例会報告要旨
二〇一八年度交通史学会第三回例会 二〇一九年一月二十六日(土)午後二時~五時 於 郵政博物館 参加者一七名 常 任 委 員 会 本年度第三回例会は郵政博物館において開催された。本例会 の プ ロ グ ラ ム は 第 一 回 例 会( 七 月 二 十 八 日( 土 )) で 行 う 予 定 だったが、台風で流会となったため、改めて開催したものであ る。報告内容は以下に掲載した要旨等を参照されたい。関東大震災後における郵便事業の復興過程
田 原 啓 祐 本報告の目的は、関東大震災(大正十二年九月一日)発生当 時に逓信省(当時の通信事業管轄省)および被災地の郵便局が とった震災への対応策、そして郵便事業の復興過程を見ていく ことである。 関東大震災により東京市および横浜市は壊滅的な打撃を受け、 都市としての機能を喪失した。市内の郵便局・電信局・電話局 のほとんどが焼失、倒壊し、通信機関としての機能はことごと く壊滅した。 当時の逓信省庁舎は煉瓦造りの頑丈な建物で、第一震と余震 にも耐えたが、夜に各所から火災が発生し、午後八時に庁舎詰 め の 職 員 二 〇 〇 名 が 浜 離 宮 に 避 難、 ま も な く 庁 舎 は 類 焼 し た。 職員達は、翌二日午前五時に避難先の浜離宮炊事場付近にテン トを張り、そこに逓信省仮事務所を設置した。早速に応急策が 協議され、翌日仮事務所は東京駅前の東京中央郵便局に移され た。 震災初日は、各部門とも建物施設が崩壊、焼失し、機器の多 くは失われ、従事員は避難と重要書類の搬出作業に追われてい たので業務は完全に停止した。市内の通信線が全不通となって いる状況で、逓信省は震災直後より軍との連繋による緊急連絡 網 の 確 保 に 努 め た。 陸 軍 の 通 信 復 旧 活 動 は 目 覚 ま し か っ た が、 逓信省と軍との連繋は当初うまくいかず、浜離宮内の逓信省仮 例会開催にあたり原淳一郎常任委員からの趣旨説明事務所と陸軍省の間に直通軍用電話が開通したのは三日深夜の 事であった。翌四日午前七時、政府の方針ならびに臨時震災救 護事務局設置に呼応して、逓信省臨時応急委員会が設置された。 逓信大臣を応急委員会委員長とし、逓信省(通信局・経理局) 、 逓信大臣官房、東京逓信局の事務を臨時的に一元化し、救済部、 通信部、土地建物部、庶務部、会計部、為替部、貯金部、保険 部、電気及管船部の九部が設置された。 救 済 部 は 臨 時 応 急 委 員 会 設 置 に 際 し 急 遽 組 織 さ れ た 部 局 で、 その事業活動は、食糧管理、被災者収容、救護、救援隊派遣の 四つに分けられ、わずか一週間の短期間ではあったが多くの被 災者を救済した。 関 東 地 方 一 府 六 県 の 郵 便 局 一 一 三 三 局 中 一 九 五 局 が 全 焼、 三 七 局 が 全 壊、 七九局が半壊して おり、郵便業務の 復旧には時間がか かった。このよう な状況の中で懸念 されたのは、地方 から大量の見舞状 や救援物資を詰め た小包郵便物など が東京へ向けて殺 到することであっ た。そこで九月三日、逓信省は各地逓信局に対し東京市内宛の 見舞状や小包等の地方局引受を当分のうち見合わせるよう事前 に 指 示 し た。 翌 四 日 に 逓 信 省 内 に 臨 時 応 急 委 員 会 が 設 置 さ れ、 通信部は東京市内における郵便業務再開の準備を開始した。同 日に鉄道各線の被害状況が判明し、翌日より東京市内および近 郊残存局の郵便取扱再開を決定し伝送便を設定した。 九 月 六 日、 倒 壊・ 焼 失 を 免 れ た 一、 二 等 集 配 局 に 限 定 し て 東 京市の郵便業務が再開した。翌七日には、東京中央郵便局が自 転車による「行動郵便」を開始し、皇居前・日比谷公園等の避 難民より郵便物引受を行った。