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[A History of the Burma Army(Part 1)]

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全文

(1)

東 南 ア ジア研 究 8巻21号 1970年9月

資料 ・研究 ノー ト

ビ ル マ 国 軍 史

(

その

1)

徹 *

A Hi

s

t

or

yoft

heBur

mes

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my (

Pa

rt1)

by

Tor

u

O HNO ま え が き 本 稿 の 目的は, ビル マ国軍 の沿革 と現状 とに焦 点 をあ て る ことに よって, 国軍 の歴史 を概 観 す る ことにあ る。 こ うした歴 史 的探 求 は

,1

962

年 以降 ビル マの政 治権 力 の中枢 に あ って国家形 成 の原動 力 と しての機 能 をはた してい る 「ビル マ革 命評議 会」 の分析 に もつ なが り, さ らには ビル マ現代 史 の一端 を解 明す る ことに も結 びつ くと思 うか らで あ る。 あ らゆ る要素 が複雑 にか らみ あ って様 々な形 態 を皇 しなが ら形 づ くられ てゆ く歴 史 の中か ら 一 つ の問題 だけ を抽 出 した ところで, それ は決 して全 体 を僻撤 し得 る よ うな巨視 的 な史観 を提 供 して くれ は しな い。 そ うした観 点か らす れば現象 内部 の相 関 関係 に こそ重 点が おかれ るべ き で あ り,

s

ync

hr

oni

c

な分析 の重要 性 が改 め て認 識 され る ことに もな るで あ ろ う。 だが一方 で は, 一 つ の問題 点を

di

a

c

hr

oni

c な立 場 か らと らえそれ を 意 識 的に 掘 りさげ る ことに よって, 従来 察知 され得 なか った 因果 関係 を新 たに究 明 し得 る可能性 もあ る ことが考 え られ る。 筆 者 はそ うした立場 を と りた い と常 に念 じては い る ものの, それ はか な らず Lも本 稿が ビル マ国軍 史 のすべ てを網羅 した総 括 的 な ものにな ってい る とい うこ とを意味 しは しない。筆 者 と しては, 国軍 史 を一 つ の視 点 と して と りあ げただけで あ り, ビル マ現代 史解 明のため の資料 の 提 示 とい うわ くを大 き く逸脱す る もので は決 してない。本 稿 は, そ うした意識 の下 に ま とめ ら れ た きわ め て不 完全 な 「資料研 究 ノー ト」 にす ぎない もので あ る ことを, あ らか じめお断 りし てお く。 *大阪外国語大学 ビルマ語学科 218

(2)

大野 :ど/レマ国軍史 (そUJ1) l 王 朝 時 代 の 軍 隊 ビル マ史 の時 代 区分 につ い ては筆 者 な りの見 解が まだ十 分 に確 立 され ていな い し, またそれ を論 じるのが本 稿 の 目的で もな い ので ここで は割 愛 す るが

,(I)

王朝 時代 (A)植 民地 時代 (m)独 立 国時代 の三 つ に 大 別す る ことは認 め られ る と思 う. 国軍 史 もまた, そ うした時代 区 分 に 準 じて分割 記 述 す る こ とが 可能 で あ る。. も -)と も,

(

刀)

と (Ⅲ) の間 に独立 志 向時 代 , あ るいは反 英 独立 運 動 期 とで も称 す べ き章 を新 たに設 け る必 要 は あ るが 。 今 日の ビル マ国軍 が, 王 朝 時 代 の ビル マ軍 と直接 の関 わ りを もつ もので ない ことは 言 うまで もない。 けれ ども,「国軍 史」 とい う観 点か らす れ ば, 王 朝 時代 の軍 隊 もまた , 十 分 に本 稿 の 対 象 とな り得 る存 在 で あ る。 (1) 軍 隊 の規 模 時代 を遡 るに つれ て実 体 が不 明瞭 に な るのは 資料 に限 度が あ る以上 やむ を得 な い。 ビル マ語 の文 献 上 は じめ て軍 隊 が姿 を現 わすG7つは, パ ガ ン時代 に な -)てか らで あ る。 もち ろん

,1

0

世紀 前 に この他 に栄 えた ビ ュー族 や モ ン族 の国 に も軍 隊 が存 在 してい たで あ ろ うこ とは推 測 に難 く な いけれ ども, 資料 の上 で それ を確 認す るのは著 し く困難 で あ る。 パ ガ ン時代 の ビル マ軍 に 関す る最 初 の記 述 は, 西紀

1

057

年 に タ トン国 の マ ヌ-- -王 を改 め た 時 の ア ノ- ヤ クー (碑文 名 7-ル ッ ドノ、)1)王 の 軍 勢 で あ る。 この軍 の規模 につ い て

1

9

世紀 に 編纂 され た L・フマ ンナ ン年代 記

は, 次 の よ うに述 べ る

2

)

水軍 兵

8,

0

0

0

方 舟

8

0

万 陸軍 兵

1,

8

0

0万

象 80万 一E.

与 8

0

0万

陸軍 の兵 力 を現 わす ビル マ語 gade shittanを ta-gade(千 万)

+

shittan(8

)i)と解釈

:

f

l

,

8

0

0

万 で あ るが, gadexshittan と解釈 すれば

8

0

兆 とい う膨 大 な数 に な る。 フマ ンナ ン年 代 記 が そ の 内容 の大 半 を 依 拠 した3)と言 われ る

1

8

世 紀 編 纂 の り一 ・カ ラ-の F大 年 代記 :]4)で は, そ の数 は 次 の よ うに示 され ,7J。 水軍 兵

3,

0

0

0

万 舟

8

0

万 陸軍 兵 1

8

0

力▲

80

0万

象 , 馬, 舟の数 に つ い ては両者 一 致 す るけれ ども, 兵 員数 に つ いて∴押領者 の問 に喰 し、違 い//. 見 られ る。 水軍 兵 力 の差

5

千 万 も決 して小 さな数 で は な いが, 陸軍 のほ うは比較 に な らな いほ ど巨大 な差 を示す 。陸 軍 兵 力 を現 わす ウ一 ・カ ラーの表 現 は gade ta-1lSeで あ るが, これ

は-1)U Mya (1961)pp.3-16;Dr.Than Tun(1969)pp.2-3.

2)Hmannan Yazawin(1963)Vol.Ⅰ,p.247;TheGlassPalaceChronicles(1960)p.77.

3)U TビtHtoot(1962)p.54;Tin Ohn(1962)p.87;TheGlassPalaceChronicles:Introduction,

p.xv;荻原弘明 (歴史教育)p.67. 4)MahaYazawindawgyi,Vol.Ⅰ,p.181.

(3)

東南 アジア研究 8巻 2号 般 に

gade

(千 万)

×t

ahs

e

(

1

0)

,す なわ ち

1

億 と解釈す るのが普通で あ る。5) これ を仮 に, フ マ ソナ ン式 に

ga

de+t

ahs

e

とす れ ば

1

千万

1

0

とな り

,1

0

とい う奇妙 な端数 がつ くこ とに な る。 いず れ にせ よ, この数字 が tt白髪 三千 丈" 的 な表 現で あ る ことは疑い の余 地 が ない。仮 に, フマ ンナ ンを基 に水 ・陛両軍 の兵 力を

9

8

官 万 と見積 った ところで

,1

1

世 紀 中期 の ビル マの 人 口は, 少 な くとも

2- 3

億 はあ った とい う勘定 に な る

。1

8

24

年 の人 口

4,

0

00

万6)

, 1

7

9

6

8

0

0

万7)

,1

8

5

5

3

(

氾万8)とい った個人 的 な推 測 は別 と して も, ビル マの人 口は

1

96

0

1,

92

6

万9),

1

97

0

2,

7

5

8

万10)とい う数字 を示 してお り,

1

億 には まだ まだ は るか に遠 い のが現状 で あ る。 ウ- ・カラ-の別書 『ヤ -ザ ウ ィソヂ ョウ』11), お よび り- ・カ ラ-に先立 つ

1

5

世紀 の史書, マ- -テ ィー ラウ ソタ僧正 の 『ヤ -ザ ウ ィソヂ ョ-』12)にな る と, こ うした記述 はい っさい見 られ ない。従 って, フマ ンナ ン年 代 記 お よび ウ- ・カラ-大年代記 の数 字 が, い った い何 に基 づ いた ものな のか よ くわか らない。 緬 紀

64

3

年 (

1

2

81

AD)

に行 なわれ た ビル マ軍 と元軍 との戦 闘で は, 双方 の兵 力が次 の よ う に示 され る。13) ビル マ軍 兵 力

4

0

万 元軍 騎 兵

6

0

0

万 歩 兵

2,

0

0

0

万 一万, マル コ ・ポ - ロの記述14)に よる と,彼我 の優 劣が全 く逆 にな る。 ビル マ軍 騎 兵,歩 兵 6万 位担 軍 騎 兵

1

2

千 この時 の戦 いで は ビル マ軍 が敗北 してい る。 勝 敗 が兵 力 の差 に のみ あ るわ けで はな いに して も, ビル マ語文 献 の数 字 はやは り大 きす ぎる。 ちなみ に, ビル マ語 碑文 に よる と元 の兵 力は

2

万15)で あ った。 そ して 『元 朝征緬 録』 お よび 『元 史緬 伝』16)に よる と, 至元

1

4

3

月 の征 緬 で は呼 図亮, 信五 日,

爾 和達 な どの元軍 兵 力はわず か

7

0

0

人, これ に対す る緬 軍 は兵

4- 5

万, 象

8

0

0, 馬 鹿匹 とあ る。 この よ うに 資料 ご とに数 字 が異 な るので,緬 ・漢 いずれ の数字 が正 し い のか判 断す るのは容 易で ない。

5)参考までに言 うと, 日本の人 口も, ビルマ語では gadetahseで現わされ る。Than taya,すなわち百 万 ×百で現わされ ることもある。 6)∫.Crawfurdの推計。 7)Hiram Coxの推計。 8)Henry Yuleの推計。

9

)

ビルマ字 日刊紙 「オウウェー

」1

9

6

0

.9

.2

.

1

0

)

ビルマ字 日刊紙 「ロウターピイ ドゥ

-

」1

9

7

0

.1

.1

3

.

ll)U Kala:Yazawingyok

1

9

6

5

.

1

2

)

Shin MahaThilawuntha:Yazawingyaw

1

9

6

5

.

