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訳
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口 内 山 市 丘 町 ﹀ 口 出 品 目 (H80) の著 者と出版社の承諾にもとづく翻訳である。(但し、第一一編四章までは∞ニロロ 4 m込 ロ 色RZ
﹀ 口 出 回 一m
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立によった。)米
山
隆(訳)
109一一『奈良法学会雑誌』第3巻4号 (1991年3月) 目 次 第一一編私法における普遍的な法原則の現象形態と法思想の現象形態 第一章題目の限界と意味 第二章法律学的な原理の力の場としての裁判官による法の形成(以上第一巻四号﹀ 第三章我々の問いかけの提起にとっての比較法の意味のために 第 四 章 普 遍 的 法 原 理 の 概 念 と 本 性 に 関 す る 暫 定 的 仮 定 ( 以 上 第 二 巻 四 号 及 び 第 一 一 一 巻 一 号 ) 第五掌実定的憲法原理の裁判官による法形成のための意味︿第三巻二号) 第二編法における原理の分類と類型決定の試み 第六章狭義における法原理の類型(第三巻三号) 第七章法発見の原理(本号﹀ 5.107第七章
法
発
見
の
原
理
最後の平面において我々はより狭義における法原理と法律学原理、すなわち、(形式的ならびに実体的な)法の原理と(技術的、 法の技術の﹀法の取り扱いの原理とを分離す切この区分は、我々が、より正確にいえば、法発見の原理の発見的性格、解釈の規第3巻H}--110
則、立証責任の分配の規則などのことを考えるとき、物的に、また、決定的に、最初に白に映るのである。じつに、視角のみが原
理の資格を決定する。歴史的に考察すれば原理は裁判官による法の叡智からの客観的な法の発生の基礎とみられる。非歴史的であ
るが、社会学的な把握もまた、保護目的にふさわしい思考技術と手績技術の規則を幾重にも変遷しうる﹁実定的な﹂規定から物的
な規範獲得の際における本質的条件として存立を可能にする要因とみるのである。制定法実証主義のみが、その体系の需要をもっ
て、あまりに急いで、法の拘束的なもの、及び、﹁純粋に﹂実用主義的なもの、法の内容的なもの、及び、﹁単に﹂教理的なもの、
( 片 山 )あるいは、技術的なものとの聞に限界をひくのである。しかしながら、現実の統一はあきらかに自にみえて法典化されない法域に、
8すなわち、イギリスのケ
lス・ローのなかに存在しつづけるのである。訴権思考から﹁法原理もしくは法適用原理﹂の問いかけは
日一般に我々の意義において定立されるのではない。その理由は、ここでは実体的な市民法大全の完結された存在から出発していな
Sいからである。すべての規則は、多かれ少かれ、規則通りに取り扱われた法律上の条文からできた創造である。リ
lデイング・ケ
ェイスにおける規則の発明の際、この発明はこの方法の訂正以外のいかなるものも自由裁量の悪意に対してまもることはできない。
のちには自由裁量は言語停統により確保されたものと考えられる。﹁定着されるや否や自由裁量は法であると思われる﹂。その場
合にも、﹁定着した規則﹂の一種の引用が法律上の論法の原理に一致しないならば、このような規則の単純な呼びだしは題材にと
って充分でないのである。同じことは教理、格率及びその他の分離された争訟決定を参照することについてあてはまるのであり、
これらのものが﹁ひらかれた﹂判例法において一種の﹁法規範﹂にしたがって教義学の地位を代表するのと同じである。これらの
ものもまた、規則正しく使用されるならば、決定をうむにすぎない。その際、﹁学派﹂は、それが教訓的に把握されようと、ある
( ω )
いは、把握されまいと、技芸専門家的な思考方式一般の標語である。教義学的な鋭い把握は欠けることがありうるのであり、承認
( 市 )された格率の、技術的な﹁法の原理﹂の体系に一致した適用はコモンローの思考においてもまた放棄されえない基準である。
印象深く、あきらかなままに、本来純粋に技術的
l
実用主義的性格は国際私法の連結規則のもとにありつづけるのであり、この
9規則はそうこうするうちに法原理として承認されてい(烈この規則に関して、いかにして﹁規則﹂が単純な使用価値から徐々に法
品規範あるいは法原理の資質に濃縮するかということが一部される。しかし、人々はこの規範、あるいは、この原理の歴史を知ってい
q uるのであり、いかにして人々は﹁物所在地法﹂に関する古い属物的法秩序からますます物的な連結へっき進んだか、あるいは、必
