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音楽を聴く津田左右吉-- 「音楽俗話」周辺管見--

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音楽を聴く津田左右吉

中西

一 津田左右吉に、西洋古典音楽を語った文章がある。 それは 「音楽俗話」 と 題され、 「 昏生」 の筆名で、 雑 誌 『 をんな』 お よびその改題誌『なでしこ』に、明治三八年八月から三九年八月まで、十 回にわたって連載された 1 。 津田は当時三一、二歳、明治三三年から私立独逸学協会中学校に勤務し ており、高等女子実脩学校や早稲田大学清国留学生部予科でも教鞭をとっ ていた 2 。 西洋古典音楽がまだ日本に根付いたとは言えない時代に、紹介のため婦 人雑誌の読者を対象として書かれた文章である。内容の一端を紹介すると、 一回目の 「管 絃 楽 オーケストラ の組織」 では、 「真に其のおもしろさを味はふには幾分 か音楽に就いての知識が必要であらう」 、「ところが世間にかういふ類の著 述などが殆ど無いのは頗る遺憾の次第 3 」だとして、まずオーケストラにつ いての基礎的な知識をまとめている。使われる楽器を紹介し、指揮者の役 割などにも触れる 4 。 二回目の「歌劇 オペラ 」は、 「一昨年であつたか」 、音楽学校の「楽堂」で「オ ルフォイス」を試験的に演じたことがあるが、まだ物足らぬ状態だと嘆い てみせ、 オペラの歴史や構成などが紹介されている。 「レシタチイフ セ コ」と「レシタチイフ ストレメンタト」の違いといった、相当に専門的 な区別に触れるかと思うと、オペラの種類分けとして「オペラ ブウファ といふのがコメディで、オペラ セミセリアといふのが先づトラヂェディ に当る 5 」と書いたりもしている 6 。 ワーグナーを扱った四回目は 「ワグネルの 楽 劇 ミユウジツクドラマ 」 と 題して、 「和蘭の漂 泊児 デル フリー ゲ ンデ ホ ルレンデル 」や「 ヌ ウルン ベ ル ヒ の 騒客 」を 含む諸作 を 挙げ たう えで、 「タン ホ イ ゼ ル」と「 ロ オ ヘ ングリン」の 梗概 を 詳 しく 記 す。 ちょ うど生 誕 一 五〇 年にあたる年だというので、 六 回目は「 モザ ァトの こと」と題して、 モ ーツァルトを紹介する。レクイ エム の 作 曲依頼 をめ ぐ る 有 名な エ ピ ソ ードも 持 ち 出 されている。 「 自 分の 死期 を知らせに 来 たも のに違 ひ ないと 考へ て、 [略] 約束 の時よりも 前 に 作 り 上 げ てしまつ た 7 」 と書いてしまったのは、 作 曲 者の 死 によって 未完 成に 終 わった 事 実と 異 な っているが 8 、うまくまとめられている。 第八回のタイトルは「音楽の 形式 と其の 表情 」として、 調 や 拍 子の話に なる。そこでは 各調 の 性格 にまで筆は 及 んでいる。 学 苑 文 化創造 学科 紀 要第 八 六五 号 四三 ~ 五五 ( 二 〇 一二 一一 )



「音楽俗話」

周辺



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「風琴と洋琴」と題する九回目ではオルガンとピアノの比較をしている。 発音の原理からして洋琴は弦楽器の一種であり、風琴は管楽器で、両者は 発音の原理から異なる。そう書いて、優劣の比較にまで筆は及んだ。津田 によれば「演奏の效果の上から概論すると、管楽器よりも絃楽器の方が価 値が多く、絃楽器の中でも殊に弓を用ゐるものが重要である」 、「明治音楽 会なり、音楽学校なりの演奏会で管絃の合奏をきいた耳で、日比谷公園の 楽堂でやる陸軍や海軍の吹奏楽をきいてみると直ぐにわかるであらう 9 」と オーケストラ優位の立場をとり、さらに「近世の西洋楽を味ははうとする には、管絃楽曲でなければ是非この洋琴曲でなくてはならぬ  」と記す。 最後の回は「家庭の音楽」と題して、いかにも津田らしく、家族主義の 我が国において、家庭の慰安法が備わっていない理由についての考察をし たうえで、 家庭で普く音楽を行い、 「一面には芸術としての音楽趣味を発 達させ、一面には之によつて家庭の情味を濃やかにし、社会の風尚を高め るやうにしたい  」と結論づける。 以上に明らかなように、 「音楽俗話」 は西洋古典音楽の普及をめざす啓 蒙のために書かれた文章であり、今日の目から見ても、おおむね妥当な説 明が書かれている。では津田はいったいどこからこの知識を得たのだろう か。本稿は、津田の音楽への関心に着目した考察である。 二 音楽と自身の関わりについては、 津田が書いた 「独協在職時代の思ひ 出  」 の中に次の一節がある。 そのころの独協の教師には風がはりの人がゐたことを思ひ出す。 [中略] また トウギ テツテキ (東儀鐵笛) 君 のゐたことも忘れられない。 宮廷の楽人の 家に生まれ、 自身もその楽部に地位をもつてゐたことのあるかういふ人の中 学にゐたのは、 珍しい例であらう。 ぼ くは君から音楽についていろ  教へ られたので、それだけでもなつかしい気がする  。 この文章からは、津田が東儀を通じて音楽の知識を得たように見える。 東儀鉄笛は明治二年生まれ、本名季治。東儀家は千年も続く楽家であり、 父季芳も篳篥の名手だった。鉄笛は明治一二年に伶員を 申 しつけられてお り、篳篥、 琵琶 、 三 味 線 の ほ かにピアノなどの西洋楽器も学んでいった。 しかし、明治 三〇 年に宮 内省 を 退 き、 帝 国教 育 会 事務長 を 務 め、独 逸 学協 会学校 分 校 幹事 などに 転 身する。の ち にはさらに 俳 優への 道 をたどること になる。東儀が独 逸 学協会学校に 勤 めたのは義 祖 父 大村仁 太郎 の 縁故 によ ったが、その独協時代に東儀と津田は出会い、 親交 を結 ぶ こととなった  。 この 頃 、津田は東儀ときわめて 親 しかった。その 様子 は日記で 確認 でき る。いくつかの記 事 を例として 引 用してみる 。 午 後また家を出で、 小石川 より 牛込 に ゆ き古谷を 訪 ひ、 帰路 、 東儀を 訪 ひて 夜 に 入 り 帰 りぬ、(明治 三 五 年九 月 二日) 東儀 来訪 し、 オルガンを 検 し 呉 れ、 又 た 妹 のために 則承 といふ伶人に 紹介 し 呉 れたり、(明治 三 六 年一 月 二 六 日) 女 学校より東儀と 共 に 退 出せしかば、 伴 はれて 其 の家に ゆ きしに、 庭のつ ゝ じの目さむるばかりうるはしきがいとうれしくながめられき、 (明治 三 六 年 五月 一日) 日 暮 れて後、 東儀を 訪 ふ、 かれ オ リ ンを 弾 じて 「 花 の 歌 」と 一 の 「 ファ ン タジ ー」とを奏す、(明治 三 六 年 八 月 二一日)

