学校教育の商品化による教育実践の変化に関する考察
―特別活動における道徳性の側面から― 玉木博章(名古屋経済大学) 1、はじめに 1-1 問題の所在と本稿の位置 「よい教育」についての議論を展開するG.ビースタは昨今の教育情勢について、説明責任への経 営的アプローチが教育者の行為や活動に対する応答責任、そしてその行為や活動が何をもたらすこ とになるのかに対する応答責任を取る機会を侵食してきた(ビースタ2016,76-77)と懸念を示す。 ビースタの述べる説明責任とは緩やかな一般的な意味と、技術的かつ経営的意味とを持ち合わせて いる。一般的意味の側面における説明責任は応答責任と関係があり、対して技術的かつ経営的意味 での側面では、より狭義であり、監査可能な説明をする義務のことを示している。そしてビースタ はこの両者の関係性が薄いこと(ビースタ 2016,77)を挙げながら、技術的かつ経営的意味での 説明責任、つまり経済論理が教育を浸食することで、なぜ教育者が自らの行為や活動に応答責任が 取れなくなるのかについて説明している(ビースタ2016,77-108)。 ところでビースタの展開する説明責任に関する議論は改めて後に詳しく確認するが、実際に、そ の指摘内容は具体的な教育実践の場面よりも、普遍的かつ抽象的な議論に収斂されている。そのよ うな収斂が、議論の汎用性を上げるための恣意的なものであるのかどうかは定かではないが、少な くともより具体的な教育実践の場面を想定した時には、ビースタが論じるような懸念を更に凌駕す るような出来事も生じてくる。そもそもビースタのこうした議論は、教育を享受する市民の消費者 化から生じる海外での質保証文化の高まり(ビースタ2016,83-85)を背景にしており、当然では あるが、日本独特の教育事情や子ども達の様相等は加味されていない。つまりビースタの論じる質 保障文化の高まり等の内容は日本の議論にも十分に通ずるところはあるものの、実際にはこうした 傾向がビースタの論じていることの範囲を超えて様々な教育問題を引き起こしてもいる。 例えば訳者の1人である藤井啓之は、こうした技術経営的な説明責任の高まりと付随する質保障 文化の高まりがどのような問題を引き起こすのかについて、ビースタを通して可視される日本の教 育事例を列挙している(藤井 2016,201-203)。藤井は昨今の学力テストの狂想を引き合いに出し ながら、得点というわかりやすい結果を出すことに囚われた教師が、授業内容に理解しがたさを感 じている子どもの現状に目を向けないまま、テストの平均点を気にして反復練習だけを積み重ね、 数値で計測可能な学力の向上だけに拘泥されている現状に警鐘を鳴らしている(藤井 2016, 199-202)。また、生活背景が原因で自暴自棄になっている子ども達の現状に目を向けず、ゼロトレ ランスで機械的に懲戒し、子ども達の表情を無視して機械製品を製造するかのように接する教師達 の指導を嘆いている(藤井2016a,202-203 または 2017,62-63)。ビースタが、そもそも教育とは 工学的もしくは技術的な実践というよりむしろ道徳的な実践である(ビースタ 2016,58)と述べ ていることを踏まえれば、当然であろう(ビースタ2016,)。 1-2 本稿における課題と構成 このように藤井がビースタというフィルターを通して具体的に日本独特の教育問題を指摘してい ることは確認できたが、ビースタの著述や藤井の指摘は、特定教科の授業や、日常的な生徒指導の場面へと焦点化されている。しかしながら、実際のところビースタの知見に依拠して日本の教育を 見た場合、まだまだ多くの課題や道徳的に望ましくないことも可視化される。そこで本稿はビース タの概念に依拠しつつも、ビースタや藤井が具体的に言及していない他の具体的事象や、日本にお ける独特の教育問題について考察することを目的とする。 そこで本稿においては、その考察対象を藤井やビースタの触れていない自治的活動としたい。自 治的活動に当たる特別活動は現在海外に Tokkatsu1として輸出される日本固有の教育実践である (恒吉2017,19)。加えて前述したように訳者である藤井はもちろん、管見の限りではあるがビー スタの枠組みを通して日本の教育問題を考察した折には、子どもの自治という点には触れている者 はいない。したがって、本稿を通じて、ビースタの知見の汎用性を明確にすると同時に、今日の日 本における自治的活動の課題を明確にしていきたい。 なお本稿は4節構成である。第1節では問題提起と本稿の位置づけを行い、本稿で論じる内容を 明確化した。第2節ではビースタの論じる説明責任とはどのようなものか、市民の消費者化と質保 障文化の高まりと関連させながら論じる。