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『戯作三昧』論

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Academic year: 2021

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・ 甘 山 H   田 一   生 lh 物綿は、次のような馬琴の姿を叙述しっつ終わっている。 この時の王者のような幌に映っていたものは、利害でもなけ れば、愛憎でもないけ まして毀者に煩わされる心などは、と うに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議 な悦びである。あるいは恍惚たる悲壮の感激である。この感 激を知らないものに、どうして戯作三味の心境が味到されよ う。どうして戯作者の臓かな魂が理解されよう。ここにこそ ﹁人生﹂はあらゆる残沖を洗って、まるで新しい鉱石のよう に、美しく作者の前に、輝いているではないか。⋮⋮ 思えば、物緬の発端部分では、﹁戦場のように轍々しい﹂ 神田 同朋町の銭湯松の湯で、﹁つつましく隅へ寄って、その温雅の中 に、静に垢を落している六十あまりの老人﹂ が属琴であり、彼の 内面は次のように説明されていた。 この時 ﹁死﹂ の影がさしたのである。が、その ﹁死L は常て 彼を脅したそれのように、思わしい何物をも蔵していない。 云わばこの桶の中の空のように、静ながら慕わしい、安らか な寂滅の意識であった。一切の塵労を脱して、その ﹁死﹂ の 中に眠る事が出来たならば ー 無心の子供のように夢もなく 眠る事が出来たならば、どんなに悦ばしい事であろう。自分 は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない 創作の苦しみにも、疲れている。⋮⋮ ﹃戯作三味﹄の︵物繕︶は、馬琴の ﹁安らかな寂滅の意識﹂が、 ﹁恍惚たる悲壮の感激﹂体験によって一時的に慰謝されるまでの 経緯なのである。人死︶に括弧がついているのは、人生︶に対暗 するものとしての︵死︶ではなく、現在の腐琴が抱え込んでいる ﹁思わしい﹂ 人生 ︵現実︶ に対して、その極北にある ﹁一切の靡 労﹂ のない︵世界︶である。つまり、彼が希求し愛すべき︵世界︶ と換言することのできるものであろう。︵﹁人生L Vは︵人生︶ 一 九 托

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とは異なり、現実のものではなく、話者の想念の産物である。お そらくは芥川もまた、﹁残押し のない ﹁新しい鉱石のように、美 しく﹂ ﹁輝いている﹂ ︵人生︶など存推し得るとは考えてはいな かったであろう。憧憬としての︵ ﹁人生﹂ ︶を創造したとしても、 現実に芥川の抱え込んでいるのは鴻琴と同じ狽雑な︵人生︶であ った。ゆえに、有限な︵﹁人生﹂ ︶を周琴に体験させたのであろ う。だから、﹁不可思議な悦びである。あるいは恍惚たる悲壮の 感激L というすこぶる曖昧で、かつ冷静に考えれば、意外に貧弱 な ﹁感激﹂ を大言壮諦するしか芥川には補がなかったのである。 三好行雄氏は、ここに ﹁観念の肉化﹂ の ﹁不足﹂ を指摘してい る 川 。 冒頭部分には、孤独な馬琴の姿がある。﹁安らかな寂滅の意識﹂ を願う腐琴の、その原囲なのであろう、規実社会 ︵世間︶ への嫌 感感、あるいは帝離状態の馬琴の姿である。現実社会の象徴とし ての ﹁銭湯松の務﹂ における馬琴の ﹁没交渉﹂ 的な姿を︵抗者︶ は強く印象づけられる。 彼は不快な眼を挙げて、両側の町家を眺めた。町家のものは 被の気分とは没交渉に、菅その日の生計を励んでいるn 周琴にとって、日常は ﹁無意味L で ﹁雑然﹂ としたものでしか なく、彼は ﹁没交渉﹂ でありたいと願っている。しかし、彼の嫌 . 言 ︶   洋 感感とは無関係に現実社会は彼の服的に歴然と存在することは当 然であり、そこから逃れることは不可能である。だから彼は常に 苦痛を強いられている。彼は ﹁傍若無人な態度﹂ の持ち王であり、 かつ他者に対して過度に ﹁敏感﹂ な ﹁気の弱い﹂ 人間でもある。 ここで我々は芥川作品に登場する人物︵主人公︶ たちが、かすか だが変化し始めたことに留意する必要があるのではないか。荒っ ぽく言えば、たとえば、¶紺生門﹄ の ﹁下人﹂、逮告 の ﹁禅野 内供し などと周琴とを比較をすればそれが明らかになるのではな いか。﹁ド人﹂ は結局、自己の論理に忠実に従った行動をとった。 ﹁押野再棋﹂ も他者によって ﹁石目尊心﹂ を傷つけられ苦悩するが、 ﹁ほれぼれとした心もち﹂ を拷得する。彼らには、 ﹁どうして己は、己の軽蔑している感評に、こう煩されるの だ ろ う 。 ﹂ というような他者との関係性から生じる苦悩はなかった。あった のは自己との闘争であり、他者との戦いは結局は手際よく処理さ れてしまっている。 内情は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。 ほれぼれとした心もちが、どこからともなく帰って来るのを 感じた。/ − こうなれば、もう誰も嘲うものはないにちが いない。/内供は心の中でこう自分に囁いた。長い弗をあけ

