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移行期の経済体制論

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移行期の経済体制論

福 田 敏 浩

工 はじめに  ポスト社会主義諸国の移行経済に関するこれ までの研究は,移行経済の経済体制論,移行経 済の戦略論,移行経済のミクロ分析および移行 経済の国別実証研究の四つに分類できる。  移行経済の経済体制論は,国民経済の体制的 フレームワークの転換を対象にし,その方向や 速度や内容を確定しようとするものである。移 行経済に関するこれまでの研究を傭畷すると, 意外にこの方面の研究が少ないことに気づかさ れる。国民経済の体制的フレームワークの大転 換だというのに,フレームワーク転換そのもの の体系的研究は,筆者の知る限り,数えるほど しかない。文句なしにシスティマティックと言 えるのはコルナイ(J.Kornai)の説ぐらいの      ラ ものである。筆者の説も一応の体系性を有して いると勝手に思っている。  移行経済の戦略論の主題は,社会主義から資 本主義への移行にさいしてどのような経済戦略 を採用すべきか,にある。これについては二つ の戦略論が展開されてきた。一つはグラデュア リズムである。資本主義への体制転換は時間を かけて漸進的に行うべきだとする説である。コ ルナイ,マーレル(P.Murrell),チャバ(L. Csaba),ノーヴ(A. Nove)がその代表である。 これらの論者はグラデュアリズムを説くにさい してハイエク(F. A.v. Hayek)流の進化経済 学をベースにしている。ついでに言っておけば, 1)コルナイ説については福EH〔11〕第4章 pp.107−110を参照されたい。 グラデュアリズムのもっとも熱心な提唱者であっ たコルナイは,最近その主張をトーンダウンさ せ,「私はグラデュアリズムでもないしラディ カリズムでもない。私のアプローチは状況と課    の題次第だ」と述べるに至っている。  もう一つはラディカリズムである。社会主義 から資本主義への移行をビッグバンのやり方で 一気に実現すべきだとする説である。サックス (J.Sachs),オスルンド(A。 Aslund),リプト ン(D.Lipton),ガイダル(E. Gaidar),クラ ウス(V.Klaus),バルツェロヴィチ(L. Balcerowicz),ヴィニェツキ(J. Winieckl), ショーシュ(A.S60s)がその代表である。筆 者の説もラディカリズムに分類される。  最近目につくのは移行経済のミクロ分析であ る。移行経済における私有化企業(privatized company,所有権が国家から私人に移転された企業) に焦点をあて,その行動の変化(私有化企業の 行動は国有企業時代とどう変ったか)や行動特性 を把握したり,私有化企業に対するコーポレー ト・ガバナンスの現状を分析したり,私有化企 業の資本主義的営利会社への転換を促すコーポ レート・ガバナンスのあり方を究明したりする ものである。これらの問題に対するアプローチ の主流を占めているのはアメリカで発展を見た 企業の経済学である。取引費用論(transaction cost theory)やエーージェンシー論(agency theory)やコーポレート・ガバナンス論などが 分析トゥールとして活用されている。このよう な移行経済のミクロ分析には見るべきものが数 2) Kornai [22) p.94

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一2一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.5 1998     き  多くあるが、その有用性は企業レベルに限られ ていることに注意しておかねばならない。移行 経済の経済体制論的分析についてパラダイム転 換を叫ぶ論者の中にこのようなミクロ的アプロー チを採ろうとする者がいるのは残念である。体 制レベルの分析に向かう者はあらかじめ自前の 経済体制論を用意しておくべきである。  移行経済における企業行動に関する研究で最 近登場したのは倫理学的アプローチである。移 行経済における企業(とくに私有化企業)のレソ ト・シーキングやモラルハザードなどの問題を ビジネス・エシックス(business ethics)の角 度から分析し,移行期特有の企業行動を倫理的       のに描き出すことが試みられている。  移行経済の国別実証研究は,ポスト社会主義 諸国における経済移行の現状を国別に,あるい は複数の国の比較の形で,実証的に把握しよう とするものである。この方面の研究には定量分 析と定性分析がある。定量分析は,GDPの成 長率,産業別の成長率,物価上昇率,失業率, 貿易高などに関する統計資料をもとにしてマク ロ経済の動向を量的に捉えるものである。これ に対し定性分析では制度改革が主題となる。具 体的には私有化,市場化,税制改革,金融制度 改革,貿易制度改革,外国為替制度改革,社会 保障制度改革などに関する実証的把握が試みら れてきた。数の上ではこのような国別実証研究 がもっとも多い。  筆者はこれまで主として移行経済の経済体制 論的研究と移行経済の戦略論の研究に取り組ん できた。体制移行を誘発した原因や体制移行の       の方向などを明らかにするかたわら,体制移行の 3)筆者の目を引いたのはZ.Antal−Makosの説 である。かれは経済理論と組織論を,具体的には エージェンシー論とポリィティカル取引論を活用 してハンガリーの私有化企業の行動を分析してい る。Antal−Makos〔1〕

4)たとえば次の文献を参照されたい。

Koslowski (23) 5)福田〔11〕第4章        の戦略としてラディカリズムが最適であること, 体制移行政策の柱を成す私有化はバウチャーに よるラディカルな方法が最適であることなどを      の主張してきた。これらの主張を裏づけるために 中欧諸国における移行経済の実情を,とりわけ 私有化と貨幣化(金融・資本市場の制度化)に注        の目して,実証的に把握する作業も行った。さら に,これらの研究を踏まえて経済体制研究には ワンセット思考が必要ではないかという問題提       起を行い,また移行経済はパラダイム転換を叫 ばずとも従来の資本主義対社会主義のパラダイ ムで十分把握できるではないかということも論    ユの じてきた。  これらの研究を通して筆者は,東欧革命以前 の1980年代半ばに確立していた筆者自身の「所 有,相互・上下調整の三元論」がどこまで通用 するかを試してきた。この三元論は所有方式, 相互調整方式および上下調整方式を経済体制の 主要な柱と見る説であるが,この単純な説は移 行経済の研究に意外に力を発揮するのではない かと思えるようになった。移行経済の研究にさ いしてもう一つ筆者の念頭にあったのはこの三 元論に付加価値を加えられるのではないかとい う期待であった。この期待はまだ十分に満たさ れたとは言えないが,さいわいワンセット思考 を得ることができた。ワンセット思考とは,体 制認識にさいして経済体制を構成する諸要素   筆者の場合には所有方式,相互調整方式および 上下調整方式   を機能面および意味面からセッ トの形で互いに関連づけて考察すべきであると する説である。  以下では,過誤8年にわたる移行経済研究の 中間決算を兼ねて,筆者の到達した考えを提示 してみよう。 6)福田〔12〕第4章 7)福田〔12〕第5章 8)福田〔11〕第5章,第6章 9)福田〔11〕第3章,福田〔12〕第6章,福田  C13) 10)福田〔14〕