続く第3節では、そこから派生する3つの課題を浮き彫 りにし、概念化する。そしてそれらを基に特別活動においてどのような問題が生じるのか論じたい。 最後に第4節では本稿のまとめを記し、本稿で論じた3つの課題が、他の学校以外の領域でも生じ ていることに言及し、今後の研究課題や展望を述べる。 2、教育における商品化 2-1 説明責任と質保障文化 説明責任という言葉には2種類の意味があり、1つは技術経営的意味、もう1つは応答責任と関 係があることは既述した。まずは説明責任とはどのようなものなのかという点について、ビースタ の議論を基に確認していきたい。 説明責任とは、監査可能な説明をする義務のこと(ビースタ 2016,77)であり、例えば企業が 顧客に対して負うものであると表現できるだろう。顧客は企業に対して財を購入するために一定の 金額を払う。そして企業側は顧客に対して、その金額に見合う業務を遂行して結果を出さなければ ならない。また顧客から求められた場合には業務に関する説明の義務も負っている。ビースタは、 説明責任という言葉においてこうした技術経営的アプローチが高まる以前は、説明責任を統治のシ ステムというよりは、相互の応答責任のシステムであると見なす伝統が支配的であったと述べてい る(ビースタ2016,79)。つまり教育において、かつて説明責任の文化は教員の専門職的解釈へと 強く焦点化されおり(ビースタ2016,79)、本稿で課題として言及する経済論理に則ったものでは なかった。加えて説明責任という概念が教育に持ち込まれた頃には、学校を、保護者、生徒そして より広い一般市民に対して説明可能にすることが教育の民主化を支援するだろうと議論することで、 説明責任の民主主義的アプローチに接合する試みもあった(ビースタ2016,79)。しかしながら新 しく登場した経営主義的な考え方は顧客志向の精神、能率や費用対効果に駆り立てられた決定、競 争の強調、特に自由な市場主義によって特徴づけられている(ビースタ2016,80)。したがってこ のような経営主義的な考え方が教育界に持ち込まれたことによって、既述した2種類の説明責任が 存在する現状が生まれている。 こうした背景にはビースタがミドルクラス不安と呼ぶ現象が大きく関与している(ビースタ2016, 89)。ビースタの議論に日本の例を反映させて説明してみよう。一般的に高偏差値校の生徒は、平 均的に就職市場でより良い出発点に位置し、より高い地位の高等教育にアクセスが可能であり、よ り良い試験の得点を獲ることに成功しているかのように見える(ビースタ 2016,89-90)。対して 中位層の保護者達は自分達の子どもが不利な立場になることは望まない(ビースタ2016,90)。当
然保護者はそのような高偏差値校の教育基準を望み、学校における基準向上という政府の課題や、 それに随伴する検査体制つまり中央集権化と説明責任を喜んで支持する2のである(ビースタ2016, 90)。多くの保護者達が望むものは、試験の得点増加であり、それを保証する教育の質向上を学校 へ求めることとなる。 したがってこのようにしてみると、説明責任を品質保証が補完しており、それらが教育界に持ち 込まれた新しい経営主義の主たる道具である(ビースタ2016,80)ことがわかる。Z.バウマンによ れば、現代社会は一度転落したらなかなか這い上がれない、本気で行なわれる陰惨な椅子取りゲー ムのようなものであると揶揄される(バウマン2008,11)。アンダークラスへの転落を恐れ、少し でもエリートクラス3へ近づこうと目論み、保護者が質保証を通じて試験の得点に対して必死になる ことも必然であろう。だが問題なのは、こうした質保障はプロセスの効率や効果について行われ、 これらのプロセスがもたらすはずものについてではない(ビースタ 2016,82)点である。技術経 営的説明責任はプロセスの効果性と効率性に焦点化されており、そのプロセスがどのような結果を もたらすべきなのかについてではない(ビースタ2016,82)。公共サービスにおいて基準を上げる ことを強調することは、どんな基準や成果が望ましいかに関する適切な議論を欠いているから空虚 なものとなる(ビースタ 2016,82)のだ。つまり試験の点数の取り方の議論ばかりが白熱し、そ の試験で点数を取ることが教育的に望ましいかどうかについての議論は行われないのである4。 2-2 市民が消費者になることの問題点 加えて、このように教育界に経済論理が導入されたことによって、市民と政府の立場も大きく変 化する。ビースタによれば、この変化によって政府と市民は共通善に関心を払う政治的関係ではな く、公共サービスの提供者としての国家と、消費者としての市民という経済的関係へと再配置され たことが述べられている(ビースタ2016,81)。