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方の秋風にぶらつかせながら。 ﹁内供﹂ には満足感があり、それは自己の内部で完全に論証可 祀なものである。しかし、別硬で粗述するように、﹃或日の大石 内蔵助﹄ の ﹁内蔵助﹂ は、﹁内供﹂ のようには ﹁秋風﹂ の中での 満足感はないのである。他者の言動を、もはや無視することがで きなくなった ﹁内蔵助﹂ の心理的動揺は、馬琴にも等しく内在し て い る 。 曲亭先生の、著作堂主人のと、大きな事を云ったって、馬琴 なんぞの普くものは、みんなありや磯直しでげす。早い論が 八犬伝は、手もなく水新伝の引写しじゃげえせんか。 とか、あるいは、 暦二二屈琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで 膿には、何もありやせん。・︰︵巾咤︶⋮だからまた当性の事 は、とんと御存じなしさけ それが鉦拠にや、苗の事でなけり や、再いたと云うためしはとんとげえせん。 と席琴の作品を酷評する ﹁妙の小銀杏﹂、彼の批判に対しても鳶 琴は冷静ではいられないようだ。彼は一応、 風Hの中で聞いた感評を、一々被の批評眼にかけて、綿密に 点検した。そうして、それが、いかなる点から考えて見ても、 一顧の価のない愚論だと云う事実を、即座に証明する事が出 来 た 。 という解決にはなってはいるが、﹁綿密に点検﹂ したという具体 的プロセスは︵読者︶には提示されていないし、﹁妙の・小銀杏﹂ の見解が ﹁偲論だと云う事実﹂ に関する腐琴の諭増的根拠も提示 されてはいない。いつぽう、﹁妙の小銀杏﹂ の ﹁愚論﹂ は具体的 である。これは芥川が作品を発表し始めた当初から、新技巧派な どと称されしばしば批判されていた事柄と一致しているからであ る。だから芥川は ﹁腿論﹂ を具体的に作品に書き込めたのである。 芥川は自己に対して浴びせられた批判を﹃戯作三味﹄という作品 のなかで開陳してみせたことなる。要約すれば、それは芥川は過 去の文学作品を参考にしながら ﹁背の事L Lか再けない作家であ る、という非難︵批判︶ である。芥川は、自己に対して投げかけ られている非難を自己分析して、それを作品化し、さらに ﹁愚論﹂ として排旅しようとした。芥川は一種挑戦的であったことになる。 彼は従来の彼への非難には崩してはいないようで、なぜならば、 ﹃戯作三昧﹄は﹃属琴日記紗﹄ ︵華厳異材綿・文会堂・明治四十 門咋二月刊行︶ を参考再として創作された作品だからである・,な らば、芥川は従来の非難を甘受し、その態度を保持しようとした の か 。 それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との閲に、い 二   ﹂ 一 毘

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つも槻綿する疑問である。被は昔から ﹁先王の道﹂ を疑わな かった。彼の小説は彼自身公言した如く、正に ﹁先王の適し の芸術的表現である。だから、そこに矛臓はない。が、その ﹁先王の迫﹂ が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与え ようとする価値との間には、存外大きな楷隅がある。従って、 彼の申にある、道徳家が前者を抒定すると共に、彼の中にあ る芸術家は当然また後者を肯定した。⋮︵中嶋︶⋮彼は戯作 の価値を否定して ﹁勧懲の具﹂ と称しながら、常に彼の申に 傾蛸する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出し た。 鳩琴が ﹁何十年来﹂ 倍じて疑わなかった信仰、 ﹁小机は﹂ ﹁﹃先王の遺﹄ の芸術的表現﹂ であること、これが自己の内部で 動揺し始めていることを馬琴は告白しているのである。芥川は、 ︵なぜ背くのか︶という関越意識について、馬琴のとまどいを描 いているが、ここには︵芸術︶と入道撼︶というような事ではな く、周琴が ﹁芸術的感興に遭遇し する事実を︵読者︶に提示して いるだけである。したがって、一万が他方を凌兜するという現実 も物語としては生じてはいない。自己の作品が ﹁﹃勧懲の具﹄﹂ という規定では規定し切れなくなった。事実として鰯琴の作家と しての生瀬にこうした間麿が生起したか否かは、さして問題では ..二 は なく、それ以上に馬琴にこうした間麿を付与した芥川にこそ悶増 はあると言えよう。︵なぜ背くのか︶ということは、井川にこそ 緊急にl回答を要謂されている問題なのである。にもかかわらず、 ﹃戯作三味﹄においては芥川はiELく対噂した且場では回答を提 出してはいない。ただ、 根かぎり肯きつづけろり今己が番いている事は、今でなけれ ば番けない事かも知れないぞ。 とだけしか芥川は書いていない。同様に、﹁華山渡辺骨L と滴る ︵芸術︶と︵政治︶との事もさしたる鴨も深みもなく、 二人は声を立てて、笑ったけが、その笑いの声の中には、二 人だけしかわからないある寂しさが流れている。 という芸術家は芸術家によってのみ埋解されるしかない、という 芥川の消極的総誠がみられるだけである。 しかし、次の一節には、 私はこの頃八犬伝と討死の覚悟をしました。 という作品の完成という事に問題の回答を委ねた処埋が為されて いるだけである。にもかかわらず、ここには、芥川の.つの回答 と思えるものを︵抗む︶こともできるかも知れない。つまり、詭 弁に過ぎることを覚悟で諾えば、明確に回答しないことによって、 ︵芸術︶に関わる緒間誼に対しての回答とすること、ということ

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ではなかったか。ただ、 私は作者じゃない。お客さまのお望みに従って、軸物を書い てお目にかける手間取りだ。 と断言する ﹁押水﹂ を ﹁心の底から酸蔑する﹂ 属琴の姿勢を描い て、芥川は他の︵戯作︶符と璃琴とを区別しようとしているn 芥 川の︵戯作︶観を杓い知ることができるのは、霊椚汀品だ珊訃帯 ︵大正七咋∼﹁∴咋︶ であるい これは何も革表紙だの洒落本だのの作華ばかりではない。僕 は曲亭捕球さえも彼の拗音懲頒主義を信じていなかったと思 っている。⋮︵中略︶⋮僕は所謂江㍉趣味に余り尊敬を持っ ていないけ 同時にまた被等の作品にも頭の下らない.人であ る。しかし単に ﹁浅薄﹂ の名のもとに彼等の作品を.笑し去 るのは紋等の為に気の毒であろう。若し彼等の ﹁常談﹂ とし たものを ﹁真面目﹂ と考えて見るとすれば、農表紙や洒落本 もその中には幾多の問題を含んでいる。俣等は彼等の作品正 随苛する八人にもやはり料慧昭にこ賛成できない。 ︵ ﹁槽川末期の文芸﹂ ︶ ﹃澄江堂雑記﹄は﹃臓伸一∴昧h執筆綾に曹かれているので、少 し注意して読む必要があるだろうが、芥川らしく気配りをした.r︰ 説である。気配りをしつつ、︵戯作︶館は ﹁勧華懲噛主義を倍じ ていなかった﹂ と言い、彼らに対しても ﹁余り尊敬を持っていな い﹂ という立場を嘲っている。結局は、﹁若し彼等の 逮霊豊と したものを思隼面目=と考えて見﹂ た結果、井川は ﹁幾多の間誼﹂ を発托し、それらが﹃戯作三睦㌫∵として結実した、という純綿に なったのであろうが、きわめて重要な事は、井川が現実に抱え込 んでいる問猶と ﹁幾多の間周﹂ との間に重視した事項がなければ、 ﹃戯作.∴昧=は成立しなかったかも知れないということである。 さらに踏み込んで言えば、まず芥川の側に間周があることが大前 提である、ということである。﹃澄江堂雑記帖でも窺えるように、 芥川が︵戯作︶者あるいは鴻琴に特別に関心を抱いたことは感じ られない。=戯作三昧帖は﹃璃琴日記紗=なくしては成立し得な かった、と断言してもよいのではないか。⋮周琴目視紗﹄という 参考書のために芥川は腐琴と他の人戯作︶者とを区別して述べる ことができたようだ。坪内道連によって ﹁勧善懲頒七滴し けの代 豪であるかのように規定された鳶琴鶴に対して異誼を印ししはてよ うとする芥川の企岡、それは作品=﹁﹃先王の道帖の芸純的貢規L という公式を鳶琴から劉奪することであるが、それが為されたと きへなぜ背くのか︶という問いに馬琴が回答できるか、これが ﹃戯作ご一味帖 の恨〓ではなかったかけ 読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に服の前に . 一 一 ㌧ 一 − 左

