動 に関 心が向けられ、顕彰的視点か ら研究の蓄積がなされてきたの、に対 し、後藤の創始 した通俗 大学会 による夏期大学事業 については、個別の主題 として取 り上げ られることは少な く、 た とえば一部の通史的研究書 などにおいて部分的言及は見 られるものの、後藤の人物論 に 及んでの考察はなされず、 またその評価 も定 まっていなかった4)0 信州の地 に誕生 した木崎 と軽井沢の二つの夏期大学は、 「大学
」
の名 を冠 したわが国で 最初の社会教育事業 として歴史にその名 を刻むことになるが、前者が さまざまな経緯か ら、 通俗大学会 とは独立 した組織である財団法人信濃通俗大学会に運営が委ね られ、長野県行 政棟関お よび地方教育会 に支えられなが ら事業がなされていった事情か らすると、後藤新 平の影響 については、ある程度、限定的にとらえられなければならない。通俗大学会単独 の事業 とい うことか らして、軽井沢夏期大学のほうが、本稿の主題か らして対象 として適 切 と考 えられるか らである。後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) ただ し、以下の考察においでは、後藤 とともに通俗大学会の実践 に中心人物 としてかか わっていった新渡戸稲造 (
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の役割を重視する。後述するように、後藤が通俗 大学会による大学拡張事業 を具体的に推 し進めてい くうえで、新渡戸稲造はな くてはなら ない存在であった。ことに、夏期大学の具体的な教育内容 と方法にかかわる才智、識見は、 当代一流の文化人であ り、教育者であった新渡戸 に負 うところが きわめて大 きかった。後ヽ 藤の創始 した通俗大学会に、実 を与えたのが新渡戸であった。 後藤は新渡戸 に何 を期待 したのか、また 「ヽヽヽ ヽヽヽ 学俗接近」の実践 における新渡戸の関与が、 どのような可能性 と方向性 を示 してい くことになったのか、この点 も、筆者の関心事 とし てある。後藤のひとづかいのうまさは、彼の政治的手腕のひとつであ り、その才腕は、通 俗大学会の事業において も発揮 されたと見 られるか らである。 新渡戸 な くしては、 「学俗 接近」の思想は具象化することはなかった し、夏期大学の実践 もあ りえなかったというの が、筆者の見方である。後藤一新渡戸 ラインの人脈が、夏期大学の実践 において与えた影 響 について紙幅 を割いて論 じたのは、そうした理由による。1.
「学俗接近」
論の提唱(1
)社会教育会への期待 管見の限 りでは、後藤新平の 「学俗接近」
の主張 をまとめた論考 としては、1
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(明治4
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年3
月発行の r新時代j誌 に掲載 された 「学俗の調和一社会教育会の為 に」 5)と題す るものが最初である。 F新時代1は、1
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(明治3
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年5
月、教育家であ り政治家であっ た蔵原惟郭 (1
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が中心 になって創設 した社会教育会の機関誌であ る6)。この社 会教育会は、お もに雑誌の発行 と講演会活動 を通 して国民の知的、道徳的、精神的啓蒙 を 図ろうとする有志 による結社で、名誉会頭 を大隈重信が務め、幹部および顧問には蔵原 と つなが りのあった人物が名をつ らねた。その顔ぶれを見ると、蔵原の属する憲政本党系の 政治家 として尾崎行雄、犬養毅 らがお り、蔵原 と同郷の熊本関係者では元良勇次郎、清浦 圭吾、横井時雄 らが、大学 ・教育関係者では大隈をは じめ高田早苗、浮田和民、安部磯雄 ら早稲田系、鎌 田栄吉、林毅陸 ら慶応系、 さらに女子教育関係で鳩山春子、山脇房子、三 輪田元道、下田歌子 らがいた7)。後藤は幹部の職 にあったが、彼 も含めてそこに名のある 者の多 くは、組織 に重みを添えるだけの役割にす ぎず、実際に運営上の仕事 にかかわる者 は少なかったと考えられる。 後藤はそこで、 日本国民 を将来の世界における大国民 とするには、政治上の革新、経済 上の発展、 「富国強兵」だけでは不十分である、 と説 く。その点、社会教育会が主張する 「大学拡張」
「大学殖民」のごとき、またそ.の主義 に基づいて現 に実行 しつつある「講演会」 「演説会」のごときは、かねてか ら自分が主張するところの 「学俗の調和」
という意見 と、暁星論叢第52号(2003) 言い方 こそ違 うもののその意 とす るところは一つであるとし、次の ように述べ る。 すなわち、 「現代の学者の多 くは、其学問 を独 占 し、独 り天下共通の真理 を楽 しんで、 毒 も社会 と共 に之 を楽み、社会 と共に其の利益 を分配す る意 なきものに似 た り。是れ実 に 社会の一大欠陥 に して、国家の不利是 より甚だ しきはな し。故 に学者 をして成 るべ く社会 に接近せ しめ、学者 と世俗の隔壁 を排除 し、明治聖代の大欠陥 を充塞 し、以て国家の進運 を阻害せ ざらしめんとす るは、実 に余が多年の間主張 して止 まざる所 な りき」 と。そ して 「今や芸 に、社会教育会の興起す るあ りて、余が年来の持説 と、正に符節 を合するが如 き あるを見 る。余が喜び之 に過 ぐる ものあ らむや」と述べ、同会が後藤の年来の意 を得た も のであると称賛 している。 社会教育会はその主義 に、 「一、人道の大義 を鼓吹 して文明の精華 を発揮 して宇内の平 和 を確立す る事
」
「一、世界的国民の気象 を養成 し開国進取の国是 を拡充す る事」
「一、社会 共同の精神 を滴善 し立憲的国民の理想 を実現す る事」 8)を掲 げ、当時 としては進歩的な社 会改良の立場 に拠 る啓蒙団体であったが、後藤は蔵原の説 くその方法論 に関心 を向けた。 蔵原は、後藤の所論が掲載 された F新時代」誌の前号(
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年2
月)に発表 した 「社会教 育の諸機関」 9)と巷す る論考 において、 「学校教育 は社会の大機関な り」