そしてこの関係性での保護者や生徒と学校の間で の説明責任は直接的ではなく間接的であり、直接的な説明責任は学校と国家との間で生じる(ビー スタ2016,84)。というのも、学校が提供する教育サービスの質に関する説明責任を持つのは政府 だからであり(ビースタ2016,84)、学校は教育業務の代行者に過ぎないからである。そして顧客 である市民は政府によって支給される教育サービスの質に対する投票はできるが、サービス全体の 方向性や内容に対する民主的な発言権を持たないため、非政治的な関係になってしまう(ビースタ 2016,85)。したがって親と生徒が果たしうる唯一の役割は、教育的な提供物の消費者の役割であ り、そこに教育について公共的かつ民主的な言説に参加する機会は存在しない(ビースタ 2016, 86)。ビースタは、こうして真の利害関係者は説明責任の輪の外へ追い出され、経済的関係性が民 主的関係性を困難なものにしてゆく(ビースタ 2016,87)と警鐘を鳴らす。なぜならば民主主義 的な要求は個々人の願いを超越し、時にはそれと対立さえしうる集団的もしくは公共的な財の達成 へと方向づけられる(ビースタ2016,141)ことに対して、顧客の要求は個人的な望みを満たす要 求によって動機づけられてしまうからである。つまりこの説明責任の輪の中においては、教育の全 体性や道徳的望ましさは問われず、成績や進路等といった生徒と保護者の学校教育に対する個人的 な要求しか議論されないのである。 ビースタはこれらの違いをそれぞれ集約的モデルと熟議的モデルと称している(ビースタ2016, 142)。集約的モデルとは個人の好みを集約するプロセス(ビースタ 2016,142)であるのに対して、 熟議的モデルとは個人の好みの単純な集約に限定されず、そのような好みの熟議的変形を含むもの、 換言すれば個人の欲望を集団的な必要へと変換するもの(ビースタ2016,143)とされている。こ れらのことを踏まえれば、どちらのモデルが教育的かつ道徳的に望ましいかは明確であろう。熟議 とは単なる政治的意思決定の形式ではなくて、政治的なコミュニケーションの形式であり、熟議的
転回はひとまとまりの争点を生み出す(ビースタ 2016,165)。例えば顧客であれば、ある商品が 気に入らない時にはその商品を買わず、他の商品の中から最も気にったものを選べば良い。しかし ながら、どうしても気に入るものがない時や何か買わざるを得ない時には選択肢を新たに作ること ができないし、積極的に働きかけて既存の選択肢を改善することもない5。だがそこに熟議的転回が あれば、気に入る商品が発売されるのを待たずとも要求をすることができるし、仮に自らの利権を 捨ててでも他の人々のために望ましいものを求めることができる。決まりきったメニューや店から 選択するだけではなく、新しいセットやメニューに関する議論を刺激できるし、新たな店を作る要 求もできる。だが、現実には逆の現象が生じている。 2-3 求められる教師像の変化 加えて市民が消費者化された状況では、教師に求められる姿や業務も大きく変化する。前述した ように学校が中央集権化された教育サービスの代行者になり、質保証文化に基づいて顧客の要求を 叶えるだけになるならば、最早教師は道徳的で専門的な判断を求められず、教育という商品の販売 員に成り下がる。教師は国からのトップダウンで決められる経営方針を遂行するだけの代理人であ り、質保証を乱す教師それぞれの人格や個々の特性は加味されない。そこでは均一化された教師達 が同じように淡々と授業を行い、新任教師のフレッシュさも、ベテラン教師の安定感も不要となる だろう。顧客が望む結果を効率良く出すためのエビデンスに基づき、どんな時もマニュアル化され たかのごとく同じように振舞うことが求められる。実際にビースタも、エビデンスに基づいた教育 は、教育実践家が彼ら自身の文脈化された環境に鋭敏になり、その環境に関連する方法で判断する 機会をひどく制限する(ビースタ2016,52)と言及している。 他方で、仮に何らかの形で学校が高い試験得点の報酬を受けるのであれば、教師達や学校がやる 気のある保護者と能力の高い生徒を引きつけようとばかりして、困難な生徒を締め出そうとする(ビ ースタ 2016,88)ことも想定される。だが、それが教育者のすることであるならば、道徳そのも のが疑われていくことだろう。そのような学校では発達障害を抱える子どもや、日本の学校で重視 されがちな資質を有していない子どもが軽視されることが懸念されるからだ。 3、日本の学校教育における懸念 3-1 教育の商品化によって生じる3つの課題 このようにビースタの著述を手がかりにしながら、経営主義的な学校教育が一般化することに関 する懸念は確認できた。