今のこの瞬間、そしてこの時代の浅ましさ、むさく るしさから逃れるために書かれた本がほんとうに目の 前にあるというのなら、それ相応の気 を読者も味わ ったことがあるからにほかならない。ブラインドを下 ろし、ドアを閉める。これで通りの音は聞こえないし、 街灯がぎらついたり、ちらついたりすることもない。 それが読者の望みだ。そうすると、重みで棚の底まで 沈み込みそうな、たとえば『ペンブルック伯爵夫人の アルカディア』のような 厚い本を見ても、魅力的に 見えてくる。今この瞬間がすべてだなんて思いたくは ない。革表紙をなでているうちに縁がすり減って丸く なり、ページをめくれば、黄色くなって、端も折れる。 ほかのひとたちもまた同じ本をこれまで手に取ったの だと思う。『アルカディア』のこの現物を、それぞれの 読み方で読んできた昔の読者たち、どんな風に読んだ のだろうと想像することもまた楽しい。エリザベス朝 の栄華を見ながら読んだリチャード・ポーター、王政 復古の放縦な 囲気のなかで読んだルーシー・バクス ター、18世紀がようやく幕開けした時代、華麗に直立 した、自 の個性的署名を施して読んだトマス・ヘイ ク。まだまだ読む人がいたのだ。その時代時代の洞察 力と不 明はあるものの、それぞれがそれぞれの読み 方で読んだ。わたしの読み方もまた同様に偏ったもの になるだろう。1930年に読むのでは、1655年では当た り前だった多くのことを理解できない。18世紀に見落 としたことがわたしたちには見えることもある。でも これまでのいくつもの時代の読者と、まずは同じこと をやってみることとしよう。つまりわたしたちの時代 の洞察と不 明という銃弾を、『ペンブルック伯爵夫人 のアルカディア』に浴びせることにしよう。そうして 後の時代の読者に伝えていくのだ。 現実から逃れたいということで『アルカディア』を 選ぶとすると、シドニィはまさにその目的で書いたの だというのが最初の印象である:大切な妹、ペンブル ック伯爵夫人に「ただおまえに、おまえのために書い たのだよ。」シドニィは今いるこのウィルトン邸の中に あるものを見ているわけではない。自 の悩みとかロ ンドンにいる、激しいかんしゃく持ちの女王のことを えていたわけでもない。目の前のこと、その葛藤か ら逃れようとしているのだ。「世間の厳しい目」ではな く、自 の妹を本当に楽しませようと書いているのだ。 「たいていはおまえの目の前で、できる限り早く書い て、残りは人手を介して送り、綴じもせずに渡したが、 どんな風に書いたかはおまえが一番よく知っている。」 丘陵下のウィルトン邸で、ペンブルック伯爵夫人と腰 を下ろし、アルカディアとひそかに名をつけたきれい な地所を遠くに見つめている。そこはきれいな谷、豊 かな放牧地の地所だ。邸宅は「黄色石で星形に てら れた屋敷」だ。偉大な世継ぎも住んでいれば、つまし い羊飼いたちもいる。地上のつとめは恋をすること、 冒険に出ること。バラの花で彩られた野原で水浴びを する少女たちをびっくりさせるのは熊やライオン。姫 たちは羊飼いの小屋に閉じ込められる。いつだって変 装が必要だ。羊飼いは本当はお世継ぎだったり、女と 見えて、男だったり。つまりなんでもが、1580年の現 実のイングランドで、あったこと、起きたこと、そう いうことを除いて、なんでも起きる可能性があるのだ。 この夢に満ちあふれたページを妹に渡したとき、でき の良さはともかく、楽しんでくれよとシドニィが言い ながら、ほほえんだ理由がわかるのだ。「では時間のあ るときに読んでくれ。おまえの判断力でおかしなとこ ろがあっても責めないで、笑ってくれ。」シドニィ兄 妹、またペンブルック家のものたちの、実際の生活は 全く異なっていたろう。それでもわたしたちが作り出 す生活、物語るお話しには、半ば目を閉じて椅子にも たれ、野放図に夢を注ぎ込めば、たぶんなんらかの荒 削りな美しさというものが備わることだろう。こころ の奥ひそかに望んでいるものをゆがんだ、あるいはな にか衣装を着せたイメージにして、そういうお話しの 中に表すということは良くあることだ。こうして『ア ルカディア』は現実との関わりを意図的に鼻であしら い、またべつの現実を描き出した。友人たちは、作者 が作者なんだからということで、気に入ってくれると シドニィが匂わせたとき、その意味はおそらく、友人
