• 検索結果がありません。

日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10) -戦時編制概念の転換と師団体制の成立-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10) -戦時編制概念の転換と師団体制の成立-"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10) −戦時編制概 念の転換と師団体制の成立−. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要, 人文科学・社会科学編, 59(2): 43-58. Issue Date. 2009-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/967. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第59巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.59,No.2. 平成21年2月 February,2009. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10) 一戦時編制概念の転換と師団体制の成立−. 遠 藤 芳 信 北海道教育大学函館枚社会科教育研究室. Wartime Organization and Thought of the Mobilization Program. beforetheRusso−JapaneseWar(10) ENDO Yoshinobu. DepartmentofSocialEducation,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本研究は日露戦争(1904∼1905年)に至るまでの日本陸軍の戦時編制の歴史的変遷と成立過程を明らかに しつつ,そこにおける動員計画思想を考察することを目的にしている。本稿は特に1882年からの軍備拡張方 針化による軍隊編制改編の頂点としての1888年5月の師団司令部条例制定を基本にした師団体制成立につい て,監軍部・鎮台制度廃止と新たな監軍部の設置及び戦時編制概念の転換に注目しつつ解明するとともに,. 戦時編制表の統一的集成化が着手され,戦時編制の成立萌芽に至ったことを考察するものである。. 23 柑86年の監軍部廃止と柑87年の新監軍部設置一戦時編制概念の転換一 平時における師団の配置(師団常備化)の萌芽は,1882年軍備拡張の方針化決定にもとづき,鎮台体制下 の1884年5月制定の「七軍管兵備表」・「諸兵配備表」と「歩兵連隊改正着手順序」等によって策定された 歩兵連隊等の逐年の兵力増加の計画進行にあった。すなわち,1885年4月に東京・大阪の各鎮台を師団とし, 1888年4月に仙台・名古屋・広島・熊本の各鎮台を師団にするという年次進行計画であった。 以上の師団常備化の方針化進行は前稿で述べた通りであるが,1885年の監軍部条例と鎮台条例の改正及び 参謀本部条例改正における陸軍の三つの官街の整備によって,監軍及び鎮台司令官の出帥準備の職務権限が 明確化され,参謀本部の出師計画の主管局(参謀本部第一局)が設置されたことの意義は大きい(鎮台体制 の完成と出師準備管理体制の第一次的成立)。さらに,師団常備化の方針は,対外的・軍事的な緊張と「危 機意識」の世論操作をともないつつ軍備強化のもとに進められたことはいうまでもない。すなわち,特に東 アジアにおいて,清仏戦争勃発(1884年6月∼1885年6月)と1885年4月におけるイギリス海軍の朝鮮国巨 文鳥(済州島の東北約38マイルに位置し,1887年1月までの占領)の占領を契機にして,①1885年7月2日. 43.

(3) 遠 藤 芳 信. に広島鎮台管轄下の歩兵1個中隊の対馬分遣の「御沙汰」が下され,丸亀営所から歩兵1個中隊が派遣され (半年後に熊本鎮台の歩兵1個中隊と交代),(彰同年10月6日の鎮台条例中改正において,「七軍管霞城表」 中に,沿海諸島喚防禦の分骨地として小笠原島,佐渡,隠岐,大島,沖縄,五島,対馬を追加規定し,③1886 年11月に警備隊条例を制定し(上記②の分骨地で五島を除く島喚に警備隊を置く),同時に対馬に同条例施 行を閣議決定して警備隊を置き(歩兵1個中隊,砲兵1個小隊),④1886年11月設置の臨時砲台建築部のも とに,1887年に対馬の海岸防禦砲台築設が着工され(参謀本部は前年9月に対馬防禦法案を策定),翌年に 竣工し,⑤1887年3月の天皇の「沿海防禦」の勅諭と30万円下賜に対応した「防海費醸金事業」に着手し, 翌1888年2月までに計213万円余が献金される,という軍備強化が進められた。以上の中で,特に対馬への 警備隊設置と海岸砲台築設及び「防海費醸金事業」等はあらためて詳細な別痛が用意されなければならない。 さて,師団常備化の方針は,常備軍の成立・維持に関する基本的制度の陸軍建制に対する転換と整備を求 めることになった。その中で重要なのは,戦時を基準にして陸軍建制を組み立てる論理とともに(戦時を正 格にして,平時を変格にする),平時の団隊編制と戦時の団隊編制とを分画・整合させることであり,具体 的には従来の監軍部及び鎮台の廃止と新たな監軍部設置及び歩兵連隊等の戦時編制表の統一的集成化であっ た。 (1)1886年の監軍部廃止. 1886年7月24日閣令第27号によって,1878年から設置されてきた監軍部の廃止が公布された。監軍部は前 端で述べたように(1),1885年監軍部条例によって,全国6個軍管を3つの監軍部に統轄させ(東部監軍部, 中部監軍部,西部監軍部),各監軍部には監軍(大中将1名)を匿き,監軍は天皇直隷のもとに管下の軍令 内容の執行と出師準備及び軍隊検閲を職務とし,有事には軍団長の職につき,管下の2個師団を統率すると 規定された平時・戦時の二重職制の陸軍官街である。ただし,同条例制定時以降,監軍は欠員であり,陸軍 卿・陸軍大臣が同事務を執行することになっていた。以上の監軍部は平時を基準にした官街であり,監軍の 軍令内容の職務執行の立場は,特に平時には陸軍卿・陸軍大臣と鎮台司令官との間の中間部に位置した。 監軍部廃止の契機は,周知のように,当時の陸軍大学校雇教師のプロイセンドイツ陸軍少佐メッケルの意 見書に負うところが多いとされてきた。メッケルの意見書は主に,(丑ドイツの師団は平時には歩兵と騎兵を もって編成し,戦時には全兵科をもって編成するが(ただし,砲兵を属させるのは僅少),日本の師団は平 時も全兵科をもって編成し,出師準備に際しても「輪重諸縦列ヲ統轄シ以テ師団ヲシテ独立ノ動作ヲ為スヲ 得セシムルノ制ナリ」と,配置計画進行上の師団の戦時兵力行使における独立的動作の完結性を強調し,② 日本の2個の師団を結合・統轄する監軍部(戦時は軍団)の平時の業務は繁多でなく,戦時の戦力衆束は実 施できないので軍団・監軍部として編束する必要性はなく,現行3個の監軍部・軍団の設置・維持は今後の 陸軍拡張にとっては困難であると述べ,③今後の監軍部は陸軍の教育全体と検閲等を統轄する新たな監軍(中 将又は歩兵科将官1名,天皇直隷,陸軍大臣と参謀本部長と並立)の配下のもとに,特別の兵科(騎兵,砲 兵,工兵,輪重兵)を統監する監部(各長官は大佐又は少佐1名)によって構成される官街として改正すべ. きと指摘した(2)。ここで,特にメッケルの指摘の①の師団の戦時兵力行使における独立的動作の完結性は, 日本陸軍の師団は戦時に臨時に特設される建制のもとに,1881年制定の戦時編制概則において(3),戦時兵 力行使完結のための帥団本営・諸部(機関)・職務等が規定されたことにもとづいていた。そして,以上の 戦時特設の日本陸軍の師団の建制は,1886年1月改正の戦時編制概則においても維持されていた。 さて,メッケルの意見書における現行の監軍部の廃止(教育・検閲及び特別兵科の統監を基本にした新た. な監軍部の設置方針)の方向性は,1886年7月冒頭までに陸軍省及び参謀本部の了承を得ており(4),山県 有朋中将は「各兵監部設置 監軍部条例改正接」(全18条,「監軍部職官定員表」〈監軍は大中将1名,総監部・ 砲兵監部・工兵監部・騎兵監部・輪重兵監部の部員総計45名〉)を起草した(5)。ただし,現行の監軍部の廃. 44.

