淀井敏夫作品《渚のエウローペ》から見る造形の変遷
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(2) 1. はじめに. 淀井は、現代の具象彫刻に新たな指針を示したとさ. 本論文の目的は、彫刻家である淀井敏夫(1911〜2005). れ、文化勲章を受章するなど生前から高い評価を受けた. によって手掛けられた《渚のエウローペ》作品に関する. 人物であるが、近代彫刻家ということもあり、生前から. 造形を考察することで、淀井の造形が長い年月の中でど. 死後までを含めた現段階での美術史上での体系的な解. のように変化していったか、そこで得られた造形観がそ. 明がなされているとは言い難い。没後 15 年経った今、近. の後の淀井の作品にどのように反映されているかを明. 代彫刻家として淀井の美術史上での再評価、それに伴う. らかにするものである。. 位置付けの再考が必要ではないかと考える。淀井に関す. 1928 年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科・木 彫部に入学した淀井は、生きた人間をモデルに自由な制. る先行研究・有用性のある資料・文献などについては引 用文献(巻末)を参照としている。. 作ができる塑像部の授業に憧れを持ち、以後、特定の師. 本論文では、今まであまり言及のされていなかった、. を持たずほぼ独学で塑造を学んだ。淀井の作品は、初期. 1961 年から 1994 年に渡り制作された《渚のエウローペ》. は堅牢な量感の表現であったが、徐々に量を削ぎ落とし. ( 【図 1】~【図 7】 )作品一連の造形の変化に着目する。. たような独創的な作風に変化していった。1950 年代ごろ. 《渚のエウローペ》は淀井が石膏直付けへと技法を変え. から始まった淀井独自の痩身表現は、晩年まで一貫して. た以降に連続して作られた作品であることから、この作. 続けられており、その細い形態で構成された作品は、作. 品が作られる過程で、その後の淀井の制作に関わる造形. 者の抱いた幻想的なイメージが反映された詩情豊かな. 観の変化があったのではないかと考えたためである。前. 表現となっている。. 述した理由から、 《渚のエウローペ》シリーズに焦点を当. 筆者はこれまでの自身の細い形態を表現するための制. て、この作品がどのように変化していったのか、更に複. 作実践や、アルベルト・ジャコメッティ(Alberto. 数回に渡りモチーフとして使用された理由について考. Giacometti 1901〜1966 仏)と淀井の造形の違いを論じ. 察を行い、淀井の造形の変遷について論考していく。. 註1. た「彫刻家・淀井敏夫の造形」. の自著の論文を通じた. 結論として、淀井が制作した痩身表現の作品は、ただ量 を削ったのではなく、量としての本質を露わに造形され たものであるという結論に至った。痩身表現は、限られ た量感で形態を示すことによって、作品の構造を強く打. インターネット上での公開にあたり、 著作権保護のため掲載図版に 墨消し処理を施しています. ち出すことが可能になる。作品の構造が強く示されるこ とによって、細さから抱きやすい脆弱な印象を脱却し、 空間に緊張感を伴った形態を表すことができる。更に、 作者による厳密な構成への意識が存在することによっ. 【図 3】1975 年 《渚のエウローペ(小)》. 【図 4】1975 年 《渚のエウローペ(中)》. て、作品に精神性、内面性を表す造形効果があると考え た。 インターネット上での公開にあたり、 著作権保護のため掲載図版に. インターネット上での公開にあたり、. 墨消し処理を施しています. 著作権保護のため掲載図版に 墨消し処理を施しています. 【図 5】1975 年 《渚のエウローペ(大)》. 【図 6】1987 年 《地中海エウローペ》. 【図 1】1961 年 《渚のエウローペ》. インターネット上での公開にあたり、 著作権保護のため掲載図版に 墨消し処理を施しています. 【図 2】1971 年 《渚のエウローペ》. インターネット上での公開にあたり、 著作権保護のため掲載図版に 墨消し処理を施しています. 【図 7】1994 年 《牛と女と地中海》. 2 34. Journal of the Society of Art and Design, no.1, 2020.