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H 体制移行の方向と原因

1. 「所有,相互・上下調整の三元論」  経済体制に関する筆者の説は「所有,相互・       り 上下調整の三元論」である。所有方式,相互調 整方式および上下調整方式を経済体制の基本的 構成要素と見る説である。所有方式は生産手段 の所有の態様であり,所有権の帰属主体に応じ て私有と公有に区別される。相互調整方式はい わゆる資源配分システムであり,これには市場 経済と中央管理経済がある。上下調整方式は国 家と個別経済との支配従属関係を,具体的には 国家の個別経済に対する干渉方式を意味する。 これは自由放任,誘導,指令の三つに分けら れる。  三つの基本的構成要素のうちもっとも基本的 でいわば経済体制の土台を成すのは所有方式で ある。筆者は所有方式を基準にして私有をベー スにする経済体制を資本主義,公有をベースと する経済体制を社会主義と捉えてきた。  このような三元論をもって1989年の東欧革命 の直前における東西諸国の経済体制を分類する と,誘導資本主義,管理社会主義および市場社 会主義が存在した。誘導資本主義は西側先進諸 国に制度化された経済体制であり,その基本構 造は私有,市場経済および誘導の組み合わせか ら成る。管理社会主義は国有,中央管理経済お よび指令を基本とする経済体制である。ソ連, 東ドイツ,チェコスロヴァキア,ポーランド, ルーマニア,ブルガリアなどに制度化されてい た。市場社会主義には二つのタイプがあった。 一つは社会有,市場経済,誘導の組み合わせか ら成るユーゴスラヴィア型であり,もう一つは 国有,市場経済,誘導を柱とするハンガリー型 であった。 2.体制移行の方向  1989年の東欧革命と1991年のソ連の消滅によっ てこのような体制構図は一変した。管理社会主 義の国でも市場社会主義の国でも体制移行が開 始された。その中で各国政府がもっとも力を入 れたのは私有化であり,国有企業の私有化と私 企業の新設が強力に推進された。筆者の立場よ りすれば,国有から私有への転換,は社会主義か ら資本主義への転換を意味する。筆者が今次の 体制移行を「社会主義から資本主義へ」と捉え るゆえんである。ポスト社会主義各国の政府が そのさい手本にしたのは西側先進諸国,とりわ けEUの誘導資本主義であった。たとえばハン ガリーでは,1990年4月の総選挙で政権をとっ た民主フォーラム連立政権が当時の西ドイツの 社会的市場経済(SozialθMarktwirtschaft) を目標にして体制移行に乗り出している(つい でに言っておくと,1994年5月の第2回目の総選挙 で民主フォーラムに代わって政権をとった社会主義 労働者党の流れをくむ社会党も社会的市場経済の実        ユ ラ現を移行政策の旗印にした。)図式的に言うと, 1990年代初頭に管理社会主義も市場社会主義も 誘導資本主義への移行を開始したことになる。 3.体制移行の原因  社会主義の崩壊とその資本主義への移行を誘 発した原因は何か。筆者はその主要な原因は二 つあったと考えてきた。経済的原因と政治的原     き  因である。

①経済的原因

 社会主義の崩壊をもたらしたのは経済の停滞 である。管理社会主義も市場社会主義も低効率 トラップに落ちて崩壊してしまった。なぜ経済 が停滞したのか。筆者はその主要な原因は両経 済体制の基本構造にあると考えてきた。管理社 会主義は基本的に国有,中央管理経済,指令か ら構成されていた。このセットは効率の見地か らすれば最悪の組み合わせであった。国有は企 業の予算:制約をソフトにし,中央管理経済は, 11)福田〔8〕第6章,福田〔9〕第1章を参照さ  れたい。 12) Farkas (7) p.53 13)詳しくは福田〔11〕第4章,福田〔12〕第3章  を参照されたい。

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一4一 滋賀大学経済学部研究年報Vol. 5 1998 国家計画機関による需要把握が不正確であった ために,需給のアンバランスをもたらし,指令 は国有企業にレソトシーキングの行動をとらせ, 量至上主義の行動を強制して低品質とイノベー ションの停滞をもたらした。国有,中央管理経 済,指令の一つひとつが効率的に重大な欠陥を 内に含んでいた。これら三つがセットになった ことでマイナスの相乗効果が働き,管理社会主 義は低効率トラップに落ちたのである。  ソ連・東欧諸国は低効率トラップから抜け出 すために経済改革を強いられた。ヘンゼル(K. P.Hensel)の言葉を借りれば「実験へのシステ ム強制」(Systemzwang zum Experiment)14)に 従わされた。管理社会主義を制度化したばかり に機能不全と低効率に追い立てられ,頻繁に経 済制度および経済政策の変更と修正を余儀なく され,この意味で制度・政策の実験を強要され たのである。筆者はこれを「追い立てられた実   ラ 験」 と呼んできた。その代表例が1960年代に ソ連・東欧のほぼ全域で実施された大がかりな 経済改革であった。  ハンガリーは1968年に管理社会主義から市場 社会主義への移行を開始した。以来22年にわたっ て市場社会主義の実験が繰り広げられたが,そ の実験も結局は失敗した。なぜか。筆者はその 主要な原因は市場社会主義の仕組みにあると考 えてきた。国有,市場経済,誘導の組み合わせ がその基本の仕組みであった。筆者の考えでは 国有と市場を無造作に組み合わせたばかりに低 効率トラップに落ちたのである。この国の市場 社会主義のデザイナー(主として社会主義労働者 党のエコノミスト)たちは, 設計の段階で 設計に1965年からほぼ3年が費やされている  国 有のもとに市場を導入すれば「国有企業があた       エのかもマーケットアクターとして行動する」と考 14) Hensel (15) S.349 15)福田〔12〕第1章 16)この文章はコルナイに対するインタヴューを収  録したBossanyi〔4〕p.317から引用した。 えた。だが,現実は期待どおりにはならなかっ た。実際には国有が市場の足枷になり,市場の 円滑な作動を妨げた。筆者はこれを「国有のブ      ユの レーキ効果」と呼んできた。国有を温存したば かりに企業のソフトな予算制約の問題は解決さ れなかったこと,官僚による市場参入と市場退 出の規制のため国有企業間に競争がほとんどな く,悪貨を駆逐するという市場の選別機能が阻 害され,イノベーションも停滞したこと,など がブレーキ効果の実例である。ハンガリーの市 場社会主義の実験は国有と市場は機能的に両立 しえないことを実証した。  社会主義は公有をベースにするという考えに 固執する限り,相互調整方式に中央管理経済を もってこようと,市場経済をもってこようとそ の国の経済は低効率トラップに落ちることが明 白になった。このことはハンガリーの40年にわ たる社会主義の実験を見ればすぐ分かる。この 国は国有をベースにして前半の20年間は管理社 会主義を,後半の20年間は市場社会主義を実験 したが,いずれの場合にも経済が停滞した。ユー ゴスラヴィアに制度化された社会有と市場のセッ トも同様であった。国民経済的規模で国有や社 会有を制度化すると,経済は停滞を余儀なくさ れるのである。  ハンガリー政府は,1980年代に入ると,経済 停滞を打開するために私有化(小規模私企業の容 認,西側先進諸国の私企業との合併企業の設立,100% 西側外資企業の誘致国有企業の私有化など)を余 儀なくされた。市場を制度化すると私有化せざ るをえなくなることが分かった。市場は私有を 呼ぶのである。

②政治的原因

 社会主義から資本主義への移行の直接的なきっ かけとなったのは東欧革命である。この革命は 政治革命という性質をもっていた。共産党独裁 の崩壊と欧米型民主主義への移行である。東欧 革命はペレストロイカによって不安定になって 17)福田〔12〕pp.87,90

