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〈論文〉自我の消尽としてのコメディ--イーヴリン・ウォーと道化の風俗小説

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Academic year: 2021

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(1)文学・芸術・文化/第. 25巻第 2号 /2014.3. 自我の消尽としてのコメディ ーイーヴリン・ウォーと道化の風俗小説吉岡ちはる 1 .r 偽の死j あるいは主体のない主人公 イーヴリン・ウォーの小説群を通読していて気づくのは、主人公または何らかの 重要人物が、小説の終わりに基本的に死ぬことが、彼の原型的物語の重要な特徴と なっている、ということである O 死で終わるといっても、ウォーの小説にあって、 実際に死ぬのは他の人物であり、主人公の「死」はつねに、偽の死. ( f a k ed e a t h). r. であり死のパロデイ (mockd e a t h)である o 大転落j ( D e c l i n eandF a l l1 9 2 8)の ポール・ペニーフェザーは、運命のいたずらによって放り込まれた刑務所を、偽の 死によって脱出する O ポールは、それまでの自己を抹殺し、遠い親戚を踊って、振. r. AHandlul0 1 り出しのオックスフォード大学神学部学生に戻る o 一握の塵 j ( Dust1 9 3 4 ) のトニー・ラストは最後に、ブラジルで幽閉されて、非識字者の首長 のために延々とデイケンズの音読をさせられ続けるが、本国では死んだことになっ ている o. r スクープj( 5 c o o ρ1938) の ウ ィ リ ア ム ・ ブ ー ト は 、 元 々 人 違 い. ( m i s t a k e n i d e n t i t y)から、派遣特派員として エチオビアをモデルにしたイシュマ エリアに赴き、成り行きでスクープを物にして大スターとなるが、本国に帰ると、 彼の功労に対して与えられた勲章は、人違いが捻れて戻り、元のジョン・ブートに 行ってしまっている O ウィリアムは、戦時ジャーナリストとして築いた社会的自己. i l eBody1 9 3 0)の を抹消し、ブート・マグナの田舎に引っ込む。 『卑しい肉体j (V アダムは婚約者を失い、戦地で自分の軍隊を失い、暴落で無価値な紙切れと化した 小切手だけを手に、喪失者として漂流しているところで小説が終わる O ウォーが最 少しばかりの学問 j (AL i t t l e 晩年に書いた、全 3巻の予定で 1巻で終わった自伝 『. Learning 1 9 6 4) にしてからが、2 0代の彼が自殺しようと海に入って、クラゲに刺 されたのが嫌で、戻ってくるという、死のパロデイで終わっているのである O. -208-. (2 7).

(2) 自我の消尽としてのコメテ、ィ 吉岡. ウォーの主人公がほとんど常に偽の死やそれに類する終わり方をするということ は、逆にいえば、彼らの身体は不死身であるということでもある O つまりウォーの 小説にあ って、主人公は決して実際には死なないので、この サイクルは、自伝を未 完のままに作者自身が死んで始めて幕を閉じた 。それは彼らが、そもそも死に値す るほとミの主体を持っていないからである O 主人公の死で終わるのは悲劇の物語構造 の基本であるが、それは主人公の強烈な意志と唯一的な人格が、彼らの時代と激し い摩擦を起こした末の、終結である O ウォーの殊に初期の小説の主人公たちは、そ のような人格、主体をほとんど持たない代名詞のような存在として、知られてい るO ポールもアダムもウィリアムも、本人はまったく「無垢 Jで無意志で受け身で あり、ほとんど自我のない人物である O それだけに彼らは、ピッチコックのサスペ. r. ンスの巻き込まれ型主人公のように、奇想天外な事件に次々に遭遇する o 大転落』 でウォーは、「ポールが血肉をそなえた人間になったのは一晩のこと、翌朝日をさ ましたときには、スローン・スクウェアとオンズロー・スクウェアの途中のどこか. 1 2 3) 、といった奇妙な文を書いている O とい に実体を忘れてきてしまっていたj1 ( うのも、「ポール・ペニーフェザーは主人公になんかなれるわきゃないわけでさ、 唯一興味をひくのは、その 影 が 報 告 す る 突拍子もない事件の連続のためなんだか. 1 2 3) 0I 物 語 に 先 立 つ 平 穏 な 日 々 に 展 開 し つ つ あ ったポ ール・ ペ ニーフェ らJ( ザー J( 1 2 2)は、「文明社会の非常時にも礼を失わず決然と身を処すことができる. 12 2) 、つまり主体性のある人物だ ったのだというが、物語が始 まる はずの人物 J( と、彼は「影」になってしまう. O. ここでは処女作らしくというか、彼がわざわざそ. ういう存在になっていることを、ウォーはこうした挿話によって、思わせぶりに読 者に伝えている O 彼らの生が影のようなものであるならば、彼らの死もまた実体の ない偽の死になるしかない 。 しかしそれにしでもなぜ、ウォーはわざわざ注釈を加 えながら、主人公を影のような存在に仕立て上げているのだろうか。. それだけでは存在することができない、あってなきがごとき主体、というものの 系譜を遡って辿り着くひとつの地点は、ルネサンス時代の道化である O 道化とは. 1. 翻訳は富山太佳夫氏のもの (岩波文庫、. 1 9 9 1 ) を使用させていただいた 。以下断りのな. いかぎり、翻訳書を文献に挙げていない書物からの引用は、拙訳である O. ウt. qL. ハU. (2 8).

