コスタリカのリバタリアニズム政党 (特集 新自由
主義時代のコスタリカ)
著者
久松 佳彰
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
218
ページ
8-11
発行年
2013-11
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003585
●はじめに
一九九〇年代にはラテンアメリ カ諸国では新自由主義改革が席巻 したといわれている。メキシコの サリーナス政権、アルゼンチンの メネム政権、ペルーのフジモリ政 権、ブラジルのカルドゾ政権など が代表例として挙げられる。二一 世 紀 に 入 る と こ の 流 れ が 崩 れ 始 め、多くの国で左派政権が樹立さ れた。その例としてべネスエラの チャベス政権、アルゼンチンのキ ルチネル政権、ブラジルのルーラ 政権、ボリビアのモラレス政権な どが有名である。このような政治 変化をもたらした要因は、新自由 主義改革への反動として説明され ることが多い。特に急激かつ徹底 的な民営化は成果に乏しく、不満 が募る結果に至ったという。つま り、大きな犠牲をはらった改革の 結果として期待された経済成長は 実現せず、改革疲れや改革への失 望を人々に与え、改革を推進する 政権は支持を失い、政治は左傾化 し、広く左派政権が代わって誕生 することになったと説明される。 定説では、この後、左派政権を急 進左派(チャベス政権、モラレス 政権など)と穏健左派(ルーラ政 権、チリのラゴス政権など)の二 つに分けて、左派政権でも方向性 や政策は一様ではないという説明 がなされるが、総じてラテンアメ リカではドミノ倒しのように左傾 化が進行し、左派政権が樹立され たイメージがつくられている。 定 説 に は 例 外 が つ き も の で あ る。なかでも民主主義が比較的定 着したと考えられるコスタリカの リバタリアニズム政党は例外中の 例外かもしれない。コスタリカで も一九九〇年代以降、新自由主義 経済政策が導入されていったが、 必ずしも成果があがったとは認識 さ れ て い な い。 そ う で あ る な ら ば、先ほどの「新自由主義改革→ 乏しい成果→政治の左傾化」とい う定説からいえばコスタリカでも 左傾化が進行するべきであり、右 派のリバタリアニズム政党が伸長 するのは上記の定説とはあまり整 合的ではない。しかし、コスタリ カでは実際のところ、一九九四年 に創設されたリバタリアニズム政 党が二一世紀に入っても伸長した のである。 では、なぜこのような例外を検 討する意味があるのだろうか。二 つ の 点 か ら 考 え て み よ う。 第 一 に、定説と一見矛盾する例外はそ れ自体で検討に値する。ひょっと したら、定説から一歩進む手がか りになるかもしれないからだ。例 えば、二〇一〇年に誕生したチリ の ピ ニ ェ ラ 政 権 は 右 派 政 権 で あ り、この点からするとラテンアメ リカ地域の左傾化という定説も再 考 し て も よ い か も し れ な い か ら だ。第二に、先進工業国では新自 由主義改革こそが、福祉国家の乏 しい結果を受けて、ある程度まで の国民の負託を受けて実施された という経緯を振り返る時、発展途 上国でも左派だけでなく広い政治 のスペクトラムをみておくことは それなりに意味があることのよう に思われる。政治の振り子が右に 動き始めるかもしれないのだ。 本稿で紹介するのは、一九九四 年に創立されたコスタリカのリバ タ リ ア ニ ズ ム 政 党 で あ る P artido Movimiento Libertario ( 政 党 リ バタリアニズム運動、以下ML) である。大統領選に三回にわたっ て出馬した同党創設者の一人であ る オ ッ ト・ ゲ バ ラ( Otto Gue -vara Guth ) 氏 に 著 者 は 二 〇 一 二 年九月六日にインタビューを行っ た。●リバタリアニズムとは何か
コスタリカの話を始める前にリ バタリアニズムについて簡単にま とめておこう。リバタリアニズム とは、市場の自由を擁護し、自由 市場は本質的に正しいという信条久