『ペンブルック伯爵夫人のアルカディア』書評
A Translation of Virginia Woolfs The Countess of Pembroke s Arcadia
from
. Second Series(1932)
坂 本 正 雄 訳
translated by Masao SAKAMOTO
(和歌山大学教育学部英語教室)
2012年10月5日受理
たちであれば、ほかの様式ではシドニィが口にしない ことを『アルカディア』のなかに見つけてくれると期 待したということだ。羊飼いたちは川岸で歌を歌い、 「時には喜び、時には悲嘆、ときにはそれぞれ描き出 すのも難しい事柄を声に出し、それから時には意味深 なやり方で、というのもほかのやり方ではとても扱い きれないから、そうした事柄を口にする」。こころのう ちのそういったことを『アルカディア』という衣をか ぶせて、見せかけのうちにひそかに語ろうとしている のかもしれない。でも物語の初めのページをめくると き、新しいものに触れる気 の中に、その見せかけが なるほど読者を引きつけるのである。「キテラ島を眺め る」春の砂浜に自 が羊飼いと一緒にいる気がする。 すると、ほら、なにかが海の上を浮かんでやってくる。 男の身体だ。胸に小さな箱を抱いている。若く美しい。 「裸ではあっても、その裸体こそがその若者の服なの だ。」そしてその名はミュージドーラス。友人たちは亡 くなってしまった。美しく歌を歌って、羊飼いは若者 を生き返らせる。帆 に乗せ、 子パイロクリーズを 捜してその港から漕ぎ出す。すると海の色が変わる。 閃光がきらめき、煙が上がる。というのも二人の王子、 ミュージドーラスとパイロクリーズを乗せた に火が ついてしまったのだ。 は海上で燃え立ち、まわりに はいろいろな金銀財宝がまき散らされ、漂う。それか ら 乗りたちの遺体も浮かんでいる。「要するに、敗 北。勝者が戦場を支配し、略奪するのだ。嵐もないの に、暗礁に乗り上げたわけでもないのに、 は難破す る。そして海の真ん中で炎となって消えるのだ。」 この『アルカディア』という広大なつづれ織りを織 りなす要素のいくつかについて、この限られた紙面に 書き込もう。場面の美しさ、まるで絵画のような静寂、 見る者に迫ってくるなにかの強さ、荒々しいのではな く、羊飼いの歌声に合わせ、ゆっくりとしていてそし てやさしい力。時にはこうした一節は耳に残って繰り 返されることになる。「そして海の真ん中で炎となって 消えるのだ」。「皆の顔にはこれから起こることを予感 する哀しみが浮かんでいた。」そうしてささやき声は大 きくなり、広がり、そしてついにはさらに練り上げた 表現となる:「羊たちを育んできた牧草地、そこでは 羊たちがゆったりとした時間のなかで草を食んでいる。 かわいい子羊たちはかわいい祈りの声を上げ、母羊の 乳を求める。羊飼いの息子が呼び子を吹く、まるで歳 を重ねることはないみたいだ。若い娘は編み物をして いる。そうして歌を歌う。歌声が娘の手をなでるよう だ。その両手は歌の音に合わせ動いている」このあた り の 節 は ド ロ シ ー・オ ズ ボ ー ン(訳 注:Sir William Templeの妻(1627-1695)。 Perfect Letter Writer [1934]と も呼ばれる)の手紙の有名な一節を思い起こさせる。 場面の美しさ、動きの重厚さ、奏でられる音の美し さ。これらは喜びを喜びとして求めるのであれば、き っと与えられる褒美だ。ほかに表現しようのないこの 美しい風景を曲がりくねって伸びてゆく小道に って ゆくとき、読者はお話しに引き込まれてしまう。とい うのも見通すさきには、さまよい歩くときの喜び以外 なにもないところへと、シドニィは読者を連れて行く のだ。単語の音節でさえこころはずむ喜びを作者にも たらしている。なめらかに流れる強弱のリズムに溢れ た文章の背に読者が乗りまたがるときに感ずるリズム でさえ、作者を有頂天に喜ばせる。ことばはことばだ けでシドニィが喜ぶものなのだ。ほら、きらめくこと ばを手のひらいっぱいすくい上げ、シドニィが声を上 げ、泣いているようだ。求めるだけで、そんなにたく さんの美しい言葉がそのあたりにごろごろと転がって いるなんてありうるだろうか。では、気前よく、ふん だんに おうではないか。