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1950年前後オーストリアにおける体育実践と体育館

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論文種別:研究資料

表題:

1950 年前後オーストリアにおける体育館の状況と体育の授業:運動内容の考察を中心に The situation of gymnasiums and a physical education course in Austria around 1950: Focused on the consideration to the kind of physical exercises

著者:

鈴木明哲 SUZUKI Akisato

所属先: 東京学芸大学

Tokyo Gakugei University

所属先住所:

〒184-8501 東京都小金井市貫井北町 4-1-1 東京学芸大学

Tokyo Gakugei University 4-1-1, Nukuikitamachi, Koganei-shi, Tokyo 184-8501

キーワード:10 分間体操,教室体操,教本,行政文書

Key word: Zehnminutenturnen, Klassenzimmerturnen, handbook, administrative documents

ランニングタイトル:1950 年前後オーストリアにおける体育館の状況 連絡先担当者:鈴木明哲 [email protected]

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The purpose of this study is to consider the problem of the situation of gymnasiums through an analysis of a physical education course in Austria around 1950. Of particular interest in this study is the relationship between the situation of the gymnasiums and the kind of physical exercises. The main historical materials are administrative documents of the Federal Ministry Republic of Austria Education in possession of the Archive der Republic existed as a department of the Austrian State Archives in Vienna; the handbook "Leibeserziehung"(1949) written by H. Groll and W. Burger who were the main persons taking the lead in Austrian PE after the Second World War. In this paper, I could obtain the facts of the situation of gymnasiums from only five out of eight counties in Austria and Vienna city.

The results of the analysis are summarized as follows:

Although the Austrian Government published the new national course of study on the 3rd September 1945, there were a lot of problems with the exact practice of PE in the whole country. Around 1950 the situation of gymnasiums in Austria was not necessarily well, so some gymnasiums had been still breaking by bombing, or requisitioning by film company, had not enough heating machine, were not suitable for exercises of ball games. As an important point, it will be possible that there were no gymnasiums at schools in Austria. According to the administrative documents, if worst come to worst, the practice of PE had be stopped. These effects had extended over the practice of PE, when cold winter days or bad weather days. Therefore a lot of schools in the practice of PE carried out the substitute exercises using a small space in the classroom had been taught. These substitute exercises were called

"Zehnminutenturnen"(10 Minutes Exercises) and "Klassenzimmerturnen"(Classroom Exercises) in the handbook "Leibeserziehung", "Minutenturunen"(Minutes Exercises) and "Zimmerturnen"(Room Exercises) in the administrative documents. Especially to practice the "Zehnminutenturnen" and "Klassenzimmerturnen", that is to say "old free gymnastics," had been keeping on deviating from Austrian course of study. Consequently, these situations mean that the reconstruction of Austrian PE after the World War Second was very difficult. It would be difficult to overcome a lot of problems around Austrian PE without drastically changing the situation of

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Ⅰ 緒言 戦勝国,敗戦国,双方にとって第二次世界大戦終結直後の破壊と混乱は国民生活のあら ゆる分野に及び,この苦境からの出発がすなわち戦後復興のスタートであった.体育・ス ポーツにおいては施設・設備の破壊,用具の不足,指導者を含めた担い手の健康・栄養状 態の不良,制度や内容の改革・刷新など,様々な問題が山積していた. 日本やドイ ツの占領 期間が 1952 年までであったのに対し注1),1955 年までのおよそ 10 年間にわたる連合 4 ヵ国の占領下にあったオーストリアでは,1945 年 9 月 3 日,戦後の新 しい指導要領(Lehrplan)が公示されたが,それは「1930 年の指導要領が 1945 年にその まま使用された.また原則だけでなく,その解説文も全く同じものだった」(伊藤,2010, p.139)とされている.一方,体育においては,「第二次大戦後のオーストリア体育は, 内容的,方法的,実践的,教授案的見地から第一共和国における『自然体育』の教育改革 的伝統に直接的に結びつくもの」(Strohmeyer, 1999, p.)とされ,「1946 年から 1950 年頃までは,かなり忠実に『自然体育』に戻る作業が行われ」(稲垣,1981, p.273)てい たようである.だが,「1945 年以降のオーストリアも,ドイツ同様,体育に対する不都合 な諸条件に見舞われた」(内山,1995, p.44)とされ,それはすなわち「1945 年以降 1950 年代に至る旧西ドイツでの外的環境の破壊と学校での体育の高次な立場の損失とによって 特徴付けられる空白期」であり,「第 1 に施設や教師の不足,第 2 にそれによって引き起 こされた極めて劣悪な学校での身体運動の実施状況,第3 にナチスの国家社会主義からも たらされた体育に対する誤解等の諸々の不都合な条件が重なり合って」(内山,1995, p.42) いた時期であった.当該時期のオーストリアにおける体育については,教師の非ナチ化問 題 , 教 師 の 専 門 教 育 , 指 導 要 領 の 改 定 な ど が 明 ら か に さ れ て い る が (Müllner, 2011, pp.115-123.),上述の内山が述べる「外的環境の破壊と学校での体育」及び「極めて劣悪 な学校での身体運動の実施状況」については,「戦後学校スポーツにおける社会的経済基 盤の問題」として若干言及されているに過ぎない.すなわち「授業運営は,1945 年直後, 破壊された校舎,爆撃による被害,不足した備品などの問題に直面し,また占領軍による 建物の接収など,あらゆる荒廃と戦っていた」という教育史研究(Buchhas, 1995, p.82, Engelbrecht, 1988, p.399)の説明を援用しながら,「これらはまた,体育の授業にも相 当な被害を与えていた」(Müllner, 2011, p.115)というように,施設・設備の状況と体 育の授業との関係は推察の範囲でしか語られていない.特に内山の言う「極めて劣悪な学 校での身体運動の実施状況」,要するに施設・設備と運動の関係が不明である注2