1

3

)

Hmannan,γol.Ⅰ,p.

3

5

2;

GlassPalace,p.

1

7

3;

Huber,p.

6

4

9;

荻原弘明 (第

5

部)p.

1

8

.

1

4

)

MarcoPoloby Henry Yule;by Pauthier;Masefied;G.E.Harvey,pp.

6

5

-

6

6

.

1

5

)

ThanTun:Ngachoa khyam,p.

2

.

(4)

大野 :ビル マ国軍史 (その1) ミイ ソザ イ ソ (木蓮城 ) の シ ャン族三 兄弟 の鼎立時代 (緬紀

6

6

2

,1

3

0

0AD)

に行 なわれ た元軍 とシ ャン軍 との戦 闘で は,元 の兵 力が次 の よ うに17)に示 され る。 元軍 兵

9

0

万 一万, これ に対 す る シ ャン軍 の兵 力は,大 徳 3年 8月 の大 公城総 管 「細 豆」 の上奏文一8)に よ る と次 の よ うに な る。 シ ャン軍 兵 3万 これ も,彼 我 の兵 力間 に 開 きが あ りす ぎる。 この大 徳年 間 の征緬 (正確 には征 シ ャン)は, 結 局,元 側 の失敗 に帰 してい る19-ことか らみ る と, ビル マ側 の文 献 の数字 がか な り誇張 さ,itた もので あ る ことは疑 いない。 緬 紀

7

4

8

年 (

1

3

8

6AD)

, イ ソワの ミソヂ ース ヮー ソー ケ-王 が クライ ン王 ヤ ーザ ダイ ッと戦 った時 の軍勢 につ い て, ビル マ語文献20)は次 の よ うに伝 え てい るo

(

A)

(B) (C) タ ウ ングー路

9

軍 兵

7

5

5

軍 ク-ヤ - ワデ ィ一路 9軍 兵 6万 5軍 4軍 やは り文献 相互 間に喰 い違 いが見 られ る. 文献(B)と (C)で は1軍 あた りの兵 力が 明 らかで な いが,負)に よる と

1

軍 は平均 して兵

7

千 ない し

8

千 で編成 され ていた ことにな る。 緬 紀

8

9

9

(

1

5

3

7AD)

- ソクー ワデ ィーのモ ン軍 を攻 撃 した時 の タ ビ ンシ ュエ テ ィー王 が ひ きいた ケー トゥマテ ィ- ・タウ ング-の ビル マ軍。21) 陸軍 騎 兵

4

軍 本 隊

9

軍 兵

7

万 水軍 戦艇

2

0

0

7

軍 兵

1

緬紀

9

2

6

年 (

1

5

6

4AD)

チ ェンマイ征 拝 に 向か った時 の シ ソピ ュ-シ ソ (/ミイ ンナ ウ ソ)∃--_ 配下 の軍勢.22) 親藩軍

8

軍 兵

8

万 シ ャン族土 侯軍 9軍 兵 9万 近衛軍 4軍 兵 4万 計 21軍 兵 21万 この頃 に な る と 1軍 あ た りの兵 力が よ うや く明確 にな って くる。 親藩, シ ャン族土 侯,近衛 各軍 とも, そ の編成 は1軍 あた り兵 1万ず つで あ る。 ク ビソシ ュ- テ ィー王 の後 を継 いだ パイ ンナ ウ ン王 は, ビル マ人兵士 のほか に タライ ソ, シ ャンな どの被 征服 民族 お よび ポル トガル人

17)Hmannan,Vol.I,p.365.

18)『元 朝征緬録』;白鳥 芳郎 「元 朝 征緬 録 に見 えた るシ ャン族 の動向」 p・100・ 19)山本達郎 「元の緬 毎経略」p.944.

20)文献伍)は Hmannan,Vol.I,pp.417-8;(B)は NaiPanHla,p.154;(C)は Binnyadala,pp.114-5. 21)Hmannan,γol.ⅠⅠ,p.194;Sein LwinLay,p・219.

22)HsinbyushinAyedawI〕on,p.364.

(5)

東 南 ア ジ ア研 究 8巻2号 傭 兵 を含 め , 実 に

1

0

万 の軍 隊23)を指 揮 して いた 。 緬紀

11

17

(

1

7

55A D)

(A

)

1

0

隊 水軍

1

0

隊 本 隊

2

0

隊 緬紀

11

47

年 (

1

7

85A

D) メル ギ ー路 タ ポイ路 チ ェ ンマ イ路 マル タバ ン路 (

I)

マル タバ ン路 (

Ⅰ)

マル タバ ン路 (m) 本 隊 ラ ン グー ンに 向か った ア ラ ウ ソ ミンクヤ - ヂ -の ビル マ軍。24) 兵

1

万 兵

7

(

B

)

1

5

千 陸 軍

1

1隊 兵

2

万 水 軍

1

0

隊 兵

1

万 本 隊

2

0

隊 兵

2

万 アユ タヤ を攻 撃 した 時 の ボ ウ ド-パ ヤ ー王 配 下 の ビル マ軍。25)

1

0

隊 兵

1

1

0

隊 兵

1

29

隊 兵

3

1

1隊 兵

1

1

1

2

隊 兵

1

2

1

1隊 兵

1

1

4

0

隊 兵

5

万 馬

1

千 (兵

3

万 ) 馬

1

千 (兵

3

万 )

3千 (兵

3

万 ) 馬

1

1

00

ラ- イ路 (兵

3

万 ) 馬

1

2

00

クー ライ路 (兵

1

0

万 ) 馬

1

1

00

5

千 コ ソノミウ ンゼ ッ年 代 記 の記 述 に よれ ば , 合 計

1

23

隊 , 兵 員総 数

1

3

4

千 とい うこ とに な る.26) 各 隊 と も原 則 と して1隊 千 名 の割 合 で 編 成 され てお り, コ ンパ ウ ソ時 代 に は 編 隊 様 式 が イ ソ ワ 時 代 , タ ウ ン グー時 代 とは 異 な って きた こ とを 示 して い る。 緬紀

11

85

年 (

1

823A

D)お よび 翌

86

年 , ア- チ ボ ール ド ・キ ャ ンプベ ル指 揮 下 の英 国軍 と戦 った ビル マ軍 の兵 力。27) ダ ニ ヤー ワデ ィー路 コー ク- 1)一路 - ソター ワデ ィー路 タ ウ ン グー路 ダ ヌ ビ ュー路 タ ウ ン グー路 司 令 官 マ- -バ ン ドゥー ラ

1

0

隊 兵

5

千 司令 官 マ- ーテ ッ トー シ ェ-

1

0

隊 兵

2

千 司令 官 ミソマ -司 令 官 ダ ニ ヤ- ワデ ィー王 子 司令 官 タ- ヤ ー ワデ ィ-王 弟 司令 官 タ ウ ン グ-王 弟 この時応 戦 した英 軍 の兵 力は , 当 初 次 の とお りで あ った .28)

(I

) 第

1

3,

38,

41,

89

各 マ ドラス欧 州連 隊 兵

6

00

1

6

00

L

./ ソ

2

3

)

Desai,p.

6

8

.

2

4

)

文献(A)は Alaungmi n TayagyiAyedawbon

,p.

9

0;

(B)は KonbaungzetYazawin,Vol.I

,pp.1

6

ト3

.

2

5

)

Konbaungzビー,γol.ⅠⅠ

,pp.

2

3

-

4;

か っこ内の兵員数は Zeya

,p.

8

8

.

2

6

)

フェアーに よれば, この時 の軍勢は

6

1

0

万人o A.Phayre:HistoryofBurma

,p.

2

1

6

;-ーベイに

よれば,チ ェンマイ,モール メソ, タポイ, メルギー経 由の 4軍.G.E.Harvey:HistoryofBurma,

p.2

7

0

.

2

7

)

Konbaungzet,Vol.ⅠⅠ

,pp.3

6

5

-

7;1

8

2

4

年のカチ ヤール進 撃 におけ るビルマ軍兵力 は

6

千, うち

2

千 は ビルマ人,他はア ッサムお よび カチ ャ-ル人であ ったO ゲイ ト著 『ア ッサ ム史』第

1

4

章.

2

8

)F.B.

Doveton

,p.

6

.

2

2

2

(6)

大野 :ビル マ同軍史 (その 1)

(

Ⅱ)第

3,

7,

9,

1

2,

1

8,

34,

4

3

マ ドラス連 隊 (Ⅲ)第

2

0

ベ ンガル土 民 歩兵 隊 そ の総 兵力

は 1

万 39)で あ る。 緬

紀1

24

7

年 (

1

8

85A

D)

第三 次英 ・緬

争 当時 の テ ィ-ボ -王 配下 の ビル マ′EpTt-。30) 司令 官 テ ィ-イ マ- -ゼ -ヤチ ョ- テ ィン 司 令官 コー リン領 主 司 令官 ミェー ドゥ一節 主 司令官 ピ ソ レー領 主 司令 官 マ- 一 夕 メイ ンペ ー ピ ㌣ツサ ー 司令 官 サ レ-領 主

7

隊 兵

3,

1

0

0

7

隊 兵

3,

37

(

)

3隊 兵

1,

2

5

(

)

4

隊 兵

1

,

6

2

5

5

隊 兵

2,

7

(

)

0

9

隊 兵

3.