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       ユ ういたソ連に衝撃を与え,この国を消滅に導いた。  このような政治的原因を強調したのはコルナ イである。コルナイはソ連・東欧諸国に制度化 された経済体制を古典的社会主義(classlcal socialism)と呼び,その基本構造を共産党独        エ   裁,国有,官僚的調整の組み合わせと捉えた。 これら三つの構成要素のうち土台を成すのは共 産党独裁である。しかも共産党独裁を基点にし て三つの構成要素の間には因果連鎖がある。つ まり,共産党独裁は必然的に生産手段の国有を       呼び,国有は必然的に需給の官僚的調整を呼ぶ。 三つの構成要素間にはこのような「強い結合」         ユラ (strong hnkage)があったので古典的社会主義 は比較的安定していた。  このように政治を重視する立場をコルナイ自 らは実証的政治経済学(posltive politlcal econ一      き ラ omy)と呼び,次のように述べている。「政治 は経済の外にあるのではなく,経済における主 要な内生的ファクターである。これが実証的政        治経済学の公理的出発点である」。  コルナイの立場からすれば共産党独裁の崩壊 は必然的に古典的社会主義の崩壊を意味する。 その共産党独裁の崩壊をもたらしたのは東欧革 命であった。東欧革命が,だから,古典的社会 主義崩壊の究極の原因ということになる。  筆者は,社会主義から資本主義への移行に果 たした東欧革命の役割はたしかに大きいと考え る。だが,東欧革命が決定的であったのではな い。東欧革命が社会主義崩壊の触媒の働きをし たのは事実だとしても,それが究極の原因だっ たのではない。東欧革命にしても,その勃発に 影響を与えたペレストロイカやポーランドの 「連帯」主導の民主化運動にしても,元はと言 18)東欧革命とソ連の消滅については福田〔11〕第  1章を参照されたい。 19) Kornai (19} pp.98,361 20) Kornai [!9) pp.363,570 21) Kornai (17] p.45 22)Kornai〔22〕pユ69 23) Kornai (22) p.169 えば経済の停滞から誘発されたものである。経 済の停滞こそがより根本的かつ決定的な原因で あった。経済の停滞が東欧革命を招き,東欧革 命が触媒になって資本主義への移行が生じたと 見るべきである。

皿 体制移行の戦略論

 社会主義から資本主義への移行に関する戦略 論にはグラデュアリズムとラディカリズムがあ ることは前述のとおりである。筆者はラディカ リズムの立場に立つ。グラデュアリズムと対比 しつつ筆者の考えを述べてみよう。 1. グラデュアリズム  グラデュアリストは社会主義から資本主義へ の移行を漸進的に行うべきであると主張してき た。ここではコルナイとチャバとマーレルを取 り上げてみよう。かれらの議論は資本主義の制 度化の柱を成す私有化をめぐって展開されて いる。  コルナイによれば私有化には広狭二様の意味 がある。狭義には国有企業の私有化を意味し,       の 広義には私的セクターの拡大を意味する。コル ナイは広狭二様の私有化とも時問がかかると見 る。ポスト社会主義諸国には企業家がほとんど 存在していないというのがその理由であった。 国有企業の私有化にしても私的セクターの拡大 にしても企業家の養成が急務であるが,それに は時問がかかる。したがって私有化は長期にわ たるプロセスにならざるをえない。私有化に時 間がかかるとすれば資本主義の制度化も時間が かかることになる。  コルナイが重視したのは私的セクターの拡大 の方である。その方法に関してコルナイは有機 的発展プロセス(process of organic develop一        ユの ment)の考えを打ち出した。つまり,私的セ クター拡大は政府主導の官僚的・規制的方法に 24) Kornai (18) p.32, Kornai {21) pp.79−80 25) Kornai (21) p.38

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一6一 滋賀大学経済学部研究年報Vo!.5 1998 よるのでなく,自発的・分権的・有機的な発展       プロセスに委ねるべきであるという考えである。 資本主義においては私的セクターおよびそれを 担う企業家や自営業は時間の経過の中で自発的 に形成され,登場したのだからポスト社会主義 諸国もこれに見習うべきであるという。  ポスト社会主義諸国で実際に行われた私有化 は政府主導の上からの私有化であった。コルナ イは上からの私有化を,一とりわけチェコスロ ヴァキアで実施されたバウチャーによる大量私有化       27)を一「ハイエクのいう設計主義の好例である」 と捉え,これを厳しく批判した。行政主導で設 計された人工物は資本主義に馴染まないという のがその理由であった。「資本主義的発展のバ イタリティは,その存命力ある諸制度が強制な       しに,自然に発生するというところにある」。 だから,上からの私有化は避けなければならな い。  チャバは,コルナイと同様に,ハイエク的グ ラデュアリズムの立場をとっている。チャバは ポスト社会主義諸国で実施されたラディカルな 移行戦略は失敗したと見る。「リプトンやサッ クスによって宣伝された迅速な制度化の戦略 つまり『市場へのジャンプ』の戦略は,それが         試みられたところではどこでも失敗した」。失 敗の原因はショック・セラピストの社会工学的 スタンスにあるという。つまり,ショック・セ ラピストが資本主義的な経済制度や行動規範を それらの欠如した社会に短期間に導入できると 考えたところにある。ところが資本主義はデザ インによって制度化されたのではなく,有機的       ヨのに生成した自生的秩序である。  チャバはこのような認識に立って「ハイエク          ヨの的転換のヴィジョン」を掲げる。ポスト社会主 26) Kornai (20) p.38, Kornai C21) pp.87,100 27) Kornai (20) p.38 28) Kornai (20) p.38 29) Csaba (6) p.143 30) Csaba (6) pp.99−100 31) Csaba (5) p.524 義諸国の政府は,商業精神の丁丁と市場システ ムの制度化に力を注ぎ,市場適合的なエージェ ントの行動を助長し,私的セクターの拡大を促 すように努力すべきであるという考えである。 コルナイと同様の考えであるが,このような戦 略だと資本主義への移行は相当長期にわたるプ ロセスにならざるをえないであろう。  マーレルは進化論的立場に立って上からの私 有化を退け,コルナイやチャバと同様に下から の私有化を主張した。つまり,国有企業の私有 化よりも新しい私的セクターの拡大に力点をお く戦略の方が資本主義の制度化にとって有効で あると考えた。私的セクターの拡大と市場シス テムの制度化によって「入退場のプロセス」一 新組織の参入と旧組織の退場  が作動するよう になり,国有企業は徐々に新しい私企業との競        ヨの争によって排除されるようになるからである。 2.筆者のラディカリズム  ポスト社会主義諸国における体制移行政策の 柱を成すのは私有化,市場化,競争化および貨 幣化(金融・資本市場の制度化)である。これら のうち各国政府がもっとも力を入れてきたのは 私有化である。私有化は社会主義のスクラップ と資本主義の制度化の双方にかかわるからであ る。資本主義への移行は私有化によって左右さ れると言ってよい。その私有化は国有企業の私 有化と私的セクターの拡大に区別される。国有 企業の私有化の内容は,国有企業の所有権の私 人への移転と,所有権の移転が完了した私有化 企業(privatised company)の資本主義的営利 会社への転換の二つに分かれる。私的セクター の拡大は,自営業の育成や私企業の新設にかか わる政策である。  グラデュアリストによる国有企業の私有化の 内容規定は筆者ほど厳密ではない。国有企業の 所有権移転の問題はほとんど意識されていない。 かれらが念頭においているのは国有企業の私的 営利会社への転換の方である。その方法として 32) Murrell (29) pp.85−86