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展開してくる。そこには何等の映像も与えない叙強があった。 何等の感激をも含まない詠嘆があった。そうしてまた、何等 の理路を辿らない論弁があった。 馬琴が﹃八犬伝﹄の稀を点検した結果である。これは﹃八犬伝﹄ の全否定であるが、物納の経過を丹念に辿った︵抗み︶では、唐 突の飛頗としか考えられない諸説である。さらに、 彼は机の繭に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破 した船長の姐で、失敗した膵稿を眺めながら、静に絶望の威 力と戦いつづけた。 あ る い は 、 ﹁自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を啓くつもり でいた。が、それもやはり事によると、人並に己惚れの一つ だったかも知れない。﹂ /こういう不安は、彼の上に、何よ りも堪え難い、落莫たる孤独の情を蘭した。⋮︵中嶋︶⋮同 時代の層々たる作者帝に対しては、倣憶であると共に飽まで も不礎である。その彼が、結局自分も彼等と同じ能力の所有 者だったと云う事を、そうしてさらに厭う可き遼東の承だっ たと云う事は、どうして安々と謬められよう。しかも彼の強 大な ﹁裁﹂ は ﹁悟り﹂ と ﹁締め﹂ とに避難するには余りに情 熱に盗れている。 二四一括 という馬琴の絶望的な姿と重ね合わせるならば、事の垂大きは知 らされたとしても、残念ながら︵なぜ︶という疑問は強く残る。 なぜこんなにもたやすく過去の自己︵の作品︶ を否定することが できるのか。これほどまでに客観的に自己分析が吋能なのか。こ うした自己反省の姿を周琴のものとして、芥川が人絹瀞︶に提供 したとは考えにくい。﹁悟り﹂ と ﹁諦め﹂ には括弧がつけられて いて、明らかに漱石と鴎外との精神を意味していて、庸琴の自己 点検と自己反省とは芥川自身のそれとして︵兢む︶ことは卜分に 可能である。というよりもむしろ芥川の吾白である、と断一打して も決して過藷ではないだろう。 ﹁情熱に溢れているし鰯琴は、﹁同時代の層々たる作者翠﹂ と ﹁同じ能力の所有者だったと云う事J を絡めたくない。それほど に ﹁彼の強大な﹃我﹄﹂ は強い。そして、安易に ﹁避難する﹂ こ とにも抵抗がある。残された適訳肢は多くはない。同時代の作家 と同じものではなく、悟りの境地にも至れないし、ましてや過去 の自己のものでは﹁絶望﹂ でしかない。結周は新しい︵創作態度︶ を模索し創造してゆくしか術はない。ところが爛琴は r孫の太郎﹂ の吾輩によって救われる。彼は ﹁浅草の観音様し の言葉として属 琴 に 、 勉強しろ。病癖を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。

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というかつて漱石が芥川に送った酋簡︵火iE五年八月二十一旦 の内容に似たアドバイスをする。これに対して、馬琴は次のよう に 感 動 す る 。 鳩琴の心に、厳粛な何物かが剃卯に閃いたのは、この時であ る。彼の層には幸福な微笑が浮かんだりそれと共に彼の服に は、いつか湊が一ばいになった。 いささか滑稽とも思える描写だが、﹁観音様しの言墾いわば 天の啓示であるから馬琴は感激し受け入れたのであろう。ここで 鴻琴は﹁絶望の威力Lから救済されている。 彼の井にはいつか雌蜂の声が聞えなくなった。⋮︵中略︶・・・ 彼は神人と相掩つような態度で、ほとんど必死に背きつづけ た。 そして既述したように﹁三味の心境﹂に應琴は投入してゆくの である。この行為によって、彼が直面しているさまざまな閉居が 的確に解決された、とは言い難い。すなわち、芸術に対する無理 解な世間の人々の中傷や自己が抱え込んでいる芸術に関する苦悩 は、何ひとつ解決されてほいない。いわゆるへ三昧︶境は馬琴の ﹁書斎﹂という極めて限られた場所においてのみ、紋によって体 験されているわけで、﹁再嬉しから一歩外に出た彼には、依然と して彼を煩わせている問題が残存したままである。もっとも、芥 川に閲歴を解決しようとする意図があったとはあまり考えにくく、 問題点の提出とその解決とは別の間感である、ということではな かったか。現実の社会が馬琴︵芸術家︶に理解を示すことについ ては、馬琴の期待感はほとんどない。﹁自尊心﹂ の強い彼と世間 との妥協はあり得ない。彼にとって︵人生︶を生きるということ は作品を完成させる営為であり、その他の事柄は、︵人生︶の ﹁ 残 押 し   で し か な い 。 いくら鳶が鳴いたからと云って、天日の歩みが−とまるもので はない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時 は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。 ﹁古今に比倫のない太伝奇﹂ の完成に邁進する行為にすべてを 賭けている馬琴にとって、その障害となるものは﹁下等﹂であり、 つまらない。﹁六十あまり﹂ ︵芥川は綴りとも思えるほど幾度も 繰り返しのべている︶ の﹁眼も少し惑い﹂老芸術家にとって、 ﹃八犬伝﹄の完成がおそらく最後のチャンスであったはずである。 ﹃八犬伝﹄と﹁討死﹂する覚悟は膚琴には確かに内在していた、 と言ってよいだろう。周琴がこれほどまでに﹃八犬伝﹄ ︵芸術︶ に拘泥するのは、騰琴が︵人生︶に対してほとんど興味を失って いるからであり、﹁安らかな寂滅の意識しは紋の心を接触しかけ ようとしている。彼が︵死︶へ一気に向かわないのは、﹃八犬伝﹄ 二 五   霞