しかしこうした「教育の商品化」とも形容できる現象は、ビースタの議論 から発展し、更なる懸念を生み出している。ここからはビースタと藤井の議論を発展させる形で抽 象的に論じた後、それを特別活動に応用して考えてみたい。 まず1つ目に挙げたいことが教育の個人化である。例えばビースタは教育という言葉の代わりに 学習という言葉が頻繁に使われていることに触れ、このことを教育の学習化(ビースタ2016,29-34) と呼んでいる。教育という言葉が常に関係性を含意していることに対して、学習と言葉はあくまで プロセスを示す用語に過ぎず6、加えて個人主義的なものである(ビースタ2016,33-34)。こうし たことは、共同学習という言葉があることに対して、共同教育という言葉があまり使われない点(ビ ースタ 2016,34)を踏まえれば明確であろう。そしてそうした顧客個人のニーズを高めることが 影響して説明責任の文化が高まっていることはビースタも述べている(ビースタ 2016,103)が、 ビースタの論じる通り、市民の位置づけが教育の消費者として固定化すれば、ますます教育は個人 ものであり、顧客としての個人の選択に過ぎないという考え方が一般化するだろう。そうした状況 においては、自分の満足が第一であり、共通善はもちろん友人や知人、隣人の抱える問題に関心は
払われない。新自由主義的な教育観の下で、自分だけが満足して勝ち残り、他を蹴落とすといった 椅子取りゲーム(バウマン2008,11)も絶えることはないだろう。 2点目に挙げたいのは、教育の一元化である。商品となった教育が展開される学校において求め られるものは、学力テストで計測され(ビースタ2016,90)、わかりやすく数値化された学力の向 上であろう。すると「よい」とされるものの価値が一元化され、藤井の述べるように学力テストで 計測されない芸術的感性や手先の器用さはもちろん(藤井2016a,200)、友情や思いやりといった 人間的に必要な資質に対して重きを置かれなくなる。少なくとも、現状そうした能力は数値化が困 難であるし、高偏差値の学校に行くための材料にもなりづらい。学校においては入試に反映される 能力のみに価値が一元化し、それに影響されて子ども達もいっそう狭義の視点しか持てなくなる。 そうすれば、そういった能力のある生徒と無い生徒の間での2極化が生じる。前者は有能感得られ るであろうが、後者の自己肯定感は下がる。差別意識はいっそう強化され、前者は後者のことを価 値の無い人間としてみなすようになるかもしれない7。教師自身も自らの教育業務の結果を保証して くれないそのような生徒に対しては良い印象を抱かず、当然、いじめが生じる原因にもなるだろう8。 そして3点目に挙げたいことが、教育の形骸化である。教育が商品化された状況では、最も効率 的に大多数の顧客が望む結果を出すための教育技法はマニュアル化され、それは企業の技術のよう に研修等を通じて徹底されるだろう。例えば藤井は、笑顔で大きい声で挨拶をすることが当然とさ れていることを挙げて指摘している(藤井2017,59-60)。これは確かに望ましいことではあるが、 笑顔と大きい声での挨拶を子どもにさせることが質保証として徹底されると、それができない子ど もに対する道徳的な配慮に欠き、「今日は元気無いな、どうしたのかな?」という発想を教師から奪 っていく。その時、教師の実践は教育ではなく教化となる。家庭で何かがあって、今日はたまたま 元気で挨拶ができない子どもに対して「それじゃだめだ、もっと大きい声で」という指導を行うこ とが道徳的かどうかは考えるまでもない。その子どもは教師に促され、その場では挨拶をするかも しれないが、子どもの抱える問題を解決し、自然に大きな声で挨拶できる状況に導いてはいない。 一定の結果を効果的かつ効率的に出すためにマニュアル化された教師の業務では、教育実践の中身 は形骸化するばかりである。ビースタも効果性とは道具的価値に過ぎず、常に問われる必要がある のは、何のために効果的なのかということである(ビースタ 2016,54)と述べる。つまり効果的 であるというだけの理由で、その手段を安易に使うことができるわけではなく、ある教育技法をい つでも使うことが常に望ましいわけではない(ビースタ2016,57)。表面的に見れば教師は与えら れた業務をして結果9を出しているが、子どもの表情をしっかりと確認し、教育的かつ道徳的な望ま しい指導をしたとは言えない10。 3-2 自治的活動における課題 このように教育の商品化から生じる3つの懸念について明確になったことを踏まえて、この懸念 が特別活動においてどのような影響を及ぼすか、運動会という行事を例にして順に考えてみたい。 運動会において個人化が生じると、何よりもまず学習指導要領上での特別活動や行事活動のねら いが実現されなくなる。