被災者の中には身一つで避難し た者も多く、郵便物を差し出すのに必要な料金を持ち合わせて いない被災者の事情を考慮する必要があった。そこで、被災者 が差し出す私製はがきや重量四匁以内の有封書状は、切手を貼 らずに「罹災通信」と記入すれば、受取人から料金を徴収する 「 罹 災 通 信 」 制 度 が 設 け ら れ た。 し か し、 一 方 で 避 難 所 に 居 る 被災者への返信等の配達については対応が遅れていた。 電信の復旧についても、応急委員会設置後に早速協議が進め られた。六日より被災者の公衆電報無料取扱が開始され、取扱 局 で は 予 想 通 り 郵 便 と 電 信 の 利 用 を 求 め て 被 災 者 が 殺 到 し た。 七日には横浜市でも京浜神奈川駅待合室を受付所として無料電 報 の 引 受 を 開 始 し た。 十日 ま で 続 け ら れ た 無 料 電 報 引 受 数 は、 五日間で約五〇万通におよび、被災者の緊急連絡に大いに貢献 したのである。 地震後に発生した火事により逓信省構内にあった貯金局の局 田原 啓祐 氏
ところが大きい。 明治期の濃尾地震後の郵便局復旧作業や非常 時貯金払戻の経験が関東大震災の際に参考とされ、 そして関東 大震災時の 「救済部」 「行動郵便」 「罹災通信」 「非常確認払」 「非 常局待払」等の対応策やその際に生じた問題点が、後の阪神 ・ 淡路大震災、 東日本大震災時の「車両型郵便局」や避難所での 出張サービス、 かんぽの宿での被災者受け入れ、 逓信病院の医 療支援などの震災対策に受け継がれ、 被災者の「安心」のため の対策に大いに貢献したのである。 (郵政博物館・主任資料研究員) 舎 は 焼 失 し、 そ の 際 に 六 一 八 万 に お よ ぶ 口 座 の 貯 金 原 簿 も 失 わ れ た。 し か し 市 中 の 銀 行 は 地 震 直 後 よ り 一 斉 に 休 業 し た ま ま で あ っ た た め、 被 災 者 の た め の 貯 金 の 払 い 戻 し は 急 務 で あ っ た。 そ こ で、 貯 金 局 は 九 月 三 日 か ら 同 月 三 〇 日 ま で 郵 便 貯 金 の 非 常 確 認 払 を 実 施 し た。 非 常 確 認 払 を 開 始 し た 当 初 は 被 災 者 が 各 取 扱 局 に 殺 到 し た が、 深 刻 な 事 態 が 生 じ る こ と は な く、 当 時 の 新 聞は「貯金局の大英断」と評している。 簡 易 保 険 局 は、 逓 信 省 構 内 に あ る 四 課 は 焼 失 し た が、 芝 浦 の 仮 庁 舎 の 焼 失 を 免 れ た た め、 こ ち ら に 保 管 さ れ て い る 保 険 申 込 書、 保 険 料、 徴 収 原 簿 等 の 保 険 契 約 関 係 書 類 は 無 事 で あ っ た。 東 京 市 に は 約 三 〇 万 人 の 簡 易 保 険 加 入 者 が お り、 被 災 者 の 困 窮 を 救 済 す る こ と が 急 務 で あ っ た。 そ こ で、 簡 易 生 命 保 険 非 常 取 扱 規 則 を 設 け、 九 月 五 日 よ り 十 一 月 五 日 ま で の 期 間、 芝 浦 簡 易 保 険 局 構 内 に 設 置 し た 東 京 中 央 郵 便 局 出 張 所 に お い て 保 険 金、 還 付 金、 契 約 者 貸 付 金 の 非 常 局 待 払 の 取 扱 を 開 始 し た。 開 始 当 初 は、 毎 日 一 〇 〇 〇 人 以 上 の 請 求 者 が 殺 到 し た が、 そ の 中 に は 保 険 証 書 や 領 収 帳 を 失 っ た 者 が 多 か っ た た め、 保 険 証 書 の 記 号 番 号 の 確 認、 契 約 受 持 局 等 の 確 認 が な か な か 取 れ ず、 契 約 原 簿 との照合には困難を極めた。 