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冬が長く厳しいオーストリアにとって,体育の授業および運動内容は,体育館の状況に より,大きな影響を受けたと考えられる注 3).戦争直後の体育館と運動の関係に言及した 唯 一 の 研 究 と し て ホ ル ツ ハ ッ カ ー の 修 士 論 文 (Magister Phil. ) が ある ( Holzhacker, 1999).この論文は,当時の体育館の状況と運動の関係について,二つのことを明らかに している.まず第一に,ウィーン市教育庁の行政文書を引きながら当時のウィーン市にお ける体育館の状況を描写し,「戦闘後,82 の体育館が完全に破壊され,あるいは激しく損 傷を受けており,およそ 300 の体育館が避難所,生活用品や食料品の保管場所,馬小屋, 食堂として差し押さえられ」,また「秋から冬の 5 ヶ月間は暖房必要期間であったが,暖 房用燃料が十分行き渡らずその 5 ヶ月間は体育館も閉鎖されていた」(Holzhacker, 1999, p.29)ことを伝えている.ウィーン市という限定された地域の体育館の状況がわかる.そ して第二に,「文献上は(in der Literatur)」と前置きした上で,1951 年に出版された 『体育館がないときの体操』(Kirchmayer, 1951)という書籍の存在と,1949 年に発表 された「教室における体操(Turnen im Klassenzimmer)」(Fober, 1949)という論考 の存在,これら二つの 著作を根拠に,体育館の状況を踏まえた体育の授業の様子を推測に よりながら描写している.つまり,1950 年前後,何らかの理由で体育館が使用できないこ とがあり,そのための簡易な運動が考案され,実際になされていたのではないかと描写し ているのである. ホルツハッカーの成果を踏まえると,研究の課題は,まずウィーン市以外のオーストリ ア全土 にわ たる 体育 館の 状況 を明 らか にす るこ とであ り, 特に 二つ の文 献が 公刊 された 1950 年前後を中心的に検討,考察しながら体育館の状況と運動の実施及びその内容との関 係性や影響を描き出すことにある.このような実証を通じて,ホルツハッカーが依拠した 二つの文献に基づく資料的限界性を乗り越えつつ,実証の精度を より確実にしていくこと ができると考えられる.また,すでにミュルナーが明らかにしている教師の非ナチ化問題, 教師の専門教育,指導要領の改定などの史実に,さらに新たな史実を加え,内山の言う「空 白期」をより鮮明に捉えることが可能となる.あるいはその苦境を明らかにすることは, あらためて戦後復興の厳しさを現代に生きる我々に刻印することになるであろう. 本研究では,戦後オーストリアにおける体育館(Turnsaal)注4)の状況と体育の授業の 関係を,運動内容の考察,検討を中心としながら明らかにすることを目的とする. 本研究では,大きく分けて二つの資料を用いて検討,考察を進める.まず第一の資料は, オーストリア国立文書館(Österreichisches Saatsarchiv: ÖSTA)管内の共和国文書館

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(Archiv der Republik: AdR)所蔵の連邦教育省(Bundesministerium für Unterricht: BMfU)文書であり,そして第二の資料は,1949 年に公刊された教本(Hand Buch)『体 育(Leibeserziehung)』(1949)である. 以上を踏まえて本研究では,まず第一に,使用する BMfU 文書についてその概観を説明 する.その理由は,当該時期の体育の様子を実証する際に,この文書がオーストリア本国 においてもこれまで全く使われてこなかった新出の資料であることによる.第二に,この 資料をもとに体育館の状況が体育の授業や運動内容にどのような影響を及ぼしていたのか を明らかにする.そして第三に,体育館の状況と体育の授業や運動内容との関係について, 当時のオーストリア学校体育を支えた主導的人物による教本を手がかりに検討,考察する. 教本が出版された 1949 年を顧慮すると,破壊と混乱による厳しい状況下において,実施 可能な体育授業のモデルをどのように提示し,苦境を乗り越えようとしていたのか,その 具体的方策が提示されていると考えられる.そしてそれは,限られた状況下においても何 とか体育の授業を展開していこうとした当時の体育研究者や指導者の熱意を明らかにして いくことにもつながるであろうし,また運動内容の配当を指示しているに過ぎないという 指導要領がもつ資料的限界を補っていくという意義も有する. Ⅱ BMfU 文書について 本研究で使用した当該時期の BMfU 文書について,オーストリア本国においてもこれま で全く使われてこなかった新出の資料であるため,以下に概観しておきたい. 本研究において,戦後オーストリアにおける体育館の状況を明らかにするための手がか りとして,オーストリア国立文書館管内の共和国文書館所蔵の BMfU 文書を探索した結 果,〔17A-IN/GRE, 1945-1953, AdR, K1860〕という記号ラベルが貼られたカートンボッ クスに収められた文書綴りの資料群を見つけ出すことができた. は じ め に 請 求 記 号 に つ い て 説 明 し て お き た い . 「 17 」 は , 「 師 範 学 校 (Lehrerbildungsanstalten),国民学校(Volksschulen),高等小学校(Bürgerschulen) および一般allgemeine」を表し,「A」は,「視察報告書(Inspektionsberichte),年次 報告書(Jahresberichte),年度末報告書(Schußberichte),苦情・申立(Beschwerde)」 を表している. 「IN/GRE」は不明であるが,「AdR」は先述のように共和国文書館所蔵 であることを示している. 「K1860」は,カートンボックスを指し,請求に必要な記号番 号である.つまりこの「K1860」というボックスには 1945 年から 1953 年までの師範学校,

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国民学校,高等小学校などからの報告書類が収められていることがわかる.特に「苦情・ 申立」なども含まれていることから,体育館の状況と運動内容,実践上の問題点などが記 されている可能性が高いと判断し,閲覧を試みた. オーストリアの行政区は,オーバーエスタライヒ(Oberösterreich),ニーダーエスタ ライヒ(Niederösterreich),ケルンテン(Kärnten),ブルゲンラント(Burgenland), ザルツブルク(Salzburg),ティロール(Tirol),フォアアールベルク(Vorarlberg), シュタイアーマルク(Steiermark)の 8 州とウィーン市(Stadt Wien)で構成されている. カートンボックスの中には,1945 年から 1953 年まで,各州の教育庁(Landesschulrat) 及びウィーン市の教育庁(Stadtschulrat)から連邦教育省へのタイプ書き報告書が綴られ ており,それぞれの簿冊ごとに図のような連邦教育省規定書式による表紙がついている. ※図1 挿入箇所 "Geschäftszahl"が簿冊ごとの記号で," Gegenstand"が簿冊の名称である.簿冊は 9 年間 で合計66 冊作成され,年ごとの冊数は表 1 に示したとおりである. ※表1 挿入箇所 1945 年から 1949 年までは簿冊の数も少なく,1947 年のように全く作成されていなか った年もあった.最も多くの簿冊が作成されたのは 1951 年の 23 冊で,次いで 1952 年の 16 冊,1950 年の 11 冊であった.よって本研究の検討も 1951 年前後が中心となる.文書 はタイプ書きで,書式は一定しておらず,年,州によって 様々であり,具体的な数値が示 された報告書や視察の見聞内容が詳述されている報告書など様々である.簿冊ごとの枚数 もまちまちで,記載者についても明記されている場合と無記名の場合があり,一定してい ない.このように簿冊ごとの情報は様々である.先述したようにカートンボックスに収め られている簿冊が対象とする学校種は,師範学校,国民学校,高等小学校であるが,実際 に簿冊を紐解くと,これら 3 校種だけではなく,基幹学校(Hauptschule),特別支援学 校(Sonder-, Hilfsschule),連邦実科ギムナジウム(Bundesrealgymnasium),私立学 校保健婦養成学校(Privat-Lehrerinnenbildungsanstalt der Schulschwestern)のほか, 私立校に関する報告も含まれている注5).記載内容は様々で,体育館を含めた学校施設・設