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の完成が彼の人生︶をきわどく保障しているからであろう。した がって、馬琴の人生︶の営為は作品︵芸術︶ の完成への営為と重 なっている。一般的に考えば、︵戯作︶とは、︵戯作︶者の自嘲 的な自己規定であり、彼らの勧善懲惑主義はいわばカムフラージ ュであり、封建体制のなかで生き抜く方便であったと諾えよう。 馬琴が ﹁芸術的感興Lを体験し、そのことに不安を感じたという ことは、彼を取り巻いている現体制に対して、消極的に謀反を企 てたことになるのではないか。我々はすでに﹃或Hの大石内蔵助﹄ の内蔵助に r道徳を休現した満足﹂ の的に伴む姿せみている。鰯 琴は、内蔵助よりさらに一層道徳に対してのフラストレーション を強く感じているのではないか。﹁華中渡辺堂﹂ との会話に若干 の体制批判がみられるが、﹁芸術的感興﹂ に不安感を抱く馬琴の 姿は自己の芸術の支柱を喪失することへの不安だけにとどまらな いのではないか。被の︵人生︶の東根が道鰭にあると考えるのは ︵前者︶としては当然で、﹁芸術的感興﹂ の体験は新たな芸術へ の志向をかすかに示唆するだけにはとどまらないものを含んでい るのではないだろうか。憶測に過ぎるとの訝りをうけるかも知れ ないが、芸術家としての馬琴のみに眼を向けることに少しこだわ りを持つこともあながち無益ではない。 何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。 ∴宍∵頁 馬琴の ﹁創作﹂は ﹁近江屋平吉﹂ の ﹁発句﹂ のような︵遊び︶ ではなく、生活の橙を得るための職業であった。そこには ﹁創作﹂ にともなう︵喜び︶は、仮にあったとしても極めて少なかったで あろう。﹁芸術的感興﹂ とは無線の芸術家が、ある日それを体験 したとすれば、それを失いたくはないと思うのが自然であり、と まどいつつも貪欲に希求するのは当然である。それによって ﹁創 作の苦しみ﹂ も幾分は慰謝される。物請の結末部分で ﹁悲壮の感 激﹂ に浸る膚琴の姿を撒いて、芥川は彼に栄光の瞬間を付与した。 ﹁銭湯﹂の﹁隅﹂で﹁静に垢を落している﹂姿からの急激な変貌 である。にもかかわらず、芸術家としての膚琴が救われたとは ︵読者︶は感じない。既述したように、﹁音義し外の現実社会は 何一つ変わってはいないからである。 ﹁困り者だよ。確なお金にもならないのにさ。﹂ 賓の ﹁お百﹂ に代表されるように、やはり世間は周琴に冷たい。 雌膵はここでも、潜嘉でも、変りなく秋を鳴きつくしている。 基本的には芸術家馬琴のあり様も生活人としての彼の何も変わら ない。﹁書斎﹂ を二歩出たならば、披はあの r銀歯﹂ の姿に戻る しかなく陶酔は永くは続かない。﹃職作三味﹄は、芸術家のある べき理想の姿はごくわずかしか提示されないが、芸術家を取り巻 いている療感すべき現実をより具体的に提示している点において

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手際のよい作品である。が、芥川のもくろみが現実提示により力 点があったか、といえばそうではあるまい。彼のもくろみはむし ろ逆で、やはり結未部分の芸術家︵属琴︶ の姿にあったと思われ る。しかし、被の膚岡に反した﹃戯作三昧﹄が生まれた。その反 動として芥川はもう一度、芸術家の姿を追求しなければならなか った。その結果として﹃地獄変帖が生まれたのである。ただ、誤 解のないように付諾しておかなければならないが、馬琴のデフォ ルメとして良秀が生まれたのではなく、周琴と良秀の間には思い のほか大きな間隙がみられる。 芸術家が芸術家の姿を拙くという行鵜には、何かしら相異なも のがあるようだ。自由也、あるいは埋想像などという言葉で明確 にできる場合もあり、それが不可能な場合も軋る。いずれにして も、芸術家としての自己が作品に影を落としていることは査めな いようである。このような事態は︵続着︶の側にもみられるよう で、他の作品に対する︵読み︶とは少し異なった︵抗み︶をして いるようだ。比喩的な言い方ではあるが、たとえば ﹁時間﹂ とい う漢字に ﹁とき﹂ と括弧つきのルビを掘った ﹁時間﹂ という漢字 を読む行為に似ているのではないだろうか。文字は ﹁時間﹂ であ るから ﹁じかん﹂ と読んでよいひが、括弧つきのルビを無視でき ないときがある。おおよそ三パターンの︵読み︶があるだろう。 文字を忠実に抗む、ルビに従って前む、そして文学とルビとの双 方を統む。そして、この選択は︵読者︶の自画に委ねられている よ う で あ る 。 .. 以上、馬琴の言動に沿って概述した。これはいちはやく菊池寛 に よ っ て 、 彼の創作的吾白でなくして何であろう。ただ彼が世の所紺地目 白小机よりもっと芸術家であるために、曲亭属琴を仇偽とし て、告白の代理をせしめたのにすぎない。田 と指摘された。後作、芥川自身も、 僕の鴻琴は鵬僕の心もちを描かむ為に属琴に仮り・たものと思 われたし⋮︵中略︶⋮そう云う試みも感しからずと思う。 ︵大正十一咋一月Ll九日・渡辺伸輔宛薄情︶ と述べた”これによって、﹃戯作三味﹄を素朴に馬琴の物語とし て︵読む︶ことは避けられているようである。赤痢も、いわゆる 應琴爪悦偽︶組を否定するものではない。しかし、全面的な肯定 もしない。菊池の指摘は偏狭に過ぎるし、井川の述懐の言葉は唾 味と藷えば書える。ただ、馬琴︵偲偽︶説を尊貴するあまりに、 二 ヒ   琵