(3) 文学・芸術・文化/第 25巻第 2号 /2014 .3. 「虚の空間」であり、「それ自体は無であるがそれなくしてはドーナッツが存在し得 ないような」ドーナッツの穴である(高橋 1 31 ) 例えば、シェイクスピアの『ヘ 0. ンリ. -4世』に出てくる道化の極みであるフォールスタッフは、親の権力に背を向. けて放蕩しているハル王子を遊びに連れ出す相手として、芝居に笑いと活力を注ぎ 込む、大変魅力的なキャラクターである 。 しかし、その人気のあまりシェイクスピ アが女王に懇願されて書いたとされる、彼を主人公にした『ウインザーの陽気な女 房たち』が、そのために面白いものになっているかというと、定評は逆である O 道 化であるフォールスタッフはハル王子ないしヘンリ -4世の宮廷という中心の存在 を前提として、その周縁をコマのように廻りながら、中心の硬直を解す存在であ るO ドーナ ッツの穴は、 ドーナ ッツがなければ存在できない 。彼は定義上、自身が 主人公と して物語を推進していくことは困難なの である O ハル王子は、通過儀礼と しての放蕩時代にフォールスタッフ的要素を存分に吸収したので、中心に帰り咲い てヘンリー 5世として即位すると、剰余となったフォールスタッフを追放する O 『 ヘンリ -4世』の完結とともに、フォールスタッフは社会的自己を剥奪される O ウォーの初期の主人公たちが主体性の希薄なアンチ・ヒーローであり、世間のお 笑い草を語り継ぐ狂言廻しであることか ら、彼らをそのような道化の 2 0世紀にお ける生まれ変わりとして、位置づけることができる O しかし彼らは、シェイクスピ アの時代の道化とは違う. O. ルネサンス時代に隆盛をみたような、伝統的な道化は、. 0世紀におけるこれらの 王族などの身分の高い人間に仕える者だったのに対し、 2. c o m monman) である O つまり彼らは、道化がそ 主人公たちはみな 市井の人物 ( うであったように、どこかに寄生しているのではなくて、自分自身で人生を営める ようでなくてはならず、つまり自ら主人と道化とを兼任しなければならない。現代 人の内面的な欠落感は、神を最頂点にしたこのような身分制度の崩壊と、当然関係. 9世紀の産業革命による商業主義とその担い手としての大衆の台頭を している o 1 目の当たりにしたマシュ ー・アーノルドは、ロマン 主義的な自由なる 個人が、多数. 5 )0アーノルドはそ 者の社会の中で大衆に堕落した、と言っている(サイファ- 4 のような「中産階級」に教養を積むことを説くのであるが、急、に平等な地平に放り 込まれたコモン・マンは、結局どうしていいのか分からない。 ブルジョワ草命に よって、このよ うな責任ある決断をする準備のできていないコモン ・マンが量産さ. -206-. (2 9).

(4) 自我の消尽としてのコメディ. 吉岡. れ、自由を獲得したはずの民衆は、それをどう使えば良いのか分からないまま放り. 0世紀には、道化がその周辺でうろうろし、それを茶化す存在として 出された 。2 の、確固たる中心が、限りなく希薄なのである. O. その兆候は、 2 1世紀にはますま. す強まっている O イギリスの「失われた世代」 というべき、 1 9 0 3年生まれのウォーの世代は、こ うした時代のツケを嫌というほど意識させられる役回りであった 。商業主義は必然. 9世紀以来の価値観は、世紀末的に第一次大戦を引き起こし 的に帝国主義化し、 1 9 2 0年代に青春を送った世代は、その喪失 た。その大義の空虚さが明白になった 1 感を補償しようとするかのような時代の狂騒に身を委ねた 。当時の若者たちは、同 時にハル王子でありフォールスタ ッフであるような、白我の希薄な道化的主体とし て、中心のない「祝祭」の世界を、その日暮らしに生きていた 。中世以来の民衆の 伝統であり、それをルネサンス時代の作家たちが文学作品として定着した「祝祭」 とは、厳格な日常からの休息であり、秩序立った社会の存在を前提にしている O し かし、「華やかな若者たち ( B r i g h t Young T h i n g s) Jと呼ばれた 1 9 2 0年代のロン ドンの若者たちにとって、現実は戻るべき秩序の世界を持たない祝祭であった 。 ま ず何よりも「華やかな若者たち 」の代弁者として作家的地位を確立したウォーの描 く主人公が、道化のように主体のない人物であることは、そのような主体の在り方 が、現実だ、ったからである. O. r. 2 . 卑しい肉体』あるいは表層の道化踊り ウォーがその出版によって一躍時代の寵児となった、「華やかな若者たち Jを題 材にした 2作目の『卑しい肉体Jには、そのような時代風俗が、危なげな絢嫡さを. r. 以て描かれている o 卑しい肉体』は、イギリス行きの船の描写から始まる O これ に乗っていたアダムは駆け出しの物書きで、仕上がって出版社に出すことになって いた自伝の原稿を、描写がみだらであるという理由で、いきなり没収されてしま う デイヴィッド・カパフィールドやオリヴァー・トゥイスト的な、連続的な人生 O. の物語を書くという営みは、彼の時代には一筋縄ではいかない 。冒頭に挿入されて いるこのエピソードは、アダムが参入していくのが、主体的な意味のある人生が失. (3 0). -2 0 5.