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夕かた、 めづらしく東儀が来た、 学校をやめてしまつて、 全然、 劇界に身を 投ずるのださうだ、兔も角も、おもしろい、(明治四四年三月一九日) 正確に数えたわけではないが、この時期に東儀の名はおよそ一五回ほど 日記に出てきている。妹はるのオルガンの調整までしてもらっているほど の親友だった。そこから、先に津田が書いた連載記事も東儀の知識を借り て書かれたのではないかと考えられた。 東儀には『音楽通解』の著書がある  。しかもその一冊を津田が所蔵して おり、おそらくは津田自身の手で一文字、訂正が入れてある  。 東儀の著書は二五〇頁を越えるまとまったものであり、津田の文章には なかった譜例をも豊富に収めていて情報量は比較にならない。 この本と 「音楽俗話」との内容に一致が見られる。 津田が調の特徴について書いた部分から一例を示す。 長、 ト調。 静けき思ひ、 和かき愛、 単 純明快なる少年の情、 或はまた田園の 生活。 短、ト調。夢見る如き沈思、動きやすき情緒、多情多感  。 同じ内容について東儀は次のように記している。 長、 ト調は静けきおもひ、 和 らかき愛、 単 純 たんじゆん 無垢 むく なる少年の情、 又 は田園の 情趣 じようしゆ 。 短、ト調は夢 ゆめ みる如き沈思 ちんし 、動きやすき情緒 じようちよ 、所謂 いわゆる 多感 たかん 多恨 たこん 。  もう一つ例を挙げると、津田はオーケストラでの弦楽器の編成について、 「少なくとも イオリンは、 第 一 第二とも各  十六、 オラが十二、 そ れから十のセロと八のダブル バスとが必要だといふことである 」と書い ている。 この点について東儀は、 「バイロイト ( B ay ro u [ママ] th ) 楽劇部に於いて一 八七六年の創建者の紀念祭を行ふに当りて演奏せられし管絃楽隊の組織 」 として記された楽器の数のうち、弦楽器の数について、第一バイオリン一 六人、第二バイオリン一六人、ビオラ一二人、チェロ一二人、コントラバ ス八人だった旨を記している。ワーグナーが一八七六年にバイロイト祝祭 歌劇場で『ニーベルンクの指環』を演奏した際のオーケストラでは、第一 バイオリン一六台、第二バイオリン一六台、ビオラ一二台、チェロ一二台、 コントラバス八台と、ワーグナー自身が指定したとされている から、その ことを指しており、東儀の記述の方が正確である。津田が「少なくとも」 と書いたのは筆がすべったようだ。 津田と東儀両者の記述を見ると、調の特 性 についての部分はほとんど同 文と 言 ってよいであろう。弦楽器の数でも、単に数字だけ比較すれ ば 、 共 通している。もっとも第一バイオリン一六台は 今 日でも 大 きな編成であり、 いわゆる一六 型 と 呼 ば れる、第一バイオリン一六台の 大型 の編成の場 合 で も第二バイオリンは一四台にするのが 普 通である、それを 上 回る数は、当 時の日本の通 常 の演奏 会 では考えにくい。 このような事情から、東儀の著書の 発表 は津田の文章より 遅 れているも のの、内容 的 には東儀の方が先にあり、津田はそれを借りたのではないか と思われた。 ところがこの 仮 説 は成り 立 ちにくい。東儀が自著に 付 けた緒 言 の 最 後 に 次の文 言 が明記されているからである。