(3) 表 1 カタログレゾネを参考にした《渚のエウローペ》作品一覧 作品名. 制作年. サイズ(cm). 材質. 製造元. 所蔵. 初出品. 渚のエウローペ. 1961年. 不明. セメント. 自作. 不明. 1961年 野外創作彫刻展. 渚のエウローペ. 1971年. 26×39. ブロンズ. 不明. 不明. 1971年 彫刻6⼈展. 渚のエウローペ(小) 1975年. 53×66×31.5. ブロンズ. 菓子美術鋳金研究所. 菊森記念美術館. 1979年 彫刻・現代の秀作展. 渚のエウローペ(中) 1975年. 117×127×71. ブロンズ. 菓子美術鋳金研究所. あさご芸術の森美術館 1975年 第60回⼆科展. 渚のエウローペ(大) 1979年. 169.5×190×80 ブロンズ. 黒谷コーポレーション あさご芸術の森美術館 1979年 第64回⼆科展. 地中海エウローペ. 1987年. 40×33×14. ブロンズ. 菓子美術鋳金研究所. あさご芸術の森美術館 1987年 第11回彫刻⽇動展. 牛と女と地中海. 1994年. 117×130×70. ブロンズ. 菓子美術鋳金研究所. 不明. 2. 研究方法 本研究は資料からの読み取りと、実見調査での観察を. 1994年 淀井敏夫彫刻展. 3. 《渚のエウローペ》に見られる造形 3.1 1961 年の《渚のエウローペ》. 主軸として行う。本論文では、牛、エウローペ両者のモ. 《渚のエウローペ》は 1955 年以降、淀井が塑造から石. チーフの使用が見られるものを《渚のエウローペ》とい. 膏直付け技法へと変化してから造れるようになったシ. うシリーズ作品として考察を行う。淀井によって制作さ. リーズ作品である。1954 年に東京藝大講師となった淀井. れたエウローペを題材としている作品は、あさご芸術の. は、大学近くの上野動物園に通うようになり、1960 年ご. 森美術館発行の『淀井敏夫 100 年の歩み』カタログレ. ろから動物モチーフの作品を造り始める。それまで堅牢. ゾネから7点存在することがわかった。 《渚のエウロー. な構成の人物単体の像が中心だった作品に、生き物と人. ペ》というタイトルとは異なるものがあるが、淀井は年. 物などの複数の組み合わせで構成されたモチーフが出. を経るごとに改題を行うことが多々あった。例えば 1975. 現するようになる。作品のタイトルでもある《渚のエウ. 年作の《渚のエウローペ(小) 》 【図 3】は初出品ではこの. ローペ》はフェニキア王の娘エウローペを白牛に扮した. タイトルであったがその後何度か別の展覧会では《牛と. ゼウスが連れ去る、ギリシャ神話をダイナミックに表現. 女と地中海(小) 》とするなどの改題を行っている。本論. した作品である。. 文で表記されているタイトルは、あさご芸術の森美術館. この作品【図 1】は、1951 年より日比谷公園で開催さ. 発行の『淀井敏夫 100 年の歩み』カタログレゾネを参. れた「白色ポルトランドセメントによる野外創作彫刻展」. 考とする。 筆者は、 《渚のエウローペ》の構造から作品を二つに分 類した。神話に基づき制作されているであろう、エウロ. に 1961 年に出品された作品で、セメントで造られてい る。淀井は 1957 年から 1963 年までこの彫刻展にセメン ト作品を出品していた。. ペの足が折りたたまれたものが【図 1】 【図 6】 、淀井独自. 淀井が石膏直付けを始める 1955 年以前の作品は量塊. の構成が反映された、形態に変化がみられるものが【図. の強いものであったが、その作品も徐々に量を削ぐよう. 2】 【図 3】 【図 4】 【図 5】 【図 7】である。. な塑造へと変化していった。石膏直付け手法に至ったの. 1 作目のエウローペ作品である 1961 年の《渚のエウロ. は、粘土素材独自の時間経過によって起こる乾燥などの. ーペ》は神話からのインスピレーションを受けていると. 制限、繊細な厚みを表すことの難しさなどの観点から、. 推測するが、その後制作された作品には、牡牛、エウロ. 単純に粘土の量を削減する表現だけでは淀井の思い描. ーペ共に空間構成やポーズによる動きに大きな変化が. く理想の量の造形を行うことに限界があったためであ. 加わっていく。さらに後年になるに従い、造形にも変化. った。1). が訪れている。1971 年以降の《渚のエウローペ》では、. あさご芸術の森美術館発刊「淀井敏夫の世界」では《渚. 淀井自身のイメージが組み込まれた構造などの造形的. のエウローペ》の作品を「ヨーロッパ誕生の神話をダイ. 工夫が見て取れると言ってよい。. ナミックに表現しながら、歴史が持つロマンへと思いを. 調査の中で 1975 年作《渚のエウローペ(中) 》 【図 4】. 馳せた作品である」2)と解説されている。. と 1994 年作《牛と女と地中海》 【図 7】のサイズが非常. 「フェニキア王アゲルノの魅力的な姫──テバイ氏の. に似通っていることが判明したため、鋳造元の菓子美術. 建設者かドモスの妹──エウロペに惹かれたゼウスは、. 鋳金研究所に聞き取り調査を行ったところ「同じものを. 海辺で侍女たちと遊んでいる彼女に近づくために牡牛. 改題して出品したものであると思う」との回答が得られ. に姿を変えた。エウロペは雄牛をなでてやり、その背に. た。そのため、今回は 1961 年から 1979 年までの作品の. 腰をおろした。すると急に牡牛は彼女を乗せて岸辺から. 考察を行なってゆく。. 離れ、海の彼方へ連れ去った」3)というギリシャ神話の存. それぞれの作品を年代順に考察し、淀井がなぜ同じモ チーフを扱い続けたのか、また、 《渚のエウローペ》作品 から展開された造形について考察を行う。. 在がシリーズ1作目であるこの作品に多くの要素とし て反映されていると言って良いだろう。 1961 作《渚のエウローペ》 【図 1】では白い牡牛、岸辺. 芸術学論集,第 1 号,2020 年. 3 35.