要な場合には、債権関係の﹁要点﹂のような漠然とした表象に頼ったかを知っている。ここで、例えば、
ω k
r S
の Z吋がこのような
純粋に発見的な観点をもって開始したことは、純粋な身分階層の技芸の領域における国際私法規則の我々の自律的な教義学の基礎
111-ヨゼフ・エッサー『原則と規範』伺
づけより少いものではないのである。今日もなお変遷は完結されていない。法原理と学問的原理とは混じって区別がつかなくなる。
さらに純粋に発見学的な問いかけは、やはり、論争にひらかれている。この問いかけが閏際私法の生命をつくっている。
教義学化、換一一目すれば、法的な秩序問題とその解決の合理化はそのこと沙句、あらためて法創造的にはたらく。そこからまた
﹁法技術的な﹂思考原理と﹁実体的な﹂法原理との区分は余計なことである。これらの一見実体的と思われる﹁法律学的与件﹂の
いかなるものも、じっさいに、先在しているのではなくして、すべては、普遍的、包括的な事案からではなくして、特殊な、でき
るだけ多くの個別的事案から出発するカズイスティクな経験から獲得された﹁技士歪である。法律学的な経験を使用することに関
する規則がなければ制定法は生命のないままにとどまっているのであり、また、経験から獲得された発見は無拘束のままに依然と
してとどまっているのである。しかし、政治的立法者が不信を抱いているとしても、これらの規則が法に生成することを妨げるこ
とはできない。
( K F H丹・問。・。・)。自分勝手に思っている完結的な制定法の可能性の単純な発見と私法上の関連の単純な発見とし
ての教理の給付を他人に損害を与えないようにすることは、また、非現実的であるであろう││これらの発想が実定的市民法大全
に帰属することが否定されることほど著しく名誉でないことは、どんな場合にもないのである。すべての制定法の﹁素材﹂は、じ
( 刊 日 )つに、法律学的に発展した原理と学説からのみ生きているのである。∞同富。
Z H d mがより新しいスイスの私法発展のための彼の事例
を、法律行為的意思表示の題材における﹁意思原理﹂あるいは﹁表示原理﹂あるいは﹁信頼原理﹂のための闘争をもって始めたこ
とは適切である。同様に中心的であり、いな、はるかに影響のあるのは、制定法の題材から完全にひきだされた基本概念に関する
﹁理論的﹂把握である。その理由は、不法、債務、原因性等が準備してととのえられているからである。ここでは、いたるところ
と同様に、教理と実際家の叡智の法体系に対する貢献は、各々の考えられうる立法的規律の第二次的な構成ではなくして、第一次
的構成一般であり、規律の前提であり
l
l
また、規律の生命である。その際、我々は、市民法として、ならびに、政務官法として、
0法曹法を法とならんで、つねに、導びいてきた独立的な﹁法の集団﹂から、やはり、目を轄ずるのである。我々にとってここで関
﹄心を呼ぶものは、規則の役割が法社会学的公理、理論格率のなかに、あるいは、鑑定、判決、報告及び、それ自体単純な事態の構
Q U成の学派規則のなかに﹁のみ﹂化体されているとしても、この規則の役割である。この役割は旦
C︿﹀同﹀の分類の意義における
(何時﹀﹁源泉の法﹂として﹁実定的な実体法﹂のかたわらにおかれるべきであって、完成した法曹法としておかれるべきではない。法律
制度の一部としてのこれらの技芸規則の法的性質は、じつに、自然法的な思弁にもとづくのではなくして、経験的に実定的体系の
各々の表現と効果によって確定されるべきである。
第3巻4号一一112
( η
)
m
法適用・解釈・判決の理由づけ・法律学的な論理の技芸規則・﹁普遍的な経験にもとづく原則﹂及びこの原則の適用の技芸規則、
ふ例えば、﹁因果関鈴のような﹁思考法則﹂及び約定による拘束的な直観範鴎と判断範鴎・訴訟上の格率と技術の技芸規則は、そ
れが、既判力論のように、教理的に保障されていようとも、それが弁論主義のように、歴史的な横顔を持っていようとも、あるい
( 乃 )は、それが、法問題と事実問題の分離のように、あきらかに、たんに手工業的な実際家の叡智からのみ由来していようとも
1
1
1
こ
れらの技芸規則は、すべて、なんらかの法典に章典化された制度的な担保より多くも少くもない﹁内在的な﹂、あるいは、﹁真正の﹂
法概念であ鵠まさに法発見の規則はますます多く学問的な注目の前面に歩みでているのであり、それは大陸の法律学もまた判決
形成への﹁直観的な﹂関与(直観的感覚)を発見し終えて以来のことであり、そして今や︿条文、体系、教理、比較法、法論理、