とし、 「西洋各 国に於 ては社会教育の普及 を図 らんが為 に、種 々の設備 を為せ るものな り。社会、経済、 学術、宗教、文芸、美術の各方面 より、社会の向上発展 を計 らんと欲す。彼の英国倫敦 に 於ける トインビー館の如 き是な り。彼のユニヴァ-シチ一、エキステンシ ョン(大学拡張) の如 き、ユニヴァ-シチ一、セ ッツルメン ト (大学殖民)の如 き即 ち是 な り」と説 く。そ の上で、 「大学の教授 も学生 も、共 に社会 に出でて或 は通俗的の講演 を為 し、貧民の間に 入 りて或 は之か救済の任 に当 らん とす。其の社会 に及ぼす勢力感化は実 に偉大 なるものあ り」と社会政策的見地か ら19世紀末の英国において展開 していった大学拡張運動、お よび そこか ら派生 したセツルメン トの社会的貢献 を評価す る。 「社会教育」 なる語が今 日的な 意味 に近づ くまで成熟 し、行政用語 として流通す るのは大正期以降であ け、この時期 にあ っては社会政策の教化的側面 を指す もの として用い られる状況 にあった。蔵原の起 こした 社会教育会 も、理想 とす る社会像 はともか くとして、階級融和 に向けた社会改良、風俗改 善 を企図 していたことがわかる。 さらに蔵原は、ひるがえってわが国の大学 を見 るに、 「其の社会に及ぼす感化は、各大 学が養成せ る学生 を通 して間接 に与ふる所の ものに過 ぎず。而か も其の感化は寧 ろ悪風醜 俗 を社会に伝染するの、社会 を善導美化す ることに勝 され りとの批評 なきに非ず」
と苦言 を呈す る。 それで も、 「事実 に於 て、人格 を養成す るの力な く、単 に学術技芸 を教授す る より外 には何等の能力 なき大学 に向って、社会教育の為 に尽力すべ きを期す るは、猶は木 に縁 りて魚 を求むるが如 きの類 な りと錐 も、大学は社会教育の最高機関な り」 とし、 「社 会の地位 を高か らしめんが為 に、青年学生 を教育す るは大学の最高 目的にあ らずや」
と述後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) ベて、 「大学の教授 も学生 も、、学業の余暇 には出て社会教育事業の為 につ くす所あるべ し。 貧民窟 に入 りては、之が生活状態 を改良せ んことに力むべ し
」
と説 く。そ してこの ような 大学の社会的事業に、 「其の資 を投 じて、之 を助 く」のが、 「金満家」
であ り、 「富豪」
である。この ように蔵原は、大学 と富豪が「相協力 して社会 を改良上進せ しむるの任 に当」 るべ く 「社会の輿論 を啓発 して、以て社会教育の江盛 を希図」
し、社会教育会 を組織 した と述べ る。 わが国のセツルメン ト事業は、1
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年、キリス ト教社会主義者の片山潜 によって東京神 田のキングス レ-館で取 り組 まれた ものを噂矢 とする。そこで 「大学普及講演」と称す る 大学拡張活動 も実践 されたが、片山の思想的変節 もあ り長 くは続かなかった。社会教育会 に大隈や鎌田をは じめ とする私学関係者お よびキングスレ-館でみずか らセツラー として の経験 を有する安部の名があるのは、この蔵原の目論見 とかかわ りがあると見てよい。 後藤は、先の論考で 「学俗の調和」を図るのに、蔵原が説 くところの 「大学拡張」
「大学 殖民」
は 「其の方法の最 も可なるものあ らん」と述べ る。だが、 これまで東京 または各地 方で開催 されて きた 「通俗学術講談会」が、 ようや く盛大 になったのは喜 ば しい ものの、 消長が激 しく一つ も持続するものがないこと。講談者の選定す る題 目があまりにも聴講者 を顧みない迂遠 なもので専門の学者でなければ十分 な理解 を得 られに くいこと。 さらにそ の説明 も専門の術語、俗耳 に入 りがたい漢語 を用い、あま りに高尚に失す る傾向にあるこ とを問題 としている10)。そ して もし、社会教育会をは じめ とするこの種の事業がそ うした 欠陥を克服 し、 「学者 と俗人の調和」をな し、 「今 日の学者 を俗間に入 らしめ、而 して何 れが俗人なるかを、見分け兼ねるに至 らしめんか、学者の功徳は人生 日常のことに及び、 国民の品格高尚亥に一変 し、社会の良風美俗此 に完成す るを見るに至 らん」と主張する。 こうした後藤の期待 をよそに、社会教育会の活動 は、1
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年の前半 ぐらいまでのわずか 一年程度にキビまった とされる11)。その内容 も単発的な演説会 と講演会であ り、お よそ「大 学拡張」とはほ ど遠い ものであった。活動資金不足がその理由であったようだが、学生の ための家庭寄宿舎の設立、演説 ・講演 ・夜学 ・社交の会場兼社会教育会本部たる公会堂の 建設、簡易なる平民図書館、貧民幼稚園の開設 といった所期の計画はいずれ も実現 を見ぬ まま頓挫 した。1
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年5
月、満鉄初代総裁に就任 した後藤は大連 にお もむいてお り、蔵原 を実質的にささえることは困難であった。 「学俗接近」の実践 は、植民地経営の任 を終 え . て帰国 した後藤 自身の手 に託 されることになる。(2
)海外膨張主義 と 「文装的武備」
満鉄付属地での植民地経営の経験 をふまえ、後藤が国内政治に向 き合お うとした際に、 経略の方針 として掲げたのが 「文裳的武嘩」
であった。 「文裳的武備」 とは、狭義 には、 「文事的施設 を以て他の侵略 に債へ、一旦緩急あれば武断的行動 を助 くるの便 を併せて講暁星論叢第52号(2003) じ置 く事」 12)と有事 における文化的社会的施設の軍事的利用 というような意で用い られる が、広義 には、 「王道の旗 を以て覇衝 を行ふ」 こと、すなわち、文明の威容で もって植民 地における現地民の人心 を収穫 し、服属 を図ろうとするものであった。後藤は、学校、病 院 といった近代文明施設 をして日本人の移住願望 をか きたてるとともに、現地住民 をして 文明の恩恵に浴せ しめることが、 「満洲」経営 を安定 させ ることになるとの考えをもち、 またそれを実践 した。 こうした経験か ら後藤は、第一次世界大戦 をきっかけに、 日本が欧 米列強 と伍 してい くには、経済的方面のみならず、教育、衛生、学術の各方面 における社 会資本の拡充を促進すべ きと主張するようになる。第一次大戦後の国家経略についての思 考は、1916年に通俗大学文庫の第 3巻 として刊行 された r日本膨脹論Jのなかで開陳 され ている。 そこで後藤は、第一次大戦の本質を、 「種族社会
」
か ら 「国民国家」へ と発展 をとげる 人類史の過度期 において、 「人間生命の活火が虚偽の文明、虚偽の平和、虚偽の妥協 を破 壊せん として爆発 した もの」 13)とみな した。そ してそれは 「無限膨張、無限発展、無限征 服、無限同化」 を遂げんとする 「民族の生命欲」 14)につ き動か されての ものであった。後 藤 にすれば、 「今 日外観上、世界主義 と見えるもの も、その実、民族的精神に過 ぎない」 のであ り、またその 「民族的精神は優秀なる民族ほど強烈であって、反対に亡国の民族 ほ ど容易に純正世界主義の帰依者 または負担者た り得 る」 15)のだ という。 この ように後藤は、 社会 ダーウィン主義の立場か ら、民族間、国家間においても適者生存、優勝劣敗の法則が つ らぬかれることを強調する。 後藤が、第一次大戦後の 日本の対外的指標 を 「膨張主義」
と掲げた とき、内政面で取 り 組 まねばならない課題があった。一つが、国民 におけるナシ ョナリズムの喚起である。後 藤は、 日本の民族的精神のよりどころとなるのは、 「天皇の直系たる皇室 を大宗家」
