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近世飢饉災害における宗教者の救済活動:施行と水陸会 ──享保の飢饉と『天下太平豊年記』を中心に──

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近世飢饉災害における宗教者の救済活動:施行と水

陸会 ──享保の飢饉と『天下太平豊年記』を中心

に──

著者

朴 炳道

雑誌名

東北宗教学

16

ページ

43-69

発行年

2020-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00131066

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近世飢饉災害における宗教者の救済活動:

施行と水陸会

──享保の飢饉と『天下太平豊年記』を中心に──

朴  炳道

キーワード: 享保の飢饉、 天下太平豊年記(整政豊年記)、施行、水陸会(施 餓鬼)、西宗庵 1.災害時における宗教者の救済活動  災害とは、人間個人や社会に「害」をもたらす事態である。その被害という ものは、具体的に物理的被害と心理的被害に分けてみることができる。物理的 な被害には、家屋や財産の破壊による物的被害と人間の負傷や死といった人的 被害があり、心理的な被害には、災害自体による恐怖と無力感などの心理的衝 撃、物的・人的被害にから受けるショックと悲しさ・怒りなどがある。こうし た「害」は、貧困・病気・死という「苦」の状況をもたらすもので、人間にお ける根本的で限界的な問題を一瞬に発生させる事態といえる。そのため、被害 への対処と回復が必要とされる事態でもある。こういった「害」と「苦」をも たらす事態に、災害の歴史ほど長く、人間の救済を求める宗教が長く関わって きた。  日本の災害史からいえば、日本最初の「災害見聞記」1 といえる鴨長明の『方 丈記』には、安元の大火(1177)、治承の竜巻(1180)とその直後の福原京遷都、 養和の飢饉と疫病(1181)、元暦の地震と津波(1185)に関する記述があり、 それへの宗教的対処として災害除けの呪術や祈祷・修法などが描かれている。 とくに養和の飢饉に関する記述に「隆曉法印」という僧侶が飢饉死者の額に「阿」 1 「災害見聞記」とは、災害を経験・見聞した多様な階層の人々が残した災害関連の記録を 総称するものである。江戸時代以降、記録文化や出版文化の発展に伴い、多くの「災害見聞 記」が生み出された。従来の研究はこのような資料を随筆などの文学作品、日記・年代記な どの史料として把握してきたが、筆者は前近代災害に対する人文社会学の研究で、このよう な資料をさらに重要に取り上げる必要があると考えている。「災害見聞記」の具体的な事例 研究として、朴(2016)を参照。

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字を書いて慰霊した具体的な様子が描かれている点は重要である(鴨長明、神 田校注訳1995: 23─24)。この点から日本災害史の初期から宗教者の救済活動が 行われたことが確認される。  現代の災害においても宗教と宗教者の役割は非常に重要な問題となっている。 とくに1995年の阪神・淡路大震災と2011年の東日本大震災以降、災害時におけ る宗教と宗教者の救済活動は、宗教界だけでなく、宗教学界においても非常に 重要な課題として浮上した。阪神・淡路大震災以降、多くの宗教団体や宗教者 がボランティア活動に深く関わりはじめるようになった(国際宗教研究所編 1996;三木2001)。このとき、災害が原因となって発症する「外傷後ストレス 障害(PTSD)」が精神医学や心理学、社会学の研究者から指摘されはじめ、物 的・人的被害だけでなく、心理的被害も災害の被害として新たに注目された(中 井1995;こころのケアセンター編1999;服部・山田1999)。宗教団体と宗教者 も物的被害の復旧だけでなく、被災者の心的外傷の緩和に関わるようになった。 2011年の3.11東日本大震災では、宗教団体や宗教者の被災者への救済活動が さらに幅広く行われるようになり、その活動は宗教研究者にとっても大きな研 究テーマとして認識された。宗教団体・宗教関係者の活動は、より大きな文脈 で捉えられ、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」論の中で論じられる ようになった(稲場・黒崎 2013)。社会における宗教の機能的側面、とくに「社 会貢献する宗教」としての公益性を強調する「ソーシャル・キャピタルとして の宗教」論では震災復興における宗教団体や宗教者の活動に注目する。その活 動は物理的な復興支援だけでなく、「災害」という「外傷」を被った人々の「こ ころのケア」まで至っている。その代表的な事例が「臨床宗教師」という存在 の誕生といえよう(高橋2013;大村2014・2019;谷山2016;藤山2020)。そして、 宗教団体・宗教者だけでなく、宗教研究者の災害における役割についてふれる 「自己参加的」研究や活動も増えていく(稲場2012;島薗2013)。  災害時における宗教団体や宗教者の救済活動への関心や研究は増えていくも のの、それは近年の災害に集中しており、とくに前近代の災害に関してはまだ それほど目が向けられていない状況である。本稿では、こうした研究不足の中

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で前近代の災害における宗教者の救済活動に目を向け、その具体的な事例を提 示し分析を行っていく。本研究で取り上げる災害の事例は18世紀に西日本を中 心に大きな被害をもたらした享保の飢饉(1732~1733)である。その後に書か れた1737年刊行の『天下太平豊年記』という「災害見聞記」を中心資料として 取り上げ、飢饉災害における宗教者の救済活動に焦点を合わせる。とくに飢饉 で飢えていた生者への救済としての「施行」の活動と、災害死者への救済とし ての「水陸会」という死者儀礼の具体的な様子にふれることで近世の飢饉災害 における宗教者の救済活動の様子とその意味を考察し、それを踏まえて『天下 太平豊年記』の資料的価値を評価したい。 2.享保の飢饉と『天下太平豊年記』 ⑴ 享保の飢饉の概要  まず、享保の飢饉の発生と被害状況を簡略にまとめよう。享保十七年(1732) 七月頃から西日本で発生した飢饉は「享保の大飢饉」あるいは、「子年の大変」 などと呼ばれ、その後の「天明の飢饉」・「天保の飢饉」とともに、江戸時代の 三大飢饉のひとつとして知られている(菊池1997:1)。天明の飢饉や天保の 飢饉が主に冷害によるもので、東北地域に長期間にわたって大きな被害をもた らしたことと比べ、享保の飢饉は虫害による凶作が原因で発生し、主に九州や 四国地域で相対的に短い期間に大きな被害をもたらしたという特徴がある。そ の飢饉の発生や過程については当時の筑前国福岡藩の記録や飢饉を経験した 人々の「災害見聞記」から確認できる。福岡藩の黒田家の記録である『黒田新 続家譜』繼高記五の享保十七年の記録では、飢饉の発生が次のように語られて いる。 今年春の比より雨多く、初夏に至りて大麥・小麥ともに、半ハ腐りて熟せ す。其後愈雨降つゝきて、五月雨の頃になりぬ。稲苗既に長し水多けれハ、 國中の田地残らす植渡し、閏五月に至てハ、稲の出来うるハしかりしかハ、 農民悦ひあひしに、六月に至ても雨猶やます、洪水屢ありて挿たる苗も流

