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〈和歌山県の民俗〉和歌山県紀美野町における動物の民俗

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和歌山県紀美野町における動物の民俗

   

はじめに   和 歌 山 県 の 山 間 部、 海 草 郡 に 位 置 す る 紀 美 野 町 は、 伝 統 的 に 国 内 産 シ ュ ロ の 生 産 地 と し て そ の 名 が 有 名 で あ る。 また、近年では県外からの移住者が増加し、いわゆる﹁田舎暮らし﹂の成功例としてしばしば取り上げられる。こ のように、伝統を守りつつ全国的に先進的な地域といえる一方で、紀美野町の生業を顧みると、和歌山県の﹁山の 文化﹂を色濃く残している地域でもある。にもかかわらず、今日まで当地における民俗例をまとめた民俗誌はほと んどみられない。   近畿大学文芸学部では、平成二四年︵二〇一二︶より現在 まで、当地にて夏期・冬期合わせて毎年二回の民俗学 実 習 を 実 施 し て い る。 学 生 た ち は 衣 食 住、 生 業、 娯 楽、 環 境 な ど、 思 い 思 い の ジ ャ ン ル に つ い て 聞 き 取 り を お こ なっている。ここでの調査によって、紀美野町には、いまだ豊富な民俗的知識が残っていることが明らかになって きた。そこで本論文では、筆者や学生たちが聞き取り調査をおこない収集したさまざまな民俗のうち、動物に関す るものを特に取り上げ、そこから紀美野町の動物の民俗を俯瞰することを目的とするものである。本論文がいまだ まとまった民俗誌がない紀美野町の、今後の調査の足がかりとなれば幸いである。 ⑴

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調査地の概要   紀美野町は平成一九年︵二〇〇九︶に野上町と美里町が合併しうまれた町である。当地は山に囲まれた谷あいの 町 で、 貴 志 川 と 真 国 川 と い う 河 川 を 有 し、 合 流 し て い る。 こ れ ら 河 川 は、 水 産 資 源 な ど 豊 か な 恩 恵 を 与 え て き た が、 昭 和 二 八 年︵ 一 九 五 三 ︶ の 集 中 豪 雨 に よ る﹁ 七 ・ 一 八 水 害 ﹂ を 引 き 起 こ し、 山 津 波 や 道 路 の 決 壊、 多 数 の 犠 牲 者という被害をもたらした。   産業については、近代以前より、稲作、畑作、山樵のほか、箒やたわし、漁網の原材料となるシュロや、和ろう そくの原料ハゼの栽培が盛んであった。特にシュロを利用した産業は全国的に有名である︹ ﹁角川日本地名大辞典﹂ 編集委員会   一九八五︺ 。   真 国 川 流 域 の 西 野 地 区、 東 野 地 区、 貴 志 川 流 域 の 国 吉 地 区 は 比 較 的 平 地 が 多 く、 畑 や 水 田 が 広 が っ て い る。 対 し て、 貴 志 川 上 流 部 の 毛 原 地 区 は 谷 あ い に 立 地 し、 斜 面 を 利 用 し た 畑 作 や 狩 猟 が 盛 ん に お こ な わ れている。 一   哺乳類   ︵一︶イノシシ   紀 美 野 町 で 狩 猟 に つ い て 聞 き 取 り を お こ な う と、 ま ず 聞 か れ る の が イ ノ シ シ に つ い て で あ る。 現 在 は ワ イ ヤ ー に よ る く く り 罠、 檻、 そ し て 銃 を 用 い た 猟 が お こ な わ れ て い る が、 か つ て は 猟 犬 を 伴 っ た 銃 猟 が 主 流 で あ っ た。 イ ノ シ シ を 狩 猟 す る 手 法 は 時 代 を 経 る ご と に 変 化 を 見 ▲写真1 シュロ(撮影:絹川諒介)

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せているが、その経験知・自然知はいまだ連綿と生き続けている。   狩 猟 を 成 功 さ せ る た め に は、 対 象 の 行 動 を 読 む 必 要 が あ る。 そ の た め 猟 師 た ち は、 様 々 な 痕 跡 か ら イ ノ シ シ の 気 配 を 探 る の で あ る。 ま ず、 イ ノ シ シ の 足 跡 を 見 る こ と で そ の 動 向 を 先 読 み す る。 特 に、 雨 が 降 っ た の ち の ぬ か る ん だ 地 面 は、 足 跡 を 刻 銘 に 残 し、 猟 師 た ち に と っ て 狩 猟 の 格 好 の タ イ ミ ン グ で あ っ た。 し か し、 足 跡 が 古 い こ と も あ れ ば、 消 え て し ま っ て い る 場 合 も も ち ろ ん あ る。 そ の 場 合 に は、 木 々 や 草 む ら に 残 さ れ た 痕 跡 を 探 る。 イ ノ シ シ の 特 徴 的 な 生 態 と し て ヌ タ ウ チ︵ 沼 田 う ち ︶ が あ る。 ヌ タ ウ チ と は、 ヌ タ バ と 呼 ば れ る 湿 田 や 湿 地 で お こ な う 泥 浴 び の こ と だ。 こ れ は 寄 生 虫 を 身 体 か ら 落 と す、 体 温 調 整 を す る な ど の 説 が あ る。 ヌ タ ウ チ を 終 え た イ ノ シ シ は 当 然、 体 中 に 泥 を ま と っ て い る が、 こ の 状 態 の イ ノ シ シ が 木 々 や 草 む ら の 隙 間 を 通 る と、 そ こ に 泥 が つ く の で あ る。 猟 師 た ち は こ の 痕 跡 を 見 て、 イ ノ シ シ が い つ の 時 点 で そ こ を 通 り 抜 けたかを判断する。   以上の痕跡も、時にはまったく見かけられない場合もある。その時には﹁道﹂を探す。イノシシが決まって歩く 道をタツマと呼ぶが、これを確実に把握するには五年から一〇年以上の経験が必要であった。熟練した猟師たちは 足跡、木々の泥、タツマを巧みに見分け、着実に獲物に近付いていくのである。   狩猟対象のなかで、イノシシは高級な獲物であり、長谷宮では昭和七年︵一九三二︶ごろまでイノシシ猟のみで 生計を立てている方もいたようである。それゆえに、狩猟の現場は一種の緊張感を伴っていた。以下に長谷宮での かつての狩猟の様子を紹介したい。 ▲写真 2 イノシシの幼獣(撮影:角谷康浩)

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  猟師たちは数名でチームを組み、山々を駆け巡りイノシシを追いつめた。一日でイノシシを追いつめられない時 には数日間もイノシシを追いかけたという。ついに追いつめたと思っても、山向こうの猟師たちと直面し、どちら が追いつめたイノシシかで論争が起きたこともあった。そういった問題を乗り越え、ついにイノシシを仕留めてか ら も 気 は 抜 け な か っ た。 イ ノ シ シ が 倒 れ た 際、 四 本 の 足 を 縄 で 縛 る そ の 場 に 居 合 わ せ た 者 の み が 肉 を 分 配 で き る、 と い う ル ー ル が 存 在 し た。 そ の た め、 銃 声 を 聞 い た 猟 師 は 我 先 に イ ノ シ シ の 所 へ 駆 け 寄 っ て き た の だ と い う。 な お、鉄砲だけを持った者と猟犬を連れた者では分け前の量が違い、後者はより多く分配された。これはパートナー である猟犬の食糧の分を追加していると考えられる。   以 上 の よ う に 、 イ ノ シ シ は 人 々 に 豊 か な 恵 み を も た ら す 反 面 、 そ れ を 奪 う 存 在 で も あ っ た ︵ 写 真 3︶。 全 国 的 に も シ シ ガ キ ︵ シ シ 垣 ︶ な ど 、 イ ノ シ シ の 獣 害 を 防 ぐ た め の 物 理 的 、 精 神 的 な 対 処 の 民 俗 が 見 ら れ る 。 イ ノ シ シ は 作 物 を 食 害 す る だ け で な く 、 ヌ タ ウ チ に よ っ て 実 っ た イ ネ を 倒 し て し ま う 。 イ ノ シ シ の ヌ タ ウ チ で 倒 さ れ た イ ネ は 獣 臭 く 、 食 べ ら れ な い 状 態 に な っ て し ま う 。 そ の た め 、 カ カ シ や オ ド シ ヅ ツ ︵ 脅 し ▲写真 4 有害鳥獣撃退ロケット花火 ▲写真 3 イノシシに荒らされた畑