3

(

1

0

王 国最 後 の ビル マ軍 は, 実 に

1万 6

千 た らず の兵 力 しか も 一つていなか った ので あ る。 (2) 軍 隊 の階 級 お よび組 織 王 朝時代 の ビル マ軍 の階 級 に つ い ては じめ て 明 らか に され るのは, パ ガ ン時 代 のナ ラパ テ ィ - シー ト クー王 の統 治時 代 か らで あ るLl ビル マ語 の年代 記31)は, それ を 次 の よ うに述 べ る〔 -(1) 歩 兵 (2) 騎 兵

1

0

回 以上 の戦 闘に参 加 した歩 兵 (3) 象 兵

1

0

回 以上 の戦 闘 に 参加 した騎 兵 (4) 舟 兵

1

0

回 以上 の戟 間 に参 加 した 象兵 (5) 城 砦指 揮 官

1

0

回 以上 の戦 闘に参 加 した舟 兵 この こ とか ら, パ ガ ン時代 の ビル マ軍 に は, 少 な くと も歩 兵 ,騎 兵 , 象 兵, 舟兵 , 指揮 官 の 区 別 が あ り, そ の身分 は, も っぱ ら戦 闘経験 に基 づ い て認 定 され ていた ことが わか るO も つと も歩 兵 か ら城 砦指 揮 官 まで昇 進す るに は最低

4

0回

の戦 闘 を経験 しなけれ ば な らな いか ら,実 際 の運 用は こ うした制 度 とは 別に あ -つた もの と考 え られ る。 なお, 象 兵 とは象 に乗 る ことが, 舟 兵 とは舟 に乗 る こ とが認 め られ る軍 人 の ことで ,一 般 に村 長 格 の待 遇 を受 け た。 また城 砦指

官 は兵

L

I

O

0

人 以下 の城 砦 の指揮 官 で あ った。 イ ソワ時 代 に な る と,騎 兵 のほか に析 兵 , 弓兵32)な どの専 門職 が

われ る。 そ して, コ ンパ ウ ソ時 代 に な る と,歩 兵 ,舟 兵 ,騎 兵,

兵 和 まか に,近 衛 兵 ,守 備 兵 ,監 視 兵33)とい ′'た常 備 兵 も出現 した。 厳 密 な意味 で の 「階 級_上 土,

1

6

世紀 ごろか ら明 らか に な -)て くる。 緬 紀

9

2

6

年 (

1

564AD)

29)1824年 5月,ラングーンに向か ったキ ャンプベル将軍

揮下の軍は,ベルガル,て ドラス2個師団兵員 1万1千 5百であった.Phayre,p.238. 30)KonbaullgZet,Vol.IIr,pp.710-ll.

31)Hmannan,Vol.Ⅰ,p.329;U Kala,Vol.Ⅰ,p.264. 32)HmこInnan,Vol.I,p.378;U Kah,Vol.I,p.325. 33)U The,lung,1969.1.20.

(7)

東南 アジア研究 8巻 2号 に ビエ ンチ ャンを政 略 した シ ソビ ュー シソ (バ イ ソナ ウ ソ) 王配下 の ビル マ軍 は,次 の よ うな 編成形 式34)を とっていた。 (1) 兵

1

0

人 につ き, アチ ャ ッ (下 士 官)

1

人 (2) 下士 官

1

0

人 につ き, タ ッフムー (部 隊 長 )

1

人 (3) 部隊長

1

0

人 につ き, シ ッケー (副 司令官)

1

人 (4) 副司令 官

1

0

人 につ き, タ ッ ミソ (司 令 官 )

1

人 司令官 1人 が指揮す る軍隊 は,兵 力 1万 で あ った。 そ して司令官(タ ッ ミソ), 副 司令官 (シ ッケー) は,共 に 原則 と して王子, 王 弟 な どの王族 , また は貴族 (フムヂ 一 ・マ ッヂ ー), あ るいは シ ャソ族土 侯 (ソ- ブ ヮ-) な どが任 命 され ていた。35)司令官 は 時 代 とと もに 多少呼 び か た が異 な る。 タ ッ ミソのほか に, タ ッフムーヂ ョウ, ボ ウ ミソ, ボ ウフムー, 7チ ョウ, シ ッ トゥーヂ 一, アオ ウな どの呼 称 も用 い.られ てい る。 こ うした編成形 式 は,時代 ご とに多少 の差 異 は見 られ るけれ ども, 原則 と して同 じで あ る。 緬紀

1

1

1

4

年 (

1

7

5

2AD)

に再 編 され た ビル マ軍 の組 織36)は,次 の よ うに な っていた。 (1) 武装兵

1

0

名につ き, アチ ャ ッ (下 士 官)

1

人 (2) 下士 官

1

0

名につ き, タ ッフムー (部隊長 )

1

人 (3) 部隊 長

1

0

名につ き, ボ ウ (司令官 )

1

人, シ ッケー (副司令 官)

2

人 司令官

1

人 が 指揮 す る軍隊 は, コ ソバ ウソ時代 で は 兵 力千 名に な ってい る。 この点につ い て, 元 白色人民義 勇軍

(PVO)

の リー ダーの一 人で あ った作家 ナ ッマ ウ ・ボ ンヂ ョ-は, イ ソワ時代 お よび コソバ ウ ソ時代 初期 の構 成 につ い てそ の著 『古代 ビル マ軍 メモ』 37)で次 の よ う に述べ てい る。 (1) 兵士

1

0

人 につ き, (2) 下士 官

1

0

人 につ き, (3) 将校

1

0

人 につ き, (4) 部隊長

1

0

人 につ き, (5) 司令官

1

0

人 を, アチ ャ ッ (下士 官)

1

人 アマ ッ (将 校 )

1

人 タ ップムー (部隊長 )

1

人 ボ ウ (司令官 )

1

人 国王が指揮 国王配下 の軍 勢 は, ポ ./ヂ ョ-の説 明に従 えば,兵 力

1

0

万 であ った。 この点, トーセイ ソコ ウの記述38)はやや 異 な る。 (1) 兵士

5

人 を, オ ウザ ー (1分隊 ) と称す (2)

2

個分隊 につ き, アチ ャ ヅ (伍 長)

1

人 (兵 力

1

0)

34)HsinbyushinAyedawl〕on,p.365. 35)Hsinbyushin,p.372.

36)Konbaungzet,Vol.

,p.57. 37)Natmauk HponKyaw,p.100. 38)Taw SeinKo,p.255.

(8)

大野 :ど/レマ国軍 史 (そ の1) (3) 伍長

5

人 につ き, トゥエ ー タ ウヂ ー (軍 曹 )

1

人 (兵 力

5

6)

(4) 軍 曹 2人 に つ き, タ ッフム ー (隊 長 )1人 (兵 力 113) (5) 隊 長

5

人 に つ き, タ ッイ ェー

(

謀)

1

人 (兵 力

5

6

6)

(6)

参謀

2人 に つ き, ボ ウ (司 令 官 )1人 (兵 力 1,133) トー セ イ ン コ ウに従 えば , ボ ウ (司令 官 ) の指 揮 下 に あ る軍 は, コ ンパ ウ ソ時 代 で は1,133 人 とな る。 資料 に よ っては計 算 方 法 に違 い が み られ るけ れ ども, そ れ は時 代 的 な差 で あ った と 思 わ れ る。 こ うした 階 級 は , コ ソ/ミウ ン時 代 末 期 に は39)ほ ぼ 固定 化 され てい た 。 そ れ は 次 の よ うな序 列 に な る。 タ ッフ ム ー- タ ッイ ェー- ナ ガ ン-,シ ッケ -- ボ ウ フム -- ボ ウヂ ョウ。 タップムー以下の編成 タッフム ー 1人, ト

- -

タウ

2人

トゥ- -タ ウ 1人, ア

ャ ッ

5人

アチ ャ ッ 1人, 兵 士 1

0人

1個部隊の兵力 100人

内訳 タッフム ー (隊

長) 1人

トゥエータウ (下

士官) 2人

lアチ ャ ッ (伍

長)

1

0人

し兵 士

8

7人

このようなビル

王 国軍の 編成に つ いて,1885年

ー ラ

に派遣

され た英 国の外 交使 節 団 (団長 Ma

j

or

Arthu

r

Phayre) の一 員であ った Henr

y

Yul

e は

次 の よ うに 述べ てい る。40) (1) アチ ャ ッ-OfficersofTen (2) トゥ- - タ ウヂ ∼-CaptainsofFifty

(3) ボ ウ ニCenturions,TwoorthreeBosunderaBogyi

(

4

)

ボ ウヂ--CommandantinacorpsofFivehundred men

これ を整 理 す る と, 次 の よ うに な る。 (1)兵 士 10人 に つ き, アチ ャ ッ 1人 (2) 兵 士

5

0

人 に つ き, トゥエ ー タ ウヂ ー

1

人 (3) 兵 士100人 に つ き, ボ ウ 1人 (4) 兵 士

5

0

0

人 に つ き, ボ ウヂ ー

1

人 王 朝 時 代 , 特 に コ ンパ ウ ソ時 代 に お け る ビル マの兵 士 た ちは, 特定 の階 層 を除 い て職 業 軍 人 で は なか った 。 ク ロー フ ァー ド41)に よる と, 文 官 と武 官 との問 に は何 らの区 別 もな い。 ビル マ 39)緬紀1236年 (1874AD)に書かれたシャン州 セソウ イ-駐屯 ビルマ軍の編成に関す る只葉。編成原理 と 実際の兵力 とは一致 しない。 40)HenryYule,(1858)p.249. 41)Crawfurd,p.413. 225

(9)

束 南 アジア研究 8巻2号 軍 は, 現 実 には この国 の成 人 男 子全 員 に よ って構 成 され42), 男 子 は 召集 され れ ば 兵役 に応 じる のが義 務 で あ った。43) ビル マ人兵 士 は本来 農 民 で あ って, 必 要 な場 合 に のみ 従 軍 す る性 質 の予 備 役 また は在 郷軍 人 的存 在 で あ った 。 こ うした兵 士 た ち の地 盤 で あ る上 ビル マの社 会 機 構44)は, 当 時 次 の よ うに な っていた。 (1) アス ・7 7ム ダ ソ-正 規 の公務 に服す る階 級 。 1) 軍 務 に服す る もの - ミイ ソ ・アス (騎 兵 ), テナ ッ ・アス (歩 兵), ア ミャウ ・アス (砲 兵 ), シ ソ ・アス (象兵 ), フ レー ・アス (舟 兵) な ど。 2) 軍 務 以外 の公務 に服す る もの ニ ラマイ ソ (壬領 地 の農 民 ), サ ド-ガイ ソ (宮 廷 料 理 人) な ど。 (2) アテ ィー -納 税 はす るが 公 務 に は服 しな い。 緊 急 時 のみ 軍 務 に服 す る階 級 。 アス ・ア フム ダ ソほ, 各 自の身分 に応 じてそれ ぞれ の上 司が 決 ま っていた 。 例 えば ミイ ソ ・ アス (騎 兵 ) の場 合 で あれ ば ミイ ソ ・ガ ウ ン (騎 兵長 ), ミイ ソ ・ウ ソ (騎 兵 司令 官 ) の配下 に あ り, ダイ ン ・アス (楯 兵 ) で あれ ば ダイ ン ・ガ ウ ソ (楯 兵 長 ), ダイ ン ・ウ ソ (楯 兵 司令 官 ) の指揮 を うけ た。軍 務 以外 の公務 に服 す る者 の場 合 も同様 で あ った。 例 えば , ラマイ ソ (王領 地 の耕 作者 ) は 国王 の任 命 を うけ た ラマイ ソ ・ウ ソ (王領 地 長 官 ) の統 治 下 に あ った。45) 一 万 , ア テ ィ-は正 規 の軍 人で は なか った が, 緊 急 の場 合 に は tゥ- - タ ウヂ