備の現況,教科書,教員,授業,非ナチ化(Entnazifizierung)の動向などであった. 体育に関する記述を拾っていくと,1949 年のニーダーエスタライヒ州からの視察報告書 に記されていた 1947 年から 1948 年にかけての事例が初出で,それ以前の 1945 年から 1946 年までの間に記述はなかった.また,ケルンテン,ティロール,フォアアールベルク

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の3 州からの報告には,体育に関する記述が全くなかった.よって本研究では,この 3 州 及び1945 年から 1946 年までは検討対象から除外した.なお,本研究では,以下,BMfU 文書を視察報告書と呼称する. Ⅲ 体育館の状況 ここでは体育館の状況が詳細に報告されているザルツブルク州とウィーン市の事例をも とに付設の有無や使用状況について明らかにする. 1.ザルツブルク州 1950 年に連邦教育省に届けられた視察報告書には,1949 年から 50 年にかけて,表 2 に示したように国民学校 7 校,基幹学校 2 校,特別支援学校 1 校の合計 10 校が記録され ている. ※表2 挿入箇所 視察を受けた 10 校中,6 校が体育館を付設していなかったが注6,ほとんどが国民 学校 であった.付設されていた学校においても,例えばプラインシュトラッセ(Plainstraße) 国民学校の様子は以下のように報告されている(BMfU, 1950a). 大きな建築物をもち,町でも規範となってきた学校で,爆撃でその建物の三分の二を 失ったが,ほぼ元どおりになってきた.体育館は現在,自由には使えない.アメリカ 支援の映画会社が接収している.しかし,それも第2 ゼメスターまでに終わる見込み である(アンダーラインは朱色で原文ママ). 戦争から5 年を経て,ようやく学校の建物が元どおりに復興してきた様子がわかる.体 育館は存在していたが,理由は資料からは読み取れないが,アメリカ支援の映画会社が接 収していて使用できない状態にあった.だが,それもやがて解消に向かう様子がうかがえ る.また,原文では体育館の説明箇所に朱色のアンダーラインが引かれていた.ザルツブ ルク州からの視察報告書において,このように朱色のアンダーラインが引かれていた箇所 はほかに存在しない.誰が,どのような意図のもとに記したのかは不明であるが,体育館 の状況に強い関心を抱いていたことは確かである. また,シュバルツシュトラッセ(Schwarzstraße)女子国民学校の体育館は窓ガラスが

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修理中であり,ザルツブルク特別支援学校の体育館は爆撃のため,それぞれ使用できない 状況であった.付設されて使用可能であったのはハライン(Hallein)女子基幹学校ただ 1 校だけであった(BMfU, 1950a). 同様に表3 に示した 1951 年の視察報告書には,国民学校 3 校,男子基幹学校 1 校,女 子基幹学校1 校の合計 5 校の視察が報告されている. ※表3 挿入箇所 視察を受けた 5 校中 3 校の国民学校が体育館を付設していなかった.プラインシュトラ ッセ男子基幹学校の体育館は内装整備のために使用できない状況であり,付設されて使用 可能であったのはグリースガッセ(Griesgasse)女子基幹学校 1 校だけであった. 1951 年のザルツブルク州全体をまとめた視察報告書には体育の問題点が指摘されてい る.真っ先に指摘しているのは「体操場所の不足(Die Turnraumnot)」であり,「かな りの数の学校は大変気の毒な状況にある.場所(体育館,体育室,十分なスポーツ広場) を何ももっていない学校が 36 校もあった」(BMfU, 1951a)と報告されている.そのほ かに体育に関する問題点は全体的なまとめの中に一切報告されておらず,体育の授業をす るためには,まず第一に体育館を含めた体育施設の修繕が不可欠であったことがわかる. その後,1956 年から 57 年のザルツブルク州における体育館の状況について,より正確 な数値が明らかにされている.それによると,総学校数 243 校に対して,体育館が付設さ れていた学校(schuleigen)は 44 校,学外の体育館を使用していた学校(fremd)は 13 校であった(Pädagogischen Institut in Salzburg, 1958, p.40).1956 年から 57 年にか けて,僅か18%の学校において体育館が付設されているに過ぎず,学外の体育館を利用し ている学校と合わせても 23%にとどまり,連邦教育省への報告から 5 年以上が経過してい るにもかかわらず,ザルツブルク州では依然として非常に多くの学校が体育館をもたない 中での体育の授業を余儀なくされていたことがわかる注7) 2.ウィーン市 1948/49 年度の報告によると,「体育の授業の再開は,まず体育館の修理から,熱意を もって推し進められた」(BMfU, 1950c)というように復興に際して優先されたのは体育 館の整備であったことがわかる. ウィーン市教育庁管内の学校における体育館の状況は,1950 年 10 月 30 日の時点で, 表4 に示したとおりであった. ※表4 挿入箇所 全学校数を 417 校とすると,約 68%の学校が体育館を付設しており,約 32%の学校が

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体育館を付設していなかったことになる.前述のザルツブルク州と比較してみると付設率 は高い. だが,以下のような報告も添えられていた(BMfU, 1951e). 多 くの 古い 学校 では 現 代の 学校 であ るな らば 当然 必要 とさ れる 施設 が絶 対 的に不 足しており,しかもそれらの施設は非居住空間(Nebenräume)のように見なされ, 不当に扱われている.この不足施設群には体育館,体操場,スポーツ広場も含まれて いる. 合計132 校の付設されていなかった学校の多くは古い学校であったと思われる.ウィー ン市では,付設率約68%であっても不十分と見なしており,体育館などの体育施設の整備 を急務としていた. Ⅳ 体育館の状況と体育の授業及び運動内容 先述のザルツブルク州の事例から,爆撃被害や接収などにより使用できないケースと元 々学校に付設されていないケースの存在が明らかとなった.両者に共通するのは体育館が 使用不可という状況であり,このような状況下での体育の授業は果たしてどのような展開 を見せていたのか,運動内容に着目しながら検討したい. 1.ニーダーエスタライヒ州 1947 年から 48 年にかけてのニーダーエスタライヒ州全体をまとめた視察報告書では, 「体育はずっとおろそかにされたままである.体育館は破損し,暖房も効かない.もしく は暖房設備自体がない.以前,体育の授業は盛んだったのに,現在,我々は全く退廃して しまっており,体育の授業を怠っている」(BMfU, 1949)と問題点が記されている.1947 年から 48 年にかけて,ニーダーエスタライヒ州では,ほとんど体育の授業が実施されて おらず,その原因は体育館の破損,暖房の不備にあったようである.体育の授 業を再開す るにあたり,まずは体育館が必要であったことがうかがえる.しかし,1951 年の時点でも, 「体育の授業は,今もなお,多くの学校でおろそかにされたままになっている.その原因 の大部分は,体育館の不足であり,体操場の不足に帰せられる」(BMfU, 1951c)と報告 されており,4 年を経ても問題は棚上げされたままになっていたことがわかる.代わりに