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筒 ︶ と 呼 ば れ る 空 砲 で 驚 か し て 追 い 払 っ て い た 。 現 在 で は 、 獣 害 対 策 用 の ロ ケ ッ ト 花 火 で 音 を 発 生 さ せ て 追 い 払 っ て い る ︵ 写 真 4︶。 ま た 、 近 年 で は 食 害 が ひ ど い た め 、 電 気 柵 や ト タ ン 板 、 テ グ ス で 囲 っ た 田 畑 を し ば し ば 目 に す る 。   イノシシによる田畑への害は、紀美野町で聞かれる伝承にも表れている。それは紀美野町で﹁立岩伝説﹂と呼ば れている。これについては、長谷、毛原地区周辺の伝承をまとめた書籍に紹介されているので、少し長くなるがこ こで引用したい。内容は以下の通りである。   毛原宮の東のはずれ、貴志川の流れの真ん中に屹立する巨岩、これが伝説の﹁立岩︵たちいわ︶ ﹂です。   ︹ ⋮⋮︺ 祭 神 は﹁ 立 岩 明 神 ﹂ で こ れ は﹁ 狩 場︵ か り ば ︶ 明 神 ﹂ と 同 一 人 物 と 思 わ れ、 岩 そ の も の が 御 神 体 で す。 ︹⋮⋮︺地元では﹁狩場さん﹂として親しまれ、長谷と毛原の鎮守社に丹生津姫と共に祀られています。 ︹⋮ ⋮︺ 。   さてそのころのことです。長谷毛原の住民たちは、田畑を荒らすイノシシの害に苦しみぬいて、領主に訴え ました。すると早速狩場さんが天野からやってきました。村人たちから話を聴いた彼は、使い慣れた弓と愛犬を 携 え、 イ ノ シ シ を 退 治 す べ く 犬 飼 谷︵ い ぬ こ だ に ︶ へ 入 っ て い き ま す。 や が て 犬 に 追 わ れ た 獲 物 が 現 れ ま し た。 し か し そ れ は 想 像 を 超 え た 巨 大 な イ ノ シ シ だ っ た の で す。 ︹ ⋮⋮︺ 臆 す る こ と な く 立 て 続 け に 矢 を 放 ち ま す。 と ころが矢は命中するのですが跳ね返って刺さりません。次第に追いつめられた彼はとうとう谷の入り口まで押し 戻されました。   そこで目についたのは川中に横たわる大きな岩、彼はその上で飛びあがり、なお射続けようとしました。し かしびくともしない大イノシシはその岩に飛びつき、今にも狩場さんを牙にかけようとします。絶体絶命となっ

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た彼はついに祈りました、 ﹁岩よ、汝に心あるなら我を助けよ﹂ 、すると︹⋮⋮︺横たわっていた巨岩がぶるぶる と振動し地響きを立てて起き上ったのです。狩場さんははるか眼下のイノシシを狙いすまし、最後の一矢を放ち ました。矢はみごと両眼の真ん中に深く突き刺さり、イノシシは︹⋮⋮︺川の中に倒れました。こうして長谷毛 原の山野に平穏が訪れました。 ︹森下   二〇一六   八 −九︺   この伝承は、聖性地形である奇岩を信仰の対象としている点で興味深い。また、イノシシ害の克服を伝えている 点に関しては示唆的な伝承である。すなわち、紀美野町でのイノシシによる害を、近代以前より狩猟によって対処 し て い た と い う こ と で あ る。 そ の た め、 立 岩 は 狩 猟 の 成 功 を 祈 る 場 に も な っ て い る︹ 森 下   二 〇 一 六 ︺。 イ ノ シ シ 猟 の 前 に は 立 岩 へ 参 り、 酒 を 供 え そ の 成 功 を 祈 願 す る。 今 日 で は こ の よ う な 風 習 は 見 ら れ な く な っ て い る が、 今 で も 毛 原 周 辺 で は 残 っ て い る よ う だ。 原 初 か ら の 人 と イ ノ シ シ を 取 り 巻 く 風 景 が 紀 美 野 町 に は い ま だ 残 っ て い る。   い わ ず も が な、 狩 ら れ た イ ノ シ シ は 食 肉 と し て 一 級 で あ っ た︵ 写 真 5︶。 ⑵ ▲写真 5 軒下のイノシシ肉 ▲写真 6 イノシシの肝

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ま た、 内 臓 を 薬 と し て 食 す る こ と も あ っ た︵ 写 真 6︶。 胆 嚢 に は 解 毒 作 用 が あ り、 飲 む と 二 日 酔 い に な ら な い と いった。肉以外の部位も多いに活用されていた。毛皮は硬く、保温性が高い。そのため、腰巻やソデナシに加工さ れた。大型のイノシシから取れる牙は装飾品に煙草入れのネジメなど装飾品に加工された。   と こ ろ で、 紀 美 野 町 で イ ノ シ シ に つ い て 聞 き 取 り 調 査 を お こ な う と、 ﹁ 今 の イ ノ シ シ は イ ノ ブ タ で あ る ﹂ と し ば し ば 耳 に す る。 イ ノ ブ タ と は そ の 名 の 通 り、 イ ノ シ シ と ブ タ の 雑 種 で あ る。 イ ノ ブ タ は 肉 質 が イ ノ シ シ と 異 な り、 脂肪分が多いという。また、イノシシはウリボウ︵イノシシの幼獣︶を一頭しか育てないが、イノブタはブタの血 に よ り 多 産 に な り ウ リ ボ ウ が 何 頭 も 連 れ て い る と い う。 こ れ に つ い て 和 歌 山 県 の あ る 農 業 担 当 職 員 に 伺 っ た と こ ろ、 D N A 検 査 の 結 果 で は、 イ ノ ブ タ の そ れ は ほ と ん ど 残 っ て い な い と い う。 ま た、 出 産 量 の 変 化 に つ い て は、 元 々 イ ノ シ シ は 多 産 で あ る が、 餌 不 足 ゆ え に 一 頭 し か 見 ら れ な か っ た の だ ろ う と い う こ と で あ っ た。 整 理 す る と、 環境の変化によりイノシシの生態が変化し、そこにブタとの混血というストーリーが合わさったと考えられる。 ︵二︶シカ   シカによる農作物への食害は、イノシシと同じく深刻な問題である。電気柵などの対策を講じても、軽く跳躍し てしまうため防ぐことが難しい。また、スギやヒノキといった樹木に角をこすりつけ皮が剥がす、新芽を食害する ことなど、林業にも悪影響を及ぼしている。そのため今日では狩猟の対象となっているが、かつては狙って狩猟さ れ る わ け で は な か っ た。 イ ノ シ シ に 比 べ る と シ カ 肉 は 味 が 劣 り︵ し か し、 刺 身 は 美 味 で あ る と い う ︶、 紀 美 野 町 で は 食 用 と し て 狩 猟 さ れ る こ と は 今 も 昔 も 少 な い。 だ が、 そ の 立 派 な 角 が 部 屋 や 道 具 小 屋 に 飾 ら れ て い る 例 は 多 い ︵写真 7、 8︶。これは装飾のほか、刀などの台や鉤として用いるためであるが、一方で狩猟の技量などを示す指標 にもなっているのではないだろうか。 ⑶ ⑷ ⑸

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  な お、 シ カ は タ チ と い う 植 物 を 好 ん で 食 す と い う が、 現 状 で は そ の 同 定 が できていない。   ︵三︶カモシカ   ﹁ 羚 羊︵ か も し か ︶ の よ う な 足 ﹂ と い う 表 現 が あ る が、 こ れ は 元 々 レ イ ヨ ウ︵ ア ン テ ロ ー プ ︶ の こ と を 指 し て い る と い い、 本 来 の カ モ シ カ は 屈 強 な 足 で 岸 壁 を も 登 る 動 物 で あ る。 現 在 は 特 別 天 然 記 念 物 に 指 定 さ れ て い る た め、 捕 獲 は 禁 じ ら れ て い る が、 か つ て は 狩 猟 の 対 象 と な っ て い た。 こ れ は、 カ モ シ カ の 肉 が 非 常 に 美 味 で あ っ た か ら だ。 カ モ シ カ は﹁ シ カ ﹂ と 付 く も の の、 ウシの仲間であるため、肉質香味が良かったと想像できる。そのためであろうか、古老の中にはニクという方言名 で呼ぶ方もある。なお、この呼び名は和歌山以外の地域でも見られるものである。その他、毛皮も利用された。   紀美野町の方々は、近年、狩猟を禁止した影響でカモシカが増加したと感じている。これについて、先の農業担 当 職 員 の お 話 で は、 正 確 に は 個 体 数 が 増 加 し た 訳 で な く、 生 息 域 が 拡 大 し た た め に 目 に つ き や す く な っ た の で は、 との返答を得ている。 ⑹ ⑺ ▲写真 7 飾られたシカの角 ▲写真 8 道具小屋のシカの角

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︵四︶サル   紀美野町には﹁おいつぼの話﹂という伝承があり、それにはサル︵ヒヒザル︶が登場する。内容は以下の通りで ある。   娘の夢に表れた観音様が、娘がヒヒザルにさらわれてしまうことを予言し、壺の中に隠れるように告げる。その 後、お告げの通りヒヒザルが現れ、壺ごと娘をさらう。壺を背負ったヒヒザルが山へ行き、滝の下の淵の辺りへ来 た時、娘は手に持っていた簪をわざと川に投げ込んだ。そして﹁それは母の形見で大事な物であるから拾ってほし い ﹂ と 伝 え る。 娘 に 惚 れ た ヒ ヒ ザ ル は 川 へ 飛 び 込 み 簪 を 探 し た が、 背 負 っ て い た 壺 が 重 く、 最 後 は 溺 れ て し ま っ た。そのため、その淵を﹁おいつぼ﹂と呼ぶ︵筆者要約︶ 。   こ の 物 語 に は、 ﹁ 娘 を 娶 っ た サ ル が、 娘 の 要 望 に 応 え、 背 中 に 背 負 っ た 物︵ 臼 や 水 瓶 ︶ の た め に 最 後 に は 溺 死 し て し ま う ﹂ と い う パ タ ー ン が 見 受 け ら れ る。 こ れ は 異 類 婚 姻 譚 の﹁ 猿 聟 入 り ﹂ に 相 当 す る 伝 承 と い え る で あ ろ う ︹福田・神田・新谷・中込・湯川・渡邊   二〇〇六︺ 。   多くの場合、顛末はこの通りであるのだが、まれにヒヒザルが娘を連れ去る経緯が異なる場合の語りが聞かれる ことがある。これについては、今後、その分布も含めて調査を続けていく必要がある。 ︵五︶イヌ   イヌは有史以来の狩猟における人間とのパートナーである。弘法大師を高野山に導いた狩場明神も白黒二頭の猟 犬を携えている。和歌山には紀州犬という犬種が存在し、狩猟犬として好まれていた。   紀 美 野 町 で は、 猟 犬 を シ シ イ ヌ と も い う 呼 び 名 で 呼 ぶ︵ 写 真 9︶。 シ シ イ ヌ に は 雑 種 で も な れ る が、 紀 州 犬 が 最 適とされている。これは猟犬としての仕込み︵教育︶を施しやすいためである。猟犬として仕込む際には、より猟