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終に臨んで一言す、 本書の編纂に関しては、 材料の供給を津田 昏君にうけ たること多し、茲に附記して感謝の意を表す。 どの部分についてかは書かれていないが、津田の方が、音楽の専門家で あるはずの東儀に対して材料を提供した事実があることは動かせなくなっ た。となれば、津田が自身の文章を書くにあたっての知識をどこから得た かという疑問は出発点に戻ってしまったことになる。 三 津田本人はどれくらい音楽に接していたのか。邦楽を含む音楽会に行っ た事項を日記から拾い出し、日時と音楽会名、あるいは会場をまとめると 次のとおりである  。 明治三二年三月二九日(水) 玉の井亭(義太夫) 明治三三年一一月一〇日 (土) 明治音楽会 (本郷中央会堂) *「操」 同行  **この月から同音楽会会員となる 明治三五年一二月四日(木) 明治音楽会 明治三五年一二月一六日 ( 火) 故ハウス氏追悼音楽会 (青年会館 美 土代町) 明治三六年三月一三日(金) 明治音楽会(青年会館) 明治三六年四月五日(日)午後 明治音楽会(音楽学校) 明治三六年九月二五日(金) 明治音楽会(青年会館) 明治三六年一〇月一七日(土)午後 音楽会(番町教会) 明治三六年一〇月二八日(水) 音楽会(青年会館) 明治三九年一〇月二八日(日)午後 明治音楽会(音楽学校) 明治四四年三月一三日 東西名人会(有楽座 俗曲) 明治四四年三月一七日(金) 有楽座(義太夫) 明治四四年五月二〇日 俗曲演奏会(音楽学校) 明治四四年一二月九日(土)午後 演奏会(音楽学校) 一定の時期に集中している観があるが、明治三四年、三七 八年、四三 年の日記は現存していないという事情があり、また日記が書かれた年でも、 きわめて分量が少ない年もあるから、そのことから何かを導き出すことは できない。津田がこの頃かなりの頻度で音楽会に通っていたことだけを確 認するべきである。音楽を聴いていたことについては、次の回想が書かれ ている。 そのころ西洋の音楽を聴くことのできる唯一の機関であつた明治音楽会の演 奏を欠かさず聴きにいつたことも、 思ひ出される。 こ の音楽会では第二部と して日本の俗曲を演奏することになつてゐたので、いろ  のさういふもの、 たまには平家琵琶などをさへ聴くことができた。宮内省の楽部の雅楽の演奏、 九段の能楽堂で演ぜられた能や狂言も、 できるだけ見にいつたことを附記し ておく  。 明治音楽会は明治三一年に誕生し、当初春秋二回行われていた。そのと きに演奏するオーケストラは東京音楽学校関係者と宮内省の楽師で構成さ れていた。はじめは十数人による一管編成で、オーボエやファゴットも用 いられていなかった。しかし、来日したユンケルのもとで整備され、明治 三八年頃の東京音楽学校オーケストラは三五人ほどの二管編成になってい

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た。ただし管とティンパニは宮内省楽師が務めていた  。 津田自身の文章にも書かれているように、第一部は西洋音楽を演奏し、 第二部では邦楽が奏されるという和洋折衷の形であった。邦楽はひとまず 置いて、西洋古典音楽について、彼は実際どんな曲を聴いていたのか。 津田が演奏を聴きに行っていることが確実な日について、残っている記 録を掲げる。明治三五年一二月四日、神田青年会館で催された明治音楽会 第三〇回演奏会では次の曲が演奏された。 一、管絃楽(建設視詞の行進曲) ノ [ママ] ツクスネル作 二、管絃六部合奏 寝よ小供 アプト作 三、独 唱 (英語) イツト、イス、エナイフ メ ンデルゾ [ママ] ーン作  辨   四、管絃楽 日曜日の児童(ワルツ) リツクスネル作 五、 管絃四部合奏 イ、 味覚と視覚 プ ラント作 ロ、 プレヂオサの歌一 節 ウエーベル作 六、管絃楽 楽会の序曲 フランク作 七、ヴァイオリン連奏 シンホニー ダンクラ作 多 忠基、石野 巍 八、管絃楽 緒れ髪 ボ [ママ] ルカ、マジルカ ライチツヒ作 九、管絃楽 ガロツプ 一〇、長 唄  注を付ければ、五のロはウェーバーの劇付随音楽「プレチオーザ」中の 曲。また、三のメンデルスゾーンは、オラトリオ「エリア」中のバリトン によるアリア「主よ足れり」のことである  。六のフランクの曲とは、有名 なセザール フランクではなく、エドゥアルド フランクの「演奏会用序 曲」作品一二ではないかと考えられる 。その他の曲は今日あまり聴かれな い曲ばかりである。二のアプトはフランツ ウィルヘルム アプトという、 合唱曲を書いた作曲家だが 、 この曲は ・Wi eg en lie d・ だろうか 。 七のダ ンクラはおそらくシャルル ダンクラだと考えられるが、いずれにしても ダンクラ一族の一員の曲であろう 。 この日の公演についての津田の感想が日記に記されている。 管絃楽はわれらの耳にかなはず、 ハ ーモニーを味ふ耳なき故か、 花 やかな る曲の心を動かすこと少なきが故か、 ことにけふは太鼓をさへ加へたれば、 何やらん喧噪なるこゝちのみせられたり、  辨  が英詩独吟は、 詩 の意 はきゝとられざりしかどおもしろくきかれたり、 か つて国語の詩をきゝしと きはいと感うすかりしが、 こは洋楽の旋律がわが国語にふさはしからぬ故な るか、 そ もそも楽譜の其の詩にかなはざりしが故なるか、 二者その一なる べ けれど、 恐 らくは 甲 のかたに 或 る 根本 の 問題 あるにはあらざるか、 次には管 の四部合奏と イオリンの連奏(シムホニー)とがいと 妙 なりき  津田は 結局最後 の長唄は聴かずに会 場 を 後 にした。オー ケ ストラがうる さいと感 じ たとは 正直 な感想である。 しかし、 「エリア」 のアリアをは じ めとして、 的 確に聴きとっていることが 読 み 取 れる。また、あとにも記す ように、 言 語と音楽との 関係 について 思 いを 致 しているのは耳の 良 さを 示 すもののように 思 われる。 もう一 件 は、明治三六年四月五日 午 後 一 時 から 上 野 校 奏楽 堂 で 開 かれた 第三二回明治音楽会のプロ グ ラムである。 一、 祭礼 の曲 大 序 チエー、ラ タ ン作