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市場メカニズムによる「下からの」私有化が選 択された。このような方法にどれほどの実効1生 があると言うのだろうか。上からの所有権移転 政策なしの営利会社化に経済学的意味があると でも言うのだろうか。グラデュアリストの私有 化戦略は市場メカニズムを過信したものである。 市場メカニズムによって国有企業が自然に淘汰 されたり,自然に営利会社へ転換されたりする だろうか。体制移行の出発の時点でロシアには 大・中国有企業が約2万5000,ポーランドと東 ドイツには約8500,チェコスロヴァキアには約 6000,ハンガリーには約2000もあった。これら を市場の有機的発展プロセスに委ねるとしたら どうなるだろうか。営利会社化の完了までに途 方もない時間が消費されることになろう。また, 大量の国有企業の存在はかえって市場メカニズ ムのブレーキとなることはハンガリーの市場社 会主義で実証済みである。  グラデュアリストは市場メカニズムの制度化 によって私的セクターを拡大すべきであると主 張するが,つまり国有企業の私有化よりも自営 業や私企業の新設の方にウェイトをおくべきだ と主張するが,これは有効な戦略と言えるだろ うか。筆者は私的セクターの拡大そのものには 異論はない。それどころか積極的に推進すべき であると考えている。ただ,体制移行の出発点 での産業構造を考えるとこのような戦略の有効 性は疑わしくなる。鉱業・製造・運輸・エネル ギー・通信などの主要産業では国有企業,とく に国有大企業が支配してきたからである。たし かに,市場経済への参入の自由化を行った国で は短期間に大量の自営業や私企業が誕生した。 たとえばポーランドでは1992年の時点で約70万 もの私企業が登場した。しかし,その内訳を見 ると,大半が商業・サーヴィス業に分類される 零細・小規模企業である。私企業は産業の周辺 部に登場したにすぎない。これら零雨企業誌が 巨大な国有企業群と競争することによって国有 企業を淘汰したり,私的営利会社化したりする と考えることができるだろうか。ポスト社会主 義諸国では,社会主義時代に資本が国家によっ て独占されたために,民間サイドの資本蓄積は 多くはない。主要産業に国有企業群に対抗しう る私企業群を登場させるのはきわめて困難であ る。競争力ある大中の私企業を新設するには外 資導入が必要となるが,そのための先行作業と して国有企業の所有権を外国人および外国企業 に移転することが不可欠である。  グラデュアリストによる国有企業の私有化戦 略は所有権移転を省略した実効性の乏しい机上 論と言わざるをえない。国有企業の営利会社化 は国有企業の自助努力だけでは不十分でファイ ナンス市場によるコーポレート・ガバナンスを 必要とする。グラデュアリストの言うとおりで ある。しかし,このようなコーポレート・ガバ ナンスが始動するためにはその前段階として国 有企業の所有権を株式の形で一挙,かつ大量に, 私人に移転しておく必要があろう。  グラデュアリストはポスト社会主義諸国の全 域において漸進的な移行政策を実施すべきだと 主張する。このような主張は容認できない。各 国の出発条件が異なるからである。ハンガリー はグラデュアリズムを選択したが,それはこの 国にそれを可能にするような条件が整っていた からである。つまり,1968年から22年にわたっ て市場社会主義が実験されたために「1990年の 政治的解放の時点で市場経済の発展にとって多        くの事柄が半分用意されていた」(コルナイ)の である。1990年代初頭のスタート時点で資本主 義の制度的条件がほとんど存在していなかった か,存在したとしてもまだ芽を出したばかりで あったチェコスロヴァキア,東ドイツ,ポーラ ンドで資本主義への移行を自然生成的な有機的 発展プロセスに委ねることができただろうか。 もしもこれらの国がこの道を選択したならば資 本主義の制度化には途方もない時間が費やされ ることになったであろう。体制移行期は過渡期 である。過渡期は新旧の経済体制が交差する体 33)Kornai〔22〕pユ50

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一8一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.5 1998 制混合期であり,体制的フレームワークもまだ 定まらない不安定な時期である。資本主義の素 地がほとんど存在しない中でグラデュアリズム の戦略を実施すると,「社会主義でもない,資 本主義でもない」ような体制的真空状態が発生 し,国民経済をカオスに陥れる危険が出てくる。 このような危険を避けるには資本主義のフレー ムワークをできるだけ速く制度化するほかない。 その方法としてはラディカリズムしかない。  体制移行のスタートの時点で資本主義の制度 的条件が整っていない国では政府が,市民中心 の経済運営を可能にするような制度的フレーム ワークを可及的速やかに形成すべきである。そ のためには私有化,市場化,競争化および貨幣 化のポリシーパッケージを同時に,かつトップ スピードで実施しなければならない。資本主義 の土台を成す私有方式の制度化については何よ りも国有企業の所有権を早急に私人に移転する 必要がある。国有企業の営利会社化はそうして はじめて可能になる。資本主義の制度的枠組み が早急に整備されると,それだけ早く企業家も 登場し,しかも対外市場開放政策を実施すると 外国から企業家精神に富んだ人々がやってくる。 学習効果が働いて資本主義の精神が比較的早く 醸成されよう。体制移行の初期局面では企業家 が不在だからそれを養成しつつ時間をかけて資 本主義へ移行すべきだというグラデュアリスト の主張は本末転倒である。  ハンガリーを除く中欧諸国はラディカリズム を選択しうる状況にあった。ポーランドは1989 年の東欧革命の震源地であっただけに国民の間 に革命特有の精神の高揚があった。東ドイツと チェコスロヴァキアの場合も革命的状況にあっ た。両国の共産党独裁が1989年秋の民衆の大量 デモによっていわば一夜にして崩壊したからで ある。革命的状況は異常事態である。バルッェ          ヨの ロヴィチの言うように,異常事態のもとでは政 治エリートや大衆は平時の場合よりもより強く 34) Balcerowicz (2) pp.161, 209, 256, 312 公益のために考えたり,行動したりする社会心 理的傾向がある。このような状況下では通常は 受容されそうにもない経済政策を,公益のため の犠牲として受けいれる蓋然性が高まる。同時 に旧政治エリートと既存利害集団との利害ネッ トワークが崩れ,利害集団の圧力から解放され た政治状況が出現し,テクノクラート的政治エ リートに大胆な政策を行うチャンスが与えられ る。東欧革命当時の東ドイツとチェコスロヴァ キアはまさしくこのような状況にあった。異常 事態のもとではラディカルな体制転換が可能で ある。ところが経験:は異常時の社会心理は長続 きしないことを教えている。ラディカルな戦略 は期間をおかず一気に実施せざるをえないので ある。事実,東ドイツ,チェコスロヴァキアお よびポーランドはラディカリズムの移行戦略に 踏み切っている。(ついでに言っておくとハンガリー も1989年秋に一党独裁が崩壊したが,これは社会主 義労働者党によって1980年代から準備されていた。 1983年の選挙法改正で同一選挙区複数候補制が導入 されて非党員の議会進出への道が開かれ,1980年代 後半には社会主義労働者党以外に複数の政治団体が 結成され,1989年1月の結社法で公認された。また同 年2月の社会主義労働者党の中央委員会総会で党の 指導的役割の放棄と複数政党制の導入が決議された。 ハンガリーで大衆蜂起も大量デモも起こらなかった ゆえんである。この国では他の中欧諸国のような革 命的異常事態は出現しなかったのである。〉  東ドイツやチェコスロヴァキアやポーランド にとってラディカリズムを実施しうる条件がも う一つあった。体制移行のモデルがすでに与え られていたことである。これらの国は「ヨーロッ パに帰る」を合言葉にしてEUの誘導資本主義, とりわけ西ドイツの社会的市場経済を志向した。 これらの国にとって試行錯誤の方法で誘導資本 主義に一歩一歩接近していく必要はなかった。 とくに西ドイツの社会的市場経済を手本にしつ つ体制移行の設計図を書き,一気にそれを実施 することができたのである。  グラデュアリストは,資本主義は自然に生成

