バルト神学における「罪」について
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一 一 一目 次 序 一 罪 の 認 識 二 人 間 の 高 慢 四.人間の怠慢 1.神とその関係における拒絶 (Versagen) 2. 人間仲間とその関係における拒絶 3.被造物構造との関係における拒絶 4. 時間的歴史的限界 (zeitlichgeschichtliche Begrenztheit) 五.人間の虚偽 六.補遺 序
中 津 賓 郎
Jitsuro Nakazawa 「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入りこんだJとパウロは言う(ロマ5章 12節)。一 人の人とはほかでもない、アダムである。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識 の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうJ (創世記2章 16節)という神の戒 めにアダムは背いた。アダムの堕落が罪の起源という。ここから、キリスト教の神学において罪の問題 は、創造論において取り上げられるのが常であった。例えば、 J.カルヴァンは『キリスト教要綱』第1 篇「創造者なる神を認識することについて」に続いて、第2篇第 1章で「アダムの堕落と背反とによっ て全人類は呪いをこうむり、はじめの地位から落ちた。ここに原罪がとりあげられるJ(1)と述べている。 桑田秀延も『基督教神学概論』での方法は、第 2章「世界一創造と摂理」、第 3章「人間とその罪」、第 4章「イエス・キリスト」である。 だが、カール・バルトは罪を創造論ではなく、和解論で取り上げる。その理由を彼は、和解の前提は 罪ではなく、契約と考えるからである。凶そして、和解は、破られた契約の成就であり、罪とは、契約の 成就に公然と対立するものである。しかも、バルトは罪を renorme ZwischenfallJ (異常な偶発事件・ エピソード)にすぎないという。(3) とは言え、バルトは「悪の問題」を、『創造論~ m/3、で rGottund das NichtigeJ という主題で取 り上げている。バルトによれば、神の摂理からは捉えられず、神の全能の業によって保持されず、神の 世界支配を拒否する要素 (Element) が、この世界事象 (We1tgeschen) の中にある。被造物を脅かし・ 不安の中に陥れ・破滅させる要素がある。このような要素、即ち、 Widerspruch、Widerstand、 Fremdkorper をバルトは rdas NichtigeJ と名づける。(12)バルトは、 DasNichttige (虚無的なもの) を、神の創造の業によって滅ぼされた「無Jで、その傍らを神が軽蔑して素通りされたところの「可能 性J にすぎず、それは神を怒らせ、審き主として登場させ、神御自身を虚無に対決させたもの、神の欲パルト神学における f罪jについて しなかったもの、神が然りそ語ることをそ望まなかったもの、イエス・キリストにおいて戦場から追放さ れ、競棄され否定されたものであるという0(13) パウ)J,‘テイリッヒは、人間の碍荘を不安にし脅かすものとして、死と謹無と罪という三っそ挙げてい る。 さて、罪の本費についてジャン・カルヴァンは、 fアウグステイヌスは高慢がいっさいの懇の発端であ ると言ったのは間違ってはいないJ と述べ、罪とは不従瓶、嘩偽・倣慢であるという。(4)バルトは、カル ヴ、アンの概念を用いて、罪を高慢・怠慢・虚偽の三犠熊として
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和解論』で論乙るのである。 次に、罪の認識についてである。ジャン・カルヴァンは、「神を知る知識とわれわれ自身を知る知識と は結び合ったことがちであるj といい、掛また、 f神についての知識は入院の精神のうちに、生まれなが らにして入れられているJ(6)という。これに対して、バルトはカルヴァンの教税とは「自黙神学のある種 の要素そ完全にぬぐいι去っているとは替えなしりと批判する。(7)バルトは f神論』で〔神認識〕について 次のようにいう。「われわれは、神は神の言葉を通して現に、認識され繰り返し認識されるであろうとい うことから出発するj倒と、また「神認識は、神の言葉の啓示が聖撃を通して実現される中で起こるj と 言う。(9)更に、「神を認識し得るという摂拠は、人間や世界や従って機造物の中にはなく、創造者そのも のの中にある。もし神認識の可能性が神白穿とその帯示からではなく、何処か違うところから生じるな ちば、神は禽JI滋者ではないだろうJ と言う0(10)r
神はただ神を過してのみ、認識できるのであるj制。バル トは罪についても徹底したキリスト論から取り上げるのである。本論は f和解論去における「罪jにつ いて、先ず初めに罪の認識について、次に「罪jの三線態を取り上げる。;
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カルヴアン『キリスト教綱要~ IV 渡辺信夫訳 15頁(
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カール・パ)J,ト f和解論~ IV / 1井上良雛訳 38貰 上掲書 115貢 (4) カルヴアン fキリスト教綱要~ IV 渡辺信夫訳 19斑 t揚欝 45 賀 川 上 掲 番 目 頁(ア) Karl Barth WGotteserkentnis und Gottesdienst nach reformatorischerLehre~ Karl Barth fKirchliche Dogmatik ~
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/1 s.66 (9) a.a.O. s. 66 (10) a.a.O. s. 67 (ll) a.a.O. s. 67 (12) Karl Barth WKirchliche Dogmatik ~n
/3 327 a.a.O. s.346 ニ、罪の認識 バルトは、「弾という事柄についての認識桜拠が、もしイエス・キリストでなければ、この事柄につい ての知識を人はどこから得られると考えるのか、これこそが罪について論じる第-の課題であるjと先 ず述べる。(りそして、「援本的・韓遍的に言って、人は、罪の認識においても、神についての認識の一定 の変形 (Modifikation)に接するのだということ、しかも、神御自身によって人間に伝えられた認識、 すなわち啓示による認識・信仰による認識に接するのだということを、人はここで、すべての真出自な キリスト教神学によって承認され主張されている考え方として、前提するj というo(2)人間は自ら罪者認 識することはできない。 f人は、自分が磁界を持った者であり、欠陥のあるものであり、不完全なものだ ということを、理解し認識するであろう。人は、人間としての自分の現実容在の問題性を、府覚するで- 2
弘前学院大学文学部紀藤第39号 (2003) あろう。しかし、人は、それによって、罪の人間としてのお分の海在を、決して自覚したのではない。 神に対して民進し・隣人に対して反逆し・自分自身に対して反逆する自分を、決して自覚したので誌な いJ<>(3)
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トは、人間の不完全性を認めても、それは罪というものではなく、限界というものにすぎな いという。バルトは、設.ブルトマンを意識して次のように述べる。「自分自身から出発して神の御言葉 なしに人間が達することの出来る、その現実布在の内的問題性に対する樹察は、その罪を認識するため の準積 (Vorbereitung)と し て も 、 一 種 の 先 的 理 解 (Vorverst加dnis)としても揖題むならないJ(4) と。人間は自分の罪の紹識においてさえも、彼がそれを持の御言葉に開くことなしに自分の自己理解の 枠の中で行う限りは、揮の人間であり、そのような者として、この罪の認識という事柄においても、認 識する者ではないからである。 しかし、とバルトは言う。 f罪認識は、いつもただ、神立よる認識としてだけ、しかも啓訴による認、識・ 倍仰による認識としてだけ可能であるというー穀的・基本的なY