(4) を振り返る乙女、角を掴む片腕など、神話に沿ったよう. また、この作品から牡牛とエウローペの重なり合って. な造形が施されており、後方を見つめるエウローペと乙. いた背の部分に空間ができる。視線が抜けていく空間が. 女を運ぶ牡牛が表されている。. 現れたことにより、エウローペの動きを感じさせる躍動. その全体像は、牡牛は安定感を感じさせるような大き. 感がより高まったと言える。. な量で胴体が作られており、真っ直ぐな背から上方へと. さらにこの作品以降より強く、空間の中で重なり合う. 伸ばしたような牛の首が印象深いが、動勢としては全体. 動勢のコントロールが見られる。牡牛の足は手前と奥で. 的に大人しい。牡牛の足こそ細いものの、全体の印象と. 異なる動きをつくることで、示された動きの差異から対. してはどっしりとした重量感のある作品となっている。. 象の動きや重なりを連想させる効果が現れている。さら に、牡牛の後ろ側からのびた尾が弧を描くように前面に. 3.2 1971 年の《渚のエウローペ》 1作目のエウローペから 10 年後に作られた 2 作目の. 迫ることによって、より作品の奥行きが強調され、立体 感が顕れている。. 作品である。 【図 2】この作品は 1971 年に日本橋画廊に て開催された「彫刻 6 人展」に出品されている。高さは 26cm の小品ではあるが、しっかりと立つ牡牛の動き、そ. 3.4 1975 年の《渚のエウローペ(中) 》 1975 年「第 60 回二科展」に出品された《渚のエウロ. れに対比するように空間に投げ出された軽々としたエ. ーペ(中) 》 【図 4】はこれまでと異なり、高さが 117cm と、. ウローペの足の動きが対比となり、軽快さを感じる作品. 1971 年【図 2】のものと 1975 年作【図 3】の 2 点と比べ. である。一作目のどっしりとした《渚のエウローペ》 【図. ると多少大きい。エウローペの跳ね上げた足はさらに上. 1】とは異なり、全体に動と静の両方があらわれたリズム. 昇し、作品に高さが生まれている。1961 年の《渚のエウ. 感のある作品となっている。1961 年の《渚のエウローペ》. ローペ》では牛の角をつかんでいた左手は、今作では大. 【図 1】では牡牛が首を大きく上に向けることで表して. きくデフォルメされ、波のように角を跨ぎ、手前へと出. いた動勢を、牡牛全体を前へ傾けることで首は正面を向. 現している。. けたまま、動きの表現を表している。また、1作目には. 残されている心棒の資料によると、この作品は心棒の. なかった地山が現れたことで、どっしりとした量の上に. 段階でおおよその形が決定されていることがわかる。. 立つ、牡牛の華奢な足がより引き立ち、量の充実した牡. 【図 8】. 牛の胴体と緊張感を持って地面に立つ脚の構成の対比 が際立って見える。. 1950 年代以降淀井が主流としていた石膏直付け技法 は、心棒の段階で大幅な形が決定され、そこに石膏を重 ねるように盛り付けていくことで、形体が現れてくる。. 3.3 1975 年の《渚のエウローペ(小) 》 この作品の初発表は 1979 年池袋西武開催「彫刻・現代. 焼石膏は水と反応して、二水石膏となる。焼石膏に水を 加えて撹拌すると、水和反応により多数の二水石膏の針. の秀作展」である。1975 年作《渚のエウローペ(小) 》. 状結晶が生成して、互いに交錯し合い凝結硬化が起こる。. 【図 3】では、牡牛の傾きはさらに激しくなり、1971 年. 水との割合、硬化時間を置く事によって、石膏は液状か. 作【図 2】では正面を向いていた首も、やや上方へと伸. ら、クリーム状、固形へと変化し、硬化後はヤスリで削. びている。更に、押しつけたような凹凸の激しい手の痕. ることができるほどの硬度になる。液状の石膏は大きく. 跡が作品全体に顕れ手いる。この手の跡が見えることに. 