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素朴に席琴の物綿として︵読む︶ことが許されない、あるいは周 琴︵仇偽︶的な︵読み︶が優位であるかのような現状は訂jEされ なければならないことは述べておきたい。﹃戯作三昧﹄が、﹁彼 の創作的吾白でなくして何であろう﹂ とまで、断言されるのは ﹃戯作三昧﹄という作品そのものに関越があるようだ。締約風に 言えば、作=冊の内実の脆弱きに由来している。かつて漱石が逮皆 に対して激賞した芥川の作品の持つ美点はことごとく、=戯作三 味﹄には見られないのである。したがって、穿うたみかたをすれ ば、僻地は、﹃戯作三昧帖を作品 ︵小机︶ としては、高くは評価 できなかった為に、既述したような評価しかすえられなかったの ではあるまいかけ あるいは、作家として誰もが持っている間絹を 芥川が代介したことに対する贅辞なのかも知れない。とかく我々 は菊池の指摘にこだわるあまり、﹃戯作三昧﹄を摘み絞る危険性 に留意すべきである。菊池の﹃戯作三昧﹄という作品の入坑み方︶ は、我々に容易に﹃戯作三昧﹄ の解釈の方法を示してはくれるの だが、同時に平板な理解にとどめてしまうことも確かである。 次に芥川自身の言葉をもう﹂ つ見てみたい。井川は﹃戯作三昧﹄ 執筆時 ︵大正六咋上月︶、アンケートに答えて、次のような事を 述 べ て い る 。 私は至極月並に、﹁薄きたいから青く﹂ という答をします。 二 八 亘 ⋮ ︵ 中 嶋 ︶ ⋮ 現 に 今 私 が 背 い て い る 小 説 で も 、 正 に 判 然 と 背 き た い か ら 番 い て い ま す 。 ⋮ ︵ 中 嶋 ︶ ⋮ 私 の 頑 の 中 に 何 か 混 沌 た る も の が あ っ て 、 そ れ が は っ き り し し し た 形 を と り た が る の で す 。 そ う し て そ れ は 又 、 は っ き り し た 形 を と る 事 そ れ I T 1 身 の 中 に 目 的 を 持 っ て い る の で す 。 こ れ は お そ ち く り 戯 作 三 昧 ﹄ に 轡 り ず 、 ど の 作 品 に も 言 え る 言 説 で あ ろ う が 、 ﹃ 戯 作 三 昧 ﹄ に つ い て 諾 え ば 、 ﹁ 何 か 混 沌 た る も の ﹂ と は 芸 術 家 の 在 り 方 の 事 で あ ろ う 。 ﹃ 戯 作 三 味 ﹄ で は 、 芸 術 壕 が 日 常 生 活 の 中 で 直 面 す る 事 が 其 体 的 に 描 か れ て い る 。 . す で に 見 た よ う に 、 作 品 の 筋 だ け し か 興 味 の な い 愛 続 瀬 、 独 浮 的 な 批 評 家 的 読 潜 、 芸 術 を 営 利 目 的 化 す る 吾 紺 、 そ し て 橘 琴 の 妻 で あ っ た け 芥 川 は ま ず 芸 術 に 対 し て 無 理 解 な 人 々 を 描 い た 。 ﹁ は っ き り と し た 形 ﹂ で 捕 出 し て 見 せ た の で あ る 。 そ し て 彼 ら と 必 死 に 戦 う 鴻 琴 の 姿 を 描 い た 。 渡 辺 華 山 だ け が 周 琴 の 心 を 平 静 に し て い る 。 こ こ に 芸 術 家 は 芸 術 家 に し か 埋 解 さ れ な い 、 と い う 芥 川 の 総 縄 が 煩 え よ う 。 芥 川 は 腐 琴 を か な り 偏 狭 な 人 間 に し た 。 日 韓 心 が 強 く 、 と か く 衆 人 を 下 等 祝 す る 璃 琴 の そ れ で あ る 。 彼 は 、 こ の 自 然 と 対 照 さ せ て 、 今 更 の よ う に 世 間 の F 等 さ を 思 い 出 し た 。 鳶 琴 が 世 間 の 人 々 よ り も 自 分 を 優 位 に 置 く 客 観 的 根 拠 は 何 も な

