「
徳
島
に
来
る
留
学
生
の
度
重
な
る
災
難
!
」
ーとくしま異文化キャラバン隊二
O
一
七
|
はじめに 今この稿を自にしてくださっている皆様に 質 問 で す 。 も し 、 ( も し で す ) ム フ あ な た が 、 二O
歳くらいで外国のある地方都市に到着、す ぐに「お祭りの人出が足りないので助けに来 てほしい!」と頼まれたらどうしますか?こ の国を何でも見て聞いて感じてやろうという 思いで、「行きます!」と、その国のことば で 応 え ま す か ? 想像を絶する過酷な祭り 来日後すぐの九月末の金曜日、生活と講義 履修のオリエンテーションの際に、先ほどの 問いかけが徳島大学の交換留学生(一年の予 定)に投げかけられました。この祭りは、徳 島県の南部、(四国の右下部の太平洋側にあ る)美波町の日和佐地区で江戸時代から続く 豊漁豊作を祝う八幡神社氏子の祭です。二O
一七年は十月七、八日の土日の二日に渡って 行われました 。 七日、徳島市内からパスで約 一時間半、宿泊先の海沿いのホテル「白い燈 A 己に到着 、 参加者全員総勢五O
名で写真を 撮ったあと、海岸近くに移動し、助っ人で入 る 町 ( 本 町 と 西 新 町 ) に 配 属 さ れ ま す 。 日 和 佐 地区の八つの町(戎町・西新町・桜町・東 の の ブ 「 汁 Nl三
隅
友
子
( 徳 島 大 学 教 授 ) 町・本町・中村町・奥河町・恵比須浜)が各 町「ちょうさ」と呼ばれる太鼓屋台を持って い て 、 これを担いで一日目は町廻りをしま す。現在は担ぐ部分の下に車があるのです が 、 一 九 五O
年 ご ろ ( 昭 和 二0
年 代 半 ば ) に は 人の力で担いでいたと聞きました。とはいっ ても二トン近くのちょうさと半日歩くことに なり、背の高い学生が肩の痛さを避けるため に中腰になると今度は腰に痛みが来て、半泣 きの顔も見られます 。 この一日目で担ぎ方の こつを学びつつ 、 地域の人たちとお当やさん (各町の女性が中心となって料理や飲み物の 用 意 を す る 女 性 組 織 ) の 接 待 を 受 け な が ら 、 休憩地点で共に飲んで食べてつながりを作り ま す 。 夜になり、海の見える露天風呂に入り、和 懐石の食事等 、 来日後初めての体験が続きま す 。 箸を使って初の生魚に挑戦したり 、 成 人 してからは人前では裸体をさらしたことがな い者も日本人学生に教わりながら、銭湯マ ナーを知ったりすることが続きます 。 この祭りの夜のイベントは宵宮への参加で す 。 真っ暗な中に提灯がゆらめく神社の境内 にて奉納の舞や子供の相撲や三番隻(幸せを 祈願する人形の舞)といった演芸を見なが ら、幻想的な日本を味わったあと 、 神社と大 浜海岸の闘で打ち上げられる奉納花火を楽し み ま す 。 間近で星の降るような花火の美しさ と音に留学生らはますます興奮状態になりま す。冷めやらぬままに 、 午後十時には、同室 の高校生や様々な固からの留学生と明日に備 え て 緊 張 し つ つ 疲 れ て 眠 り に 入 り ま す 。 八日の日曜日はいよいよ本祭り、「お浜出 (神社から海岸まで繰り出すこと「お入り (神社へと戻ることなります。十時開始、神 社を取り囲むように並んだ、それぞれのちょ うさの前で、宮司からのお被いの後、御神輿 に続いて八つのちょうさは「お浜出」に向か います。年によって町の順番が決まってい て、留学生が手伝う町は一番目と八番目でし た。この日は 、 太鼓屋台の下の車が取り払わ れ 、 五O
人近くの肩にかつがれて、順序良く 出発、まず境内を練り廻り、お浜出、金の神 輿と八つのちょうさが海岸に並ぶ姿は壮観で す 。 そ し て 再 び 神 社 に 戻 る 「 お 入 り 」 ま で 、 男たちとちょうさと海の闘いが繰り広げられ ま す 。 二O
一 七 年 は 天 候 に 恵 ま れ 、 明るい日差し と少し汗ばむくらいの気温で担ぎ手にとって は最高の状態でした 。 年によっては小雨の降 る肌寒い年もあれば 、 台風が来てお浜出が中 止になることもありました 。 ここでの試練 は 、 ちょうさが毎年同じルートをたどったり 同じようには動かないということです。まさ に人が操る生き物です 。 というのは 、 自 の 前 の 海 岸 に 一 体いつ入るのかは 、 誰にもわから ないのです 。 浜辺の定位置にたどり着く前に いきなり海へ入った り 、 帰りに入ると思われ て い た の が 、 担 ぎ 手のバランス等の判断で入 N o . 1 2 V o l . 7 0 2 0 1 8 きhJf,‘