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れ、或ハ水にひたりて腐り捨れしも有しか、六月半より葉蟲莖蟲生して、 次第に國中の田悉く蟲付ける。凡此災當國のミにあらす。西國・四國・中 國皆同し(川添、福岡古文書を読む会校訂1982:153)  享保十七年は春から大雨による冷害や洪水の被害を受けたうえに、六月中旬 からは虫害も発生し、その被害は福岡だけでなく、九州全体そして四国・中国 地方にまで及んだ。この虫は当時「うんか」あるいは「サネモリ虫」と呼ばれ ており、「蝗」とも記録された。村々では虫退散のために、寺社での祈禱や虫 送りなどの儀式を行ったが効目はなく、ほとんどの稲は腐ってしまった。結局、 大凶作になり食糧不足状態に陥ったのである。  七月中旬になると、多くの農民が食糧をもとめて都市部に集まるようになっ た。福岡城下付近の農民は福岡・博多両市中に入り込みはじめた。福岡藩右筆 頭取であった長野源太夫の日常風聞の記録である『長野日記』2 では次のよう な内容がある。 稲作惣而腐候付、子七月十六日より、在々の民女五人十人同伴して、福岡 屋敷ニ、又市中俳徊をして袖乞する、今年皆損ニ相見候上ハ、外ニ命をつ くへきいとなミも見付す候間、皆々覚悟致候様ニ、村庄屋より申触候故、 身上よろしき者の妻子杯も、打つれて出けり、貧しき者ハ実から心まとひ、 驚き騒きて、幼き子の手を引、ようほひたる、うはの腰を押へ、夥敷事、 只祇園・放生会の比、通筋に人多きに異ならす(秀村1981:318─319)  ここでは七月から家族をつれて福岡・博多市内に入り物乞いをする人々が、 祇園山笠や筥崎宮放生会のときのように多いと描いている。こうした厳しい状 況の中で、人々は気力を失い、行き倒れて餓死していった。  二年間にわたる飢饉の中で、十月から翌年四月まで多くの餓死者、そして飢 2 『長野日記』は元禄八年(1695)から享保二十年(1735)までの約四十年間のことを記し ており、藩主に関する記録である『黒田新続家譜』を補う史料として価値が高い。

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饉に伴う流行病による病死者が出た。飢饉の発生から死者の発生までの過程を まとめてみると次のようになる。享保の飢饉の場合は、まず冷害と虫害による 凶作→凶作による米価の上昇→食糧不足による農民・下層民の都市部への流入 →飢寒・疫病による死者の発生という過程を経た。  死者は七月、八月から出はじめているが、急増するのは冬になってからであ る。それは寺院過去帳の研究を通して把握することができる。筑前国那珂郡春 日村の長円寺過去帳を用いて、享保十六年から同十九年までの四年間の死亡者 数を調査した研究によれば、飢饉が始まった享保十七年七月から死亡者数が増 えはじめ、翌年享保十八年二月に最高に達した(柴多2002:98)。麦などの裏 作の収穫が始まる四月からは死者が大きく減少し、稲の収穫が始まる十月から は平年なみになり、飢饉からの回復期に入った。享保の飢饉における死者の発 生は、寒くなる十二月から翌年四月までがピークであった。  享保の飢饉における死者の数については、『黒田新続家譜』では千人の死者 と記しているが、この数字は実態と大きく離れていると指摘されてきた(柴多 2002:100)3。当時の様々な資料では、享保の飢饉の死者数を九万から二十八万 までそれぞれ記しているが、その根拠は提示されていない4。現在の研究として はアルネ・カラン、ヨン・ペデルセンが、当時福岡藩の宗像郡・糟屋郡の寺院 過去帳を分析して、飢饉による死亡率を20%以上と見なし、当時福岡藩の人口 の20%にあたる七万人ほどの死者が出たと推定している(アルネ・ヨン1989)。 ただ、飢饉死者は多くの場合、食糧を探して移動の途中、または他の地域で死 んでおり、大量死者として集団埋葬された場合も多いため、檀那寺の過去帳か ら死者の推定をすることにも限界がある。 3 福岡藩の『黒田新続家譜』で死者の数を少なく記録した理由としては、飢饉の最中である 享保十七年十二月に、伊予松山藩主松平定英が他藩より餓死者が多いことは対応が悪いから であるとして、幕府から出仕を止められた事件があり、幕府に被害者を少なく報告したので はないかと考えられる。 4 遠賀郡下上津役村の庄屋の記録である『村用集』では福岡藩の死者を十五~十六万と記し ており、『御年譜集要抄』や『岡郡宗社志』では十万人余としている。薩摩藩主島津重豪が 編纂させた『形成図説』では、福岡藩の死者九万六千余を含めて二十八万の人が死んだと記 している。

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 福岡藩を含めて当時日本全体の飢饉災害の死者はどれほどだったのだろうか。 『徳川実紀』では九十六万人と記しているが、この数字は各藩から幕府に報告 した飢人の合計を餓死者として取り違えたミスであり、正確な餓死者の合計は 一万二千人である(菊池1997:89─93)。しかし、福岡藩の事例からも見たよう に、各藩からの報告は縮小申告の可能性が高く、享保の飢饉の全国規模の総死 者は『徳川実紀』で誤記された百万に近いとも考えられる。 ⑵ 「災害見聞記」としての『天下太平豊年記』  本稿では享保の飢饉の被災者に当時の人々がどのように対処したかという問 題を考察するために、当時熊本藩の飢饉状況を描いた「災害見聞記」を取り上 げる。それが『天下太平豊年記』という文献である。本格的にこの資料を分析 する前に、書誌情報、著者、構成など基本的な資料の性格から考える必要があ る。  『天下太平豊年記』は、『増訂版国書総目録』と国文学研究資料館の「新日 本古典籍総合データベース」には、『整政豊年記』として掲載されており、別 書名に『泰平豊年記』と『天下泰平豊年記』などが提示されている5 。巻数は 二巻二冊で、元文元年(1736)に「序」が書かれ、同二年に刊行された。最初 は二冊本として発刊されたが、以降合本として再刊され、その際に書名が改め られたと考えられる。本稿では、熊本県立図書館蔵の『天下太平豊年記』6を底 本にし、八代古文書の会が翻刻・刊行した『天下太平豊年記』(西宗庵、八代 古文書の会編1992)を主に用いるが7、静岡県立中央図書館蔵の『整政豊年記』8 も参考にする。熊本県立図書館蔵の『天下太平豊年記』は上下二冊を合本にし たもので、その出版年は不明であるが、表紙見返しに「安政三とせ 御買備  5 『増訂版国書総目録』(岩波書店、1990)と国文学研究資料館の「新日本古典籍総合データ ベース」(https://kotenseki.nijl.ac.jp/)の「整政豊年記」の項目参照。 6 『天下太平豊年記』(写本)熊本県立図書館蔵、上妻文庫三七、請求記号 C/611. 3/ ニ /。 7 以下で『天下太平豊年記』を引用する際には、西宗庵、八代古文書の会編(1992)を『豊 年記』と表記し、その頁のみ記す。 8 『整政豊年記』静岡県立中央図書館蔵、葵文庫 Q611-18、請求記号204─99─4(新日本古典 籍総合データベース https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100065281で閲覧可能)。