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どのような体育の授業が実施されていたのか,資料には記されていないが,いずれにせよ 体育の授業の正否を握っていたのが体育館や体操場であったことは確かである. 2.ブルゲンラント州 1950 年のブルゲンラント州における視察報告書では,アイゼンシュタット(Eisenstadt) に あ っ た 連 邦 実 科 ギ ム ナ ジ ウ ム の 体 育 に つ い て , 以 下 の よ う に 記 し て い る (BMfU, 1950b). 1938 年以前から使用していた体育館は現在でもまだ,占領軍に接収されたままにな っている.そのため学校から 25 分ほどのところにあるアイゼンシュタット唯一のス ポーツ広場を体育教師が毎回準備しているが大変厳しい仕事になっている.天気がよ ければシュロスパルク(Schloßpark)にある小さな遊び場をやむを得ず使用している. 天気が悪ければ体育教師は教室での活動を余儀なくされ,延々と理論をしゃべること しかできなくなってしまう. 占領軍に接収されていたために体育館が使用できなかった事例であるが,体育の授業は, 結局,運動せずに,理論を聞くだけになっており,他の州でも状況は近似していたものと 思われる. また,ブルゲンラント州に関する視察報告書は 1951 年 10 月 1 日から 5 日にかけて,州 南部の三つの町,ハイリゲンクロイツ(Heilegenkreuz),シュトレム(Strem),ザン クト・ミヒャエル(St. Michael)で開催されたグラーツ大学体育研究所(Institut für Leibeserziehung der Universität Graz)のレックラ(J. Recla: 1905-1987)による体育講 習会(Lehrer-Tag für Leibeserziehung)の模様を伝えている(BMfU, 1951d).重要な ことにレックラは「体育館を所有していない場所が選ばれた!」と,これらの三つの町で 開催された理由を感嘆符で強調しながら記している.そして講習中には,「狭い部屋での 用具を使用しない体操」が実演されたが,これは後述する「教室体操 (Klassenzimmerturnen)」や「10 分間体操(Zehnminutenturnen)」と思われる.体 育館が付設されていない学校における体育の授業をいかに展開するか,それはこのような 講習会においても取り上げられるほどの重要なテーマとなっていた.さらにレックラは同 州の師範学校への提言も行っており,「地方の学校の 特殊的状況が考慮されなければなら

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ない」(アンダーラインは原文ママ)とし,「器具や備えなしの運動は,とても小さい部 屋でも実施することができる」と記している.地方の学校に体育館がないことを前提とし た対処カリキュラムを師範学校に提言していたことがわかる. 3.ザルツブルク州 1950 年と 51 年の報告では,視察を受けた全 15 校の中,体育館が付設されていなかっ た学校は9 校であり,付設されていたが使用できなかった学校は 4 校であった.これらの 学校から,ここでは体育の授業の様子が報告されている 7 校の事例を明らかにする.内訳 は,付設されていなかった 4 校,付設されていたが使用できなかった 3 校である. 3.1 付設されていなかった 4 校の様子 まずウンケン(Unken)国民学校では,以下のように報告されている(BMfU, 1950a). 10 分ほどのところにある体操場は広くて便利.跳躍器具,ロープ,空中遊具,ボー ルな どが 備え 付け られ て いる .冬 には クロ スカ ント リー スキ ーや リュ ージ ュ ができ る.室内でできる簡単な運動が頻繁になされている.どの運動も最後までしっかりな されている. 体育館はもとより体操場も付設されていなかったため,10 分ほどのところにあった体操 場を使用していたようであるが,おそらく天候が芳しくない時には「室内でできる簡単な 運動」が頻繁に実施されていたと考えられる.同様にリーフェリング(Liefering)国民学 校でも「教室で分体操(Minutenturnen)がなされている」(BMfU, 1951a)と報告され ている. ゴルデンシュタイン(Goldenstein)私立女子基幹学校では,「体育館は,現在,手に 入れようと努めている.目下,給食室の机を片付けて行っている」(BMfU, 1950a)とい うように,おそらくは狭い室内でもできる簡易な運動を実施していたと考えられる. ホフ(Hof)国民学校の様子は,「体育館がないという現状ではあるが,それでも最大 限の可能性を探るよう教員らに求め,目下,実施可能な体育運動の立案,準備を指図して いる」(BMfU, 1950a)と報告されている.体育館が付設されていなかっただけでなく, 同校の教員らはそのための代替策すら視察時点までに講じていなかったことがわかる.要 するに体育の授業は実施されていなかったのである.

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3.2 付設されていたが使用できなかった 3 校の様子 シュバルツシュトラ ッセ女子国民学校では,「体育館が使用できないため,(視学官は) すぐ近くの工場をあてがった」,「分体操が部屋の中で行われていた」という状況であり, ザルツブルク特別支援学校注 8)では,「体育館はまだ使えないので,体操は校庭でやった り,室内体操(Zimmerturnen)をやっている」(BMfU, 1950a)というように,どちら も「10 分間体操」や「室内体操」などを実施していた. プラインシュトラッセ男子基幹学校では以下のようであった(BMfU, 1951a). 現在のところ体育館が使用できないので,校舎に付設された広場での体育の授業とな っていた.クロスカントリースキーの予行演習であった.別のクラスではフルークバ ル(Flugball)のルールを書き写していた.しかも注意深く左手で!指導要領に示さ れているような体育の授業を見かけることはなかった(感嘆符は原文ママ). 運動感覚の訓練であろうか,左手を使ってルールを書き写すという,目的がよくわから ない授業までもが現出していたが注9,体育の授業は指導要領に示されたようには進んで いなかったことがうかがえる.総じて体育館が付設されていなかった学校の体育はこの男 子基幹学校と相違なかったと思われる. 4.ウィーン市 先述したようにウィーン市教育庁管内の学校における体育館の付設率は約 68%であっ たが,古い学校の体育施設は脆弱であった.報告書を一瞥したところ,ほかの州に見られ たような「室内体操」や「10 分間体操」に関する記述は見当たらず,「程よく計画的な授 業の枠内で,スケートもまたよく実施されていた.ウィーン市では,この目的のためにす べてのスケート場を自由に使えるようにし,多数のスケート靴を貸し出した」(BMfU, 1950c)というように,冬季の体育の授業はスケート場で実施し,すでに 1948/49 年度の 時点で体育館の不備や不足を補っていたことがわかる.スケート場が身近に存在していた ウィーン市ならではの措置であった. だが,報告書はたとえ体育館が付設されていたとしてもそこに潜む運動内容に関する問 題点を以下のように指摘していた(BMfU, 1951e).