新たに改定された指導要領によれば行事の目的は「全校又は学年の児童(中 学校版は「生徒」)で協力し,よりよい学校生活を築くための体験的な活動 を通して,集団への所 属感や連帯感を深め,公共の精神を養いながら,第1の目標11に掲げる資質・能力を育成すること を目指す。」(文科省 2017a,115.2017b,88)とされている。特別活動全体に関わる第1の目標 も同様であるが、指導要領において「協力」や「集団」、「連帯感」が強調されている。個人主義的 な考え方が一般的とされる海外とは異なり、他者との関係を重んじる日本の教育において個人化が 生じると特別活動は成立しない。自分の満足だけを追求すれば、自分が楽しむことや勝つことだけ
に重きを置き、友人が出場する競技のために準備をしたり、観戦や応援をしたり、チームワークを 追求するために衝突したりするといったことは生じにくい。他者への貢献や相互作用を経験するこ とによって成長するプロセスは子どものキャリア発達や道徳教育にも大きく連関するため(文科省 2017a,2017b ともに 6,23)、個人化した運動会は教育実践としての機能を半減させてしまうだろう。 続いて運動会において一元化が起こるとはどのようなことだろうか。例えば少なくない教師は子 どもを運動会へと動機付ける時、クラスで勝つことを挙げているだろう。しかしながら、実際に勝 つことができるのは1つのクラスであり、勝つことを目標にした場合には、もし勝てなかった時の 子どもの達の落胆は大きい。他のクラスから心無い評価を受け、惨めさを感じる要因ともなりうる。 また仲島正教によれば、運動会での「勝ち負け」「出来不出来」には、そのまま子どもの「劣等感」 や「いじめ」を助長する可能性が潜在している(仲島 2016,26)とされる。大勢の目の前ではっ きりと「勝ち負け」や「出来不出来」が明確になることは、子ども達自身が自分達や自分のクラス に対して劣等感や嫌悪感を覚える可能性があるだけでなく、個人間での責任転嫁も生じやすい。そ して前述したような個人化した状況であるならば尚更生じることであろう。 3つ目に、形骸化という側面から考えてみよう。例えば仲島は昨今の運動会では「簡単にできて 感動のある種目」が求められていることを述べる(仲島2017,29)。教育が商品である以上運動会 は限られた時間で準備をして、それなりのものを提示しなければならないことが背景にあるだろう。 なぜならば揃っていなかったり、見栄えが悪かったりするものに満足する顧客はいないからだ。そ うであるならば、中身よりもまずは見栄えや印象を良くすることが求められる。そこでは中身やプ ロセス、目的に関する問いは後回しとなり、結果的に体裁だけを取り繕った運動会が横行し、こな すだけの行事が展開される。吉澤潤も、その年の流行の曲を選び、フラフープやボールなどを持た せるとか、揃いのT シャツを着させるという見栄えを優先する実践がよく見られる(吉澤 2017, 31)と指摘する。商品として整えられた運動会は一瞥すると見栄え良く、子ども達にとっても当日 の高揚感との相乗効果で瞬間的な一体感を錯覚するかもしれない。そして保護者も「一致団結した 演技だった」「みんなよく揃っていた」と満足するかもしない。しかし内情はクラスや学年が団結し たフリをしているだけであり、衝突のプロセスも関係性の再編も存在していない。子ども達は与え られたものを消化しているだけに過ぎない。百歩譲って「楽しかった」という感想を子どもが得た としても、行事が教師にとって教育実践の場であることを踏まえれば、「楽しい」だけで終わってし まう運動会では学ぶことは少ないであろうし、昨今特別活動との連関が叫ばれる道徳教育(文科省 2017c,2017d ともに 11)の場にはならない12。 4、おわりに 4-1 本稿のまとめ 本稿では、ビースタの概念を手がかりにしながら3つの懸念を示し、それが具体的にどのような 課題を引き起こしているのか、特別活動を例にして考察してきた。そもそも特別活動は通常の教科 とは異なり、何をもって習得とし、どう評価するかが難しい。決まった形も無ければ、何を望まし いとするかも様々であろう。強いて挙げるならばJ.デューイの述べるような、経験が当事者本人を 修正し、その修正が引き続き起こる後の経験の質に影響を及ぼし、以前の人間とは幾分か異なった 人間として後の経験に入っていく(デューイ2004,46)ような出来事を体験することが望まれる。 例えばビースタもポストモダンであるこれからの世界についてバウマン(Bauman 1993,33) を引用しながら 「我々がまだ説明されていないだけではなく、(我々がこれから何かを知るという ことについて我々は知っているけれども)説明不可能な出来事や行動と共に生きることを学ぶ世界」 (ビースタ 2016,93)と描写する。1人分に分けられてパッケージに入った商品のような特別活