制度史などからの)一種の理由づけにおいて、判決を高度の能力を備えた論証の領域から客観的な法﹁発見﹂の平面へ高める﹁客
2観的な尺度をさがさなければならなくなって以来のことであ鵠この客観的な尺度は単に法技術と実用性の﹁附加的な﹂規則のみ
ーではないし、また、例えば、法の時間的及び空間的妥当の原理でもないし、あるいは、国際私法における連結の規則でもないし、
( m M )人的、もしくは領土的拡大の規則でもないし、あるいは、国際法における妥当原理と順位原則でもない。単に特定の容態規則のよ
り古い俸統とより大きな密度は﹁法﹂と﹁法の技術﹂の聞の距離を歩みださせる。反対に、本来身分の倫理によって管理された職
業上の技術の法であった原理、また、裁判官によってつくられた法の体系のもとで、今日なお﹁倫理﹂と自律的な﹁裁判所の規則﹂
のもとで決定されている原理は国家的に承認された法典化された法秩序の一部に、しばしば、発展している。しかし、実際的に実
定的な市民法大全に所属していることは、原理は裁判所の充分な保護をうけているということ、衝突は非難拝みちびくということ
をもって、既に、保障されている。終局的な吸収合併行為は原理を修正できるものとして承認することであ匂
r現代の訴訟法が修
正しうる制定法違反に﹁法規範は適用されないか、または、正当に適用されない﹂(民訴第五五
O
傑)ということを算へ入れるこ
とにより、法曹にとって法の技術のすべての原理を実定法へ関係づけるためのあきらかな権限が存在するのである。
2
、法律学的な論理の原理は表面的な観察者のためには正義の決定とこのための決定の構成価値に関する原理の内容的な関係を
かくすにすぎない。この原理はあきらかに決定された思考必然性の示唆的きまり文句を衡量する問いかけをまとっている。すなわ
(則明﹀ 3ち、﹁何人も自己の享有する以上の権利を、他人に譲渡することはできない﹂、﹁はじめに正しく建設されるものは、偶然の事故に
門 町 田 ) J陥ち入るとともに、はじめることができないものに解決される。﹂、﹁譲渡がそれが始められた時に有効であったとすれば、その一方
Q U当事者のつづいて行われる次の行為、あるいは、不作為によって無効とされるのではない
l
l
たとえば、契約不履行における詐欺
( M m ) ( 円 引 ) ( 叫 凹 ) ( ω ) 4
行為、﹁種類は亡びなかった﹂、﹁不能な債務は無効である﹂、﹁災害は何人にも責任がない﹂などである。あきらかに価値公理、例
( 卯 ) Jえば過失原理から出発してゆく実用主義的格率への移行、すなわち、例えば、﹁過失は債務を永遠化する﹂への移行は流動的であ
円 bる。ここで、しばしば、民衆的な直観規則が教理的なきまり文句の前でより大きな役割を演ずる。格率、例えば、﹁他の者によっ
( 引 ) ( 的 出 ) 5てなす者はみずからによってなすのである﹂、﹁上級者が答えるよう、主犯をして答責せしめよ﹂などは、結局、教理の程度を獲得
門 的 出 ) Jしているのであり、いなそれ自体﹁物自体が語る、事実推定則﹂規別であるような﹁規則﹂の程度を獲得しているのである。ここ
S
(
川 田 )では、その場合、純粋に発見者的性格が、教説におけるように、同時死亡者学説、あるいは次の格言、﹁家父は婚姻が一万すところ
( 町 田 )のものである﹂におけるように、あきらかに目にみえるのであり、この格言はたしかにまた今なお法律学的な論理の一片として言
いあらわされることができる。
いわれるように単純な技術的な法発見原理のもつ法規範の性質の価値判断のための決定的地位を立証規則と解説原則とがとりあ
げている。立証規則のもとでは、もちろん、所謂立証責任規則が問題であるのみならず、規則にしがって自由な確信形成の基礎と
(Mm)して、したがって、実際的に、決定的な裁判官の感覚的印象として承認されるべきものが問題である。立証責任規則でさえ、周知
の構造の相違によれば、ローマ法にとっては実体法の一部であ砧ルわが国の民法典の父はたいして他と異なって考えなかったとい
うことは、いたるところであきらかにみられるところである。じつに、普通法の法律家の知慧は実体的な法の規定と立一証格率との
ハ川町) 6聞にいかなる区分も設けていない。例えば、﹁何人にも善意が推定される﹂、﹁立証責任は主張する者に帰属する﹂などであり、ま
﹄た、例えば、争訟関係自体を通して、あるいは、規則と例外の関係を通して理由づけられる知慧の論理性は、証明形式及び証明結
S
(
川)合の問いかけと反対に、この知慧をして普遍的な妥当に至るように手助けしたのであった。
解釈原則は実際家の単純な粗雑な規則よりもより以上のものであるということは、拘束的な解釈一般の可能性のためのこの原則