-(

s

e

r

ge

ant

)

と して行動 す る ミ 三ウ ・ トゥ-ヂ ー (町長 )指 揮 下 の 郡単位 の

Non-

pr

of

e

s

s

i

onalAr

my

に従 軍 した。46) こ うした アスや トゥエ ー タ ウ制 度 は, も と も と兵士 達 が謀 反 をお こさぬ よ うに との趣 旨か ら 設 定47)され た もので あ った。 トゥ- - タ ウ (血 盟 ) 制 度 は ニ ヤウ ソヤ ソ時代 か らす で に存 在

ていた が, コンパ ウ ン時代 に な る とい っそ う盛 ん に な った 。緬 紀1126年 (1764A D) 29親 ,緬 紀1146年 (1784A D) 8組 , 緬 紀1148年 (1786A D) 3組 , 緬 紀1200年 (1838A D) 1線 編 成 され てい る。48)けれ ども, トゥエ ー タ ウ

1

組 の人 数 はか な らず Lも一定 しては い なか った。 少 ない組 で15人, 16人, 多 い組 で は62人, 65人 とい うよ うに不 揃 い な のが特徴 で あ る。 トゥエ ー タ ウほ, 一 般 兵 士 のほか に ウ ソヂ - (政 務 官), ウ ソダ ウ (政 務 補 佐 官 ), ア トゥイ ソウ ソ (宮 内官 ), ミ ョウザ ー (領 主 ), ミイ ソ ウ ソ (騎 兵 司令 官 ), シ ソウ ソ (象 兵 司令 官 ) な どの重 臣 た ちに よ って編 成 され る49)こ ともあ った。一 般 の トゥエ ー タ ウ1組 の中心 は 「トゥエ ー タウヂ 42)Zbid.,p.414. 43)ShweToe,p.506.

44)Taw SeュnKo,pp.233-4,261;Furnivall,An lntroduction,p.31;FurnivallandPeMaung Tin,

TheGarlandofZambudipa;D.G.E.Hall(1956)pp.134-5. 45)MyaKay Tu,p.182.

46)Cady (1958),p.35.

47)NyaungyanAyedawbon,pp.409-410.

48)Konbaungz∈t,γol.Ⅰ,pp.356-368,559;γol.ⅠⅠ,pp.39,583. 49)Konbaungzet,γol.ⅠⅠ,p.583.

(10)

大野 :ビル マ国軍史 (その 1)

-」 で , 通 常 ミ ョウ ウ ン (領 主 ), ダイ ン ・フ ム - (楯 兵 長 ) な ど, 職 種 別 の 長 が 任 命 され て い た 。 この トゥ- - タ ウヂ - (sergeant) の上 に た つ のが , 兵 100人 を指 揮 す る タ ッフ ム -(lieutenant)で , そ の上 官 は 兵 250人 を指 揮 す る テ ナ ッ ・サ イ ェー (captain)で あ った。50)求

ウ (colonel)は た い て い が 文 官 で あ り, テ ナ ッ ・ウ ン (Commanding General)は 通 常 4人 い る ウ ソヂ - (政 務 官 ) の一 人 か , また は ウ ソヂ ー と同格 の重 臣 が 任 命 され て い た。51)例 えば 1871年 に 使 節 団 長 と して 欧 州 に 派 遣 され た52)政 務 官 の キ ン ウ ン ・ミソヂ ーは , 緬紀1236年

(

1

87

4AD)

に テナ ッ ・ウ ンに 任 命 され て い る。53) コ ンパ ウ ソ王 朝 時 代 の ビル マ王 国 軍 は , フ ァー ニ/:ル に よれ ば , まだ 「中 世 的」 54)存 在 にす ぎなか -)た 。 だ が , そ うした 「中 世的」軍 隊 で さえ も, ビル マ の英 領 化 と共 に 存 立 の基 盤 を失 って し ま う。 ビル マ の英 領 化 は , ビル マ農 村 伝 来 の社 会 機 構 を徹 底 的 に 破 壊 して しま った か ら で あ る。 英 領 ビル マ の村 落 制 度 は , 統 治 上 の便 宜 , す な わ ち 英 国 が この 国 を 統 治 し易 い よ うに す るた め , 1886年 に

し く創 設 され た もの で あ った。55)

1

英 領 植 民 地 時 代 の 軍 隊 英 領 時 代 の ビル マ の軍 隊 は , そ の規 模 も組 織 も, す べ て宗 主 国 の便 宜 す な わ ち英 国 の権 益 を 保 護 し植 民 地 行 政 に奉 仕 す る もの で あ った 。 英 領北 直 後 の ビル マに つ い て, - ーベ イや ク ロス ウ ェイ トは , 次 の よ うに 言 う。56) 「英国が ビルマを占領 して以来,軍隊 の必要はなか った。19世紀は誠に平和であ った。2700マイルにわた る国境地域は,ほ とん ど無人の地であ った。だか ら, ビルマ全土には英人

2

個大隊 とイ ン ド人

4

個大隊か ら な るわずか2個旅団がおかれ てい る57)のみで, しか も両旅団 ともビルマ中部に駐屯 していた」 とか, 「上 ビ ルマに駐屯 していた軍隊は,それ まで全部で14,000名であ った。十分に武装 した,あるいは組織 された散は どこに もいなか った。2-300名の英軍が,激 しい抵抗を受けた り大 きな損害を被 った りす ることな しに,北 か ら南へ,東か ら西へ と行 き来す ることができた」な どと。 だ が , 現 実 は か な らず

L

もそ うで は な か った 。 1885年

1

1月

28R ブ レン ダ ー ガ ス ト将 軍 に よ っ て最 後 の ビル マ国 王 テ ィ- ボ -が 持 致 され た 58)後 , 英 国 の統 治 に 反 抗 す る現 地 民 の ゲ リラ活 動 50)Cady (1958),p.35. 51)Zbid.,p.35.

52)KinwunMingyi'sLondonDiary,Vol.Ⅰ,ⅠⅠ. 53)Konl)aungzet,Vol.ⅠII,p.414.

54)Furnivall,ColonialPolicy,p.178.

55)Zbid.,p.74;Furnivall,AnIntroduction,p.30;ビル マの行政制度は,C.Crosthwaiteに よって整備 さ れた.Cady,SoutheastAsia,p.395;Hal一,A HistoryofSouiheasiAsia,pp・693-4;Crosthwaite,p.23. 56)G.E.Harvey,BritishRule,p.40;CharlesCrosthwaite,p.14.

57)ビルマの国防は,イン ド/弔 2佃/((団,兵員 1万ない し1万 1千名に よって受け持たれていた.原住民連 隊の うち7個大隊は, グル カ, シク,パ タン,パンジャブ回教徒な どで構成 され, ビルマ北部に配置 さ れ ていた。J.G.Scott,p.158.

58)E.C.Ⅴ.Foucar,Theyreignedin Mandalay,pp.146-158;Cady (1958),p.121;Hall(1956), p.130;D.P.Singlhal,p.82;HtinÅung (1965)pp.91-92;G.CoLd占S,p.189.

(11)

東南 アジア研究 8巻 2号 が各地で続 発 した。59'上 ビル マでは,軍 隊 と武装警察 隊 とを合わせ て1888年 だけで死者106, 負 傷者

2

1

8

名 の犠牲者 を 出 してい る

6

0

)そ して同期間 中射殺 され た叛徒 の数 は

3

1

2

人,逮描 され た 者721人に のぼ ったo それ に, カチ ソ, チ ソ, シ ャンな どの山地 民 もまだ新 しい支配者に慣 れ ていなか った。61)いずれ にせ よ英領 ビル マの行政制度 が確立 され るまで の間,治安 の維持 は 「治 安 警察」 だけに 任 せ てはおけなか った。 それに ビル マ 駐 屯軍 の兵力 も, まだ十分ではなか っ た。 こ うして1886年 2月には,1隊561名か ら成 る 「武装警察隊」 (M ilitary police)が イ ン ド軍か ら募 られ,

1

隊は チ ソ ドゥイ ソ地 区に, も う

1

隊は マ ンダ レ一に配置 され た。62)同時 に 北 イ ン ドで新 たに2,200名の武装警察 隊が募 集 され た。 こ うして上 ビル マ司政 官 の下 には,正 規兵 以外に約3,300名に のぼ る武装警察 隊が配備 され る ことにな った。63) こ うした治安対策 のほかに,一方で は国境 警備 の必要性 があ った。特に,従来, ビル マを朝 貢 国 とみ な して きた64)中国 との国境 問題 は重要65)で あ った。宋時代 におけ る緬 旬 の入貢66),元 時代至元年 間 の征緬67)は別 として も, 明時代洪 武

2

6

年 の緬臣 「板南速刺」 の進 貢, 同

2

7

年土 色 「卜刺浪」 の緬 中宣慰使司任命,永楽元年緬 昏 「郡羅立会」 の遣使 入貢68),そ して清時代乾隆

3

2

年 の将軍 「明瑞」 の征緬69),乾隆52年 の入貢70),乾隆55年 の緬酉 「孟雲」 の国王勅封71)な どは, ビル マに対す る中国の 「宗 主 国」 と しての立場 を深め させ るもので あ った。 だか ら, ビル マの 英領 化は中 国に とっては誠 にゆゆ しき事態であ り, 「清政府 が英 国の南緬併呑時, 緬 は朝貢 の 国な りとの声 明を発せ ぎ りLは既 に一大失態」72)なので あ った。 こ うして,北 部国境 では 6個大隊 の国境 警備 「武装 警察隊」 が パ Tlp-ルにあた る ことに な った。将校 は イ ソ ド軍か ら来 ていたが,兵士 には現地住民が徴募 され ていた。73)内陸部で も治 安維持 のため,兵士

4

,000人 の軍 隊 と数 個大隊 の M ilitary PoliceT4)が おかれ ていたが, そ の 内の4分 の 1は カ レン人で あ った。75)

59)HtoonNezin,1963.3.27;U SoeMaung,WunthoSawbwa;AyeThan;H.Fielding,p.58;W. S.Desai,pp.244-249;Harvey,Outline,p.184.