そうしてシドニィは言葉を 豊かに うことを楽しんでいる。子羊は乳を吸うので はない;「子羊たちはかわいい祈りの声を上げ、母羊 の乳を求める」のだ。少女は服を脱ぎはしない;「装 いの覆いを取り去る」のだ。木は川の水面に姿を映し はしない;「その子は川の中をのぞき込み、流れる川 に緑の巻き毛の手入れをした。」もちろんばかばかしい ことだ。しかしペンで描かれるこうしたイメージから 得られる喜びと驚きとでこのような文章を書いていく ことと、もっと後の時代の書き物、つまりことば自体 から潤いが消えてしまったものとの間には異質な世界 が横たわっている。形式を重んじる後の時代であれば、 機械的に対照法を用いたりする文章、シドニィはそう した文章に動きや震えを付け足して、微妙な動きを付 け加える。 そして若者は美しいけれど、激しやすく、いまわの際にあるの に麗しく、崩れ落ちる脚を支えきれず、地上に崩れ落ちた。怒り で泥を食み、自 の運命を呪った。そしてできうる限り死にあら がった。死もまたそうはしたくなかったのかもしれないが。そう して長いこと自 の若い命が消えるまで苦しんでいた。 シドニィのこの物語の広大なページを斬新なものに しているのはこうした起伏、しなやかさなのだ。とき には声を出して笑いながら、ときにはそうじゃないだ ろうと思いながら、どんどん読み進んでいくとたびた び、理性の耳を全部ふさぎたいとか、寝転がって、形 をなさない音の連なりに耳を傾けたくなるのだ。たと えばまだみんなが眼を覚ます前に家の周りでさえずる 鳥のように、狂ったように声を上げる、このうっとり となった声の合唱に耳を傾けたくなるのだ。 しかし読者が喜ぶ部 を強調することはたやすい。 なぜならそれらは消えていくものだからだ。シドニィ が『アルカディア』を書いたのは、ひとつには暇つぶ しだったろうが、もうひとつには物書きとしての練習、 それから英語という新しい道具としての言語の実験だ
ったろう。でもたとえそうだとしても、『アルカディア』 を書いたのは若いときだし、またシドニィは男だ。だ からアルカディアの道には轍がある。馬車はひっくり 返る。女たちの肩はむき出しになる。ミュージドーラ ス王子、パイロクリーズ王子にも情熱というものがあ る。パメラもフィロクリアも海の色のサテン、それか ら真珠を通したレースで飾り立ててはいても、女であ り、恋もするかもしれない。こうして流暢であっても よどみなくとはいかない場面で、読者は足踏みしてし まう。それから、これはほかの小説家も同じことだが、 実際の男あるいは女だったら、この状況ではどんなこ とを言うんだろうと、あるいは自 の感情を爆発させ るのはどこがいいかと、風景にはそぐわない光を当て て、ぼんやりと見える田園の風景をどこで輝かせるか とか、シドニィが え込んでペンを止める場合もある。 しばらくはびっくりするようなその組み合わせに遭遇 するのだ。ぎらつく太陽が銀の燭台のろうそくを照ら すこともある。羊飼いと姫が小鳥のさえずりのような 声を急に止めて、人間の声で熱心に二言、三言早口で 喋ることもある。 …何度も、あの椰子の木にもたれ、この幸せを感じていた。こ うしていればなんの痛みもなく愛は生まれてくるのだと。何度 もご主人の飼っている牛の群れがやってきて、このすがすがし い草原で、食べたものを再度反芻するとき、若い雄牛が愛を目の 前で証明してくれることがある。でもどうやるのだろう。勝ち誇 った顔それから喜びを示してそうするのだろうか。人間は、悲し いものだ。こう、そのときには独りごちたのだ。才覚、それは自 の幸福を司るものであるはずなのに、幸運をひっくり返して しまうものにもなる。こうした獣たちは自然の申し子のように 自然がもたらす恵みを当たり前のように受け継いでいる。わた したち人間はどこの馬の骨ともしれず、家を離れ、捨てられっ子 にもなり、悲嘆と哀しみにもまれ育っていく。獣たちのこころは 身体に慰安を与えるのに躊躇はしない。相手を楽しませるとい う目的で、獣たちの意識は発せられるのだ。わたしたち人間は面 子といった障害、良心という責めを身につけてしまっている。 こうしたことばは、ダンディで見た目を気にするミュ ージドーラスの口から奇妙な調子で鳴り響く。ここに は作者の隠れた怒りそれから苦しみが見られる。