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へ の 欲 が 強 い も の を 選 ん で い く。 そ う い っ た 紀 州 犬 へ の 需 要 に 対 し、 今 日 で い う と こ ろ の ブ リ ー ダ ー の よ う な 役 職 を 持 つ 者 も か つ て い た と い う。 そ の 後、 戦 後 の ハ ン タ ー ブ ー ム の 際 に は ポ イ ン タ ー な ど 海 外 の 犬 種 も 猟犬として用いられていた。   ︵六︶ウシ   イ ヌ が 狩 猟 の パ ー ト ナ ー と す る な ら ば、 ウ シ は 農 業 の パ ー ト ナ ー で あ っ た。 日 本 で 農 業 が 機 械 化 さ れ る 昭 和三〇年︵一九五五︶ごろまで、各地では畜力による農耕がおこなわれていた。関西で犂や馬鍬などを引かせる対 象は主にウシであり、これは紀美野町でも例外ではなかった。ウシは多くの場合、一家に一頭飼育していたが、中 にはみずから飼育せず、専門の業者から借り受け、農耕する例も見られた。時にはウシが逃げ出し、勝手に貸主の 元へ戻ってしまうこともあったという。ウシは博労と直接、値段の交渉し購入していた。   ウ シ は 牛 小 屋 で 飼 育 さ れ た。 餌 は カ イ バ︵ 飼 葉、 藁 を 切 っ た も の、 蒸 し た ム ギ、 米 ぬ か、 刈 っ た 草 を ま ぜ た も の︶を与えており、時々身体を綺麗に掃除した。また、ウシが排出したフンは田畑の肥料として再利用することも あった。 ︵七︶ウマ   紀 美 野 町 で は﹁ ね じ や 建 て ﹂ と い う 構 法 を 用 い た 家 屋 が 見 ら れ る。 ね じ や 建 て と は、 ﹁ 軒 の 構 造 に 特 徴 が あ り、 ▲写真 9 猟犬

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出 桁 を 軒 桁 に 対 し て 非 平 行 に 架 け る こ と に よ り、 主 屋 よ り 突 き 出 し た 牛 小 屋 を 屋 敷 内 に 取 り 込 む も の ﹂︹ 千 森   一九九六   二〇︺である。これは雨や雪が降った際も、滞りなくウマの荷降ろしができるようにこのような作りを 施したのだという。話者いわく、おそらく、高野山領であった地域は、年貢をいつでもおさめる必要があったため にこのようにしたのでは、ということであった。   紀美野町におけるウマに関する民俗は現状でこの一例しか見られないが、昔は神事として競べ馬をおこなってい た、戦時中に軍馬として供出されたという話も断片的ではあるが聞かれる。 ︵八︶ネズミ・カワネズミ   多くの家では、ネズミ退治としてネコを飼っていた。また、家に出るネズミはネズミカゴ︵鼠籠︶を仕掛けてネ ズミを捕獲した。これは駆除というよりも追い出すという意味合いが強かったのだという。   カワネズミは黒焼きにして腎臓の薬として用いた。ネズミという名が付いているが、現状でどのような動物であ るかは定かではない。 ︵九︶ウサギ   ウサギはノウサギを狩猟し、毛皮と肉は利用した。毛皮は敷物などに加工され、肉は食用とした。その他、家に よっては家畜として飼育した。 ︵一〇︶オゴロ   オゴロと呼ばれる動物の獣害が聞かれる。オゴロは水田のドジョウを狙って畦に穴を掘ってしまう。このため畦

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が崩れ漏水してしまう。また、畑では穴を掘り野菜を枯らしてしまう。この動物については、多くの場合モグラで あると説明される。 ︵一一︶ノブスマ   名前のみ聞かれた。これはムササビのことを指していると考えられる。 二   魚類   ︵一︶ウナギ   昨 今、 ニ ホ ン ウ ナ ギ の 個 体 数 減 少 が 国 際 的 問 題 と な っ て い る。 幼 魚 で あ る シ ラ ス ウ ナ ギ の 乱 獲 や 全 国 的 な 河 川 状 況 の 変 化 に よ り 姿 を み か け る こ と は 少 な く な っ た。 現 在 の 私 た ち に と っ て は 天 然 も の の ウ ナ ギ は 高 級 品 で あ る が、 本 来 ウ ナ ギ は 比 較 的 水 質 や 水 量 の 変 化 に 対 し て 耐 性 の あ る 魚 類 で あ り、 か つ て は お お よ そ の 河 川 で み ら れ た。 そ れ ゆ え、 聞 き 取 り 調 査 で は 頻 繁に捕獲についての語りが聞かれる。   ウ ナ ギ の 漁 法 に つ い て 問 う と、 ま ず 挙 げ ら れ る の が ウ ケ︵ 筌 ︶ に よ る 捕 獲 法 で あ る。 ウ ケ と は 円 錐 形 や 徳 利 型 に し た 簾 な ど に 漏 斗 状 の 口 を つ け て 入 っ た 獲 物 が 出 ら れ な い よ う に す る 仕 掛 け で あ る︹ 日 本 民 具 学 会   一 九 九 七 ︺。 紀 美 野 町 で は 胴 部 分 に 竹 筒 を 用 い た ウ ケ が よ く 使 わ れ て い た。 ウ ケ に は ウ ナ ギ の 好 む 餌 と し て ミ ミ ズ や 魚 の 内 臓 を 入 れ て い た。 ま た、 真 ⑻ ▲写真 10 鰻鋏

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国川流域では餌にドジョウを用いる場合もあったようである。興味深いのは、餌として用いるドジョウは﹁田んぼ にいるドジョウではなく、川にいる縞々のドジョウがよい﹂とされている点である。正確な同定はできないが、真 国川のような流れのある河川に生息し、体表に縞模様を持つドジョウとはシマドジョウであろう。個人消費にとど まる魚類に対し、餌の嗜好性まで加味して漁をおこなう点からは、ウナギが食物として重宝されていたことが分か る。   ウナギの漁についてはもうひとつ、水底の泥の中にひそむウナギを、道具を用いて引っかけて捕るウナギキリに つ い て 語 ら れ る こ と が 多 い。 ウ ナ ギ キ リ で は、 山 樵 道 具 の 鎌 や 鋸 の ほ か、 ﹁ 先 が 曲 が っ た 鎌 の よ う な ﹂ 道 具 を 用 い た と い う。 こ れ は お そ ら く、 鰻 掻 き と 呼 ば れ る 漁 具 で あ ろ う︹ 日 本 民 具 学 会   一 九 九 七 ︺。 こ の 道 具 に つ い て は 民 具学の観点から今後の聞き取りが必要であるが、和歌山の他の地域でも採集されているため、紀美野町でも使用さ れていたと考えてよいだろう。ウナギキリは主に水田や用水路といった水域でおこなわれるが、まれに道を這って い る ウ ナ ギ を 引 っ 掛 け る こ と も あ っ た と い う。 ウ ナ ギ は 皮 膚 呼 吸 に よ っ て 短 時 間 な ら ば 地 上 に 上 が る こ と が で き、 大 雨 や 洪 水 の 後 に 道 を 這 っ て い た と い う 例 も あ る。 お そ ら く そ う い っ た 際 に 捕 獲 し た と い う こ と で あ ろ う。 な お、 ウ ナ ギ キ リ の 際 に ウ ナ ギ を 挟 む た め の 歯 が 付 い た 専 用 の 鋏 も 使 わ れ た︵ 写 真 10︶。 こ の 道 具 に 関 し て は、 一 般 的 に は鰻鋏と呼ばれている︹日本民具学会   一九九七︺ 。   ウナギキリについての特徴的な点は、ウケ漁は主として男性から語られるのに対し、こちらは比較的女性からの 語りも多いことである。事前に餌を用意し、ウナギの生息域を考慮したうえで仕掛けるウケに比べ、ウナギキリは 道具ひとつで手軽に漁が可能であったことが要因であろうか。   釣り糸と針を用いた方法については以下のふたつがみられた。ひとつはウナギトリである。これは、日中ウナギ が潜んでいる穴や、ガマと呼ばれる川底の石場を狙っておこなわれる漁法である。糸を結んだ針に餌をつけ、それ ⑼

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を 竹 筒 の 先 に 引 っ 掛 け、 ウ ナ ギ が ひ そ む 場 所 へ そ れ を 送 り 込 み、 釣 り 上 げ る の で あ る。 も う ひ と つ は ツ ケ バ リ で あ る。 ウ ナ ギ の 生 息 す る 河 川 に、 餌 と な る ア ユ な ど を 針 に つ け、 そ れ を 結 ん だ 糸 を 仕 掛 け て お く。 後 日、 か か っ た ウ ナ ギ を 捕 獲 す る。 こ れ は、 い わ ゆ る 延 縄漁のことである。   そ の 他、 河 川 で の サ ン シ ョ ナ ガ シ︵ 山 椒 流 し ︶ で も 捕 え ら れ た。 サ ン シ ョ ナ ガ シ と は、 青 い 状 態 の サ ン シ ョ ウ を 布 袋 に 入 れ て 水 中 で 揉 む、 も し く は す り 鉢 で す っ て 川 上 か ら 流 す。 こ れ ら の 方 法 を と り、 サ ン シ ョ ウ に 含 ま れ る 成 分 で 魚 を 痺 れ さ せ 捕 獲 す る 漁 法 で あ る。 な お、現在は毒流しの一種として禁止されている。   以上は日中もしくは夕方を想定したものであるが、活動時間である夜間にウナギを狙うこともあった。その際は 夜の川を松明やカーバイドランプで照らしながら、モリ︵銛、ツキとも呼ばれる︶で獲物を突き刺し捕獲した。こ れはヨグリと呼ばれている。ちなみに、松明の光は揺れて獲物が逃げるが、カーバイドランプ︵写真 11︶が発する 光は魚を驚かせることがなく、これは夜間の漁と相性が良かった、と語る方もいた。   様々な手法で捕獲されるウナギであるが、体表が滑りやすくなかなか掴みにくい。だが、表面がザラザラしてい るフキの葉で掴むと滑らず掴めた。こうして家へ持ち帰ったウナギは背開きでさばき、蒲焼きにして食べた。 ▲写真 11 カーバイドランプ