60)Crosthwaite,p.98. 61)Dorothy Woodman,pt・4. 62)Crosthwaite,p.15. 63)Zbid.,p.15. 64)Dorothy Woodman,p.247. 65)Crosthwaite,p.21. 66)『欽定宋史』巻489,列伝第248,浦甘条 67)『元史』第210,列伝第97,緬条 ;『元史外東伝』 68)『明史』巻315,列伝第203,緬旬粂 ;Huber(BEFEO1904),pp・429-432・

69)『聖武記』巻6,乾隆征緬旬記(上);M・C・ImbaultHuart,HistoiredelaConqu∂tedelaBirmanie ♪arleschinois,pp.135-178.

70)『国朝柔遠記』巻5.

71)『聖武記』巻6,乾隆征緬旬記(下).

72)張鳳岐著,種村保三郎訳 『雲南国境紛争史』p・66.

73)G.E.Harvey,BritishRule,p.41.

74)この 「武装警察隊」は,1888年には17,880名にふやされた。CharlesCrosthwaite,p.95. 75)Harvey (1946),p.41.

(12)

大野 :ビル マ国軍 史 (その 1) こ うした原住 民部 隊 の編 成 は, 第一 次英緬 戦争 当時か らは じめ られ てい る。 そ の第 1陣 は ア ラカ ソ人に よる 「ア ラカ ソ軽歩 兵 部隊」 の編成 (1824 A D)76)で あ った。そ して,第 2陣 は テ ナ セ リム地 方 の タライ ソ人部隊 で あ った。 タ ライ ソ (モ ソ) 人部隊 の編成は , 「タライ ソ人が 体格 的 にす ぐjtてお り良 き兵士 にな り得 る素 質 を も ってい るか ら, タライ ソ人部 隊 の編成 が順 調 に いけば ビル マ 全 土 の 国防 は クライ ン人 に一 任で きる」 とい う Commissionerの勧 告 に も とづ い て1839年 には じめ て行 なわれ た77'もので あ る。 だ が, この部隊 は1848年 に は解 隊 され て しま 1た。78) 1852年 の第二 次英 緬 戦争 勃 発 とと もに, この 「原住 民 部隊」 の徴兵 問 題が再 燃 した。 第一次 英 緬戦争 当時 の 「ア ラカ ソ人部隊」 が よ く働 い たか らで あ る。 こ うして, ぺ グーで 「ペ グー軽 歩 兵 部隊」 が編 成 され た。門'しか し, 7 ラカ ソ人部隊 も, ペ グ-部 隊 も, 第二 次英 緬 戦争終 了 後 には無 用 の存在 とな った ため,共 に1861年 に 「警察隊」 に切 り換 え られ てい る。80) 第三 次英 緬戦争 の際 , カ レン人部 隊が編 成 され た。81) カ レン人 部隊 は,す で に1857年 に 2個 中隊 (200名) が編 成 され てい る。 だ が1886年 の カ レン人募 兵 は新 しい形 態 を とってい た。 上 ビル マを中心 に 国内が反乱 状態 に陥 るや,有 能 な ア シス タ ン トと しての カ レン人 の能 力が再 認 識 され , 1891年 に は カ レン人 の M ilitary Policeが 新 たに 1個大隊 編成 され てい る。 カ レン 人 は,訓 練 の両で も,戦場 の忍耐 性 で も,そ して勇敢 さにお い て もす ぐれ た才能 を発揮 した。82) カ レン人兵 士 たちは1896年 に イ ン ド大 隊 の中に編 入 され ,次 第に軍 事教練 に習熟 してい った。83) ビル マ人 は, 1887年 まで は入隊 を認 め られ なか った。84'ビル マ人に よる唯一 の 「正 規軍」 は, 1887年 に徴募 され た工 兵

1

個 中隊 だけ で あ る。85)だが, これ は エ リー トの軍 隊で あ った。兵 士 はすべ て ビル マ人 か ら成 り, しか もそ の大半 は テ ィーボ ー王 配下 の元兵士 た ちで あ った 。86) こ の工兵

1

個 中 隊 を除 い て, ビル マ人 に は 兵 営 の 門は 閉 され ていた。わ ずか に,1914年 に 3個 中隊 まで ふや され た87)のが 関 の山で あ った。 この よ うに, ビル マ人 が軍 隊か ら閉め 出 され た理 由につ い ては, い ろい ろな説 が 出 され てい る。 日 く, ビル マ人 は訓 練 に耐 え られ なか った88), ビル マ人 は軍 隊生 活 に 関心 を もたなか った89), 兵士 と しては 山地 民 に劣 ってい た90)等 々で あ

76)Furnivall,ColonialPolicy,p.179・,Tinker,p.312. 77)Zbid.,p.179・,Tinker,p.313. 78)Zbid.,p.179 79)Zbid.,p.180 80)Zbid.,p.180 81)Tinker,p.313. 82)Crosthwaite,p.131.

83)Furnivall,ColonialPolicy,p.181.

84)Cady(1958),p.140;大野徹 「カレソ民族の独立闘争史(その 1)」p.368. 85)Tinker,p.314.

86)Zbid.,p.314・,G.E.Harvey (1946),p.41.

87)Furnivall(1956),p.181.

88)Cady(1958),p.140;Scott,PracticalInformation,p.159;D.G.E.Hall(1956),p.167. 89)Harvey (1946),p.41.

90)E.C.V.Foucar(1956)tlivedinBurma,p.105.

(13)

東 南 アジ ア研 究 8巻2号 る。 だが真実 は, ビル マ人 の徴 兵 は困難 で厄 介で しか も高価 につ く91)とい うことで あ り, 同時 に, これ こそ 最 も大 きな理 由で あ った のだが, ビル マ人 は宗教 的に も種族 的に も統 一 され てお り, 民族 と しての同一志 向性 を もっていた。 言 い換 え る と, こ うした人 々に よって編 成 され る 軍 隊 には,英 国 と しては信 頼 が おけ なか った92)のだ。む しろ, 英 国人 の立 場 か らすれ ば, ビル マ人か らは武器 を取 り上 げ る必 要 があ った

9

3

)

1916年か ら27年 にか け て これ らの現地 民軍 隊 は

,

「ビル マ ・ライ フル銃 4個 中隊」 に な った。 彼 らは第一 次大戦 中 メ ソポ タ ミア, パ レスチ ナで 活躍 した。94)特 に, カ レン人 の台頭 は 目ざ ま しい ものが あ った。 貧 しい 山地 民 は,一定 の収 入 が入 る軍 隊 に こぞ って志願 した。 だ が,生 活 水 準 の高 い ビル マ人 は 給 与 に は不満 だ った。 1925年, ビル マ ・ライ フル銃 隊 の募 兵 は, カ レ ン人, カチ ソ人, チ ソ人 に のみ 限 られ95), ビル マ人 の募 兵 は完全 に打 ち切 られ て しま った。96) そ して1927年 には経 済 的理 由か らビル マ人 の工 兵 隊が 解隊 され97), 27年 か ら37年 にか け て ビル

マ人 は 「正 規軍」 か ら完全 に排 斥 され て しま った。98)武装警察 隊 (M ilitary Police)だけ は戦 時 中 も ビル マ人 に 門戸 を 開い ていたが,戦 後 は ここも門戸 を閉 した

9

9

) ビル マ ・ライ フル銃 隊 も, 第一 次大 戦後3個大 隊 に縮少 され た。 この頃 の ライ フル銃大 隊 の構 成 は, カ レン人

2

個 中 隊, カチ ン人 1個 中隊, チ ソ人1個 隊 が標 準 で あ った。100)

1934年, ビル マが イ ン ドか ら 分離す る こ とが 決定 され た後, ビル マ駐 屯 の イ ン ド人軍 隊 と M ilitary Policeは, と もに総 督 を司令 官 とす る 「ビル マ国防軍

(Burma Defence Force) に改 編 され た。-Ol)そ して1937年, イ ン ドか らの ビル マ分離 に伴 い ビル マ ・ライ フル銃 隊 は イ ン ド軍 第20連 隊 か らはず され, 4個大 隊 にふや され た。102)イ ン ドか らの分離 以前 ビル マに駐 屯 し ていた軍 隊 は,次 の とお り103)であ った。 英 軍歩 兵2個大 隊 イ ン ド歩 兵

3

個大 隊 91)Furnivall(1956),p.178. 92)Zbid.,p.178. 93)Zbid.,p.178;しか し,英領化直後にはシャン人,カレン人,カチソ人同様, ビルマ人もまたMilitary Policeの重要な構成要素 と考え られていた。CharlesCrosthwaite,pp.16,21.

94)Harvey (1946),p.42,D.G.E.Hall(1956),p.167;この時参戦 したのは 「武装警察」 4,650名と, 原住民兵士8,000名であった。Cady (1958),p.185.

95)Furnivall(1956),p.182.

96)Tinker(1956),p.314;D.G.E.Hall(1956),p.167. 97)Furnivall(1956),p.182;Tinker,p.314.

98)Harvey (1946),p.42;7-カーは,こうした措置を 「一大政治的失策」 とよんでいるO ビルマ人は, 第二次大戦が始まってもとうとう 「祖国の防衛には参加 しなか った」のである。Foucar(1956),p.105. 99)Furnivall(1956),p.182. 100)Tinker,p.314. 101)Furnivall(1956),p.183. 102)Tinker,p.315.