動の体験では、そのようにミステリーな世界を生き抜いていく資質は身に付けづらい。だからこそ、 過去に巧くいったことをまた別に当てはめることが必ずしも巧くいくとは限らない。過去の例は何 が巧くいったかを我々に伝えることはできても、何が巧くいくかは伝えらない(ビースタ 2016, 64)。教育において質保証をすることは、個人の違いを考慮しないことであり、道徳的ではないと 言えよう。 4-2 今後の研究課題と展望 商品は売買されるために存在し、その売買は合理的に行われる。そもそも説明責任という形式で 高まっている技術経営的な方針は経済論理であるため、合理主義が教育界を侵食しつつあることが 再確認できる。だが教育実践とは合理的なものではない。合理的であるとは、一律に同じ指導を行 い、同じ教授を行い、一定期間内に目に見える結果が現れることが連想される。しかしながら、そ れは子どもの個別性や成長への願いを無視しており、教育的であるとは言い難い。そもそも教育と は、工学的もしくは技術的な実践というよりむしろ道徳的な実践である(ビースタ2016,58)。教 育においては、目的のために効果的かつ効率的なことをするのではなく、何が適切なのかが問われ るべきであり(ビースタ2016,58)、道徳的な願いを込めて実践されるべきなのである。今後はそ のような道徳的な対抗実践を考案することが課題の1つとして求められる。したがって個人化から 共同化へ、一元化から多様化へ、形骸化から充実化へと変わるような対抗的実践が今後求められる ことだろう。 また本稿を通じて明らかになった3つの懸念は、子ども達の自治を重んじる学童保育の現場にお いても本稿と同様の懸念が存在する。そこでは近年、指導員の多様な経歴を背景とした有資格化が 進められているのだが、その有資格化は、本稿で論じてきた質保証文化の1つとして捉えられる。 もちろん有資格そのものに反対しているわけではない。有資格化による学童保育の過度の商品化が、 本稿同様に指導員の専門性を剥奪することに繋がりかねないため、その点に配慮して資格化を進め ていく必要があるという点に言及する必要がある。したがって、この点について具体的に論じてい くことも、今後の研究課題として挙げておきたい。 参考文献・資料一覧 末松2014:末松孝治.人生で大切なことはすべて家庭科で学べる ふくしまの男性教員による授 業.文芸社. 鈴木2012:鈴木翔.教室内(スクール)カースト.光文社新書. 恒吉2017:恒吉僚子.Tokkatsu の国際化.日本特別活動学会紀要,第 25 号.19-22. デューイ2004:J.デューイ. 市村尚久訳.経験と教育.講談社学術文庫. 仲島2017:仲島正教.運動会の思い出―「過程」から感動は生まれる.体育科教育,2017 年 5 月号.大修館書店.26-29. バウマン2008:Z.バウマン著.長谷川啓介訳.リキッドライフ―現代における生の諸相.大月書 店.
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啓之,玉木博章訳.よい教育とはなにか―倫理・政治・民主主義.白澤社.199-205.
724 号.高文研.38-41. 藤井2017:藤井啓之.PDCA から PDSA へ 教師にも子どもにも表情のある教育を.教育科学 研究会編集.教育,2017 年,2月号.かもがわ出版.59-64. 文科省2017a:文部科学省.小学校学習指導要領解説,特別活動. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/2 5/1387017_15_1.pdf 文科省2017b:文部科学省.中学校学習指導要領解説,特別活動. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/2 5/1387018_13_1.pdf 文科省2017c:文部科学省.小学校学習指導要領解説,特別の教科道徳. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/2 5/1387017_12_1.pdf 文科省2017d:文部科学省.中学校学習指導要領解説,特別の教科道徳. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/0 4/1387018_11_2.pdf 吉澤2017:吉澤潤.子どもは秋の運動会でこそ学び育つ.体育科教育,2017 年 5 月号.大修館 書店.30-34.