(5) 文学・芸術・文化/第. 25巻第 2号 /2014.3. われた世界であることを標している O これで出版社との契約がご破算になり、金の ないアダムは、フィアンセのニーナと結婚することができない。 ところが彼は、と りあえず居を落ち着けたホテルで、金持ちとカードゲームをして大勝する O 濡れ手 に粟で大金. 1 0 0 0ポンドを手に入れたアダムは、今度のレースで無名の馬が勝つか. らその金を預けろと言う、酔っぱらいの少佐に金を託す。その 馬は確かに大穴だ っ d. たのだが、少佐はどこかへ消えてしまい、見つけてものらりくらりとすれ違うばか りである. O. 仕方なくニーナの父に結婚の資金援助を頼むと、彼は気易く引き受け、. アダムは上機嫌でニーナの元へ帰るが、アダムが得た小切手は、よく見るとチャー リー・チャ ップリンと署名されていた 。小切手はジョークだ、 ったのである O ニーナの父は、当時大衆的な人気を恋にしはじめた、映画への投機に熱を入れて いる. O. 彼が投資しているのは、 1 8世紀の国民的英雄、社会的宗教的改革者ジョン・. ウェズレイの伝記映画である O しかし、物語が劇的で重要なアクションに及ぶた び、映画はど ιどん速くなり、暴動の場面もあまりにもスピードが速いため、ほと んど気付かないくらいである O そうかと思えば庭での牧師たちの会話や、お祈り や、寝ている場面などが恐ろしくうだうだと長い。ウォーはウェズレイの伝記を書 こうとして、挫折したことがある O 彼の時代にはそのような国民的英雄の物語は、 キ一トンの映画のようなパロデイになってしまうのである O 「華やかな 若者たち Jは 日々パ ーテ ィーをしてどんち ゃん騒ぎをしているが、ア ダムはその傍観的参加者となって、彼らのゴシップを書く コラムを引き 受けて生活 を凌く二しかし、映画の投機に失敗して父が文無しになったニーナは、金持ちのジ ンジャーと結婚してしまい、アダムは目的を失う. O. ニーナはアダムの子を産み、ジ. ンジャーは自分の子だと思っているようよ、とノンキな手紙を書いてくるのであっ た。そのうち戦争が勃発し、戦場で自分の軍隊にはぐれ喪失者となっているアダム は、ばったり少佐に会う. O. 少佐は. 3 5 . 0 0 0 +ポンドの小切手を確かにアダムに渡す. が、そのときは戦時インフレでポンドの価値は急落し、何の足しにもならない額に なっていた、というところで小説は終わる O 『卑しい肉体』には、 「華やかな若者たち」が日 々興じていたパーテ ィーがどのよ うなものであったかを書いた、有名な一節がある O. -204-. (3 1).

(6) 自我の消尽としてのコメディ 吉岡. (仮面パー ティー、野蛮人パ ーティー、ヴ ィク トリアン・パーティー、ギ リシャ・パーティー、野生の西部パーティー、ロシア・パーティー、サー カス・パーティー、誰か違う人の扮装をしなければならないパーティー、 セント・ジョーンズの森でほとんど裸でするパーティー、アパートやマン ションや家や船やホテルやナイトクラブで、風車やプールでするパー ティー、マフインやメレンゲや缶詰めの蟹を学校で食べるティー・パー ティー、ブラウン・シエリーを飲んでトルコ煙草を吸うオックスフォード のパーティー、ロンドンでの退屈なダンス、スコットランドでの面白おか しいダンス、パリでのしょうもないダンス一一それらすべてのひとかたま りの人間たちの連続と反復・・・それらの卑しい肉体-一) ( 104). これはまさに、自我のない「ひとかたまりの人間たち ( massedhumanity) の連続 と反復」である O みなそれぞれに仮装し、様々な舞台空間を仮定して、日々違った アイデンテイテ ィの饗宴を繰り返す。 シニフ イエのな いシニフィアンの戯れ。仮装 しているからといって、隠すような自我があるわけではない。むしろ隠すような自 我のないことを装おうとしてでもいるかのように、彼らは仮装をつづける O 「華やかな 若者たち Jは 、 まず何よ りも親の世代の規範に対する反逆集団だっ た。道徳の締めつけの行き着いた先が、第一次大戦であ ったのであれば、そのよう な規範や体裁は守るに値しないからである O 彼らはその反逆のよりどころを、別の イデオロギーで置き換えることをせず、社交の粋とでもい ったもの 、彼 らが「楽し みJ( f u n ) と呼ぶものに置いた 。それ以上の何か意味のありそうな、上から降って きたような固定価値は「退屈 J( b o r e) であって、そこにシニフイエを置いてしま えば、また硬直してしまうからである. O. 従って、彼らのボヘミア的なその日暮らし. の享楽・パーティー三味の日々は、確かにデイオニッソス的な自由と解放の空間で あった 。そこにセンス(意味)のないことにセンスがある O ウォーの主人公たちが 無意志で受け身な、いわば自我を喪失した「卑しい肉体 J( vi l ebody) であるの は、このような世相を反映した主体であるからだということができる O それでも彼らの間で「宝探し」ゲームが流行していたのは、何かを探し求めるこ とのシミュレーションとしてだっただろう. qJ. ハU. 臼 つ. (3 2). O. アダムにとっては、ニーナと結虫害する.