103)D.G.E.Hall(1956),p.167;Furnivall(1956),p.178;この うち, MilitaryPoliceは 9個大隊が 正確。イソ ド歩兵3個大隊の存在は疑わ しい。

(14)

大 野 :ビル マ国軍 史 (そ の 1) ビル マ ・ライ フル銃

1

個連隊 (ビル マ人を含 まない。

4

大 隊か ら成 る) 工兵 1個 中隊

Mi

l

i

t

ar

yPol

i

c

el

O

個大隊 これ らの軍 隊 は, 国内の治安 警備 上,主 と して ラングー ンとメイ ミョウ地 区 に配備 され てい た.]04

)Mi

l

i

t

ar

yPol

i

c

e

は, イ ン ドか ら分離 後,

2

親 に再 編 され た。中部 に

3

個大 隊 (第

1

, 第 2大隊 は ラ ングー ン,第 3大 隊 は マ ンダ レー) が配備 され, 6個大 隊 は 国境 警備 隊 と して北 シ ャン

,

南 シ ャン州, チ ソ丘陵 , ミッチ -ナ -, バ モ ーな どに配置 され た。105) 1939年, ビル マの防衛力は, 正 規軍

5,

0

0

0

名, 国境 警備隊 と

Mi

l

i

t

ar

yPol

i

c

e

12

,

0

0

0

名であ った。正規軍

6

個大 隊 の内, ビル マ ・ライ フル銃

1

個大 隊,英歩 兵

1

個大隊 は ミソガ ラー ドン に, ビル マ ・ライ フル銃

1

個大 隊 が マ ンダ レ一に, そ して残 りの英歩兵

1

個大 隊 とビル マ ・ラ イ フル銃

2

個大隊 は メイ ミョウに配置 され ていた。106) 1939年 の ドイ ツの宣戦布告 と共 に, ビル マ軍 の増 強 が進 め られ た。 ビル マ ・ライ フル銃 隊 も 新 たに第

5

,第

6

大 隊 が追加編成 され た。 第

7

大 隊 は グル カとイ ン ド人 の

Mi

l

i

t

a

r

yPol

i

c

e

か ら, 第

8

大隊は シ クとパ ンジ ャブ回教 徒 の国境 警備隊か ら転 用 され,第

9

大 隊 は予 備 部隊, 節

1

0

大隊 は訓練部隊 と して設 置 され た。107) 1939年か ら41年 にかけ て, さ らに4個大 隊 が追 加編成 され た。第

1

1, 第12大 隊 は ビル マ人 と カ レン人で,第13,第14大隊 はすべ て シ ャン人で構 成 され てい た。108) 1941年1月,空軍 司令部 (ステ ィ- ブ ンソソ司令 官)が ラ ング- ソに設 置 され, ミソガ ラー ドン空港 に飛行 2中隊 (戦闘機30機)が配置 され た。109)海軍 は ビル マ付近 の水域 に発動艇5隻 か ら成 る英海軍予備 隊 があ るだけ だ った。liO) ビル マ ・ライ フル銃大 隊 は, 1941年

7

月 「第1ビル マ師 団

(ブル ース ・ス コ ッ ト少将 ) に 編入 され た。111)第

1

ビル マ師 団は,第

1

ビル マ旅 団 (- - ウ ェル準将 ), 第

2

ビル マ旅 団 (ブ ール ク準将 ), 第13イ ン ド歩 兵旅 団 の3個旅 団か ら成 り立 っていたが, そ の兵力は標準英 師団 の半 数 ち ょっ とにす ぎなか った。112)第1ビル マ旅 団は キ ングズ ・オ ウ ソ ・ヨ- クシ ャー軽歩 兵 隊 と第

1

,第

5

ビル マ ・ライ フル銃大 隊, 第

2

ビル マ旅 団は第

2

,第

4

, 第

6

, 第

8

ビル マ ・ ライ フル銃大 隊で構成 さjtていた。ll3) 104)『ビルマ進攻作戦』 p.ll. 105)Tinker,pp.315-6. 106)Zbid.,p.316. 107)Zbid.,p.316. 108)Zbid.,p.316.

109)MauriceCollis,I,astandFirst,pp.55,62. 110)『ビルマ進攻作戦』 p.ll. 111)Tinker,p.317. 112)英軍1個師団の兵力は1万5千だが, ビルマ師団は8千にすぎなかった。UHla,p.94;Thakin Lwin,p.62. 113)Tinker,p.317;『ビルマ攻略作戦』pp.18-19. 231

(15)

東 南 アジア研 究 8巻2号 ビル マ軍 司令部 (ケネス ・マ ク レオ ド中将,後 ト-マス ・- ツ トン中将 ) ラングー ン在 第

1

ビル マ師 団 (ス コ ッ ト少将 ) タ ウ ングー県在 第

1

ビル マ旅 団 (- ー ウ ェル準将 )南 シ ャソ州駐 屯 キ ングズ ・オ ウ ソ ・ヨー クシ ャ-軽歩 兵 隊 第

1

ビル マ ・ライ フル銃大 隊 第5ビル マ ・ライ フル銃大 隊 第

2

ビル マ旅 団 (プール ク準将 ) テナ セ リム駐 屯 第

2

ビル マ ・ライ フル銃 大隊 第4ビル マ ・ライ フル銃大 隊 第

6

ビル マ ・ライ フル銃 大 隊 第

8

ビル マ ・ライ フル銃大 隊 第13イ ン ド歩兵旅 団 (カーテ ィス準将 ) シ ャン州駐 屯 第16イ ン ド歩 兵旅 団 (ジ ョー ンズ準将 ) マ ンダ レ-, 後 コ- カ レイ駐 屯 開戦後, イ ン ドか ら新 たに第17イ ン ド師 団 (ス ミス少将 ;第46, 第48イ ン ド旅 団か ら成 る) が ビル マに配転 され た。114) 日本 の大本営 は,太 平洋戦争 開戦直前 の ビル マの兵力 を ビル マ土 民兵

2

6

千, イ ン ド兵

8

千,英 兵2千 6百, 中 国兵 2千,計 3

8千 6首 と判 断 していた。115) 日本軍 が ビル マ全土 を制圧 した1942年

5

月, テナ セ リムで 日本軍 を迎撃 した第17イ ン ド師 団 (デ ー ビ ッ ド・カ ウ ワン準将, ス ミス少将 の後任)は カ レー ワに撤 退, - ロル ド・ア レクサ ンダ ー将軍 (- ッ トン中将 の後任 )が率 い る ビル マ軍 も, ス テ ィル ウ ェル将軍 配下 の米,莱 ,緬, 中混成軍 もイ ン ド国境 を越 えた。118)撤 退 が終 わ る頃,第

1

ビル マ師 団 の兵士 には帰郷命令 が 出 され, 日本 占領 に対す る抵抗運 動へ の参 加 が言 い渡 され た。117)それ は, ミャウ ソ ミャを中心 に デル タ地 帯 で発生 した 「カ レン ・ビル マ衝 突事件」 118)- の不幸 な伏 線 にはか な らなか った。 1942年夏,連合 国軍 の東部戦線 におけ る戦 闘配置状況 は,次 の とお り119)で あ った。 イ ン ド軍 (司令 官 ア-チ ボル ド・ウ ェーベル大将 ) 第 4軍 団 (ア- ウ ィソ中将) ア ッサ ム防衛 第

1

5

軍 団 (ピア-ス中将 ) べ ,/ガル防衛 第

7

0

英 師 団 オ リッサ海岸

114)M.Collis,p.75.;Tinker,p.317.

115)『ビルマ攻略作戦』p.17;この中には第17イソド師団および国府第5,第6軍が含まれているかどう か不明。M.ColliS,p.47;Foucar(1956),pp.118-29;TrevorDupuy,p.5;Hall(1956),pp.168-9. 116)BisheshwarPrasad,p.14;TrevorDupuy,p.6;D.G.E.Hall(1956),p.169;M.Collis,p.141,

chapt.XVIII.

117)Prasad,p.14.

118)大野徹 「カレン民族の独立闘争史(その1)」p.370. 119)Prasad,p.15.

(16)

大 野 こビル マ国 軍 史 (そ の1) ビル マ軍 (第17イ ン ド師 団お よび 第 1ビル マ師 団)は, 第4軍 団 に編 入 され た。 けれ ど も第 1 ビル マ師 団 は, 実際 に は 無に 等 しか った。120)第

1

ビル マ ・ライ フル銃 大 隊 の カ レン人

2

個 中隊 は, サ ル ウ ィソ地 区 の カ レン応 援 に 派 遣 され てい た121)し, わず か に残 ってい た第

2

ビル マ ・ ライ フル銃 大 隊 (兵 力

4-5

00)

も, 後 オ ー ド・ウ ィソゲ- ト将 軍 の

Chi

ndi

t122) に編 入 され て しま -)た. 以上 のほ か, 連 合 国軍 には予備 軍 とル シ ャイ, チ ソ, ナ ガな どの山地 民 に よる

t

t

V"

フ ォースが あ -)た。 彼 らの任務 は ,情 報収 集 と日本 軍 の通 信 の妨

123)で あ ー)た。

翌4

3年 8

月, ル イ ス ・マ ウ ン トバ ッテ ン中将 (海 軍 ) が東南 アジ ア方 面軍 司令 官 に, ジ ョセ フ ・ス テ ィル ウ ェル 中将 が 副 司令官 に 任 命 され{ 124), 東 南 アジ アに おけ る 米 英共 同作 戦 が 開 始 され ,戦 闘 配置状 況 は 次 の よ うに125)変 わ った。 5第14軍 司 令 官 ウ ィ1)アム ・ス リム大 将 ビル マ全 土 の作戦 第4軍 司 令官 ジ ョフ レイ ・ス ク- ソズ中将 中 部 戦線 岳特別軍 (6個 旅 団) オ ー ド・ウ ィンゲ - ト少将 北 部 戦線増 援 し第

3

3

軍 (4個 師 団) モ ソテ ーギ ュ .ス トノフ ォ- ド中将 予 備 , 後 デ ィマ プール戦線 第2次 大 戦 開戦 と同時 に, ラ ソグー ソで は 原住民 部隊 の増 募 が やか ま し く言 われ 出 した。126'

「原住 民 は, もはや ビル マ予 備 軍 (Burma Auxiliary Force)か ら除 外 され な い」 とい う布 告 が

1

939年 8

31

日出 され た137)浴,

1本 軍 が ビル マに 進 撃 して来 た時, ビル マ人 たちは某 国 U) 言 う 「国

防」

の任 に は と うと う参 加 しなか った。 彼 らは 「ビル マ独立軍

(BIA) とい う新 し い衣 を ま とって, 日本 軍 とあ い たず さえ て ビル マに 帰 一)て来 た ので あ る。 しか も彼 らの 銃 口 は, 日本 軍 に対 してで は な く英 軍 に 向け られ て い た。,

m

ビルマ独立 軍 の系譜 (1) 政 治 的背 景 1886年 1月1日イ ン ドの1州 と して英 領 化 され た ビル マだ が,英 国 の植 民地 行政 に対 す る政 120)tbid.,p.15. 121)Tinker,p.318.