とあ お ぐ 「古神道の精神」
にあるとした。 日本民族にそなわる膨張欲が、 「古神道の精神」 と 結びついたとき、それは 「玄妙なる力の宗教」
「征服の宗教」
「支配 を求む右の宗教」
「人類の 生物的本能 を霊化せ る宗教」
「色心 を以て三世 に徹 し人天 を包括す と信ず る宗教」 16)とな り、 異文明の積極的同化を推 し進める精神的原動力になるという。こうした論理か ら後藤は皇 室国家に同一化する国民の民族的 自覚 をうながすのである。 他方で後藤は、 「古神道の精神」 を胸に、政治的、経済的、文化的膨張 を絶えずこころ ざし海外 に勇躍する人材 を輩出するために、 「産業の隆盛、社会政策の完備、教育の普及、 各種研究の発達」
といった 「所謂内面的充実の方面 に力を注がねばならない」 17)とす る。 なかで もそこで重ん じられるべ きは、 「- も人、二 も人、三 も人」であ り、それは 「教 育お よび学術的活動」の振興に侯つ ところが大 きい。 このことか ら、 「我々は生 きた学校 教育、特 に大学教育の方面 において、純然たる研究事業の方面において、広 くその優越性 を東洋諸国に知 らしめ、 もって彼 らをしてわが教育学術の力を借 りるにあ らざれば、到底後藤新平 「学俗接近」詮 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) 文化上の発達 を計 り、あるいは文明事業 を経営す ること能はず との観念 を植 え付 けねばな らぬ。 これ新植民地政策、す なわち 日本文明策普及の上 において最 も重大 なる事柄 であ る」 18)と説 く。後藤の対外的膨張主義か ら導かれた教育 に対す る過剰 な期待 は、 「文裳的 武備
」
の方策 としての 「学俗接近」
の論理へ とつ らなってい く。 後藤 は、第一次大戟の戦況 を見 なが ら著 した と思 われる 「学俗接近の生活」(遺稿)の中 で、次 の ように述べ ている19)。 今次の世界戦は、或 は知識の戦争 と言 われ、或 は科学の戦争 と呼 ばれ、或 は文化の戦 争 と唱え られている。それ程 に其の戦争行為が知識、学術 、又は文明の力 によ りて指導 せ られJ支配せ られて居 る。殊 に独逸の優勢が、主 としてその燦欄 たる学術 の力 に侯つ ところ多 きは、何人 と難 も看取 し居 る事実ではないか。 併 し独 り戦争のみではない、政治に於 て も、若 し西洋が我が国 よ り遥 に勝 れて居 る と す るならば、それは凡て其の発達せ る知識 と進歩せ る学術 とが、遺憾 な く実際の上 に活 用せ られて居 る結果 に外 ならない。即 ち予の所謂学俗一致又は学俗接近の理想が、充分 に実現せ られて居 る結果 に外 な らない。 翻って我が国の現状 を観察す るに、此の点 に於 て甚 だ遺憾 なきを得 ない。大 に しては 政治、産業、教育等の開港 より、小 に しては家庭生活、個 人生活の末 に至 るまで、凡 て が因習旧套 に依 り、凡智、常識 に基いて処理せ られ、而 して甚 だ学理的進取改造の努力 に乏 しい。凡 ての施政凡ての活動が、余 りに非科学的、非組織的である。それに も係 ら ず、学者 は超然世外 に高踏 して実社会 を念 とせず、世俗 は漫然巷塵の間に義動 して、強 いて学者の言 に耳 を掩 い、前者 は後者の知識 を噸 り、後者は前者の迂閥を噴 い、斯 くし て両 々互いに相反 目し、相排摸 して居 るの観がある。か くては文化の独立 な どは勿論の こと、産業上の独立の如 きも、容易 に其の実現 を望み得 ないではないか。 後藤の見解 は、2
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世紀 に入 り、いち じる しい深化 と分化 をな し、急速 に進展 していった 近代科学、学問 と国民生活の融和、結合 を期 そ うとす る もので、いわば西洋近代文明に方 向づ け られた国民大衆の知的、文化的な底上げを意図 していた。この ことか ら「学俗接近」 は、為政者側か らすれば、 日本の帝国主義的膨張の基盤 となる民力育成の方策 を説 くもの であったが、後藤のい う 「世俗」- すなわち国民大衆の立場か らすれば、従来の生活経 験か らは得がたい科学知、学問知 を獲得す る機会 をつ くりだす可能性 を示唆す る ものであ った。両者の利害 と思惑が-敦す るときに実践が生 まれるが、のちに「大正デモ クラシー」 と呼ばれる時代 の社会的、文化的状況はその促進力 となってい くのである。暁星論叢第52号(2003)
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.通俗大学会 と新渡戸稲造
(1)通俗大学会 の組織 と事業 後藤新平が、 自説であ る 「学俗接近」
を実践す るべ く通俗大学会 を組織 したのは、1914、 15年の こ とと推察 される。総裁 には後藤が、会長 には新渡戸稲造が就任 した。事務所 は東 京市神 田区猿楽町10番地 に置かれた。通俗大学会の構成 とその活動 については未詳 な部分 が多 く、その実態 について明 らか にで きないが、同会 よ り刊行 された 「通俗大学文庫」 の 巻末 に付 された会員規約 には次の ような記述があ る。 第- 本会 ノ目的ハ広 キ意義 二於 ケル国民教育 ノー助 タランコ トヲ期 シ、古今東西 二渉 ル諸科 ノ知識 ヲ最モ容易二社会 ノ各階級 二普及 セ シメ併 セテ世界 的時事問題二関スル論 評 ヲ紹介セ ン トスルニア リ 第二 本会ハ前項 ノ目的 ヲ達 セ ンガ為 メ各専 門家 ノ執筆 ヲ請 ヒ 「通俗大学文庫」 ト題 ス ル冊子 ヲ毎月刊行 ス (-)「通俗大学文庫」
ハ現代 人二必須 ナル智識 ノ紹介説述 二努 メソノ標準ハ スベ テ現 代 人 ノ生活 二於 テス (二)「通俗大学文庫」
ハ平易簡明 ヲ旨 トシ専 ラ内容 ノ充実 ヲ重 ンジ而モ極 メテ廉価 ヲ 以 テ広 ク世 間二頒 タン トス ロ ポケ ッ ト型、二百頁内外 、稔鳥之子装釘、定価各冊金三十銭、送料金四銭 第三 本会ハ 「通俗大学文庫」
ノ副産物 トシテ世界的時事閉篭 二関スル論評 ヲ紹介セ ン ガ為 メ 「東西時論」
ト題 スル叢書 ヲ随時刊行 ス ロ ポケ ッ ト型、百頁内外 、仮装釘 、定価各冊金十銭、送料金二銭 第四 本会 ノ趣 旨ヲ賛 シ 「通俗大学文庫」ヲ引 キ続 キ購読 スル コ トヲ約 シソノ六冊分 二 村 スル割引代 金一円七十銭 (郵券代用一割増) ヲ前納 セ ラルル人 ヲ本会会員 トス、但 シ 会員 二送本 スル郵税ハ本会 ノ負担 トシ発刊 ゴ トニ即 日配本 ス (-)会員ハ予約以外 ノ本会 出版物 ヲ随時購入セ ラルル場合直接本会二注文セ ラルル モ ノニ限 り特 二郵税ハ本会二於 テ負担 ス (二)本会会員ハ随時本会主催 ノ講演会二出席 セ ラルル コ トヲ得 第五 多数 ノ会貞 ヲ有 スル地方 ノ有志 ニ シテ講演会 ヲ催サ ン トシ本 会亦 ウノ必要 ヲ認 メ タル場合ニハ ソノ地方二於 テ講演会 ヲ開催 スル コ トアルヘ シ ここで注 目されるのはその価格であ る。各巻 わずか に30銭 とい うのは、当時の学術書 と しては破格の値段 であ った。岩波書店が ドイツの レクラム文庫 を摸 し岩波文庫 を発刊 した のが1927年7月であ り、星 ひ とつの定価が20銭であ った こ とを考 えれば、通俗大学文庫 は後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) それに先 ん じる試みであった といえよう20)。通俗大学文庫の発刊 にあたっては後藤が私費 を投 じた21)0 「通俗大学文庫