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をもち、社会を平等にしようとす る再分配税制は本質的に悪だと考 え、人間の権利に対しての侵害だ と考えて反対する政治的信条とさ れる。理論的にはロバート・ノー ジックが有名であるが、リバタリ アニズムの本場である米国での普 及にはアイン・ランド氏による小 説( 『 水 源 』 や『 肩 を す く め る ア ト ラ ス 』) が 重 要 で あ っ た と さ れ る。 ま た、 シ カ ゴ 学 派 の 経 済 学 者、特に『選択の自由』を書き、 同名のテレビシリーズに出演した ミルトン・フリードマンも自由市 場を徹底的に信奉する点で、リバ タリアニズムの理論的支柱とされ る。 政治学の研究においては、一九 九〇年以降の先進国での政治変化 は、左・右という次元では捉えら れ な い 政 治 現 象 を 生 ん だ と さ れ る。そのひとつがリバタリアニズ ムであるとされる。例えば、米国 ではしばしば経済的自由と個人的 ( 人 格 的 ) 自 由 を 共 に 支 持 す る の がリバタリアニズム、経済的自由 のみを支持するのが保守主義、個 人的自由のみを支持するのがリベ ラルとされる。 発 展 途 上 国 で の 政 治 イ デ オ ロ ギー変化は先進国のそれとはどう 違うのだろうか。例えば、メキシ コ の 政 治 学 者 で あ る ア レ ハ ン ド ロ・モレノによれば、新興民主主 義国であるラテンアメリカや旧東 欧では民主主義が当然視できない ために、先進国で重要になってき た権威主義―リバタリアニズムの 対立軸ではなくリベラル―原理主 義の対立軸が形成されていると述 べている。この点、民主主義の定 着でラテンアメリカのなかでは例 外的なコスタリカでは先進国と同 じく権威主義―リバタリアニズム の対立軸がよりクローズアップさ れた可能性はあるかもしれない。 以上のように一九九〇年代以降 の世界の政治において左派だけで なく広い視点からイデオロギーを 考えることは興味深い。
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コスタリカのリバタリアニ
ズム政党の歴史
MLの創設には、ゲバラ氏によ れば三人が強く関わっているとさ れる。一人はゲバラ氏であるが、 他 の 二 人 は ガ ブ リ エ ル・ ボ ニ ー リャ氏とラウル・コスタレス氏で あ る と さ れ る。 後 述 す る イ ン タ ビューのなかでゲバラ氏も触れて いたが、ラウル・コスタレス氏は キューバ系米国人であり、フロリ ダ・リバタリアニズム政党の首脳 であった。MLのウェブページに よれば、一九九四年五月頃に他の メンバーと共に、創設の議論を始 め、ボニーリャ氏からペルーの大 統領候補であった作家バルガス・ リョサ氏が創設したペルーの政党 「 自 由 運 動 」 の 経 験 を 共 有 し、 コ スタレス氏から米国でのリバタリ アニズム政党の経験を共有したと いう。このように他国の政治運動 の経験から刺激を受けてMLが創 設されたことは興味深い。 MLは一九九四年一二月に創設 され、一九九七年二月一四日に最 高 裁 判 所 で の 政 党 登 録 が 行 わ れ た。 一 九 九 八 年 の 総 選 挙 に 参 加 し、サンホセ選挙区の議員選挙に オット・ゲバラ氏が政党リスト一 位として選挙戦を行い、一議席を 獲得したため、ゲバラ氏が国会議 員になった。 二〇〇二年、二〇〇六年、二〇 一〇年の総選挙においては、一九 九八〜二〇〇二年の国会議員時代 の積極的な活動により有名になっ たゲバラ氏を大統領候補に立てる ことで国会議員を多く当選させる ことを狙い、大統領選と国会議員 選挙に臨んだ。二〇〇二年選挙で は大統領選で約二%の得票を獲得 し、 六 人 の 国 会 議 員 を 当 選 さ せ た。二〇〇六年総選挙では、大統 領選で八・三%を獲得し、六人の 国会議員を当選させた。二〇一〇 年総選挙では、大統領選で二一% を獲得し、九人の国会議員を当選 させた。この選挙ではゲバラ氏は 二〇〇六年に続き三位になったも のの、二〇%を超える得票率を獲 得し、将来の大統領への有力候補 へ名乗りを上げることになった。●
党首オット・ゲバラ氏との
インタビュー
ゲ バ ラ 氏 と は サ ン ホ セ 市 内 の 「 リ バ タ リ ア ニ ズ ム の 家 」 と 名 付 け ら れ た M L の 本 部 で イ ン タ ビューを行った。待合室の壁には 「 ベ ル リ ン の 壁 崩 壊 」 の 写 真、 そ してひとつの本棚にはチリ大統領 のピニェラ氏の著作が納められて おり、もうひとつの本棚には選挙 関係の本がたくさん入っていた。 長身のゲバラ氏に会ってまず感 じたのはカリスマ性であった。彼 には個人史、そして政党史、そし て 今 後 の 展 望 な ど を 伺 っ た。 ま ず、彼は一九六〇年一〇月生まれ であり、四人兄弟の長男で、父親 は キ リ ス ト 教 民 主 党 の 幹 部 で あ り、副大統領候補にまでなったとコスタリカのリバタリアニズム政党