122)ウ インゲー ト準将配下のChindit(3千名)の活動については,MattheWS,Chapt.ⅤⅠ;TrevorDupuy,

p.8;

J

.H.Denny,ChinditZndiscretion・,BernardFergusson,BeyondikeChindwinなどに詳 しい

123)Rrasad,p.15;MattheWs,p.88.この 「第5列」が 日本軍の宣伝班を悩ませたR号謀者であったか ど うか明 らかでない。 R号謀者については鈴木正七 「見えざる戦

『秘録大東亜戦史 ビルマ篇』pp.382

-422.に措かれている。

124)Geoffrey Matthews,p.8;D.G.E.Hall(1956),p.170 125)Zbid.,pp.10111.

126)Maung Maung,Burmain theFamilyofNations,p.92.

127)Furnivall(1956),p.184.

(17)

東 南 アジア研 究 8巻2号 治 運 動 は第 一 次 大 戦 終 了 まで は顕 在 化 しなか った。128)だ が , モ ソテ ーギ ュ ・チ ェル ム ス フ ォー ド改 革 案 の ビル マ適 用 に よ って

1

92

3

年 に 出現 した 「両 頭 政 治 」 制 度129),

1

93

7

年 の イ ン ドか ら の分 離130), ビル マ統 治法 に基 づ く二 院 制 の実 施 とい った 政 治形 態 の変 遷 と, 植 民 地 行政 維 持 に伴 うビル マ人 の貧 困化 を背 景 に ナ シ ョナ リズ ムが 高 揚 す る。 そ れ は , ウ一 ・オ ウ クマ, ウ一 ・ウ ィザ ヤ, サ ヤ 一 ・サ ンな ど僧 侶 政 治 家 (ナ イ ンガ ンイ ェ- ・ボ ンヂ -) に よる個 人 的 覚 醒 運 動 と,

YM BA

,

GCBA

, ドゥバ マ ー ・ア シー ア ヨ ソ とい った政 治 結 社 に よる団 体活 動 の 両 面 を通 して

,1

9

2

0

年 以降 急 速 に 高 ま ってい った。131)

YMBA

(ビル マ青 年 仏 教 徒 会 ) は , ウ- ・メ- オ ン, ウ一 ・キ ン, ウ- ・バ ペ -, サ ー ・ マ ウ ソヂな どに よ って

1

9

06

年 に結 成 され た 団体 で あ る。132)だ が この団体 は, も と も と

YMCA

を モ デル に 作 られ た もので133), 仏 教 の興 隆 , 教 育 の振 興 , ビル マ文 化 の保 存 を 図 る社 会 的組 織 で あ って134), 政 治 団 体 か らは ほ ど遠 い存 在135)で あ った 。

GCBA (

ビル マ人 協 会 総 評議 会 )は

1

92

0

年 に

YMBA

の中央 評議 会 か ら転 身 した 組 織 で136

)

,

初 代 委 員 長 に は ウ一 ・チ ッフ ライ ン, 副 委 員 長 に は ウ - ・バ ペ -が 選 出 され てい た。-37

)GCBA

YMBA

とは異 な り 「仏 教 徒」 で あ る よ りも 「ビル マ人」 で あ る こ とに 重 点 を お く 組 織 で138), 当 然政 治 的 色彩 も濃 厚 で あ った。139) だ が この

GCBA

の活 動 は, ビル マ政 庁 に対 す る 非 協 力 とい った 消極 的 方 針140)を続 け る こ とに よ って, 両 頭 政 治 が導 入 され た 時 分 裂 して し ま う。141

)GCBA

は イ ン ドか らの ビル マ分 離 に際 して も, ウ一 ・バ ペ - らの分 離 派 と ウ一 ・チ ッ フ ライ ソ, バ モ - らの非 分離 派 とに分 か れ た。142) こ うした 組 織 とは 別 に ,

1

9

2

0

年 代 に は新 しい政 治 活 動 家 が 現 われ た 。 それ は , 強 烈 な民 族 主 義 的 意 識 を もつ 一 群 の僧 侶 達 で あ った 。 中 で も若 い熱 心 な支持 者 を多 数 もつ ウ一 ・オ ウ ク マ143) は, ガ ンジ -の非協 力運 動 の 影 響 を受 け144), 植 民 地 行 政 を 激 し く非難 した。145)オ ウ クマ僧 iE

128)Cady (1958),p.191;HtinAung,p.100・,Trager,p.46・,ThakinNu,Introduction,p.XVII. 129) Harvey,BritishRule,p.78;Mg Mg,FamilyofNations,p.851,Desai,p.254.

130)Mg Mg,p.86;HtinÅung,p.108.

131)Cady (1958),p.213.

132)Mg Mg,Consiituiion,p.7;Cady (1958),p.179;Trager,p.44・,U BaU,p.63. 133)HtinÅung (1965),p.101;Desai,p.255.

134)Mg Mg,p.7;HtinÅung (1965),p.102.

135)Cady (1958),p.180.会員達は宗教問題以外については話 し合いを しなか った。 U BaU,p.63.

136)Cady (1958),pp.193,218;Mg Mg,pp.14-15;Thakin Nu,Introduction,p.XVII.

137)Mg Mg,p.15,ウ一 ・/ミペ-は反逆罪の容疑で1954年12月 4日逮捕投獄 された。Bamakhit1954.12.5. 138)Htin Åung (1965)p.104. 139)Mg Mg,p.15.ウ∼ ・/ミウーは,GCBA を 「政党」 とよんでいるoU BaU,p.63. 140)矢野陽,p.317. 141)HtinÅung (1965),p.104;Trager,p.49. 142)Trager,p.50;HtinÅung (1965),p.107. 143)Cady (1958),p.231. 144)Smith,p.95. 145)U BaU,p.78. 234

(18)

大野 :ヒル マ国軍史 (その1) は しば しば 逮 捕 投 獄 され た あ げ く, 1939年 に 死 んだ146'が , ビル マの民 族 主 義 に 与 え た そ の影 響 は 実 に大 きな ものが あ った。147) ウ一 ・ウ ィザ ヤ は, ウ一 ・オ ウ タマに 次 ぐ 「僧 侶政 治 家」 で あ るO ウ ィザ ヤ僧正 は地 租 税 に 反 対 して投 獄 され148', 出獄 す るや 反政 府 的 言動 の科 で また もや逮 捕 , 166日間 に わ た る断 食 を 敢 行 して1929年 獄 死 した。‖9) 1930年12月22日, メ- ヤ - ワデ ィ-一地 方 を中 心 に 発 生 した 「農 民-

.

摂 _ll帥 )は , こ う した僧

政 治 家運 動 の頂 点 で あ -'たol51'この- 僕 を指 導 した のか サ ヤ 一 ・サ ンで あ る.152)飯 徒達 は手製 a)小銃 数 丁 と刀剣 を 除 い て 武 器 らLい 武 器 す ら持 って い なか った153'が , 反乱 は 1932年4月 に 鎮圧754)され る まで 続 い た。 この 「タ-ヤ ー ワデ ィー 反 乱 」 に よ -〕て

1

万 人 が殺 され ,

9

千 人 が投 獄 , 128人 が 処 刑 され た。155)指 導 者 のサ ヤ - ・サ ンは1931年 8月 2日逮 捕 さ汗 56㌦ 同年11 月 16日絞 首 刑 に 処 され た。157) ビル マ の民 族 主 義 運 動 は ,若 い ラデ ィカル な愛 国者 た ちが結 成 した rドゥバ マ - ・7シ ー ア ヨ ソ」 に よって 開花 す るo 二の組 織 は 「全 ビル マ青 年 連 盟

-

5

8

'と iドゥ/ミマ -協会

J

との 合併 に よ って159)1930年 頃 に結 成 さ′れた.160) この組 織 は, も と も とウ ン タ- ヌ運 動か ら派 生 した161) もので , 発 足 当初 は委 員 長 , 副 委 員 長, 書 記 長, 会 計 とト )た役 員 もお い て なけ れ ば , 会 費 の 徴 収 も行 な って い なか った。162)そ の運 動 も, タキ ン ・バ タ ウ ン, タキ ン ・フ ラボ ∼, タキ ン ・ テ ィ ンマ ウ ソな ど11名 の指 導 者 に よ -〕て運 営 され るだ け の小 さな組 織 にす ぎなか った。i63' 146)U BaYin,p.86;荻原 (1965),p.66. 147)Smi th,pp.98199. 148)Cady (1958),p.261.

149)国分正三 『大緬 他誌』下 巻,pp.169-170・,M.Collis,IntoHiddenBurma,p・1721,Cadyp1261・

150)HtinÅung (1965),p.106・,MgMg,p.221,HamTin,pp.352-363.;Shethoe1965.3.1・p120・ 151)Smith,p.107.もっとも,その背景に1929年の世界大恐慌があることは見逃せない。

152)Cady(1958),p.309.--ベイは, これを

民族主義運動」ではない と言 ってい るo Harvey,British Rule,p.74.

153)M.Collis,TrialsinBurma,p.2161,Shethoe1965.3.1.p.21. 15、4)政府は鎮圧に 2個師団を投入 した。U BaU,p.105・

155)HtinÅung (1965),p.106;HtinÅung (1967),p.292.

156)ThakinNu,Iniroduciion,p.XIX・,HamTin,p.444・,UBaU,p,110.

157)MgMg,p.25;BaMaw,p.428.キ ャデ ィーは,1937年11月28日としている。Cady(1958),p・317・ 158)結成当初の役員は, コウ ・テ ィン (委員長), コウ ・カソ (副委員長), コウ ・テ ィー- ソ (会計), メ

キン ・レ-マウソ, タキン ・ノミセイソ, タキン ・プラペ-, タキン ・フラマウソ, タキン ・トウソテ

ィン。HamTin,p.390.

159)Cady (1958),p.375;Tinker,p.7.

160)結成の時期は明確ではないが,DoeBamaAsiayon Thamain Vol.I,pp.44-50・に よれば,ほぼ30 年頃か ら活動が開始されてい るO

161)DoeBamaAsiayonThamaill,P.44.

162)Zbid.,p.51.