(4) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10). 止と新たな監軍部の設置方針は,陸軍検閲条例と検閲に連関する陸軍武官進級条例の改正に波及する問題で あり,陸軍省は7月7日に2件の上奏案を起案し,同日に内閣に送付した。添書も含む陸軍省起案及び内閣 宛送付の2件の上奏文案は,①「検閲条例井進級条例改正内閣へ上奏接 陸軍省官制陸軍検閲条例井陸軍武 官進級条例別冊之通加除井二改正相成度此段及上奏候也」(陸軍省送甲第2295号),②「監軍部被廃度上奏接 陸軍省官制陸軍検閲条例井陸軍武官進級条例加除井二改正接及上奏候付裁定ノ上ハ監軍部被廃度此段及上. 奏候也」(陸軍省送甲第2296号)とされるように(6),陸軍検閲条例と陸軍武官進級条例の改正をふまえた上 での監軍部廃止の手続きをとろうとした。したがって,監軍部廃止の理由は陸軍検閲条例改正の理由に総括 的に記述された。すなわち,陸軍省の陸軍検閲条例改正の理由書は,軍備拡張の結果,「兵員大二増シ兵種 漸ク備ハリ各鎮台ハ師団常置ノ勢ヲ成シ」「我邦ノ勢ヲ察スルニ姑ク師団ヲ以テ軍隊ノ最大単位トナササル ヘカラス」と述べ,軍政・軍令内容執行上において「中間部ヲ要セサル」ことは明確であるとして,監軍部. の不要を指摘した(7)。7月10日の閣議において,監軍部廃止案件と陸軍検閲条例及び陸軍武官進級条例の 改正案が回議に供され,伊藤博文内閣総理大臣は同14日付で監軍部廃止を上奏し,裁可された(8)。監軍部 の廃止は監軍部の監軍(平時)=軍団長(戦時)の二重職制の不要・廃止を意味した。これにより,同じ鎮 台体制下の鎮台司令官(平時)=師団長(戦時)の江戸時代的な二重の混成的職制体制の不要・廃止も必至 になった。. (2)1887年における平時戦時の歩兵連隊編制表等の制定 1885年鎮台条例は附表として「七軍管兵備表」を付けていた(第二表)。それによれば,軍管内の兵備は, 常備軍と後備軍に区分され,常備軍はさらに「戦列隊」(12個の歩兵旅団と24個の歩兵連隊,6個の騎兵連隊, 6個の砲兵連隊,6個の工兵大隊,6個の輪重兵大隊,要塞砲兵∼編制未定・欠)と「補充隊」(6個の歩 兵大隊,騎兵・砲兵・工兵・輪重兵は各6個中隊)に区分された。後備軍は戦列隊から歩兵旅団を除いた兵 科隊号の兵備にもとづき編成される計画であった。この場合,戦列隊の基本・中核になる歩兵連隊等の編制 表においては平時と戦時の明確な区別がなく,歩兵では平時の歩兵一連隊編制表のみが制定されていた。 そのため,参謀本部長職仁親王は1886年9月13日付で陸軍大臣に対して平戟両時の各歩兵連隊編制表を制. 定したいとして協議した(9)。参謀本部長の協議書は「現今頒布相成居候歩兵一連隊編制表ノ義ハ乎戟両時 之区別無之単二備考中二於テ戦時増加ヲ要スル人員ノミヲ記載シ随テ隊属輪重人馬及ヒ補充大隊編制ノ如キ 戦時必須ノ要員ヲシテー目瞭然ナラシムル能ハス且遂二条例等ノ改正モ有之此度審査之上更二平戟両時ノ編 制ヲ区別シ尚之二補充大隊編制表ヲ付加シ其平時ヨリ戦時二移ルノ際煩擾ナカラシメンコトヲ期ス其戦時編 制表二在テハ隊属行李及ヒ各将校二従属スル人馬ノ如キモ之二記入セシヲ以テ現今頒布ノ編制表二多少ノ変 更ヲ要シ候」云々と述べ,「歩兵連隊編制換意見書」「歩兵一連隊平時編制表草案」「歩兵一連隊戦時編制表 草案」「歩兵補充大隊編制表草案」「歩兵連隊将校下士卒戦時充足草案」「補充大隊幹部混用員数表」「歩兵後. 備連隊及衛戊大隊人員表草案」を添付したものである。ここで,現今頒布の歩兵一連隊編制表とは,1884年 5月24日改正の歩兵一連隊編制表(1886年5月28日一部改正)を指し,戦時は連隊に少佐1名が増置された。 また,1個中隊で兵卒88名を増員し(内訳は炊事掛上等兵4名,銃卒76名,鍬卒6名,嘲臥卒2名),1個. 中隊の兵卒合計は208名になり,1個連隊総員は2,496名(平時は1,709名)とされた(10)。つまり,戦時の 兵力増加対応とは,平時の兵卒員数の単純増加を企図するのみであった。なお,上記の参謀本部起草の編制 表草案は不明であるが,制定・頒布の編制表とほぼ同一である。陸軍大臣は翌1887年1月7日付で参謀本部 長協議に対して異存なしの回答を発し,上奏・裁可を経て,2月4日陸達第10号をもって歩兵一連隊平時編 制表と歩兵一連隊戦時編制表及び歩兵補充大隊編制表の制定を達した。それで,以上の制定・頒布の編制表 等にもとづき平時戦時の両歩兵連隊編制表を検討しておく(11)。 第一に,平時歩兵一連隊編制表(1個連隊は3個大隊・12個中隊から編成)は,①1884年からの歩兵連隊. 45.

(5) 遠 藤 芳 信. 等増加の年次進行で計画された連隊本部の設置方針にもとづき,編制表中に「連隊本部」(及び「大隊本部」) を置き,少佐1名(連隊附)を増置し,乗馬も連隊本部と大隊本部の副官(中尉1名)以上の各職員に1匹 (計9匹)をつけることを明示し,②1877年の歩兵一連隊編制表規定以降に置かれた簡易な土木作業に従事. する鍬兵編制(3個大隊編制の1個連隊では総計100名)の廃止方針にもとづき(12),連隊本部の「鍬兵司令」 (中尉1名)を削除し,鍬卒人員分を銃卒に振り分け(1個中隊兵卒人員計120名は増減なし),③看護卒は 各大隊附(計9名)でなく,各中隊附(計12名)に変えて増加させ,縫工・靴工の員数は記載されなかった が,備考欄において中隊の銃卒には少なくとも縫工・靴工卒各2名を含めると記載し,④1個連隊合計で総 員1,689名とされ,現行よりも20名の減になった。ここで,鍬兵編制の廃止・改定の理由は,同じく参謀本 部長の9月13日付の陸軍大臣宛の「戦術上ノ需用二応シ難シ」とする協議の旨趣において示された(陸軍大. 臣は1887年1月7日に異存なしの回答)(13)。すなわち,今日,火器の効力は猛烈になり,攻守共に露身し て交戦することはできず,戦闘中に天然の遮障物や人為の掩蔽物を利用し,掩蔽作業を急速に施行しなけれ ばならなくなったとした。そのため,戦闘間に施行すべき「土工作業ハ歩兵一般之二任スルモノトシ」て, 従前の鍬兵の特殊作業(「壁藍束砦其他副防禦等」)で技巧を要する作業は各隊の下士・上等兵中から若干名. を選んで修習させれば足りる,と強調した。この結果,陸軍省は2月4日に従前の鍬兵作業は歩兵一般に練 習させことを達し,また,「歩兵土工及破壊器具表」(携帯器具く方匙・小十字鍬・手斧等〉,駄馬器具く円匙・ 十字鍬・斧〉)と「歩兵連隊作業器具表」を規定した(陸達第16,17号)。 第二に,戦時歩兵一連隊編制表(1個連隊は3個大隊・12個中隊から編成)は,①平時の連隊本部職員の 武器掛・嘲臥長各下士1名や大隊本部職員の武器掛・書翰掛の各下士1名は戦時には不要の職務であるので 除き,戦時の連隊本部に従卒1名・馬卒4名,乗馬4匹,戦時の大隊本部に馬卒3名,乗馬3匹を付け,炊 螢は戦時に最も煩忙を極めるので大隊本部に上等兵2名を増員し,②現行編制表における平時の1個中隊兵 卒120名に対して,戦時の1個中隊兵卒208名は過多すぎて補充大隊の要員確保は苦しいとして,戦時の1個 中隊兵卒を200名と減員を表示し,③大隊本部に輪重兵下士1名・乗馬1匹,輪重兵卒3名(小行李1,大. 行李2)・同乗馬3匹(小行李1,大行李2),輪重諭卒51名(小行李19,大行李32)・同駄馬51匹(小行 李19,大行李32)を付け,輪重諭卒の行李駄馬の配当品目内訳は小行李が弾薬(16匹)・衛生材料(1匹)・. 工具(2匹),大行李が本部荷物(6匹)・中隊荷物(4匹)・炊具(8匹)・糧殊(14匹)と示し,1個 大隊兵員数(上等兵・1等卒・2等卒の階級者で,分隊長・分隊副長・銃卒・嘲臥卒からなる)を計802名 とし,④1個連隊合計で職員総員2,811名,従卒・馬卒23名,馬匹185匹(乗馬13,駄馬172)になり,後備 歩兵連隊の編制も本表に異なることがないと規定した(ただし,小行李の弾薬駄馬をつけない)。以上の戦 時歩兵一連隊編制表の大小行李と駄馬の配当根拠は特に示されていないが,1886年11月中旬に駄馬の負担能 力等も含む戦時諸兵大小行李輸送試験も実施されたこともあり,こうした輸送・行軍試験結果も参考にされ. たものと考えられる(14)。 なお,歩兵補充大隊編制表(1個大隊は4個中隊から編成)においては,兵員は予備兵による戦列隊連隊 の戦時定員を充足した残員をもって編成するものであり(1個中隊兵卒200名),1個大隊の職員数は戦時歩 兵一連隊編制表から輔重兵・輔重諭卒(以下,輸卒)等を除いたものとほぼ同数の総員878名と規定された。 この後,平時戦時の各歩兵一連隊編制表の制定を皮切りにして,同2月4日の平時戦時の各工兵一大隊編制 表と工兵補充中隊編制表(陸達第11号),同4月26日の戦時工兵隊に編成すべき野戦電信隊編制表と兵端電 信隊編制表(軍用電信隊は廃止),及び戦時の工兵隊と輪重兵隊に編成される大小架橋縦列編制表(陸達第50, 51号),同12月22日の工兵隊電信術教育仮手続と軍用電信術教育仮規則(陸達第150,151号),同12月31日の 平時戦時の各騎兵一大隊編制表及び騎兵補充中隊編制表,が制定された(陸達第163,164,165号)。. 46.