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さらに古い体育館につきまとう二つの問題に注意を払う必要がある.その一つは窓 であり,古い体育館はしばしば高いところに窓が設置されており,開閉が煩わしく, 換気が難しいことであり,もう一つは壊れやすい軽いガラスが使われているために, ボールゲームをいつもあきらめざるを得なくなっていることである.新しい体育館は 当然ふさわしい建物に整えられている. ここには高い付設率を示していながら,古い体育館の形状に規定され,ボールゲームの 実施ができていなかった様子が報告されている.体育館の形状は運動内容にまで影響を及 ぼしていた. 5.シュタイアーマルク州 シ ュ タ イ ア ー マ ル ク 州 に お け る 1951 年の 私立 学 校保 健 婦養 成 学校 と連 邦 師範 学校 (Budes-Lehrer- und Lehrerinnenbildungsanstalten)の報告が届けられており,体育館 の状況と運動内容に関する一端を知ることができる. 私立学校保健婦養成学校の報告も,まず体育館からはじまっており,「かつての体育館 は爆撃によって完全に破壊されてしまった.であるから 6m×7m の教室内で実施可能な運 動をしている」(BMfU, 1951b)と,1951 年の時点でも体育館は爆撃で破壊されたまま になっており,そのため運動内容は教室内でできることに限定されていた. 一方,連邦師範学校においても体育に関する報告の冒頭は体育館で叙述されており,「新 塗装され,快適.22m×11m の大きさで,現代の生き生きとした,多様な運動するための 必要条件を満たしている」(BMfU, 1951b)と報告され,後述する教本の規格を満たすに 十分な体育館が付設されている様子がわかる.義務教育課程の学校ではなく,師範学校で はあるが当時必要とされるべき体育館のモデルであったと思われる. さらにこの師範学校には体育館だけにとどまらず,運動室(Übungsraum)も付設され ており,以下のように報告されていた(BMfU, 1951b). こ れは 第二 の体 育館 と も言 うべ き体 育運 動の ため の施 設で ,州 学校 視学 官 ドゥス (Duss)博士の主導により考案され,大きさは 14m×7m ある.室内はとても明るく, 窓は大きく,その上,体育目的にも適合している.この施設の中での多くの授業は仮

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の器具を用いて実施され,将来の教員らに対して重要な意義をもっている.バスケッ トボールができる広さがあれば適当であり,そのためには格子入りの窓が是非とも必 要である.暖房器具も早急に供給されるべきであろう. 厳密に言うとこの施設は体育館ではないかもしれないが,この当時の室内体育施設が持 ち合わせるべき設備,形状を網羅していると考えられる.それはすなわち,明るく,換気 ができ,暖房設備も整えられているという点である.さらに重要なのは,バスケットボー ルなどのボールゲームを基準にその広さが規定されていることから,その 運動内容が体操 ではなく,ボールゲームであったことがうかがえる.これからの教育現場を主導する師範 学校に付設された体育館の形状から,義務教育課程の学校に付設されるべき体育館の姿が 浮かび上がってくる. Ⅴ 教本『体育』(1949)に示された体育館の状況と運動内容の関係性 BMfU 文書によって明らかにしてきたように,1950 年前後,オーストリアにおける体育 館の状況は必ずしも十分でなく,それはまた体育の授業にも影響を及ぼしており,授業が ほとんど実施されていないような学校もあった.また,体育館が付設されていなかったり, 使用できなかったために教室での簡易な運動を実施している学校も多く見受けられた.さ らには体育館の形状や規格がボールゲームの実施を想定していたことも判明した. 以下では 1950 年前後の体育館をめぐる状況と体育の授業や運動内容との関係を,1949 年に公刊された教本『体育』の内容を検討しながら明らかにしていく. 1.教本『体育』(1949)について 教本『体育』について,その存在自体はこれまでの先行研究においても断片的に触れら れることはあったが注10),内容にまで踏み込んで詳細に検討されることはなかった.よっ て,まずはじめに教本についての説明を加え,1950 年前後の体育館をめぐる状況と体育の 授業や運動内容との関係を検討する際の資料的な意義を明らかにしておきたい. 教本『体育』は1949 年に,戦後オーストリア学校体育に強い影響力を及ぼしていたグ ロル(H. Groll: 1909-1975)がブルガー(E. W. Burger: 1909-1970)の協力を得て公刊 された(Strohmeyer, 1983, p. 206).主筆のグロルは,当時,全オーストリアに強い影 響力をもち,1946 年から死去するまでの間,ウィーン大学体育研究所(Institut für Leibeserziehung der Universität Wien)の所長や連邦体育研究所(Bundesanstalt für

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Leibeserziehung)の所長などの要職にあった(Strohmeyer, 1983, p.206).つまり教本は, 当時強い影響力をもち,要職を占めていたグロルが執筆の中心にあったことから,全オー ストリアの学校体育の現状を俯瞰的に把握した上での,実践に即した指導指針として機能 していたと考えられる.その影響力は,緒言で言及したホルツハッカーの先行研究が取り あげている二つの文献の比ではないと考えられる.また教本は,その後 10 年を経た 1959 年に再びグロルとブルガーによって改訂されており(Burger und Groll, 1959),このこ とからわかるように,教本はその時の様々な体育的状況を踏まえながら手直 しが加えられ, 指導指針として機能していたと考えられる. では次に,「まえがき」の記載を中心に教本『体育』の特徴を見ていきたい. 「まえがき」の冒頭は,「オーストリア体育の教本がない!」と感嘆符を打ちながら筆 を起こしており,1949 年当時,体育に関する教本自体が存在していなかったことがうかが える.こうした状況を受けて,「現代的状況に基づく学校における身体訓練の百科事典」 として,また「実務家にとっての参考書や手引き書」,あるいはまた「大学生や連邦体育 研究所,師範学校(Lehrerbildungsanstalt)における教科書として活用される」(Burger und Groll, 1949, pp.8-9)ことを意図して公刊した書が,この教本『体育』であった.同 書が果たしてどこまで頒布されていたのか,その正確な数字は判然としないが,その意図 は明らかである.総ページ数は 303 ページ,「まえがき」によると特徴的なのは「個々の 章の概要を反映させた詳しい目次」,「詳細な巻末索引」であり,これにより,「無駄な く一目で,必要とされる論点にたどり着ける」工夫がされている.ゆえに目次,索引,両 方において,すぐに「体育館(Turnsaal)」という用語を見つけ出すことができ,当該の 説明箇所を参照することができる.教本の第 8 章,「運動場と用具」がそれに該当する. 第8 章 運動場と用具 法的な根拠 スポーツ広場 学校の体操場 代用体操場 ゲレンデ 「体操ゲレンデ」 体育館 代用室 教室体操(Burger und Groll, 1949, p.4)