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矢部会所官本」という書き込みがあり、奥書には「大坂南御堂前 天満屋安兵 衛 広屋福三郎板」と書かれている。ここから安政三年(1856)に矢部会所と いう役場(現在、熊本県上益城郡山都町)の備品であったこと、そして大坂の 天満屋安兵衛という出版業者によって出版されたことがわかる。熊本県立図書 館蔵の写本の巻末には「熊本市上林町十九番地 河島豊太郎蔵」と記されてお り、原本の所有者が舒文堂河島書店の先代の河島豊太郎であったと判断される。  『天下太平豊年記』の著者は、その「序」に「西宗庵一翁」と書かれている。 西宗庵という人物は、号は恕伯軒で、肥後熊本藩八代郡(現在、熊本県八代市) の医者であったと考えられる。八代古文書の会が刊行した『天下太平豊年記』 の「まえがき」には、白木成邦という人物が昭和六年(1932)頃に書いた新聞 記事「玄髄禅師の事蹟」を引用し、西宗庵は高田村の庄屋松岡五郎左衛門の三 男で、伯父桑原賢門につき、医業を学び、益城郡で御軍医師に任せられたと紹 介されている。以降長崎で先師の姓を冒して西氏に姓を改め、八代に帰って医 業を勤めたという(『豊年記』:2)。ただ、この新聞記事の内容は現在確認す ることができなく、その内容を確かめる資料も明確ではないという点には注意 する必要がある。  『天下太平豊年記』は、漢文の「序」と、あとがきに該当する「跋」、仮名 で書かれた「泰平豊年記 巻上」、「泰平豊年記 巻下」で構成されており、そ のうち、「跋」は息子の西松伯が書いたものである。大正期に出版された『通 俗経済文庫』に活字翻刻が初めて収められたが、『天下太平豊年記』という文 献自体に関する研究はなされておらず、享保の飢饉の関連研究などで取り上げ られることもなかった。『通俗経済文庫』の「整政豊年記」の「解題」では、 経済史の観点から「享保十七年の飢饉に際し、細民困窮の状寺院或は個人の救 済事業の実況を記敍」(日本經濟叢書刊行會編纂1917:5)したものと紹介し ており、新日本古典籍総合データベースでは、「万民豊年のために社会奉仕し た人の善行録」と紹介しているだけであり、享保の飢饉との関連や著述の目的 などについては詳しく言及されていない。  『天下太平豊年記』を著した目的については、「序」と「跋」に明確に示さ

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れている。「序」では「余去今凶豊の間、纔か聞見する所の善行と暴悪とに数 件を挙げて之を筆するに仮字部語を以てし、童蒙をして勧懲の一助と為さじめ ん事を欲するのみ」(『豊年記』:5─6)といい、西宗庵が凶年と豊年の間に見 聞した善行と悪行をあげて、まだ幼く道理を知らない者に「勧善懲悪」を教え るために、仮名で書いたとしている。また、息子の西松伯は「跋」で「古に曰 はく、善を行ふ時は則ち休徴之に報じ、悪を行ふ時は則ち咎徴之に随ふとは是 れ此の謂なり。家父恕伯軒凶豊の間聞見する所の善行と暴悪と数件を挙げて之 を書し、以て我輩に示す。是れ吾儕をして勧懲の一助と為さしめんと欲するに 在り」(『豊年記』:43─44)といい、その内容は「善行を行うと良い報いを受け、 悪行を行うと悪い報いを受ける。父は凶年と豊年の間に見聞した善悪を記録し、 我輩に示した。これをもって善を勧め、悪を懲らしめる(勧懲)ことに一助と なることを欲する」という意味で読むことができる。すなわち、善行を行った 多くの人々がいたため、飢饉を乗り越え、翌年は豊年になっており、その事例 をもって「勧善懲悪」の戒めを伝える啓蒙的な目的で書かれたものとしている。  こうした目的があったため、本文に該当する「泰平豊年記 巻上」の十六個 の章は、主に飢饉の被害を被った人々に善行を行った宗教者と庶民の具体的な 話で構成されている。一方、「泰平豊年記 巻下」の六個の章には、享保の飢 饉より三十年前に起きた飢饉で西宗庵の父母が行った善行、飢饉の際にもつべ き心構えを記した「凶年家訓」、凶年が起こる理由とそれを豊年に戻すために なすべき行為について中国と日本の歴史的人物の逸話を用いて説明する「豊凶 或問」などで構成されており、「巻上」を補う性格のものである。  飢饉の「災害見聞記」であるが、そのタイトルが「飢饉」や「凶年」よりも、 『天下太平豊年記』のように「太平」や「豊年」を強調した理由は何だろうか。 『天下太平豊年記』には、飢饉の翌年(1733)は豊年になったという話がよく 出ており、飢饉災害の際に多くの人々が善行を行ったため、飢饉を乗り越え、 豊年を迎えることができたという、「善行による道徳の回復」・「善行による功 徳の積み」により、「災害」を克服したという認識が頻繁に表れている。それは、 著者の西宗庵がもっている飢饉災害の発生と克服に関する認識、すなわち「序」・

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「跋」・「泰平豊年記 巻下」を中心に表れている儒教的災因論としての天人相 関論の認識9と、「泰平豊年記 巻上」を中心に表れている仏教的因果論の認識 が共に表れたものと考えられる。二つの認識は具体的な内容では異なる点があ るが、人間の行為によって災害が起こり、また人間の行為によって災害を防ぎ、 日常を取り戻すことができるとみている点で共通している。いいかえれば、災 害の発生と阻止において人間行為が重要な変数になるという災害観である。  こうした災害認識にはその背景に儒教的世界観と仏教的世界観が置かれてお り、医者という当時の知識人として備えていた儒学の教養という側面と、日常 生活の中の仏教信仰の側面が結合して複合的に現れたものと考えられる。次の 二つの章では西宗庵の著述目的と複合的な世界観を考慮しつつ、宗教者と庶民 の具体的な生者と死者への救済活動にみていく。それを踏まえて生者の救済と しての「施行」と死者の救済としての「水陸会」が行われた目的と意味、そし てそれを記録した西宗庵の意図に注目し、『天下太平豊年記』という文献がも つ特徴と意義について考察する。 3.飢饉災害における生者の救済:飢民施行  『天下太平豊年記』の中で享保の飢饉の「災害見聞記」といえる部分は「泰 平豊年記 巻上」である。この部分は十六個の章で構成されているが、ただ 十六個の善行と悪行の話を並べたものでない。その中で中心をなす章は、一番 目の章である「久巌禅寺饑民施行の事」と十五番目の章である「久巌寺餓殍の 亡魂冥福追修水陸会の事」である。両方とも「久巌寺」という寺院と当時の住 職である玄髄の救済活動が描かれている。そしてそれに加えられた形で、熊本 藩八代郡を中心とした一般庶民のエピソードが紹介されている。その中で、飢 9 中国前漢の董仲舒によって提唱された儒教の災因論である。「人事が天に感応して天変地異 の現象となって現れる」という考えである。「災」は基本的に「天」によるものだが、「人」、 とくに為政者の行為によって、天と人が陰陽五行的に感応し、天が「災」を下すと認識した。 『天下太平豊年記』の「序」と「跋」には「故に仁君政を整へ、普く万民を済はじむ。玆に 於て明年癸丑寒暑時有り、風雨節を以てし、秋に至り百穀豊登せり」(『豊年記』:5、43) という部分に、為政者の仁政によって飢饉が終わり、豊年になったという内容があり、「天 人相関論」の認識が表れている。