解では、われわれほ満足することが出 来なしりと凡なぜなら、和解論に先立つ f罪ニツイテノ輩J (Locus de peccato)をもった古今の神学 の了解というものは、罪認識を可能にし現実化ずる神認識という音葉立よって理解すべきものは、イエ ス・キワストにおける神の現甑・活動・啓示とは陸別されたものとしての、人間に対するその根本的関 祭における神はついての認識である。そのような神認識というのは、人間に元々普遍的に、その良心に 嫌介されて害示され、あるいは歴史において醸書とは別に特別立害示された、神の律法による、神につ いての認識である。そのようなイエス・キリスト以前の、またイエス・キリストの外に在す神について の認識において、人間は、自分が罪人であるということを納得させられ、自分の罪が何であるかという ことを示されるJと。側バルトは、事柄を以上のような仕方で提示することに抗議せぎるを得ないと言う。 かくしてバルトは、捧法と罪について、聖書以外のところから教えられる場合の危験について次のよ うに述べる。それは、 f揮と律法を聖書以外から知っているということは、事実上もはや倍停の認識では ない。すなわち、ぞれ誌もはや神の言葉と御霊によって媒介された認識ではなく、自分自身との対話に よって得られた認識であろうJ<>(7)そして、「そのようなことで本当に、人間の罪の認識が生ずるであろう か。そのような考えは、入が自分の義認について考えていることにも移行し、そして、そこからさらに 和解について彼の理解立移行し、最初試喜望書と教義の語ることを宙定しないけれども、自分と人間全体 のためにイエス・キリストによってその十字架の死花おいて得られた罪の赦しと義がないならば、自分 にとっても人間全体にとっても、希望もなく平和もないのだということを、もはや理解しなくなるであ ろう。それは、やがては、一般的な説教哲学或いは実蒔哲学の領域に移るであろう J と言う。倒そして、 バルトは近托神学者の教説を挽朝する。その中から、ヘーゲル、シュライエルマッハー、 トレルチを取 り上げてみたい。 へ…ゲ}
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(Hegel)は、 Oieabsolute Religionという表躍のもとに、 1821年に初めて行われた宗教 哲学に関しての講義の第3部で、 rOasReich des Vaters-des Sohnes-des四GeistesJという諸概念に配列された彼のキリスト教教義学を展開した。微は、r}ミeichdes SohnesJという概念のもとで、先ず、 「餅造と人間の罪」を取り扱い、次いで「神人と和解J(Gott-menschen und Versohnung)を取り扱 った。このようζ、罪が「御子の冨j との関連の中で現れてくるのを見ると、最初傾聴、をうながされる ような気持ちがする。しかし、間もなく失望させられる。それは、ヘーゲルの弾についての教説は、持 と入との和解の教説,:先立っていて、従って、前者は決して、後者から与えもれるというようなもので はない。彼ζおいては、神は絶対的概念・絶対的精神・絶対的真理と問ーであるように、また、「父Jは 永逓的・位指的・全体的な普選性であり、 f錦子jは現象の無践の特殊性であり、 f聖霊」は思惟の丹環 運動がそれによって再び新たに開始される個別性そのものなのである。ヘーゲルにおいては
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製造と罪と 和解は、丹環をなして動いている有限的精神の罷史の同様に必黙的な五つの契機である。バルトは、こ れでは、創造と罪の摺の連続、また、罪と和解の問の連続も断ち切れない。そして、このような過程全3
バルト神学における i弾jについて 体がその現実存在の まれる有裁的精神は、絶対的精神・絶対的概念・絶対的真理の、従って、神 自身の運動の生命中の一契機にすぎないと批判する。掛 シュライエルマッハー (Schleiermacher)によれば、罪とは、われわれの持議識によって我々の自日 意識が規定せられて、そこでは我々がわれわれの持意識の相対的な無力さ乃至それが瞳書されているこ とを不快として自覚するような状態を清う。神意識のない部意識はなく、キリスト者の心においては、 救いの力を意識することのない罪意識もない。一方罪意識のない神意識乃至救いの意識もない。しかし また、我々の罪深さ (Sundlichkeit)によっても隣棄されないような棋滅的な完全さという前提がなけ れば、その上に立って我々が神意識覚醒の以前に自分の罪深さを自覚するということもない。その際、 罪という言葉によって期解されるのは、人間が自分に先立つ諸世仕の生活形態に従属することによって と共に自分自身の行為としても犯す抵抗ということである。バルトはシュライヱルマッハーの教説 法、次のような二つの点で危険で、
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ちるという。 彼は罪というものを、我々の意識の中で神の臨みによって百定されたものとして理解しようとす る。もしここで、イエス・キリストとの対質によって人間に与えられる吾定のことを考えたのであれば、 日11ち、イエス・キリスト(持の患みによって)において排除されたもの、断罪されたものとして、また イエス・キリストに対するそのような否定的関憾にあって暗黒な仕方でリアルなものとしたのであれば、 どのような展望が示されたことであろう。しかし、彼において地罪の否定は、神についての我々の意識 の中で起こるにすぎないのであって、神と人間の出会いと歴史の中で起こるのではない。 (2) シュライエルマッハーにおいて誌、救いは神意識をもつことである。従って罪とは、神童識の無 力さとして、それが臨書されることとして、ぞれの制約、後追として定義するということが紹ぎる。彼 においては、罪は、我々の持意識によって否定されたものとしてだけ現実的である。懇辻、ただ、持の かたわらにだけ存在する。従って、人間の昌己発脱が行われるためには、 ftiJらかの程擦において弾が共 に存在しなければなちない、ということになる。彼は、恵みに対して罪を結解化するという正当な考え 方から、罪を態みと同じ秩序 (zusammenordnen)とし、罪を恵みの補助物として評催し、否、さら に基礎づけるという考え方が生まれたのである。これは、罪の必黙殺の確立であった0(10) 以上のようなシュライエルマッハーの罪理解に対してバルトは、界の奇定函をどのように強調しでも、 肯定的に理解された罪は、真の罪だろうかと批判する。シュライエルマッハーは一切の神学的認識の源、 として選びを絶対的なものとして定めた、キリスト教的敬慶自己意識他schriはlichfrommen Bewustsein) という、外に向かつて閉ざされた場所の であったとバルト拭言う。(11) 真の罪も真.の恵みも、双方とも示されること エルンスト・トレルチ(五rnstTroeltsch)は、原始キリスト教の設階とカトリックの段階と古プロテ スタントの段階と新フ口チスタントの段轄を区分し、新ブ口チスタンテイズムという概念を作った。彼 はli'Glaubenslehre~ で、罪について以下のように説明する。罪とは持の似姿という思想、の不透明で‘不 可思議で神秘的な側面である。部ち、精神の立場から見るならば、罪とは神に反抗する自己肯定として 現れる。神についての患いは、借仰的、信頼的な心術 (Gesinnung)を要求するが、罪はそのような心 術の拒絶であり、円分の有限的な自己の力と利益とに対するそれから生まれる頑強な主張である。そし て、罪の可能性は、ぞれ自身、人間を真の普へと膏戒するための手段である。勿論、人間が脂日主張し、 締神の出現栓艇むことによって、本来的な罪性というものも帯夜し、従って、そのために呼び起こされ た神的意志の反動の感構として、罪費感というものも存在する。それは、客観的な罪践ではなく、償い を要求するような神的秩序の破損でもない。そうではなくて、ぞれ誌一つの主体的な感情である。神と- 4
弘 前 学 説 大 学 文 学 部 紀 襲 第39号 (2003) の関孫の罪深い混濁を法認する主体的な感請である。そのような罪の感情は、キリスト教的神観急との 連関において始めて生まれるのである。以上、バルトはトレルチの罪理解はカトリシズムへの傾向があ ると批轄する。実際、 トレルチのこの遺稿 rGlaubenslegre.sを紹集し出版したゲルトルート・フォン 4