(6) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10). (3)戦時編制概念の論理転換一戦時編制表の統一的集成着手と武官カテゴリーの本格的成立− 1887年2月の平時戦時の各歩兵一連隊編制表の制定・表示化の意義は大きい。これは,平時人員を数的に 増加させて戦時人員にするという人員の数的増加の問題だけではない。平時戦時の各歩兵一連隊編制表は, 戦時編制の策定における戦時編制自体の概念や策定手続きに関する基本的認識の転換を土台にして制定・表 示化したものである。本研究で桂々述べてきたが,従来の歩兵・騎兵・工兵・輪重兵の連隊・大隊の戦時編 制表はなく,基本的には平時人員を基盤にした戦時の増員人員数が記載されてきた(砲兵は1875年に戦時一 大隊の編制表を規定・表示)。戦時人員は平時人員の数的増加として認識されてきた。しかるに,1886年7 月の監軍部廃止により,監軍(平時)=軍団長(戦時)の二重職制が不要・廃止され,1888年からの鎮台廃 止と師団常備化を迎え,戦時編制と平時編制の策定をめぐる論理関係が転換した。すなわち,陸軍建制とし て,戦時編制とその戦時人員算定を基盤にして平時人員を算出し平時編制を策定するという論理に転換した。 第一に,1888年7月末から1889年3月の間に参謀本部が作成した「師団諸兵隊編制兵員計算概旨」は,冒 頭で「凡ソ編制ヲ走ムルニ方リテハ先ツ戦時編制各兵種ノ比例ヲ走メ而ル後各兵種毎二要スル所ノ人員ヲ走 ム是レ戦時編制ノ定員ナリ此定員二応シ新兵二換ルヘキ補充貞則チ我邦各兵卒ノ現役年限ハ三年ナルヲ以テ 三分ノーノ人員ヲ算入シ常備役ノ年限七年ヲ以テ除シタルモノハー年ノ徴員トシテ之二三ヲ乗スルモノ平時. ノ定員ニシテ平時編制ノ走マル所以ノ基礎ナリ」と記述している(15)。ここでの編制は狭義の編制であるが, 編制自体の淵源を戦時に置き,戦時人員算定と戦時編制の組み立てを基準にして平時編制・平時定員を算定 することを強調している。この算定方法は,たとえば,平時編制が制定された場合に,その時々の定額金・ 財源の制約によって平時定員が減少しても,戦時の要員が減少されることはないという特質がある。. 第二に,戦時編制の概念自体が,戦時の軍隊現場の機関・諸官の職務・業務の組み立てを基準にするので はなく,戦時における団隊の司令部を含む諸隊・機関の編成とそれらの定員数・人員数の算定を基準にした 編制表の統一的集成として組み立てられることに転換した。つまり,戦時編制は,戦時における諸隊・機関 の定員・人員の編制表の統一的集成を基盤にした戦時兵力行使体系の独自の組み立てを意味するに至った。 第三に,編制自体の淵源・基準を戦時に置くことによって,各兵科の内務書(1885年6月歩兵内務書第四 版,1885年12月騎兵内務書第二版,1885年6月砲兵内務書第三版,1882年12月工兵内務書第一版,1882年2 月軍用電信隊内務書第一版は,平時における各兵科隊の具体的な編成手続きを規定)は,1888年10月に陸達 第197号の軍隊内務書として統合・編集されるに及び,従来の平時編制密着の定員・人員の記載・規定及び 各隊の編成手続きの記載・規定は削除された。従前の各兵科の内務書は平時の兵営内の職務・業務・活動を. 規定し,その職務・業務に従事する人員の平時編制の淵源・基準は平時の行政的活動(あるいは行政的活動 の類似・延長)にあったとみてよい。しかるに,平時編制の淵源・基準を戦時と戦時編制に置くことによっ て,各兵科の内務書の統一的編集の軍隊内務書は,平時編制上の定員・人員の記載・規定の根拠を失った。 同時に,この結果,各人員の兵営内の職務・業務自体は行政的活動や行政的職務・業務の類似・延長的性格 を希薄化させるに至り,戦時における「紀律」「秩序」を名目にした服従体制に全面的に包まれることになっ た。その上で,1888年軍隊内務書は連隊に「連隊将校ノ集会所」を設けて連隊将校の「団結」を図るために,. 特権的な「連隊将校団」の成立を規定し(第4章第4条),後述のように将校団成立の官制化を推進した。 第四に,これより先,1885年6月の鎮台職官定員表と営所職官定員表の改正により諸隊人員の性格が官職 上の定員・人員の認識から離れ,編制上の定員・人員から認識されるに至ったことは静稿で述べた通りであ る。この場合,さらに編制上の定員・人員からみれば,上記の監軍部廃止と後述の鎮台廃止は,平時と平時 編制を基礎とするトップ司令官(平時の監軍と戦時の軍団長,平時の鎮台司令官と戦時の師団長)の二重職 制の廃止を含めて,鎮台体制が内包・維持してきた江戸時代的な平時・戦時の混成的な二重職制全体の象徴 的廃止を意味し,特に戦時と戦時編制を基礎にする武官カテゴリーが本格的に成立したことを意味する。. 47.