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二、独逸行進曲 三、歌 劇 魔笛の歌一節 モツァルト作 四、ローベルト、管楽部合奏 マイヱルベル作 五、ミニユエツト モツァルト作 六、美くしき時 ワルツ リツクスネル作 七、美くしき ヘレナ オツフエンバハ作 八、クラリネツト独奏 フアンタシー フランク作 多 忠 龍 九、ヂスポジン [ママ] ヨン ワルツ リツクスネル作 一〇、シンフオーニー マスカニー作 一一、菩提樹の曲 シユーベルト作 一二、ストツク提督行進曲 モツァルト作  モーツァルトの「魔笛」の中の何が歌われたのかはもちろん特定できな い。 マイヱルベルはマイアベーアの歌劇 「悪魔のロベール」 Ro be rtl e dia ble 中の、 オッフェンバックは、 喜歌劇 「美しきエレーヌ」 L ab ell e He len e 中の曲であろう。一一は言うまでもなく、 「冬の旅」の中の「菩提 樹」である。八のフランクは、セザール フランクに「幻想曲」 F an ta sie という、作品一三のピアノ曲、作品一六のオルガン曲があり、それ以外に も fa nt as ie という名がつく曲は複数ある  。 ま た、 エドゥアルド フラン クにも偶然同じ作品番号一六を持つ同名のオーケストラ曲があり  、特定で きない。一〇のマスカーニは不明ながら、歌劇「仮面」のシンフォニアあ たりではないかと思われるが、あるいは歌劇「カヴァレリア ルスチカー ナ」 間奏曲 (原題 in te rme zz os in fo nic o) の可能性もある。 モーツァルトの 行進曲もどれをさすのか、筆者には未詳である。 津田はこのときの感想を、 「演奏は例の如し、 俗 曲のなかりしはわれら には嬉しかりき  」とだけ記した。 この他にも日記には演奏会の批評が時々書かれている。次に示すのは明 治三六年九月二五日の明治音楽会の感想である。 管絃楽はマーチ、 舞 踏曲のはなやかなるもののみにて、 わ れにはさまでおも しろからず、 西班牙楽といふもの其の国の人によりて奏せられたれど、 よし ともおぼえず、 われはたゞギタラといふ楽器をはじめて見、 其 の弾きかたの わが三味線なんどに似たるを知りたるのみ、 ギタラは伊太利にても常に用ゐ らる、 [中略] 楽器としてよききはのものにはあらざるが如し、 [中略] 合奏は 同音のかさなりしのみにて所謂和声の美なく、 拍子の急迫にして単調なる、 清楽などに似たるところあるかとおもはる、何れも亡国の音なるか  津田はギター音楽を好まなかったようで、そのあとにあった尺八の演奏 の方をむしろほめている。正宗白鳥が同じ日の演奏会を聴いていたが、彼 はこう書いている。 管絃楽は従来に比して一 層勝 りしやうなりしは 練 習 の行き 届 きしに 由 るな らん。 出 来 栄 をい へば フランケ、 クー テ 等 の舞踏曲の方 巧 みなりしが、 ブ リ ターネルは 夭折 せる伊太利楽 師 ベルリニーの 傑 作にて 風趣 津々たるもの ゝ 由 なるが、 左程 に 聞 きなされざりしは、 演 奏者の 技 未まだ 十 分 に弾じなされ ぬ に 由 るか。 [中略] 尺八は感 服 せず。 西班牙楽は 変化 なき 繊 巧 の楽にて、 我 国の 琴 の如く 左程 音楽 的価値 あるも のにあらずと思 ゆ 。演奏者の 拙 きにもよるか  。

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尺八の演奏の評価がまるで対蹠的だが、スペイン音楽の評価はほぼ一致 しているようだ。全体として演奏者の資質にまで目が届いている白鳥の方 に一日の長があるようにも思える。 もっとも、 津 田も同じ年の一〇月二八日の明治音楽会については、 「管 絃楽もおもしろく、  子の独吟も某氏のピヤノも興ふかゝりき  」と書い ており、演奏者についても充分に意識して聴く態度を見せているから、ギ ター演奏に慣れていなかった事情を むべきなのであろう。 その一〇月二八日の同じ公演を夏目漱石と寺田寅彦も聴いていた。寺田 は次のように日記に書いている。 十月二十八日 日 晴 [略] 午後夏目先生と上野音楽学校なる明治音楽会演奏会へ行く。 ミス、 ロ ンゲー カーのソロ、 レシテーシヨン。 ミツス [マ マ] のピアノ サリンガー氏のセロ あり  。 残念ながら漱石のこの日の日記はない。 これらの記録を見ると、どの演目を見ても、今日の通常のオーケストラ 演奏会とは異なって、主として小曲を並べて聴かせる会であることがわか る。 そういう中で、 津田が書いた啓蒙的文章での、 例えば、 「シムフォニ イ」が通常四つの楽章 (津田は「四 段 ムーヴメント 」と書いている  ) から成るという説明 がどれほど当時の実演とかけ離れているかが見てとれる。明治三〇年代の 演奏会でも、交響曲全曲が日常的に演奏されていたわけではないのである。 もちろん時には全曲演奏されることもありはするのだが、まだ例外的だっ た。そういう状況の中では、津田の西洋音楽紹介はすぐに聴衆に役立つも のだったとは言い難い。 これらの点からも、 津田の文章には (おそらくは 西洋由来の) 種本があるのではないかと推測されることになる。 四 津田が書いたような啓蒙的な文章は当時どの程度書かれていたのかと言 えば、明治も三〇年代に入ると、音楽雑誌は多数刊行されていた。津田は 「音楽俗話」 第一回目に 「ところが世間にかういふ類の著述などが殆ど無 い」と書いた。この「世間」をどう捉えるかは一考を要する問題ではある が、音楽雑誌の刊行状況を見る限り、実態はいささか異なる様相を呈して いるのである。 『音楽雑誌』 は明治二三年から刊行が開始され、 そののち 『音楽 (おむ賀く、於武賀 久 ) 』とタイト ル を 変 えながら明治三一年まで 継続 されていく。また、明治三〇年代後 半 には『音楽 新報 』が刊行されていた。 「音楽俗話」 の四回目は先に書いたように ワ ー グナ ーのオペラ 楽 劇 を 扱 っていて、 「ロー エ ン グ リン」 のあらすじも記されているのだが、 その わ ず か二月 前 の 『音楽 新報 』に は 安藤弘 が「 歌 劇 『 ロー ヘ ン グ リン 』 梗概 」 を 載 せている 。記述の 仕 方はまったく異なるから、無 関係 に書かれたもの であるが、それだけ西洋の音楽情 報 の紹介はたくさんあったことが 知 られ るのである。 津田が「音楽俗話」を書く二年 以 上 前 、同じ雑誌『をんな』に 森づ か が「音楽 階梯 」を三回にわたって 連載 していた。 内容 は津田よりはるかに 基礎 的な 部 分を 扱 っている。音楽とは 何 か、からはじ め て、音の 高低 、シ ャ ー プ などについて記述し、 そ のあとフラ ッ トから、 休止符 、 拍 子 論 、 「音 階 製作 」のことに 筆 を 進 め ようと考えていたところ、 『 女 学 講義 』に、 他 でもない 東儀 が同じような 内容 を 載 せているから三回で 完結 することに