(7) 文 学 芸 術 ・ 文 化/第. 25巻第 2号 /2014. 3. ことが宝探しのゴールであり、またあくまでもそのために必要なものとして、彼は 金、ないしそれを持った少佐を、追い求める O アダムはニーナに言う. O. r . . バカバカしく聞こえるかもしれないけど」とアダムは言った r * 吉婚っ o. ていうものは、続いていかなきゃいけないものだと思うんだ。ず、 っと長い 問 、 っていうことだよ O 君 も そ う 思 う ?J 「そうね、それは結婚ってことのひとつの要素だとおもうわ」 「君もそう思ってくれててよかった 。 そうかどうか自信がなかったんだ。 そうじゃなきゃ、結婚なんて、ニセモノみたいだろ?J( 1 0 4). 「華やかな若者たち」の「宝探し」は、あくまでもゲームであり、シミュレー ションである O アダムはそれに何か違和感を感じているが、さりとて他の何に価値 を 見 出 せ ば い い の か 分 か ら ず 、 愛 と 結 婚 と い う こ と を 「宝 Jとみなす。 ロスト・ ジェネレーションの作家による「最後の悲劇 Jとでも呼べるかも知れない、フイ ツ ツジェラルドの 『グレート・ギヤツピー J( 1 9 2 5) において、戦争による社会的な 大義を失ってアメリカに戻 ったギャツピーは、禁酒法時代に法を逸脱するような商 売をして成金となるが、それは昔の恋人であるデイジーと結婚するためである O 第 一 次大戦従軍には少し年の若かったウォーが造形した、大義があらかじめ失われた 世界に投げ込まれたアダムも、そこに個人的な価値である愛と結婚を補填しようと するところは、同じである O しかしデイジーもニーナも現実的であって、恋人が結 婚できない状態であれば、身軽に次の男に乗り換える O ギャツピーがあくまでも揺 るぎないロマン主義的な確信を抱きつづけて悲劇の主人公になるのに対し、アダム はそのような確信をもつことができない 。 アダムはゴシ ップ・コラムのネタがなく なると、架空の人物を創造してゴシ ップをで、 っち上げた 。架空の人物だから当然遭 遇できないようにしなければならず、誰にも会えないほど忙しいように書くと、か えって立身出世にあくせくする人物たち ( c l i m b e r s)の憧憶を煽った 。 その架空の 人物にイモージェン・クエスト(探究)という名をつけたのは、あくせくと宝探し をしても、それはゲームとしてしか成立せず、宝はどこにもないのだという、 ウォーの譜諺である O. つ中 ハU つム. (3 3).

(8) 自我の消尽としてのコメディ. 吉岡. 『 卑しい肉体Jのある書評者は、この小説の行聞を読めば我々は「火山の上で踊. H a r t l e y9 8 ) ことが分かるかもしれない、と り、断崖の端で酒盛りをしている J(. 0年代の文学 書いている O またアイルランドの小説家シアン・オファーレンは、 2 を、ジョージ・ガーシュウインが 1 9 2 4年にクラシ ックとジャズの要素を融合して 作曲した 『ラプソデイー・イン・ブルー』に喰えている O. 彼らは運命と刻々ときざまれる時の感覚のもとで書き、創作した 。それは いつも、ガーシュウインの『ラプソデイー・イン・ブルー Jから得る感じ である O オープニングに急に高まる、狼狽し泣き叫ぶようなクラリネ ッ トO ぎょっとさせるような、また瑚りの猫の鳴き声のようなサキソフォ ンo. 有名な、メランコリ ックな主旋律は、 2 0年代の悲痛への聖歌、我々. の父たちが我々から剥ぎ取 ってしまった良き時代への挽歌である o ( 28-. 2 9). 『卑しい肉体Jのきらびやかな表層の下には、何か物欲しそうなものが見え隠れ している O それが何かは、「華やかな若者たち」のみならず、ウォー白身にも分っ ていない 。 『卑しい肉体』は、パーティー・ピープルの狂乱を斜交いに眺めて、そ んなことをしていても何の宝探しにもならないという訊刺を込めながら、その訊刺 の中に自らの拠り所のない喪失感を漆ませて、落ち着きのない社会を落ち着きのな い文体で描き止めることに成功している O しかし逆にいえばそこには、中心に対す るデイタ ッチ メ ン トをもって喜劇性を維持する、道化の強さといったものはな い。 中心と周縁との境界がなくなっているから、中心的価値と周縁的価値とを自由 に行き来する、道化の軽やかな安定感がないのである. O. それがこの小説の未熟さで. r. もあり、瑞々しさでもある o 大転落Jと『卑しい肉体』 におけるウォーは、中心. r. なき世界に浮遊する道化という困難な綱渡りの世界を、辛くも維持している o 卑. しい肉体』は、奇想天外な中心なき祝祭空間が、 1 9 2 0年代の若者にとって、日常 からの解放ならぬ日常そのものであることを記録した、 2 0世紀の風習喜劇である O この小説の語り ( n a r r a t i v e)が表層的で不安定であることは、このような社会が、 道化的主体を生む土壌でありながら、道化的主体にとって結局綱渡りの困難な世界. (3 4). 201-.