それ から小説家(訳注:ウルフはあえてnovelistという言葉を 用 している)としてのシドニィは突然王子の目を見開かせ る。カニの形にはめ込まれた宝石が、「一方を向いてい ると思ったら、反対方向に行ってしまう」という理由 で、モプサを愛していると見せてはいるが、王子のこ ころは自 のものだということを象徴するものとして、 パメラは宝石を理解しているのだと、ミュージドーラ スは見ている。そしてパメラが宝石を受け取るとき、 ミュージドーラスはこう言うのだ。 ひとつひとつのことばだのなんだのが転がり落ちていって、ぼ うっと注意に欠けていても、(ちょうどそれはそのひとが うこ とばで、なにがあるいはだれがじぶんのものかを見極めるよう なもの)、どのような冷たい気性が何にもまして、自 にはひど いものなのかと。それは光り輝くパメラに自然と備わった威厳 と混じり合って… もしパメラが自 を軽蔑したら、嫌ったら、その方が 良かったろう。 しかし彼女のこの残酷な落ち着き、わたしを嫌って姿を隠す わけでもなく、さりとて好意を進んで示すというわけでもなく、 優美、ではあってもなにがしかの、あるひとつの様式に った優 美さ、こうしたことを儀礼の中に刻み込んで、パメラがなすこと はみな、周りのもののためというよりは貞節さを見せるためな のだ。この世のものとは思われないほどのパメラの美、そう呼ぼ う、手を触れることもできないもの、その美に、説得の方法もわ からずに、わたしは暴虐なる絶望に今この身を任せてしまおう としているのだ。 たしかに、鋭く切れた、男のこの観察。男はきっと 自 が描き出したものを実際に経験したことがあるの だ。そして影薄くぼんやりとした登場人物、ガイネシ ア、フィロクリア、それからゼルメーンもまた生き生 きと描き出されることになる。はっきりとは特徴のな かった顔が情熱をもって輝き出す。ガイネシアは、娘 の恋人を自 が愛していることに気づき、泡が膨らむ ように大きく壮麗に描かれる。「ゼルメーンに向かって 声の限りに叫び、助けを求める。ゼルメーン、私を憐 れと思っておくれ。」そして年老いた王でさえ、初めて 目にする美しいアマゾンの戦士を見て、年甲 もなく 恋の炎をともされる。老齢の愚かさも顧みず、「自 の 身体を不思議なものでも見るように見て、まるで体力 はまだ劣ってはいないぞとでもいうように、ときには 小さな歩幅でスキップを踏んで見せたりする。」 しかし物語の意味が現れてくる瞬間、その瞬間はも ちろんしだいにその力を薄れさせ、王子たちはまたも との姿に、羊飼いたちもまた笛の音を奏で始めるとい うことにはなるのだが、その瞬間は物語全体におやっ と思わせる光を投げかける。まずシドニィがどのよう な限界のなかで物語を書いていたのかが、読者にはも っとはっきりとわかってくる。しばらくの間、シドニ ィは現代の小説家と同じように鋭く正確にものごとを 注視し、観察し、それを記録することができる。そし て現代の読者の方を一 すると、なぜか別の方へと目 を向けてしまうのだ。まるで自 を呼ぶ声が別の方向 から聞こえてきたみたいに。そしてその声の言うこと を聞かなければならないかとでもいうように。シドニ ィが える散文では、日々のおしゃべりで 用するあ りふれた言葉を うことはできない。騎士物語のなか
では登場人物の王子や姫は普通の男や女が感じたり思 ったりすることをやってはいけない。田舎ものの特徴 はウィットだ。おもしろおかしく動き回る。自然なこ とばでおしゃべりする。デイムタスのように「口笛を 鳴らし、十七頭の雄牛を太らせるのに、一年に乾し草 を何山食べさせるかとか、指を折って数えることもで きる。」でも高貴なひとたちのことばはつねに長く、抽 象的で、比喩をまき散らしていないといけない。さら に、一点の曇りのない美徳というものをもった英雄で あるか、あるいはひとのこころに触れても動じだにし ない悪党でいなくてはならない。人間が持つ奇癖だの 狭量だの、そんなものはみじんもない。散文はまた現 実のものを前にして、そこから注意深く目をそらさな くてはならない。時には一時の間自然を目の前にして、 その場面に合うことばを捜すことももちろんある。沼 地からアオサギが飛び立つとき、「尾羽根を揺らす」の に目を留め、ウォータースパニエルが「優雅に鼻を鳴 らして」カモを狩るのを見る。