の中心的な意味から、たしかに、でてくるのであり、解釈の本質は明白な協定文の拘束とともに存立し、また、崩壊する。それゆ
え、実証主義的意義において、消滅した判定法への忠実の代位物の拘束しゅく解釈規制を固持する必要はない。我々は﹁規則﹂に
( 問 ) 7ついて語るのが通常である。ただし、民法第一一二三条、第一五七条の規範のような規範は誤ちを正すのであり、その理由は、我々
( 出 ) ( 附 ) Jは拘束的な解釈原理と解釈学の修辞学的な技芸論を投げ混ぜあわせるがゆえである。解説手段の階層秩序論もまた、我々が﹁適切
Q Uな﹂手段あるいは結論の秘密な選択のなかに横たわって存在するごまかしに永遠におち入りたくないと思うならば、必要であるこ
113一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』内第3巻4号一一114
とはもちろんであり、この手段または結論を裁判官は本能的に使用するお、その結果﹁解釈は、それ?えその成果のうみたす
B ︹ 川 ﹀日成果である﹂といわれたのは正しいことである。しかし、まずはじめに、あたかも容態命令のみが法規範(せいぜい﹁忍容命令﹂
・3 ( 問 ) ︹ 川 )E
また﹁援権﹂命令でもある﹀であって、法発見命題や権利保護命題ではないかのように、前判断をすることが妥当する。あるいは、
( 山 )あたかも規範の資質は命題が法典化に一体となるということに依拠するかのように、前判断をすることが妥当する。各々の解釈の
内容を意思決定と価値決定にもとづき明らかに示すことをもって解釈命題
P J
1
性はあきらかであり、また、たとえ我々がもはや第
一九世紀の法典編纂の雑踏に属さないとしても、根源的な解釈原理の一覧表、もしくは、少くとも若干の﹁簡潔な﹂主旨を優先さ
せるその資質の再検討性は必要として明きらかにされる。
9もしも我々が、法たる資質はあきらかである、と言うならば、我々は実定的な法集団への帰属を意味すると思っているのであり、
ハ 出 ﹀ J必ずしも実体法の集団への帰属を意味すると思っているのではない。権利保護規範ならびに法発見規範が第一九世紀の訴訟法学の
q u意義において全く形式法もしくは訴訟法に数えられることが欲せられるならば、これらの規範はその生活機能においてあまりに一
面的であると見られるであろうことはもちろんである。我々はこれらの規範のなかに一つの秩序圏を見るのであり、これに、他の
ところで浮き彫りにされた﹁実体的法曹法﹂という語が特別に適しているのである。しかし、これの一部であるのは権利保護形態
と権利保護条件ではなくして、権利形成形態と権利形成規則、すなわち、実体法の司法による新形成の規則、しかもまた、たしか
に﹁適用﹂及び﹁解釈﹂を通しての﹁現在の﹂実定法の司法による具体化と発展的形成の規則である。なぜかといえば、それはま
たより広い実定化の意義における法形成であり、そこでは法が﹁適用される﹂のみならず、技術的には﹁適用可能﹂でない原理か
ヲ チ オら理法と法思想(また、これらの到達距離と利用を決定してゆく規則の助けによって)が新しく文一一日化され、また、有効につくら
れ
る
の
で
あ
る
。
( 川 ﹀判例法思考にとって規則の﹁適用﹂と﹁形成﹂の統一は自明のことである。法源は先例であり、
i
ーしたがって無名の伝統の集
団ではなくして、新しく規則を形成する各々の個別的な判決である。そこから避けることのできない、﹁実在学派﹂と古典的なオ
( 山 )I
スティン主義の法源教理の闘争、正しい決定をすることができないことにもとづくがゆえの闘争が説明される。成文化された法
。においても異るものではない。ただ﹁制定法に対する忠実﹂の持続的問題は、ひらかれた司法による法源としての法の発展形成の
( 川 )ι
みならず、生産的な解釈の性格をも秘密にかくす、あのかくれんぼ遊びに至るのである。我々にも知られた﹁規則をつくること﹂
Q Mの技術にもかかわらず、この規則は事態の選択と﹁法の適用﹂の相互依存性を通じて条件づけられるのであり、それゆえにまた法
115一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範」内
( m
﹀規においても条文のなかに先例のなかにあると同様に定義的でなく﹁存在する﹂規範の絶えざる新しい評価を意味するのであるが、
ラ チ オ我々は、噂とは存在するものの単純な確認であり、条文と理法との宣言的な秩序づけである、という叙号、心配しながら固守す
るのである。そこから我々の理論は分裂に進んでゆく。すなわち、この理論は原理からの判決発見を同じく宣言的な認識行為とし