(9) 文学・芸術・文化/第. であることを表象している. 25巷第 2号 /2014. 3. O. 3 . ウッドハウスになれなかったウォー 『卑しい肉体』を書き始めたころウォーは、友人の小説家ヘンリー・グリーンに. . G .ウッドハウスの 書いた手紙の中で、これは「華やかな若者たち」についての P. L e t t e r s3 6 )0 ウォーが敬愛していた P . G .ウッドハ ような作品だ、と書いている ( ウスは、個性的でユーモラスな貴族の世界を金太郎飴のような作風で描いた、イギ リス・エドワード朝時代の喜劇作家である O エドワーデイアンのウッドハウスに とって身近な現実であった世界は、アリスの不思議の国のような世界であって、人 物たちはその世界の中では実体があるが、現実の大衆社会においてみると、初期の ウォーの人物たちと同様、何やら現実感がない、ということにもなる O ウォーは、 ウッドハウスの世界は「時間に支配されない世界、不可思議な怪物たちが棲息する. E s s a y s5 6 7 )、2と書いている O 世界」である (. いかなる乱行に及ぶにもせよ、すべての登場人物たちは汚れを知らぬ天国 の住民なのであります。 ウッドハウス氏にとっては、人間の堕罪など存在しなかったのです。... 彼らはまだエデンの園にいるのです。ブランデイングズ城の庭こそ、神が われわれすべてに禁じた楽園なのであります。 ・ ・・ウッドハウス氏の牧歌的 世界が古びることなどありえません。未来の時代がいかに現代より不愉快 であろうと、ウッドハウス氏は人々を生活の重荷から解き放ちつづけるで しょう. O. 氏はわれわれが心やすらぐことのできる別世界を創造してくれた. のです。 ( 5 6 7 8 ). 『卑しい肉体Jについてのウォー自身のコメントは、小説の書き始めの頃のもの であり、執筆途中で妻に浮気されて逃げられ、書き終わった頃には、作者自身もそ 2 翻訳は岩永正勝氏と小山太一氏の共訳のものを使用させていただいた(ウッドハウス. 2 0 0 5) 0. -200-. (3 5).

(10) 自我の消尽としてのコメディ 吉岡. れがミスリーデイングであることを認識していたかも知れない。 ウォーは彼の作品 において、そのような世界に限りない郷愁の視線を向けつつ、彼の言葉を敷桁すれ ば、すでに楽園から追放された堕落した世界を生きていくにはどうしたらよいの か、ということを、無意識にせよ考え続けていた 。 ウッドハウスの世界が時間に支 配されないとすれば、ウォーの世界は、時間との闘いである C ウォーの作品は、い かに時間の、時代の圧力に抗するか、という問題に対する彼の解答であり、初期の 彼にとってその答えはコメデイだった 。 ウォーは『大転落』において、大衆社会の 現実を、あたかも望遠レンズを通して視ることによって、切り抜けようとしてい るO 距離を以て眺められた現実は、いかに悲惨なものであっても、笑いを誘うから である. O. 例えばポールがいったん恋に落ちた相手のマーゴットは、台頭していく資. 本主義大衆社会の権化のような人物であって、父譲りの少女売買の貿易会社を錬腕 によって切り盛りし、警察の手に掛りそうになると、素早く立ち回ってポールを身 代わりにして刑務所送りにし、白分は別の男と結婚する O 彼女は悪人には違いない が、よくいる会社の経営者の戯画に過ぎず、小説に笑いを注ぎ込む重要な人物であ るO 他方そうして刑務所に入ったポールが、主体のない人物として通常は言わな い・持たない「本音」を漏らす場面がある O. 独房に拘禁されていたそれからの四週間は、ポールの人生で最も幸福な 日々のひとつであった 。心地よい物はたしかに無に等しかったが、リッ ツ・ホテルにいるうちに、物理的な安らぎのみでは足りないことがよく分 るようになっていた 。何かの問題について決断する必要がなく、衣食と時 間を思いわずらう手聞から完全に解放され、他人にどんな印象を与えるか と疑心暗鬼になることもなく、そう、要するに自由であるということは、 何と爽快なことだろう. o. 髭をあたる必要も、どのネクタイをするか迷う. ことも、文明人の寝起きの時をかき乱すワイシャツの飾りボタンやカ ラーやカフス・ボタンで気をもむこともない 。髭そり石鹸の宣伝に登場す る、遠く手の届かぬ憧れでしかない早朝の心の平和を実にあっさりとわが ものにしている風情の幸福な人種のひとりになったような気さえする. ( 1 7 0 ). d. 凶. nJ 同 ハ 1lム. (3 6). O.