(7) 遠 藤 芳 信. 武官カテゴリーの本格的成立とは,あくまで,近代行政体系下の一般文官の行政活動と対比したものであ り,平時の軍隊現場の隊付き将校の職務・業務から行政的な部分や観念が喪失あるいは狭隆化させられたこ とを背景にしたものである。軍隊現場の隊付き将校における行政的観念や行政的職務・業務の視野範囲には, 占領地行政や戒厳業務及び戦時徴発等の特殊なものが残され,平時には特定の将校が従事・担当する兵役・ 軍事負担(徴発等)・軍事司法・会計経理や官街機関(工廠,病院等)等の職務・業務が中心になった。こ の結果,平時の隊付き将校を基本にした職務・業務の自己規定化が将校団成立を基盤にして始まった。これ らの自己規定化は,出師名簿編纂が進み,出師準備管理において,戦時編制の団隊・諸部の職員表に将校の 当該個人名が記載されるとともに,新たな特権的な将校団における人事管理の自己完結的な進級制度と合体 した。. 陸軍武官の新たな自己完結的な進級制度は将校団成立の官制化推進に包まれた。すなわち,従来の中尉少 尉の進級区域は当該兵科を一まとめにし,定期検閲後の陸軍大臣・陸軍次官・参謀本部長等の会議において 進級順序の決定候補名簿を作成していたが,1889年5月6日勅令第61号陸軍武官進級令制定による進級制度 は新設の「将校ハ職権二依テ部下ヲ抜擢スルノ権ヲ有ス」(第8条)という団隊長・所属長官の職権拡張方 針にもとづき,特に隊付の少尉を中尉に,さらに中尉を大尉に進級させる補除範囲を「各将校団」に置き, 抜擢進級の方法としての被抜擢者の技傭証明は下記の将校団教育令規定の隊付勤務や冬季作業等を資料にす ることを規定した(1889年5月8日陸達第76号陸軍武官進級取扱規則第1,5,12条)。ここで,特に隊付 の少尉・中尉の進級区域を各将校団に置いたことは,陸軍省内では「団隊自治ノ元素タル将校団ノ成立ヲ肇 固ニシ其価値ヲ増進セシムルルノ主旨ニシテ現行将校補充ノ制モ畢克之ヲ以テ基礎トナシタリ」(「改正理. 由」)と意義づけられた(16)。すなわち,新たな進級制度は1887年6月陸軍各兵科現役士官補充条例制定及 び陸軍士官学校条例改正において,将校団の後継者養成としての士官候補生制度による新たな陸軍各兵科現 役士官の補充制度を基礎づけ,将校グループの再編と将校団の新結集と成立の客観的な基盤・背景になった。 ちなみに,自己完結的な進級制度によって支えられる将校団の諸規定として,1889年5月17日陸達第86号 将校団教育令,同陸達第87号将校団教育実施教令,1889年5月監軍訓令第2号将校団教育訓令が制定された。 そこでは「将校ノ貴重ナル所以ノ者ハ軍人精神アルニ由ル」(将校団教育令),「軍人精神トハ何ソ忠誠ナリ. 武勇ナリ信義ナリ義務ヲ守ルナリ質素ヲ主トスルナリ礼儀ヲ正フシテ軍紀二服従スル是ナリ軍人此精神アリ 故二能ク心身ノ労苦二堪へ能ク敵弾二対シテ動作ス凡ソ為ササル可ラサル任務二当リテハ全力ヲ褐シテ之ヲ 完了シ恥ヲ知り名ヲ惜ミ生ヲ捨テテ義ヲ取ル者此精神アルニ由ルナリ」(将校団教育訓令),と「軍人精神」. を自己規定化し,標模する特権的な将校団の成立を目ざした。「軍人精神」は1889年9月頒布の野外要務令 草案の「綱領」において「義務ヲ守リテ死生ヲ顧ミス」と規定され,死が美化された。その後,兵科の将校 団教育と同様に,1889年6月陸達第98号監督部軍吏部衛生部獣医部将校相当官教育令が制定され,同年6月 から7月にかけて,陸軍軍吏部士官教育訓令,陸軍衛生部士官教育訓令,陸軍獣医部士官教育訓令が規定さ れた。また,将校団成立の官制化推進は,後述の1887年陸軍省官制改正において総務局に人事課が新設され たことによる陸軍の人事事務体系構築の整備・集権化着手によって後押しされたとみてよい。 (4)1887年の新たな監軍部の設置・と陸軍省官制改正及び砲兵会議・工兵会議の改組一兵科専門の調査 研究審議立案事務管掌開始と人事事務体系の集権化・一元化推進− 1887年5月31日に勅令第18号によって新たな監軍部条例の制定が公布された(全14条)。新たな監軍部は「陸 軍軍隊練成ノ斎一ヲ規画セシム」(第1条)と規定され,その長官の監軍(大将又は中将)は天皇に直隷し, 軍隊教育を統轄する機関とされた。それ故,1887年からの監軍部は,従前の1878年12月制定の監軍本部条例 と1885年5月制定の監軍部条例による軍令内容執行機関としての監軍本部・監軍部体制とは性格が異なる。 また,同5月31日に勅令第20号によって軍事参議官条例の制定が公布された。それによれば,軍事参議官(陸. 48.

(8) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10). 軍大臣,海軍大臣,参謀本部長,監軍)を「椎帳ノ中二置キ軍事二関スル利害得失ヲ審議セシム」(第1条) とされた。ここで,椎幌は本来的には戦時の軍隊統帥のための天皇直結機関であるが,特に平時の機関であ る監軍を軍事参議官の構成員に加えることによって,「椎帳」の法令的概念を平時にまで拡張させた。 さて,1887年からの監軍部には,監軍の下に,将校学校監(少将,陸軍大学校を除く諸将校学校等を統轄. し,士官学校幼年学校を管轄する),騎兵監(少将又は騎兵大佐),砲兵監(少将又は砲兵大佐),工兵監(少 将又は工兵大佐),輪重兵監(少将又は輪重兵大佐)が置かれた。この中で,各兵科の連隊・大隊等を統監 する各兵監の職務内容は重要である。たとえば,砲兵監は「本科二関スル事項ヲ調査研究審議シ遊二立案ス ルコトヲ掌り砲兵会議砲兵射的学校ヲ管轄ス」とされ,工兵監は同様に「本科二関スル事項ヲ調査研究審議 シ遊二立案スルコトヲ掌り工兵会議ヲ管轄ス」と起案された。つまり,各兵監は当該兵科の専門的技術関係 内容の進歩改良に関する調査研究審議立案の体制が組み立てられたことである。したがって,従来の陸軍省 の騎兵局(1885年3月設置の輪重局は1886年2月に騎兵局にほぼ吸収・統合されて廃止)・砲兵局・工兵局 が管轄してきた当該兵科の専門的技術関係事項に関する調査研究審議立案の事務管掌は分離され,監軍部の. 各監に移行される方向になった(17)。ただし,当該兵科の専門技術関係事項のすべてが陸軍省から監軍部に 分離・移行されたのでない。1887年5月31日勅令第19号の陸軍省官制改正では騎兵隊・砲兵隊・工兵隊の建 制・編制の調査事項や教育・演習関係の事務は削除されたが,たとえば,①騎兵局第二課は「輪重ノ編制二 関スル事項」「輪重車両其他ノ器具製造及備付二関スル事項」を,②砲兵局第一課は「砲兵会議二関スル事項」 を,③工兵局第一課は「工兵会議二関スル事項」を,同第二課は「歩兵工兵二属スル工具及工兵科ノ器具材 料調査及其経費予算調査二関スル事項」を事務分掌として規定した。すなわち,1886年2月勅令第2号の陸 軍省官制に改正を加えつつも,砲兵会議・工兵会議の専門的技術関係事項の調査研究審議立案については, 官制上では依然として陸軍省の騎兵局・砲兵局・工兵局も管轄することになっている。 これは,当時,1890年国会開設を前にした陸軍省の機構改革・行政整理(兵科毎の局を廃止し,各兵科の 事務を「軍務局」に統一的に管轄する)を目ざす桂太郎と,機構改革に「躊躇」する大山巌陸軍大臣との間. の意見相違の「折衷」の延長的措置とみられてきた(18)。しかし,砲兵・工兵等の専門的技術関係事項は軍 隊現場の特に兵器・弾薬・材料・器具等の技術的改良に関わるものが多く,軍令内容としての戦時編制と出 師準備に密接に関係するものである。陸軍省官制上で存置された砲兵局と工兵局の両局は,依然として,軍 令内容としての出師準備に関わる砲兵・工兵等の専門的技術関係事項の管轄に関与していた。ただし,翌1888 年5月19日勅令第38号の砲兵会議条例改正及び同第39号の工兵会議条例改正は,砲兵会議(議長は砲兵大佐 1名)と工兵会議(議長工兵大佐1名)は監軍部の砲兵監や工兵監の管轄下のもとに「武器弾薬装具材料器 械及共用法ヲ調査議定シ」(砲兵会議条例第1条),「工具装具材料器械及共用法並二築城二関スル事項ヲ調 査議定シ」(工兵会議条例第1条),云々と規定し,議員の他に事務官組織を整備し,砲兵・工兵の専門的技 術関係事項の調査研究審議立案の権限を強化・占有した。なお,両条例の改正によって,一般の人民や軍人. からの陸軍所要の武器弾薬・工具材料等の発明・改良の出願手続きは想定されえないことになった(19)。 他方,上記の1887年5月の陸軍省官制改正は総務局に人事課を新設した。人事課は1879年の陸軍職制と同 陸軍省事務章程及び陸軍省条例で規定された人員局(将官参謀歩兵騎兵憲兵輔重兵の各兵科及び馬医部軍楽 部の人員調査を管掌)とは異なり,当時の総務局各課(特に第四課)で各々分掌していた種々の人事事務関 係事項を一括して管掌することになった。これは陸軍全体の人事事務体系構築(待命・非職を含む上長官・ 士官と下士の人事,抜擢名簿,上長官・士官補職命課訓条等辞令,出師名簿編纂,陸軍刑法・陸軍治罪法, 陸軍軍法会議,陸軍警察規則,陸軍懲治隊,倖虜,勲功調査,叙勲,恩給・寡婦孤児扶助料,褒賞,等)の 整備・集権化着手のあらわれである。その後,1890年3月の陸軍省官制改正において,同人事課は陸軍大臣 官房に置かれることになるが,人事事務体系の一元的な統轄化の推進を意味することになった。. 49.