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饉で盗人になったが懴悔して仏門に入った人の話(「凶年の盗人発心せし事」)、 飢饉で盗人になった人に善行と悪行を行った二人の女性の話(「凶年盗人に二 婦善悪の事」)、父母を餓死させた息子の話(「農夫老母を餓死せし事」)を除け ば、飢饉で苦しむ人々を助けた庶民とその善行の内容を紹介するエピソードで ある。本章では、「泰平豊年記 巻上」の中で生者の救済として「飢民施行」 を行った宗教者と庶民の話を取り上げ、彼らの飢民施行の具体的な様子とその 目的などをみていく。 ⑴ 久巌寺の玄髄の飢民施行  『天下太平豊年記』の最初の章である「久巌禅寺饑民施行の事」は、飢饉の 事情を説明する文章から始まる。 往歳壬子天時不正にして五穀不登、歳饑菜色餓殍の者甚多し。我国のミに あらず、遠近の邦も又しかり。故に八代城下の久巌禅寺の住持梅岑玄髄禅 師、これを見るに忍びず飢民施行の志を起し(中略)(『豊年記』:9)  飢饉が始まる享保十七年(1732)には五穀が実らず、凶年になり多く人々が 飢えて死んでいった。それは熊本藩以外に藩でも同じ状況であり、前章でも確 認した内容である。そのとき、八代城下町にある曹洞宗の久巌寺(現在、熊本 県八代市通町)で住持を勤めていた梅岑玄髄禅師がその悲惨な光景を見ること に耐えられず、飢民に対する施行を開始したのである。住持の玄髄は翌年の正 月一日の朝にその志を次の詩で表した。 天際日温人未温、癸庚声徹大悲園、為君指点別春色、花在家々開施門(『豊 年記』:9)  この詩は本文の返り点を参考にすると「天のはての日は暖かいが、人はまだ 温かくない。食料を求める人々の声は観音堂まで届く。君のために指さして示

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す特別な春の色、布施の門を開く家々に花がある」という風に読むことができ る。飢饉で食料を求める人々を助けて「施行」をすることの良さを、「春」と「花」 に喩えてそれを人々に勧める、また自ら施行の志を示す、という意味で解釈す ることができるだろう。  施行とは、布施の行為であり、僧侶や貧しい人にものを施し与える修行を意 味する。大乗仏教の教義における布施は、涅槃の彼岸に達するために必要な六 種の修行、すなわち六波羅蜜の第一でもあり、主に有形のものを与える財施を 意味するが、無形のものを与える布施(法施・無畏施)10もある。  玄髄はこの詩を作った後、正月十一日から人々を集めて遺教経や金剛経を講 釈する一方、十五日からは飢えている人々のための施行、すなわち「飢民施行」 を実施した。  仏場の前におゐて大施門をひらき、睦月十五日に施行を初め、弥生晦日 に終る。其中間に風雨しきりなる日といへども一日も懈る事なく、日々に 打心楼上の鐘を鳴らし、大悲閣辺の柳を綰ね、数千の饑民を招き、香を焼 経文を唱へ、あまねく三帰戒を授け、其後糜粥銭穀等かれがもとめに応じ 日々に手づからこれを施せり。しかりといへども名を惜ものハ饑餒に及ぶ といへども、乞丐の徒たらん事を恥て寺門にだもいたらず。是等のものに ハ遠近の市長・村翁に議り、左券をもつて糜粥銭穀を運びあたへしむ。(『豊 年記』:9)  この引用をみると、玄髄は久巌寺の前で正月十五日から三月三十日まで施行 を実施し、風や雨の日にも怠ることなく、楼上の鐘を鳴らし、観音堂の柳で輪 を作り、数千の飢民を招いた。そして線香と読経を行った後、仏・法・僧の三 宝に帰依するという三帰戒を彼らに伝授した。そして飢民の求めに応じて粥・ 銭・穀物などを自ら施した。だが、名誉を失うことを恐れた人々は飢えても乞 10 「法施」は人に仏法を説いて聞かせる、あるいは経を読み、法文を唱えることを意味し、「無 畏施」は人に恐怖心を取り除くことを意味する。

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食の徒になることを恥じ、寺門までくることができなかったため、彼らのため に、切符(左券)を用いて町村の責任者(市長)が粥・銭・穀物を与えるよう にした。  前章でふれたが、飢饉が起きた翌年の正月から二月までがもっとも飢饉死者 が多く出た時期であり、飢饉被災者にとってはもっとも厳しい時期でもあった。 そのときに食べ物と金銭が与えられたということは、命を救うため大きく役に 立ったに間違いない。この正月十五日から三月末までの二か月半の久巌寺によ る施行は、この地域における民間の災害救済活動の始まりとして評価すること ができる。  先ほどの引用には当時久巌寺の玄髄が行った施行の過程が詳しく描かれてお り、それをみると飢えた人々に彼らが求めるものをすぐ与えるというより、ま ず線香と読経、そして仏教入門の儀式である三帰戒を授戒する過程があった。 宗教者としての玄髄は、飢饉被災者の救済活動を行う際に、その手順に自分が 属している宗教の救済の目的を明確に貫いているのである。つまり、物質的な 施行をする前に、施行の対象になる飢民に「三帰戒」を「授戒」したというこ とは、施行の対象になる人々に、ただ飢饉による死と苦から物質的に逃れる方 法を提供することにとどまらず、仏教の道、とくに曹洞宗に帰依することで永 遠に救われる道をも提供するという意味で捉えることができる。この部分だけ をみると、久巌寺での「施行」自体がひとつの宗教儀礼的な側面があったとも いえるだろう。  だが、次の部分では施行を求めること自体を恥ずかしく思う人々も多くいた ため、彼らの心情を考慮して、そのような儀式がなくても施行を受ける方法を 考案している点では、授戒などの儀礼的な面だけが重要な目的ではなかったこ ともわかる。それは施行という行為自体が、飢民の救済だけではなく、さらに 広い意味をもっているからである。次の部分には施行を行う目的が西宗庵の観 点から示されている。 夫人ハ万物の霊たり。其人を一人済だに功徳大なり。しかもいはんや日々