(11) 文学・芸術・文化/第. 25巷第 2号 /2014.3. これは社会でなぶり者にされているポールが刑務所を、そこからの束の間の休息の P. ,. E. ・ ・-. 1 9 3 6)に 場と感じていることを示している O チャップリンの『モダンタイムス j ( おいてもチャーリーが、同様の感慨を述べながら、敢えなく出所になってしまう、 というエピソードがある O 社会での野心など何もないポールやチャーリーが、刑務 所の日々を幸福であり自由であると感じるのは、不思議ではない。社会の方が余程 牢獄なのであるというきわめて真っ当な逆説を繰り出しているこの場面の笑いは、 綱渡りの緊張からの解放である O この部分について小池滋は、. 自分の人間としての本質というか、個人としての存在のしるしとでもいう. o n e ' sowni d e n t i t y ) を放棄して、(真の意味での)自由な決断・選 もの ( 択から逃避することに、自由と喜びを見出すのは、多かれ少なかれ現代人 のおち込んだすがたであることは、すでに多くの人々(例えばエーリッ ヒ・フロム )から指摘され、多くの作家(例えばグレアム・グリーンやナ イジェル・デニス)が好んでとり上げた題材である O 現代において、新し いピカレスク小説が特別な意味をもつのは、こうした情況からであるし、 ウォーの『衰亡記j 3が、そうした一連の作品のもっとも早い、注目すべき. 5 3 4 ) 例証となっていることは間違いない 。 (. と書く. O. この指摘は『大転落Jという小説、そしてウォーの作品世界全体が苧んで. いる、主体のない主人公というものに対するアンピヴァレンツを浮き彫りにしてい るO ポールの主体性のなさは、例えばエーリッヒ・フロムの言うような否定的な文 脈で、捉えられる性質のものではない 。そうであれば、ウォー的主人公はそのよう な現代社会に適応し、何ら良心の阿責といったものから自由に、世の中を渡り歩い ていける筈だ。 しかし彼らが「偽の死」を遂げるのは、まさしくそのような社会か らの離脱を図るために他ならない 。むしろ後年、フロムが告発しているそのような 「現代人」がますます跳梁する世の中になるに つれ、ウ ォーは次第にあからさ まな 違和感を表明する ようになり、批評家たちはそれをデイタッチメン トの喪失と難じ. 3. r 衰亡記』 は. 『 大転落Jと同じ小説の題名の異訳である O. o o. ny --. (3 7).

(12) 自我の消尽としてのコメディ 吉岡. るO そのようなお気楽な「現代人」としてウォーが描いた典型的な人物は、『ブラ イヅヘッドふたたびj ( 1 9 4 5 ) に出てくるフーパーである. O. 軍隊で連隊長がフー. パーの 髪に文句を付け、皆が聞が悪い思いをしている中で椅子に腰掛けていきなり 髪を切られた彼に、主人公のチャ ール ズが詫びると、フーパーは、「別に何とも 思ってはいませんよ、冗談位、我慢しなきゃ」、と全く意に介さない。それは彼が 軍隊というものに何の夢も持っていず、「或は少くとも、宇宙全体が彼にとっては. 8 ) 4からであ 深い霧に包まれているのから区別出来る特定の夢は彼にはなかった J( るO アーサー王が倒れた西方での戦いなどの、チャールズが心を震わせたことのあ る憧慢の対象となる史実も、フーパーにとっては意味のない名前でしかない 。 フーパーはある個性というよりは現代人の一般的な姿を現しているに過ぎなくて、 チャールズは彼を「今日の英国の青年の象徴」とみる は 、. O. 確かにフーパーの世界で. i ( 真の意味での) 自由な決断・選択」など、そもそも存在しない 。悲劇も喜劇. も成り立たないであろう. O. フーパーとポールは、全く似ても似つかない人物である O 表面的に、何が起 こってもお気楽に凌いでいける、というピカロとしての資質と、それが悲劇の主人 公となるようなロマン主義的自我からの離脱であることは同じであるが、フー パーはまさに大衆の一人であるのに対し、ポールはそのようなピカロ /影の主体を 意識的に演出して、個性が平板に均された大衆の時代に入り込みながら抵抗してい る、ダンデイである O コメデ ィとは、距離を置いてみられた現実の世界であり、 ポールが影のような存在であるのは、それが内的自己つまり主体性によって動いて いるのではなく、外側から鳥搬的に視られた自己であるからである. O. ポールが先の. 引用で感じた「自由」 とは、あたかも現代の若者の保護色を装うかのように、自分 という主体すら外側から視続けている、世界という舞台上の緊張からの自由なので ある O だからポールの主体性のなさは、そのような「現代人のおちこんだ姿」と同 一視できるものではない。『卑しい肉体』がウッドハウスになり損なったのは 、 ウォーがそこに気づいてしま ったからである O ウ ッ ドハウスの世界の住人たち、 「不可思議な怪物たち」は、大衆社会の動向など我関せずに、彼ら自身の倫理の下 に生活していた 。一方 「華やかな 若者たち Jは、確かにデイオ ニ ッソス的空間で、 4 翻訳は吉田健一氏のものを使わせていただいた ( ちくま文庫、 1 9 9 0 )口. -Ei. 円 i Qd. (3 8).