て理解させるのであろうか。また、いかなる真理からの、いいかえれば、実定法的な真理からの判決発見であるか、あるいは、自
然法的真理からの判決発見であるのか。それとも、この理論は、ここで、すくなくとも、裁判官に二重の地位を承認させるのであ
り、この地位を裁判官の法的権威が関かれた法の発展形成のもとで彼に事実上我が国においてもまた、はるか以前に創造していた
のであった。それは法適用者と法創造者である。﹁法の発見﹂という標語はこの領域での方法論的な混乱をうまくかくすことにき
わめて適しているのである。その場合、いかなる裁判官の判決の表象がそのおりおりに適しているかということは、必要があれば、
求められるかもしれないし、また、おそらく中途半端なことに至るかも知れない。すなわち、それは、﹁単純な﹂解釈が到達する
かぎり、宣言的機能であり、﹁欠絞が充足﹂されるところでは、構成的機能である。これらのことは、同様に、スイス民法第一条
第二項の究明の際にもあらわれてくる、おそらく、今日の慣用の見解である。しかし、法原理に直面すればこの命題のこわれやす
さは自にみえるようになる。すなわち、法原理は実定法であるが、それにもかかわらず﹁適用されえ﹂ないのであり、しかるに、
裁判官の判決は﹁創造的であり﹂ーーまた、﹁欠歓﹂は全く存在しなかった。しかしながら、法原理が
i
まだ承認されず、いか
なる有効性も所持しない範囲において、それは、最初に、法倫理的要求にとどまるのであり、その実現を全く裁判官の判決の立法
的機能が強めるのである。﹁認識され﹂ない原理をも自然法論の種類にしたがって既に﹁存在する﹂秩序体系の一部として交付す
ることは﹁未知の神﹂の祭壇のような迷神的な身振りである。この事態を訂正することは我々の法原理にとって革命を起しゅく綱
( 凶 ﹀領を意味するのであり、この綱領は最もはやくりさ︿﹀悶﹀によって提案された﹁法形成法﹂という原理を通しての我々のー法源教
幻 ( 印 ﹀ J理の補充をもって教義学的に顧慮されているのである。法発見規則は、その場ム口、司法による規範定立の憲法の一部であり、それ
Q dは、ちょうど、立法権の歩み、殊に﹁基本権﹂に関する政治的体制の規則が議会による規範定立の基礎を形成するのと同様である。
3
、解釈原理は各々の実定法の身体の一部であり、したがって、それ自体実定法であるということは、この原理は、証明規則及
びその他の法の規則と全く同様に、特定の容態、手続、あるいは、企図を例一示的に指図するのではないということ、すなわち、概
念的に、あるいは、覚書的にある一つの事実に﹁結びつける﹂のではなく、むしろ、このような内容的な拘束の代りに承認された
指針にしたがう拘束を表現するという事実を通して、とくに暗くされるものである。しかし、何が実定的にのみ正ししいとされた
第 3巻 4号一一116
﹁正当な﹂解釈であるかは、再び、このような指針の図式によって決定されるのではなくして、解釈の選択は、反対に、解釈の対
象の具体的な妥当要求とこの対象の承認された保護の必要と救済の必要のなかでの解釈の対象(遺言、契約、制定法)を通して、
ならびに、このことをもって設定された解釈の目的(﹁例えば、それが無効であるよりもむしろ有効であるように﹂)を通して決定
される。さて、これらの目的は最高の法的価値(例えば、法的安定性、公示性、定着性、他面において適応、具体的な相当性、法
定立者の主観的な目的設定の顧慮﹀を代表するので、個々の事案に適用を要求する解釈原理の必然的な二律背反もまた存在する
ーーこのことは、一方では、個々の原理の拘束的義務内容を疑問にすると思われるし、また、﹁単純な技術的な﹂技芸規則として
2の、個々の原理の、せっかちな過少評価に立ちいたるのである。
ι
これらの二律背反のうち最も周知されているものは、現代の・取引慣行的な・人倫と法的確信の今目的状態に一致する意味、す
q uなわち、具体化された表示の客観的な意義すなわち、規範と狭義における解釈の対象のみならず、この対象の成立史及び秩序によ
って権利を与えられているもののその他の容態を認識せしめる主観的目的設定との間に存在している。ここでは遺言の際の他の方
法が(遺言の'有利に)、法律行為の際の他の方法が(ドイツ民法第一一三一一条)、客観的な秩序に高められた契約の際の他の方法(ド
イツ民法一五七条)が提供されていることは、あきらかである。しかし、既に契約の際、秩序の﹁客観的な﹂相当性の要求と当事
者の歴史的な意思の﹁主観的な﹂事後の模写の要求が必然的な衝突のなかにあるとすれば、さきに述べたことはあきらかである。
l
!