ら な か っ た り 、 本当にドラマ があります 。 また波にあお られて、沖へ と流されそう になって 、 浜 辺 か ら 綱 を 使って総出で 手繰り寄せた り す る こ と も 。 い か だ の ように組まれ た担ぎ棒から 外れて、沖に 流されそうになった担ぎ手もいます 。 浮き輪 が投げられ命がけでっかまって戻ってくるこ ともあります 。 はいている靴が流されていく こ と も 。 見ている限りでは過酷としか言いよ うがありません 。 そもそもこの海岸はアカウミガメが産卵す ることで有名な遊泳禁止の場所です 。 と い う のは砂浜の部分は少なく急に深くなっている のが特徴だそうで 、 その意味でも泳ぐことが 禁じられています 。 この祭りのクライマック ス は 、 やはりこの浜辺での八つの町のちょう さと海が作る動きと言えます 。 ちょうさを担 ぐ全員が患を合わせること 、 動きのとれない 海の中で、自分の命を守ること 、 こ の 苦 難 を 乗り越えて町同士が競い合って海と闘うドラ マ を 繰 り 広 げ ま す 。 何年か前には 、 まさか海に入るとは思いも しなかった留学生(伝えであったはずなので すが)が海に入る寸前に 、 財布と携帯が危な お浜出 い!やばい!ことに気が付いて 、 わ ー ! と 叫 びながら浜辺に投げ捨てたことがありまし た 。 そこはすぐに、見守る女子学生がキャ ッ チして預かることに 。 ぞれ以来担ぐ男子は女 子に貴重品を委ねる方法を採ることになりま し た 。 またある年には 、 ラ オ ス 、 モ ン ゴ ル 、 ブ ル キナファソからの学生が感動したことを伝え てくれました 。 この三つの国には共通点があ り ま す 。 そうです、彼らの母国は海が無いの で す 。 ま さ か 、 祭 り で 海 に 入 る と は 思 わ ず 、 海水が塩辛いというのを初体験し 、 本当に驚 いたとのことで 、 おそらく信じないだろう自 国の家族や友達へ 、 画像と共に自慢したと聞 い て い ま す 。 全身びしょびしょになりながら順番に神社 へと帰る「お入り」も 、 すんなりちょうさの 格納場所の太鼓納屋に納まるものではありま せ ん 。 太鼓若連中 (ちょうさの運行管理の責 任 者 ) の指揮の下、納得いく担ぎができるま で 何 度 も 、 奉納の動きを繰り返します 。 祭りを支える音魂 ちょうさは五層のふとんの下に 、 太鼓と囚 人の打ち子が乗り込み 、 町ごとに違うリズム を 、 担ぎ手が動くと同時に叩き始めます 。 担 ぎ手と共に海に入り 、 叩き続けるこれもまた 過酷な試練ともいえるでしょう 。 掛け声は 、 次 の 三 つ 、 まず「イッサンジヤ イ」意味は「勇んで行くぞ」で 、 一 般 的 に 使 う掛け声です 。 そ し て 。 太鼓が早く打ち鳴ら さ れ 、 ちょうさを高く上げるときの「サー セ|サ l セ|」とその後の「ヨイヤーサツ サ」の男たちの声が響き渡ります 。 お 祭 り が 終わってからも 、 参加した男性は太鼓の音と 「 サ | セ
l
サl
セl
」が身体に染み渡ってい る よ う で す 。 祭りのあと、大学内で何か困難 なことに取り組むときに、冗談で一人が 「サ | セl
サ 1 セ|」と言い出すとみなが合 わせるといったこともありました 。 状況から 生まれた共通言語となったかのようです 。 宮司の話によると 、 太鼓の音には罪や糠れ を取り除く力があるとのこと 、 お祭りに参加 しこの音魂のシャワーを浴びる効用もあるの かもしれません 。 留学生らがいだく様々な不 安を打ち消すようなパワーがあるのでしょ う 。 祭り後の彼らの表情は確かにすっきりし て い ま す 。 彼らは西新町のちょうさがお入りを済ませ ると、ホテルのお風呂で海水と砂を落とし 、 女性たちと合流して、八番目の町が最後にお ひらきをする前にこの地を去りました 。 二 日 間の緊張と疲労から 、 徳島市内にある大学へ と向かうパスの中では全員見事に眠り込みま す 。 N o . 1 2 西新町 V o l . 7 0 2 0 1 8 きIJf,h 2女性の役割 男性は何をしたらよいかがはっきり分かる この祭りですが、まさか男性だけを連れて行 くわけにはいかないと考えました。