」
の蔑 目は、後藤 と新渡戸が選定 し、執筆 を依頼 した。初期 に刊行 された 書 目を示す と以下の とお りとなる。 第-編 阪谷 芳郎著 第二編 大隈 重信著 第三編 後藤 新平著 第四編 建部 逝吾著 第五編 松 岡 均平著 第六編 後藤朝太郎著 第七編 上田 高年著 第八編 高野岩三郎著 第九編 三並 良書 第十編 稲垣 乙丙著 第十一編 石本 悪書著 最近の東京市 国民教育論 日本膨張論 都市生活 と村落生活 日本の植民的発展 文字の起源 国語学の十詩 本邦人口の現在及将来 オイケンと時代思想 日本の天恵 鉄 と石炭 後藤の著作 とともに阪谷芳郎、大隈重信、松岡均平 といった後藤 と親 しい関係 にあった 人物の名がそこにあった。ほかに帝国大学系の学者が名 をつ らねた。 「通俗大学文庫」の購読者はそのまま会員 としての資格 を付与 され、同会が主催する講 演会に出席で きるという特典があたえられた。 また多数の会員 を有する地方 において有志 によるはた らきかけがあった場合、その地で講演会 を開催す ることとした。近代郵便の原 則である国内均一料金の制度 を利用 したこのシステムは逓信大臣であった後藤 ならではの ユニー ク・な試みであった。 「学俗接近」の実践 を展開 してい くうえで、後藤がね らい とし たのは中央 と地方の間に存する文化的懸隔の解消であった。通俗大学会は、通俗的学術書 の普及 を図 りつつ、その購買層 を会員 として特定 し、かれ らを媒介に して中央 と地方 をつ な ぐ装置 を用意 しようとしたのである。 (2)新渡戸稲造の役割 新渡戸稲造は、後藤が 「学俗接近」の実践 を推 し進めてい くうえでの よきパー トナーで あった。新渡戸 と後藤は、台湾総督府の職 にあった ときか ら眠懇の間柄であった。1
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年、 新渡戸 は総督府民政長官であった後藤か ら熱心な招請′を受けて総督府技師 となる。彼は民 政部殖産課長、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長 と栄進 を重ねなが ら、台湾 における糖業 経営の基礎 を築 くのに尽力 した。台湾総督府での任 を終えた新渡戸 は、1
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年に後藤の推暁星論叢第52号 (2(泊3) 蝶 によ り京都帝国大学法科大学教授 に着任す る。 のちに同学 より法学博士の学位 を授与 さ れているが、 これ も後藤の取 り計 らY、によるものであった。以後
、1
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年 に第-高等学校 校長 とな り、1909年、東京帝国大学教授 を兼任 (1913年 に第一高等学校長職 を辞 し専任 と なる) し、そこで後藤が中心 とな り児玉源太郎 を記念 して寄付 した植民政策講座 を担当 し ている。後藤は、通俗大学会 を軌道 に乗せ てい くのに新渡戸の教育者 としての才智 と人脈 を積極的に利用 した。新渡戸 もまた自覚的 に取 り組 んだ。ただ しそれは後藤か らの求めに 応 じて とい うよ りも、非エ リー ト教育にも熱意 をもっていた新渡戸個人の思惑 と一致す る ものであ り、その意味で新渡戸の姿勢は意欲的であった。 一高校長時代の教 え子で戦後文部大臣となる森戸辰男22)は、教育者 としての新渡戸が社 会教育の領野で も先駆的な仕事 を成 したことについて次の ように述べ ている23)。 まづ第-には、先生が我国における組織的な社会教育運動の生成 に貢献せ られたこと をあげねばならぬ。私 は先生が後藤伯 らと一緒 に起 された 「通俗大学」の運動のことを い うてゐるのである。今 日では成人教育講座 とか大学拡張 とかいふ ことは決 して珍 しい ことではないのだが、当時に於 てはかかる運動 は極めて稀であ り、知名の有力者 をも含 んだこの種の大規模 な運動 はこれが噂矢ではないか と思ふ。 この会は一方では、斯界の 権威者 による小冊子 を低価で普及すると共に、他方ではまた軽井沢 における夏期大学 を 始めて諸地方 において大学普及の講演会 を開いた。私 も数度その講師を依頼 されたこと があった。 しか しこの大学普及運動 はその適切 なる狙 ひ処 にも拘 らず、それ 自身 として は予期の効果 を収めえず間 もな く中絶 して了った。尤 も、それはその後 に盛 んになった 夏期大学運動、成人教育運動、低価且有権的な小冊子出版 に刺戟 と模範 を与へた点にお いて蔽 ひがたい功績 を残 したのではあるが。 つづ けて、 「通俗大学運動 は恐 らく先生の示唆 に負ふ ところの運動であった とはいへ、 先生 自身の通俗教育家 としての活動 は、それに吸収 されて了 ひは しなか った」 24)と述べ 、 一高校長、東大教授 であった時に、 r実業之 日本J、r婦人倶楽部』等の通俗雑誌で精力的 に執筆活動 を行 い、市井 にある読者 を啓蒙 した点に社会教育家 としての功業 を認めている。 新渡戸 は、大衆向けの雑誌 に執筆するのに、 「車挽 く人、柴刈る野の人」 25)に も理解で き るようにと庶民 にも親 しみやす く平明な文章 をこころがけた。大学教授が通俗雑誌 に寄稿 す ることへの批判 もあったが、新渡戸 は意 に介 さなかった。 新渡戸 もまた 「学俗接近」
を説いたO 「東京毎 日新聞」(1909年11月
6日)の論壇 に発表 した 「学俗接近の急務」 26)と題す る小文 においてである。 すなわち、 日本の教育上の最大 欠陥は、学校以外 に世人を教育す る道なきことにある。毎年各地で行 われる講習会なども、 講師の依託、派遣の都合 もあ り多 くは都会 にあって地方に散在することは少 ない。同業組後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) 合、都市、各府県はそれぞれに講師の招碑 に努めるべ きである。学者 もまた世俗 に迂遠 な るをもって尊 Lとせず、俗流 に樟 さし世事 に親 しみ、 自家の主張 を貫徹 して学徳 を発揮す べ きである。つ まるところ世間 とい うのは相持 ちのみ、賢愚の別な く君子 も小 人 もひとし く手 を連ねて行 くほかにない。学者 と俗人の関係 も同 じであって、その理 を会得 して具体 的な事業 をな し、学俗の接近 を図ることは、ただ教育上の問題 だけにとどまらずに一国の 殖産上 に関係す ることがはなはだ大 きい、 と論 じている。 後藤の所論 とほぼ主旨を同 じく する主張であ り、通俗大学会への関与が新渡戸個人の発意 によるものであったことが理解 される。 ・通俗大学会の実務的な運営 を担 ったのは、新渡戸の弟子たちであった。