(13) 文学・芸術・文化/第. 25巻第 2号 /2014. 3. あたかも旧弊な伝統に拘束された自我からの自由を謡歌するような祝祭的日常を 送っていたが、そこには結局、何の批評精神も価値基準も存在しなかったのであ るO. 4 . ウォーにおける「調刺 Jの正体. ワイリー-サイファーは『現代文学と美術における自我の喪失』において、. 科学技術の世界において、個人がファンクショナリーの背後に消えか かっているとき、時代遅れの、あるいは、少なくとも現代の大規模な力の 操作の犠牲となっている独立した自我というあの古い自我の観念によらず に、なんらかのヒューマニズ、ムを持つことができるであろうか?そのよう なヒューマニズムは、自我が匿名であるというわれわれの感情と折り合い をつけねばならず、したがって、自我のロマン主義的な観念を乗り越えな. 1 9 ) ければならない。 (. と問題提起している O ウォーの課題もまさにそのようなものだっただろう. O. つまり. 時代がロマン主義的な観念の終罵を宣言 し、匿名の自我が跳梁する世の中で、時代 遅れな人文主義的な自由はいかなる表現を取り得るのか、ということである O その 答えが一筋縄ではいかないことは言うまでもないが、ウォーは現実を鳥服的に視る という戦略によって、そして自ら視て歩いた現実を小説に書き続けることによっ て、その時々の様々な解答を捻出した 。『一握の灰』についてウォーは、自分が. Essays ヒューマニズムについて知っていることを書いたのだ、と賄いている ( 3 0 4) 0 ナイーヴなロマン主義的自我を田舎のヘ ッ トン邸に温存して、平穏な日々を 送っていた積りでいた所が、子供に死なれ、妻に逃げられ、果てはブラジルの奥地 に幽閉されて、. トニー-ラストは 「 偽の死」を余儀なくされる O それは彼のような. 人聞が道化の鎧を持たずに社会に出ればどうなるかという、戯画化されているが故 に本質的な、ケース・スタデイである O しかしウォーはトニーを、読者の同情を誘 う悲劇の主人公としては、決して書いていなくて、そこにはあくまでも滑稽さを醸. phu. 1i. n 同d. (3 9).

(14) 自我の消尽としてのコメディ. 吉岡. し出す、デイタッチメントが保たれている O 大方の喜劇がそうであるように、当人 は悲惨な運命を辿っているトニーを傍から見れば(苦)笑うしかないのであって、 結局彼もポール同様の道化なのである O ブラジルでデイケンズの音読をさせられ続 ける毎日というのは、人生という牢獄における無窮動の生を、端的に現した漫画で ある. O. ウォーは、哲学的思考に基づいて作品を書くような、理知の立つ作家ではな かった。若い頃は遊興三昧で飲酒と社交に明け暮れる日々を送り、中年期以降は田 舎に建てた家に隠遁するようなポーズを作りつつ、何かにつけて南方に旅行したり 戦時ジャーナリズムの仕事を請け負ったりと、猿雑な現実の中にどっぷりと身を浸 していた。それが彼の小説における現実感覚を、逆説的に保証している O ウォー的 主人公がそのような現実界を浮遊するために、理知ではなくても特化しているもの があって、それは「眼」だった。ギャツピーは、現実の無秩序と不条理を「視」る ことができずに破滅するのであるが、ウォー的主人公はまさにその「眼 Jによっ て、現実界に居場所を得る O ポールが「影」であるということは、眼であり鏡であ るということでもある. O. 影のような主人公が巻き込まれる状況の描写を通して. 我々が視るものは、同時代の世相であるからだ。 ウォーの主人公たちが眼の主体であるということは、訊刺作家という彼の定評と 関係がある. O. しかし、『ブライズヘッドふたたび』の出版後に書かれたエッセイ. 「 フ ァンファ ーレ」においてウォーは、自分は訊刺作家ではない、と言っている. O. 訊刺というのは、そこに訊刺の対象となるような確固たる社会基準が存在してこそ 機能するものであって、 「コモン・マンの世紀」には成り立たない、というのであ. E s s a y s3 0 3 4 ) 秩序の崩壊による存在することの価値への疑惑や、アイデン る ( 0. ティテイの無化を痛切に感じている彼が、自我を亡きものとして自分を描くことは すでに述べた 。そのような現代の実存的状況を、抽象的なナラテイヴに究極につき つめたのがベケットである O 自我の内部の空洞を、徹底的に剰余を削り取った文体 で描き止めたのである O ウォーのコミックとしての存在価値は、ベケットのように 徹底した抽象性を獲得しえなかったことにある O そのように無である内部を凝視し て、そこから実存性の骨組を取り出すといった営みに、彼は忍従できなかった 。だ. d. Fhd. -Eム 同 ハ. (4 0).