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︵二︶アユ   紀美野町では主に、以下のふたつの方法でアユ漁がおこなわれていた。ひとつは全国的に広くおこなわれている 友釣りである。友釣りとは、縄張り意識が強いというアユの性質を利用し、オトリのアユに糸と針をつけ、攻撃し てきたアユを引っ掛けて釣りあげるものである。藻類を食べるため、餌釣りが困難なアユを釣るための実に合理的 な方法である。   もうひとつはアミイレ︵網入れ︶と呼ばれる方法だ。アミイレとは、河川を網で区切り、その区間の漁業権を買 い、おこなわれる漁撈である。アミイレは美里地区が発祥とされており、現在でも貴志川漁協協同組合が中心とな り8月最後の日曜におこなう。アミイレの漁業権は、区切られた箇所の魚類の多少によって値段が変動していたと いう。この時、ヒッカケという道具でアユやその他の魚類を捕獲した。ヒッカケは自給され、遊びの際などアミイ レ以外でも用いられたという。   こ う し て 捕 獲 さ れ た ア ユ は 塩 焼 き の ほ か、 鮎 寿 司 に 加 工 す る、 出 汁 用 や 煮 物 用 の 干 物 に す る な ど し て 利 用 さ れ た。また、番茶でアユを煮るという調理法も聞かれた。   ところで、アユに関しては漁業の対象魚としての需要が高く、地元漁協による放流もおこなわれている。紀美野 町では、湖産と呼ばれる琵琶湖で養殖されたものや、海産と呼ばれる海で稚魚を捕獲し養殖されたものを放流して いる。湖産のアユは天然のアユと比べ、体の黄色の斑点が濃くあらわれ縄張り意識が強いのだという。また、海産 のアユは湖産のアユと比べ体長が大きくなるそうだ。天然のアユと放流されたアユでは明らかに特徴が異なること を、紀美野町の人々は経験的に知っているということである。なお、最近のアユは昔のアユと比べて砂をよく吐く ようになったというが、これは放流されたアユの特徴であるのか、河川環境の変化によるものであるかは定かでな く、今後の調査が求められる。 ⑽

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︵三︶コイ   紀 美 野 町 を 流 れ る 貴 志 川、 真 国 川 は 水 温 が 低 く 水 の 流 れ が 速 い た め、 コ イ は あ ま り 生 息 し て い な い よ う で あ る。 それでも、一部、生息していた地域では、川遊びとして捕獲されたり、麩や蒸したイモを餌に釣りの対象ともなっ ていた。   なお、コイを水田に放ち養育する農家もあった。稚魚を放流し、食用のために育てていたとのことであるが、副 次的には雑草の抑草効果もあったのではないであろうか。なお、隣接する自治体である和歌山県高野町花坂地区で は、ニシキゴイをイロゴイと呼び、その血は薬として産後の体力回復に用いた、という話が聞かれたが、ここでは 聞かれることはなかった。 ︵四︶ギギ   ギ ギ と は ナ マ ズ 目 ギ ギ 科 の 魚 で あ る。 紀 美 野 町 で は ギ ン ギ と も 呼 ば れ て い る。 全 長 は 最 大 で 三 〇 セ ン チ 程 度 で、 掴まれた際に﹁ギーギー﹂と威嚇音を出すことが名前の由来といわれている。紀美野町では、ギギは蒲焼きや白焼 きにして食された。そのほか、ギギから取った出汁で素麺を食べたこともあったという。近年、ウナギの代替魚と して食用ナマズについて研究が進んでいる。これはナマズの肉質や風味が、ウナギのそれに近いからであるが、紀 美野町では古くよりこのことが経験的に知られていたということであろう。   その他には、民間薬としても用いられた。ギギを丸ごと焼き、煎じたものは肺炎に効いた。 ︵五︶ウグイ   紀美野町では、ウグイはアユの放流に伴い見られるようになったようだ。そしてなぜか、貴志川に生息している

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が、真国川には生息していないという。この理由は定かではない。だが、数名の話者によると、貴志川は昭和二八 年︵一九五三︶の大水害の発生後、河川環境が劇的に変化し、その後の護岸工事も重なって大きく変質を起こした ようである。このことが起因しているのかについては、民俗学からだけでなく、生物学的観点からも今後の調査が 待たれるところである。 ︵六︶アカザ   名前のみ確認できた。特に利用法などについては聞かれておらず、今後の調査に期待したい。 ︵七︶セジャコ・ハイジャコ・フチジャコ   魚類について聞き取りをおこなうと、ジャコという名をしばしば耳にする。ジャコとはいわずもがな﹁雑魚﹂の ことであるが、そこには﹁セジャコ﹂ ﹁ハイジャコ﹂ ﹁フチジャコ﹂という呼び分けがみられる。セジャコとフチジャ コの名前については、その生息域を表しているという。すなわちセジャコは瀬に、フチジャコは淵に生息している 魚ということである。   では、これらの魚は一体、今日のどの種類を指すのであろうか。まず、和歌山の魚類について網羅的な研究を残 し た 宇 井 縫 蔵 の﹃ 紀 州 魚 譜 ﹄ の 記 載 に つ い て 紹 介 す る。 宇 井 は﹃ 紀 州 魚 譜 ﹄ の な か で、 オ ス の オ イ カ ワ を ア カ ブ ト、 メ ス の オ イ カ ワ を ハ イ、 ま た は ハ イ ジ ャ コ と 紹 介 し て い る︹ 宇 井   一 九 二 五 ︺。 筆 者 ら の 聞 き 取 り に よ る 同 定 の結果、ハイジャコに関しては上記の記載と同じ結果を得ている。だがセジャコとフチジャコについては言及され ていない。   次に、本調査で得られた見解を紹介する。聞き取りの結果、セジャコとはオイカワの、フチジャコとはカワムツ ⑾

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のことを指していると思われる。また、カワムツに関しては、オスをアカブトと呼んでいたようだ。以上のことを 総 合 す る と、 セ ジ ャ コ・ ハ イ ジ ャ コ・ フ チ ジ ャ コ と は コ イ 科 の 魚 類 の 総 称 で あ る と 考 え ら れ る。 コ イ 科 の 魚 類 は、 オ ス が 繁 殖 期 に な る と 婚 姻 色 と 呼 ば れ る 鮮 や か な 体 色 に 変 化 す る。 他 方 で、 メ ス は 単 色 で 比 較 的 地 味 な 体 色 で あ る。このため、たとえ同種であっても別種のように感じられたのではないだろうか。つまり、オスのオイカワ、カ ワムツの婚姻色のものをアカブト、それらのメス、もしくは婚姻色のみられないものをそれぞれハイジャコ・フチ ジャコと呼ぶと考えられる。   この三種は利用法にも多少の差がみられる。セジャコ・ハイジャコは骨が軟らかく、カキの葉で包んでジャコ寿 司にして食したという。特にハイジャコは寿司屋へ出荷されることもあったようである。だが、フチジャコは骨が 硬く、あまり寿司には向かなかったようだ。 ︵八︶ノメ   紀 美 野 町 で 伝 承・ 昔 話 に つ い て 聞 き 取 り を お こ な う と、 ﹁ 串 跡 の あ る 魚 ﹂ の 話 を し ば し ば 耳 に す る。 こ こ に 登 場 するのがノメという魚である。このストーリーについては末広恭雄の﹃魚と伝説﹄にまとめられているのでここで 紹介したい。   昔々、この玉川のほとりで、一人の男が釣りたての魚を串に刺して焼いて食べようとしていたところに弘法 大師が通りかかった。大師はその様子をみて、魚のために強い仏心を起されたらしい。その男にいくばくかの銭 をやってその焼きかけの魚をゆずりうけた。   ところで男だが、大師が魚を買ったのは食べるためだと思った。しかし大師はその魚を食べもせず、川の中 ⑿ ⒀