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に数千人をすくふ功徳善根におゐてをや。其比諸方におゐて一寺或ハ一町 或ハ一人として種々の施行をなすといへども、若ハ一日若ハ二日乃至七日 バかりにして止ぬ。しかるに久巌寺の如く一寺におゐて七十余日の間、数 千の飢民に万さハリなく施行せし事例すくなし。(『豊年記』:10)  引用の内容をみると、まず儒教の経典『書経』からもってきた「そもそも人 は万物の霊」11という、「世界に存在するものの中で人間がもっとも貴重な存在 である」という意味の文章から始まる。この文章は近世日本で勧善懲悪の根拠 として多用された表現でもあった(西田2007)。そのため、ひとりの人間を救 済するだけでも功徳は大きいが、七十日間施行を行い、数千人の飢民を救済し た久巌寺の功徳は非常に大きく、珍しいことだと讃えている。  ここで人を救う施行によって功徳が生じるとしているが、この功徳とは現世 と来世に利益や幸福をもたらす根拠となるものである。善行の報いとしての功 徳は、西宗庵が『天下太平豊年記』全体を通して強調しているテーマでもある。 『天下太平豊年記』の中でもっとも長く善行を行い、功徳が大きい存在が久巌 寺の住持の玄髄であり、玄髄は『天下太平豊年記』の主人公といえる存在でも ある。そのため、最初の章に玄髄の実践を紹介し、その次に町村の一般庶民の 飢民施行を紹介する形で構成されているのである。そして一般庶民の善行のエ ピソードは、久巌寺の玄髄の影響や仏教への信仰によるものとして紹介されて いることも重要な特徴といえる。宗教者の飢民施行が先に行われたため、庶民 もそれを見習って、寺院での施行を手伝ったり、個人で施行を行ったりしたの である。こうした面で、久巌寺の玄髄による施行は、民間での施行を率先した ことであり、庶民層の間で施行の活動が拡散する契機や動機を与えたという意 味をもつ。 11 「人ハ万物の霊」という言葉は、『書経』の「泰誓」上編の「惟天地万物父母、惟人万物 之霊」から出たものである。「人万物之霊」という文句は、「人間は万物の中で霊妙な存在」、「人 間は万物の中で優れた存在」などと解釈されてきた。

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⑵ 市人の飢民施行  『天下太平豊年記』「泰平豊年記 巻上」では、久巌寺の玄髄による施行の 話が紹介された後、本文では「市人」と呼ばれている一般庶民が行った飢民施 行や善行の事例を紹介している。その多くの善行の内容は、飢民に食べ物を提 供することであった。「羹汁施行の事」という題目の章では、久巌寺で粥施行 をしている間に、本町一文字屋又十郎という商人が家人とともに、久巌寺で施 行を貰って帰る数百の飢民に、熱い汁物(羹汁)を施行したという。粥ばかり 食べては、消化器官に悪く、死に至る者も多いため、汁物を提供したことは 「仁術の良医」ともいうべきだと、西宗庵は医者としての知識に基づいて称え ている。この羹汁施行は、久巌寺の粥施行では不十分な部分を補う役割をした。  「饑人を憐む女の事」という章でも貝屋次郎左衛門という者の母が先祖の忌 日ごとに、数百の飢民に粥施行を施して、彼らを救ったという。さらに夜、門 外で泣いている男女と老少の飢民を憐み、自分の家に入れて食べ物と寝具など を与えた。その中で死者が発生すると埋葬し墓を作り、近くにある寺で追善供 養もした。そして寺の施行にも参加し粥を作ることもしたという。これは久巌 寺の施行に参加するとともに、また個人的にも飢民に施行を行った人の話であ り、久巌寺の施行と密接な関係がある。  久巌寺との関係は表れていないが、信仰との関連で善行を説明している章も ある。「類焼の中より飢人を救ふ市人の事」では、八代塩屋町の市長である種 子屋善七が、飢饉の間に火事が発生したとき、火が残っている蔵に入り米穀を 取り出し、それを飢民に施したという。この種子屋善七という人物は、一生仏 の道を信じ、本成寺という寺院に多くの寄付をした者だと最後の部分に記され ている。ここでは、命がけで飢民のために善行を行った人物の信仰心と寺院へ の布施が強調されており、彼の善行の背景に信仰心があることを示している。  『天下太平豊年記』における庶民の施行と善行の話は、久巌寺での施行に参 加した話、仏教の信仰をもとに施行を行った話、そして久巌寺の施行だけでは 救うことができない飢民に施行を施した人々の話であり、最初に提示された久 巌寺の玄髄の施行の志と、玄髄の勧めによるものとして紹介されていることが

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大きな特徴である。 ⑶ 施行供養塔の建立  『天下太平豊年記』には、飢民施行と関連して建立された塔の話も紹介され ている。災害が起こると災害関連の塔や碑が多く建立されるが、そのほとんど は災害死者供養のために建立された死者供養塔である。享保の飢饉に関する供 養塔に限ってみると、福岡の中学校教諭であった藤野達善が享保の飢饉との関 連で建てられたと思われる死者供養塔や地蔵像を長年にわたって調査し、紀行 文の形でまとめて自費出版した『飢人地蔵物語』というものがある(藤野 1985)。  ところが、『天下太平豊年記』には、今まで確認された江戸期の災害関連石 塔の中では非常に珍しいタイプの供養塔に関する記述がみえる。それが飢民施 行を行った施者と受けた受者のための供養塔であり、いわゆる「施行供養塔」 といえるものである。『天下太平豊年記』の「久巌禅寺饑民施行の事」では、 玄髄が飢民施行を終わらせた後に「金剛塔供養」を行った話が載せられており、 供養塔建立の過程と目的を非常に具体的に伝えている。 且施行すでに終る比、国土安穏、五穀豊饒のため、又は施者・受者二世安 閑のためにとて住持ミづから金剛経を書写する事、一石一字、字毎に三礼 し、或ハ他をして書しめ、数の全部を成じ、堂前の浄地に封じ塔婆を立、 回向供養せり。則其銘を前ノ永平龍水和尚これを書り。(『豊年記』:10) この内容をみると、施行が終わる頃に、国土安穏や五穀豊饒のため、そして施 行をした者と受けた者の現世と来世の安らぎのために、住持の玄髄が金剛経を 石に一字ごとに書き写し、それを堂前の浄地に封じて塔を建立したという。そ してその後、玄髄は次のような法語を説いたという。 金剛塔供養回向法語

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今玆享保十八癸丑の春、我が国飢饉洊に臻る。在々処々癸庚を呼ぶ者は多 く、之に応諾する者は少し。故に或いは溝壑に転ろび、成いは門戸に倒る 者は勝て計ふべからざるなり。貧道些子の法施を行じて他をして財施を作 さしむ。此の道場に就いて施門を打開し、業を正月十五日に始めて、功を 三月三十日に終ふ。其間日々に打心楼上の鐘を鳴らし、大悲閣辺の柳を擺 らひ、飢渇の人民を迎へ、香を焚き合掌して普く三帰を授け、且つ「我不 敢軽於汝等、汝等皆当作仏故」の文を唱へ、糜粥銭穀等以て来者の需めに 応ず。其の人数為るや凡そ三千七百有余人なり。今や金剛経を書写するこ と、一石一字字毎に三礼して浄地に封じて塔婆を造立し恭敬供養す。願は くば此の功徳を以て国土安穏・五穀豊登・施行一会の施者受者及び見聞随 喜の輩ら、若は存若は亡、速かに金剛の正体を成し、生々世々般若波羅密( ママ) を行ぜんことを。(『豊年記』:10─11、原文は漢文)  この法話の内容はすでに玄髄の飢民施行の話でふれた内容であり、享保十八 年の春に飢饉が発生し、多くの飢民が死に至ったため、玄髄が久巌寺で粥・銭・ 穀物の施行を行い、三千七百人を救ったことが述べられている。そして金剛経 を石に書写して堂前に埋めてその上に塔を建立して供養した。この施行と塔供 養の功徳で国土安穏や五穀豊穣を祈り、また施行の場で出会った施者と受者、 そしてその施行を見習って施行と善行を行った人々(見聞随喜の輩ら)が完全 な智慧(般若波羅蜜)を悟ることを祈る内容である。すなわち、施行と金剛塔 供養を通して、飢饉の苦しみから離れて穏やかで豊かな世界になることを願う 一方、久巌寺で施行を行った人々や受けた人々、そしてその施行から影響をう けて善行を行った人々の成仏を願う内容である。ここでは、供養の対象に久巌 寺の施行に影響をうけて善行を行った人も含まれている点が重要であり、飢民 施行における玄髄の影響力を強調しているところである。  そして施行の際に、飢民に向けて唱えられた「我不敢軽於汝等、汝等皆当作