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した秩序だから,ポスト社会主義諸国もそれに 倣って資本主義への移行を自然の有機的発展プ ロセスに委ねたがよい,と主張する。先進諸国 がたどってきた道の後追いをやるべしと言うの だが,その必要があるだろうか。筆者には時間 観念とコスト意識に欠けた空論のように思える。 めざすべき誘導資本主義はすでに存在する。 1ate−comerの利点を生かし,模倣的改良の方 法で可及的速やかに誘導資本主義のフレームワー クを制度化するのがベストの選択というもので ある。 3.筆者の私有化戦略  筆者は私有化に関してもラディカリズムの立 場に立つ。ただし,この場合の私有化は国有企 業の所有権の私人への移転のことである。国有 企業の所有権は一気に,かつ一度に大量に私人 に移転すべきであるというのが筆者の考えであ る。その方法として最適と思われるのはチェコ スロヴァキアで実施されたバウチャー方式であ ヨら  る。  チェコスロヴァキアにおけるバウチャー私有 化は「大量私有化」(mass privat・zation)とか        「市民私有化」(citizens’privatization)と呼 ばれる。バウチャーは国有企業の株式を取得す るための引き換え券であるが,これは18歳以上 の国民に配布された。バウチャーは点数表示さ れた冊子の形をとり,一人につき1000点が与え られた。バウチャー私有化の第1ウェーブは 1992年の5月から実施され,1491の大中国有企 業の発行株式総数の半分以上がその対象になっ た。第1ウェーブは比較的順調で1992年12月に 完了した。  有資格者1150万人のうち850万人かバウチャー 私有化に参加した。国有企業の株式取得には二 つのやり方があった。一つはバウチャー保有者 が独力で取得する方法である。もう一つは投資 私有化基金(investment privatization fund)と 35)詳しくは福田〔12〕第5章を参照されたい。 36) Winiecki [34) p.177 呼ばれる投資会社にバウチャーを信託する方法 である。1992年に436もの投資私有化基金が登 場したが,その70%は銀行によって設立された。 バウチャー保有者のうち投資私有化基金にバウ       ヨアラチャーを信託した者の割合は72%であった。  チェコスロヴァキアは1993年1月1日にチェ コ共和国とスロヴァキア共和国に分裂した。チェ コでは1993年3月から11月にかけてバウチャー 私有化の第2ウェーブが実施され,861の大中 国有企業がその対象になった。有資格者760万 人のうち600万人が参加し,そのうち64%が約        ヨヨ  400の投資私有化基金にバウチャーを信託した。 スロヴァキアでは予定されていたバウチャー私 有化の第2ウェーブが中止され,所有権移転は 停滞してしまった。  チェコ共和国における国有企業の所有権移転 はその後も比較的順調に進行し,1996年の半ば には所期の目的が達成され,所有権移転の担当 機関である共和国国家資産管理・私有化省は解 散した。チェコの所有権移転はこの時点で完了 したと見てよい。ここにチェコの管理社会主義 は名実ともに消滅したのである。  チェコ共和国のバウチャー私有化はこの国の 資本市場を急速に拡充した。1993年4月にプラ ハ証券取引所の営業が開始されたが,同年半ば にはすでに約1000社の株式が取引された。その 後も株式取引の企業数は増え続け1995年7月に          ヨ うは約1700社にもなった。これに対し,スロヴァ キア共和国ではバウチャー私有化が中止され, しかも約160の投資私有化基金の活動が政府に よって規制されたために,1994年4月にオープ ンしたブラティスラヴァ証券取引所で株式が取 引される企業は少なく,同年4月の時点で約80     るロラ 社であった。これらの事実が証明しているよう に,バウチャー私有化で多数の国有企業の株式 37) Major [27) p.122 38) Lieberman (26) pp.6−7, OECD (30) p.50 39) Borish, Noel (3) p.32 40) Borish, Noel (3) p.40

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一10一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.5 1998 を一挙に私人に移転すると同時に,投資私有化 基金の活動を自由にすると,資本市場が短期間 に拡充されるのである。  チェコ型バウチャー私有化は,大中国有企業 の所有権の私人への早期移転および資本市場の 拡充にとって有効な方法であることが実証され た。バウチャー私有化はまた私有化企業の私的 営利会社化への転換にも,間接的にではあるが, 貢献することが分かった。私有化企業の体質改 善のためには外からのコーポレート・ガバナン スが不可欠であるが,チェコ共和国ではバウチャー 私有化による資本市場の拡充でその条件が,ま だ不十分とはいえ,一応整えられた。投資私有 化基金の参入および活動の自由が認められたた めにその中から有力株主が生まれ,機関株主登 場の素地が形成された。  ポスト社会主義諸国の中で国有企業の所有権 移転が完了したと言えるのは東ドイツ(ドイツ       の東部地域)とチェコ共和国である。東ドイツで は1994年末に所有権移転を担当した信託庁がそ の使命を終えて解散した。この地域における大 中国有企業の所有権移転の主要な方法は信託庁 による直売であった。信託庁の職員チームが買 い手と相対取引の形で交渉して国有企業を売却 するやり方である。直売は民間に資本が豊富に 蓄積されているドイツだからこそ可能だったと 言える。他のポスト社会主義諸国では,民間に 蓄積されている資本が相対的に乏しいために, 直売方式で短期間に所有権移転を完了すること は事実上不可能である。残された選択肢はチェ コ型バウチャー方式しかない。国有企業の所有 権移転が遅れたり,停滞したりすると,ソフト な予算制約やパターナリズムや隠された失業 (hidden unemployment)などの宿幣が解決さ れず,国民は相対的に重い社会的費用を負担せ ざるをえなくなる。チェコ共和国以外のポスト 社会主義諸国は早急にチェコ型バウチャー方式 を導入すべきである。 41)くわしくは福田〔14〕を参照されたい。

IV 体制移行の特徴

 世紀末の今から振り返ると,20世紀は体制移 行の時代だったことが分かる。体制移行は過去 三度起こっている。最初のものはソ連における 資本主義から社会主義への移行であった。次は 1940年代後半から1950年代にかけての東欧,中 国,北朝鮮,北ベトナムにおける社会主義への 移行であった。三度目は1990年代におけるロシ ア,中欧,東欧における社会主義から資本主義 への移行である。中国とベトナムも資本主義を 視野にいれた経済改革に乗り出している。三度 の体制移行とも社会主義の実験とその失敗を体 験した地域で発生した。  三度の体制移行に共通するのは移行に先立っ て異常事態が発生していることである。戦争と 革命である。ソ連の体制移行には第1次大戦と ロシア革命が先行したし,東欧・中国・北朝鮮・ 北ベトナムの場合には第2次大戦と共産主義革 命が先にあった。現在進行中の体制移行には東 欧革命が先行した。  体制移行の主体は異常事態の中で成立した新 政権であった。社会主義への移行を担ったのは 共産党政権であり,資本主義への移行を指導し てきたのは非共産党政権である。  経済体制の移行を可能にしたのは新政権の登 場によって形成された政治システムであった。 社会主義から資本主義への移行は共産党独裁と いうオートクラシーの成立をまって実施された。 この意味で“autocracy first, socialism later・ であった。現在進行中の資本主義への移行には 西欧型議会制民主主義というデモクラシーの成 立が先行した。“democracy first, capitalism later”と言える。  オートクラシーのもとで実施された社会主義 への移行戦略はラディカリズムであった。短期 間に資本主義をスクラップし,社会主義のフレー ムワークを早急に制度化するという戦略である。 ソ連の場合には見習うべき社会主義のモデルが 現存していなかったために試行錯誤を余儀なく