なかで も、前 田 多門 (1884-1962)と鶴見祐輔 (1885-1973)の二人は、 ともに一高時代か ら親友の間柄で、 官界入 りしてか ら後藤 に重用 された。 前 田は、大阪出身で、一高 をへて東大法科 を卒業後、内務省入 りし、本省文書課長、内 務大臣秘書官、都市計画課長等 を歴任 した。後藤が東京市長 に就任す るや内務省か ら引 き 抜かれ、助役 とな り市政 を支えることになる。東大在学中、新渡戸 に傾倒 し続 けた前田は、 「自分は、他 に何の職業 も求めず、一生、先生の助手 として、働 きもし指導 もして頂 こう」 と、 「義勇志願兵的の助手」とならんことを 「生活方針」としていたが、父親の事業が傾 いたため、その計画 も立ち行かな くなった。そこで新渡戸 に就職方針 について相談 に行 っ た ところ、 「日本 に欠けている ものは社会教育である。 君は、社会教育家 になれ。 しか し、 その準備 として、一時、官界 に入 り給へ。現在の 日本では、何 と言 って も、官界は、社会 の展望 に最 も便利の地位である。それには、内務省が良か らう」 27)との 「御託宣」があ り、 内務官僚 になった という。前 田は内務省官吏であった1918年か ら翌年 にかけて、後藤が省 内に創設 した制度である海外出張 を命 じられ、アメリカとヨーロッパ を巡遊 し、社会事業 や社会教育 を中心 に視察 している。1917年、通俗大学会の活動 より生起 した信濃木崎夏期 大学の開設 に向けて財団法人信濃通俗大学会が発足 した ときには評議員 となっている。 鶴見祐輔 は、岡山出身で、一高 を-て東大法科 を卒業後、内閣拓殖局 を経て鉄道院に勤 務す る。 この時、鉄道院総裁であった後藤 に認め られ、新渡戸の仲介で後藤の娘愛子 と結 婚 している。鶴見 も信濃通俗大学会の評議員 となったほか、夏期大学の講師をつ とめた。 「大学時代の
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年間、精神的の光 として、悩み多 き青春の道 を照 らして下 さった」 28)新渡 戸のそばを片時 も離れなかった鶴見は、私生活において も新渡戸家 とつ きあいを深 くした。 英語の堪能な鶴見は、アメリカ人である新渡戸の妻 メアリー とも親 しくなった。晩年、病 に倒れ、口を利 けず、か らだを動かす ことので きない身 とな りなが ら、達巡 をか さね、そ の末 に新渡戸の信仰であるクエーカーに改宗 した という娘和子の語 る逸話29)は、青年期の 新渡戸 による感化が、彼の生涯 をづ らぬいたことを伝 えている。鶴見 もまた東京市長時代 に後藤の仕事 をたすけ、都市政策の調査研究機関である東京市政調査会の設立時にはその暁星論叢第52号(2003) 準備、運営の任 にあたったほか、チ ャールズ
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・ビアー ドを東京市 に招碑するなどして、 東京市政研究の基礎 を築いた。 前 田、鶴見のほかに、通俗大学会の事務局 を構成 した人物 に、川西実三 ・金井清 ・那須 暗 ・小平権- らがいた。いずれ も新渡戸の一高校長時代 に薫陶を受け、東京帝大 を卒業後、 大学院に進んだ那須 をのぞけば、金井は鉄道院、川西は内務省、小平は農商務省 とそれぞ れ官界入 りした (小平はのちに通俗大学会の理事長 を務めている)。彼 らは、当時 まだ2
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、 30代の少壮官僚であったが、職務柄、地方の事情 に明る く、個人的にも各地の有力人士 と コネクシ ョンを有 してお り、学術文化の地方への波及 という仕事 に携 わるのにまさに適任 であった。 また時に彼 らはみずか らも講師 とな り、講演、講義の壇上にあがることもあっ た30)。
新渡戸は、明治末期、 日本の学歴エ リー トの中心であった一高の校長 とな り、そこで西 欧の文芸、哲学思想の豊潤な学殖 を傾けつつ個人の人格修養 を重ん じる教育 を行 うことで、 従来の勤倹尚武 に染 まる気質 と校風 をあ らため、西洋文化を意欲的に摂取 しすすんでその 内面化 を図ろうと志す学生集団をつ くりだ した.・これがいわゆる一高の "教養主義''とな って同校の文化 と伝枕 を形づ くることになる。 また一方で、通俗雑誌の執筆 を通 して一般 読者に、人類の知恵 と、同時代の 日本人の世間知 を集約 し、平易でな じみやすい言葉で修 養 をすすめ、実際的生活場面での応用 を説 く "世俗的修養" をもって啓蒙 しようとした。 ただ し、その説 くところは処世に傾いた立身出世主義 とは異 な り、個人の人格の完成 を期 そ うとするものであった。両者は新渡戸個人においては人格主義 という本質において同一 であ り、それ らは対象 に合わせてた くみに弁 じ分けられるに過 ぎなかった。彼 は、教育 と いう営みを論 じる際に、個人における主体的、内発的動機 を重 く見た31)。そ して個人にと って最良の利益 は国家社会にとっても最良の利益 となると信 じていた32)。この点、個人を あ くまで も没主体的な人材 ととらえ、国益 を本位 とした単眼的発想か らしか教育に関心 を 向けなかった後藤 とは違 っていた。 、 新渡戸は後藤 とともに通俗大学事業の一環 として夏期大学 を起 こし、その実践のなかで 高等教育 レベルの学問を教養主義 とい うフィルターを通 して非エ リー ト層 にも広 く伝播 し ようとした。新渡戸が一高校長時代 に育てたエ リー ト官僚たちはその ミッシ ョナリー とな った。彼 らは、新渡戸の思想 をみずか らの生活 にあてはめ、 またそれを実行 して きただけ に、その趣意 をよく理解 したうえで行動することがで きた。 このことか らも通俗大学会に あって新渡戸の関与がなければ、夏期大学 における教養主義 という方向性は示 されなかっ たことは確かである。 ∫3
.軽井沢夏期大学 にお ける 「
学俗接近
」
の実践
通俗大学会が手がけた活動で もっとも成果 を挙げたのは、長野県下 を中心 に実施 された後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) 夏期大学であった。 この夏期大学は、長野県下の木崎湖畔 (北安曇郡平村)、軽井沢、戸隠 ・野尻33)の他、兵庫県の淡路島34)で も実施 された。 この うち、1917年 に開講 した信濃木崎夏期大学は、わが国で初めての本格的な大学拡張 事業 と呼べ るもので、1920年代 に植民地をふ くめ全国各地で地方教育会等 により開設 され てい く夏期大学運動の情夫 をなした。筆者は信濃木崎夏期大学についてはすでに別稿で論 じているので詳述はさけるが、後藤のはたらきかけに在京の信州財界人が呼応 し、開講の 前年に財団法人信濃通俗大学会が設立 される。法人の理事 には同郷の沢柳政太郎 (成城小 学校校長) ・伊藤長七 (東京高等師範学校附属中学校教諭) ・加藤正治 (枢密顧問官)が 就任 した。後藤、新渡戸、前田、鶴見 ら通俗大学会関係者は評議員 となった。信濃木崎夏 期大学の活動方針はこの信濃通俗大学会が定め、実務上の運営は、北安曇教育会をは じめ とする地元の教育関係者 に委ねられた。