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• フオールはカトリックに改宗した。凶 さて、バルトは、深江ついての認識を f神の御子の従顕の鏡に映った罪の人間J(DER MENSCH DER SUNDE INSPIEGEL DES GEHORSAMS DES SOHNES GOTTES)という主題で取り上げる。(13)そこでバルトは罪の認識は、持による認識であり、啓示による認識であり、信仰による認識でなければ ならないという。そして、それはどのようにして基礎づけちれるのだろか。先ず、バルトは次のような 命間借提示する αf入聞が界の人間であるということ、人間の罪とは持であり、罪が人間にとって例そ意 味するかということは、イエス・キリストが認識されることによってだけ真に認識されるJと。(14)このよ うな認識の中に、人間の罪の認識は信含されている。このような認織の実現において、またそれと共に、 人間の罪の認識も実現される。そこでは、型番以外の材料から得た規範概念、ひそかに或い拡あらわに 独時において得られる罪についての知識、そのようなすべてのものは、対象の無い者、無用なものであ ることが明らかになる。さらに、欺職的なもの、空虚なもの、ぞれ自身が罪の一つの姿であることが明 らかになる。それ拭何故か。ぞれは、 より良い方法が、キリスト論的方法が見い出され示され得る からというのではない。そうではなくて、それは、イエス・キリスト緯自身がそこに症し、生き、掛り、 証し、説得されるからである、とバルトは諾う。絢 では、仰故イエス・キリストの認識においてなのであろうか。それは、「神と反抗するような人間を、 御自身の御子
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エス・キリストの献身とその死において審君、死に渡し、決裁し、死人の中からの匙り において、すべての時代のためにその内在、生活、言葉、越しにおいて、現されたからであるJとバル トは説明する。(16)バルトは隣織に、 f義とされた人間が人間の罪の意味を知るのは、キリストの十字架に おいてであるJと総べ、幾つかの聖書を伊j証として取り いるので抜辞する。 (叫 んカ15章11以下。放蕩息子が、天に対しでも父に向かつても罪を犯したということを、父に告白 しようと決心するのは、その悲惨の中にあって、父の家には食物があり余っているということを、 思い出すことによってである。そして、彼がそのような決心を実行に移すのは、その父が彼を見て、 寂れに思って走りより、その首をいだいて接吻する時である。{
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カ5章8以下。ベテ口をひれ伏させ、 f私は罪深い者ですj という理出母言うと共に、 f主よ、 私から離れて下さいJと搬わさf
るを得ないようにさせたのは、イエスの命令に従って行った漁が全 く予期しない結果を生んだと君、そこに訴されたのは神の恵であった。ヨハネ
15章22"'-'。主は世の罪について、 fもし私が来て彼らに掛らなかったならば彼らは罪を犯 さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道はないJ と設われた。 3ハネ
16章8"'-'。イエスは御自身についての証しに関して、「それ(案理の縛霊)が来たら罪と 義と都宮?とについて、世の人の日を開くであろう」と語られた。 バルト註以上のような線上で、基本的に4点にわたって、罪の認識について述べているので纏めるo(l7) 1. イエス・キリストの現実存政ほ、人が絶対的に純粋な、熟練した、明瞭な資をした人間の罪に接 する場所である。人間は、 神と自分の隣人を憎む傾向を持っているJ デjレベルク 問答第5問)ということを、いつどこにおいても、認識し告自せざるを得ない。 しかしイ本、入は、どのようにして、そのことをはっきりと知り、確識に考えまた語るよう忙なるの であろうか。それは、新約思議において証しされているイエス・キリストに対しての人間の存在と態度 一 5バルト神学における f鍔jについて とに注意を向ける場合である。また、イエス・キリストに対して偽ることの出来ない人聞の存在と態鹿 北目を向ける場合仁明らかになる。そのような人間とは、イスラエルの敬援な指導者たち、愚鈍で無節 操な民、不正な審きを行った政治家と裁判官、無力な涙を流す:女たち、逃亡する弟子たち、主を否むベ チロであり、症を裏切るユダである。これが、すべての行為の自様であり、それらすべてのことを忍ば ねばならぬあのイエス・キリストの光に照らされた、明白な罪の人間である。ここにおいて、懇は普の 傍らにあるので誌なくて、善に対立しているのだということ、それが問符に神に対する敵対であり、兄 弟殺裁で為り、自己破壊だということが明らかとなる0(18) 2.イエス・キリストは、罪人の反抗に忍耐され、人関の罪の現実の覆いを取り除かれるが同時に、 罪人の非道 (Verwer
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chkeit)をあらわにする審判者 (Richter)である。 悪、在、即ち神敵対、兄弟殺獄、自己破壊等を惑と決定する権威を持つのは一体誰であろうか。ぞれは 人間の良心の声なのか。それとも普選的な人間理性の中に為る「永遠ノ法J(lex aeterna)の声であろ うか。それとも、あちゆる時代のあらゆる民俗の中で尊重された規範の声か。バルトは、 fイエス・キリ ストがその審判者であるjという決定は、次の 2つの場所において諮りかけると詩う。{紛 第一は、神の困である。イエスの身において天から来った袴の菌、それは、人間がそれに対して心を 開くことも閉ざすことも出来るような観念の世界ではない。イエスは神の閣の主としての父の郷名にお いて、その父の御子また御言葉として入閣に対して立たれる。 ζの神は、恵み深い人間の主であり、腕 震をもって人間に身を向け人間と結び付かれる主であり、人間が成り出る以前に入国にその御心を開き 御白身を与え、人聞を神見属するものとして欲っし、知り、人鰐を神との交わりの中にあり神との契約 の中にある存在として定めた主である。御悶の到来北おいて、御向身のところへの御子の啓示と現寵に おいて神郷自身が来られたので~る。この様明i 者が不正と言われること、それは不正である。彼が悪と 呼ぶ入、その人は惑であるとバルトは言う。級事}第ニ。人間は雄も、告分をイエスと比較対照することは出 来ない。人は、イエスを、人間仲間 (Mitmensch)として人間の立場、意見、判断から自分を引き離す ことは出来ない。また、人は、歴史的、心理的に牒望し、稿察することによって離脱することもできな い。人は哲学的に自分自身の場所に連れ民し、そこで自分を主張し、自分はイエスの真理の百葉などか らは告由だと考え、自分は畿に従属などしていないと考えることは出来ない。そのような態度を飽のす べての人間仲間に対しては出来るだろう。しかし、人法、そのような態度を、イエスに対して敢ること は出来ない。荷故なら、イエスは、我々の心や良心の中で決定されたのではなく、むしろ我々に関して 決定を与える真の生きた「永遠ノ法J (1ex aeterna)である。我々の説明によって始めて妥当するもの となる f永瀦の法jではなく、 f永遠ノ響判者JGudex aeternus)として御自身を説明し、妥当せしめ る「永遠ノ法jである。人は、イエスを相対化することは出来ず、彼と討議することも出来ない。ω3