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い。にもかかわらず芸術を自己と同じような理解を示さない人物 に対しては俗物扱いする。多くの戯作者のうち、唯一人戯作者と 呼ばれることを嫌ったのは周琴であったことは多くの専門家の指 摘するところである。こうしたリゴリスト属琴と芥川との出会い は偶然だったのだろうか。三好氏は、従来の指摘である腐琴への 芥川の尊敬、あるいは.一人の家腱や芸術家としての共通性などを 排除して、次のような指摘をした。 溌之介にとって、鳶琴はもともと芸術家として北ハ感を通じあ う対象ではなく、﹁馬琴日記抄﹂ という便利な羞材にさそわ れて、﹁戯作三昧﹂ を構想したというのが事実だろう。旭 一二好氏は ﹁鳶琴日記紗L l属琴l﹃戯作三味帖、という創作過 程を想定している。たしかに芥川は馬琴についての言及は意外に 少ない。先に引用した﹃澄江蛍雑記﹄と﹃小説を背き出したのは 友人の煽動に負う所が多い﹄ ︵大iI三八咋︶だけである。後者では、 少年の頃の一変抗薄として属琴 ︵﹃八犬伝﹄︶が掲げられている だけである。三好氏の指摘は、芥川と鴻琴をごく淡自な関係と見 なした点では辻横が人目つている。なぜならば、三好氏もまた﹃戯 作三昧帖は、属琴を描くことを目的として浮かれたものではない、 という従来の説を採っている用。そうした解釈がなされるかぎり、 芥川にとって鳩琴を拙くことの必然性はあり得ないからである。 ﹁偽偽﹂ に必然性を執拗に求めることに、どれ程の意味があるの だろうか。ゆえに ﹁悦偽﹂ 説をほぼ躇鶴しっつ、馬琴に必然性を 求めない点においては三好氏の輪埋は正しいのではあるまいか。 では、なぜ芥川は﹃戯作三味帖を啓かねばならなかったのか。 芥川は大正六埠に﹃倫盗﹄ を背いている。﹃倫盗帖 はいわば ﹃群生門帖 のド人の︵それから︶を描こうとした作品であり、そ こにはいわゆる︵平安別物︶からの脱皮が企図されていたようだ。 しかし結果は、﹁熱のある時天井の木目が大理石のように見えた が今はやっぱり唯木目にしか見えない¶愉盗﹄を浮く前と背いた 後ではその佗な差﹂があり、.﹁一体僕があまり様な事の出来る人 間し ︵大正六咋三月二﹁九日・松岡諌宛書簡︶ ではないと芥川は 書いている。﹁様な事﹂ という言葉が新境地開拓の企図であった。 そして、芥川自ら ﹁安い絵草紙﹂ ︵岡︶ と再いたように企図は失 敗した。しかし、芥川は再度新しい企図を試みようとした。彼は 芸術家としての自己の創作態度を明確にすることを試みる。その ことを作品という虚構の世界で言明しようとした。それが芥川に とっての﹃戯作三味﹄ の持つ意味ではないだろうか。芸術家とし ての璃琴の内面が変化しようかとするような過程を丑念に描出す ることによって、自己の創作態度の変化を提示しようとしたので はないだろうか。無意識ではあるが席琴の変化の撒候は、芥川の 一 一 l U   一 一 一 も ∴ . リ ノ   F L J

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意識的なそれとほぼ並行している、と酌み取ってもよいのでない か。 ﹃澄江堂雑記﹄ ︵大正七隼∼十三年︶ で、芥川は ﹁僕は曲亭馬 琴さえも彼の勧善懲感主義を倍していなかった﹂ と断言している。 ﹃戯作三昧﹄執筆後の吉葉である。この言親は、当時の席琴観、 坪内道連に代表されるような見解とは異なっている。しかし、芥 川が馬琴に関して時に専門的な知識があったとは考えにくく、根 拠をもたない私見であろう。﹃戯作三昧﹄では、﹁先王の道﹂ を 倍じている馬琴を芥川は描いた。そして、その信仰がかすかに動 揺する姿をも描いた。﹃澄江堂雑記﹄では芥川は断一言し切った。 この時、芥川の内部では︵道徳︶と︵芸術︶との問題は一応の締 約が出たのではないか。しかし、それは解決と言うべきものでは なかったであろう。なぜならば、芥川はこうした関越を回避した からであり、︵芸術︶における︵道徳︶の問鰯は深刻に芥川には 生起しなかったのではないか。 ﹃或日の大石内蔵助﹄ ︵木正六咋八月︶は、次のような叙述で 閉じられている。 このかすかな梅の句につれて、冴返る心の底へしみ透って来 る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来 るのであろう。− 内蔵助は、骨空に象轍をしたような、堅 . . 言 ︶   丘 く冷い花を仰ぎながら、いつまでも才んでいた。 内蔵助は ﹁復啓の挙﹂ を ﹁道徳上の要求と、ほとんど完全に一 致するような形式で成就したし にもかかわらす、彼の心は︵不愉 快︶なのである。その傾向は、﹁江戸中で仇計の真似事が流行る﹂ という噂を伝聞する毎に強くなる。大偉業を完遂したにもかかわ らず、彼は︵空虚︶なのである。世間が彼の行為を賛美すればす る程に︵不安︶感は増嘱される。披だけが孤独なのである。彼の ﹁忠義﹂ が ﹁江戸の町人﹂ に ﹁賛美し され、それと同時にかつて 味わった ﹁安らかな満足の惜し は、すでに彼の胸中にはない。 ﹁寂しさは、l体どこから来るのであろう﹂ という感慨が彼を不 安にしている。﹁道博士の要求﹂ を ﹁成就した﹂ にもかかわらず、 時間の経過とともに彼を鶴ったものが、︵空虚︶感であったこと は注目すべきであり、内蔵助は︵空虚︶感を埋める術を知らず、 ﹁才﹂ むしかなかった。が、﹃戯作三昧﹄ の馬琴は ﹁寂滅の意識﹂ を︵青く︶という行為でそれを回避しようとしている。祖述しか できないが、内蔵助も属琴も ﹁道徳Lの要求﹂ や ﹁先王の道﹂ な どというものに対して安住することができなくなった人間なので ある。彼らには無意識神に逸脱願望があるのではないか。ここに ﹃或Hの大石内蔵助﹄から﹃戯作三昧﹄ へ通底するものがある。 ﹃戯作三昧﹄は、﹁寂しさ﹂ をたたえて ﹁才んでし いる内蔵助