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仏故」12、すなわち「我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏(成仏)すべし」 という文にも注目する必要がある。この文章は前にふれた『書経』の「そもそ も人は万物の霊」とも通じる内容で、人間はすべて成仏できるほど貴重な存在 であり、そのため施行して救済することも、施行を受けることも当然という意 味で捉えることができる。施行という行為には、基本的に人間存在の尊重が背 景にあり、また施行を通して功徳を積み重ね、それが現世の安穏と来世の成仏 をもたらすという認識があったのである。この法話は、宗教者と庶民が飢民へ 施行と善行を行った目的とその宗教的動機を明らかにしている点で重要な意味 をもつ。 4.飢饉災害における死者の救済:水陸会の修行 ⑴ 飢饉の無縁死者と施餓鬼  一方、『天下太平豊年記』には、飢饉の中で生きている人々だけでなく、飢 饉のもっとも深刻な被害者である「飢饉死者」の救済も非常に重要に取り上げ られている。飢饉死は長期間にわたって一家、あるいは一村全体にかけて発生 する場合が多く、経済的な混乱の中で起きるため、所属の檀那寺に費用を払い、 日常的な埋葬や慰霊を行うことが難しい。また、食糧を求めて移動する場合が 多く、その途中で行き倒れになって死に至り、適切な埋葬や葬式を行うことが できない場合も多い。そのため、弔う縁者のない無縁死者が多く発生する。無 縁死者になった多くの飢饉死者の慰霊のためには、特別な供養儀礼が必要であ り、その代表的なものが「施餓鬼」である。  施餓鬼とは、死後に成仏できず、餓鬼道に堕ちて飢餓に苦しむ衆生に食物や 水を施し供養することによって、彼らの救済を祈願する法会である。身内以外 の死者への追善供養は、中国では仏教伝来とともに道教の影響を受けながら 唐・宋の時代に成立し始めた。日本では中世後期に中国の影響をうけて禅宗を 中心に民間で葬祭や慰霊などの死者儀礼が広く定着していく。この時期に室町 12 「我不敢軽於汝等、汝等皆当作仏」という文は、『妙法蓮華経』の第二十章「常不軽菩薩品」 に出ている。

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幕府の命令によって戦争死者や飢饉死者のために施餓鬼がよく行われた記録が みられる(原田1999;西山2006;池田2013a・2013b)。江戸時代に入ってから は自力回向を否定する浄土真宗以外の宗派でも施餓鬼を行うようになり、災害 死者が発生すると江戸幕府や藩の命令により、幕府や藩の菩提寺などで施餓鬼 供養が頻繁に行われた。享保の飢饉の際には、『黒田新続家譜』によると、当 時の福岡藩第六代藩主である黒田継高は、貧しい人々が葬祭を行うことができ なかったことを不憫に思い、死者冥福のために、そして五穀豊饒と国民安穏の ために、享保十八年七月四日に菩提寺である崇福寺・東長寺へ法会や施餓鬼を 命じたという(川添、福岡古文書を読む会校訂1982:171)。施餓鬼は、無縁死 者の救済とともに、その功徳が自分の現世利益や先祖の救済にも繋がるという、 両方面的で動態的な「救済システム」として受け入れられたため、幅広い人々 が参加するようになり、近代を経て現在までも持続している(池上2012・ 2014;武井2018)。  こうした施餓鬼は、それを行ったという記録は多く見られるものの、その具 体的な過程や様子、雰囲気などまで記録したものはあまり見られない。した がって、『天下太平豊年記』は、江戸時代の具体的な飢饉災害死者との関連で 行われた施餓鬼の一種として「水陸会」の様子を描いている点で非常に重要な 意味をもつといえる。次節では宗教者の死者救済活動として行われた水陸会修 行の様子とその意味を考える。 ⑵ 飢饉死者の救済儀礼としての「水陸会」の修行  施餓鬼は、施餓鬼会・施食会・冥陽会とも呼ばれており、水陸会・水陸斎も 施餓鬼の一種として受け入れられている。ところが、本来中国では仏教・道教・ 儒教の要素が習合した死者儀礼が水陸会であり、水陸に飲食を散ずることに よって、先祖や鬼神を施食し救済することを目的とした。施餓鬼は水陸会から 影響をうけて成立したと考えられるが、それが受け入れられた日本の室町時代 には施餓鬼と水陸会という用語が明確に区分されずに使われたと考えられる (西山2006)。次の『天下太平豊年記』の引用にも水陸会を「俗にこれを水施

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餓鬼といふ」と説明しており、江戸時代にも水陸会が施餓鬼の一種として理解 されていたことがわかる。 松寿山主玄髄禅師、七十余日饑民に信施行ハるヽといへども、遠方の飢民 或ハ程久しく憔悴せし飢民死せしも又あげてかぞへがたし。故に禅師深く これを傷ミ、享保癸丑七月十二日の夜木綿葉川(一名熊川)の流の末海原 近き前川といふ所におゐて、水陸会(俗にこれを水施餓鬼といふ)を行ハ る。其法席たるや数の船を泛べ、種々の施物を備へ多くの僧侶と共に船中 におゐて数々の梵唄法皷を鳴らし、追福の妙経を読誦せり。其殊勝成事共 言の葉に尽しがたく、まして筆の及ぶ処にあらず。龍神も感応や有けん、 俄に其辺のミ雨降、水中より龍燈あらハれ水辺の松にかヽれり。小夜更て 法船西の海原にしづかに流るヽにしたがひ、龍燈も又これにしたがひ行ぬ。 数しれぬ参詣の貴賎これを仰ぎ見、老幼是を指さし、各奇異の思ひをなせ り。案ずるにいにしへより龍燈を不知火といへり。(『豊年記』:27─28)  ここでは、久巌寺の住持の玄髄が七十日間の飢民施行を行ったが、遠くにい た飢民や長く飢えて病んでいた飢民は死に至り、その死者数が数えられないほ どであったという。玄髄はそれを苦しく思い、享保十八年(1733)七月十二日 の夜、前川で水陸会を修行した。法席として数隻の船を浮べて、種々の施物を 備えた。そして多くの僧侶が船の中で偈頌を唱え、また太鼓を鳴らし、死者の 冥福を祈る妙経を読誦した。あまりにも格別な儀式であったため、西宗庵は言 葉で言い尽すことができず、筆で記すこともできないほどであったとその雰囲 気を伝えている。そして西宗庵は次の部分で神秘体験のような話をしており、 水陸会に龍神が感応し、にわかにその辺だけ雨が降り、水中からは龍燈も現れ、 水辺の松に掛かったという13。夜遅くなり、船が西の海原へ静かに流れ出すと、 龍燈もこれについて流れていった。参詣に来た多くの身分の高い人と低い人、 13 八代には昔から龍燈が松に掛かるという伝説があったという(『豊年記』:28の註を参照)。 西宗庵は昔からこの地域でこの龍燈を「不知火」と呼んでいたと本文で説明している。