(9) 遠 藤 芳 信. 24 柑88年における師団体制の成立過程一戦時編制の成立萌芽− 1882年からの軍備拡張方針化による軍隊編制改編の頂点が1888年5月における師団編制あるいは師団体制 の成立であった。師団は戦時の戦略・作戦単位の体系的な兵力行使組織である。師団体制とは,師団兵力の 平時戦時区分を画定し,戦時の戦略・作戦の体系的・継続的な名兵力行使組織を独自に明確化した上で,師 団司令部の編制・設置を含めて,平時と戦時の両兵力行使組織を総括的に維持・確保・展開する体制である。 以上の師団体制は下記の参軍官制等の陸軍全体の統帥系統上から位置づけられて成立した。 (1)1888年の参軍官制及び陸軍参謀本部条例の制定. まず,参謀本部長職仁親王は1888年4月20日付で陸軍大臣にすでに内議済の参軍官制及び陸軍参謀本部条 例と参謀職制の草案を協議した。陸軍大臣は4月26日付で異存無しの回答を発し,翌5月に軍事参議官(陸 軍大臣大山巌,海軍大臣西郷従道,参謀本部長職仁親王,監軍山県有朋)は現行の1886年参謀本部条例を廃 止して参軍官制を制定すべく審議可決し,参謀本部長職仁親王は直ちに上奏し(内閣書記官の裁可確認は5 月10日),5月12日に勅令第24号によって参軍官制の制定が公布された。また,参謀本部長俄仁親王からの 上奏を経て,同日勅令第25号による陸軍参謀本部条例の制定が公布され,参謀本部陸軍部は「陸軍参謀本部」 になった。なお,同第26号による海軍参謀本部条例の制定が公布され,参謀本部海軍部は「海軍参謀本部」 になった。現行参謀本部条例の廃止と参軍官制の制定の大意によれば,陸軍軍政トップの職名がその官街名 (陸軍省長官)でなく「陸軍大臣」になっていることに対応して,「帝国全軍ノ参謀長」も官街名でなくて「全 軍参謀長」の職名にすることが適切であるが,「冗長」であるとして,1885年10月陸軍文庫邦訳刊行の『仏 (⊃ 国陣中軌典』(1883年10月)中の「数軍一将ノ魔下二属スルトキハ其参謀長ハ大将若クハ中将ニシテ之ヲ参 マジョールジ⊥ネラール. 0 軍卜称シ」云々にもとづき,「参軍」と称することにしたとされる。参軍は「椎帳ノ機務二参画シ出師計画. 国防及作戦ノ計画ヲ掌ル」とされ,「戦略上事ノ軍令二関スルモノハ専ラ参軍ノ管知スル所ニシテ之力参画 ヲナシ」,親裁後の軍令は平時には直ちに陸海軍大臣に下し,戦時には師団長艦隊司令長官鎮守府司令長官 もしくは特命司令官に伝宣して施行させると規定された備1−3条)(20)。改称された陸海軍全軍の参謀 長としての参軍は,特にフランス陣中軌典の記述のように,戦時の数軍統帥下に置かれる参謀機関であるが, 1878年参謀本部条例による参謀本部体制が平時戦時混然一体化体制であったことの性格を含有・継承してい る。ただし,1888年参軍官制の参軍の語義はフランス陣中軌典のように戦時の陸軍の統帥機関であるが,海 軍の統帥機関(のトップ)も含めることに対しては,海軍からの疑義が出なかった。「参軍」の職名は在来 的には佐賀事件・台湾出兵・西南戦争にも置かれたこともあり(21),違和感が生じなかったと考えられが, 戦時の陸海軍統合の最高統帥官職を陸軍主導の下に設置する思想が官制上で公式に認知されたことを意味す る。なお,陸軍参謀本部条例は現行の参謀本部陸軍部を改組し,第一局は「出師計画及団隊編制」「交通法 ノ調査」に,第二局は「国防及作戦計画並二陣中要害ノ規定」「外国軍事ノ調査」に従事し,測量局を拡大 して陸地測量部と改称し,陸軍大学校とともに陸軍参謀本部の管轄下に置くと規定し,特に兵力の編制・動 員計画と国防計画との管掌区分を明確化した。ただし,上記の監軍部設置により,1885年参謀本部条例に規 定された陸軍の団隊一般にかかわる教育事項の調査規画を削除し,軍隊教育は当然に監軍部所管になった。 (2)1888年の師団司令部条例制定と鎮台条例廃止. 次に,同5月に陸軍大臣大山巌は鎮台条例の廃止と師団司令部条例の制定を上奏し(内閣書記官の裁可確 認は5月9日),同12日に勅令第27号をもって公布された。師団司令部条例は,師団長(中将)は直ちに天 皇に隷して師管内の軍隊を統率し,出師準備を整理し,徴兵等の軍事諸件を総理統括すると規定した(第1, 2条)。師団司令部は参謀部,副官部,法官部,監督部,軍医部,獣医部から成立し,これらの諸部を含む 師団司令部の職官合計は35名(監督部を除く)とされた。この場合,従来の鎮台司令官・営所司令官の管轄. 50.

(10) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10). 下に置かれた病院・武庫・監獄は,同12日勅令第30号衛戊条例制定によって,衛戊司令官(陸軍軍隊の永久 配備駐屯地を「衛戊地」と称し,当該永久配備駐屯地所在の最高級団隊長が司令官になる)の管轄下に入っ た。つまり,師団を戦闘現場直結の団隊・部から編成し,病院等の平時業務密着が強い官街を分離させたの である(22). 陸軍省作成の鎮台条例廃止と師団司令部条例制定の理由書は(23),第一に,鎮台条例廃止の直接的な理由 として,新監軍部の設置による鎮台司令官の職務・権限の消滅があり,また,徴兵令改正方針決定による鎮 台司令官の徴兵事務の職務への影響があると説明した(陸軍大臣は4月7日に海軍大臣に徴兵令改正を協 議)。第二に,在来の鎮台条例に関する総括的な認識や定義を示したことが特質である。すなわち,1873年 鎮台条例は「主トシテ平時地方鎮圧二係ル制度ニシテ建制上戦時団隊ノ編制卜相関スル所少ナク該条例中一 将官ヲ指シテ或ハ軍管司令将官卜云ヒ或ハ鎮台司令将官卜云蓋シ地方ノ事務上卜軍隊ノ統率上トニ付テ此称 呼ノ区別アルナリ」と説明した。ここで,1873年鎮台条例における鎮台の性格の歴史的・総括的な認識が示 されているが,なぜ,特に「平時地方鎮圧」と説明したのか。江戸幕府・徳川政権に代わる京都での明治政 権・新政府の樹立後,旧幕府勢力に対する明治新政府の「征討・東征・親征」の軍隊は特に戊辰戦争勝利に 象徴されるように,その軍事的制圧拠点と権力支配地域を東西に拡大した。しかし,その後,1871年廃藩置 県によって中央集権化と旧藩兵力の解体が進められたが,旧制士族勢力や民衆の反乱等は絶えず予想されて いた。鎮台は,明治新政府が権力支配地域の反乱等を想定した上で,地域を分割して軍事的制圧・鎮圧のた めに置いた所在庁舎も含む平時の臨時対応の地方軍政部的な官街である。つまり,当初の鎮台は戊辰戦争勝. 利の余韻の中で「親征軍地方軍政部」として発足した(24)。その上で,上記の理由書は,1870年以前のフラ ンス軍制(地方司令官と常備師団長との職務を異にする)にならって,当時は,地方軍政事務上の司令将官 を軍管司令将官と称し,軍隊統率上の司令将官を鎮台司令将官と称したと説明した。つまり,軍管・鎮台に 置かれた将官1名は,主に軍事的制圧・鎮圧を基盤・目的にする軍政上の長官と,軍隊統率上の長官の二重 の混成的職務を負うことになった。第三に,1879年鎮台条例改正において軍管司令将官の呼称を廃止し,鎮 台司令官のみの呼称を規定し,鎮台司令官は有事においては旅団長と定められ,鎮台司令官は地方軍事長官 を意味するとされた(上記の二重の混成的職制は変わらず)。そして,その後のフランス軍制改革において は常備軍団長が当該軍管の地方軍事長官になったことを説明し(戦時の軍団編制を基準にして平時の常備軍 団編制が成立し,平時戦時の軍隊建制が一致する),日本でも常備師団の編制・設置が進行したので,鎮台 や営所の官街・庁舎の名称を廃止し,師団司令部・旅団司令部の名称を付け,師団長は地方軍事長官として 師管内事務に従事する,と説明した。つまり,鎮台体制は平時の鎮台という官街の長官(地方軍事長官)が 有事・戦時に師団という兵力行使組織の司令長官(師団長)に移行したのに対して,師団体制は戦時の兵力 行使組織を基準にした平時の師団編制下の師団司令部の司令長官(師団長)が当該師管の地方軍事長官とし ての職務に従事することになった。軍隊の平時戦時の両建制が一致し,江戸時代的な二重の混成的職制体制 が最終的に廃止された。 (3)1888年の師団戦時整備表及び戦時師団司令部他編制表の制定一戦時編制の成立萌芽一 上記の師団体制は同時に戦時編制を内包し,あるいは直ちに戦時編制に移る構えを担保する兵力行使態勢 の出現を意味した。1888年の帥団体制は当該年度の出帥準備計画の調査・策定も介在させつつ成立した。 さて,参謀本部長職仁親王は1887年12月2日付で陸軍大臣宛に「戦時一師団編制表以下別記諸表取調候二. 付及協議候也」として,計11件の戦時の編制表又は編制表草案及び人馬員数表を協議した(25)。参謀本部協 議の編制表・編制表草案の内容は不明であるが,基本的には注記の11件の戦時の編制表・人馬員数表を意味 するものである。つまり,戦時編制の概念は,従前のような戦時の軍隊現場の機関・諸官の職務・業務の組 み立てを基準にするのでなく,戦時の司令部を含む諸隊の人馬員数・定員の算出を基準にして作成・表示さ. 51.