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罪がその現実性においてだけでなく、その顛倒した資においてだけでもなく、 -切の人間的存在 と行為の真理として、あちわになったのも、イエス・キリストの現実存在においてである。 悪は、あらゆる人間において、いつも同じ目立たしさと濃度と危険性とをもって現れるものではない。 また、人関が、自覚的な罪人でありながらも、また告他共に罪の実行者と認めるような者でありながら も、神の善活被造物であることをやめないということも、間違いない。さらに、罪というものが、人間 を自己疎外させる一規定であり、それによって人聞が自分にとって疎遠なー鎮域に入り込み、さら 速な一つの力のもとに立つようになるということも間違いないことである。そして、罪はその人の罪と してしか符在せず、従ってまた、彼自身も、持の遂行者、罪人としてしか、存在しないのである。この ことこそ、人は承認しようとしない。しかも、人はあの様々の間違いのない事柄を揺にとって、自分自 身というものを吉分の罪から区別するという仕方で、それを承認しようとしない。 そのような自我は、場合によっては、自分の罪を告白しようという心の額きや用意を持つてはいるで - 6弘前学悦大学文学部紀要第39号 (2003) あろうが、自分自身をその罪の根源であり罪の惑であると告白し、罪の人間であると告白するような、 心の傾きや用意を持つことは困難である。鰯 イエス・キリストは、罪人の棟方となり、罪人の状況を御息身のものとし、罪人と連体であると語り、 また連体性を持ち、神の前に罪人の事柄を代理することを引き受けたが、そのことによってイエスは、 この織物を最後決定的にヲ
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き裂き、また彼は、罪の真理をあらわに示された。彼が引き受けたのは、邦 人の事桝であり、従ってそれは、義人の事桝ではない。イエス*キワストに与る者は、他の者よりも優 越しているなどということは出来ない。その入は、宮で取税入と共に速く離れて立つであろう。イエス・ キリストに与るということは、比較的善い人間にも、比較的悪い人間たちとの最も誠実な連帯性におい てだけ可能なことであって、悪い人間たちと対立し阻加された状態で、底分一人で可能なことではない。 イエス・キリストは罪人としてのすべての人聞に対して、味方となられたのである。その場合、ただ一 人といえども、 >>IJ織には扱わなかった。そのことによって彼が明らかにした罪の真糟は、鍍が我々の代 明となちれたことを、等しく必要とする者たちであり、我々は皆、罪を犯す者たちだという真理であ る。凶入は、罪の非道さの段階を引き出したり、罪の舵険性の差別を引き?出したり、そのような差違に関 して自分自身や佑の者が比較的議い荷を負うているとか、比較的軽い荷を負うているとか考える可能性 はない。 fすべての罪は、汝にはないJ(All Sund hast du getragen)。大きいものであっても小さいも のであっても、明臼なものであっても人の注意を引かぬものであっても、人間のすべての罪は、イエス・ キリストがそれを相われたのである。彼が揮を担われたことによって、最大の罪も、入関を断罪するこ とは出来ない。彼の光において示される罪の真理は、罪とはその一切の姿において一つのものであり、 そのようなものとして非道のものであるという真瑚である。イエス・キリストにおいて起こった神と入 額の和解の光に黙らされる場合には、そこにこそあの瀧偽の織物 (Lugengewebe)全体の源があり連関 があるあ 消滅する。入は懇を欲しまた行うことによって、自分自身に対して棟遠なものにし、 自ら自分自身を喪失する。ラテン語の rpeccatumJとドイツ掛の rsどindeJという普葉も、その椴本 的な意報は、本来の正しい道を fはずすJ(Verfehlen)という考え方に基づいているα また、人間が罪 人として自己疎外するの誌、神から自分に与えられた被造物としての普い本性から自日疎外するのだと いうことも正しい。禅との契約の中立ある存在として定めちれたその定めかち自己疎外し、他の入関と 共にある状態かち自己疎外し、そのような状態にあって神の似姿であるという状態から自己嫌外し、身 体の霊魂としての秩序の中にある生活から自己疎外し、自分に貸し与えられた期限つきの始めと終わり そ持った時需の中における存在から白日疎外するのだということも、正しい。神は、人間の愚かさと患 のために犯す自分自身の線外、逸脱、錯誤かち引き出し、連れ蹴し、自分自身ち返らせ、それと同 時に、神の被造物としての欝き碍在へと立ち返らせ、信実を保ち、示された。従って、人は、 f神は罪 をf
曽まれたが、罪人を愛することを生めないJ(Gott zwar die Sundehast, den Sunder zu liebenaber nicht auhおrt)と言うことができる。しかし、そのようなことを糞に言うことが出来るのは、た だイエス・キリストにおける神に日を投ぐことによってだけである。イエス・キリストは、絶望的な人 間の事件を弁護するために、全く不正の中にある人間に対しての持の正しさを快慌し、喪失してしまっ た人間の快慣のために来ちれたのである。 4.最後に、イエス・キリストについての認識は、同時に、罪の意義 (Bedeutung)と効力 (Trag命 weite)についての認識である。アンセルムスの言葉を借りれば、 f罪ノ重サハドレホドカJ (Quanti ponderis sit peccatum)という認識である。僻 態がどのような惑であるにしても、神はその悪に対しでも主である。人は、悪をあまり真剣に考えて、 悪を、劇造的で、独立した基礎を持ち、独立した事実を創り出し、峨ーの生ける神との真剣な意味で競 争し、神と支配を争うような本滅的な袴だと考えることは許されない。イエス・キリストの苑と罷りに おいて、患は、克撮され、神の愛と怒りとの全能によって打ち破られ、軒ち静かれたのである。また、
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-バルト神学における f罪jについて 罪は、神の中に何ら積極的肯定的な桜撫を持たず、神の容在の中に場所を持たず、神の意志と業とに対 しでも、何ら積極的肯定的に関与しない。罪は、神の被造物ではなく、それはただ、神が欲しなかった し、今も欲しないし、将来においても欲しないものの代表として、しかも、最も著しい代表として被造 世界に楽を現すのである。神によって棄てられ、断罪され、排除されること見よってだけ生きるものの 伐表。純対的な墨無 (das Nicttige)の代表である。また、絶対にJ不可能なものの可能性以外には、何 の可能性もない、不条煙 (das Absurde)である。罪はまさに不条理である。すなわち、あの創世記の 物語において、混沌の動物である蛇の持に耳を傾けることとして述べられているように、罪とは、人間 が謹無に対して不条理にも心を開くこと、また虚無に対して不条理にも決心することにほかなちない。 罪は、ただそのような不条理の出来事の中にだけ、存在する。 そのようなことを、人はどとから知るのであろうか。探は、樟によって、イエス・キリストにおいて、 神に否定されたもの、紫てられたもの、禁じられたものであり、謹無そのものである。即ち、持の左手 にだけ存在するという事実から知ることが出来る。鰯 さらに、罪の現実がどのように絶対的に担い得ないものであるかということは、神が揮に対するその 怒りと審きの遂行を、イエス・キリストの現実存症において、御臼身の事柄とされたというととによっ て始めて、知るととが出来る。この世に経過における単なる障害を取り除くためならば、また、人聞の 状況のJ相対的な不完全性そ軽減するためならば、神が入となる必要誌なかった。また、持の御子が十字 撫で死ぬ必要はなかった。しかし、今や、神は人となられた。神の御子は十字架で死なれた。従って、 もはや罪がそのような陣諜や相対的な不完全性ではないというととは、部定出来ない。人間の抗議と反 抗、その持喪失、その非人間性、自分自身に対してのその犯罪は、神を鹿援に呼び出すような不条理で ある。殺害創世記の物舗によれば、あの最初の人間がそのために邦人となり、その結果またそれに倣って 他のすべての人間も罪人となったというあの行為を、突にi時結なとととしてきたことが明らかになったo f罪ノ重サハドレホドカj というアンセルムスの問いに対しては、キリストの十字艇から答えが与えられ るのである。罪の重さ、入院の過ちの撞大さ、そこに陥ろうとする深灘の深さの克服と除去のために、 持は錦告身を与え、御自身者犠牲にするという詮方で遂行されたのである。側 バルトは最後に次のことを述べて、との項を終えるo イエス・キリストが為されたととは彼が、我々 のために、我々に代わって、為されたことなので島る。従って、あの聖金曜日にイエス・キリストを取 り屈んでいた我々の代表者であった者たちの業とおいて、我々が見るもの以外には、我々の側での何の もなかったのである。イエス・キリストは、死を忍びつつ、そして死を忍ぶととにおいて只・人従 撤な者として、神の前に、我々の代理となられて、この世を、神と和解された。神の御子の従鍛という 鏑こそ、このような自己認識を引き組こす強観力である。側 注 ( 1 ) Karl Barth IrKirchliche 00.ぉmatik~ IV /1 s.397 井上良雄訳 aaO. s.397 井上良韓訳 aa.O. s.397 井上良撒訳7頁 (4) a.a.O. s.398 上掲書 お頁 (5) a.a