しかしこの具体的な描 き方は自然や動物、また農民たちを描くときに われ るだけである。散文は落ち着いて、高尚である。一般 的な感情、広大な風景を描くとき、どんな語り手によ っても何ページにも渡ってよどみなく落ち着いた描写 がなされるときに散文が 用されるようだ。一方、韻 文は全く別の役割を持っている。面白いことにシドニ ィが物語のまとめにはいりたいと思ったときに、力強 い印象を与えたいとか、際だって明確な印象を記した いとかのために、韻文に向かう。『アルカディア』に われる韻文は現代小説でいえば、対話のような機能を 果たしている。単調さを打ち破り、焦点をたたき出す。 パイロクリーズやミュージドーラスの果てしない冒険 を描き出すのにちりばめられた種々の歌を読むとき、 わたしたちの興味がそのたびに燃え上がるということ になる。しばしば韻文の具体的描写また力強さは物憂 い散文の歩みの後でひとつの驚愕となって出現するの だ。 何のためにそのような気高き精霊がそのように暗い館に閉じ 込められる必要があるのか。 それとも肉体に包まれてなにを得ようというのだ。 名前だけは壮麗な、人間という惨めな生き様か。 天体に放たれたボールのように、運命に支配された奴隷。 もともとの姿から変化して、地上というその檻が朽ちるの と同様に朽ちてゆく。 そこでは死は恐怖、生きていても苦痛だ。 汚物まみれの舞台に立つ一群の役者と同様だ。 ものぐさな王子や姫たちがこのような激しいこと ばを発していったいどうしようというのか。あるいは こういう台詞はどうだろう。 この肉体は… 恥辱の売り場、売り物にならない、インクの染みでいっぱい の書物、 この人間というもの、口ばかり動く獣、このでくの坊。 このようにシドニィは自己満足の姿形を忌み嫌う かのように、物憂い者たちを描く。それでも詩人は仲 間たちにやりたいようにさせるほかはない。というの も詩人シドニィが鋭い目を持っているということは明 らかでも、 賢者らしく苦しみを味わっているミツバ チたちの住み家を話題にする。そして他国で育ったイ ギリス人のように「羊飼いはどのように日々を過ごし ているのか。岬の突端、暖かい暖炉、そうでなければ、 の上で過ごしている」ことも知っている。それでも シドニィはプランガスとエローナ、それからアンドロ マナ女王、そしてアムフィアラスと母セクロピアの陰 謀を、読者を 慮してのろのろと話す。登場人物は激 しい生き方をしてはいるが、その陰謀や毒を盛ったり する話とは調和しないものの、エリザベス朝読者の耳 が聞けば、甘ったるく、意味が不明で、冗長なところ はまったくない。ただライオンがゼルメーンを脚でそ の朝、殴ったという事実だけ、物語を短くする可能性 つまり、なくても良いかなと思わせ、クライウスの不 平を聞くのはもっと後日の方が良い、言い換えれば順 番を入れ替えた方が良いのではと思わせる。 その歌がずっと前から力なく小声になっているのに気づき、 歌声の意味を知って、たいそう喜びはしたものの、すでに新しい ことに取りかかっていたので、いつラモンが歌い終えるのかも わからなかったが、そのことにゼルメーンは喜んで賛同したの だった。それで四方からみんなは、兄のためには死をもいとわな いと、言うに至ったのであった。 そうして物語は紆余曲折を経て、というより一連の 物語が雪片のように積み重なってゆくといった方がい いだろうか、ひとつ終わると別の物語が出現し、読者 はそのひとつひとつを追いかけていきたい気持ちに駆 られるというわけだ。そのうちに眠気がまぶたを襲う。 ときには夢見つつ、ときにはあくびをし、それでも兄 王子が殺されるところを読みたいという気持ちになる のだ。では最初に現れためくるめく自由の感じはどう なったのか。現実から逃れたいと思っているわたした ち読者は、それでは逆に捕らえられ、網の中に入れら れたということになりはしないか。しかし妹を楽しま せるための物語を語るのは、最初はいとも容易いもの に思えただろう。この場所から、この時間から逃れ、 リュートの調べとバラの香に溢れる世界を希望に燃え 逍遙するのはなんと気持ちの高ぶることだろう。でも ああ、弱腰の気持ちがわたしたちの脚をそっと押しと どめる。いばらが服にまとわりつく。読者は易しい言