(11) 遠 藤 芳 信. れた編制諸表の組み立て方として推移していることを示している。これは従前・現行の1886年戦時編制概則 等を明確に不適当とするものであった。陸軍省は翌1888年2月17日付で,編制諸表一般に記載されている小 隊長以下の職名の削除等の意見を述べ,参謀本部には協議同意を回答した。その後,11件の戦時の編制表・ 編制表草案及び人馬員数表はさらに参謀本部等と陸軍省との間で下記のように協議等がなされた。 第一に,同協議と平行して,戦時の1個師団に編成される官街・諸団隊の基本を表示した「師団戦時整備 表」をまず制定し,戦時1個師団の兵力行使組織の整備・完成の計画全容を示したことが重要である。すな わち,参軍機仁親王の1888年7月19日の上奏と允裁を経て,陸軍大臣は翌20日に陸達第155号をもって師団. 戦時整備表の制定を達した(26)。師団戦時整備表は,(1)野戦師団(師団司令部及属部,歩兵2個旅団,騎兵 1個大隊,砲兵1個連隊,工兵1個大隊並大小架橋縦列各1個,弾薬縦列1個大隊歩兵弾薬縦列2個・砲兵砲 弾縦列3個,輪重兵1個大隊糧食縦列5個・馬廠1個,衛生部衛生隊1隊・野戦病院6個,野戦電信隊1隊),(2)野 戦予備軍(後備歩兵2個連隊,後備騎兵2個小隊,後備工兵2個中隊,砲廠監視隊1隊,兵端糧食縦列1個・ 輔重監視隊3隊,衛生部予備衛生員・材料廠),(3)留守官街及諸隊(留守師団司令部・留守旅団2個司令部,. 歩兵補充4個大隊・後備歩兵補充2個大隊,騎兵補充1個中隊,砲兵補充1個中隊,工兵補充1個中隊,輪. 重兵補充1個中隊並輪重廠),の整備を規定したが,砲兵諸隊の整備計画は遅れた(27)。また,1885年鎮台 条例の「七軍管兵備表」も,参軍の上奏と允裁を経て廃止された(1888年7月20日陸達第157号)。 第二に,同協議は,同じく1888年7月19日の参軍の上奏と允裁を経て,陸軍大臣は翌20日に陸達第156号 によって,下記の下線部の新たな2件の戦時の編制表を含む12件の戦時の編制表の制定を達した。すなわち, 戦時師団司令部編制表,戦時師団司令部属部編制表,留守師団司令部編制表,戦時歩兵旅団司令部編制表, 留守歩兵旅団司令部編制表,戦時輪重兵一大隊編制表,兵端部輪重兵隊編制表,輪重兵補充中隊編制表,衛. 生隊編制表,野戦病院編制表,衛生部予備員編制表,衛生部予備材料廠編制表,である(28)。これらの12件 の編制表は,上記の師団戦時整備表の規定によって整備・完成される戦時1個師団の官街・諸団隊の人馬員 数・定員を表示化したものである。この結果,上記の1887年2月∼12月制定の戦時歩兵一連隊編制表等の戦 時諸隊編制表を含め,戦時師団の司令部を中心にした兵力行使組織の人馬員数・定員の詳細計画全容がほぼ 初めて明確化されたことになる。すなわち,戦時編制表の統一的集成化への一歩であり,戦時編制の成立萌 芽と称してよい。戦時編制の成立萌芽と称したのは,本来的には戦時編制に整合・対応すべき平時編制が未 整備であるからである。また,以上の戦時編制の成立萌芽は,戦略的な戦闘活動を独立して遂行できる戦時 兵力体系や戦時兵力行使目標を明確化した点では,出師準備管理体制の第二次的成立を意味する。 上記の戦時師団司令部編制表等12件の編制表は,①諸卒の中で,将官は従卒・馬卒として従前のように自 己雇役の従僕を使用するも「妨ケナシ」とされ(戦時師団司令部編制表く人員合計162名,馬匹98〉,戦時歩 兵旅団司令部編制表く人員合計14名,馬匹9〉),馬匹を乗馬・駄馬に区分し,駄馬の配当(品目と馬数)を 規定し,②戦時師団司令部属部編制表中の野戦郵便部の野戦郵便部長1名と書記3名は「地方郵便官吏ヲ以 テ之二充ツ」とされ,③戦時輪重兵一大隊編制表は,大隊本部(人員計26名)・糧食縦列(人員計360名)・ 馬廠(人員計109名)とし,1個大隊(大隊本部と5個糧食縦列及び1個馬廠から編成)合計の人員2,142名 と馬匹2,157はほぼ対応し,④兵端部輔重兵隊編制表は,兵端糧食縦列(人員計413名)・輔重監視隊(人員 計53名)とし,1個兵端部輪重兵隊(1個兵端糧食縦列,3個輪重監視隊から編成)合計の人員572名と馬 匹558はほぼ対応し,⑤衛生隊編制表は,衛生隊本部(人員計100名)・担架中隊(人員計155名)とし,1 個衛生隊(本部と2個担架中隊から編成)合計の人員は410名,馬匹は50とし,⑥野戦病院編制表は,人員 合計110名,馬匹計40,と規定した。特に,戦時の編制表全体において馬匹(乗馬・駄馬)の配当内容を明 確化したことが特質である。なお,師団戦時整備表の野戦師団等の編成は1889年9月頒布の野外要務令草案 に規定された。. 52.