このように信州人脈 を背景に安定 した基盤が得 ら れたことか ら、信濃通俗大学会は、通俗大学会 とは別個の独立 した組織 として扱われるこ とになる35)。信濃木崎夏期大学は戦前 ・戦中 ・戦後 と途絶することな く、郷土社会に根 ざ ・した実践 を今 日にいたるまで続けている。 軽井沢夏期大学は、1918年の第 1回開講以来、1934年の第16回まで続けられた。聴講生 は、北海道か ら沖縄、植民地朝鮮、満洲 にまでわた り、最盛時にその数は470名 にまでお よんだ。戦時中は中断を余儀な くしたが、1929年、地元出身の有志 によって再発足 を見、 戦後の軽井沢町の地域文化振興の中心的役割 を期待 され、以後、毎年開講 し今 日にいたっ ている。戸隠 ・野尻の夏期大学が1921年の開講か らわずか3年で途絶え、長野県外 に開設 を試みた他の夏期大学 も見るべ き実績 を挙げなかったことか ら、通俗大学会の独 自の事業 としてはもっとも成功 したケースといえる。ここでは通俗大学会が開設 した軽井沢夏期大 学の実践 を紹介 しなが ら36)、社会教育上の意義について考えていきたい。 第一に指摘 しうることは、全国か ら聴講生を集めることで、地方にあって地方-向けた 教育機会普及の装置 をつ くりだ した点である。通俗大学会の創始 した夏期大学の実践が先 行するモデルとな り、また刺激 となってその後の各地での夏期大学の開設 をうなが したこ とは想像 に難 くない。むろん資産家を中心 とした都市居住者の避暑地、別荘地であった軽 井沢特有の階層構成をも考慮 しなければならないが、それを可能 とした条件の一つにまず 挙げられるのは、寄宿舎付の講堂の設置である。木崎夏期大学では、開講 に合わせて実業 . 家か らの寄付行為により講堂施設 を建設 したが、軽井沢夏期大学で も別荘地開発 を進めて いた野沢組の野沢源次郎が、後藤に説 き伏せ られ、土地一万坪 を提供 し、くわえて当時「ア メリカ屋建築」 といわれた洋式の講堂 と寄宿舎4棟 を新築 して寄付 した。寄宿舎はその後 2年の間に 3棟 を建て増 し、120名が収容で きるようになった。それで も宿泊利用者の数 に応 じきれない場合は、北海道、東北、九州、四国の聴講生 を優先的に収容 した。寄宿舎 付の講堂 を設けたことは、遠方か らの聴講者の参加 を可能ならしめ、 またその者たちの継
暁星論叢 第52号(2003) 続的参加 をうながすのに利するところが大 きかった。 また、木崎 と同様、鉄道利用者 に割 引証 を発行 し、遠方か らの聴講生 に配慮 した。 これ も鉄道院総裁であった後藤の取 り計 ら いによるものであった。 つ ぎに内容面 においては、官学 アカデ ミズムに傾 くきらいはあったにせ よ、大正期のデ モ クラシー思潮 を背景 に、高名な講師陣による多彩 な講義が展開されたことである。草創 期 の講義 は以下の とお りである37)。 大正
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年 第1
回 第1
期日7月23
日 至7
月29
日1
週 間 - 宗教生活 と社会閉篭 東京帝国大学文科大学教授 文学博士 一 吾国 自今の経済政策 慶摩義塾大学教授 法学博士 「 最近科学の進歩 明治専門学校教授 理学士 (興味ある種 々の実験 をなす) 第2
期日8月
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日 至8
月14
日2
週 間- 英語 Emerson'sEssay 東京高等商業学校名誉教授 男 爵 一 英語 Carlyle'sSartorResartus講義其他 東京帝国大学法科大学教授 農学博士 法学博士 - 英語研究法 東京帝国大学文科大学教授 一文学士 右の外 日本人講師一名 西洋人講師二名交渉中 第
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期日8
月15
日 至8
月14
日2
週 間 - 支那民族思想上の特徴 東京帝国大学文科大学教授 文学博士 一 一 諸国の戦時食糧政策 東京帝国大学農科大学教授 法学博士 - 法律 に於 ける責任観念の意義及発達 東京帝国大学法科大学教授 法学博士 - 社会政策 東京帝国大学法科大学助教授 法学士 - 戦後の米国経済政策 鉄道院参事 法学士 - 現代の工場政策 農商務省臨時雇業調査局事務官 法学士 右の外 講師一名交渉中 < 大正 8年 第2回 自8月 11
日 , 柿崎 正治氏 堀江 帰一氏 友 田 鋲三氏 神 田 乃武氏 新渡戸稲造氏 市川 三喜氏 服部宇之書氏 矢作 栄蔵氏 鳩 山 秀夫氏 森戸 辰男氏 笠間 呆雄氏 河 合栄治郎氏後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) 至8
月
23日 2週間 一 ・デモ クラシー ・栄養の原理 と食物の衛生 ・文化の哲学 ・欧米文明化の教育 と本県の教育 ・歌舞伎劇の本質 ・新聞記事の心理的教育 ・ホイットマ ン ・来るべ き芸術 ・個性の間蔑 ・近代劇 と世界思潮 此外諌外 として 吉野 作造氏 永井 潜氏 桑木 厳翼氏 沢柳政太郎氏 小 山内 薫氏 小野 秀雄氏 有島 武郎氏 有島 生馬氏 紀平 正美氏 宮森慶大教授 ・大隈重信 ・加藤高明 ・藤波言息 ・小野塚喜平次 ・芳賀 ・青山 ・安井曹女史 自7
月
28
日 至 8月
9日 2週間 ・エマ-ソン ・ハムレット ・英語 外 外人講師 男 爵 神田 乃武氏 高商教授 浦口 文二氏B・S
・スミス 軽井沢夏期大学は、例年、文化講座 と英語講座の二つの柱で もって構成 されていた。そ の うち文化講座は、木崎夏期大学に くらべればバランスこそ欠いたものの、 自然科学 ・社 会科学 ・人文科学にわたる学際的な内容の もの となった。 時事開港 を扱 った講義の多い点 は同時期の木崎夏期大学 とも共通する。英語講座は軽井沢夏期大学独 自の もので、 「西洋 人講師」
には、軽井沢に避暑滞在中の人士が招かれた。開講期間は、各年度により長短は あるものの、両講座 とも1週間か ら長 くは 2週間以上にわたった。 講師について見てみると、新渡戸の影響が色濃 く現れている。新渡戸の在職 していた東 京帝国大学現職の、ことに柿崎正治 (宗教学者)、桑木厳翼 (哲学者) といった新渡戸 と親 交があ り、 自由主義者 として知 られる教授の名がそこに認め られる。 さらに、森戸辰男、 笠間呆雄、河合栄治郎 といった一高校長時代の弟子たちが脇 を固めるように名 をつ らねた。 第2
回以降において も、鶴見祐輔、岩永祐書、那須暗、小平権- らが講師 となった。 そ して当時にあって論壇、文壇、芸術界で第一線の活躍 をな した人物の名がある点 も注 目される。その例 として、吉野作造 「デモ クラシー」(1919年)、劇作家の小山内薫 「歌舞伎 劇の本質」(
同)、有島武郎 「ホイットマ ン」、有島生馬 「来るべ き芸術」(
同)、室伏高信 「社会暁星論叢第52号(2003) 問題」(
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年) らが挙 げ られる。異色 な ところでは、京都帝大教控 の厨川 自村 「アイルラ ン ドの新劇」(