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の姿を描いて閉じられる﹃或日の大石内蔵助﹄の世界から開示さ れているのである。︵空虚︶感というバトンは、内蔵助から應琴 へ確実に手渡されていると言えよう。 ご一 芥川はもう一人の芸術家を描いてみせた。=地獄変﹄ ︵人目三七 年五月︶ の良秀である。﹃戯作三昧﹄執筆から一年にも満たない 時期に﹃地獄変﹄は番かれている。﹃戯作三昧﹄は芥川自身述べ たように ﹁頭の申﹂ にある ﹁何か混沌たるもの﹂ を具体化してみ せた作品であった管だ。﹃戯作三味﹄にはあの﹃愉盗﹄に見られ た激越な芥川の不満の言葉は見られないし、好評でもあったよう だ。 ﹃地獄変﹄の艮秀は自らの死と引き換えに芸術作品の完成を達 成した芸術家である。良秀は馬琴が嫌感する現実社会を持たなか った。自らの意思でそれを断った。だが、馬琴には︵人生︶は絶 えずつきまとう。︵人生︶と︵﹁人生L Vとの相互往適的行為が 続く。この限りにおいて鴻琴は幸福であったかも知れないが、根 本的解決は為されないことも事実である。艮秀には ﹁芸術家の勝 利−不幸な勝利し 脚があったが、鳩琴にはそれは起こり得ないで あろう。既述したように後咋、芥川は友人︵渡辺︶ に﹃戯作三味﹄ の意図を繕っている。芥川の ﹁心もち﹂ は馬琴の言動に形象化さ れている。﹁心もち﹂ という言葉は多義的ではあるが、馬琴が艮 秀のような芸術家でなかったのは、芥川の芸術観がそうさせたの である。﹃戯作三味﹄執筆時の彼の芸術観は、まだその端緒につ いたばかりであったのかも知れない。日朝伸一∴味帖では、彼をと りまいている創作に関する諮問蔦をとりあえず緊急に提出した、 という程度のものではなかったか。撒鉦ではあるが、先に引用し た書簡 ︵渡辺宛︶ には次のような青葉も見られる。 現在の供は短歌も俳句も男児.生の事業とするに足らぬもの とは思い居らず r渡辺庫相﹂ の背筋がどのような内容のものか不明であるが、 芥川は弁解をしているようである。馬琴は ﹁短歌も俳句﹂ を軽祝 したが、おそらく ﹁渡辺庫紺﹂ はその点を芥川に尋ねたのであろ う。その回答として、﹃戯作三味﹄での見解を芥川は撤回してい る。周琴が︵不快︶を感じる出来事の大部分は、﹃戯作三昧﹄執 筆繭に実際にこ芥川の身辺に起った畢そのままであるけ彼は素直に ストレートに間融点を提出している。﹁虜琴に仮りた﹂ という形 式である限り、晩年の芥川にみられる深刻な︵蛇口自︶と同じ程度 のものではないことを留意しておくべきである。 三 一 度

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このように芥川自身までもが、﹃戯作三味帖は鳶琴を描くこと を目的としている作品ではないことを明言している。そして、芥 川に近しい人々も自倍を持って、周琴﹁鴨鍋﹂ 説を指摘している。 こうした作者=主人公という︵読み︶は、挿話だが﹃賊作。一味帖 では否定することはで針まいCこれも・つの人絹み︶である。し かし、菊池の指摘は、新聞連載小説の締着にとっては何らの影響 も及ぼさないけ彼らにとって芥川の苦悩など何らの興味を喚起す るものではなく、素直に江戸時代に生きる周琴の生活を知るだけ である。こうした健全な︵誼み︶が一方では確実にある。菊池の ような︵統み︶が吋能なのは、馬琴が江一P時代の芸術家であるに は、若半逸脱していることも否めないからでもある。﹃戯作三味帖 の馬琴が、完璧な江戸時代の芸術家でも、完璧な現代の芸術家で もない、という中途半端さのためであろう。 この申途半端さを解消するために、﹃戯作三昧h の馬琴が辿り ついた地点に酷似した地点から、﹃地獄変﹄ の世界は開示されて いる。‖地獄変﹄には︵踊り手︶が登場しているのは、芥川が作 品世界から一定の距離を置くことを膚回していた。換言すれば芥 川は作品に対して虎杖を回避できる位置に自己を撞いたのである。 自己を作品世界から無農任な位置に置きつつ、作品の時代設定や 歴史上の実在人物であるという芸術家應琴の限界を打破するもの ・ 二 ・ ・   あ ・ l 、 ﹁ ト r としての﹃地獄変﹄が再かれたのである。‖戯作三昧﹄には︵滴 り手︶だと明確に断言できる人物はなく、おそらく作潜であろう と想像できるような人物でしかない。そのために、﹃戯作三昧﹄ と芥川との間隙が少なく、葡異な言い方だが艮秀にくらべると鳶 琴は日常的存在感がある。が、芸術家としての鋭い関頭提示もな く、したがって解決も為されていない。菊池氏が指摘したような ﹁悦悔し でもなければ、芥川自身が述べたような ﹁仮り﹂ もので もない。歴史上の実在人物であり、人々の紀憶にも決して古くは ない人間が、完璧な ﹁伐積し などになりようがないでのではない か。たまたま ﹁便利な素材にさそわれて﹂ 吾かれた﹃戯作三昧帖 は、この点に冊しては井川の意図を﹁分には反映し得ていないの ではあるまいか。芥川に﹃鴻琴日紀紗﹄ についての言及が見られ る限り、﹃戯作三味﹄執筆に際してそれを参考にしたことはほぼ 間違いあるまい脚。ただし、これまでの完7茸物詭﹄や﹃宇治拾 漣物語﹄などの部分的な楷用とは過って、虚構の自由がかなり束 縛され、作者の患者はおのずと限定されている。 僕は悲観しているどうしても或ところより先へはいれないの だ頭もはいれないし文章もはいれないのだ ︵大正六咋上月﹁二日・松岡諏宛番簡︶ この ﹁悲観﹂ は、おそらく﹃戯作三昧﹄執筆以前には体験しなか