この衝突というものを、我々は、ますます、裁判官による干渉の意義において、また包括的な契約を歴史的に﹁客観的に﹂承
認するに値しない特殊性から解放する意義において解決するのであり、この緊張は、そうすれば、制定法の解釈の際、著しくより
強いものであり、その場合、一面において﹁このようにしてみずから望むこと
│l
﹂を全く異る権威から尊重することが妥当する
のであり、他国において、時とともに生きゆく秩序活動の精神的な独立性を顧慮してこの活動の、歴史的な発生思想からの
F
4
性
のより強い強調をまた必要とするのである。このようにして、契約、ならびに、特に制定法の一般的に承認された解釈原理は一見
L
て調和的であるように見える。我々は、一連のあきらかに単純に遵守されるべき格率、すなわち、﹁不利益なことは制限的であ
るべきこと﹂、﹁例外は推定されるべきでない﹂、﹁表現は単一、排除は二者択ごを見るのであ鳩それを疑う価値のあることはよ
り詳しく見つめればはじめて光となって洩れてくるのである。すなわち、何が﹁不利益なこと﹂であるか、何が﹁例外であるか﹂、
何が﹁表現されて﹂いるかを誰が決定するのであろうかーーまた、いかなる実定的な法規にしたがってこの決定が行われるのであ
ろうか。司法による法制度の基礎への問いかけをもって、その場合、停来の法源論の地平線が踏み越えられることはもちろんであ
117一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』伺
3
り、また、﹁実証主義﹂と﹁自然法思考﹂の二一元論的な﹁あれかこれか﹂の見地は見捨てられる。技術的にこのことを拒否してい
ι
ることは、最も驚くことには、そのおりおりに、さらに、国有の﹁源﹂に復帰することを求める試みの際に、また、例えば何か条
S文のなかに﹁表現されている﹂かは、﹁関連﹂から、あるいは、﹁文脈﹂から生ずるということを主張する試みの際にあきらかに
( 出 )なる。しかし、誰が関連を決定するのであるか、誰が文脈の一部であることを決定するか、また、何にしたがって決定するのであ
ろうか。解釈の﹁有効性﹂は、より多くの利益が対立するあるものを﹁有効﹂として文書で確認するならば、いかにして所謂基準
として確定されるのであろうか、﹁よりよきものという疑問のなかで﹂の害のない格率を身を投げだして保護するならば、何が﹁よ
j
台
1
りよいもの﹂であるかを、このような場合、何にしたがって価値苧断するのであろうカ告定法、契約、あるいは、それ以外の
実定的な秩序文書にしたがって、たしかに
ll
しかし、条文にしたがって。意義にしたがって。いかなる意義にしたがって、所謂
﹁自然の﹂意義にしたがって、﹁通常の意義﹂にしたがって、﹁あきらかな意味﹂にしたがって、あるいは、所謂歴史的に法定立
者によって考えられた意義にしたがってであろうか。
これが﹁客観的通用﹂
i
l
立法者の意思の究明という二律背反のなかに表われる実証主義的解釈態度の謎である。この謎は解消
されえないし、決して契約の分析で解消されないのであり、その際、やはり相対的に危険なく、継起する、根底においてかみあわ
( 凶 )ない格率を並列しておくのが通常である。ー、法条の顧慮││しかし、﹁非理性的、あるいは、不合理な﹂成果︿﹁非合理的、ある
ハ 問 )いは、ばからしい結果﹂)があらわれないかぎりにおいてのみ、
2
、当事者意思の尊重、一丹び、この意思が客観的強行法と良俗に
( 凶 )衝突しないかぎりにおいてのみ、
3
、﹁一義的に明白な﹂法条のあきらかに別箇の当事者意思に対する優越││何が﹁あきらか
4に﹂表現されているか、また、何がこの﹁あきらかな意味﹂の問いかけを価値判断するために引用されてよいかという点について
(川刷﹀ι
一致するということを前提にして。このことは、今や、まさに、全く、あきらかでないので、﹁あきらかな意味﹂の教理は﹁通常
Q U ( 飢)の意味﹂の召換と同様に矛盾にみちたままである。最終の薬(またそれとともに実際の解釈の基礎)は、依然として各々の事案に
( 川 出 ) ( 郎 )おいて、法条からはなれた﹁客観的﹂尺度である。すなわち、信義誠実、一つの制度あるいは社会秩序の﹁目的﹂、または、資料
( 問 問 )5
を統御する﹁原理﹂である!。これらのものをもって、そのとき、円周が閉じられたのであった。あきらかな意味の教理は、実定
ι
的な法原理にしたがって先き取りされた評価、あるいは、事後に提供されるべき評価を要求するのであるが、国家的な実証主義は
S