形造ることは難しいが、微量ながらに石膏を重ねていく. よって、距離を持って作品をみた際に、量塊がより強調. ことで小さな点のように石膏を積み重ねていく、集積で. されて感じられる。したがって、この痕跡は決して無秩. のモデリングの表現が可能になる。一方でクリーム状の. 序に作られたものではなく、作者の意図の表れであると. 石膏は、ヘラですくい取り盛り付けていく事によって、. いうことがわかる。例を挙げれば、牡牛の脚・動体・臀. 「面」を強く表出させることが可能となる。石膏直付け. 部の盛り上がりなどの部分に顕れている。それらは全体. では盛りつけるモデリングと、その後に石膏を削るカー. が均一になることなく個々の量を主張しつつも、まとま. ビングと両者の表現が融合する事で、石膏直付け技法の. りのある一つの存在として表現されている。また、筋の. 独特の形態感が生まれる。. ように見える起伏した手跡は、牡牛やエウローペの動勢. 実際に、淀井が石膏直付けを始める以前の作品【図 9】. を高める表現となっている。さらに、作者のマチエール. では大きな塊としての量感が強く、作品一つのタッチに. がよりコントロールされていることがわかるのが、作品. は統一感があり、力強い制作時の手の跡、粘土で表出し. の地山部分である。ごつごつとした手の跡は全体に均一. た形態を重要視していたことが窺える。それに比べ、石. に与えられているわけではなく、地山の中央部分には、. 膏直付けを始めて以降の《渚のエウローペ(中) 》 【図 10】. マチエールをあえて削った痕跡が残されており、平たく. ではタッチや形態に石膏の直付けで施された、緩急とも. 均されている。. 言える意図的な面・形態の差が出ている。この表現があ. 4 36. Journal of the Society of Art and Design, no.1, 2020.
(5) ることによって、作品に一連の動勢が生まれ、迫力や存. れたのではなく、起伏を持って量感を感じさせる人体と. 在感の増した作品の誕生を手助けしている。. しての形態が顕れている。. これら石膏直付けの作品観察から窺える淀井の量に. これは牡牛にもエウローペにも共通する要素である. 対する表現は、面を重視し、形態をやや角ばった形とし. が、淀井の作品からは、こういった量の中心をとらえる. て捉え、量の内面構造を考えた形態・量塊を求めた上で、. 軸の存在が窺える。これによって、量と量とのつながり、. 量と量との繋がり、全体の構造、均衡を厳しく空間に提. 全体の構造、均衡を厳しく空間に提示することが可能に. 示するという手法をとっていることがわかる。この、 「面」. なる。. の表れは淀井の意図した造形観にも起因していると予. 淀井は数々のインタビューの中でも「骨格」を重要視. 測するが、それをさらに高めているのは、石膏直付け技. していると答えている。厳格に組まれた心棒の資料【図. 法によるところもあるだろう。. 8】などからも読み取れるように、淀井の言う骨格という のは、単純に人体や動物の骨そのものを表すだけではな く、骨格を重視した心棒を組み作品全体に関わる構成を. インターネット上での公開にあたり、. も含んだ言葉であると考えられる。そのため、淀井の作. 著作権保護のため掲載図版に. 品では初期に作られる心棒の形態が重要であり、初期の. 墨消し処理を施しています. 段階から全体の構造を常に考えての制作が行われてい たと予測する。淀井の制作工程では初期に作られる心棒 の形態が石井鶴三(1887〜1973)にもある種共通し、心. 【図 8】1975 年 《渚のエウローペ(中)》心棒. 棒の段階で既に堅牢かつ、躍動感を予測させるフォルム が追求されているのがわかる。具象彫刻の制作では、制 作初期に行われる心棒組みは造形的に見て最重要事項 の一つであるとともに、それらの工程が、後に作家個々 の自由なモデリングの基盤となる。 