2.体育館の位置づけと状況への対応

教本の第8 章,「運動場と用具」には,「どの学校にも,一つの体育館と体操場もしく は遊戯場は必要」(Burger und Groll, 1949, p.160)と記されている.つまり,戦後,オ ーストリアの各学校にはそれぞれ体育館と体操場が付設されていなければならなかったの である.

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一方で,「運動場所はできるかぎり,もとより自然のままの器具を備えた野外であるこ と」という要件を満たさなければならなかったのであるが,この点については「実際,体 育館は野外よりも重要度において劣るが,我々にとって,それでもなくてはならないしっ かりとした運動設備である.それ故に,地方(Land)では体育館を付設する努力をしてい かなければならない.少なくとも新しい学校を作る時には以下の点に注意を払う必要があ る」(Burger und Groll, 1949, p.164)としていた.地方における体育館の付設を力説し, また新規に学校を設置する際には体育館の付設が必須となってきていた.教本におけるこ のような説明は,先述したように地方であったザルツブルク州における体育館の付設状況 と符合する.

そ し て 上 記 の 引 用 の 直 後 に は , 以 下 の よ う な 記 述 が 続 く (Burger und Groll, 1949, p.164). 体育館の標準規格は 15m×25m で,高さは 6.5m,これはおよそバスケットボール のフィールド(14m×26m)に相当する.最低でも 9m×16m,高さ 5m は必要で,お よそフェルカーバル(Völkerball)のフィールド(8m×14m)を基準とする.使いや すさのためには器具庫を欠いてはならない.室内は明るく,換気よく,できれば観音 開きの扉をもち,外の遊戯場とつながっていることが望ましい注11) これが「少なくとも新しい学校を作る際に注意を払う点」であり,体育館の規格であった. この規格から斟酌すると,体育館はバスケットボールなどのボールゲーム実施にも十分耐 えうるように考えられていたことがわかる.つまり,体育館はボールゲームの実施に対応 した施設として想定されていたと考えられる.これにほぼ相当するのは,先述の視察報告 書によればシュタイアーマルク州の連邦師範学校に付設されていた体育館だけであり,教 本の記述と実際の体育館の状況との間には乖離があった. だが,教本には,こうした状況への対応もしっかりと記され ていた.すなわち「体育館 をもたない多くの学校にとって,年が移行する時期(晩秋から初春)は体育活動に対する 大きな障害となっている」(Burger und Groll, 1949, p.209)と記し,視察報告書が明ら かにしている状況を把握していたことがうかがえる.ゆえに教本には,「体育館をもたな い学校は,ただ一時しのぎに利用可能な屋根に覆われた運動場を考えるより仕方がない」 (Burger und Groll, 1949, p.209)と,その対応策がしっかりと記されていた.それはす

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なわち「食堂,空いているバラ ック,空いている教室など」の活用,さらに「最悪の場合, 農家から許可を得て納屋の中で体操や運動をしたり,あるいは学校の階段の踊場や出入り 口での代用的な運動」(Burger und Groll, 1949, p.165)の指示であった.

3.運動内容をめぐる問題

先述したように,十全でない体育館の状況から「教室体操」や「分体操」など,狭い室 内でも可能な簡易な運動が実施されていた様子は視察報告書にも頻繁に記されていた. では,こうした運動内容について,教本にはどのように記述されていたのであろうか. まず,教本には「教室体操」(Burger und Groll, 1949, p.209)という記述が見られる が,「分体操」という記述はない.しかしながら,教本には「10 分間体操」(Burger und Groll, 1949, p.165)という記述が見られることから,以下では「分体操」と「10 分間体 操」を同一の運動内容と捉えて検討を加える. 教本には,「教室体操は現代的に言えば,本来的に全く体操と呼ぶに値しない.もし教 室体操が教師の教育的良心を惑わしているのであればやらない方がましである」(Burger und Groll, 1949, p.209)と否定的解釈が記されていた.また「10 分間体操」も「古くさ い徒手体操(Freiübungen)は教育的刺激なしの感動的芸術である.にもかかわらず器用 な教師らは毎日,10 分間体操を実施し,子どもたちを楽しませることができる .ただ教師 らはこれで体育の授業としての責務を十分に果たしているとは思っていない」(Burger und Groll, 1949, p.165)というように同様な否定的解釈が示されていた.つまり,これら 二つの運動内容実施は,教本を執筆したブルガーとグロル,さらには現場の教師らにとっ ても本意ではなかったことがわかる.その理由は実施場所にあったのではなく,古くさく, 現代的でなかったことにあった. Ⅵ 結語 1950 年前後におけるオーストリアの体育において,「外的環境の破壊」と「身体運動の 実施状況」はどのような関係にあったのか.ホルツハッカーの研究は,ウィーン市を事例 に体育館の状況を明らかにしつつ,二つの文献に依拠しながら体育の実施状況を推測的に 述べていた.この成果を参考にしながら,本研究では,まず 1950 年前後,連邦教育省に 届けられた視察報告書の発掘に取り組み,その概観を説明した.しかしながら,視察報告 書の記述内容は一律ではなく,本研究においてはオーストリア全 8 州のうちの 5 州とウィ