163)Ibid.,p.51.執行委員 としては,当初次の 7名が明 らかである, タキン ・バタウン (委員長), タキソ

ティソマウソ (書記長), タキン ・バテ ィン, タキン ・トウソシュ工, タキン ・,、ソ, タキン ・フラボ

-, タキ ン ・ティン- ンoSagainHamTin,Vol.lil,p.332.

(19)

東 南 アジア研究 8巻 2号 「ドゥバ マ - ・ア シ - ア ヨ ソ」 が , 「タキ ン党 」 と も よば れ るのは, 会 員達 が 自 らの 名 称 に 「主 人」 を意 味 す る ビル マ語 「タキ ン」 を 用 い て表 示 した こ とに よる。 タキ ン達 は 強 烈 な 民 族 主 義 者 で は あ った が, そ の イ デ オ ロギ ーは雑 多 で あ った 。 タキ ン ・ソウ, タキ ン ・タ ン トゥ ソ, タキ ン ・ティ ンペ ーな どは は っ き りした共 産 主 義 者 で あ った が, ドゥバ マ 一 ・ア シ ー ア ヨ ソそ れ 自体 は

,

「共 産 主 義 団体」 とい うよ りはむ しろ 「民 族 主 義 団 体」 164)で あ った 。 この組 織 は , タキ ン ・ア ウ ソサ ン, タキ ソ ・ヌ, タキ ソ ・ノミス ェ-, タキ ン ・チ ョ- ニ ェイ ソな ど1936 年 の大 学 ス トを指 導 した 元 ラ ングー ン大 学 学 生 自治 会 の執 行 委 員 た ち, お よび タキ ン ・タ ン ト ゥソな どを迎 え入 れ てか ら体 質 を 強 加す る。165)彼 らの行 動 は 国粋 主 義 的 で あ り166), そ の 目標 は早 期 か つ 無 条 件 の ビル マ独 立 で あ った。167) ビル マ統 治 法 に基 づ く第1回 の選 挙 に よ って1937年 3月 は じめ て登 場 した バ モ ー内 閣168)は, 反 イ ン ド暴 動169), イ ェ-ナ ンヂ ャウ ン池 田労 働 者 の デ モ170), マ ンダ レ一に お け る1939年 の デ モ171)とい った 一 連 の試 練 を受 け て倒 れ , 1939年2月 ウ- ・プ内 閣 が登 場 172)す る。 そ して, 翌

4

0

9

月, ウ一 ・ソーが 第

3

代 首 相 に就 任 した。173)と ころが, 欧 州 に お け る第 二 次 大 戦 の勃 発 は, ビル マ人 の意 志 とは 無 関 係 に, ビル マを戦 争 に 引 きず りこん だ。174)1941年 9月 ウ一 ・ソー は ロ ン ドンに とん だ 。 彼 の念願 は, 戦 争 終 了後 に お け る ビル マの 「完全 自治」 の要 求 で あ っ た 。 だ が, 英 , 米 をか け 回 った ウ∼ ・ソーは, と うと うビル マ- ほ 戻 って来 なか った 。 英 国政 府 に逮 捕 され て ウガ ンダに 幽 閉 され た175)ので あ る。 第 二 次 大 戦 開戦 と共 に , ビル マの民 族 主 義 に も タキ ン達 の考 え に も, 大 きな変 化 が 訪 れ る。 ドゥバ マ - ・ア シ ー ア ヨ ソは, バ モ ー博 士 の 「シ ソイ ェ- ダ-党 」 お よび ラ ング- ソ大 学 学 生 自治 会 組 織 と合 体 して 「自由 ブ ロ ック

(ビル マ語 名 トゥ- ヤ ッ ・ガ イ ソ) を形 成 した。176)自 由 ブ ロ ックの ス ロー ガ ンは, (1)ビル マ独 立 権 の承 認, (2)制 審 議 会 召 集 の準 備, (3)総 督 保 有 権 限 の 内 閣- の移 譲 で あ った。177)彼 らは, 戦 争 が終 わ った 時 英 国が も し ビル マ独 立 を保 証 す るので あれ ば 英 国 に協 力 しよ う。 さ もな くば 英 国 と闘 う178)と主 張 した 。 けれ ども, この 自由 プ ロ ッ 164)Cady (1958),pp.377-8./ミモーに よれば,発足当初は純粋に 「種族的」であ った.BaMaw,p.55. 165)IltinAung (1965),p.110;SoeMaung,PrimeMinister,p.ilo.

166)Foucar,tlivedinBurma,p.82. 167)Butwell,p.28.

168)Foucar,p.83;Cady (1958),p,389;Desai,p.258.

169)M.Collis,IntoHiddenBurma,p.183;Cady (1958),pp.39315. 170)Maung ThitLwin (1967)

171)U Mg Mg Tin,ttMalutlatmitandy,"LokihaPyiduNezin,1968.2.21.

172)Cady (1958),p.402;Mg Mg,p.42;Trager,p.53.

173)Foucar,p.104;Cady (1958),pp.420-1;Mg Mg,p.44;Desai,p.259. 174)BaMaw,p.35;Mg Mg,p.44. 175)Mg Mg,p.46;Desai,p.259;BaMaw,p.52. 176)BaMaw,pp.40,58.結成の時期は1939年10月であ った, とバモーは述べているが, ボウ ・トタンフ ラでは1940年 となっている。BoTun Hla,p.35;大野徹訳 『アウソサ ン将軍 (ⅠⅠ)』p.43. 177)Cady (1958),p.416;Desai,p.259. 178)Butwell,p.33. 236

(20)

大野 :ビル マ甘 車史 (その1) ク内 の タキ ン達 は , か な らず Lも同一 志 向性 を も って い た わ け で は な い。 英 国 の統 治 を終 わ ら せ るた め に は 日本 の協 力 が 必 要 だ と考 え るバ モ ーや タキ ン ・バ セ イ ソ らに 対 して, タキ ン ・ヌ, タ キ ン ・ア ウ ンサ ン らは 中 国- の 口本 の侵 略 に 批 、f帰勺で あ った.179)タキ ン ・ソ ウな どは

, 日

本 との提 携 に 其 向か ら反 対 して い た。180) 若 い タキ ン達 の集 ま り 「ビル マ革 命党 」 は , 友 好 的 外 国か らの援 助 と武 器 入 手 の必 要性 を感 じは じめ て い た。181)ビル マ革 命党 は

1

9

3

9

年結 成 さ

,

h

た1Rコ)もので , そ の幹 部 は タキ ン ・ ミャ, メ キ ン ・チ ッ, クキ ン ・チ ョ- ニ ェイ ン, タキ ン ・バ ス 工-な どで あ ーつた.183) ドゥノミマ 一 ・7 シ ー ア ヨ ンは

,1

9

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9

年 の大 会 で 対 英

協 力181), 武 装 蜂 起 を 決議 した。lB5-マ ウ ソマ ウ ソ, ア ウ ソヂ - な どの学 生 達 は ,

軍事訓

練 の準 備 に と りか か ったO川6)そ Lて

1

9

4

0

年 , ど ル マ防 衛 法 に基 づ くタ キ ン達 の逮 捕 が 始 ま 一)た 。 テ ィ ンマ ウ ン博士 , タキ ン・ヌ, タ キ ン・バ -イ ソ, タキ ン ・ソ ウ, タキ ン ・バ ス ェ-, タキ ン ・バ セ -イ ン らが 逮 捕 投 獄 され た。187)ノミモ - 悼 士 は 動 乱 教 唆

1

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隼 8

月逮 捕 され た。188

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月 ヒ ソ ダ ー タ県 警 部 長 か ら

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チ ャ ッ トの 懸 賞 金 が か け られ た タキ ン ・ア ウ ソサ ン189)は , 地 下 に潜 ったO ア ウ ソサ ンは , シ リア ム石 油 労 働 組 令 の指 導 者190)タキ ン ・フ ラ ミャイ ン (ボ ウ ・ヤ ソ ア ウ ソ) と共 に苦 力 に変 装 ,

8

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日チ ャイ ナ ・サ イ ア ム ・ライ ンの

i

モ客 船 「海 利 号

で 国 外 に 脱 出し

。191)ァ ゥ ンサ ン らの H的 は, 中 国 の 八 路 軍 と連 絡 を と る こ とで あ

/

)

た oH 2' (2) 南機 関 の結 成 と 「三 十 人 の志士 _i 当 時

,

日本 U)参 謀 本 部 で 船 舶 課 長 を して い た鈴 木 敬 司 陸 軍 大 佐 は , 南方 問 題 の調 査 研 究 を 命 ぜ らわ ,

海 の 特 務 機 関 に い た 樋 「1猛 , 杉 井

, 満 鉄 調 査 部 に い た水 谷 伊 那 雄 な どの参 加 を得 て, 対 ビル マ謀 略 を 開 始 した。193' 鈴 木 大 佐 は 口緬 協 会 書 記

南益

」 と変 名, 樋 口は 塩 水 港 製 糖 会 社 の 嘱 託 と して

,1

9

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0

隼 バ 179)Cady (1958),p.418;BaMaw,p・116・ 180)BoThein Sw(i,P.142. 181)Mg Mg,p.47;Butwビ11,p.32. 182)Tinker,p.7. 183)Butwell,p.30. 184)「われわれ全 ビルマ国民は,英帝国主義資本家政府に対

,人的,資金的,精神的 協力,援助支持を行 なわない旨,全員一致で決議」Yebaw HlalllyO,p.131. 185)BoThein Swe,p.141. 186)Mg Mg,p.48.

187)Trこ1g亡r,p.52;Butwell,p.29;BaMaw,p.91;U Hla,p.78. 188)Foucar(1956),p.105;BaMaw,p.97,

189)U Hla,Vol.I,p.78・,BoTun HID,p.37;大野徹訳 『アウンサ ン将軍(II)』 p.44.1939年に も一度

逮捕

されてい る。H.G.Trager,p.170. 190)大野徹 「ビルて共確党の現状」p.159. 191)Cady (1958),p.428;Mg Mg,p.49;BaMaw,p.103. 192)Mg Mg,p.49:逮捕状を逃れてアモイに脱 出 したアウンサ ンには,は っき りした見通 しはなか った と 述べてい る人 もあ る。Htin Åung (1967),p.298. 193)n南棟関外史』pp.2-4.実際の活動は,1940年 3月か ら阻始 された。 『ビルマ攻略作戦』p.9. 237

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