当初問題 となったのは、ちょうさを担ぐことができな い女子がどのように一日目の祭に関わるかで す。そこで二年目からは日和佐中学の生徒と 地域住民がグループに分かれ、町を歩き回 り、日和佐の魅力を伝える写真をそれぞれが 選ぴ、日本語・英語・中国語のキャプション を付けてフォトブックを、三年目にはフォト マ ッ プ の 作 成 に い た り ま し た 。 女性は自由に街を見て廻れることを活用し たわけです。出来上がったマップには 、 四 国 遍路二三番札所薬王寺からと 、 日和佐城から のこつの方向からの町を術敵した景色、漁師 町 ら し い 「 あ わ え ( あ わ い ) 一 車 の 通 れ な い よ うな狭い路地の総称」と古民家やお寺が選ば れています。この地域に住んでいる人にとっ ては当たり前のものが、留学生や都会の高校 生にとってはとても珍しいものであることも 地域の方々にわかっていただけたようです。 一 一 日 目 は 、 お 当 や さ ん の お 手 伝 い で 、 担 ぎ 手の休憩に合わせて飲み物や食べ物を笑顔で サービスしながら、男性たちをねぎらいま す 。 ここでの女性たちの感想は、祭りの中で ちょうさを担ぐ男性たちがいつも以上に魅力 的になる!(素敵な男性はより素敵に 、 そ う でない男性もそれ以上に濯しく)見えるとい うことです。祭りと女性の位置づけはいろい ろとあリますが、この祭りでは、女性も積極 的にお祭りに参加し、町全体で運営している という意識が、後世に伝える大切なものと なっています 。 八つの町の中で、子供、若者 、 壮年期、古 老そして女性の働きという役割を分担し、町 ぐるみで祭りを運営するという、地域のつな がる力と組織の在り方を確認することができ ま し た 。 成果はあったのか? すでにこの祭りには二
O
一 七 年 で 五 回 目 の 参加になります 。 既に二四か園、のべ二五O
人 が 参 加 し ま し た 。 一時は全町そろっての開催が危ぶまれた祭 り が ム フ も 実 施 が 可 能 と な っ て い る の は 、 祭 り を支援する「ちょうさ保存会」をはじめとす る様々な組織の努力のたまものと言えるで しょう。担ぎ手を広く募集することに加え て 、 祭 りを被写体とするフォトコンテストを 実施し、選ばれた写真を使ったカレンダーの 作成も功を奏しています 。 特 に 二O
一 七 年 の 十一月のカレンダーには、キャラバン隊の女 子留学生四名が祭りを楽しんでいる写真が採 用されました 。 こ の 時 、 よ うやく女子留学生 参加の意味付けがなされたように思いまし た。こうして国際支流を含め、多くの人の参 加を目指した聞かれた祭りとしての知名度も 上 が リ ま し た 。 そ し て こ の 年 第 一 一 一 回 ふ る さ とイベント大賞(一般財団法人地域活性化セ ン タ ー 〉の「ふるさとキラ リ大賞」を受賞す ることになったのです 。 受 賞理由に外国人参 加を積極的に促し 、新たな 地域活性化の姿を 提示したことが挙げられています。これも成 果と言えるのではないでしょうか 。 また今年で六年目を迎えるムフを振り返る と 、 受け入れ側の戸惑いが年を重ねるごとに 変わってきているのも実感しています 。 例 え 3 ぱ、最初はイスラムの学生の食事に関して、 事細かにお願いをしていたのですが 、 「 今 回 はイスラムの方は何名いらっしゃいます か?」「他の宗教や文化で気を付けることが あればお知らせください」の声がホテルの予 約の際に聞けるようになりました。これは二 つの町のお当やさんの配慮から、用意した食 事が食べやすかったか、またどんなことに気 をつけたらよいのか等、受け入れが当たり前 と な っ て い る か ら で す 。 さらに、祭りを通した大学と地域のプロ ジェクトとして図のような関係が確実なもの となっています。予算に関しても 、 関 係 図 の 中の組織からの自助努力による捻出、または 県や協力団体からの支援等が少しずつ集まっ て実施が可能となっています 。 こ の プ ロ ジ ェ クトに関わる人たちが祭りという目的を通し て、それぞれの役割を確認し関係性を大切に するという 、 地域創生を目指す教育的な効果 が互いに確認できているように思います。 N o . 1 2 V o l . 7 0 2 0 1 8 きIJf,h 自和維の怠カ,S見! :fa~工タト鑓係鶴とくしま異文化キャラバン隊とは? そもそも、発端は 、 二