1 なお、特別活動は social and emotional leaning としての言い換えの試みを経験している(恒吉 2017,21)。 2 ただし日本においても同様であるが、そもそも私立学校にいる生徒や親の社会資本や文化資本が学校の成績に大き く関与している点を見落としていては、公立学校において質向上を叫んだところで望むような結果が出づらい。公立 学校の親にはその視点が欠落していることをビースタは指摘する(ビースタ2016,90)。 3 こうした各階層に関する概念はビースタも頻繁に引用している Z.バウマンの議論を参考にしている。エリートクラ スに関してはバウマン(2008,10-11)、アンダークラスに関してはバウマン(2008,44)を参照のこと。 4 この点に関連して藤井は、日本の学力テストが国語と算数と理科のみに偏重している点を指摘している(藤井 2016, 199-200)。もちろんこれらの科目の点数を向上させることは大切であるが、なぜ大切であるのかという議論がなされ づらい。また他教科には目が向けらない。例えば、分数ができない大学生は問題視されるが、同じく小学校3年生段 階で学習する楽譜の読譜ができないことは前者に比して問題視されない。また家庭科には生きるための大切な知識が 詰まっている(末松2014)にも拘らず他教科に比して時間数は少ない。したがってプロセスの効率性や効果性に過 度に焦点化されると、そうした数値化できない感性等の発達的意義は見出されづらくなる。 5 この具体的な例として、学校選択制が挙げられる。子どもと保護者は学校から提示される教育セットを選択し、場 合によって要求はするが、その要求が通らず、学校が気に入らなければ他の学校に移動する。したがって教育サービ スの消費者と化した市民は積極的に教育活動の創造や学校運営に関わることは減り、他方で教員や学校は教育業務を 一手に背負い、疲弊する。 6 「学習」には目的性に関する問いが含まれていないプロセスを示す用語であるため、個人化した状態であれば「そ もそもなぜ自分は勉強しているのか」という問いに対して、他者と意見を交わして客観的に考える機会は減少する(ビ ースタ33-34)。 7 例えば、このことに関して他者を顧みなくなった高学歴大学生が起こす犯罪が挙げられる。 8 例えば、鈴木翔はスクールカーストというクラス内序列がいじめの原因にもなると述べている(鈴木 2012,29)。 9 このように教師が業務の遂行だけを至上目的にすることに関して藤井はホロコーストと同じであると指摘する(藤 井2016,202-203)。またビースタはバウマン(1993,125-127)を引用しながら、①対象への近接性の欠如、②対 象の脱人間化、③対象への行為の分解、を行うことが、全体的な人つまり人格を持ついち個人としての子どもへと出 会うことを生じなくさせていると述べる(ビースタ2016,98-99)。 10 他方でこのような教師の振る舞いは、昨今サービス業で重視されるホスピタリティすらも欠いており、技術経営 主義に基づいた企業方針以下であるとも揶揄される。 11 なお第1の目標は「集団や社会の形成者としての見方・考え方を働かせ,様々な集団活動に自主的,実践的に取 り組み,互いのよさや可能性を発揮しながら集団や自己の生活 上の課題を解決することを通して,次のとおり資質・ 能力を育成することを目指す。(1)多様な他者と協働する様々な集団活動の意義や活動を行う上で必要となることに ついて理解し,行動の仕方を身に付けるようにする。(2)集団や自己の生活,人間関係の課題を見いだし,解決する ために話し合い,合意形成を図ったり,意思決定したりすることができるようにする。(3)自主的,実践的な集団活 動を通して身に付けたことを生かして,集団や社会における生活及び人間関係をよりよく形成するとともに,自己(中
724 号.高文研.38-41. 藤井2017:藤井啓之.PDCA から PDSA へ 教師にも子どもにも表情のある教育を.教育科学 研究会編集.教育,2017 年,2月号.かもがわ出版.59-64. 文科省2017a:文部科学省.小学校学習指導要領解説,特別活動. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/2 5/1387017_15_1.pdf 文科省2017b:文部科学省.中学校学習指導要領解説,特別活動. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/2 5/1387018_13_1.pdf 文科省2017c:文部科学省.小学校学習指導要領解説,特別の教科道徳. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/2 5/1387017_12_1.pdf 文科省2017d:文部科学省.中学校学習指導要領解説,特別の教科道徳. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/0 4/1387018_11_2.pdf 吉澤2017:吉澤潤.子どもは秋の運動会でこそ学び育つ.体育科教育,2017 年 5 月号.大修館 書店.30-34.