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老人と幼児は、この龍燈をみて、すべて奇異に思ったという。  西宗庵はこの不思議な龍燈というものの存在を疑いなく信じており、「昔日 聖人ハ怪・力・乱・神を語らずとのたまへ共、仏神権化の奇特ハ疑ふべきにし もあらず」(『豊年記』:28)と、『論語』に収められた孔子の教えまで否定しな がら「龍燈」を「仏神権化の奇特」として認めている。『天下太平豊年記』全 体を通して、西宗庵は『論語』や『孟子』など儒教の経書を多く引用しながら 善行を勧めているが、死者供養としての水陸会や、その際に起きた奇跡のよう な出来事を、儒教のもっとも名高い聖人の言葉まで否定しながら信じている点 は興味深いところである。医者として、そして知識人として西宗庵は、儒教の 倫理観を深く受け入れているが、死者供養など死後世界や来世に関わる問題に おいては、仏教的世界観が優先している。そのため、死者供養としての水陸会 について、偏見をもつことなく、むしろ自ら感じた聖なる雰囲気まで記録した と考えられる。  西宗庵は水陸会のとき、導師の玄髄が香をたいて唱えた法語である「香語」 も次の部分に記している。 香語 我仏の言、一切の男子は是れ我が父。一切の女人は是れ我が母。生々之に 従ひて生を受けざるは無し。故に六道の衆生は皆是れ我が父母なり。恁麽 達観すれば則ち諸方餓死の者一として父母ならざる無し。其の子者の豈之 れを悲哀せざらんや。某等今夜水陸会を如法の地に設けて、以て彼の冥福 を追修す。仰ぎ冀くは三宝証明め諸天擁護し玉へ。(『豊年記』:28─29、原 文は漢文)  ここで玄髄は餓死した六道の衆生が「皆是れ我が父母」であるため、今夜水 陸会を行い、彼らの冥福を祈るとしている。この部分は、施行の動機として前 述した「そもそも人は万物の霊」という言葉、「我不敢軽於汝等、汝等皆当作仏」 という文章に通じるものである。飢民も同じ人間として尊い存在であり、かつ

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成仏できる存在でもあるため、施行を行ったように、死者もまた彼らが実際の 父母や先祖ではなくても、父母のように尊い存在であるため、水陸会を行い、 供養をしたという意味で解釈することができる。ここで生者と死者の救済の動 機として提示されている、儒教や仏教がともに強調している「人間の尊重」と いう観点は、前近代だけでなく、現代の災害救済活動にもつながるものである。  また、『天下太平豊年記』における水陸会の修行は、生者の救済としての飢 民施行が終わり、もっとも深刻な飢饉被災者である死者の救済のために行われ たという点で、飢饉救済活動を締めくくる儀礼としても理解できる。最初の生 者の救済から最後の死者の救済まで、その中心的な役割を果たす存在が久巌寺 の玄髄である。その活動を見聞して『天下太平豊年記』に記録した西宗庵は、 救済活動の始まりと終わりに玄髄を配置し、宗教者による災害救済活動の重要 性とその影響力を強調している。この次の章「餓殍の亡者を追善せし市人の事」 では、八代出町の香具屋太郎右衛門という人物が、飢民のために施行を行い、 また飢饉死者のために光徳寺という寺院に多くの僧を請じて浄上三部経を転読 させて追善供養を行った話が紹介されている。これは、前章でまず久巌寺の玄 髄による飢民施行を紹介した後、庶民の施行を紹介していることと同じ構成で ある。こうした構成は生者の救済においても、死者の救済においても、宗教者 が先立って行い、それに従って庶民も救済活動に参加するようになったという 点を強調していることである。宗教者の救済活動自体を顕彰するとともに、そ の救済活動によって一般の人々が救済活動に参加するようになったことも讃え ることで、西宗庵は災害救済活動における宗教と宗教者の重要性を説いている のである。 5.終わりに:『天下太平豊年記』という文献の意義  今まで災害時における宗教者の救済活動に対する事例研究として、18世紀に 発生した享保の飢饉とそのときの「災害見聞記」である『天下太平豊年記』を 取り上げ、熊本藩八代の久巌寺という仏教寺院とその住持の玄髄という宗教者 が行った救済活動を分析した。とくに生者の救済としての「施行」と死者の救

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済としての「水陸会」の実践に焦点をあて、施行と水陸会の実施過程の全般的 な様子から始め、救済活動の動機と目的、そしてそれを詳しく記録してきた西 宗庵の意図を考察した。  飢民施行は、飢民も同じ人間として尊い存在であるという認識から始まって おり、彼らに食べ物と金銭を提供し、命を救うことを目指した。こうした寺院 と僧侶による施行から影響をうけ、八代地域の多くの庶民も久巌寺の施行を手 伝い、個人的にも施行や善行を行うようになった。一方、死に至った人々のた めには、水陸会という施餓鬼儀礼を行い、無縁死者としてさまよう飢饉死者の 霊を慰めた。宗教者が主催したこの水陸会には多くの人々が参加し、追善供養 を行い、死者の冥福を祈るとともに、現世の安穏と豊年まで願ったのである。 『天下太平豊年記』における生者と死者の救済活動は、宗教者によって始まり、 庶民にまで広がって、その救済活動の功徳によって飢饉災害を克服し、豊年を 迎えたという論理構造の中に位置しており、救済活動と飢饉克服が緊密な因果 関係として叙述されている。その因果関係の中には、「勧善懲悪」の倫理観をもっ て人々を啓蒙する西宗庵の意図もあったと考えられる。  最後に『天下太平豊年記』という文献の特徴と意義を改めてまとめてみる。 まず、前近代の具体的な飢饉救済活動を詳しく記録している点にその意義が見 出される。それを通して、いつ、誰によってどのような活動が行われたか、ま た、なぜそのような活動をしたのかを把握することができる。二つ目は、救済 活動における宗教と宗教者の活動とその動機や影響に焦点を合わせている点で ある。災害時の救済活動になぜ宗教者が参加するのかという問いに対して、『天 下太平豊年記』ではその動機を同じ人間としての尊重、そしてその人間の苦や 死への共感からだと述べており、儒教の「夫人ハ万物の霊たり」と仏教の「我 不敢軽於汝等、汝等皆当作仏」や「皆是れ我が父母」といった教えを踏まえて それを表している。宗教者こそ、そうした思想を深く理解していたため、享保 の飢饉当時、僧侶が飢饉被害者の救済に誰より早く手を伸ばして施行を行い、 また死者のために慰霊を行ったのである。三つ目は、こうした玄髄の認識や意 図と著者の西宗庵の意図を区分してみる必要があるという点である。西宗庵に