法倫理的に設定された自然法学派と同じくこれを行うことはできない。それゆえ、それは、あきらかな意味を解釈からとりさる試
︿m )
み、すなわち、この意味を弁明もなく、また、解釈の法則を﹁盲目に﹂適用する試み、真の事実を怒意に解釈する試みである。歴
第3巻 4号一一一118 史的方法は、今日的に保護に値する目的・解説されるべき条文の機能と課題を弁明することもなくして、この条文を人々がみやすか ( 附 ︺ ら確認しなければならない緊急事案において無力にみちびくのである。しかし、人々が条文の奴隷であることも、また、当事者の 怒意・国家の洛意の奴隷であることも欲するのではなくして、信頼された法という道具の機能を確保しようと欲するならば、人々 は社会的また政治的な(すなわちメタ法律学的な)価値決定への歩みに従わなければならないのであり、この歩みはいかなる技術 ( 問 ) によってもおおいかくされないのであり、また、裁判官をして仲裁人たらしめるのである。このことは、まさに、﹁法律学的な﹂ 心決定を欲するカによっておそれられ、また、厳禁されるのである。したがって、技芸的に厳格な・また・原理的に厳格な法思考の
S
逃 げ 道 の な い こ と ( 解 決 不 可 能 な こ と ) に つ き 文 句 が い わ れ る と し て も 、 そ れ は 論 理 的 で な い の で あ る 。 ( 第 七 章 未 完 ) (Mm ﹀ 異 な る 意 義 に お い て 正 義 の 原 理 と 法 律 学 的 原 理 と の 問 は 分 離 さ れ る 。 ぐ 包 ・ 品 目 。 ↓2
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-。ここで、形式と実体のアリストテレスの範障によれば、所謂﹁実体的に﹂ないし論理的に 正義の要請に内在する評価思想もまた法律学的な秩序の仕方の形式的な原理に対して対立させられる。この二元的な表象を支持できないことの た め に は 以 下 の 一 一 六 頁 以 下 を 参 照 せ よ 。 (釘)﹁技術的﹂原理というのはの宮4
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の特定の事案を全く教義的ではない、が、しかし合目的に制限するのである。 4 間 ︼ ・H
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外的な法律要件を持たないいかなる法規もない﹂、あるいは﹁心の状態というものは悪いものではない﹂ということが文一言化されるかどう か﹂、すなわち、﹁動機﹂と﹁行為目的﹂とが教義学的に分離されるのかどうか、あるいは格率が提立されるのかどうか、すなわち、﹁適法な119ーーヨゼフ,エッサー『原則と規範』伺 方法で適法なことをすることにおいていかなる法上の権利も侵害されない﹂またそこから﹁悪意の動機は民事訴訟の主題にされることはできな い﹂ということが把握されるのかどうかは同じことに帰一することになる
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・ (刊川﹀それこそ行為目的に対立している単純な動機に関する前述の教理を示している。非教義学的な教理の正当な適用もまた一つの規則の成果に 対して基準を与えるものであり、それは﹁ひとしくよごれた権力者のなかに弁護すべき条件が存在する﹂というのと同じである。ぐ悶-K
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・彼は﹁真正な規則﹂を制限することのなかに民法第八一七条二項の対比する問いかけの際ドイツの教義学と同じ規準を物的に 使 用 し て い る 。( n
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を参照せよ。これは﹁解決の方法論的原理﹂、﹁教理上の原理﹂及び﹁資料を支配する法の原理﹂を統一する 指示を伴っているのであり、﹀のO
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( 同 市 町 一 山 A R ) ∞ ∞ ・ ( 万 ) U ﹄C J 戸同﹀は我々の﹁技術的原理﹂がその一部である彼の﹁法源﹂を誤解であり、また、あまりに控え目であると呼んでいるのであり、﹁法 源﹂は﹁この解決を表現する︿!﹀一設規範の合理的な体系である)。 (阿川﹀その構成的役割のために開Z