1 なお、特別活動は social and emotional leaning としての言い換えの試みを経験している(恒吉 2017,21)。 2 ただし日本においても同様であるが、そもそも私立学校にいる生徒や親の社会資本や文化資本が学校の成績に大き く関与している点を見落としていては、公立学校において質向上を叫んだところで望むような結果が出づらい。公立 学校の親にはその視点が欠落していることをビースタは指摘する(ビースタ2016,90)。 3 こうした各階層に関する概念はビースタも頻繁に引用している Z.バウマンの議論を参考にしている。エリートクラ スに関してはバウマン(2008,10-11)、アンダークラスに関してはバウマン(2008,44)を参照のこと。 4 この点に関連して藤井は、日本の学力テストが国語と算数と理科のみに偏重している点を指摘している(藤井 2016, 199-200)。もちろんこれらの科目の点数を向上させることは大切であるが、なぜ大切であるのかという議論がなされ づらい。また他教科には目が向けらない。例えば、分数ができない大学生は問題視されるが、同じく小学校3年生段 階で学習する楽譜の読譜ができないことは前者に比して問題視されない。また家庭科には生きるための大切な知識が 詰まっている(末松2014)にも拘らず他教科に比して時間数は少ない。したがってプロセスの効率性や効果性に過 度に焦点化されると、そうした数値化できない感性等の発達的意義は見出されづらくなる。 5 この具体的な例として、学校選択制が挙げられる。子どもと保護者は学校から提示される教育セットを選択し、場 合によって要求はするが、その要求が通らず、学校が気に入らなければ他の学校に移動する。したがって教育サービ スの消費者と化した市民は積極的に教育活動の創造や学校運営に関わることは減り、他方で教員や学校は教育業務を 一手に背負い、疲弊する。 6 「学習」には目的性に関する問いが含まれていないプロセスを示す用語であるため、個人化した状態であれば「そ もそもなぜ自分は勉強しているのか」という問いに対して、他者と意見を交わして客観的に考える機会は減少する(ビ ースタ33-34)。 7 例えば、このことに関して他者を顧みなくなった高学歴大学生が起こす犯罪が挙げられる。 8 例えば、鈴木翔はスクールカーストというクラス内序列がいじめの原因にもなると述べている(鈴木 2012,29)。 9 このように教師が業務の遂行だけを至上目的にすることに関して藤井はホロコーストと同じであると指摘する(藤 井2016,202-203)。またビースタはバウマン(1993,125-127)を引用しながら、①対象への近接性の欠如、②対 象の脱人間化、③対象への行為の分解、を行うことが、全体的な人つまり人格を持ついち個人としての子どもへと出 会うことを生じなくさせていると述べる(ビースタ2016,98-99)。 10 他方でこのような教師の振る舞いは、昨今サービス業で重視されるホスピタリティすらも欠いており、技術経営 主義に基づいた企業方針以下であるとも揶揄される。 11 なお第1の目標は「集団や社会の形成者としての見方・考え方を働かせ,様々な集団活動に自主的,実践的に取 り組み,互いのよさや可能性を発揮しながら集団や自己の生活 上の課題を解決することを通して,次のとおり資質・ 能力を育成することを目指す。(1)多様な他者と協働する様々な集団活動の意義や活動を行う上で必要となることに ついて理解し,行動の仕方を身に付けるようにする。(2)集団や自己の生活,人間関係の課題を見いだし,解決する ために話し合い,合意形成を図ったり,意思決定したりすることができるようにする。(3)自主的,実践的な集団活 動を通して身に付けたことを生かして,集団や社会における生活及び人間関係をよりよく形成するとともに,自己(中 学校版では「人間として」)の生き方についての考えを深め,自己実現を図ろうとする態度を養う」(文科省2017a, 2017b ともに 11)とされる。 12 道徳の指導要領解説では「特別活動における学級や学校生活における集団活動や体験的な活動は,日常生活にお ける道徳的な実践の指導を行う重要な機会と場であり,道徳教育において果たす役割は大きい。特別活動の目標には, 〈中略〉道徳教育でもねらいとする内容が含まれている。また,目指す資質・能力には,〈中略〉道徳教育がねらい とする内容と共通している面が多く含まれており,道徳教育において果たすべき役割は極めて大きい。」 (文科省 2017d,2017e ともに 11)とされている。