(15) 文学・芸術・文化/第. 25巻第 2号 /2014.3. から彼のアンチ・ヒーローたちは、狂言廻しとなって社会の状況を記録する「眼」 となる O 内面が無化された存在である彼は、徹底的に眼となって外側を執劫に描 き、そうすることで、自らの主体を保持し続ける O ウォーの「訊刺 Jの正体は、そ ういうものである O 吉田健ーは「訊刺」について、 「これは何よりも描写する 一つ の方法であって対象の価値判断と性急に受け取れるものを伴わず、相手の弱点を衝 いて人に快哉を叫ばせると言った風のものでなしに、むしろ思いがけない角度から. 1 0 ) と書いている O ウォーの 対象を考察してこれを生かすのがその目的である J( 「訊刺 Jは、対象を批判するのを第一義の目的にしているというよりは、対象を戯 画的に描写するという営みを続けることによって、その滑稽さをいわば自家薬寵中 のものにし、その最中に生きるということを忍従する、戦略なのではないだろう か。 そしてそのような狼雑な現実の世界における匿名の自我の「自由」を描くため に、彼が無意識のうちに採用した原型的物語は、『不思議の国のアリス』であっ た。 ウォーのお気に入りの物語である『不思議の国のアリス』には、ヴイクトリア 朝の真っ只中に、そのような刻々と商業主義化してゆく時代に対する抵抗が、龍め られている 。 ビルデイングス・ロマンの価値観に対して、アリスは成長しない 。彼 女が冒険をする不思議の国で起る事柄は、成長神話の逆を行くような、無意識の世 界の顕現のようなものである O だから経験はしても成長にはならない。 ウォーの小 説も同様な構造をしている. O. 但しウォーの主人公たちが経廻る世界は、ウッドハウ. スやキャロルの幸福な世界ではなく、戯画化された苛酷な現実の世界である O しか しウォーは執劫に、そのような進歩主義の世の中で「成長 Jしていくはずの自我 を、社会の論理に取り込まれないように抹殺する O それは成長する自我という西欧 近代を支えたロールモデルへの痛烈な批判であり、アンチ・テーゼである O 成長す る自我というものに対する道化的存在であると言ってもよい。 コモン・マンの時代 における成長する自我とは、畢寛ギャツビーが彼の純粋さによってそのパロデイと なっている、アメリカン・ドリームの主体であるからである O つまり成長してゆく 先にあるものは、資本主義社会における立身出世であり、究極のところは金であ る. C. ウォーのアンチ・ヒーローたちはビカレスクの冒険ののちに、全く成長を遂げ. ずに無窮動な反復的な生をつづける O その究極の戯画化は、ブラジルでデイケンズ. -194. (4 1).

(16) 自我の消尽としてのコメディ. 吉岡. を読まされ続けるトニー・ラストであるが、ポールもアダムもパジルも同様な運命. r. を辿る o 偽の死」は、そのような無窮動で反復的な生がとりあえず置いておく エ ンド・マークであり、成長する自我のロールモデルに対して彼が突き付けている否 であり、対抗価値である O ウォーは訊刺の成り立たないコモン・マンの世紀におけ る芸術家の使命は、小さな独自の秩序の世界を創り上げることにあると言ってい る. O. ウィリアム・ブートは最後になって祝賀会への出席を断固として拒否するの. は、そんなことをすれば彼の大家族が住んでいるブート・マグナの叔母たちの笑い 物になるという理由からである O 資本主義社会における衆多的価値観よりも、身近 なローカルな価値観、ブート・マグナにおけるモラリテイを大切にするということ であり、それがウォーのヒューマニズムなのである O. W o r k sC i t e d 小池滋. r. 「ピカレスク小説の 『 衰亡J J o 英 語青年 J1966年 8月号、東京:研究社。. pp. 5 3 4 ・ 5 3 5 . H a r t l e y,L .P .i nS t a n n a r d,9 8 9 9 . Q' F a o l a i n,S e a n . TheV a n i s h i n gH e r o :S t u d i e si nN o v e l i s t s0 /t h eTωe n t i e s .L o n d o n :Eyre &S p o t t i s w o o d e,1 9 5 6 .. S t a n n a r d,M a r t i n,e d .E v e l y nWaugh:TheC r i t i c a lH e r i t a g e.L o n d o n :R o u t l e d g e& Kegan Pau ,l 1 9 8 4 . Sypher,W y l i e .L o s s0 /t h eS e l fi nModernL i t e r a t u r eandArt( 1 9 7 0).ワイリー・サイファー 『 現代文学と美術における自我の喪失 』 高橋康也. 河村銃一郎訳. 東京:河出書房新社、 1 9 8 8 .. 『 道化の文学』 東京 :中公新書 、 1 9 7 7 .. Waugh,E v e l y n . B r i d e s h e a dR e v i s i t e d( 19 4 5) . I n t r o.byFrankKermode. NewYork: Everyman,1 9 9 3 .. D e c l i n eandF a l l( 1 9 2 8) .London: Penguin,2 0 0 3 . TheE s s a y s ,A r t i c l e sandR e v i e w s0 /EvelynWaugh ( 1 9 8 3) .Ed.ByDonatG a l l a g h e r . Harmondsworth:P e n g u i n,1 9 8 6 .. A Hand/ul0 /Dust( 1 9 3 8) .Ed. ,I n t r o .andN o t e sbyD a v i s,R o b e r tM u r r a y .L o n d o n :. qJ QJ 1i. (4 2).

(17) 文学-芸術・文化/第. 25巻第 2号 /2014. 3. Penguin,2 0 0 0 .. TheL e t t e r s0 1E v e l y n Waugh. E d .byMarkAmory. NewHavenandNewYork : T i c k n o r& F i e l d s,1 9 8 0 . AL i t t l eL e a r n i n g( 19 6 4 ) . London: Penguin,1 9 8 3 .. 5 c o o ρ( 1 9 3 8) .I n t r o .byC h r i s t p h e rH i t c h e n s .L o n d o n :Penguin,2 0 0 0 . V i l eB o d i e s( 19 3 0 ) . Ed. ,I n t r o .andN o t e sbyR i c h a r dJ a c o b s . London: Penguin,1 9 9 6 . ウッドハウス、 P . G .. r ウッドハウス選集 Iジーヴスの事件簿』. 岩永正勝、小山太一編訳. 東京:文雲春秋、 2 0 0 5 . 吉田健一 吉田健一編. 「人と生涯 J 。 吉田編、 1 9 6 9 . 『 イーヴリン・ウォー』. 東京:研究社、 1 9 6 9 .. QJ 山 つ 1i. (4 3).

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