4. 地山について 《渚のエウローペ》に関する作品の変化として、地山 の造形の変遷について考えていく。 しかし、そもそも地山について詳細に語られている技. 【図 9】1929 年 《男の胸像》. 【図 10】1975 年 《渚のエウローペ(中)》. 法書等は少なく、自刻像作品を造っている鈴木雪絵によ って書かれた平成 26 年度博士論文「塑造によるセルフ ポートレイト──その造形と思想を巡って──」では地. 3.5 1979 年の《渚のエウローペ(大) 》. 山について「ただし『日本語大辞典』にあたってみると. この作品【図 5】はこれまでの淀井の《渚のエウロー. 「地山」という項目は設けられているが、彫刻用語とし. ペ》の集大成ともいってよいだろう。全体としてタッチ. ての定義は出てこない。 「地山」は彫刻における慣用語だ. は抑え気味で、今までの作品と比較すると牡牛の頭部の. と言える」4)と語っている。鈴木は台座と地山が像を「立. 作りが小さく、空中へと投げ出されたようなエウローペ. たせる」という機能を持ちながらも、 「環境に像が挿し込. の体が細くなだらかである。牡牛の体が地山からより前. まれるときに生じる唐突感を軽減」し、地山は「台座の. に出ていることによって、地山に収まらない全体の印象. 上に突出した大地、すなわち像の起源である大地の現前」. がより動作性を感じさせる。. 5). であると語っている。. 作品からは、石膏直付け技法を使った盛り付けによる. 地山の起源を考えた際に、最も重要であるのは、像を. 面の塊の強調、少量ずつかけられた石膏の痕跡が見られ. 「立せる」ということである。重力のある中で、像が自. る。この直付けの中で行われる、取る・付けるといった. 立し存在することは、当たり前のようであるが、そのた. マイナスとプラスの作業が何度も繰り返されることに. めには物理的に、どう立たせるかという問題にまず直面. よって形は密度を増し、作品は緊張感を持った形態へと. する。. 高まっていく。 また、エウローペの裾の長い衣は体にまとわりつくよ. 「土づけですが、どこから付け出しても構わないので すが、まず、地山をおいて脚の位置を一応固定させてか. うにしているが、そこから腰、太腿、脹脛と形態ごとの. ら胴体をつけるのがいいようです」6)などとあるように、. 量感が見て取れる。これらによって上方へと高くはねあ. 多数の書籍の中で地山は粘土付けなどの初期段階に、心. げられた細い足は、ただの棒のように真っ直ぐに伸ばさ. 棒を固定するために置かれ、厚みを決定する。その厚み. 芸術学論集,第 1 号,2020 年. 5 37.
(6) が、地面と像の足裏の境になる。 また、彫刻家である岩野勇三(1931〜1987)は著書の中 で、地山の重要性について、地山はただ像を立たせるた めだけに無造作に扱われているわけではなく、作品の印 象を決定づけるものであると述べている。7) また、人間の認識として、重力を受け立つ我々が、無. インターネット上での公開にあたり、 著作権保護のため掲載図版に 墨消し処理を施しています. 【図 2】地山部分 インターネット上での公開にあたり、. 意識のうちに鉛直方向と水平方向を認識することで、空. 著作権保護のため掲載図版に. 間をよりはっきりと認識できるという働きもある。8). 墨消し処理を施しています. 多くの場合、造形の過程で、最初に像の基本構成を決. 【図 3】地山部分. 定されるために作られた地山は、像の印象に沿う様に形 態の決定を徐々に行っていく。さらに地山の働きに付随 する事柄として、地山の存在が、置かれた場と作られた 像を一つの世界につなぐ重要な役割があるのではない かと考える。 それらを踏まえ、淀井の作品の地山の変化を見ていく。. 【図 11】1975 年 《渚のエウローペ(中)》地山部分. 