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され,管理社会主義の制度化までにほぼ20年の 時間が費やされた。後発の東欧の場合にはソ連 型管理社会主義がモデルとして与えられたため に社会主義は比較的短期間に制度化された。た とえば,チェコスロヴァキアでは共産主義革命 が起こり,国有化が布告されてから5年後の 1953年にはすでに管理社会主義のフレームワー クが制度化されていた。  デモクラシーのもとで現在進行している体制 移行戦略はラディカリズムとグラデュアリズム に分けられる。前者を選択したのはロシア,東 ドイツ,チェコスロヴァキア,ポーランドなど である。ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア はグラデュアリズムを採用した。ラディカリズ ムを選択した東ドイツとチェコ共和国は,いず れもEUの誘導資本主義をめざしてラディカル な私有化を実施したため,それぞれ1994年末と !996年の年央に管理社会主義のスクラップに成 功した。両国は1940年代末から1950年代の前半 にかけて管理社会主義を手本にし,ラディカル な国有化を実施して社会主義を制度化した。両 国の二度にわたる体制移行は,めざすべき経済 体制のモデルが与えられた中で急速かつラディ カルな所有転換を一気に行うと比較的短期間に       の経済体制が転換する,ということを教えている。  今回の体制移行を過去の体制移行と比較する と,一つの重要な違いが浮かび上がってくる。 過去の体制移行には出発の時点で共産主義社会 の実現という理想があった。社会主義は理想実 現の第1歩と位置づけられた。この意味で過去 の体制移行は前向きの能動的な性質をもってい た。これに対し,現在の体制移行は効率に追い 立てられて余儀なくされたものであり,この意 味で受動的な性質を帯びている。管理社会主義 にしても,市場社会主義にしても低効率トラッ プから抜け出せずに挫折した。資本主義への移 行は,過去の体制移行と同様に,政治主導では 42)そのほかに政権の強さや国土面積の狭さや人口  の少なさも考慮する必要があろう。 あるが,理想社会の実現という使命感に燃えた 革命家によって指導されてはいない。資本主義 への移行政策を担ってきたのは自由主義に親近 感をもつテクノクラートであった。体制移行の スタートの時点でかれらの間に理想的経済体制 に関して活発な議論があったわけでもなければ, 資本主義に代わる第3の経済体制を設計しよう とする動きがあったわけでもなかった。テクノ クラートが手本にしたのは現存の誘導資本主義 とりわけEU諸国のものであった。かれらは, 欧米の自由主義エコノミストやIMFや世界銀行 やEUの支援を受けながら,誘導資本主義の諸 制度を模倣しつつ国情に応じてそれらに改良を 加えるという模倣的改良の戦略を採用した。 「理想なしの体制移行」とも,「イデオロギーな しの体制移行」とも言えよう。

V 比較経済体制論の有用性

 ポスト社会主義諸国で社会主義が崩壊し,資 本主義への移行が進行するにつれて資本主義対 社会主義という形での伝統的な比較研究は意味 がなくなったとか,はなはだしきに至っては経 済体制論そのものが使命を終えたとかいう声が エコノミストの間から聞かれるようになった。 筆者は機会あるごとにこのような主張に批判を     るの 加えてきた。ここでもう一度筆者の反論の要点 を述べておこう。  伝統的な経済体制の比較研究を無効宿する者 は,その内容に通じていないように思われる。 筆者の分類では経済体制の比較研究は縦断的比 較と横断的比較に分けられる。前者は各時代に 登場した経済体制を通時的に比較するものであ る。後者は内容的に静的比較と動的比較に分か れる。静的比較は時間を一定の時点または一定 の期間に固定しておいて複数の経済体制を分類 したり,各経済体制の構造特質を明らかにした り,各経済体制のパフォーマンスを計量的に比 43)たとえば福田〔14〕を参照されたい。

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一12一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.5 1998 糊したりしょうとするものである。動的比較は 同時に存在する複数の経済体制が時間の流れの 中でどのように変化しているかを認識しようと するものである。  伝統的体制比較を無効律する者は,社会主義 が崩壊したのだから資本主義対社会主義の形で の比較は意味を失った,と主張する。これは一 面では正しい。つまり,静的な横断的比較とい う意味ではそのとおりだと言える。東ドイツや チェコ共和国で1990年代半ばに管理社会主義が 消滅したことなどを考えると,今後は時間を固 定した形での横断的な両体制の比較は意味をな さなくなるだろう。ただし,それはポスト社会 主義諸国に限ってのことである。北朝鮮やベト ナムや中国などでは  ベトナムや中国では資本 主義への動きが目立ってきてはいるが一当分の問, 途上国型社会主義が存続するであろう。これら と途上国型資本主義との比較は今後とも継続し ていく必要がある。  無効論者の主張は一面では間違っている。か れらは横断的比較に動的比較のあることに気づ いていない。今回の体制移行はまさに動的比較 の格好の認識対象なのである。動的比較がこれ まで内容豊かな説を数多く生み出してきたこと を知っている無効論者が何人いるだろうか。  動的比較が盛んになったのは1960年代である。 そのきっかけとなったのは収敏論の登場である。 テインバーゲン(J.Tinbergen)やガルブレイ ス(J.K. Galbraith)らが資本主義と社会主義 の相互接近およびそれらの第3の経済体制への 収集を説いた。  垂耳論の登場以後,動的比較が多彩に展開さ れるようになった。移行論,並進論,接近論が その主なものである。移行論は野寺論批判の形 をとった。ソ連・東欧の体制派マルキストは資 本主義の社会主義への移行を説き,西ドイツの 新自由主義者ヘンゼルは社会主義の資本主義へ の移行を予言した。1960年代後半から1970年代 初頭にかけてのことである。並進論は,資本主 義と社会主義は体制レベルでは平行運動をして いると説いた。並進論も1960年代には三二論批 判の形をとったが,1970年代から1980年代前半 にかけては時代を代表する説になった。接近論 は1980年代後半に登場した。これは,ユーゴス ラヴィアおよびハンガリーの市場社会主義が体 制レベルで誘導資本主義に接近しつつあると説        るのいた。筆者の説がその代表である。1980年代末 にはホルバート(B.Horvat)とシク(O. Sik) によって新しい収敏論が唱えられた。  以上の動的比較論はいずれも資本主義対社会 主義の体制構図を前提にしていた。つまり,資 本主義と社会主義の対置の中で各体制の変動の 内容と変動の方向を認識しようとした。これが 伝統的な動的比較のパラダイムであった。  このようなパラダイムは社会主義の崩壊とと もにその使命を終えたと言えるだろうか。筆者 はそうは思わない。むしろこのパラダイムでな いと今回の体制移行は正確に認識しえないと考 える。社会主義はその崩壊後に第3の経済体制 へ向かったのではない。今回の体制移行は社会 主義から資本主義へという方向をとっている。 これは,1970年代前半にヘンゼルが試みたよう に,まさに伝統的な動的比較の格好のテーマな のである。筆者はこのように考えて資本主義対 社会主義の構図の中で今次の体制移行を捉えて きた。筆者の説は上述したとおりである。  伝統的な動的比較のパラダイムをもって資本 主義と社会主義の運動を認識する作業は今後と も続ける必要がある。ソ連・東欧の社会主義の 実験は終了した。「社会主義は完結した歴史の       ゆ1章になってしまった」(コルナイ)。それだけ に社会主義の発生からその崩壊に至るまでの運 動過程を資本主義の動態と比較しつつ通時的に, かつシスティマティックに捉えることが可能と なった。いまこそ伝統的な動的比較が本領を発 揮すべき時である。筆者は完結した社会主義の 44)くわしくは福田〔9〕第3章,福田〔11〕第4  章を参照されたい。 45) Kornai (19) p.391