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年)がいた。民本主義 を説 く吉野作造のあ とに、 さらに急進的なデモ ク ラシー論 を主張 した室伏高信が招かれているの も興味ぶかい。 「白樺派」 として知 られる 有島武郎 は、新渡戸が札幌農学校教授 であった時の教 え子であ り遠友夜学校の代表 をつ と めた。おな じく洋画家の有島生馬 は実弟である。 厨川 自村は、 日本社会に根 をはる封建道 徳の解体 に向けて国民性の合理的改造 を追求 し、 「恋愛至上主義」を説いた英文学者 とし て話題 の人物であった38)。 また、新開関係の講座が多 くあるの も特色である。 まず新開学者の小野秀雄 「新聞記事 の心理的教育」(1
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年)が 目に留 まるほか、1
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年の第8
回には、 日本新聞協会が主軸 に なって朝 日新聞が中心講師を送 り、 「夏期新聞大学」 と銘打 って講座 を設け、軽井沢小学 校 に新聞展覧会 を開催 して、聴講生への啓蒙 を試みている。そこでは、尾崎行雄 「新聞記 者 としての失敗談」、岡実 「社会勢力 としての新聞紙変遷」、柳 田国男 「新聞 と地方文化」な どの講義がなされた (柳 田はこの とき朝 日新聞社の論説委員であ り、新渡戸 とは郷土会の 活動で親交があった)。これについて、 もともと後藤は、読売新聞の正力松太郎 をふ くめ、 ジャーナリズムによる世論誘導 とい う関心か ら新聞界 とは深いつなが りを有 してお り、そ れ との関連 を無視で きないが、夏期大学の聴講生がマスメデ ィアによ り学術文化に接近 し うる社会的階層であったことを示唆するもの といえる 軽井沢夏期大学 に集 まった聴講生は、教員お よび学生が多 くを占めた39)。それ以外 には、 官公吏、銀行会社員、 自営業者 といったいわゆる新中間層の人び とによ り構成 された。中 等教育以上の学歴 を有 し、高等教育 レベルの教養学習 を可能 とす るだけの レデ ィネスと経 済的ゆ とりを有す るインテ リもしくは亜インテリに限 られた。 こうした知的大衆 による教 養学習-の希求は、個人における文化生活の成熟が もた らした ものであった40)。 軽井沢夏期大学の成功 は新渡戸の存在 に負 うところが大 きかった。新渡戸の別荘が軽井 沢 にあったことも、事業 を支える物理的条件 となった。通俗大学関係者 をふ くめた新渡戸 の弟子 たち、お よび講師 として招かれた各界の知友が、そこに滞在利用 したことは想劇 羊 難 くない。 したが って新渡戸が死去 した1
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年 を最後 に、軽井沢夏期大学が実質的 に終止 したのは偶然ではない。 「満州事変」以降の緊迫 した世界情勢 にあって、国際的観光地、 有 閑階級の避暑休養地であった軽井沢は、軍部の監視 と干渉が集中す るところ とな り、夏 期大学施設 も、
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年以降は、早稲 田大学の夏季軍事訓練場 として使用 されることになる41)。1
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年の夏期大学講師陣のなかに陸軍参謀本部東条英機の名があるのは象徴的であ った。 大正 とい う短 くも印象的な時代の終幕 とともに、後藤 と新渡戸 は世 を去 り、 またそれ と同 じくして、 「学俗接近」
の実践の舞台であった軽井沢夏期大学 も幕 を閉 じたのである。後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島)
あ わ り に
後藤新平は、 「学俗接近」を標梼 し、大学教育のデタッチメン トか らアタッチメン ト-の転回を説 き、 またそれを社会教育 という領野において実践 した。 後藤の生前の出来事である。岩手県出身の学生で、東京に遊学 している者の団体 に在京 岩手学生会なるものがあった。彼 らのうち、 日本大学の学生が、当時内務省 にあった田子 -民 をたずね、在京の岩手県出身の学生 をもって一団をなし、夏季休業 を利用 して、岩手 県下で学術講演会を試みたい、相当な費用 もかかるがその一部 を適切 な方面か ら寄付 を仰 ぎたい と相談 を した。田子は、それには後藤 さんに願 うの も一策である、 との ことで、み ずか ら願い出た ところ、後藤はこの要請にこころよく応 じ資金協力を行 った。後藤が一石 を投 じたことで、学生巡回講演は軌道に乗 り、活動は継続 した。1
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年、在京岩手学生会 が、岩手会か ら独立 して初めての発会式を挙行 しようとした際、ふたたび学生が田子 を訪 ね、後藤に出席 を願ってほ しい と頼ってきた。式の前 日にである。この とき後藤は、 日ソ 関係改善に向けて労農政府の極東代表であるヨツフェを日本 に招 じ、交渉を図るという重 要な外交局面に立たされでいた。あまりにも多忙で しか も緊迫 した状況に身を置 く後藤 に、 田子は恐縮 した態度で面会 し用件 を申 し述べた。すると後藤は、 「ヨ7-氏の事 も大事だ が青年学生はより大事だ是非行ってや らう」 と答えて、多忙 なが らも発会式に約束 どお り に臨席 し祝辞 を述べた。彼の政治的立場 と地位 を考えてみた場合、常識 をはずれた行動 と もとれるが、後藤の 「学俗接近」
に傾けた思いの深 さを物語 る晩年の逸話がある42)。 東北出身者である後藤は、地方 と呼ばれる文化的僻遠の地に暮 らす者が、西洋文明が も たらした学問 と技術 を学び、それをもって身を立て世に出て行 くことの困難 さをわが身を とお して知 っていた。後藤 自身、福島にある須賀川医学校で 「変則医学」
を修めただけで、 帝国大学 を出て官僚の道 を歩んだ学歴エ リー トとは異なった出世の仕方をした。後藤は独 学で学問を身に付け、それを社会生活の糧 とした。後藤はテクノクラー トの先駆け的位置 にある官僚政治家であったが、藩閥を背景 とせず、学閥に依拠することな く権力の中枢 に 君臨 してい くのに、学問は人生を切 り拓 く手段 となった。 「学俗接近」の思想 と実践 をも たらした後藤のオプティミスティックともいえる近代文明への信奉は、彼 自身の出自と来 歴に根があった。 後藤が、- 「学俗接近」
を高唱 し、世に問 うたのは、すでに述べたように、第一次大戦後 の国家経営策の指針 とみな した欧米列強に比肩 しうるだけの民力育成を図ることにねらい があったわけだが、そこには 「紳士税」 という発想が抱懐 されていた。 「紳士税」 とは、 「物質的生活に於て余 りある者は、其の余 りある物質的資源 を以て して、社会に奉仕する ことである。又、精神生活に於て余 りある者は、其の余 りある精神的産物 を以て して、社 会に奉仕することである」 と説明 されるように、広義の有産者階級か ら無産者階級への物暁星論叢 第52号 (2003) 質的 もしくは精神 (文化)的富の分与 を意味 していた。後藤 は言の 「物質的精神的紳士税」 が社会 に惜 しげ もな く払 われるな らば、 「自治生活の総社会は、義務的観念、公共的精神、 共同的意気の充 ち満 ちたる、平和 に して気高 き境地 と化す るであろう」43)との展望 を抱 い ていた。後藤 は、夏期大学の講演の席で も、同事業が、職務上その仕事 を本分 とす る官公 吏以外 に、講師 をは じめ とす る各界か らの 「紳士税」によって成立 したことを強調 してお り、精神的、文化的富の譲渡 による階級融和の実現 とい う意図が、 「学俗接近
