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奥山文幸著
『
幻
想
の
モ
ナ
ド
ロ
ジ
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日 本 近 代 文 学 試 論』
杉 浦 晋 本書が扱うおもな対象を、 文学者の名前で順に示せば、 宮沢賢治、 川端康成、坂口安吾、保田與重郎、蓮田善明、三島由紀夫、村上春 樹、それに教材作者としての森鷗外、太宰治となる。これらを論じ る著者の方法は、 「あとがき」によれば、次の通りである。 本書で使われる用語、モナド、イメージ、アレゴリー、パラタク シスなどは、すべて相互に連関する星座系のひとつである。この星 座系へのまなざしのもとになっているのは、私の場合、W・ベンヤ ミンの『パサージュ論』である。結果として、本書では、視覚のみ ならず、聴覚、嗅覚、触覚(皮膚感覚)が織りなす文学空間へのま なざしが機能することになるだろう。 本書の「日本近代文学試論」という、広大な視野をあらわす副題 の背景には、こうした「まなざし」の一貫への自負がひそんでいよ う。 以下、章を追って本書の内容に言及する。 Ⅰ―1、 2は、 それぞれ宮沢賢治の 「水仙月の四日」 「風の又三郎」 論。前者は、題名を四月四日の謂とする通説に対し、それを「大吹 雪 の 日 の 換 喩 」 と と ら え た う え で、 「 異 界 = 大 吹 雪 」 の な か の 物 語 を、 「雪粒」 などを観点として分析する。後者は、おもに 「風」 「馬」 を観点とする。ともに、周到な実証に基づく著者の「まなざし」の 特徴をよくあらわしている。 Ⅰ ― 3 の 川 端 康 成「 招 魂 祭 一 景 」 論 に お け る 観 点 は「 娘 曲 馬 」。 作中の三種類の曲馬芸をとりあげ、それらの 「緻密な客観描写」 が、 人物の「心理描写」と不可分にあることを論じる。さらに、そうし た「描写」において「細部の形象群が並列的かつアレゴリカルに存 在していること」を特記し、安直な「新感覚派という枠組み」によ る限定を排して、それを「表現意識」の「共時態」としてとらえよ うとする。そこで宮沢賢治、小津安二郎、エイゼンシュテインらの 営為が参照される。 Ⅰ―4、 5は坂口安吾論。 その 「白痴」 を 「聴覚空間のアレゴリー 劇」として読み解き、その歴史観の特徴を、松浦寿輝が論じた福沢 諭吉のレトリックにみられるような「アレゴリー的思考から生み出 される表現方法」=「パラタクシス」として総括する。 「「天皇」というフィクション」 (松浦) や「日本近代文学の基盤」 につながる「古典美学において正統とみなされ続けたシンボル概念 の ヒ エ ラ ル キ ー」 を 退 け、 「 ア レ ゴ リ ー 的 思 考 」 に む か っ た 文 学 者 として坂口安吾を評価することは、今日およそ通説であるのかもし れない。しかし、そのかぎりでは、既述の宮沢賢治、川端康成との 相違がみえにくい。また、そこに映画作家達や福沢諭吉まで加わる と、 「 表 現 意 識 」 の「 共 時 態 」 と い う 括 り 自 体、 成 り 立 ち が た く な るのではないか。通時的観点が望まれるゆえんである。 Ⅰ―6、7は保田與重郎論。前者は、土田杏村を経由して富士谷 御杖から摂取した、象徴主義とも通じる彼の言霊論が、 「日本の橋」 などのエクリチュールに反映していたさまを読み解く。その柳宗悦 「朝鮮の美術」との類似、 「母性的性格」の指摘など、まことに示唆99 に 富 む。 後 者 は、 彼 の 言 霊 ( ≒象 徴 ) 論、 倒 語 ( ≒イ ロ ニ イ ) 説 の 起源を、エッセイ「ランガアジユの世界」に求め、ついに自己破産 に至る、その戦時下の展開を跡づける。 Ⅰ ― 8 は 蓮 田 善 明 論。 「 佐 藤 春 夫 と 日 本 浪 漫 派 の ア ウ ト ラ イ ン に 沿いながら、鴨長明を再発見した」彼の昭和十六年に焦点を当て、 そこに 「ラディカルなフラジリティ」 (松岡正剛) への傾斜を認める。 Ⅰ―7で、保田と「好対照」だというその言語論に触れたことを 除き、日本浪漫派を論じつつ、ベンヤミンへの言及がみられないこ とは、前掲のような「まなざし」が標榜されていただけに、いささ か物足りない。たとえば、ベンヤミンがふまえたドイツ・ロマン派 の自我無化の機制と保田の言霊論との対比は、依然として興味深い 課 題 で あ ろ う し、 「 ア レ ゴ リ ー 的 思 考 」 と「 日 本 の 橋 」 の エ ク リ チュールの差異化についても同様であろう。 Ⅰ ― 9 は 三 島 由 紀 夫「 憂 国 」 論。 異 性 愛 を で は な く、 「 大 義 」 に 基づく男性同性愛を描いた 「ねじれ」 の物語として作品を読み解く。 「馬糞くさい匂ひ」 や 「腸」 などの 「イメージ」 を観点とした分析は、 「まなざし」の実践として説得力がある。しかし、 「セジウィックの クィア理論の根幹」を「ホモソーシャルとホモセクシャルは区別で き な い 連 続 体 を な し て い る 」 と と ら え た う え で、 『 仮 面 の 告 白 』 か ら「憂国」までの歩みを、やはり「連続体」とみなすのは、一面的 で は な い か。 「 連 続 」 の み な ら ず「 ね じ れ 」 や 切 断 に つ い て も、 さ らに論及すべきと思われた。また、表面的には 「大義」 と無関係な、 三島が別名で発表していた男性同性愛と切腹を描いた「愛の処刑」 ( 一 九 六 〇 ) の こ と な ど も 視 野 に 入 れ る な ら、 本 論 に 再 考 の 余 地 は 大きい。 Ⅰ― 10は村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論。その「固有名の 分 配 の 不 均 衡 」 ( 四 方 田 犬 彦 ) に 着 目 し、 「 多 く の ア レ ゴ リ カ ル な 断 片から成るひとつの言説」として読み解く。 Ⅱ―1、2は、検定教科書による採用以前に、高等学校用国語副 読本のかたちで、日本文学協会編『日本文学読本 近代文学 小説 編 二 』 ( 一 九 五 四 ) に お い て「 舞 姫 」 が、 同 じ く『 日 本 文 学 読 本 近 代 の 小 説 』 ( 一 九 五 六 ) に お い て「 走 れ メ ロ ス 」 が、 そ れ ぞ れ 教 材化されていたことを実証する。当事者による貴重な証言も含めた 資料の博捜による論述は、創世期の日文協という場における、新し い 国 語 教 育 を め ぐ る 議 論 と 実 践 の 活 発 さ を 、生 き 生 き と 伝 え て い る 。 Ⅱ―3は、宮沢賢治と熊本の「農界の権威」坂本謙平とのかかわ りを精緻に実証する。 本 書 の「 あ と が き 」 に 曰 く、 「 日 文 協 近 代 部 会 に 所 属 し て い な け れ ば、 本 書 も な か っ た の で あ る 」。 か つ て『 日 本 文 学 読 本 』 を 生 ん だような議論の場が、なお受け継がれており、そこからまたこうし た 示 唆 的 な 一 書 が 生 ま れ た こ と を 、最 後 に ぜ ひ こ と ほ い で お き た い 。 (二〇一五年九月三〇日 翰林書房刊 三一七頁 三二〇〇円)