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s.400 上掲書 9頁 a.a.O. s.400 1:掲書 11斑 a.a.O. s.411 色揚書 (8) aaO. s.412 29巽(
9
)
a.a.O. s.415 上掲欝 34頁 (10) a.a.O. s.41 7 上掲書 36頁 (11) aa.O. s.418 上掲書 39頁 8弘前学院大学文学部紀藤第四時 (2003) ( 12)
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1
斑 三、人間の高慢 バルトにおける罪の認識は、イエス・キリストの認識において出来事になる、というものであった。 ところで、イエス・キリストの光に照らされて明らかになった罪とは伺か。バルトは、キリスト 点から、人間の罪は人聞のI
高慢J(
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)
であると言う。 (1) この定義は完壁なものではない。しかし、その統 a性と全体性において、いつどこでも高慢であ るとバルトは言う。だが、何故、罪は興先に高慢なのであろうか。彼は、次のように苦う。人は罪を一 般的に、人間の不従!頗(Ungehorsam)
と時ぷ。キリスト教的認識の世界では正当にも、界を不信仰(
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)
と呼んできた。バルトは、高慢とは、そのように呼ばれて来たものの具体的な避であると 許う。バルトは、このような一般的な定識に反対しようとは患わないという。しかし、彼は、ヨハネ第 による定義は r~整法に対する背反 J(
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であり、従って、│律法捜失J ことであると言う0(2)従って、罪とは、持の尊織を無視し織って為され る人間の行為であり、実際に不能m援である。この不従顕は、神の愛と主権性、全能、自fねという 性絡む対しての自己競外立基づいている。人間は、神の或めの持つ祝福に満ちた意味そ誤認し軽視する ことによって、罪を犯す。従って、罪とは不信仰である。不信仰という務々しい栂から、人間は、必然 的、不可避的に不従!闘が生じる。従って、不借f!rJこそ、一切の罪の原型であり、相糠であり、究極的に 唯・の罪であるということは、確かに正しいとバルトは言う。 しかし、バルトは、このような一般的な罪の規定を次のように、具体化しなければならないと言う。 即ち、罪とは、「キリストにおいて慨を御自分に和解させJ (コリントロ5:
1
9
)
、キリストにおいて永遠 の苦から人間を選ぴ難し、キリストにおいて人聞を創り、人間に対してのその御言葉は永遠の昔からキ リストであったし、永遠にわたってキリストであるような神、そのような神に対しての、人間の不信仰 である。出それらのものを、神はイエス鋤キリストにおいて啓示された。部ち、神がイエス・キリストに おいて為されたことに対しての不誕j瞬、不信抑として以外には、罪を定義することは出来ないと言う。 そして、バルトは、イエス・キリストに対する不信得について、ヨハネ文脅から を受け入れない入には、その入者審くものがあるJ (ヨハネ福膏書12:48)or
搭じな 9 f私の言葉 すでζ審バルト神学における f罪Jについて かれている。神のひとり予の名を信じることをしないからであるJ(ヨハネ福音書3 : 18)、「子を敬わ ない者は、子をつかわされた父をも敬わないJ (5 :23)、「錦子に従わない者は、命に与ることができな いばかりか、持の怒りがその上にとどまるのである J(3.36)等である。 バルトは、このように、イエス・キリストにおける神と人との出会いに目を注ぐとき、罪のあり方と 本質の具体的なこと、即ち、罪の不倍仰と不従轍が、高慢であることが明らかになると苦う。そうであ るならば、罪を高慢として曙解するために、キリスト論的根拠に立ち返らぬばなちないと苦うのである。 キリスト論的根拠とは、何か。ぞれは、『和解論』の
59
節 f異郷に赴く神の予の滋jで論じた事柄である。 即ち、神は異郷に赴皆、真の神でありつつ全く別の帯在となり、神よりも無限に聴しい存在、すなわち となり、我々の肉となられて、ホ遠の御子は永遠の父に従頼となられた。イエス・キリストの現実 存在とは、このような神の従頗と、このような神の謙遜の出来事であるとバルトは言う。 以上のような神の従順に対して、人間の態度は高慢である。この人間の対応を、次の四つの観点から、 バルトは概観する。 1.神は、永遠の父の永遠の鰐言葉であるこをやめることなく、また、自ら唯一の真の神であること をやめることなく、むしろ、そのような真の樽でありつつ、肉となられた。神は、真に現実の人問、試 みられ死ぬ人間、即ち、単に制約のゆにあるというだけでなくその過ちの結果悲穆の中にある人間、我々 と同様な人間になちれたのである。 だが、人間は、自分を高く?ることを欲し、神の如くあることを欲するのである。似しかし、人が神の 如くあろうとすることは、最初、人間自身には全く隙されている。例えば、創世記3章の蛇の言葉は、 +従順への誘いを包含しているが決してあらわには語っていないι そして、あの f木が金べるに良く、 闘には美しく、賢くなるには好ましいj と思われたということが、蛇の命令によって起こるのではなく、 自由な決断と行為によって起こるのである。バルトは、この額融は轍めて強力であるとして、こ の命瓶についても三援の事柄を述べる。 人間がその単独の存在 (Fursichsei)の中にあって、またその自己性 (Selbstheit)の中にあって、 島分自身を捜し、選び、欲し、主強し、保持し、高めると考えること、それによって、真に人間になる ことが出来ると考えることは、人間の自分自身についての誤認である (der Irrtum des Menschen uber sich selbst)。そのようなことが昂然として行われれようと、慎み深く行われようと、人間はそう することによって、自分自身を見失うのである。伺故なら、人関はそのよう比創られていないからであ る。(5) 自分自身についてのあの誤認に陥った人関が、自分こそ源泉であり規範であり、究極のものであ り得ると考え、自分を f自分自身のために尊重することjの対象とすることが出来ると考えることは、 全く不可解な叢想 (Wahnsinn)、巨人定義 (Titanismus)である。その織にもし、神をそれなりに立 派な人物として敢認し、真剣に神を倍じていると考えているとすれば、それは、自分にとって最高のも のを、神としてしまうのである。同 (3) 最後に、神についての誤認は、言うまでもなく単強で、ただ自分だけを骨建し、ただ自分自身の 中にだけ中心を持ち、ただ自分自身の周囲だけ者間転している最高の存在と考える。しかし、そのよう な帯在は神ではない。持は単独であられるが、決して単に単独ではない (Gottist wohl fur sich. aber gerade nicht nur fur sich)。持は永遠の背から父として御子において我々を愛し、型撃によって我々 に身を向けられた、三位一体の神 (dreinigeGott)である。 人は、自分を絶対化ずることによって、邑分自身の中に見出すと考え、崇め、持するものの中に、持々10-弘前学院大学文学部紀要 第39号 (2003) の原型がある。ルターが正しく見、語った通りに、人は悪魔を創るのである。悪魔 (DerTeufel)とは、 独立的非存在 (das independente Unwesen)として、定義するより他はないような存在である。「神 のようになるJ(創世記3章5節)ということが、蛇が人間に与えたあの「実存解明J(Existenzerhellung) 〔ヤスパースの用語〕のー要素だということに、人は注意しなくてはならない。