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したと書いているのである  。東儀はたしかに同誌に連載しており、例えば 同誌の第三回後期第二三巻では「調子」について書いている  。 また、津田が「音楽俗話」の五回目としてワーグナーの続きを書こうと したところ、 「其の最も主なる 「ニイベルンゲンの指環」 は前月の 『新小 説』に梗概めきたものが載つてをつたとのことであるし  」という事情から、 急遽内容を変更したりもしている。 ワーグナーをめぐっては、明治二九年に森 外と上田敏との間で後期の 無限旋律の本質をめぐる論争が行われていた。それを論じた小林典子が、 「後期ヴァーグナーの作品が、 無 限旋律で書かれたとする点では一致して いるが、 外はこれをレチタティーヴォと呼び、敏は、そう呼ぶのは用語 として適切でないという、それだけのことに、十箇月も延々と議論を戦わ せたのであった  」と総括するような論争だった。当時ワーグナーの楽劇が 日本で演奏されていたはずもなく、当事者以外には両者の主張の違いが理 解できなかったであろう  。海外での体験を持つ 外と、恵まれた環境に育 った上田敏の二人だからこその論争であった。当然ながら、音楽界には何 の反響も呼ばなかった。 知識層の間ではそのように音楽についての理解を深めようとする文化的 状況があった。実演の状況、それを聴く一般の聴衆との乖離はあきらかで はあるが、音楽理解を深めようとする機運は高かったといえよう。いわば 眼高手低の時代だった。 「音楽俗話」 の最終回は 「家庭の音楽」 をとりあげたことは既述した。 それとよく似たタイトル「家庭と音楽」が二年前の同じ雑誌『をんな』に 掲載されている。 書 いたのは大島義修 「文部省視学官兼東京音楽学校々 長」である 。この文章が載った当時、津田は「渉史余話」を同誌に連載中 であり、これを読んでいた可能性は高い。内容的には異なるとはいうもの の、津田がこのテーマで連載を終了させようとしたときにヒントを与えた 可能性は残る。 要するに音楽をめぐる言説は、 津田の言及とは違って、 「殆ど無い」わけではなかったことを確認しておかなければならない。 五 津田が音楽好きだったことについては夫人つねが次のように回想してい る。 故人はまめに散 歩 する以外は、 何をして楽し む とい ふ ことはなく、 ひ たすら 書 斎 での読書と 執筆 とに明け 暮 れて ゐ たけれども、 音 楽はすきで、 宮 中 洋 楽 部で 組織 せられた明治音楽 会 は 欠 かさず 聞 きに行つた。 その楽 員 で、 同じく 独逸 協 [ママ ] 会 中学と 私 の 在 学した実 習 [ ママ ] 女 学校にも 勤務 せられて ゐ た東儀 鉄笛氏 と は 特 に 親交 があつた 。 こう書いて、津田が「 暮 春 の 曲 」という 詩 を書き、それに東儀が 曲 をつ けたこと、それが 八八歳 の 賀 の 席 で学 生合唱団 によって 歌 われたのを聴い たことに 筆 が及んでいる。 津田が音楽を好んでいたのはま ぎ れもない事実であり、日 記 にはそれが 表 れている箇 所 が 他 にもある。 聞 こえてくる オ ル ガ ン やオ ー ケス ト ラ 、さ らには 隣室 の 謡 の音に 気付 き、そのことをあえて日 記 に、しかも好 印象 で 記 しているのは、 耳 の人でもあった津田の本質を 表 していることだろう。 わが中学校の 教 室 の庭より 垣 一 重隔 てて 師範 学校 女 子部の 教 室 あり、 われ はうるさき 授業 に 頭痛み て、 めくるめき 仆 れんとする時、 そこよりもれ 来 る