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は、久巌寺の玄髄という宗教者を表に出し、宗教と宗教者の救済活動と、その 背景にある人間救済の志を高く評価し、そうした道徳と倫理を一般庶民にまで 広げようとする意図があった。西宗庵の意図を明確に表している部分を引用し てみよう。『天下太平豊年記』「泰平豊年記 巻下」の「国中の施行一人の信施 より起る事」という章には享保の飢饉より三十年前に発生した飢饉のときの話 が紹介されている。 芦北郡海浦、覚円寺の住持元智、三十年前熊本両巌寺の住侶たりし時、歳 饑へ飢民寺門に多かりしを、住持これを見るに忍びず日々に種々の信施し けるを、諸人見て甚是を感じ、それより府中及び国中に伝へ、かぎりなき 施行に及べり。(『豊年記』:34)  ここでは、僧侶元智が熊本両巌寺で飢民施行を行うことをみた人々がそれに 感心し、国中に施行が多く行われるようになったと伝えている。すなわち、宗 教者による救済活動が一般庶民の救済活動へ広がったということであり、宗教 と宗教者が救済活動の先駆けになっている。こうした話は本稿の三章と四章を 通して明らかにした内容とも一致するものである。  西宗庵は、儒教の仁・義・孝の倫理や天人相関論的な災害認識とともに、功 徳による現世の安穏や成仏への道という仏教の教えを『天下太平豊年記』の背 景に置きながら、宗教者の救済活動と、その活動に加わった多くの庶民を称え、 悪行を反省し、善行をすることによって災害という危機を乗り越えられたこと を強調している。そのため、日常においても儒教と仏教の教えに従い、また宗 教者の実践に従い、生活することを勧めるために『天下太平豊年記』を著した。 西宗庵のこのような意図と、玄髄が行った実際の救済活動の意図を区分してみ るとき、享保の飢饉における宗教者の救済活動の思想と、それを記録に残した 人の思想という、災害救済に関わる二重の層の宗教的意図と意味を読み取るこ とができる。

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付記 本稿は、JSPS 特別研究員奨励費(課題番号:19F19303)による研究成果の一 部である。 参考文献 アルネ・カラン、ヨン・ペデルセン(1989)「福岡藩領における飢饉と人口」 江藤彰彦訳、西日本文化協会編『福岡県史』近世研究編 福岡藩(四)、 福岡県 池上良正(2012)「無縁供養の動態性」『宗教研究』86(2)、日本宗教学会 ____(2014)「宗教学の研究課題としての『施餓鬼』」『駒沢大学文化』32、 駒澤大学総合教育研究部文化学部門 池田丈明(2013a)「日本中世の戦乱・飢饉に対応した五山の施餓鬼についての ノート」『正眼短期大学研究紀要』6、正眼短期大学 ____(2013b)「室町将軍と五山の施餓鬼──明徳三年四月十日の施餓鬼を 中心に」『年報中世史研究』38、中世史研究会 稲場圭信(2012)「東日本大震災における宗教者と宗教研究者」『宗教研究』86 (2)、日本宗教学会 稲場圭信・黒崎浩行編(2013)『叢書 宗教とソーシャル・キャピタル4 震 災復興と宗教』明石書店 大村哲夫(2014)「心のケア・ワーカーとしての宗教者『臨床宗教師』とは何か ?: 臨床心理士との比較から」『東北宗教学』10、東北大学宗教学研究室 ____(2019)「臨床宗教師ならではのケア:宗教的ケアとスピリチュアル ケアのはざまで」『東北宗教学』15、東北大学宗教学研究室 鴨長明著、神田秀夫校注・訳(1995)『方丈記』『新編日本古典文学全集』44、 小学館 川添昭二著、福岡古文書を読む会校訂(1982)『新訂黒田家譜』第四巻、文献 出版 菊池勇夫(1997)『近世の飢饉』吉川弘文館

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国際宗教研究所編(1996)『阪神大震災と宗教』東方出版 こころのケアセンター編(1999)『災害とトラウマ』みすず書房 柴多一雄(2002)「第五編第三章 享保期の福岡藩政」西日本文化協会編『福 岡県史』通史編 福岡藩(二)、福岡県 島薗進(2013)「宗教者と研究者の連携」稲場圭信・黒崎浩行編『叢書 宗教 とソーシャル・キャピタル4 震災復興と宗教』明石書店 高橋原(2013)「臨床宗教師の可能性──被災地における心霊現象の問題をめ ぐって」国際宗教研究所編『現代宗教2013──「特集」3・11後を拓く』 秋山書店 武井謙悟(2018)「近代日本における「施餓鬼」の諸相──明治期を中心に」『宗 教と社会』24、「宗教と社会」学会 谷山洋三(2016)『医療者と宗教者のためのスピリチュアルケア──臨床宗教 師の視点から』中外医学社 中井久夫編(1995)『1995年1月・神戸 :「阪神大震災」下の精神科医たち』み すず書房 西宗庵著、八代古文書の会編(1992)『天下太平豊年記』八代古文書の会 西田耕三(2007)『人は万物の霊 : 日本近世文学の条件』森話社 西山美香(2006)「五山禅林の施餓鬼会について──水陸会からの影響」『駒沢 大学禅研究所年報』17、駒沢大学禅研究所 日本經濟叢書刊行會編纂(1917)『通俗経済文庫』第九、日本經濟叢書刊行會 服部祥子・山田冨美雄編(1999)『阪神・淡路大震災と子どもの心身 : 災害・ トラウマ・ストレス』名古屋大学出版会 原田正俊(1999)「五山禅林の仏事法会と中世社会──鎮魂、 施餓鬼、 祈祷を 中心に」『禅学研究』77、花園大学 朴炳道(2016)「近世災害における『世なおし』の呪文と『泥の海』の終末── 1662年の京都大地震と『かなめいし』」『東京大学宗教学年報』33、東京大 学宗教学研究室 秀村選三編(1981)『近世博多史料 第一集』西日本文化協会

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藤野達善(1985)『飢人地蔵物語』私家版

藤山みどり(2020)『臨床宗教師──死の伴走者』高文研

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Relief Activities of a Buddhist Monk for Famine

Victims in Early Modern Japan:

The Great Famine of Kyoho and

Tenkataiheihonenki

Byoungdo Park

The role of religion in the events of disaster has been discussed in religious commu-nities as well as the academy of religion. A major role suggested and performed by them is to fulfill the needs of disaster victims and take care of their mental health. In order to expand this argument from a historical perspective, I present an example of relief activities for famine victims in early modern Japan.

The Great Famine of Kyoho lasted from 1732 to 1733. It is estimated that this disas-trous famine caused more than 100,000 deaths in Japan. The record of the famine experience written by a town doctor named Sei Soan, is called Tenkataiheihonenki (Record of World Peace and Good Harvest). This record describes the relief activi-ties performed by a Buddhist monk for the famine victims in the Kumamoto clan Yatsushiro area. The monk was named Genzui, and was the chief priest of temple Kyuganji. For the starving people, Genzui provided food and money. For the dead who did not receive a proper burial and funeral ceremony, he performed a special Buddhist ritual for neglected spirits, called Suirikue (a type of Segaki ritual). The people of the town were influenced by his activities and came forward to participate in rescue activities for the famine victims. This case demonstrates that religion can take the lead in relief activities for disaster victims, and can help not only the survi-vors but also the ones who died.

参照

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