」
実践の思 想的後背 にあったことが理解 され る。 そ う したことか ら、後藤 にとって社会教育事業 は、利益誘導型の大衆統合の文化的装置 であった といえる。ただ し教育 をもってはた らきかけてい く場合 に、国民大衆が、個人の レベルで何 を利 として求め、何 を価値 とす るか といった事柄 について後藤 は認識 と経験 を 欠いていた。その点が、教育家であって も教育者ではなかった後藤の弱点であ り、限界 で もあった。社会教育会 にあって蔵原惟郭 に、のちに、みずか ら起 こ した通俗大学会で、新 渡戸稲造 に期待 したのは、そ うした具体的な教育内容 と方法 にかかわる才智であ り、識見 であった。後者 についていえば、新渡戸 とい うパー トナーが なければ、通俗大学会は、社 会教育会 と同様 、見 るべ き実績 を挙 げぬ まま、終息 したことは確かであろう。そ うした こ とか らも、 「学俗接近」
の実践 において新渡戸 は後藤 をお ぎな う役割 にあ ったのである。 最後 に、後藤 は、社会教育 とい ういと なみ を、物 質的関係 に抽象化 して とらえ、それ を 人 と情報の伝播 と流通である と把握 していた。 こう した発想か ら夏期大学の実践 において、 大学拡張 と鉄道お よび郵便制度が技術的 に結 び付 け られ、社会教育の可能性 を新 しく示 し た。彼が最晩年 に手がけたラジオ放送教育事業 は、その象徴 といえる ものであ った。筆者 はこの観点か らも、後藤が 日本の社会教育 に刻印 した現代的性格 について論 じてみたい と 考 えている。別稿 を期 したい。 (注) 1)信夫清三郎 r後藤新平- 科学的政治家の生涯」博文館、1941年、5頁。 2)小川利夫 「大正デモクラシーと社会教育」
同編 r講座現代社会教育Ⅱ 日本社会教育発達史J 亜紀書房、1980年、121貢。また、小川は 「現代社会教育思想の生成一日本社会教育思想史序説」
(同 r講座現代社会教育Ⅱ 現代社会教育の理論j1977年)において、後藤をふ くむ官民にわた る大正デモクラシー期における社会教育の言説を、縦横にかつ丹念に整理 し、その思想的系譜を 見事に構図化 している。そこで小川は、①社会政策的あるいは、社会事業的社会教育論、②官僚 的社会教育行政論、(勤翻訳的社会教育論ないし成人教育論、④これら行政的社会教育論 とは対象 をなした農民 ・労働者の自己教育運動の立場より生起された社会教育批判論の現出に、現代的契 機を認めている。彼によれば、後藤の社会教育論は、社会政策的あるいは、社会事業的社会教育 論につらなる 「教化事業的社会事業論」 と位置づけらノれる。ただし、小川の所論における後藤の後藤新平 「学俗接近」論 と軽井沢夏期大学の実践 (中島) 把握は、後藤の社会教育思想の片面 を指摘 したにす ぎず、その振 り幅 と内実 を トー タルかつアク チュアルにとらえているとはいえない。小川のように言説のみに依拠 して思想 をかた どろ うとす るアプローチでは、観念論的なレベルでの理解にとどまるとい う限界が生 じる。 筆者 と小川の社 会教育の現代化に対する認識は異 なるが、む しろ、後藤についていえば、同論考のなかで小川が 問題 とした 「科学の大衆化 と普及化」 という視点から、論 じられるべ きであったろう。 3)拙稿 「大正デモクラシー期後藤新平の社会教育思想」r日本社会教育学会紀要JNo.27、1991年。 同 「評伝 r国民啓蒙家j後藤新平① -⑳」r月刊東京J1993年2月-94年10月。 4)研究書 に限れば、宮坂広作 r近代 日本社会教育史研究J法政大学出版会、1968年、藤田秀雄 r社 ・会教育の歴史 と課蓮」学苑社、1979年、が目に留 まる程度であろうか。宮坂 は、 「思想善導的 ・ 民衆教化的な目的 と性格」 をもつ 「官製講座」の例 として、信濃木崎夏期大学 を挙げている。他 方藤田は、宮坂 とは対照的に1920年代の自己教育運動の動向において信濃木崎夏期大学 を位置づ けてお り、戦時下にあってもアカデミック ・フリーダムの精神 を貫 き通 した点 を評価 している。 両者の認識はあまりにも隔っている。比較的最近の ものでは、拙稿 「信濃木崎夏期大学の思想 と 社会的基盤」 日本社会教育学会編 r高等教育 と生涯学習J 日本の社会教育第42集、東洋館出版社、 1998年、大串隆書 r日本社会教育史 と生涯学習Jエ イデル研究所、1998年、手打明敏 「信濃木崎 夏期大学創設 と教育改革論」r筑波大学教育学系 教育学系論集j第25巻第2号、2
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01年、がある。 大串 と手打の研究は、筆者に村する批判 を含んでいる。 5)r新時代J第2巻第3号、1907年3月、13-15頁。 くらはらしこう 6)蔵原惟郭は、熊本県出身、熊本洋学校に学 び海老名弾正、徳富蘇峰、浮田和民 らと同 じ熊本バ ン ドに所属 したキリス ト者である。1876年、同志社英学校の新島嚢 に師事 し、その後、1884年 に アメリカ、1890年にイギリスに渡 り苦学 しなが ら哲学、社会学 などを研究す る。 帰国 してか らは 熊本英学校 ・女学校、岐阜中学校などの校長職 を歴任。1897年 に上京、東京美術学校、早稲田大 学、慶応大学などで教育学 を講 じるかたわら帝国教育会主幹 とな り、全国巡回講演、図書館の普 及に尽力する。1
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0年、政友会創立に参加するが、ほどな く政党 を去る. 日露戦後は政界革新運 動 に関与 し、1908年に衆議院選挙に当選 してからは院内最左派の論客 として普選運動、国定教科 書反対、シーメンス事件などで活躍 した。 7)模井良樹 「日露戦後の蔵原惟郭 と華 会教育会」r麓沢大学論叢」第2巻、1991年1月、3-4頁。 なお筆者は、同論考か ら、蔵原惟郭 と社会教育会の関係、およびその機関誌である r新時代J に ついて多 くの教唆 を得ている。 8)「社会教育会宣言及会則」前掲6)書、第2巻第2号、1907年2月、75貢。 9)同前書、 6貢 。 10)たとえば東京市では、市の教育会の主催 による講談会が1901年頃か ら行 われていたが、当初は その対象が教員 という特定の知識層 に限 られ、大衆性 をもつ通俗教育のための講談会ではな く、 む しろ教育間悪 についての講談会 とい う性格が強かった。東京市教育会が、細民居住地帯の住民暁星論叢第52号(2003) をふ くむ広範な市民 を対象にした通俗教育 に取 り組 むのは、 日露戦後の1909年以降であるとい う (山本恒夫 「東京市教育会主催 r通俗講談会Jの展開過程