災 害 へ の 対 応 策 は、 被 災 後 の「 応 急 措 置 」( 安 心 ) と 事 前 の 「 防 災 対 策 」( 安 全 ) の 二 通 り あ る が、 明 治・ 大 正 期 の 郵 便 事 業 は、 災 害 発 生 後 の 対 応 に 主 眼 を 置 き、 被 災 者 に 多 く の「 安 心 」 を 提 供 す る 役 割 を 果 た し て き た。 未 曽 有 の 災 禍 に と っ さ に 対 応 す る に は、 過 去 幾 多 も の 災 害 を 体 験 し て 得 た 知 識 の 蓄 積 に 依 る
菅沼 明正 氏 同年の奈良県訪問者の特徴を整理した。奈良県統計課は当時全 国に先駆け先端的な観光実態調査「県観光連合会調査」を行っ ていたが、県観光課や県立図書情報館に史料の所蔵はなかった。 そのため、当時の統計から来訪者の実態を分析した地理学者堀 井甚一郎の論文を参考に整理した( 「観光地としての聖地大和」 『 地 理 』 一 九 四 一 年 四 巻 三 号 お よ び「 観 光 都 市 と し て の 奈 良 」 仲 川 明・ 森 川 辰 蔵 編『 奈 良 叢 記 』 駸 々 堂 書 店、 一 九 四 二 年 )。 一九四〇年の奈良県への訪問者の特徴は、前年と比べ「日帰・ 個人客」と「団体客」の増加に特徴があった。前者は訪問者全 体 の 七 六 % を 占 め、 橿 原 神 宮 の あ る「 畝 傍 町 」 の 他 に「 奈 良 」 や 「生駒」 でも多くを占めていた。後者の 「団体客」 は 「日帰 ・ 一般」二 ・ 〇八倍、 「宿泊 ・ 一般」一 ・ 八三倍、 「日帰 ・ 生徒学生」 一 ・ 七 〇 倍 と 全 体 的 に 増 加 傾 向 に あ っ た。 以 上 の 整 理 か ら、 同 年の訪問者を近隣府県からの「日帰・個人客」と、遠方からの 旅行者が含まれる「団体客」の二つに大別して検証するべきで あることを確認した。以下では、増加背景と訪問場所の傾向に ついて、この両者をわけて報告を行った。 訪問者増加の背景には「日帰・個人客」と「団体客」で異な る要因があったと筆者は考える。 「日帰・個人客」については、 企 業 間 の 経 済 活 動 の 活 性 化 が 重 要 な 役 割 を 果 た し た。 ま ず、 一九三〇年代の重化学工業の拡大によって沿線人口が増え、そ こ へ 戦 時 経 済 を 背 景 と し た 大 軌 の 旅 客 誘 致 の 活 性 化 が あ っ た。 大軌社内報にあった戦時統制下の広告の役割を模索する論考を 事例として紹介した。次に、大阪朝日新聞社の動きを起因とす
皇紀二六〇〇年における奈良への「聖地」
参拝旅行の動向
菅 沼 明 正 本 報 告 は、 一 九 四 〇 年( 皇 紀 二 六 〇 〇 年 ) に「 皇 国 の 聖 地 」 橿 原 神 宮 の あ る 奈 良 県 を 目 指 し て 行 わ れ た 参 拝 旅 行 に つ い て、 国鉄と大阪電気軌道(以下、大軌)に注目し、訪問者の特徴と 増加の背景、訪問場所の傾向を検討し報告を行ったものである。 皇 紀 二 六 〇 〇 年 と 奈 良 県 と の 関 係 に つ い て は 、 政 策 過 程 や 娯 楽 ・ ツ ー リ ズ ム 、 都 市 計 画 の 方 面 か ら の 研 究 が あ る が 、 管 見 の 限 り で は 、 訪 問 者 の 増 加 ( 前 年 の 二 ・ 二 倍 で 累 計 三 八 〇 〇 万人 ) や そ の 背 景 に つ い て 詳 細 に 論 じ た も の は ほ と ん ど な か っ た 。 戦 間 期 か ら 戦 時 期 に お け る 鉄 道 を 利 用 し た 旅 行 の 大 衆 化 の 事 例 の ひ と つ で あ る が、 訪 問 者 往 来 の 基 盤 を 用 意 し た 国 鉄 や 大 軌 な ど の 鉄 道 会 社 が 果 た し た 役 割 に つ い て は あ ま り 注 目 さ れ て こ な かった。 