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運動を資本主義との対置の中で並進→接近→移       の 行というふうに捉えてきた。つまり,管理社会 主義と誘導資本主義の平行運動(1930年代から 1960年代まで)→市場社会主義の誘導資本主義 への接近(1970年代から1980年代まで)→管理社 会主義および市場社会主義の誘導資本主義への 移行(1990年代)である。この間およそ60年が 経過したが,誘導資本主義は体制レベルでは変 化しなかった。私有+市場経済+誘導という基 本の仕組みに変化が生じなかったからである。 体制レベルで変動を繰り返したのは社会主義の 方であった。

VI ワンセット思考と非両立論

 筆者は数年前から,今後の経済体制の認識に はワンセット思考と非両立論が欠かせないので        ア はないか,と考えてきた。ワンセット思考とい        をのうのは一これは筆者の造語である一経済体制を 構成する諸要素を機能と意味の両面からセット の形で互いに関連づけて考察する方法である。 非両立論とは,  これはドイツ語で“Unverein− barkeitslehre”という一,機能的および意味的 に整合性をもたない要素同士は両立しえず,そ れらから構成される経済体制は低効率かつ不安 定にならざるをえない,というものである。こ のような筆者の考えは社会主義の実験の観察か ら得られた。 1. ワンセット思考  管理社会主義も市場社会主義も効率に追い立 てられて崩壊した。前述したように,筆者は崩壊 の主要な原因は両者の基本構造にあると考えた。  管理社会主義は基本的に国有,中央管理経済 および指令から構成されていた。機能的に見る とこのような組み合わせば最悪の組み合わせで 46)福田〔11〕第4章 47)福田〔12〕第6章,福田〔13〕を参照されたい。 48)筆者がワンセット思考を最初に主張したのは  1991年であった。これについては福田〔10〕を参  照されたい。 あった。それぞれが機能的に欠陥をもつこれら 三つの要素が組み合わされたことでマイナスの 相乗効果が働き,管理社会主義は低効率トラッ プに落ちてしまった。  では機能的に問題のある管理社会主義がソ連 でなぜ60年も存続しえたのだろうか。その理由 としてはこの国の人口および資源の豊富さや共 産党支配の強固さもあるが,なによりも構成要 素の組み合わせが意味的に整合性をもっていた ことを一番に挙げねばならない。国有,中央管 理経済および指令はそれぞれスターリン主義に よって生み出されたものであり,それだけにこ れらには国家主義のイデオロギーが貫かれてい た。三つの要素は国家主義で互いに強固に結び つけられ,意味的一貫性が保たれていた。この 意味でこれらの組み合わせば強い結合であった。 しかし,意味的に強い結合も機能的結合の弱さ からくる効率低下のカタストロフィー運動によっ てブレークされてしまった。  ユーゴスラヴィアの市場社会主義は社会面, 市場経済および誘導の組み合わせを基本とし, ハンガリーの市場社会主義は国有,市場経済お よび誘導を基本にしていた。このような組み合 わせば機能的に整合性をもたないことが分かっ た。前述のように社会有および国有が市場経済 のブレーキとなったからである。  ユーゴスラヴィアの市場社会主義は40年で, ハンガリーの市場社会主義は20年で崩壊した。 その存続期間中両国では効率に追い立てられて たえず経済制度の改革が行われていた。両国の 市場社会主義は不安定であった。その主要な理 由は二つある。一つは,上述のように,市場社 会主義の構成要素の組み合わせが機能的に「弱 い結合」であったからである。もう一つは構成 要素の組み合わせが意味的にも整合性を欠いて いたからである。社会主義イデオロギーをベー スにした国有や社会有は,個人主義をベースと する市場経済と意味的に対立したのである。市 場社会主義は意味的にも「弱い結合」であった。  管理社会主義は「機能的に弱い結合,意味的

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一14一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.5 1998 に強い結合」,市場社会主義は「機能的にも, 意味的にも弱い結合」ということになる。ソ連・ 東欧の社会主義の実験が比較的短命に終わった 理由はこれで説明がつくであろう。  なぜこのようなことになったのであろうか。 管理社会主義も市場社会主義もハイエク流に言 えば設計された秩序であった。管理社会主義は ソ連の体制デザイナーによって,市場社会主義 はユーゴスラヴィアとハンガリーの体制デザイ ナーによって設計された。問題は設計の仕方に あった。ソ連のデザイナーは機能連関を深く考 えることなしに,敵視していた自由資本主義を 反面教師として設計図を書いた。ロシア革命当 時存在した自由資本主義は私有,市場経済,自 由放任から構成されていた。ソ連のデザイナー は,国家主義を念頭におきつつ,アンチテーゼ のスタンスで私有に代えて国有を,市場経済に 代えて中央管理経済を,自由放任に代えて指令 をもってきて,それらから管理社会主義を組み 立てた。  ユーゴスラヴィアとハンガリーの体制デザイ ナーは,機能連関も意味連関も深く考えること なしに,市場社会主義を設計した。そのさいの 基準におかれたのは,「社会主義的価値は所有 方式で,効率は調整方式で」という考えであっ た。平等,連帯,搾取の解消などの社会主義的 価値は所有方式で,高効率は相互調整方式およ び上下調整方式で実現するというものである。 このような論法で最適なものとして公有と市場 と誘導を選び,それらから市場社会主義を組み 立てたのである。かれらには公有と市場と誘導 の組み合わせば機能的に問題はないか,三者の 組み合わせば意味的に対立しないかという問題 意識はまったくなかった。  筆者はこのような市場社会主義デザイナーの        の 方法を「組み立て主義」と呼んできた。これは 経済体制の構成諸要素をいわば部品のように扱 い,その一つひとつをそれぞれ異なる基準で判 断して最適のものを選び,それらから最適の経 済体制を組み立てるという方法である。市場社 会主義のデザイナーには構成諸要素をワンセッ トの形で捉え,それらの組み合わせが機能およ び意味の両面で整合的か,一貫性をもっている かを検証しようとする姿勢は見られなかった。 市場社会主義の失敗の究極の原因はこのような 組み立て主義にあったと言える。  組み立て主義の方法はそのほかの市場社会主 義論者にも見られる。東欧の薪マルクス主義を 代表するホルバートやシク,アメリカの分析的

マルクス主義を代表するU一マー(J.E.

Roemer)やワイスコフ(T. E. Weisskopf)や ユンカー(J.A. Yunker)らは,「社会主義的 価値は所有方式で,効率は調整方式で」という 論法で公有と市場を選び,それらから市場社会          らの主義を組み立てている。これらの論者の設計し た市場社会主義は抽象的な理論ではなく,制度 化をめざした青写真なのであるが,筆者はその 実現可能性はほとんどないと見ている。組み立 て主義が不毛であることはユーゴスラヴィアと ハンガリーで実証済みだからである。 2.飯山立論  嘉応立論は第2次大戦前に登場した。新オー ストリア学派のミーゼス(L.v. Mises)とハイ

エク,フライブルク学派のオイケン(W.

Eucken),ドイツのレプケ(W. R6pke)らに代 表される新自由主義者たちは,市場経済と国家 統制は両立しえないということを早くから主張 していた。レプケ流に言うと,国家が市場経済 に対して非整合的な(nicht konform)干渉を 加えると,たとえば国家が価格を統制すると, 統制が統制を呼んで結局は市場経済の機能が麻        さり 痺するようになると考えられた。市場経済が内 に機能的に矛盾対立するものを含むようになる 49)組み立て主義は筆者の造語である。この用語を  初めて使ったのは1996年である。福田〔11〕第3  章を参照されたい。 50)詳しくは福田〔11〕第7章を参照されたい。 51) R6pke (31) S.258−264

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と,つまり混合経済化すると,市場経済は不安 定になり,低効率トラップに落ちるというので ある。

 ドイツの新自由主義者クローテン(N.