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オルガンの音のフト耳にふれて、 為に慰めらるゝこと幾度ぞ、 其のもののね のかすかにて巧拙の弁ぜられざるは却つて甚だ可なりとす、 ( 明治三〇年七 月八日  ) また、明治三六年七月一四日には、音楽談義をしたあとで東儀の家から 帰る道すがら、音楽と言語の関係に思いをはせたことがかなり詳しく書か れている  。 友人ら五人で箱根を訪れた明治三六年八月一一日には、湖でボートに乗 りながら、 「月清き夜半などいかに興あらん」と語られるのを聞き、 「其の をり一張の オリンあらばとわれはひとりおもひぬ  」との感慨をもらすの である。 明治三五年八月二六日の、 眠れない夜に書いた長い日記の一節では、 「一つゆめの愉快を書いて置かう」と書き始めて、西洋風の家に招かれて、 そこでバイオリンとピアノを用意した姉妹に、何を弾こうかと問われてム ーンライトソナタを所望し、演奏に「恍惚としてしま」い、別れを告げて 玄関を出ると、月は正に天心にかかり、鈴虫の音が草むらのなかにする。 「ムーンライトソナタはなほドコやらに消えずにあるやうだ  」 と 、 記して いる。 年代不明ながら、津田は日本神話を題材とした交響曲を構想したらしい。 「交響楽 天地開闢」のタイトルのもとに四楽章構成のメモが残っている  。 当時としては新しい音楽への好奇心も持っていた。日記に次の記載があ る  。 ハンネッカーの 「 ストラウス論」 をよんだが、 二分はわかつたやうで、 八 分はわからぬ、 音楽を文字で伝へようとするのは、 雲をつかませるよりなほ むつかしい、(明治四四年三月七日) 三畳にとぢ籠つて Mo de rnM us ic& M us ici an s の中の St ra us s の章を読 む、 ハンネッカーの批評と照らし合はせて、 此の現代楽師のおもかげを髣髴 の間に認むることが出来たこゝちがする、 音 楽に於いてもリヤリズムが一転 して新シムボリズムとなつた形勢をも推知せられる、(明治四四年三月八日) どれだけ津田がリヒャルト シュトラウスの音楽を聴いたことがあるの か不詳だが、理解しようと努め、音楽の動向の大きな 流 れをつか み とって いることが知られる。 津田は日本音楽 史 の 研究 をやめてしまったが、そのことを家 永 三 郎 から 尋 ねられて、 「 自 分は 自 分で音楽を演奏することができないので、 ほんた うのことが分らないから、 やめ た 」と 答 えている。 津田は 同じ対 談で、 「音楽 史 といふものは、音楽そのものはとらへることができないのだから、 むつかしい」とも語っている。 自 分が演奏できなかったためなのかどうか、 夫 人にバイオリンの 練習 を さ せていたらしい。 栗 田 直躬 が「 夫 人はた ぶ ん 先生 の 奨 めによってであり まし ょ う ヴァ イオリン( 先生 の話ではその ヴァ イオリンは日本で始めて 造 られたものとのことで、 戦後 まで残りましたが、もうばらばらの 状態 でし た。 )の 稽古 をして 居 られた 」との 証 言を残している。 津田 旧蔵 書の中にはオルガンの 教則 本の 他 に楽 譜 も 数冊 残 さ れている 。 しかし、 教則 本は妹のためのもの、それ 以外 はずっと 昔 に 必要 があった 最 低限 の み だったのではないかと推 測さ れる。この 点 で、音楽好きであるこ とが 共通 し、津田と 専門的 にも 近 い 丸山真男 がオー ケ ストラ曲のスコアを 大 量 に所 蔵 していたのとは明らかに 志 向が 異 なるようである。

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では、レコードを聴くことはなかったのか。筆者はその有無の情報を持 たないが、やはり栗田直躬が、 「津田家には昔から電話というものはなく、 ラジオもテレビもありませんでした  」と証言しているのがひとつの答えか もしれない。 六 津田左右吉の旧蔵書は現在、早稲田大学図書館で「津田文庫」として一 括管理されている。ただし、和書と異なり、洋書は「津田左右吉博士記念 室」に排架されていて、出納式利用となっており、通覧することができな い。津田文庫目録で見る限り、音楽関係の洋書は三五冊ほどがそこに収蔵 されている。 彼がリヒャルト シュトラウス論を読んだ、 Mo de rnm us ic &m us ici an s  もその中に現存しており、 シュトラウスの章に書き込みが 集中していることが確認できる。 さて、 「音楽俗話」 を書くに際しては、 日本の文献も多用しているであ ろうが、当時の状況から見て、それ以上に西洋由来の知識が用いられてい るであろう。今回旧蔵書の洋書の一部を閲覧することができた。それらは すべて丸善から購入されていた。いずれもよく読まれていることは書き込 みや線引きによって知られる。 津田はおそらく、 Ho wt ol ist ent om us ic  などを参考にしていると考え られる。既述のオーケストラの編成に関して、同書には、彼が参考にした と思われる事項が見られる。バイロイト一八七六年、ニューヨーク フィ ル、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団の四つのオーケストラの楽器編成 が比較対照されて表として示されているのがそれである  。津田はその表を 参考にして自分なりの数字を書いたのではないだろうか。 「少なくとも」 と書いてしまったのは、表の隣の欄に書かれたニューヨーク フィルハー モニックの楽器編成が第一 第二バイオリンとも一八台になっているから であろう。そして、東儀はこの本をおそらく津田から借りて、正確に紹介 したのである。 調の性格についての説明については、同書にはそれらしい記述がない。 また、同書にはオペラ ブッファ、オペラ セリア、オペラ セミセリア についても説明されているが、津田が説明したようにオペラ セミセリア をオペラ ブッファと対比させるのではなく、オペラ セミセリアである 「ドン ジョヴァンニ」 を モーツァルト自身はオペラ ブッファと呼んだ との説明が記されている。 ワーグナーについて書いた回の 「音楽俗話」 では、 「タンホイザー」 と 「ローエングリン」 のあらすじが書かれていたことを 先 に記した。 津田蔵 書の中に Wa gn er  があり、 同書ではその二 作品 にそれ ぞ れ一章があてら れている  。中 に 作品 の 梗概 も書かれているが、 「音楽俗話」 に書かれたあ らすじとの 間 に明確な 類似 は見られない。 津田左右吉旧蔵書を 網羅的 に見ることができたわ け ではないし、津田が 蔵書以 外 の 資料 を見ている 可能 性もあるから、 断定的 なことは言えないが、 これまでの調 査 の限りでは、彼が「音楽俗話」を書くにあたって、 何 か一 冊の 種 本を 基 にしたというような 単純 なものではなく、 実演 に 触 れ、 専門 の 研究 にお け ると同じように、 内外 の関係文献を 渉猟 し、それらを 咀嚼 し たうえで記されたのではないかと考えられる。それほどに、この時 期 の彼 は音楽の 世界 の 住人 だった。