渚のエウローペで地山が登場するのは 1971 年の《渚の エウローペ》 【図2】からである。この作品は、全体的に 粗々しいタッチでまとめられた作品で、それに呼応する ように地山も丘のように盛り上がり、厚みもあり量感も 非常に強い。1975 年作《渚のエウローペ(中) 》 【図4】. 【図 12】1979 年 《渚のエウローペ(大)》地山部分. では折れた牛の前足に盛り上がりが見られるが【図 11】 、 同年の《渚のエウローペ(小) 》 【図3】では地山は粗々. 4.2 《渚のエウローペ》に見られる構造の変化. しくはあるもののほぼ平坦になり、1979 年作《渚のエウ. これまでに述べてきた、1961 年から 1979 年の《渚の. ローペ(大) 》 【図 5】では牛の後ろ足に波の表現と見ら. エウローペ》を見ていくと、徐々に構成に変化が加えら. れるものがあるだけである。 【図 12】更に、同作ではこ. れてきたことがわかる。1961 年作《渚のエウローペ》 【図. れまでの作品の中で最も牛が地山から乗り出した様に. 1】は量感を感じる塊感の強い作品であったが、その後の. 突起しており、牛の動きに勢いが生じ、作品全体に躍動. 作品は徐々に淀井独特の作風を伴ったものへと変化を. 感を感じさせる。エウローペ作品の形態は《渚のエウロ. 遂げていく。. ーペ(大) 》 【図 5】で完成されたといって良いだろう。. 1971 年作《渚のエウローペ》 【図 2】から大きく作品の. 《渚のエウローペ》作品の地山は徐々に薄く、装飾が. 構成が変わり、その後の作品でエウローペの足が空間を. 取り払われていく。更に牛が身を低く下げ、地山からは. 蹴り上げるように徐々に高くなっていったことによっ. み出るように乗り出す構造へと変化していく。この地山. て、作品の構成に高さが生まれている。また、牡牛が地. から解放された牛の存在が、作品に動勢を加えていると. 山からはみ出るほど、身を低くさげ首を逸らすことによ. いって良いだろう。. って、横への広がりも生まれてきた。デフォルメの施さ. 淀井は「 「立てる」ためにはポーズと台座との量の関係. れた人体の鋭く突き出た足や、牡牛のどっしりとした胴. が大切」9)と語っている。作品制作を重ねていく中で、地. 体と比較して細く造り上げられた地山に踏ん張る脚は. 山の装飾性の減少が見られるのは、淀井自身の中で形態. 作品に緊張感を与えながら、量の対比、各部位との関係. に関する感覚の変化があった為だと考えられる。また、. を強く厳格に量感が空間に張り出してきているような. 作品のタッチが激しい作品はより粗々しい地山になっ. 印象を与える要因の一つとなっている。. ている。このような作品ごとの地肌の変化が見られるの. さらに、牡牛の後ろ側から前へと弧を描くように顕れ. は、淀井の制作技法であった石膏直付けに起因するとい. る尾、エウローペと牡牛の間に作られた逸らした背中か. って良いだろう。淀井は直付けの際に、切り出しナイフ. ら抜けていく空間の出現など、計算されて作り出された. やヘラでの盛り付けを行っていた。このことから、小品. 空間の重なり、そこから生まれる広がりが、彫刻の奥行. はより隆起の激しいタッチの作品になり、逆に大きな作. き、立体感、三次元の実在感を高めている。. 品は手で石膏をふりかけるなどの大きな動き、修正が可. 淀井自身、インタビューの中で「私自身としてはそん. 能なため、比較的落ち着いたタッチの作品になっている. なに細いとは思ってないのですよ。 (中略)骨格を大切に. と考えられる。. 肉付けしていくということと、空間との関係でこれぐら いだろうということで留めているわけです」10)と語って. 6 38. Journal of the Society of Art and Design, no.1, 2020.