それは、それ自身強力で はあるが、しかし虚偽で破壊的であるより他はないような一つの大なる混沌の思想そのものである。 以上、神がイエス・キリストにおいて御自身と和解させ、御自身の方へと方向転換された人間の姿は、 和解されぬ状態における姿、神から背離した状態における姿、高慢における姿である。(7) バルトは更に、神から背離した人間の姿を、出エジプト記における、神の契約締結及び律法授与と契 約の中断の報道から説明する。 この伝承は、イスラエルとの恵みの契約を基礎づけ、保持し、更新されたヤハウエの活動を、あの離 反によって阻止されはしなかったが不可解な仕方で中断されたと考え、またそのように理解したのであ る。川以下はバルトの聖書釈義である。 出エジプト記19章 3節以下は、神が、イスラエルの歴史的現実存在に基礎を与えたと説明する。即ち、 「あなたがたは、私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼に載せて私の所に来させたことを見 たJ(19: 4)。従って、イスラエルの選ぴ及びヤハウエの民としてのイスラエルの現実存在は、目に見 え手で触れることの出来る歴史的出来事であった。神とイスラエルの民との契約は、イスラエルの開放 という驚くべき仕方で、与えられた。イスラエルの民は、自分に与えられている使命にふさわしく、契 約を守ることであった。「もしあなたが、まことに私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたが たはすべての民にまさって、私の宝となるであろう。全地は私の所有だからである。あなたがたは私に 対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろうJ(19:51以下)。イスラエルの選びには、一つの 意義と目標がある。イスラエルは諸民族の中にあって、仲保者としての役割を果たし、王としての統治 を行い、聖なる民であるべきなのである。契約を守れという命令は十戒という形で語られた。しかも、 神はこの命令を語られたのは、解放という行為 (Befreiungstat)においてであった。「あなたは私のほ かに、何ものをも神としてはならない」、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない、それ にひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」などの、事柄は解放に関してなのである。 (9) 神が イスラエルに厳しく従順を要求したのは、イスラエルが神に属しているかではなく、神がイスラエルに 属しているからであり、御自身をイスラエルに結び付けられたからである。神は幕屋で「私は・・・あなた に会い、あなたと語るであろう。またその所で私はイスラエルの人々と会うであろう。幕屋は私の栄光 によって聖別されるであろう。・・・私はイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。私 が彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの固から導き出したかれらの神、主であることを、彼らは 知るであろう。私は彼らの神、主であるJ (出エジプト29:42以下)。このようなものが契約であり、ま た神の律法であった。これに対してイスラエルの民は、 「われわれは主が言われたことを、みな行いま すJ(19:8)と答えたと記されている。 次は、出エジプト記32章についてである。「私はこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、 私をとめるな。私の怒りは彼らに向かつて燃え、彼らを滅ぼしつくすであろうJ(32: 9以下)。シナイ 山麓で挿話的事件が起こった。神の選ぴも、契約も、イスラエルの選抜も、イスラエルの現実存在も、 疑問化したのである。そのために、もはや、神は、今後の一切のことに対して、怒りをもって断念され るより他はないように見え、樹立された関係を破壊されるように見える。しかし、ここに、モーセが現 れて行動する。彼は、神の怒りの遂行者として行動する。神が書き、彼を通して民に与えた二枚の板を 投げて打ち砕き、子午の像を焼き、こなごなに砕き、粉にしてイスラエルの人々に飲ませたのである。 1 1
-パルト神学における「罪jについて それだけではなく、死刑執行を命じた。 ところが、このモーセは、全く加の役割、即ち、神とイスラエルの問の仲保者の役割を議じるのであ る。 f今もしあなたが、彼らの罪者ゆるされますならば……。しかし、もしかなわなければ、どうぞ、あ なたが番悲しるされたふみから、私の名を携し去ってくださいJ(32: 32)とモーセは設う。ぞれ拭、後 にパウロが神に語ったのと同様の詩葉である。即ち、「実際、私の兄弟、肉iごよる同族のためならば、私 のこの身が明われて、キリストから離れてもいとわないJ (ローマ9:3)と。(10) 次に、バルトは、出エジプト記32輩1-...-6節に記されている契約破壊出undesbruch)について述 べる。「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとと集まって来て、さあ、我々 に先立って進む神を造ってください。…アロンは彼らに詰った。あなたたちの妻、息子、娘らが著けて いる金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。民拭全員、着けていた金の耳輸をはずし、 アロンのところに持って来た。彼は、ぞれを受け戟ると、のみで型を作り若い雄牛の鋳畿を造った。す ると彼らは、イスラエルょこれこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だと言ったJ(32: 1-...-5)。イスラエルは、若い撞牛を作って神として崇めた。この雛牛は、生席力、産出力の象徴である。 ぞれは、民俗の力の象徴 (Symbol)であり、イスラエルの現在と将来における存在の秘密の象徴であり、 自分自身の現在に対する再びと、また
i
司時に自分たちの特来の理懇の象徴である。 W.Vischerは、 fこ の牛誌、イスラエルを理解してくれる持であり、またこの神において、イスラエルは、自分自身を理解 するのであったj と説明する。イスラエルは、このような牛を発明し、建造し、製作することによって、 神に対する関部から離れようとしたのではなく、むしろ、その関係を最も深く、忠実にまた慎重に実現 しようとしたのである。人々は、牛に対して祭壇を設け、崇梓し、矯祭を供えた。それは、決して例か の f偶像に対する祭犠J(Gotzenfesりでは立かった。それは、 f主の祭J(ein Fest fur Jahve)のiまず であった。ぞれは契約の破壊であったが、イスラエルの掛から見れば、契約の最高の成就であり、その 具体的な敬燥の行為であった、とバルトは注釈する0(11)次に、バルトは、モーセの兄アロンについて言及 する。ア口ンは、出エジプト記4章16節によれば、「モーセに代わって民に括る者iであり、それに対 して、モーセは「神に代わるJベき者であった。また、ア2ンは、アマレクとの戦いのとき、祈るそー セの腕を支えていた二人の入のうちの一人であった。彼は、務言者ではなく、制捜的祭苛織の原型であ り、 i幕屋と聖所を守る者であり、供犠の最高の執行者である。従って、モーセと並んで立つ者ではなく、 民と共に立つ人物である。 祭司は、その民の罪の発生とそのカに対抗することは出来ない。むしろ反対に、その罪を共に犯すだ けでなく、罪の代表者となる。彼は、国民の声に耳を{頃け、それに従う。さらに、彼辻、国民の心の願 いや要求の蹴接の遂行者となる。祭可的な知癒は、極端な祭可約愚かさという形になって機くというこ とが記こるのである。この伝殺は、あの契約破壊のときに、ア口ンが演じたことを伝えている。 出エジプト記北よれば、人間の高慢とは契約破壊であったとバルトは言う。 f神ノ餅造者としての人間 (der Mensch als creator Dei)J 、指分を思いのままにし、自分に満足し、従って自分を神とする それが、高慢な人間の第-の罪の姿であった。 f私;ま惑もうとする者を慰み、練れもうとする者を憐れむi (出エジプト33:19)というのがゆるぎないその御名である持の啓示に照らされたとき、ぞれが人間の避 であったJ紛2.