ま ず 本 報 告 で は、が参拝旅行先としてセット化されたことで、奈良方面への「団 体客」が増加したと筆者は考える。 最 後 に、 訪 問 場 所 の 傾 向 で あ る が、 「 日 帰・ 個 人 客 」 は 大 軌 の『路線案内』 (近鉄GHD所蔵)を、 「団体客」は国鉄・大軌 の 輸 送 ス ケ ジ ュ ー ル を も と に、 筆 者 の 考 察 を 報 告 し た。 一 九 四 〇 年 版 の『 路 線 案 内 』 を 見 る と、 「 聖 地 」 や 皇 室 関 連 の 史蹟を紹介しつつも、一九三〇年以降の他のものと同様に、娯 楽を勧めんばかりにハイキングやスキー、観楓などを満喫でき る 行 楽 地 を 紹 介 し て い た。 こ こ か ら、 「 日 帰・ 個 人 客 」 に は 娯 楽享受の大義として橿原神宮に参拝する者も少なくなかった可 能 性 が あ る と 筆 者 は 考 え る。 ま た、 「 団 体 客 」 に つ い て は、 降 車 地 や 宿 泊 地 に 制 限 が あ り、 滞 在 時 間 も 予 め 決 め ら れ て い た ( た と え ば、 橿 原 神 宮 駅 が 二 時 間 五 分 か ら 四 三 分 )。 こ の た め、 皇室関連の史蹟を巡拝した後、駅周辺の社寺などを短時間で見 学していたと筆者は考える。 今回の報告では、国鉄と大軌を中心とする鉄道会社に注目し、 「 聖 地 」 参 拝 の 動 向 の 大 枠 を 提 示 し た。 今 後 は、 橿 原 神 宮 を は じ め と す る 社 寺 界 の 動 向 や、 「 聖 地 」 参 拝 者 の 個 別 事 例 に つ い ても調査し、皇紀二六〇〇年の「聖地」参拝の様相を明らかに していくことが課題である。 (慶應義塾大学SFC研究所) る 橿 原 神 宮 の 境 域 拡 張・ 整 備 事 業 の 国 家 事 業 化 に よ る「 聖 地 」 参拝「体験」と「気分」の広がりを示した。当初県内の中学生 の動員で行う予定だった同事業は、これを商機とする民間企業 の 参 入 に よ り 近 隣 府 県 か ら 奉 仕 者 を 募 る 事 業 と な り、 『 橿 原 神 宮と建国奉仕隊』 (藤田宗光『橿原神宮と建国奉仕隊』 (阪神急 行 電 鉄 株 式 会 社 百 貨 店 部、 一 九 四 〇 年 ) に よ れ ば、 「 橿 原 に 行 かざれば人にあらず」 、「橿原の如く集まれ」という標語が近隣 県でできていた。こうした利益拡大を目的とした企業間の経済 活動を背景に、奈良への「日帰・個人客」が増加したと筆者は 考える。 ま た、 「 団 体 客 」 増 加 の 背 景 に は、 鉄 道 を 利 用 し た 旅 行 の 大 衆化による旅行需要の高まりと、国鉄と関西圏の私鉄が実施し た輸送統制があった。大軌社内報から作成した表とともにこれ を提示した。国鉄は団体旅行が増加し各団体が希望行程を出し た場合に対応が困難と判断し、 一九四〇年の団体輸送を 「聖地」 (伊勢神宮および橿原神宮)参拝以外取り扱わないことを決め、 さらに参拝経路の指定や鉄道局ごとの列車本数の割当、年間を 通 し た 輸 送 量 の 維 持 な ど を 行 っ た。 「 団 体 客 」 の う ち 日 帰 が 大 半を占めていたのだが、それは県内の宿泊施設の不足からきた もので、指定斡旋機関の日本旅行協会が山田や二見浦、京都な どに振り分けたためだった。伊勢神宮参拝者の対前年増加率が 奈 良 県 訪 問 者 よ り も 小 さ い こ と か ら( 一 九 三 九 年、 内 宮 : 三四三万人、外宮:三八九万人。一九四〇年、内宮:三八二万 人、外宮:四一六万人。 )、輸送統制により橿原神宮と伊勢神宮