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った様相のものであろう。ここには﹃周琴日記紗﹄ に呪縛されて いる芥川の苦闘が矯える。芥川は、冒頭で ﹁天保二年九月のある 年前﹂ に属琴を ﹁銭潟﹂ に赴かせて、蔑識的に歴史的事実そのま まの腐琴から離れることを試みるが、﹃戯作三昧﹄ でそれが為さ れたとは言い難い。そしてそのことが、逆に﹃戯作三昧﹄が芥川 の芸術家のあり様の吐館はかなり噴昧となり、馬琴の物語として の・作品となり持たのではないか。膚琴は決して ﹁恍偽﹂ としての 役割に徹し切っているとは言えないだろう。新聞連載小説として の﹃戯作三昧﹄が好評であったのは、井川の ﹁創作的吾目し では なく鷹琴の姿であった。なぜなら、﹂艇の前者にとっては芥川の 抱えている間再には何ら興味はなかったであろうし、知る111もな かったからである。 ﹁恍惚たる悲牝の感激﹂ の瞬間を体験した馬琴が、﹁先※の迫﹂ を捨てたわけではない。﹁先王の道﹂ は作品の内容に関わるもの であり、﹁恍惚たる悲壮の感激﹂ は作者の創作行為に関わるもの である。 ﹁恍惚たる悲壮の感激﹂ が真に対暗するのは、周琴の ﹁寂滅の意識﹂ である。﹁寂滅の意識﹂ を馬琴にもらした原因の 一つに ﹁生活に疲れている﹂事を考慮に入れるならば、芸術に対 する無知な現実社会と対時しているとも一諾える。ゆえに鳶琴と ﹁先王の道﹂ との関係は、﹃戯作三昧﹄ においては根本的な解決 は為されていない。﹁先王の遵﹂ を一時的に凌解するものしての ﹁恍惚たる悲壮の感激﹂体験が提示されているだけである。おそ らく芥川は﹃戯作三昧﹄で橘琴に付与できるものの限界を知悉し ていたであろう。︵芸術︶と︵遺徳︶との関係の解決は﹃戯作三 昧﹄では為されないlI しかし、その解決が﹃地獄変帖 で為された というのではない。﹃地獄変﹄は︵芸術︶と︵遺徳︶との関係と は無線の世界の物語である。芥川は︵滴り手︶という手法を獲得 したことによってへ虚構︶という形式を最大限に活用した。︵語 り手︶を設定することによって、甘川はその作品に対して傍観者 的立場に身を置くこともできる。その結果として、¶地獄変=は 成立し得ている物納である。良秀もまた ﹁恍惚とした法悦の輝き﹂ の境地に至るのだが、馬琴の ﹁恍惚たる悲壮の感激﹂ 体験と重ね 合わせて、﹃戯作三昧﹄から﹃地獄変帖 への慮緑的通路を想定す ることは早計ではないだろうか。︵読者︶は二作品に慮外に大き な懸隔があることに留意すべきであろう。良秀にとって︵人生︶ は彼の娘だけである。彼女 ︵人生︶ を︵人生︶の ﹁残津﹂ として 葬り去り、芸術創造行為によって︵﹁人生L Vを拝持した芸術家 としての艮秀と、瞬時の ﹁三昧﹂境を体験する鳶琴との懸隔であ る。ゆえに ﹃戯作三昧h の世界をさらに押し進めた結果として ﹃地獄変﹄があるのではなく、芥川の内部の患者的な論理の︵飛 .二三 首一

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臓︶が為された結果として、﹃地獄変帖の世界は威ム接したのであ る。 何語になるが、﹃戯作三昧﹄は新開連載小説である。作者は、 文芸雑結などよりもはるかに不特定多数の︵前者︶を想定しなけ ればならない。菊池の発語はいわば芥川の身内の潜であり一、﹂般 の︵前者︶は馬琴の物語として健全に﹃戯作三昧﹄を抗む。たし かに﹃戯作三昧﹄は ﹁八犬伝の作家についての独創的な解釈でも なければ、忠実な門像画でもない﹂ 川作品かも知れない。だが、 璃琴を拓かなかったわけではないけ そして同時に、周琴の背後に 芥川の姿が確実に見えることも事実である。﹃地獄変﹄では︵滴 り手︶を設定することで、自己の繁を隠すことを試みているけ ︵語り手︶の設宛は︵前者︶に作品惟界への想像を拡大させるよ うにみえるが、﹃地獄変﹄ の場合はあらかじめ予定されている運 命を辿る芸術家の姿をなぞることを︵試着︶は強要される。それ に比して、﹃戯作三昧﹄では馬琴の才能を疑うことも、あるいは ﹁恍惚たる悲壮の感激﹂ 体験さえ疑うことも決して不可能ではな いという噴味な自由がある。歴史的事実を踏まえたうえで、作品 に対して︵読者︶が参入することができる愉しみを与えたのが ﹃戯作三昧﹄ではなかったか。同時に、芥川の企みは自己の芸術 の新境地へと向かおうとする意思表明もあったことは確実である。 . ・ . 川   洋 ﹃戯作三味﹄は馬琴の物語としての︵続み︶と芥川というコンテ クストの中に置いて︵抗む︶ことも可能なのである。 目的を完遂した後の洞見感に永く浸ることのできなかった人1i 内蔵助の姿は、芥川の自画像であうたのかも知れない。漱石の激 賞によって小説家としてデビューした芥川ではあったが、やがて 作品の停滞を臓しく感じ取らなければならなかった。そこで﹃紺 生門=や﹃鼻帖的なスタイルからの脱出が企図された。しかし、 ﹃愉盗﹄の失敗にみられるように厳しい現実となった。これが芥 川の︵空虚︶感である∵本石内戚助の姿と芥川とは登なうている。 同じく、H戯作一言禁 の属琴には ﹁H先王の迫t1.1 の芸術的衣睨﹂ としての創作態度に対する自己点検の結果としての︵不安︶、こ れも芥川の︵不安︶と読み替えてもよいだろう。︵なぜ薄くか︶ という問いに ﹁背きたいから薄く﹂ と﹃戯作三昧﹄執筆時に芥川 は答えた.,それが暫定的な回答であったことは、﹃地獄変﹄の執 筆が何よりも雄弁に繕っているのではないだろうか。つまり、 ︵書く︶という行為の向こう側にあるものを希求し続けることが 芥川の内部で本格的に始動し始める。 ただ、﹃地獄変帖も含めて、﹃戯作三味﹄執筆時の、芥川がま だ︵芸術︶を信じることができた幸福な時期に許かれた作品であ ったと言えるのではないだろうか。

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紋 日 三好行雄 ﹁ある芸術査−二主為し 初出不評。 ︵筑摩杏房二九七六年九月三上‖︶ 所収、 也 菊池寛﹁芥川龍之介に与ふる香し ︵﹁新潮﹂ 月 号 ︶ 。 畑 紋日に同じ。 ﹃芥川龍之介輸﹄ 二 五 庄 。 .   し 一   ° . ヽ 一 ト 一 .   − ノ ・ ノ イ ・ 周 三好行雄、前掲書、一二一五。 個 宮本療治﹁敗北の文学﹂ ︵﹁改造﹂・一九二九年八月号︶。 ﹃芥川報之介全集別巻﹄ ︵筑靡酋房二九七一年﹁﹂月五日︶ 所収、九十三東。 鵬 ﹃澄江蛍雑記﹄ ︵大正七年∼卜三隼︶ の ﹁徳川末期の文芸﹂ で普及している。 用 綻刷に同じ。 三 五 二 見

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