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に投げ込んでしまったので、もったいないことをするものだと、その男はいぶかったが、その直後に起った奇跡 を目の当たりにして、すっかり驚いてしまった。   ︹ ⋮⋮︺ そ の 魚 が 生 き て 泳 ぎ だ し た の で あ る。 そ し て 水 の 上 か ら そ の 魚 を み る と、 刺 し た 串 あ と が ハ ッ キ リ その背に残っているではないか。 ︹末広   一九七七   三四︲三五︺   こ の ノ メ と い う 魚 で あ る が、 聞 き 取 り で は い っ た い 今 日 の ど の 魚 種 で あ る か は 分 か ら な か っ た。 だ が、 ﹃ 紀 州 魚 譜﹄で、宇井はこの伝承について以下のように述べている。   餘り古くよりの傳説ではないやうであるが、高野山の奥の院御廟の前を流るゝ玉川に棲んでゐる魚は﹁昔弘 法大師が魚串にさゝれて將に焼かれんとしたものを助けて放つたもので、この川にすんでゐる魚に限り、背中に 魚串の跡が残つてある﹂といひ、之が高野山の一名物になつてゐる。その魚串の跡があるといふ魚は、即ちアブ ラハヤであって、生時水中を泳いでゐるとき、背鰭が淡黄色の斑點に見江、それが丁度魚串の跡のやうにも見江 るのである。この魚は高野の玉川に限らず、普通とはいへぬが往々山間の渓流に見出される。併し土地によつて はタカハヤやカハムツが弘法大師の助けて逃した魚といつてゐるが、これ等の魚の背鰭も亦水中で淡黄色の斑點 に見江る。 ︹宇井   一九二五   三二︲三三︺   宇井は、ノメをアブラハヤと同定している。また、地域によってはこの伝承の魚がタカハヤやカワムツであると も述べている。ところで、大正一三年︵一九二五︶に書かれた書籍にあって、それほど古くからの伝承ではないと も付け加えている。これはどういったことであろうか。

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  美里市教育委員会より発行された﹃美里の自然﹄では、和歌山大学教授の牧岩男の言として、和歌山県にはタカ ハヤしか生息していないとの記載がある。だが一方で、和歌山県立自然博物館の学芸員の主張では、アユの放流に 混 入 し た ア ブ ラ ハ ヤ に よ り 生 息 域 の か く 乱 が 起 こ っ て い る と も あ る︹ 前 田   二 〇 〇 五 ︺。 事 実、 和 歌 山 県 立 自 然 博 物館の調査研究の結果、高野町花坂地区にのみアブラハヤが生息していると結論づけている︹和歌山県立自然博物 館   一 九 九 五 ︺。 残 念 な が ら い つ 頃 か ら か く 乱 が 起 こ っ た の か ま で は 分 か ら な い が、 少 な く と も ア ユ の 放 流 が 始 まった明治以降のことであろう。であるならば、紀美野町の伝承にあらわれるノメはアブラハヤでなくやはりタカ ハヤと考えていいのではないだろうか。その後、アユの放流に伴い移入した近縁種のアブラハヤはその姿が酷似し ていることからノメと呼ばれてきた、と推測できる。今日的な環境問題が民俗にも影響を及ぼした例とも考えるこ とができる。   ノメという呼び名は体表がぬめぬめしているところからきているといい、ヌメリバイとも呼ばれている。あまり 食物としての利用もなされず、上記の伝承について以外では子どもたちの川遊びでの釣りの対象魚として名が挙が るにとどまる。なお、初生谷ではノメは見られないという。 ︵九︶トクジン・トクチ・トクッチョ   トクジンは口が細く、主に釣りの対象魚となっていた。聞き取り調査によるとこれらの名前で呼ばれる魚はムギ ツ ク で あ る と い う。 ﹃ 紀 州 魚 譜 ﹄ で は ム ギ ツ ク の 方 言 名 と し て ト グ チ、 ト グ チ バ イ と 説 明 さ れ︹ 宇 井   一 九 二 五 ︺、 ムギツクのそれとみて間違いないであろう。 ⒁

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︵一〇︶ネホウ   ネホウは根︵水の底︶を這うからこのように呼ばれたそうである。紀美野町での聞き取りの結果、カマツカのこ とを指すと分かった。これは﹃紀州魚譜﹄の記載と相違なく︹宇井   一九二五︺ 、おそらく間違いはないであろう。 ︵一一︶ゴリ   ﹁ ゴ リ 押 し ﹂ と い う 言 葉 が あ る が、 こ の 語 源 と な っ た 魚 が ゴ リ で あ る。 こ の 名 は 比 較 的 よ く 知 ら れ た 方 言 名 で あ る。 ゴ リ と は ヨ シ ノ ボ リ な ど 淡 水 性 の 小 型 ハ ゼ の 総 称 で あ る。 紀 美 野 町 で も ウ ケ な ど で 獲 ら れ た 魚 で あ る。 な お、 ﹁ ゴ リ の 大 き い も の ﹂ も 河 川 に い た と い う こ と で あ る が、 こ れ は カ ジ カ や ド ン コ の こ と で は な い だ ろ う か。 ゴ リ の 利 用 法 は あ ま り 聞 か れ なかったが、大型のゴリは食べたようだ。 三   鳥類   ︵一︶ヒヨドリ   紀 美 野 町 で の 鳥 類 に 関 わ る 民 俗 で も っ と も 耳 に す る の は、 ヒ ヨ ド リ に つ い て で あ る。 ヒ ヨ ド リ は 大 変 美 味 し い 鳥 で、 好 ん で 狩 猟 の 対 象 と な っ た。 ハ ゼ の 実 な ど を 食 べ に や っ て き た ヒ ヨ ド リ を 空 気 銃 や オ シ︵ 圧 し ︶、 も し く は ベ タ オ シ と い う 罠 で 狩 っ た。 オ シ は 竹 製 の も の が 確 認 さ れ て い る ほ か︵ 写 真 12︶、 山 野 に て 草 や 木 の 枝 で 簡 易 的 に 作 成 も し た︵ 写 真 13︶。 オ シ は 比 較 的 小 規 模 な 狩 猟 の 方 法 で あ っ た の ⒂ ▲写真 12 竹製のオシ(撮影:絹川諒介)

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で、 子 ど も の 遊 び と し て も お こ な わ れ て い た。 そ の 他 に はかすみ網によって捕獲された。   ︵二︶メジロ   メ ジ ロ は 緑 黄 色 の 体 色 で、 そ の 名 の 通 り 目 の 周 り が 白 く 美 し い 小 鳥 で あ る。 そ の た め に 愛 玩 用 に 飼 育 さ れ る 例 が し ば し ば で あ る。 鳥 籠 に 入 っ た メ ジ ロ を 野 外 に 置 い て お く と、 そ の 鳴 き 声 を 聞 い て 野 生 の メ ジ ロ が 集 ま っ て く る︵ こ の 時、 鳥 籠 に 入 っ て い る メ ジ ロ を ト モ と 呼 ぶ 例 も ある︶ 。そして近づいたメジロをヤドリの実を噛んで作ったモーチ︵とりもち︶で捕獲した。   飼育されたメジロはその鳴き声を愛でた。メジロが美しく鳴くことをタカネ、鳴かせることをタカネキラスとい う。美しくかつ長く鳴かせるためには力をつけさせる必要がある。その際にはフナの粉を食べさせた。 ︵三︶ヤマガラ   フィールドワークの最中、野生のヤマガラ︵写真 14︶と遊んでいる方を幾度か見かけた。ピーナッツやヒマワリ の種を手のひらに置き待っていると、ヤマガラが飛んできて餌を咥えて飛び去っていくのである。ヤマガラは頭の 良 い 鳥 で、 ヤ マ ガ ラ に よ る 芸 は 日 本 各 地 で か つ て は 見 ら れ た︹ 小 山   二 〇 〇 六 ︺。 日 々 の 仕 事 の 合 間、 一 休 み が て らにヤマガラと戯れてその疲れを癒していたのだろうか。 ▲写真 13 簡易的なオシ (撮影:藤田悠人)

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︵四︶スズメ   全 国 例 に 漏 れ ず、 稲 作 の 害 鳥 と し て の 語 り が 聞 か れ た。 イ ネ が 実 る 前 を 狙 っ て 水 田 に や っ て く る た め、 ガ ス 鉄 砲 で 追 い 払 っ た。 ま た、 食 用 と し て 利 用 す る た め、 オ シ や 籠 を 使 っ て 捕 獲 し、 塩 漬 け に し た。 な お、 集 団 で 住 む ス ズ メ と 家 に 住 む ス ズ メ を 区 別 し て お り、 前 者 は ノ ラ ス ズ メ と 呼 ん で い た。 そ ん な 身 近 な 存 在 で あ っ た ス ズ メ だ が、 近 年 で は 生 息 数 が 減っているという。 ︵五︶ニワトリ   今 日 の よ う に 鶏 肉・ 鶏 卵 が 手 軽 に 購 入 さ れ る よ う に な る 以 前 は、 家 々 で 家 禽 と し て 飼 育 さ れ て い た。 飼 育 の 形 態 は、 放 し 飼 い や 鶏 舎 の 利 用 な ど ま ち ま で あ る。 餌 に は コ ゴ メ︵ 割 れ た 米 ︶ や 野 菜 く ず、 タ ニ シ の 殻 を 砕いたものを与えていたという。タニシの殻は、ボレー粉と同じく、ミネラル分の補給と鶏卵の殻を硬くさせるた めに与えていたと考えられる。 ︵六︶キジ・ヤマドリ   ﹁ キ ジ も 鳴 か ず ば 撃 た れ な い ﹂﹁ け ん も ほ ろ ろ ﹂ と い う 言 葉 が あ る よ う に、 キ ジ は そ の 鳴 き 声 が 注 目 さ れ る。 紀 美 野町では、狩猟の話に続いて、キジが地震の前に鳴くという話が聞かれる。これはキジの足裏が振動を敏感にとら えるためだと考えられている。 ▲写真 14 手に降り立つヤマガラ