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とそこに述べられた文献を参照せよ。事物の構造と論理学の均衡の た め に 以 下 の 一 一 一 一 以 下 。 私 のm
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怠同・の実際上の事例。事物論理学と言語との関係のためにぐ包・可。回目H 1 0
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ロ申﹀宏唱。﹁そこには立法者によって裁判官に与えられた指示が存在するということ、また、これらは、法の規則ではなく して、論理の助言であるということが支持されている。この意見は我々には正しくないように思われる。その理由は、裁判官は解釈の自由を全 く 持 た な い か ら で あ る 。 ﹂ 回 目 君 。 山 田H
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﹀。は、法の﹁内在的﹂原理のみを知っていることはもちろんである。 第3巻 4号一一120 そ の 理 由 は 、 彼は﹁九コラ哲学的121-ヨゼフ・エッサー『原則と規範』村 に﹂設定し、また、階層的価値体系を各々の実定的秩序の基礎にしている。すぐれた点、﹁技術的﹂原理は実定的秩序の全体をつくる本質的部 分として承認されている。﹁構成されていない原理は秩序の関係では以前にも以後にも存在していないが、しかし、それは、いわば、内在的な、 秩序それ自体の一部をつくる o ﹂
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を参照。この再検討は、この規則が﹁それらの側で再検討をなしる 法から流れでる﹂ときにのみ与えられるべきである。この逃げ道は循環論証として容易にのぞいてみられるところである。その理由は、この解 釈規則が実定法に帰属されるように、それが定着した実際として承認されるとき、この規則は再検討しうる実定法から﹁流れでる﹂のである。 (似﹀このような文言は、種々なる問題解決のために、物権法において、譲渡法において、特別財産形成の法などにおいて、じつに、たんに債権 法的拘束のもとでさえ、例えば双務契約関係の枠において、利用される 0 フランスの実際においても同様であり、この構成は教説を既に債務の ﹁ 物 権 化 ﹂ の た め に 警 告 の 叫 び を 惹 起 し た の で あ っ た 。 イ 間 ︼ ・ 4 ﹃ ﹀ 出F (
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回の始源的把握のために(困難は 債 務 を 高 め な い が 、 し か し 、 延 引 に つ き 雪 一 口 い わ け を す る 、 ﹀ ロ ロ ロ 同 回 目C
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回以来不能においても履行強制はもはや全く否定されるのでもなく。また、遅滞の請求にしたがって区別される。近代法における作 用効果のために同開吋塁k r
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同 門 } 内 角 川 広 ・ (ω ∞)民事法はこの歴史的に(上述を見よ)条件づけられた原理とともにコモンローとは異る他の土壌の上に立っているのであり、このコモンロ ーは約束者の有利のための推定をすることなくして、危険問題を具体的に注目している。ぐ四-・ 4 司 戸 口 出 同 ,C
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・ ﹁ コ モンローは反対の原理から出発するのであり、この反対の原理とは約束者が、約束がもしそうでないならばという条項の範囲内におもるという こと、あるいは黙示の条件があるということを示すことができないならば、約束は拘束するということである o ﹂﹁条件﹂はここでハ担保との関第 3巻 4号一一122 係におけると異なって)ロiマ法的な意味を持っている︿以下の第一八章参照﹀。したがって、危険を負担するのは説明者であり、それは、事 情が留保を生ぜしめない場合、あるいは、正しく承認せしめない場合であり、これは相手側にある困難を自分一人が知っているのと同様であ る。類似のこともいいうる。︿包・巨匠︿