(7) いる。. 痩身の人体と組み合わさった動物などのモチーフ同. 淀井の彫刻作品の制作方法は、肉付けによる量感の充. 士に造られた空間は、量の強弱を強く意識させる。その. 実よりも、独特の制作手法であるとも言える、量を削減. 量の対比が存在することによって、造られた対象の重な. していくことで生まれる骨組みを強くとらえるという. り、そこから生まれる緊張感や空間の響きを感受するこ. 造形意識の働きが強く出ている。淀井が繰り返し発言し. とができる。このようにして表現された重なり合うモチ. ていた骨格という言葉はこの点に集約されていると言. ーフ同士から感じられる奥行きの表現は、作品の実在感. えるのではないかと推測する。その意識があるからこそ、. を高める表現へとつながっている。. 淀井の制作において、構造は何よりも重要であり、その. 後年淀井の作品は野外に設置されることが多くあっ. 構造が決まった時点から、大きな肉付けは必要なかった. た。野外という、無限の広がりが存在する空間に設置さ. のであろう。. れた淀井の作品からは、その場に違和感なく彫刻が取り 込まれているような感覚すら感じさせる造形となって. 5. 《渚のエウローペ》作品から展開された淀井の造形に ついて. いる。 美術評論家の三木多聞は「兵庫県立近代美術館の展覧. 《渚のエウローペ》は 1955 年以降、淀井が粘土での造. 会カタログに「時代の激しい流れを背に、何を作品にす. 形ののちにキャスティングを行う塑造から、心棒を組み. るかに立ち止まったりしましたが、具象彫刻の世界で、. そこへ直接石膏をつけていく石膏直付け技法へと変化. 昔と今も変わりがない、変わることのない生命体を見詰. してから造られるようになったシリーズ作品である。. め、その消えゆく宿命のドラマを探しながら、粘土を刻. 1961 年制作《渚のエウローペ》 【図1】は日比谷公園. みたいと願ってきました」と記した淀井さんはあくまで. で開催された野外創作彫刻展に出品されている。後年、. 自己に忠実に、美術学校、帝展、国展、二科展と遍歴し. 野外彫刻を積極的に発表していった淀井の、野外空間と. ながら、絶えずこれではない、これではないと、自分に. そこに設置される彫刻作品を意識した造形への展開が. 問いかけ、進むべき道を探ってきた。 「自分の心に残って. この野外創作彫刻展の出品時期に始まっていったと推. くるものを、日記をつけるように彫刻を作ってきた」と. 測できる。. いうことばに、この彫刻家の謙虚さと自負をうかがえる. 1965 年にエジプト・ギリシャ・ヨーロッパを四十日に 渡って旅行した淀井は、そこで見た風景や人々の様子に、. ことができる。 」12)と淀井を評している。 淀井自身「ことに近年、私は野外空間を友とする造形. 後年に続くモチーフを得る。日本では感じられなかった. の地平を目指してきました」13)と発言していることから. “人々の営み”“悠久な時間の経過”を体感した淀井. も、淀井が野外の空間と設置される作品の調和を強く意. は後に「具象彫刻の世界で昔と今も変わりがない変わる. 識して制作に取り組んでいたことがわかる。淀井の言う. ことのない生命体を見つめ、その消えゆく宿命のドラマ. 野外空間を友とする造形は、自然や生命への慈しみを持. 11). を探しながら粘土に刻みたいと願ってきました」 と語. ち制作に取り組んだことや、強い空間への意識、構造へ. っている。忘れ難いものを造るという造形意識は、複数. の思慮深さを持ち制作を行っていたことなど様々な視. 回にわたり制作された《渚のエウローペ》にも見られる. 点からのアプローチがあってこそ実現可能になった表. ように、繰り返し行われる制作の中で、感覚としてより. 現であると言って良いだろう。緊張感を持った痩身表現. 研ぎ澄まされていったと言えるだろう。. の彫刻が、遮るもののない野外に設置されることで、空. 《渚のエウローペ》は、徐々にエウローペの足が高く 上がった構造へと変化していった。この、高さと横への. 間に解き放たれたように、生き生きとした伸びやかさを 感じさせる作品へと変化を遂げている。. 広がりの組み合わさった構造は、 《夏の海》 【図 13】 《 希 望》 【図 14】などにも見られるように、後年の淀井の制 作にも多く取り入れられている。 淀井の初期作品は人物単体の、人柄や心情を外的特徴 に反映させた重量感のある量塊が強い表現であったが、 藝大就任以降その作品は変化を遂げていった。空いた時 間の多くに上野動物園に通うようになり、1960 年頃から. インターネット上での公開にあたり、. インターネット上での公開にあたり、. 著作権保護のため掲載図版に. 著作権保護のため掲載図版に. 墨消し処理を施しています. 墨消し処理を施しています. 淀井の作品には動物をテーマとしたものが見られるよ うになる。それらに加え 1955 年から始まった石膏の直 付け技法による手法も一層顕著になっていき、複数のモ チーフを組み合わせて自然と人との関わりを表す作風 の作品になってくる。. 【図 13】1972 年 《夏の海(大)》. 【図 14】1985 年 《希望》. 芸術学論集,第 1 号,2020 年. 7 39.