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注 1 各回の書誌事項は次のとおり。 (一) 「管絃楽の組織」 (『をんな』五巻八号、 明治三八年八月) 、(二) 「歌劇」 (同 五巻九号、 明 治三八年九月) 、(三) 「音楽の感情的要素」 (同五巻一〇号、 明治三八年一〇 )、 (四) 「ワグネル の楽劇」 (『なでしこ』六巻一号、明治三八年一一月) 、(五) 「 純正器楽 アブソリユウトミユウジツク 」 (同 六巻二号、 明治三八年一二月) 、(六) 「モザァトのこと」 (同 六巻三 号、明治三九年一月) 、(七) 「舞踏の曲と進行曲」 (同 六巻七号、明治三九 年五月) 、(八) 「音楽の形式と其の表情」 (同 六巻八号、明治三九年六月) 、 (九) 「風琴と洋琴」 (同 六巻九号、明治三九年七月) 、(十) 「家庭の音楽」 (同 六巻一〇号、明治三九年八月) 。なお、この文章はまとめて『津田左右 吉全集』二二巻(岩波書店 昭和四〇年七月一七日 一七九 二二〇頁)に 収録されている ( 以下同全集を 「全集」 と略す) 。 本 稿での引用は全集から 行う。 2 「津田左右吉年譜」 全集補巻二 (岩波書店 一九八九年一〇月二四日) 三五 〇 三五一頁。 3 前掲全集二二巻 一七九 一八〇頁。 4 バイオリンを第一と第二の二部に分けるが、作曲家によってはさらに小分す ることがあり、ワーグナーは二部を各々八つに分けたことがある、といった 記載まである。 5 前掲全集二二巻 一八五頁。 6 現在一般的には、オペラブッファとオペラセリアを対比させるであろう。 7 前掲全集二二巻 二〇五頁。 8 明治三〇年に碧潭によって読売新聞に書かれ、それから抜粋したという「モ ザートの 吊 歌 リイエム[ママ] 」( 『音楽 (おむ賀く) 』 七 五号 明治三〇年一二月二五日 二九―三〇頁)でもモーツァルトは完成後に亡くなった旨の記述があり、当 時の一般的理解かもしれない。 9 前掲全集二二巻 二一三頁。 10 前掲全集二二巻 二一五頁。 11 前掲全集二二巻 二二〇頁。 12『独協七十年史』 昭和二八年一二月。 のち全集二四巻 (岩波書店 昭和四〇 年九月一七日)に収録。引用は後者による。 13 前掲全集二四巻 八七頁。 14 北見治一『鉄笛と春曙 近代演技のはじまり』晶文社 一九七八年五月三〇 日七 七 九〇頁。 15 全集二六巻(岩波書店 昭和四〇年一一月一七日)一五七頁、二四四頁、三 一三頁、三八一頁、四五六頁。 16 東儀鉄笛『音楽通解』博文館 明治四〇年八月三一日。 17 現在、早稲田大学図書館に津田文庫として収蔵されている。訂正の書きこみ は 三 八頁 に 見 ら れ る 。 な お 、 国立国会図書館所蔵本 が 、 同館 の 「近代 デジタル ライブラリー 」 で 閲 覧 できる 。 ht tp :// kin da i.n dl. go .jp /in fo :n dlj p/ pid /8 54 77 7 二〇一二年九月一七日最終確認。 18 前掲全集二二巻 二〇九頁。 19 東儀前掲書 一五五頁。 20 前掲全集二二巻 一八二頁。 21 東儀前掲書 八〇頁。 22『ニューグローヴ世界音楽大事典』 三巻 講談社 一 九九四年一〇月一日 三八二頁。 23 いちいち注記しないが、明治三二年分は全集二五巻(岩波書店 昭和四〇年 一〇月一八日) 、他はすべて全集二六巻による。 24 操 は津田の 先妻 。 栗 田 直躬 「 思 い 出 」(六) 、『津田左右吉全集』 二 七巻 (第 二次)月 報 (一九八八年一一月)一二頁を 参照 。 25「学 究生活 五十年」 『 思想 』昭和二六年一月 のち前掲全集二四巻に収録。後 者の九六頁から引用。 26『音楽大事典』二巻 平凡 社 一九八二年一月二日 六四二頁、 「管 弦 楽」の 項、 執筆 は 金子篤 夫 。東 京芸術 大学 百 年史 編 集 委員 会 編 『東 京芸術 大学 百 年史 演 奏 会 』第一巻 音楽 之友 社 一九九〇年一一月一〇日 六一頁。 なお、 『音楽 ( おむ賀く) 』 七 四号四三頁に、 「其 目 的は 善良 なる音楽を演 奏 し 相共 に 高尚 なる 快 楽を 計 るにありて」 、 こ の音楽会が 挙 行される見 込 みと