Kloten>は,資本主義諸国における混合経済の 実験は新自由主義の「非両立テーゼ」を証明し        うの た,と述べている。異質的な体制変数を組み合 わせた混合システムは市場経済の安定と効率を 保証しえないというのがその理由であった。東 欧での市場社会主義の実験:の失敗は,よりいっ そう明瞭な形で非両立論の正しさを実証した。 国有または社会有と市場と誘導は機能的にも意 味的にも両立しえないことが分かった。市場社 会主義は混合経済の一種であるが,それはこの ように内に矛盾する諸要素を含んだがゆえに, 低効率と不安定に悩まされたのである。  非両立論は1960年忌以降,混合経済論や最:適 体制論や市場社会主義論などの両立論(私有, 公有,市場,計画などの体制変数を最適に結合しう るとする説)に押されて影が薄くなっていたが, 今やその有効性を見直すべき時がきたようであ る。  先進諸国では面素を筆頭に成長回復をめざし て規制緩和や規制改革が実施されるようになっ た。このような政策は,国家によって市場経済 に加えられた非整合的な干渉を除いたり,縮小 したりすることによって市場経済の本来の能力 を回復しようとするものである。言い換えると, 市場経済と両立しえないファクターの排除・縮 小作戦なのである。このような動きは非両立論 の有効性を実証しつつあると言えるかもしれな い。非両立論の立場からすれば,国家規制の原 則は「整合的規制イエス,非整合的規制ノー」 でなければならない。市場経済にプラスになる 整合的規制は積極的に行うが,市場経済にマイ ナスの影響を及ぼす非整合的規制は行わないと いう原則である。  先進諸国における規制緩和の問題,ポスト社 会主義諸国における資本主義の制度化や国家規 制の問題などを考える上で非両立論は有効な指 針を提示しうる能力をもっている。この限りで は両立論を上回ると言ってよい。両立論は 市場社会主義論はもとより混合経済論にしても,最 適体制論にしても一「組み立て主義」の方法に 立脚している。両立論に多くを望むことはでき ない。  今の時点で見る限り経済体制論の大勢は「両 立論から非両立論へ」と向かっているとは言い がたい。非両立論支持者はまだ少数派であり, ドイツ新自由主義の一部,コルナイおよび筆者         うの を数えるにすぎない。だが,筆者はあえて非両 立論の復権を主張したい。 3,経済体制の設計は可能か  前述したグラデュアリストに代表されるよう に,ハイエキアンは社会主義は設計されたがゆ えに崩壊したと見ている。たとえばグラデュア リストでもありハイエキアンでもあるスターク (D.Stark)は,社会主義が失敗したのはグラ ンド・デザインによって経済プロセスを意識的       うのに組織しようとしたためである,と見た。設計 したこと自体に問題があったという。人工的で あるがゆえに社会主義は崩壊したという。  果たしてそうか。筆者は設計それ自体のゆえ にではなく,設計にミスがあったがゆえに社会 主義は崩壊したと考える。ソ連の体制デザイナー は機能連関を深く考えることなしに管理社会主 義を設計し,ユーゴスラヴィアとハンガリーの 体制デザイナーは機能連関も意味連関も深く考 えることなしに市場社会主義を設計した。ゆえ に管理社会主義も市場社会主義も崩壊したので ある。  ハイエキアンは,先に見たコルナイやチャバ が典型的にそうであるように,「社会主義は人 工,資本主義は自発」という対置法をとり,資 52)Klote11〔16〕Sユ22 53)詳しくは福田〔12〕第6章,福田〔13〕を参照  されたい。 54) Stark (33] pp.64−65

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一16一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.5 1998 本主義の体制的優i位を主張する。この対置法は 正しいだろうか。  ソ連・東欧の実験を見る限り,社会主義は設 計された人工物と言えるだろう。スタート時点 のソ連には社会主義のヴィジョンをベースにし た大枠的な見取り図があった。逆に東欧の場合 にはグランド・デザインはなかった。ソ連から 管理社会主義を輸入するだけでよかったからで ある(と言っても各国の管理社会主義は政府の模倣 的戦略で意識的に制度化された人工物であったこと に変わりはないが)。1960年代後半のハンガリー にはかなり具体的な設計図があった。社会主義 労働者党は3年を費やして市場社会主義をデザ インしたからである。  資本主義はどうか。20世紀の資本主義は自発 的秩序と言えるだろうか。資本主義は1930年代 に質的に変化した。資本主義の柱のひとつであ る上下調整方式が自由放任から誘導に変化した からである。誘導は自然に生成したとは言えな い。欧米諸国の政府が直接的には大恐慌に対処 するためにデザインし,法を定めて意識的に制 度化したものである。つまり,資本主義の基本 構造の組み替え一私有+市場+自由放任から私有 +市場+誘導への組み替え が行われたのであ る。このような意味で誘導資本主義は上からの 人工物なのである。

 西ドイツでは1940年起坐に国家社会主義

(Nationalsozialismus)をスクラップし,社会 的市場経済を建設することが試みられた。社会 的市場経済の設計図の原型は第2次大戦中に準 備されていた。その作成を担当したのは反ナチ ズムの拠点であったフライブルク大学の「ベッ ケラート研究会」であった。この研究会は1943 年3月から1944年9月にかけて戦後ドイツの新 しい経済体制をデザインした。デザイナーには 戦後西ドイツの経済政策を理論面および実践面 で指導したべッケラート(E.v. Beckerath)オ イケン,ボェーム(F.B6hm)らが名を連ねた。 戦後になると,「ベッケラート研究会」の見取 り図をベースにしてさらに彫琢が加えられ,最 終的に社会的市場経済という名の体制プランが できあがった。その実現は経済相エアハルト (L.Erhard)の手に委ねられた。かれは不屈の 意志と強力なリーダーシップをもって1948年6 月の通貨改革以降,一連の経済自由化政策を矢 継ぎ早に実施し,短期間に社会的市場経済のフ レームワークを制度化した。これによって国家 社会主義は消滅した。メラー(H.M611er)流        に言えば「革命的変化」 (revolutionaler Wandel)であった。  このようなドイツの事例が示すように,敗戦 という異常事態のもとでは政府が前面に出て経 済体制のフレームワークを変更することが可能 なのである。しかもそのドイツでは社会的市場 経済は比較的高い効率と安定性を実現した。社 会的市場経済は機能連関の面でも意味連関の面 でも整合性基準を満たしていたと言える。中欧 諸国がその体制移行にさいして手本にしたほど である。ハイエキアンはこの事実をどう解釈す るだろうか。  20世紀は経済体制実験の時代であるが,その 100年の経験は経済体制の設計は可能であるこ とを示している。設計の成功条件は機能整合性 と意味整合性であることが分かった。

W おわりに

 経済体制の設計にさいしては機能連関と意味 連関を考慮し,機能整合性および意味整合性の 基準を満たすようにしなければならないという のが筆者の結論である。経済体制の設計は帰す るところ構成諸要素の組み合わせ作業である。 構成諸要素をワンセットとして捉え,それらを 機能と意味の両面から矛盾対立のないように組 み合わせなければならない。  世紀末というのに未来志向の経済体制論は意 外に少ない。目を引くのは資本主義以後を視野 に入れた市場社会主義論ぐらいのものである。 55) M611er (28) S.366

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