(12) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10) (4)1888年の師団戦時整備仮規則と師団戦時物件定数表の制定. 以上の戦時編制の萌芽の骨格になったものが,参軍による1888年11月1日付の陸軍大臣との協議と同大臣 了承を経て(ただし,連隊職工による野戦軍の予備被服製作に関する規定を削除する),1888年12月28日に. 陸達第247号によって速された師団戦時整備仮規則であった(全5章)(29)。師団戦時整備仮規則は,各師団 が上記の師団戦時整備表にもとづき,野戦師団,野戦予備隊,留守官街及諸隊に編成される諸部団隊の編成 方法や戦闘隊形(梯隊等)の用法・目的等を制定したものである。そこで注目されるのは,特に,①大小架 橋縦列においては,大架橋縦列の材料として長さ96メートルの架橋を,小架橋縦列の材料として長さ36メー トルの架橋を基準にし,②弾薬縦列大隊では,歩兵弾薬は師団正面の1銃につき約100発までとし,1縦列 につき50万2500発とし,砲兵弾薬は1縦列につき相弾728発・相霧弾840発・霧弾160発を有し,砲兵2個中 隊の全弾薬補充にあて,1門は約140発までとし,③糧食縦列(計5)においては,1糧食縦列は師団1日 分の糧殊を有し,第3糧食縦列は携帯糧殊の予備を蓄載する,④衛生部の野戦病院6個は各患者200人を収 容できるようにし,⑤野戦電信隊の材料としての電線の全長を30キロメートルとし,その道程24キロメート ルを連絡できるようにする,などと戦時編制の基準にして具体的な数量を規定したことが注目される。以上 の中で,特に野戦師団における諸部団隊の編成は,1893年戦時編制第4編第10章の「師団ノ編制」にほぼ近 い。そういう点では,師団戦時整備仮規則は1893年戦時編制の前身の重要な骨格を示し,その制定は上記7 月の戦時師団整備表と戦時師団司令部編制表他とともに,戦時編制の成立萌芽の基盤になった。 そして,以上の師団戦時整備仮親別の物件定数を詳細に規定したのが,同12月28日に陸達第249号によっ て達された「師団戦時物件糧株,炊柴具,被服,帳簿消耗品,衛生及獣医材料定数表」(「師団戦時糧食定量表」他 5表及び被服関係20表,以下,「師団戦時物件定数表」と略記)である。これは陸軍大臣から12月24日付の 参軍への協議と同了承を経て制定され,各師団の毎年の出師準備計画に際しては本表を基準にしてそれぞれ の過不足を報告させることにしたのである(30)。ちなみに,師団戦時物件定数表中の「師団戦時糧食定量表」 は,戦時師団の諸部団隊毎に「常食一名一日当精米六合」(師団1日分計481石余)「携帯糧食一名一日当楯 三合」(師団1日分計195石余)「同上一名一日当食塩九匁」(師団1日分計693貰余)と示した。その場合, 野戦師団の師団司令部・戦列隊・小架橋縦列・衛生隊の糧食の確保と運搬方法は計8日分(稀各自2日分の 携帯糧食,常食1日分の大行李積載,常食4日分と携帯糧食1日分とを糧食縦列に積載)とし,輪重及び縦 列は3日分(楯各自2日分の携帯糧食,常食1日分を縦列の駄馬に積載)と規定した。以上の定数は初度の ものであり,同日数を計8日間とし,その後は補充の考え方をとったことになる。なお,以上の膨大な出師 準備上の物件(物品)は1889年5月公布の会計検査院法上の会計検査の適用を受けないことになった(1890 年8月法律第70号)。 総じて,1888年の師団体制は,江戸時代的な平時・戦時の混成的な二重職制による兵力行使組織を基盤と する地方軍政部的体制としての鎮台体制を廃止し,戦時編制概念の転換と戦時編制表の統一的集成着手(戦 時編制の成立萌芽)をすすめ,戦時の戦略・作戦の体系的・継続的な兵力行使の独自遂行を目ざして成立し たものである。以上の1888年の師団体制の成立過程で,軍隊・官街の編制・官制等の改廃で行政的な職務観 念や平時業務中心の職務・人員がそぎ落とされたことも特質である。後に,師団編制は「独立策戦の力を有 せしめたり」(31)とか「後来,大陸的戟冒那こ従事し得へき基礎を樹立したるもの,玄に基因す」(32)云々と記 述されたが,行財政・文官との関係で建軍期から伏在していた特権的な「軍部独立論」(注仕射 にもとづき, 出師準備物品の会計検査院法非適用化を含み,戦時の「自由自在」的な兵力行使活動の基盤を獲得したとい える。. 53.

(13) 遠 藤 芳 信. (注). (1)拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(9)−−−一鎮台体制の完成と出師準備管理体制の第一次的成立−」北海 道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第59巻第1号,2008年8月。 (2)国立公文書館所蔵『公文類衆』第10編巻15,兵制門四庁街及兵営第1件所収。伊藤博文編『秘書類纂 兵政関係資料』(1970 年原書房復刻,原本は1930年)にも「メッケル民意見 日本陸軍高等司令官司建制」として収録。 (3)拙稿「1881年戦時編制概則の成立に関する考察」北海道教育大学函館人文学会編『人文論究』第76号,2007年3月。 (4)防衛研究所図書館所蔵『参謀本部歴史草案 九∼十一』1886年7月7日所収。 (5)注(2)の『公文類衆』に収録。 (6)防衛研究所図書館所蔵 〈陸軍省大日記〉 中『壱大日記』1886年7月総閣第221号所収。 (7)前掲『公文類衆』第10編巻之13,兵制門二陸海軍官制二第27件所収。なお,陸軍武官進級条例改正については参謀本部等 からの反対論が起こった(注(2)の伊藤博文編『秘書類纂 兵政関係資料』収録の「陸軍武官進級条例改正ノ件」,注(6)の『参. 謀本部歴史草案 九∼十一』1886年7月3日所収,春畝公追須会編『伊藤博文伝』中巻,499−505頁,1970年原書房復刻, 原本は1943年)。 (8)注(2)の『公文類衆』に収録。1886年の監軍部廃止等に対する臨時陸軍制度審査委員(1886年3月設置)の審査内容は不明. である。 (9)前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1887年1月総参第5号所収。 (1¢)拙稿「軍備拡張下の陸軍動員計画思想」北海道教育大学函館人文学会編『人文論究』第77号,2008年3月。 (川 司法省版『類乗法規』第10編下,第19類,445−450頁所収,1888年。 (1組頭 前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1887年1月総参第4号所収。 (14)注(1)の拙稿参照。 (15)防衛研究所図書館所蔵『明治二十七年以前 戦時編制条例草按外編制関係』(中央軍事行政 編制 485)所収「師団諸兵 隊編制兵員計算概旨」。〈補注1〉 陸軍建制上の平時編制と戦時編制との関係に対する具体的な検討や軍隊の最高統帥に関す る問題意識は,参謀本部においては,師団常置化方針下の軍隊編制改革期の1885年から起こっているとみてよい。防衛研究 所図書館に『明治二十七年出戦軍編制条例草案』(中央軍事行政 編制 460)が所蔵されている。本文書簿冊は,日清戦争 期の軍司令部を編成する人員(表)の文書も編綴されているが,本体の「出戦軍編制条例」に関する二種類の草案文書とし ての「出戦軍編制条例草案」(参謀本部罫紙・墨筆,全19条にさらに条文を増設し,削除・修正・加筆があり,本稿では「第 二次草案」と記載)と「出戦軍編制条例草案」(参謀本部罫紙・墨筆,全17条にさらに条文を増設し,削除・修正・加筆等 があり,本稿では「第一次草案」と記載)は,1885年に参謀本部で起草されたものである。両草案は,1885年1月戦時編制 概則中改正と1886年度鎮台出師準備書(1886年2月仮制定,「出戦」「出戦軍」を記載)との間の「つなぎ目」的なものであ り,出戦軍の編制関係の諸官・機関の職務内容や司令権限等を起草したものである。両草案には「陸軍卿」「軍団長」「出戦 軍」「補充隊」「予備軍」や「騎兵連隊」の用語が記載されているように(1885年1月に出戦軍隊報告規則並附表が制定され る),1885年1月頃から,太政官時代の参謀本部の内部で検討されたものであり,戦時の軍団編成を前提にした監軍部体制 をふまえて起草されたとみることができ,当時の起草雰囲気を読み取ることができる。すなわち,第一に,「第一次草案」は, ①「第一[二]条 出戦軍ハ通例常備軍隊〈ノ動員セル者〉 ヲ以テ編成ス 其大小衆寡ハ出戦ノ目的二応シテ之ヲ定ムル者ト ス」の条文の前に,欄外に「第一条 凡ソ軍隊ノ編[建]制ハ其設置ノ本旨二依り戦時〈ノ要員〉 ヲ以テ正格トシ平時〈節減 セルモノ〉 ヲ以テ変格トス而シテ其変格ヨリ正格二復スル事ヲ動員卜日フ」と第1条が増設され,動員は平時(変格)から 戦時(正格)に移ることであると定義し,②「第三(四)条 師団ハ出戦軍編成ノ基礎ニシテ平時ヨリ歩騎砲工輔重ノ諸兵 及会計衛生等ノ諸部ヲ配合シテ之ヲ編成(建制)シ出戦ノ準備常二整頓スルモノトス故二師団以下旅団連隊大隊中隊等ノ編 [建]制ハ平戦両時異ナルコトナク唯人員ノ差アルノミトス」と師団の平時常置化による平時戦時両建別の一敦を強調し,(彰 「第六[七]条 師団及軍団ノ本営ハ第何師団本営第何軍団本営卜出ヒ軍ノ本営ハ大本営卜出ヒ其ノ参謀部ハ参謀本部卜出フ」 と戦時の大本営と参謀本部の機関名称を示し,④「第 条 軍団ハ時宜二依り之ヲ編[置]クモノニシテ大将若クハ中将ヲシ テ之ヲ統率セシム該将官ノ職名ヲ軍団長卜日フ 軍団長ノ任ハ専テ作戦聞及ヒ戦闘中団干[専ラ軍令ヲ司り計画ノ旨ヲ体シ テ団下]諸隊ヲ指揮スルニ在り 〈而〉 テ編制及経理ノ事 〈ニ就テハ之〉 ニ関渉セサル者トス」と軍団と軍団長の任務として の軍令執行を記述した([]は修正,〈 〉 は加筆,−は削除)。ここで,特に③の大本営は戦時に置かれる最高続帥機関で あるが,その詳細は不明確である。ただし,参謀本部・陸軍側が大本営について検討・言及を続けてきたことは注目してよ い(拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(4トー平時戦時混然一体化の参謀本部体制の成立−」北海道教育 大学紀要(人文科学・社会科学編)第56巻第2号,2006年2月,40頁)。また,参謀本部は戦時の機関概念としても認識さ れていることが重要である。第二に,「第二次草案」は「第一次草案」の上記の(彰∼④をほぼ踏襲して起草し,さらに,「幕. 54.