大 家 の 家 業 を 手 伝 う 傍 の Movimiento Lib -わ ち、 英 語 で の Lib -で あ る が、 い う ス ペ イ ン 語 の 形 う 名 詞 で は な く 形 い う 単 語 で は 否 定 的 い の で、 結 局 liber -tario に 落 ち 着 い た と 語 っ て い た。ロゴには赤を使ったが、これ も共産主義を連想させると反共産 主義の人々たちに批判を受けたと いう。 リバタリアニズムの聖典ともさ れる、アイン・ランド氏の著作に は一九九四年頃にふれたという。 経済学者のフリードマンを通って から小説家・思想家のランドに触 れるという遍歴にゲバラ氏の経済 志向の自由主義を感じることがで きる。 ゲバラ氏によれば、二〇〇五年 がMLのターニングポイントだっ た と い う。 創 立 メ ン バ ー の ラ ウ ル・ コ ス タ レ ス 氏 と 政 党 路 線 を 巡って対立した。現実路線・中道 右派よりのゲバラ氏に対して、コ スタレス氏はより純粋主義を主張 し、MLを離れることになる。実 務面では政府からの政党補助金を 受けるかどうかが問題だった。純 粋主義からすれば政府から補助金 を受け取ることは許されないこと であったが、現実路線をとるゲバ ラ氏は政党補助金を受けて党勢拡 大をとることを決断した。 以上のような経緯もあって、M Lの政治綱領は社会面よりも経済 面が強い。減税、競争促進、自由 貿易、規制緩和、私有財産制の維 持が強調されている。米国との自 由貿易協定には先頭を切って賛成 したという。 二 〇 一 〇 年 の 選 挙 戦 に お い て は、 ゲ バ ラ 氏 は 治 安 が 最 大 の イ シューであると読み、警察力で治 安 を 維 持 す る 強 硬 策 を 打 ち 出 し た。こういうところもゲバラ氏の 現実路線を表している。世論調査 では三〇〜四〇%を獲得した時期 もあったので、既成政党からネガ ティブ・キャンペーンをされたと ゲバラ氏は述べていた。一例とし ては、ゲバラ氏によると、コスタ レス氏と 袂 たもと を分かつ以前にMLが 出版したリバタリアニズムを啓蒙 する出版物を、対立政党がMLの 思想の過激さをアピールするため に 大 量 に 出 版 し て 配 布 し た と い う 。 ゲバラ氏にMLの支持層を尋ね たところ、経済的な自由から支持 しそうな企業家層は支持層になっ ていないとの答えであった。企業 家層は政府に頼っているという意 味で、現政権党もしくは保守主義 よりであり、先に紹介したMLの 綱領にはあまり関心を持たないと の こ と で あ っ た。 で あ る と す れ ば、支持層はどこかと尋ねると、 インフォーマル・セクターと小農 民 と 若 者 で あ る と の 答 え で あ っ た。インフォーマル・セクターに 属 す る 人 々 は 規 制 緩 和 に 賛 成 す る。例えば、タクシーの免許制を やめれば、独立自営のタクシーが できるようになるだろうという意 見を述べていた。小農民も土地を 獲得して独立自営農民となって輸 出を行いたいと考えているので支 持者になるという。若者は既成政 党に不満を抱いている場合に票を 獲得できると自ら分析していた。 そして、MLの固定支持層は選挙 民の一〇%以下であると述べてい た。すなわち、それ以上はすべて 浮動票を獲得しなければならない との認識を示していた。 では、民営化と競争振興のどち らを優先するかと尋ねると、選択 肢を増やすという意味で、競争振 興を民営化よりも優先するとの回 答であった。この点は、コスタリ カの現状に合わせた現実主義であ る。綱領に現れているように経済 面での自由主義が強く、社会面で の自由主義はさほどでもない。後 者の具体例として、例えば麻薬の 合法化についてどう考えるかと問 うと、個人的には構わないが、現 実的にはコスタリカに合わせた方 策をとっていくべきだと答えてい
た。 次に、チリのピニェラ政権をど う思うかと尋ねた。回答は、非常 に好意的なものだった。チリとい う国は制度が安定していて、根付 いている国であり、教育において もバウチャーも実行しており、貿 易においても自由貿易を堅持して おり、良い政策を実施していると 思うとの答えであった。コスタリ カも民主主義が定着しており、制 度はかなりできている、是非チリ を 目 指 し た い と 述 べ て い た。 で は、チリのようになるには何年ぐ らいかかるだろうかと問うと、二 〇 年 ぐ ら い か か る か も し れ な い が、この次の大統領選挙でも頑張 りたいとの答えであった。