(8) 6. まとめ 淀井は、自身の追い求める骨格を重視した造形表現に. 引用文献 1) 世田谷美術館:彫刻家・淀井敏夫 溶け合う形 自然と人. 適した手法を探り、塑造から石膏直付けを選択し、以後. と, 世田谷美術館, 14 頁, 1997 年. 晩年まで石膏直付け技法による造形を使用し続けた。ま. 2) あさご芸術の森美術館:淀井敏夫の世界,あさご芸術の森美. た、塑造の際は、量感の強い単体の人物像の作品が主な. 術館,113 頁,1999 年. ものだったが、石膏直付け以降はより細い形態表現を追. 3) 三輪福松:西洋美術の主題と物語 ギリシャ神話と聖書か. い求め造形していった。. ら,朝日新聞者,12 頁,1996 年. 1960 年ごろから淀井の作品に動物や複数モチーフが. 4)鈴木雪絵:甲第 22 号鈴木雪絵博士論文 塑造によるセル. 登場し、1970 年代に入ると表現の幅も広がり、より独特. フ・ポートレイトについて──その造形と思想をめぐって─. の表現性を高めていった。また、淀井の作品の中で繰り. ─,女子美術大学大学院美術研究科博士後期課程学位論文 ,38. 返し使用されるモチーフは淀井の「いまも昔も変わりが. 頁,2016 年. ないものに感動する」という感情が重要なキーとなって. 5)4)に同じ,52 頁. いる。. 6) 佐藤忠良:新・技法シリーズ 彫刻を作る,株式会社美術出. 《渚のエウローペ》シリーズの考察から明らかになっ. 版社,66 頁,1965 年. たように、淀井が繰り返し同じモチーフを使用している. 7) 岩野勇三:彫塑 制作と技法の実際,日貿出版社 ,190-191. のは単なる焼直しではない。なぜならば、その制作には. 頁,1982 年. 熟考された構成など、常に厳格な造形への取り組みが見. 8) A・ヒルデブランド:造形芸術における形の問題,中央公論. てとれるからである。繰り返される制作という行為の中. 美術出版 ,50 頁,1993 年. で、淀井は時間をかけて自身の中のモチーフを観察し、. 9) 聖豊社:現代彫刻,聖豊社,第 28 号,26 頁,1975 年 5 月 10) 聖豊社:現代彫刻,聖豊社,第 65 号,17 頁,1982 年 11 月. イメージの深化を計り、モチーフに己の感情を織り交ぜ、 造形へと昇華させていると考えられる。 作品、またその作品の完成に至るまでの制作過程は一. 11) 兵庫県立美術館:淀井敏夫展,現代彫刻センター,1985 年 12) 美術出版社:みづゑ,美術出版社,939 号,102 頁,1985 年 13) 2)に同じ,6頁. 朝一夕で至るものではない。淀井が《渚のエウローペ》 を繰り返し制作し、その作品が変化し続けてきたのは、. 図版典拠. 淀井の中に存在する深い内省が大きな要因であったと. 図 1 あさご芸術の森美術館:淀井敏夫 100 年の歩み, あさご. 言って良いだろう。. 芸術の森美術館, 84 頁, 2011 年. 野外空間を友に、と願った淀井の数多くの野外作品は、. 図 2 図 1 同書, 95 頁. 鑑賞者にその空間に設置されて更に大きく広がりを持. 図 3 図1同書, 98 頁. つような錯覚すら覚えさせる。それは淀井が、絶えず作. 図 4 筆者撮影. 品に向き合い続け、尚且つ自然を愛する心を持ちながら. 図 5 筆者撮影. も、厳格に制作に取り組んできたからこそ現れる表現で. 図 6 図1同書, 107 頁. あると推察する。. 図7. 図 1 同書,107 頁. 図8. 世田谷美術館:彫刻家・淀井敏夫 溶け合う形 自然と. 7. 今後の課題 今回論考の及ばなかった、 《地中海エウローペ》 【図. 人と, 世田谷美術館, 123 頁, 1997 年 図9. 筆者撮影. 6】が他のエウローペ作品にどのように関わりがある. 図 10. 筆者撮影. のか、制作意図を探る必要がある。合わせて、実見調. 図 11. 筆者撮影. 査を行い、1975 年作《渚のエウローペ(中) 》 【図 4】. 図 12. 筆者撮影. の地山の造形が、心棒の制作後にどのように行われて. 図 13. 筆者撮影. いたのかなどの、制作プロセスを含めた多角度的な作. 図 14. 図 8 同書, 113 頁. 品の考察が必要である。. (2020 年 5 月 15 日原稿受付,2020 年 10 月 9 日採用決定). 註 註 1 宍戸美咲:彫刻家・淀井敏夫の造形 アルベルト・ジャ コメッティとの比較による一考察,芸術学研究第 23 号,61 頁,2018 年. 8 40. Journal of the Society of Art and Design, no.1, 2020.
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