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なり、会員を名誉特別通常の三種に分かつことが記されている。 27 三浦俊三郎『本邦洋楽変遷史』日東書院 昭和六年一〇月五日 四三一頁。 28 ナクソス ミュージック ライブラリで検索。 ht tp :// swu .ml .n ax os .jp / alb um/ DDA 27 80 2 二〇一二年九月一七日最終確認。 29 ht tp :// swu .ml .n ax os .jp /a lb um/ Au dit e9 7.6 86 二〇一二年九月一七日最終 確認。 30 井上和男編著『クラシック音楽作品名辞典』三省堂 一九八一年一一月二〇 日 七頁。 31 ht tp :// in ge b.o rg /L ied er /s ac ht ewi .h tml 二〇一二年九月一七日最終確認。 32『ニューグローヴ世界音楽大事典』 一〇巻 講談社 一九九四年一〇月一日 三二三 三二四頁。 33 前掲全集二六巻 二一五 二一六頁。 34 三浦俊三郎前掲『本邦洋楽変遷史』四三七 四三八頁。 35 前掲『クラシック音楽作品名辞典』六四五 六四六頁。 36 ht tp :// swu .ml .n ax os .jp /a lb um/ Au dit e9 7.6 86 二〇一二年九月一七日最終 確認。 37 前掲全集二六巻 三〇六頁。 38 前掲全集二六巻 四〇六 四〇七頁。 39 正宗白鳥 「明治音楽会所感」 『読売新聞』 明治三六年九月二九日。 の ち 『 正 宗白鳥全集』二四巻 福武書店 一九八六年七月三一日。引用は後者二九頁。 40 前掲全集二六巻 四二一頁。 41『寺田寅彦全集 文 学 』 一一巻 岩波書店 昭和一二年二月七日 二八六 頁。 42 前掲全集二二巻 一九九頁。 43 安藤弘 「 歌劇 『ローヘングリン』 梗概」 『音楽新報』 二 巻七号 明 治三八年 九月一日 一八 二一頁。 44 森 づか「音楽階梯」 (一) (三) 『をんな』三巻一号 三巻六号 明治三六 年一月一五日 明治三六年六月一五日の(三) 「を三五頁」 。 45 東儀季治 「音楽 楽譜  第十回 十四調子」 『女学講義』 第三回後期第二 三巻 明治三六年九月二五日 一八三 一九六頁。 46 前掲全集二二巻 一九六頁。 47 小林典子「 「西楽論争」 森 外と上田敏のヴァーグナー論 」『比較文学研 究』四四号 一九八三年一〇月二〇日 八三頁。 48 中村洪介『西洋の音、日本の耳 近代日本文学と西洋音楽』春秋社 一九八 七年四月二〇日 四 七七頁にも、 明治三〇年代後半のことになるが、 「ヴァ ーグナーの場合は、海外でこれを体験した少数の人々を除き、国内に於てそ の作品の完全な上演に接することなど望むべくもなく、 「タンホイザー」 や 「ローエングリン」 、或は「トリスタンとイゾルデ」の極く一部だけを頼りに、 一斑を以て全豹を卜する式の、然し大いに熱っぽいヴァーグナー論者を輩出 せしめた。近代化を急ぐ日本の文壇にとって「思想家」ヴァーグナーが論ず るに 恰好 の人 物 で あ った事、 ま た 仮令 音楽を 充 分 聴 かず 専ら活 字 に 拠 っても ヴァーグナーの「思想」は論 じ ら れた事、これがヴァーグナー 聴 かずのヴァ ーグナー論者を 多 数 生み 出すとい う 特 異現象 の 因 って 来 る所以だったと 考え て よ い。 」との 指摘 が あ る。 49 大 島 義 修 「家 庭 と音楽」 『をんな』 三巻七号 明治三六年七月一五日 「を一  九頁」 。 50 津 田つ ね 「思 ひ 出い ろ  」、全集別巻五 付録 (岩波書店 昭和四一年六月) 一一頁。 51 前掲全集二五巻 二六四頁。 52 前掲全集二六巻 三五九 三六〇頁。 53 前掲全集二六巻 三七六頁。 54 前掲全集二六巻 一五三 一五四頁。 55 交響 楽 天地開闢 」( 津 田 博士 の ノ ート よ り) 全集一一巻 付録 (岩波書店 昭和三九年八月)三 四頁。 56 前掲全集二六巻 四四九頁。 57 家 永 三郎「 津 田 左 右吉 博士 に 面謁 するの記( 続 )」 『 津 田 左 右吉 全集』二六巻 (第二 次 )月報(一九八八年一〇月)五頁。 58 栗 田 直躬 前掲「思い出」 (六)一〇頁。

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59 目についたものを記すと、 津田自身が論じたことのある、 坪内逍遙作歌 東儀鉄笛作曲『常闇』修文館 明治三九年一〇月二五日再版、開成館音楽課 編纂 『教科適用進行曲粋』 明治三七年一二月九日訂正再版、 近藤逸五郎著 『独唱名曲集』如山堂書店 明治四〇年六月一五日、 『英語唱歌愛吟集』第一 編 太平洋館 明治三六年二月三日。 60 前掲栗田直躬「思い出」 (六)一一頁。 61 St re at fe ild ,R. A. Mo de rnm us ic an dm us ici an s. L on do n, Me th ue n, 19 06 . 62 Kr eh bie l, He nr yE dwa rd .Ho wt ol ist ent om us ic: hin ts an ds ug ge sti on s to un ta ug htl ov er so ft hea rt. L on do n,J oh nM ur ra y,1 90 2. なお、 Ne w Yo rk ,S cr ib ne r から 刊 行 された 七 版 がプロジェクト グーテンベルクで 見 ら れ る。 ht tp :// www. gu te nb er g.o rg /f ile s/ 17 47 4/ 17 47 4-h /1 74 74 -h .h tm 二〇 一二年九月二五日最終確認。このデータの版面は原本とは異なるが、内容  頁数などは原本のままである。 63 同書八一 八二頁。 64 L id ge y,C ha rle sA . Wa gn er .L on do n,J .M. De nt ,1 90 7. 65 他にも「さまよえるオランダ人」 、「トリスタンとイゾルデ」 、「ニュルンベル クのマイスタージンガー」 、「ニーベルンクの指環」 、「パルシファル」にもそ れぞれ一章が与えられている。 *文献の引用にあたって、人名以外の旧字は概ね新字に改めた。 (なかにし ゆたか 文化創造学科)

参照

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