い回しを求めるようになる。優雅に装飾された文体、 最初は魅力的であっても、うっとうしくなり、くすん でしまう。理由を見つけるのは簡単だ。高揚した気持 ち、ことばとともに舞い上がり、シドニィのペンの運 びは注意散漫なものになった。書き始めに自 がどこ にたどり着くかなんて、思いもしなかった。シドニィ は思ったのだ。物語を語る、それでいいのだ。ひとつ の物語、つぎの物語と、果てしなく続けていけばいい のだ。しかし終わりの見えてこないところには、どち らへ向かおうかという方向感覚はなくなってしまう。 登場人物をたいした特徴付けもせずに良い人物悪い人 物と けることがシドニィの計画の一部だったので、 結局は複雑な性格、多様さというものを手に入れるこ とはできなかった。物語に変化と動きを付けるために、 シドニィは変装という方法をとらざるを得なかった。 服を着替える、王子を田舎ものに変装させる、あるい は男を女へと。これらは心理的な機微というより、と くに語るべきことが何もないひとたちの集まりをよど んだ空気から解放するための方策だ。しかし子供じみ た仕掛けがその魅力を失ったとき、 の帆を膨らませ るだけの息の力はもう残っていない。誰が喋るのか、 誰に喋るのか、そして何の物語が進んでいるのか読者 には判別できなくなる。このぶらぶら歩きのような物 語のなかで、シドニィはコントロールをほとんど失い、 途中で自 と登場人物との関係がわからなくなってし まったのだ。喋っている「わたし」は、作家なのか、 その「わたし」は登場人物なのか。どのように洗練さ れた文体でも、魅力がいかにあっても、読者と作家の 結びつきが切れて、偽りのものになってしまっては、 読者のほうも、もう物語に夢中にはならない。そうし て次第次第に『アルカディア』は面白いものなのか、 面白くないものなのか判別のつかないところへと浮遊 していくことになる。物語はみなが忘れかけ、出かけ るひともない冒険の地のひとつとなってしまう。そこ では崩れ落ちた彫像に草が覆い被さり、雨がしとしと と降り注ぎ、大理石の階段は苔に被われ青くなり、花 壇には雑草がぼうぼうと生い茂っている。それでも物 語は時にはさすらってみることのできる美しい とな ることもある。ここかしこに花が咲き、ナイチンゲー ルはライラックの木でさえずる。 こうして読者は、シドニィが『アルカディア』を完 成させようという試みを儚くもあきらめる直前に書い た最後のページにまでたどり着く。するとフォリオ版 の『アルカディア』を書棚、それも一番下だ、に戻す 前にふと思いつくことがある。『アルカディア』には、 ちょうど光り輝く球体のように、英語で書かれた虚構 物語の種というべきものが目に見えない形で潜んでい る。だから限りのない発展の可能性を認めることがで きる。たくさんのいろいろな方向性が目の前にあって、 そのどれを選んでも構わない。ギリシャと、それから 王子と王女に焦点を定めても良い。気高い物に気を付 ければ、『アルカディア』の威厳とでもいうべきものを 見つけるだろう。叙事詩の観点から、単純な話の流れ、 とうとうと流れる大量の話、そして広大な風景描写に まとめ上げることもできる。あるいは目を近づけて、 丁寧にそこに実際には何があるかを観察することもで きる。ダルニータスとモプサを、あるいは卑しい生ま れでぶっきらぼうな口の利き方しかしない一般の平民 を主人 として取り上げることもある。さらには日々 のわたしたちの生活を、普通に流れていく生活を取り 上げる。あるいはそうした表面上の障害を払い落とし て、中にある実ることのない愛を胸に抱いている不幸 な女の苦しみ、複雑なこころの内を、あるいは歳には 合わない情熱で身を焦がしている老いぼれのばかばか しさをのぞき込んでも良い。あるいはひとの魂のうち の心の動き、そして冒険をその拠点とすることもでき る。こうした可能性が『アルカディア』 つまりロマ ンスでもあり、写実の物語であり、詩であり心理の書 である『アルカディア』には潜んでいるのである。し かし、若い世代が達成するには大きすぎる仕事を物語 に持ち込みすぎたということを、そしてつぎの時代が 引き受ける宿題を残してしまったのだということを、 まるで知っているかのように、シドニィはペンを置き、 しかも途中で、そしてこの壮大なもくろみ、ウィルト ン邸の妹に話を語って聞かせることで、邸の日々をゆ ったり過ごすというもくろみを、美と不条理の中に未 完成のまま残したのだ。