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ーン市の状況を明らかにしたに過ぎず,全州を網羅することはできなかった.だが,5 州 とウィーン市における体育館の状況を 1950 年前後まで明らかにできたことは,ホルツハ ッカーの研究にはない,本研究独自の成果である.オーストリア 5 州とウィーン市の多く の体育館が爆撃などによる戦争の直接的物損被害から 5 年以上も経て未だ手つかずの状態 にあったこと,このような状況が続いていたということは,改めて体育・スポーツ施設の 復興と体育の授業の再開にいかに年数を要していたかを物語っている.そのほかにも映画 会社による接収により使用できな い体育館や,暖房器具が不充分な体育館,ボールゲーム に適さない構造や規模の体育館などの存在が明らかとなった.さらには,そもそも体育館 が付設されていなかったのではないかという可能性も見えてきた.このように 1950 年前 後における体育館をめぐる状況は様々であったが,体育館での体育の授業が十分できてい なかった事実は皆,同一であった. 一方,ホルツハッカーが二つの文献に依拠しつつ,推測の域からの説明にとどまってい た体育の実施状況を明らかにするために,本研究では,全オーストリアの体育の状況を俯 瞰的に把握し,実践に即した指導指針として機能したと考えられる教本『体育』(1949) を手がかりに検討した.教本によれば,1949 年当時,体育館はどの学校にも必要な体育施 設に位置づけられていた.にもかかわらず現状は厳しく,当時,体育館をもたない,ある いは使用できない学校が数多く存在していた事実も把握した上で,教本の中には,そのよ うな厳しい環境下にあった学校でも実施できる「代用的な運動」が明記されていた.それ がすなわち「教室体操」や「10 分間体操」などであった.このあたりの体育館と運動内容 の関係性は,視察報告書が伝えている史実とほぼ一致 し,教本が当時の状況を的確に把握 した上で編集されていたことを裏付けている.また,教本には,これらの「代用的な運動」 で,教師らは子どもたちを十分に楽しませる技量を有していたが,その一方で,果たして これが体育の授業と言えるのか,現場の教師らが苦悩していた様子も記されていた.「外 的環境の破壊」という厳しい状況下においても,何とかして実施可能な運動内容を用意し, 子どもたちを楽しませようとした研究者や現場教師らの姿勢が伝わってくる.しかしなが ら,「代用的な運動」の実施が続くこと,それはすなわち指導要領から逸脱した体育 の授 業の継続を意味しており,1950 年前後におけるオーストリア体育をより鮮明に描き出して いると言えよう.たとえ指導要領が法的に整備されたとしても,そこに施設や設備の問題 や教員の問題などの解決が伴わなければ,「体育に対する不都合な諸条件」の解消には至 らないことを刻印づけている.

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最後に 1950 年前後のオーストリアの体育館の状況について,視察報告書に散見された 「付設なし」 という記 述に基づ きながら ,今後 の課題につい て言及し ておきた い.1920 年代のザルツブルク州における国民学校生活に関するある回想録には,「体育 館がなかっ たので,秋や春の体育には快晴が不可欠であった」(Passrugger, 1992, p.170)と記され ている.これはつまり,1920 年代,オーストリアでは学校に,あるいは学校周辺に体育館 がなかったことを伝えている.この回想録に鑑みると,十分でなかった体育館付設状況は, 単に 1950 年前後に限定された問題ではなく,そしてまた戦禍による破壊という外的要因 に帰する問題でもなく,1920 年代から継続しているオーストリアの体育を覆う慢性的な問 題であった可能性も指摘できる.もとより体育館付設には多額の公的資金 が必要とされる が,こうした財政面の問題を抱えていたために,体育館付設状況の悪化を招いていたのか. このあたりも含めた解明が今後の大きな課題である注12 付記 本研究は,教育史学会第 57 回大会における口頭発表時の配付資料を加筆・修正し たものである.なお,本研究は JSPS 科学研究費助成事業(基盤研究(C)23500685) の成果の一部である. 注 注 1) 本研究ではイギリス,フランス,アメリカの連合 3 ヵ国による西ドイツ占領終結を 根拠とし,1952 年とした。 注 2) 連合 4 ヵ国占領下オーストリアの体育をテーマとした研究(鈴木,2015)やナチス 期オーストリアの体育をテーマとした研究(Müllner, 1993)も僅少ながら存在す るが,体育施設や体育館の状況については明らかにされていない. 注 3)体育の授業にとってオーストリアの天候がいかに厳しかったか.オーストリア全州 72 ヵ所の地点から収集された 1955 年から 60 年までの気温や降水量の記録に基づく 報告があるので手短に示しておきたい(Keimel, 1962).その報告によると,日中 の外気温-5℃以下は全 72 ヵ所で記録されており,最少でも平均 9.0 日(ブルゲン ラント州ドイチェクロイツ(Deutschkreuz)),最多で平均 38.0 日であった(ザル ツブルク州ラートシュタット(Radstadt)).降雪を含めた 1mm 以上の降水量も全 72 ヵ所で記録されており,最少で平均 43.5 日(ニーダーエスタライヒ州レッツ (Retz)),最多で平均 112.6 日であった(オーバーエスタライヒ州ハルシュタッ

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ト(Hallstadt)).そして低温や降雪,降水で授業ができなかった日は最少で平均 55.5 日(ニーダーエスタライヒ州ブリュック/ライタ(Bruck/Leitha)),最多で 平均129.3 日(ニーダーエスタライヒ州ルンツアムゼー(Lunz am See)),全州平 均ではおよそ 91.9 日にも及んでいた. 注4)「体育館」に相当するオーストリアのドイツ語表記は"Turnsaal"であり,ドイツでは "Turnhalle"と表記される(Ebner, 2009, p.384).本研究で引用したオーストリア の資料や文献の表記はほとんどが"Turnsaal"(複数形で"Turnsäle")であった. 注 5)資料に基づいて本研究で取りあげる当該時期のオーストリアにおける教育制度及び

学 校 種 に つ い て , そ の 概 要 を 以 下 に 示 し て お き た い (Burger und Groll, 1949, pp.178-181). ・国民学校(Volksschule):6 歳から 14 歳までの 8 年間(Pflichtschule:義務教育 学校)で,10 歳の時点で進路選択がなされる. ・基幹学校(Hauptschule):10 歳から 14 歳までの 4 年間. ・中等学校(Mittelschule):10 歳から 18 歳までの 8 年間. ・ギムナジウム(Gymnasium):10 歳から 18 歳までの 8 年間. ・師範学校(Lehrerbildungsanstalt):14 歳から 19 歳までの 5 年間. 注6)ここで言う「付設なし」という日本語訳は原典資料の"kein Turnsaal",あるいは "nicht vorhanden"という表記をもとにしている."vorhanden"には,二通りの解釈 が考えられ,一つは,「現存する」で,もう一つは「以前は存在したが,現在は存在 していない」である.原典資料を読み込んでも両者の相違をつかむことはできなかっ たが,本研究では「付設なし」と訳すこととした.どちらにせよ体育館が使用できな いという事実は両者共に同じであり,本研究の課題解決を左右することはない.一方, 「使用不可」という訳は,"nicht zur verfügung"(使用できない)という原典表記を もとにしている.そのほかの日本語訳には,表中に括弧書きで原典表記を記した. また,表2 に示したように「得ようと努めている(angestrebt)」,「すぐ近く にある(unmittelbar Nähe)」,「欠いている(fehlt)」と報告された学校が 3 校 あるが,これらも「付設なし」として数えた. 注7)さらにその後,ザルツブルク州の体育館は 1966 年から 68 年の調査で合計 136 を数 え,1976 年から 78 年の調査では合計 258 に達し,56 年から 57 年の学校総数を上 回るまでになっている(Andrecs, 1983, p.455).