(14) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(10). 僚」の編成として,「第 条 二軍以上大元帥ノ下二直隷シテ作戦スル時ハ其幕僚ヲ参謀本部卜称シ大将戎ハ中将ヲ以テ其 長こ任シ特こ之ヲ参軍卜称ス而シテ副参軍将官一名若クハニ名参謀及副官(佐官)若干名之こ属ス」と記述した。ここで, 大元帥・参軍が条例条文中に記述されたことは注目される。しかし,その後に参謀本部で起草された防衛研究所図書館所蔵 『明治二十七年以前戦時編制条例草案外編制関係』(中央軍事行政編制485)所収の「戦時諸団編制条例草案」(参謀本部罫紙・. 墨筆,起草時期は1885年1月以降であり,1886年1月戦時編制概則改正にかかわる草案の一種と推定され,第1章軍団職制 〈全34条,ただし,第1条は目頭前文に続いて記述される〉,第2章師団職制 〈全24条〉,第3章旅団職制 〈全11条〉 から構 成される)には,「大本営ハ全軍ノ絵師別チ大泰ノ植ル所ナリ而シテ其惟悔ノ機務二参画スル参軍副参軍及ヒ其他二砲兵総. 監兵端総監等ヲ置キ又ハ総督別チ至高ノ司令長官ヲ置キー軍ヲ編成スルカ如キハ共時二臨ミ勅二依テ之ヲ裁定スルモノト ス」(第1条)と記述され,戦時の最高続帥機関の名称には天皇・大元帥が記述されていない。ただし,「第一次草案」の③ と「第二次草案」も含めて,「戦時諸団編制条例草案」においては,大本営・参謀本部・参軍も戦時の機関概念であること が認識されていることも重要である。つまり,戦闘現場の主兵の歩兵連隊の戦時編制が成立し,編制においては戦時編制が 基本であることの論理転換がなされつつも,1886年前後には,戦時の軍隊の最高続帥機関のありかたの検討は雰囲気的には. 模索中であったということができる。 (16)陸軍省総務局の第三課長・人事課長・利親課長は1889年4月1日付で陸軍武官進級令の勅令案と陸軍武官進級収扱規則拉 陸軍武官考課表規則の陸達案及び「陸軍武官進級条例改正ノ理由」(以下,「改正理由」と略)を省議に碇出した(前掲 〈陸 軍省人日記〉 中『弐人日記』乾,1889年総総第232号所収)。省議では特に「改正理由」に加除・修正を施して閣議碇出を了 承し,陸軍大臣の4月4日付の内閣総理大臣宛の閣議講読書添付の「改正理由」には本稿引用文言は記載されていない(前 掲『公文類衆』第13編巻之11,兵制門二陸海軍官制二第10件所収)。なお,省議に提出された「改正理由」は軍制を「自治 自政ノ活動体タラシメントス」云々の文言があるが,建軍期から伏在していた勅任奏任武官の進級人事政策・服役体制に対 する特権的な「軍部独立論」を継承したものである(拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(2)一台湾出兵 前後における戦時業務規定と出師概念の成熟−」北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第55巻第2号,70頁,2005 年2月,参照)。また,1889年2月の月曜会解散事件も将校団成立の官制化推進・強行の一端である(拙稿「教育学部図書 室所蔵 飯塚文庫の紹介一近代日本軍隊関係の図書・資料群」東京大学附属図書館報『図書館の窓』39巻第6号,2000年12月)。 (17)1886年の監軍部廃止時の山県有朋の「各兵監部設置 監軍部条例改正接」は「監軍部ハ諸兵ノ検閲ヲ管掌シ及ヒ各兵ノ教 育技術二係ルー切ノ事ヲ総監シ」(第1条),「監軍部二騎砲工輔重兵各兵監部ヲ置キ之ヲ某兵監部卜称ス」(第2条)と起案 した。その場合,「特科ノ兵種」としての騎砲工輔重兵は学術高尚と常に諸器具材料等の改良の研究が必要であるが(特に 砲工両兵),陸軍行政に関係し,また,調査事項の実施においても「陸軍省軍務局二各々ノ主務課」があるので,監軍は「障 擬」が生じないように軍務局に通報することを起案した(第12条)。すなわち,各兵監部は監軍に隷するとともに事務上に おいては陸軍大臣に属するものがあるとして,第11条に陸軍大臣所属事項として「(各兵の∼遠藤)本科二関スル事項取調 ノ事騎砲工輔重兵監部」「本科兵隊ノ建制及編制二係ル事同上」「砲兵会議ノ事砲兵監部」「工兵会議ノ事工兵監部」他9項 目をあげた。つまり,1886年時点では,陸軍省の騎砲工輔重兵を管轄する騎兵局・砲兵局・工兵局の調査研究審議立案の関 与が保たれていた。これに対して,翌1887年の当初の陸軍省起草の監軍部条例草案は全8条で,監事の下に歩兵学校監(歩 兵学校の教育を統轄)と各兵監(騎砲工蠣重兵の各兵科の教育技術の進歩と兵器材料の改良を図る)及び将校学校監を置く としたが,特に当該兵科の専門的技術関係内容の進歩改良に関する調査研究審議立案の文言はない。しかるに,内閣では軍 事参議官条例及び陸軍省官制改正の同時起案過程において,内閣書記官は監軍部条例草案の歩兵学校監を削除し,公布正文 のように当該兵科の専門的技術関係内容の進歩改良に関する調査研究審議立案の文言を含めて修正増補した。その上で,軍 事参議官条例と監軍部条例は5月14日の閣議に供され,監軍部条例は内閣総理大臣と陸軍大臣の上奏を経て,軍事参議官条 例は内閣総理大臣と陸軍大臣及び海軍大臣,陸軍省官制は内閣総理大臣の上奏を経て,各々裁可された(前掲『公文類衆』 第11編巻之11,兵制門一陸海軍官制一第26,27件所収)。なお,当時の陸軍省には総務局が置かれていたが,新たな「軍務局」 (1871年7月から1873年3月まで置かれた兵部省軍務局・陸軍省軍務局があった)の設置が構想されている(かつ,騎兵局・ 砲兵局・工兵局は「軍務局」内の「課」に縮小・競合される)。これは陸軍次官桂太郎の意見によるものであろう(徳富蘇 峰編著『公爵桂太郎伝』乾巻,417−419頁,1917年)。 (咽 注(17)の徳富蘇峰編著『公爵桂太郎伝』乾巻,417−418頁。 (1功 前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1888年2月総監第67号所収。監軍山県有朋は1887年10月22日付で陸軍大臣に砲 兵会議条例改正案(全19条)と工兵会議条例改正案(全18条)を協議した。監軍起草の砲兵会議条例改正案第11条は「総テ. ー般人民二於テ陸軍所要ノ武器弾薬装具材料器械等ヲ発明戎ハ改良シテ之力試験ヲ願フ者アルトキハ其管轄庁ヲ経テ陸軍大 臣二出願シ而シテ第十条ノ手続二拠テ議長二下付スルモノトス 但シ軍人二在テハ其所管長官ヲ経由スルヲ異ナリトス」と 起草した。なお,同第10条は,砲兵会議の議題は砲兵監より下付されるが,議題は事の性質により陸軍大臣或いは参謀本部 長又は監軍より発し,その下付の順序は陸軍大臣・参謀本部長は監軍に移し,監軍は各監に付し,各監は議長に下す,と起. 草した(工兵会議条例改正案第10,11条も同様)。陸軍大臣は翌1888年2月14日に了承を回答したが,同5月の軍事参議官. 55.

参照

関連したドキュメント

植木祭の開催 愛林デーの制定 愛林植栽日の制定 植樹デーの制定 愛林日の制定 植栽日の制定 植柵デーの制定

    

本稿は徐訏の短編小説「春」 ( 1948 )を取り上げ、

編﹁新しき命﹂の最後の一節である︒この作品は弥生子が次男︵茂吉

第1条

2  事業継続体制の確保  担当  区各部 .

小学校 中学校 同学年の児童で編制する学級 40人 40人 複式学級(2個学年) 16人

国際仲裁に類似する制度を取り入れている点に特徴があるといえる(例えば、 SICC