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  キジの仲間であるヤマドリもキジと同じく狩猟の対象であった。食用として利用する他、美しい羽根は装飾とし ても用いられた。 四   爬虫類 ︵一︶ヘビ   ヘビについてもっとも多く聞かれるのがマムシの利用についてである。紀美野町では、マムシはハビという方言 名で呼ばれている。ハビは頭を押さえ、首を掴んで捕獲する。捕まえたハビは、直接その身を利用する場合と、い わゆるマムシ酒に加工して利用する場合が見られた。以下にその民俗を紹介したい。   ま ず は 直 接 ハ ビ の 身 を 利 用 す る 場 合 で あ る。 捕 獲 し た ハ ビ は 皮 を 剥 い で 乾 燥 さ せ、 炙 っ て 食 べ た。 フ ィ ー ル ド ワークの中で、何度か軒下に干されたマムシを確認している。そのようにして乾燥させたハビは、民間薬としても 利 用 さ れ た。 粉 末 に し た ハ ビ に、 黒 豆 や ゴ マ の 粉 を 一 緒 に 混 ぜ て 薬 と し て 飲 ん だ。 ハ ビ の 頭 を 煮 て、 煮 出 し た 湯 を 飲 む と 熱 冷 ま し の 効 果 が あ っ た の だ と い う。 剥 が さ れ た 皮 は 乾 か し 傷 口 に 貼 る と 化 膿 止 め に な り、 傷 の 治 り が 早 か っ た。 ま た、 滋 養 強 壮 の た め に生のままぶつ切りにして食べることもあった。   次 は マ ム シ 酒 に 加 工 す る 場 合 で あ る。 ハ ビ は す ぐ に 酒 に 漬 け ず、 ま ず は 中 ほ ど ま で 水 を 張 っ た 瓶 に ハ ビ を 入 れ て お く。 こ れ は ハ ビ に フ ン を 出 さ せ る た め ▲写真 15 マムシ

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である。そのようにした後に、焼酎に半年から一年ほど漬け込み、数倍に希釈して飲む。これは万病の薬として重 宝されていた。また、その酒は痛み止めとして直接患部に塗られることもあった。   以上はマムシ、つまり有毒ヘビについてである。その他、紀美野町ではわずかであるが無毒ヘビについての語り も 聞 か れ た。 長 谷 宮 で は、 ﹁ 白 玉 の お ば さ ん ﹂ と い う 拝 み 屋 に つ い て 話 を 聞 い た。 竹 藪 に 住 む 白 玉 さ ん と 呼 ば れ る シ ロ ヘ ビ が お ば あ さ ん に 乗 り 移 っ た の だ と い う。 白 玉 さ ん に は、 身 体 の 不 調 や 失 せ も の に つ い て 伺 い を 立 て て い た。その他、初生谷ではヘビが塊になっているヘビヅカ︵蛇塚︶を見かけたという。円明寺では、二メートル以上 のアオダイショウがいたといい、山の主ではないかといった。アオダイショウはイエマワリとも呼ばれており、家 や蔵に入るものの、悪さなどはしなかった。アオダイショウは民家の近くに棲むことが多く、屋根裏のネズミなど を求めて家屋に侵入することもある。おそらくはその様子から連想された呼び名であろう。以上の無毒ヘビについ ては、貴志川・真国川の上流部にいまだ民俗が残るということが分かった。 ︵二︶カメ   紀美野町ではカメは珍しく、捕まえると甲羅に名前や生年月日などを刻銘し、川に逃した。こうすることで、悩 み事などを流してくれるのだという。この民俗については、筆者は兵庫県豊岡市や大阪府八尾市、和歌山県高野町 でも確認しており、少なくとも関西の一部地域ではみられる民俗であるといえる。また、捕まえたカメには酒を飲 ませて逃したという。実際にはほとんど飲まないのだが、こうすることは縁起が良かったという。なお、これらに 近似した民俗例はウミガメに対してみられる︹藤井   二〇〇八など︺ 。

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五   昆虫類・甲殻類・多足類 ︵一︶ハチ   紀 美 野 町 を 歩 い て い る と、 蓋 の つ い た 木 箱 が 木 陰 に 置 か れ て い る 光 景 を 目 に す る。 こ れ は ミ ツ バ チ の 巣 箱 で あ る。当地では昔から養蜂がおこなわれている。   ハチの巣箱にはスギがよいとされる。ヒノキで作った巣箱は、その芳香のためであろうか、ハチが寄り付かない のだという。内部にミツロウ︵蜜蝋︶を塗った巣箱を三月に置くと、五月、六月にハチが入り分蜂︵巣分かれ︶が はじまる。現在はキンリョウヘンというランの一種の香りを利用することでハチの誘引は容易であるが、かつては ただ飲まず食わずで待つのみであった。蜂蜜のことをアメと呼び、六月ごろに採集する。アメを採集した後、ハチ が越冬するための餌用のアメを与える。現在これは市販されているものを用いている。   巣箱にはツツガムシ︵ガの一種︶が産卵し木材を食い荒す。そのため、巣箱を水中に沈め殺虫した。 ▲写真 16 巣箱の内部 ▲写真 17 巣箱(蜂洞)

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  また、紀美野町では丸太で作られた巣箱もみられる。これは伝統的な和蜂︵ニホンミツバチ︶飼育の巣箱で、一 般的に蜂洞と呼ばれ、対馬の例がよく知られている︹渡辺   二〇〇二︺ 。   養蜂以外のハチの利用としては、ハチノコと呼ばれる幼虫を食用に利用した他、魚釣りや漁業の餌にもした。 ︵二︶トンボ   ﹁ 日 本 ﹂ の 古 称 を 秋 津 島 と い う が、 こ の 秋 津 と は ト ン ボ の こ と で あ る と い う。 そ れ ほ ど ま で に 日 本 人 に 親 し み 愛 されたトンボは、子どもたちの遊び相手でもあった。トンボを捕る時、竹竿の先にモーチを付け、そこにトンボを 粘 着 さ せ て 捕 る。 市 販 の と り も ち で は 粘 着 力 が 強 い た め、 ヤ ド リ の 実 を 噛 ん だ モ ー チ が ち ょ う ど よ い も の で あ っ た。なお、本調査では、昭和二一年︵一九四六︶以降が生年の話者はこの捕獲法を知らなかった。 ︵三︶カイコ   現状、平野地区と初生谷地区で養蚕について確認された。そのうち、平野地区では詳細に養蚕の様子が語られて いる。   現 在 の 畑 の 場 所 は か つ て 一 面 が ク ワ 畑 で あ っ た 。 通 常 、 カ イ コ は 一 年 に 三 回 の サ イ ク ル で 飼 育 す る が 、 こ の 地 区 で は 四 回 も お こ な わ れ て い た 。 こ こ か ら 、 養 蚕 業 が 非 常 に 盛 ん で あ っ た こ と が 分 か る 。 五 、六 月 の 田 植 え 前 に な る と カ イ コ の 食 い 込 み の 時 期 と な り 、 カ イ コ ヤ ス ミ ︵ 蚕 休 み ︶ と し て 一 週 間 か ら 一 〇 日 間 ほ ど 学 校 が 休 み に な っ た 。 そ の 間 、 子 ど も た ち は 養 蚕 所 で カ イ コ の 世 話 に 勤 し ん だ 。 養 蚕 所 で は 一 日 に 四 度 、 棚 を 出 し 入 れ し 、 フ ン の 掃 除 や 給 餌 を お こ な っ た 。 時 代 が 下 る と 条 桑 育 ︵ 枝 ご と ク ワ の 葉 を 与 え る 育 成 法 ︶ を 採 用 し 、 棚 を 外 す こ と な く 飼 育 が 可 能 に な っ た 。 な お 、 カ イ コ に ま つ わ る 祭 り や 信 仰 は 存 在 し な い が 、 か つ て は あ っ た か も し れ な い 、 と の ⒃

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こ と で あ っ た 。 ︵四︶ウンカ・ニカメイチュウ   ウンカとニカメイチュウ︵ニカメイガの幼虫︶はともにイネの害虫であった。日本本土で発生した蝗害は、イナ ゴ よ り む し ろ ウ ン カ と ニ カ メ イ チ ュ ウ に よ っ て 起 こ さ れ た も の で あ っ た︹ 瀬 戸 口   二 〇 〇 九 ︺。 ウ ン カ や ニ カ メ イ チュウが発生すると、今日では農薬で対処するが、その以前は水田に灯油を流し一面に油膜を張った後、イネに付 いた虫をはたき落した。こうすることで、虫たちは油膜に包まれ死んでしまう。 ︵五︶フシ   紀美野町の諸職のひとつに、フシの採集というものがある。フシは動物名ではなく、ヌルデの葉に付く虫こぶの ことをこう呼ぶ。虫こぶとは、昆虫などからの外的刺激によって植物の一部が異常に発達し瘤状になったものであ る。フシはお歯黒やインクの原料になり、これを採集し販売をおこなっていた。   なお、ヌルデにできる虫こぶは﹁五倍子﹂と呼ばれ、タンニンを多く含むことから美しい黒色を発し、主に織物 の染色に用いられた。日本で採集された五倍子は、一八六二年ごろから海外へ輸出されていた︹薄葉   二〇〇七︺ 。 以上のことから、紀美野町で採集されたフシも高級品として取り扱われた可能性も考えられる。 ︵六︶ズガニ   モクズガニのことである。モクズガニは高級食材で有名な上海蟹︵チュウゴクモクズガニ︶の仲間で、非常に美 味であることで知られている。今日でも紀美野町の道の駅などでは盛んに宣伝され消費されている。ズガニはカニ ⒄