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注8)当時のオーストリアには,知的障害児のための学校(Hilfsschule)と心身障害児の ための学校(Sonderschule)があったが,本研究ではどちらも「特別支援学校」と した. 注9)フルークバルのルールは全 8 ヵ条,5 ページからなり,総文字数は 1108 語である. ルールブックのタイトルは"Flugball(Volleyball)"と表記されており,またルール の内容を見ても,フルークバルとはバレーボールであることがわかる

(Nationalsozialistischer Reichsbund für Leibesübungen,1942). 注10)1981 年に稲垣は,グロルとブルガーによって 1971 年に公刊された

Leibeserziehung. Historische didaktische, Methodische, organisatorische Grundlagen der Leibeserziehung an den Schulen. Österreichischer

Bundesverlag.のうち,第 1 部にあたる Historische didaktische Grundlagen der Leibeserziehung を『体育の教授学』と題して邦訳,公刊しているが,その中で 1949 年の教本『体育』について若干言及しているに過ぎない . 注 11)体育館の縦の長さが「25m」と表記されているのに対して,バスケットボールのフ ィールドの縦の長さが「26m」と表記されているのはそぐわないが,おそらくは両者 を取り違えた誤記と思われる. 注12)体育館の付設状況の問題は,1920 年代や 1950 年前後だけではなく,1970 年代ま で続いていた可能性もある.試みに,その後改訂された教 本の1971 年版を見ると, 「義務教育学校のスポーツ施設は残念ながらオーストリアは未だに『発展途上国』で ある」(Burger und Groll, 1971, p.394.),「私たちは学校であらゆる身体運動が できるように『総合体育館(Kombinationshallen)』を必要としている」(Burger und Groll, 1971, p.395.)と記されている.体育館の付設と運動内容をめぐる問題は 1950 年前後のみならず,その後,スポーツを含む「あらゆる身体運動」へと拡大し ながら1970 年代まで続いていったと考えられる.

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表 1 連 邦 教 育省 へ の 視 察報 告 書 簿 冊数 一 覧 : 1945 年~ 1953 年 年 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 合計 冊 数 2 3 0 1 3 11 23 16 7 66 連 邦教 育 省 文 書 〔 17A-IN/GRE, 1945-1953, AdR, K1860〕を も と に作 成 . 表 2 1950 年 ザ ルツ ブ ル ク 州に お け る 体 育館 付 設 状 況 学 校名 視 察年 月 体 育館 の 状 況 ウ ンケ ン 国 民 学 校 1949年 10月 付 設な し (nicht vorhanden) プ ライ ン シ ュ ト ラッ セ 国 民 学校 1950年 1月 使 用不 可(nicht zur verfügung) シ ュバ ル ツ シ ュ トラ ッ セ 女 子国 民 学 校 1950年 2月 使 用不 可(nicht zur verfügung) レ オポ ル ス ク ロ ンモ ー ス 国 民学 校 1950年 2月 付 設な し(kein Turnsaal)

ゴ ルデ ン シ ュ タ イン 私 立 女 子基 幹 学 校 1950年 2月 得 よう と 努 め て いる ( angestrebt) モ ルツ ク 国 民 学 校 1950年 3月 す ぐ近 く に あ る ( unmittelbarer Nähe) ア ニー フ 国 民 学 校 1950年 3月 欠 いて い る ( fehlt)

ザ ルツ ブ ル ク 特 別支 援 学 校 1950年 5月 使 用不 可(nicht zur verfügung) ハ ライ ン 女 子 基 幹学 校 1950年 6月 使 用可(zur verfügung) ホ フ国 民 学 校 1950年 6月 付 設な し (kein Turnsaal)

BMfU(1950a) Zl.35851/IV/18/50; Landesschulrat für Salzburg, Wahrnehmungen bei der Inspektion der Volks - und Hauptschulen. を も とに 作 成 .

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表 3 1951 年 ザ ルツ ブ ル ク 州に お け る 体 育館 付 設 状 況 学 校名 視 察年 月 体 育館 の 状 況 リ ーフ ェ リ ン グ 国民 学 校 1950年 12月 付 設な し (kein Turnsaal)

プ ライ ン シ ュ ト ラッ セ 男 子 基幹 学 校 1951年 1月 使 用不 可(nicht zur verfügung) ベ ルグ ハ イ ム 国 民学 校 1951年 2月 付 設な し (kein Turnsaal) プ フ国 民 学 校 1951年 2月 付 設な し (nicht vorhanden) グ リー ス ガ ッ セ 女子 基 幹 学 校 1951年 3月 使 用可 (Vorhandensein)

BMfU(1951a) Zl.36.306-IV/18/51; Landesschulrat für Salzburg, Wahrnehmungen des Landesschulinspektors bei der Inspektion der Volks- und Hauptschulen. を も と に 作 成 .

表 4 1950 年 ウィ ー ン 市 にお け る 体 育 館付 設 状 況

国 民学 校 基 幹学 校 特 殊学 校 合計 体 育館 を 付 設 し てい る 学 校 ( schuleigen) 170 103 12 285 他 校の 体 育 館 を 使用 し て い る学 校 ( fremd) 82 40 10 132 BMfU(1951e) Zl.78.049-IV/18/51; St.Sch.R.für Wien, Berichte der Landesschulinspektoren und

Fachinspektoren über die Volks -, Haupt- und Sonderschulen. を も と に 作 成 .

表 1  連 邦 教 育省 へ の 視 察報 告 書 簿 冊数 一 覧 :1945 年~ 1953 年     年 1945  1946  1947  1948  1949  1950  1951  1952  1953  合計  冊 数     2      3      0      1      3    11    23    16      7    66  連 邦教 育 省 文 書 〔17A-IN/GRE, 1945 -1953, AdR, K1860〕を も と に作 成 . 表 2  195
表 3  1951 年 ザ ルツ ブ ル ク 州に お け る 体 育館 付 設 状 況                                                         学 校名 視 察年 月 体 育館 の 状 況                                                                                                            リ ーフ ェ リ ン グ 国民 学 校1950年1

参照

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