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主は僕となられたJ(der Herr wurde Knecht)ということが、キリスト論の主要な定義である、とバルトは先ず述べてこの墳を始める。神は、イエス・キリストにおいて僕となられたのに、 は、~であろうと欲する。人間は、世界に対しでも、人間仲間に対しても、品分自身に対しでも、自分 の運命に対しても、神との自分の関孫に対しても、機越し、それら全体を自分のところから展望し、桝 察し、支配し、統治するものとして損ずる。しかし、それは、結局すべて空識であり、すべて無効なの である。湖そして、バルトは、人間がそのようなものであることを樋うているその鵠献に註意しなければ 12
弘前学説大学文学部組望書 第39号 (2003) ならないと誘う。また、パ
)
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トは、創世記3撃の蛇の言葉は、題めて痛切な仕方で総蔽を暗示している と言う。蛇の替葉は、人間が自分に相応しいもの、島分が当黙所有すべきものについて、自分のカで判 し硬にまた行動するという、人間そのものに提供された、必然性という主題の回りを難っているので ある。 それは、まず第一に、 f留にあるどの木からも取って食べるな、とほんとうに神が言われたのですかJ と言う、一般的な関いから始まる。これ辻、「憐れな人間は、楽園とその果実の真只中にありながら、飢 えるというようなことに、甘んじなければならおいのかjと、問うのである。そのように語りかけられ た女は、極めて正当主義的に、 f否Jと答えた誌ずである。 f私たちは園の木の実を食べることは許され ていますが、ただ憾の中央にある木の提;ごついては、これを取って食べるな、これに触れるな、死んで はいけないからと、神は言われましたんしかしバルトは、すでにこのような会栃と同時に、決定的なこ とが起こったという。即ち、持は人間に相応しくないこと、人間のためにならないことを命じたのかも しれない。その結果、人間は自分の事柄を持に対抗して、自分の手の中に取らねばならぬかも知れない、 という思考の蛇的可能性が、現れ出てくるのであると。そして、人が蛇に答弁を引き受けるようになる や否や、蛇は、金験なほどに賢明になるのである。この混沌の動物でおる能は主なる神が造られたあら ゆる野の動物よりも賢いばかりか、人間よりも安いのである。ヨハネの手紙ニ10欝以下によれば、挨拶 さえしてはならない報手がいる、「そのような者に挟拶する入は、その悪い行いに加わるのですj。楽劉 の蛇は、そのような検拶さえしてはならない相手の総揺(Inbegriff)であるとバルトは解釈する0(14)しか し、今やすでに挨拶は、なされて、人間の正当的な答えに対する破壊は、その答えに続いて起こらざる を得なかった。蛇は、 fあなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べるとあなたがたの自が 開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのですjと言う。従って、神の恵み はある程度ほ十分であるけれども、実際は完全に十分ではなく、神はやはり何か悪意のある過艶なで あり、人間に対して様々のものを与えはするが、最上のものは与えず、この最も良いものについて人間 を事やつり、否、ぞれどころか問過った指導をし、最も識しい約束が人間を待っているときに、脅かし の言葉を掛ったと、蛇は言うのである。鍍女は、「その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、 彼も食べたJo 今や、人間は自分を主とする。というよりも、むしろ、主を演ずる。しかし、その場合、 何が悪いことなのであろうか。それは必然的な発践ではないだろうか。従属状態から強状態への、 樟から自律への、当然の脱出ではないだろうか。それこそ真の人間形成ではないのか、という愚に解釈 し直すことも可能であるとバルトは言う。(15)だが、この場合にも、臨蔽は強力である。撲ではなく主で ありたいという人聞は、自己諌外 (Selbstentfremdung)と自己破壊 (Selbstzerstorung)を犯してい るのである。何故なら、神が上に在すのに対して人間は下におり、神が主権を持たれるのに対して人間 は従属する。そのような秩序の枠の中でこそ、人間は富岳であることを許されるのである。人間は、こ の秩序を梅り拒む場合には、ぞれは、人間の破滅として起こる他はない。側バルトは、そのような人間を 言い表すために、「高嶺J(Hochmut)という言葉は、極めて弱い。正しい設葉は、 f誇 大 妄 想 狂j (GrりI~enwahn) であるかもしれないと苦う。{総)それはともかく、そのような人間にまで、神は謙られた。 神は、人聞の企に対して、御自身を低くし、従願と成られたのである。 さて、バルトは、以上の事柄に対して!日約聖書の幾つかの証設から検証する。 先ず、イスラエんの最初の王サウルについてであるやサムエル間一8章5節によれば、イスラエルの 長老たちが集まって、サムヱルに向かつて「今ほかの国々のように、われわれそ裁く王を、立てて下さ しりとぎう。サムエルは、王というものが持つ恐るべき特権について響告するが、長老たちは聞き入れ ない。そこでヤハウエは、 f彼らの両に従い、彼らのために::Eを立てよj と決定される。バルトは、ここ では次のような事実が明らかになるという。即ち、イスラエルにおける人間の王的存在と機きは、興約 の椴源的な概念にとっては、線遠な要燕、否、それとは逆行する要素である。嘗ての、土師たちは、神 -13バルト神学における「罪jについて によって直接百された者であった。彼らは、内外に対して契約を保持する責任があって、独裁的君主で はなく、イスラエルが苦しんだ苦しみから救うために自由に任命された救助者であった。例えば、ミデ アン人との戦いの後で、人々が世襲的な統治者の地位をギデオンに申し出たときに、ギデオンは、「私は あなたがたを治めることはいたしません。また私の子もあなたがたを治めることはいたしません。主が あなたがたを治められます」と言ったと言う。イスラエルの伝統において、王という考えはなかった。 ヤハウエは、絶対的な権威と力をもって治め、命じ、行動したけれども、それは