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カ ゴ︵ 蟹 籠 ︶、 も し く は モ ン ド リ で 捕 獲 す る。 ズ ガ ニ は カ ニ ミ チ︵ 蟹 道 ︶ と 呼 ば れ る 流 れ の 緩 や か な と こ ろ に ひ そ んでおり、そこに罠を仕掛ける。湯がいて食べるほか、蟹飯にもした。 ︵七︶サワガニ   サワガニについては、唐揚げや天ぷらにして食べたという家庭もあれば、イノシシくらいしか食べない、と食用 にしない地域もあった。 ︵八︶ムカデ   ム カ デ は 毒 虫 と し て 恐 れ ら れ る と 同 時 に、 民 間 薬 と し て 重 宝 さ れ た。 捕 獲 し た ム カ デ は 油 に 漬 け て 傷 薬 に す る。 これは市販の薬と比較して治りが早い。なお、ユリの花を家に置いておくとムカデが寄ってくるのだという。 総括   哺乳類についての民俗では、圧倒的に狩猟に関する経験知・自然知がみられた。これはいわずもがな、狩猟を成 功に導くための知恵である。だが、狩猟は恩恵を得るための手段であると同時に、恩恵を奪われることへの対処・ 対 応 と い う 側 面 も 持 ち 合 わ せ て い た。 田 口 に よ る と、 狩 猟 に は 農 耕 の た め の 防 御 的 な 狩 猟︵ defensive hunting ︶ と 、 積 極 的 に 野 生 鳥 獣 を 捕 ら え 、 生 活 資 源 ま た は 換 金 交 換 交 易 の 資 源 と す る 攻 撃 的 な 狩 猟 ︵ offensive hunting ︶ の 二 重 構 造 が み ら れ る︹ 田 口   二 〇 〇 二 ︺。 防 御 的 な 狩 猟 は 集 落 や 耕 地 周 辺 の 里 山 で お こ な わ れ る の に 対 し、 攻 撃 的 な狩猟は里山から奥山にかけておこなわれる。紀美野町のイノシシとシカに関する動物民俗は、見事に両者の構造 をあらわしているといえよう。イノシシ猟は、明らかに生活資源としての利用を求めた狩猟であった。それは猟師

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集団同士の獲物をめぐる争いからも分かる。対して、イノシシに比べ味が劣るといわれたシカを、それでも狩猟す るという点には防除の意識が感じられる。これはまた、シカの獣害に対する語りが頻繁であったこともその証左と いえる。だが、同じイノシシ猟であっても、立岩伝承にみられるそれは明らかに防御的な狩猟であり、これらの構 造は実は必ずしも対立軸ではなかったと考えられる。   魚 類 の 民 俗 は、 そ の 漁 法 や 方 言 名 の 豊 か さ か ら、 非 常 に 身 近 で あ っ た こ と が 分 か る。 こ れ は、 紀 美 野 町 が 貴 志 川・ 真 国 川 と い う ふ た つ の 主 要 な 河 川 を 有 し、 そ れ ゆ え に 内 水 面 漁 業 が 盛 ん で あ っ た か ら だ。 だ が、 そ れ 以 上 に、 魚類の民俗は、それを語ることができる話者の層がとても広いということが大きな要因でもあると思われる。たと えば、狩猟についての経験知は、それを生業とする者、高い技術を有する者しか言及し得ない。だが、魚類の捕獲 についてはどうであろうか。専門的な漁撈、稲作の合間の水田漁撈、子どもたちの遊びとしてなど、実に多様なシ チ ュ エ ー シ ョ ン で 語 ら れ る の で あ る。 稲 作 の 一 休 み に ウ ナ ギ を 捕 る、 水 遊 び と し て ジ ャ コ を 釣 る と い っ た 具 合 に、 それぞれの生活に寄り添う形でそこにあったのである。   これは鳥類についてもいえることである。ヒヨドリやキジなど、組織的な狩猟をおこなうというよりは、軒下や 里山で遊びがてらに狩猟をおこない、生活資源として利用する。魚類や鳥類の民俗例でみられるこういった営みは マイナーサブシステンスと呼ばれ、これは遊び仕事と訳される。その名の通り、経済活動には大きく影響を及ぼさ ないものの、楽しみを伴い、生業をおこなう側の熱意で維持される周縁的な営みである。また、娯楽という視点か らみれば、ヤマガラやメジロは愛玩動物として愛されていた。   爬虫類に関しては、ヘビとカメについてのみであったが、その内容は大変に興味深い。紀美野町では、有毒ヘビ のハビ、つまりマムシとそれ以外のヘビが意識のなかで確かに分けられている。有毒ヘビのマムシには食物、民間 薬としての利用がみられる反面、無毒ヘビのシマヘビやアオダイショウにはそういった民俗はみられない。これは ⒅

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毒の有無が意識の違いを生んでいることはいうまでもない。マムシの持つ毒の力や生命力に、何らかの薬効を求め たのであろう。また、カメの民俗については先にも述べたように、ウミガメの事例と非常に類似している。これは 日本人とカメの関係性を今一度考えさせるものである。   昆虫類・甲殻類・多足類については、語りの絶対数こそ少なかったものの、マイナーサブシステンスの一面を持 つ養蜂やズガニ漁、かつて日本を支えていた経済活動である養蚕や五倍子の採集、ムカデの民間薬としての利用な ど幅広い利用の民俗がみられ、注目される。 おわりに   紀美野町でみられる動物の民俗は、イネ伝来以前の、いわゆる照葉樹林文化ともいえる姿を残しつつ、日本人が 稲 作 を 選 び、 現 在 に 至 る ま で の 日 本 人 の 歴 史 を 刻 銘 に 記 録 し て い た。 こ れ ら、 書 籍 内 の 記 録 に と ど ま る 民 俗 例 が、 いまだ地元の古老から語られ、息づいているという点は非常に意義深いものである。紀美野町の動物民俗は、現在 の 日 本 で、 ど う い っ た 形 の 民 俗 が 今 日 に ま で 残 り、 ど う い っ た も の が 姿 を 消 し て い く の か、 ま た 蘇 っ て く る の か、 ということを再考するうえで重要な視点を与えてくれるのではないであろうか。   今 日、 急 激 に 民 俗 が そ の 姿 を 消 し て い る。 も は や 各 地 の 民 俗 誌 で み ら れ る 民 俗 は、 ﹁ 過 去 ﹂ の も の と な っ て し ま っ た。 そ う い っ た な か で、 紀 美 野 町 で は、 古 代、 中 世、 近 世、 近 代 を 経 て、 現 代 ま で 先 人 の 知 恵 が 生 き て い る。 人々と動物たちとの対立、共存、利用の原風景が、紀美野町には現在も鮮やかに残っているのである。 注 ⑴本論文作成時、平成二九年︵二〇一七︶ 。

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⑵野本は、人々が霊性を感じ取り、神を見出す地形をこのように名づけた︹野本   二〇〇六︺ ⑶ 今 日 の ベ ス ト の よ う な、 袖 が 切 ら れ た 上 着。 長 澤 は カ モ シ カ の 毛 皮 で 作 ら れ た 例 を 紹 介 し て い る︹ 長 澤   二〇〇五a︺ ⑷根付のことを指すと考えられる。 ⑸イノブタの発生に関しては、地場産業として養殖されたイノブタが逃げ出したなど諸説が聞かれるが、根拠が定 かでないためここではその真偽については論じない。 ⑹昭和三〇年︵一九五五︶指定。 ⑺市川によると、赤石・紀伊・四国・九州などの山地ではカモシカはニクと呼ばれている︹市川   一九八七︺ 。 ⑻紀美野町の内水面漁業では、ウケのほか、モドリ、ドウ、ゴウ、ツツンコ、ウナギツツという類似した漁具が用 いられている。 ⑼なお、一般的にはこの漁自体をウナギカキと呼ぶ。歌川国芳の錦絵には宮戸川でのウナギカキの様子が描かれて おり︹黒木   二〇一二︺ 、夏の季語となるほど盛んであった。 ⑽愛知県東部の矢作川でも、天然アユと放流アユに対して、地域の人々が異なる民俗知識を得ている例が報告され ている︹古川   二〇一二︺ 。 ⑾宇井縫蔵、明治一一年︵一八七八︶西牟婁郡岩田村︵現上富田町︶生まれ。教職の傍らに植物、魚類の研究に専 念 し、 ﹃ 紀 州 魚 譜 ﹄﹃ 紀 州 植 物 誌 ﹄ な ど の 著 作 が あ る︹ 南 方 熊 楠 顕 彰 館   http://www.minakata.org/cnts/news/ index.cgi?c=i 090205 ︺。 ⑿フチジャコについては、 ﹃美里の自然﹄にもカワムツのことであるとの記載がある︹前田   二〇〇五︺ 。 ⒀ 怪 異・ 妖 怪 伝 承 デ ー タ ベ ー ス を 参 照 す る と、 ﹃ 旅 と 伝 承 ﹄ の 記 事 と し て 同 様 の 話 を 紹 介 し て い る が、 こ こ で 串 に

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刺 さ れ て 焼 か れ た 魚 類 は フ ナ と さ れ て い る︹ 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー   http://www.nichibun.ac.jp/ YoukaiCard/ 1232181 .shtml ︺。 ⒁高野山に近い花坂地区では一部、捕獲に対しての禁忌がみられるようであるが、さほど意識は強くなかったよう で、捕獲はよくおこなわれていた︹高野町史編纂委員会   二〇一二︺ 。 ⒂ オ シ は 全 国 で 見 ら れ、 大 型 の オ シ は イ ノ シ シ や ク マ の 狩 猟 に も 用 い ら れ た︹ 長 澤   二 〇 〇 五 a︺。 ま た、 紀 美 野 町でも一例だけであるが、イノシシ猟にオシを用いたという語りを確認している。 ⒃周は、同じ方法での子どものセミ採りを紹介している︹周   一九九五︺ 。 ⒄ な お、 ヌ ル デ に 虫 こ ぶ を 発 生 さ せ る 昆 虫 は ヌ ル デ シ ロ ア ブ ラ ム シ と い う ア ブ ラ ム シ の 仲 間 で あ る︹ 薄 葉   二〇〇七︺ 。 ⒅ 水 田 漁 撈 と は、 ﹁ 水 田 用 水 系 に お い て 水 田 魚 類 を 対 象 に 行 う 漁 撈 の こ と で、 稲 作 の 諸 作 業 に よ り も た ら さ れ る 多 様な水環境を利用して行う﹂ ︹安室   二〇〇八   一八二︺ものである。なお、水田用水系とは用水路や溜池などの 稲作のための人工的水界であり、水田魚類とはフナやドジョウ、タニシなど水田環境に適応した魚介類のことで ある︹安室   二〇〇八︺ ︿参考文献﹀ 市川健夫   一九八七   ﹃ブナ帯と日本人﹄   講談社現代新書 宇井縫蔵   一九二五   ﹃紀州魚譜﹄   紀元社 薄葉重   二〇〇七   ﹃虫こぶ入門︱虫えい・菌えいの見かた・楽しみかた[増補版] ﹄  八坂書房 ﹁角川日本地名大辞典﹂編集委員会編   一九八五   ﹃角川日本地名大辞典   三〇   和歌山県﹄   角川書店

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黒木真理   二〇一二   ﹃ウナギの博物誌   謎多き生物の生態から文化まで﹄   化学同人 高野町史編纂委員会編   二〇一二   ﹃高野町史   民俗編﹄   高野町 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー   ﹁ 怪 異・ 妖 怪 伝 承 デ ー タ ベ ー ス ﹂ http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/ 1232181 . shtml   ︵二〇一七年六月一五日参照︶ 小山幸子   二〇〇六   ﹃ヤマガラの芸   文化史と行動学の視点から﹄   法政大学出版 周達生   一九九五   ﹃民族動物学   アジアのフィールドから﹄   東京大学出版社 末広恭雄   一九七七   ﹃魚と伝説﹄   新潮文庫 瀬戸口明久   二〇〇九   ﹃害虫の誕生︱虫からみた日本史﹄   ちくま新書 田 口 洋 美   二 〇 〇 七   ﹁ 狩 猟、 そ の 具 体 へ の 視 点 ︱ 東 日 本 の 山 間 部 に み ら れ る 罠 猟 を 中 心 に ﹂ 香 月 洋 一 郎・ 野 本 寛 一編﹃講座日本の民俗学   九   民具と民俗﹄   雄山閣 千森督子   一九九六   ﹁貴志川流域の民家の間取り形式に関する研究﹂ ﹃信愛紀要﹄   和歌山信愛女子短期大学 長澤武   二〇〇五a   ﹃動物民俗Ⅰ﹄   法政大学出版局 長澤武   二〇〇五b   ﹃動物民俗Ⅱ﹄   法政大学出版局 日本民具学会   一九九七   ﹃日本民具辞典﹄   ぎょうせい 野本寛一   一九八四   ﹃焼畑民俗文化論﹄   雄山閣 野本寛一   二〇〇六   ﹃神と自然の景観論   信仰環境を読む﹄   講談社学術文庫 福田アジオ・神田より子・新谷尚紀・中込睦子・湯川洋司・渡邊欣雄編   二〇〇六   ﹃精選日本民俗辞典﹄   吉川弘 文館 藤 井 弘 章   二 〇 〇 八   ﹁ 対 馬・ 壱 岐 に お け る ウ ミ ガ メ の 民 俗 ︱ 亀 卜 の 里 と ウ ミ ガ メ ︱﹂ ﹃ 民 俗 文 化 ﹄ 第 二 〇 号   近 畿

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大学民俗学研究所 古川彰   二〇〇八﹁アユの来歴﹂   山泰幸・川田牧人・古川彰編﹃環境民俗学   新しいフィールド学へ﹄   昭和堂 前田亥津二   二〇〇五   ﹃美里の自然﹄   美里町教育委員会 南方熊楠顕彰館   http://www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i 090205   ︵二〇一七年六月一五日参照︶ 安室知   二〇〇八   ﹁復活、田んぼの魚捕り︱現代社会の水田漁撈﹂   山泰幸・川田牧人・古川彰編﹃環境民俗学   新しいフィールド学へ﹄   昭和堂 森下誠   二〇一六   ﹃長谷毛原今昔物語   村の明け暮れ﹄   元気長谷毛原会 りら創造芸術高等専修学校編集・発行   ﹃論文   真国川流域の納豆文化﹄ 和歌山県立自然博物館編集・発行   一九九五   ﹃有田川の淡水魚   魚を取り巻く環境の変化﹄ 渡 辺 誠   二 〇 〇 七   ﹁ 物 質 文 化 史 と し て の 視 座 か ら ﹂ 香 月 洋 一 郎・ 野 本 寛 一 編﹃ 講 座 日 本 の 民 俗 学   九   民 具 と 民 俗﹄   雄山閣 話者一覧 赤坂恵子さん︵昭和一八年生まれ、西野︶ 、赤坂啓子さん︵昭和一一年生まれ、西野︶ 、井奥泰臣さん︵昭和一〇年 生 ま れ、 真 国 宮 ︶、 井 本 春 子 さ ん︵ 昭 和 一 五 年 生 ま れ、 西 野 ︶、 上 柏 睆 亮 さ ん︵ 昭 和 一 四 年 生 ま れ、 毛 原 中 ︶、 上 野 尻宗央さん︵昭和二三年生まれ、真国宮︶ 、上村安男さん︵昭和一二年生まれ、井堰︶ 、金田輝治さん︵昭和七年生 ま れ、 西 野 ︶、 金 田 和 子 さ ん︵ 昭 和 一 四 年、 西 野 ︶、 神 崎 博 介 さ ん︵ 昭 和 一 四 年 生 ま れ、 毛 原 中 ︶、 坂 昭 男 さ ん︵ 昭 和 九 年 生 ま れ、 初 生 谷 ︶、 志 賀 谷 豊 治 さ ん︵ 昭 和 一 〇 年 生 ま れ、 志 賀 野 地 区 ︶、 品 川 文 子 さ ん︵ 大 正 十 三 年 生 ま れ、 西 野 ︶、 芝 街 雄 さ ん︵ 昭 和 一 二 年 生 ま れ、 蓑 垣 内 ︶、 上 段 順 弘 さ ん︵ 昭 和 一 八 年 生 ま れ、 真 国 宮 ︶、 大 東 京 造 さ ん

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︵ 大 正 一 四 年 生 ま れ、 東 野 ︶、 田 津 原 カ ヅ 子 さ ん︵ 大 正 三 年 生 ま れ、 西 野 ︶、 栃 谷 宜 呂 さ ん︵ 昭 和 七 年 生 ま れ、 真 国 宮 ︶、 中 家 喜 久 司 さ ん︵ 昭 和 四 年 生 ま れ、 井 堰 ︶、 中 絵 図 美 年 子 さ ん︵ 昭 和 一 六 年 生 ま れ、 西 野 ︶、 中 前 忠 和 さ ん ︵昭和一七年生まれ、蓑垣内地区︶ 、長峯カヅ子さん︵昭和七年生まれ、西野︶ 、中山順造さん︵昭和三四年生まれ、 国 吉 地 区 ︶、 西 垣 内 好 子 さ ん︵ 昭 和 八 年 生 ま れ、 西 野 ︶、 西 山 一 太 さ ん︵ 昭 和 九 年 生 ま れ、 西 野 ︶、 西 脇 哲 子 さ ん ︵ 昭 和 一 一 年 生 ま れ、 東 野 ︶、 西 脇 崇 光 さ ん︵ 昭 和 三 九 年 生 ま れ、 東 野 ︶、 福 岡 惠 子 さ ん︵ 昭 和 一 四 年 生 ま れ、 谷 ︶、 福 岡 正 富 さ ん︵ 昭 和 一 三 年 生 ま れ、 谷 ︶、 部 屋 勇 さ ん︵ 昭 和 三 年 生 ま れ、 北 平 野 ︶、 前 全 秦 さ ん︵ 昭 和 三 二 年 生 ま れ、 東 野 ︶、 道 上 キ ミ ヱ さ ん︵ 昭 和 元 年 生 ま れ、 長 谷 宮 ︶、 南 節 子 さ ん︵ 昭 和 二 七 年 生 ま れ、 真 国 地 区 ︶、 森 下 夏 子 さん︵昭和二年生まれ、西野︶ 、森下誠さん︵昭和一〇年生まれ、毛原上︶ 、森谷昌子さん︵大正一二年生まれ、蓑 津 呂 ︶、 森 谷 泰 文 さ ん︵ 昭 和 三 五 年 生 ま れ、 蓑 津 呂 ︶、 弥 六 祥 功 さ ん︵ 昭 和 一 七 年 生 ま れ、 東 野 ︶、 弓 庭 武 彦 さ ん ︵昭和八年生まれ、毛原宮︶ ︵五十音順︶ 調査者一覧 大野真奈、岡島颯斗、橿村友里、絹川諒介、木村綾夏、角谷康浩、高村輝、俵和馬、鶴長愛佳、寺内千賀、飛世悠 太、藤田悠人、森島友樹、山口柊太、山口真由 ︵五十音順︶ 付記   本調査では、話者一覧でご紹介した方々以外にも、多くの紀美野町の方が快く聞き取り調査をお受けくださいま した。   こ の ほ か、 藤 井 弘 章 氏、 上 田 貴 子 氏、 櫻 木 潤 氏、 白 水 士 郎 氏 に は 調 査・ 研 究 に 関 し て ご 教 示 を い た だ き ま し た。

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お世話になった皆様に対し、ここに感謝の意を表します。

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