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melekJ (王)として ではなく、偉大な第一次的な解放者、即ち、 rmoschiaJとしてである。しかし、イスラエルは、制度的、 世襲的な王を期待したのである。事柄は、すでにその出発点から異常なのであるとバルトは解説する。(口) 聖書本文の二つの伝承によれば、サウルの誤りは、外面的には極めて些細な過ちで、あった。第一は(13: 7以下)、ペリシテ人との戦いの始めに、サムエルが軍隊のもとに到着するのが遅れ、敵はすでに押し寄 せて来たので、サウルは、民が自分を見捨てて四散することを恐れて、自ら婚祭を捧げたのである。サ ムエルは、サウルの行為を、神の命令に背く愚か者の行為と呼び、その王国は続かないであろうと言う。 そこで起ったことはただ、サウルが、神の命令と導きを喜んで待つことをしないで、そして同時にモー セのように民に対して強い人間でありつづけることをしないで、神に対するこの民の関係について、そ の指導権を自分のものとして奪い、あの犠牲を捧げることによって、自分の服従にとっての決定的な前 提を自ら作り出し、それと同時に勝利の戦いにとっての決定的な前提を、自ら作り出そうとした、とい うことに過ぎなかった。彼は宗教的な点で、僕としてではなく極めて僅かばかり主として振る舞おうと したに過ぎなかった。(削第二の伝承は、 15章 8節以下である。サウルの誤りは、ヤハウエがサムエルの 口を通して命じた、アマレク人を全面的に絶滅せよという命令を、サウルは不完全にしか実行しなかっ たという点である。サウルは、アガグ王の命を許し、敵から奪った家畜のうち値打ちのあるものは大目 に見た。サムエルは、サウルのところに来て、「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に 等しいからである。あなたが主の言葉を捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位からしりぞけら れた」と言う。サウルは民を恐れてその意志に従ったという告白も、赦しを願う懇願も役に立たない。 ここで起こったのは何事であろうか。それは、ただサウルが、他の王たち、国民たち、神々の世界との たった一つの本当に小さな妥協、全く不合理でも不敬度でもないような基礎の上に立った妥協を正しい と考えたにすぎない。サウルは、ただ恐怖したにすぎない。しかし、その恐怖のために、やがて独裁者 となるのである。あの楽園においても、起こったことは、理論的にはほとんど取るに足らない事柄であ った。しかし、それが、人間を楽園において失墜させるには、 十分なものであったのである。何故かと 言えば、誰が主であり誰が僕かという問題においては、量の多少は問題ではないのである。彼は、最後 にはイスカリオテのユダのように自殺する。彼は、この唯一の罪のために棄却され、その罪の結果、止 めどもない解体の流れに巻き込まれて、次々に様々の罪を犯したのである。(則 3. イエス・キリストは、神を絶対的に正しいとするために、我々の代わりになられたが、そのこと によって、彼は、我々に対して判決 (Urteil)を語られたのである。それは、神の行為の謙遜であった。 ところが、人間の方は、神を正しいとする代わりに、自ら審判者たろうとすることによって、自分自身 に対して不正を行うのである。(20) バルトは、この例証として、倉JI世記3章の蛇の知恵について取り上げる。バルトは、蛇の誘惑は、倫 理の基礎づけだと言う。(21)r
圃の中央にある木に、死の危険があるどころか、むしろその実を食うことに よって、人間の目が開けて、彼らも善悪が何であるかを許されるのだから、神のようになる」というのが、 蛇が教えたことである。神は、善悪が何であるかを、知っておられる。そして、それを知っているとい うことが、神・主・創造者としての彼の栄光なのである。神は、創造者として、知に基づいて行動し、 コスモスとカオスを区別し、光と閣を区別し、秩序と無秩序を区別されたのである。人間は、そのよう な点で、神と争ってはならないのではないか。(21) 1 4-弘前学幌大学文学部紀饗第39吟 (2003)
髄蔽 (Verdechung) 誌、この場合には、明らかに特別に強力である。 f善悪の認識J(Erkenntnis des Guten und Bり;sen) に対する人間の欲求が、創世記 3章では明瞭に態い欲求とされていることに、 キリスト教会は、何の額き (Anstos) を覚えないということは驚きである。ぞれとも、そのようなとこ ろは、読みすごしてしまったのだろうかとバルトは言う。総もし、善悪の認識を、人間の理性的本性の中 にとか、我々の良心の中に求めることをしないで、観賞記3芸誌に記されているような事実に注目し、そ れに従ったならば、キリスト教論理の理論と実識は、測り知るととのできない結果をもたらしたにちが いない。人間の高慢という真の惑が身を包んでいる錨は、ここでは、他の場所におけるよりも、はるか に理くまた堅固なのである。 人間は、あの善悪の認識を欲求することによって、自分自身を誤解し、過大評価する。また、その欲 求から、客観的な悪も生じる。そして、それらすべてのことの棋底には、神観(Gottesanschauung) と 神 概 念 (Gottesbegriff)との誤謬がある。その誤謬とは持か。先ず、持は、その審判j者としての識を行 われるときに、単なる主権というあの偽りの神的高みには、庫わらないという事実である。人間は、そ の臓かさのために、神をそのように眺めたのである。次に、神は、その栄光を実際に守られたことであ る。持拡、そのことを、第:綻将軍として行ったのではない。むしろ、最も深い苦しみを身に負う、審半JI 者となられた。最後に、御自身の審判j者としての職にそのようにして就き、それを寄られた神は、その 判決そのものについて、審査を受ける必喪があるような、またその判決の実撞に際して補佐を必要とさ れるような、審判者ではないという事実である。同 第3の鰻点は、神がイエス・キリストにおいて鱒自身と和解させ、鶴自身の方へと事長肉させられた人 間の高壊な楽である。持は、その和解の恵みにおいて、そのような、人間のととろへと、下りてとられ たのである。神がその鐸子において人間のために為されたのは、そのような人間の旨験と関わっている のである。側 4. 最後に、人間の尚慨を、バルトは、イエス・キリストの「卑下J(Erniedrigung) から、即ち、 十字架で、 fわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですかjと叫ばれた持の子、神の子であ りながら燕の人として売に葬られた神の子という視点から取り上げる。イエスは、我々の代理となり、 我々の罪に対しての審きを忍び、我々の訴訟事件を弁識して、そのようなところまで赴かれた。それが、 イエス・キリストにおいて我々のため民組こった神の行為の謙遜である。ところが、人聞は、自分のた め北そのようなところまで下りられた方に対して、はっきりと対立する。彼は、自ら自分そ助けること が出来ると考えてきたのである。 バルトは、ここで、人聞の臨蔽(Verdechung)むついて、創世記 3輩の蛇の知癒を再裏取り上げる。凶 楽園における憐れな人間たちは、何が普であり何が態であるかを知らない。越感について判別すること も、後らには、許されていない。彼らの楽園における生活には、そのような多くの関定と限界がある。 勿論、それと同時に、神が自分たちと結ばれた契約についての想起と自分たちは己を助けようとする必 要が