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小説の舞台としての隋唐洛陽城

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小説 の舞台 としての晴唐洛陽城

は じめに

英 範

事実の記録 に過 ぎなかった六朝までの志人 ・志怪小説 に代わ り、唐代 に入 って フィ クシ ョン性 を持 った伝奇小説が誕生 したのは周知の事実であるが、その唐代小説 の舞 台 として最 も重要な場所 が、都長安 であることは言 を侯 たない。 「任 氏俸」「李娃侍」「覆小玉俸」「杜子春俸」な ど、唐代伝記 の代表 的名作 の多 く が長安 を舞台 として語 られ てお り、金文京氏 も 「李娃樽」の詳細 な解説 において、 こ の小説 の隠れた主人公 が長安の町その ものであることを指摘 してお られ る(1)0 その長安 に次いで小説 の舞台 として重要な都市が、東都洛陽であろ う。 小説 の舞 台 としての洛 陽 に関す る先行文献 としては、葛永海氏 の研 究があ り (2)、 氏は、洛陽 に寺観 が多 く宗教的な色彩 を持っ こと、それ によ り怪異 に関す る話が多い こと等 の指摘 を行 ってい る。葛氏の指摘 され る通 り、洛陽を舞台 とした唐代 の小説 に は隆異 に関す る話が多い よ うだが、それ は寺観が多 く宗教的色彩 を帯びてい るためだ けであろ うか。確 かに中国最初 の寺 といわれ る白馬寺があ り、仏教 を厚 く保護 した北 魂 の洛陽城 を懐古す る 『洛 陽伽藍記』が著わ され るな ど、漢魂洛陽城 は宗教的色彩 が 強 く、別 の場所 に移 され た とはいえ、晴唐洛陽城 も、実際上で もイメージ上 で もそれ を受 け継いでい る と思われ るが、人々が多 く集 まる都市には寺観 は 自然 と多 くなるも のであろ う。例 えば都長安 にも多 くの寺観 があった と思われ るが、特 に怪異 に関す る 話が多い とはいえないのではないか。 また、隔唐洛陽城 を舞台 とした怪異小説 を見て いると、寺観 はそれ ほ ど多 く登場 していない よ うにも思われ る。ほかにもっ と重要 な、 他 の都 市 にはな く洛 陽のみが持っ小説 の舞台 としての特色 があるので はないだ ろ う か。 以上の よ うな視点か ら、本稿 においては、『太平康記』 に収 め られた話 を中心 とし て、葛氏 と異 なる角度か ら、小説の舞台 としての洛陽の特色 について考 えてみたい と 思 う。

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六朝 ・唐代 の知識 人 と洛 陽文化 、洛水 小説 の舞 台 としての晴唐洛陽城 を考ネ る時、その最大の特色 は、町 を南北 に分断 し て洛水が流れ てい ることではないだ ろ うか。 きた 周知の よ うに、漢魂洛陽城 は、その名 の通 り洛水 の陽に築かれたが、晴唐洛陽城 は その約 10キ ロ西 、現在 の洛 陽市 の位 置 に、洛水 を挟 む形 で築 かれ た (3)。 これ は天 に 象 って洛水 を天 の川 に見立てた もの とされ るが、唐長安城 に も漢魂洛 陽城 に もあるい は南朝の建康城 にも見 られ ない、特殊 な形式であった (4)0 この ことは、隔唐洛陽城 の地図を一見すれ ばす ぐに分か ることであ り、 ごく初歩的 な常識 になってい ることなので、取 り立てて この点 を強調す るのは奇異 に感 じられ る か も しれ ないが、実際にそ こに住んでいた 当時の人 々に とっては、かな り大 きな意味 を持っ ものではなかったか と思われ るので ある。 つ ま り、晴唐洛陽城 に住む人々は、洛水 の北側 か ら南側 、あるいは逆 に行 こ うとす るだ けで、洛水 を渡 る必要があるのである。 例 えば、隔唐洛陽城 では、洛水 の南側 に 官僚 の家 が多 かった とされ るが (5)、官僚 の勤務場所 た る皇城 は、洛水 の北側 にあっ た。つま り洛水 の南側 に住 んだ官僚 は、出勤す るのに、毎 日行 き と帰 りに洛水 を渡 ら なけれ ばな らない。洛陽に、ほ とん ど皇帝が行幸せず、官僚 の隠棲場所 の趣 を持 った中 庸期 以降 は別 として も(右、安史 の乱以前 、特 に高宗∼武后期 には、洛 陽が中心的役 割 を果 た していた。その頃の官僚の うち南側 に住む者 たちは、みな出勤 ・帰宅の際 に 洛水 を渡 っていたのである。 本稿 が対象 とす る 『太平康記』中の小説 か らも、,その ことが うかが える。 1『太平康記』巻201 「上官儀」(出 『国史異纂』)(7) 高宗の御代 は貞観 の治世の後 を承 げ、天下太平であった。 その頃、上官儀 が一人 で国政 を取 り仕切 っていたが、彼 は、いっ も明け方早 くに朝廷 に参 内す るのに、洛 水 の堤 をめ ぐ りなが ら、残月の中、手綱 をゆるめて (常凌農入朝、巡洛水堤、歩月 徐轡)、詩 を朗詠す るのであった。 上官儀 の出勤 の様子 を伝 えた話で ある。彼 の洛陽での邸宅が どこにあったのかは明 らかでないが、恐 らく洛水 の南 にあったために、洛水 の堤 を通 って出勤 したのであろ う。 44

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-小説 の舞台 としての晴唐洛 陽城 (橘) 2

太平康記』巻494 「雀澄 」(出 『翰林盛事』) 峯浬が執政 となった時、年 は27、容姿が優れ、文辞 にも秀 でていた。 ある時、夕 暮れ に端門を出て、天津橋 を下 りなが ら、馬上で詩 を吟 じた (嘗暮 出端 門、下天津 橋 、馬上 自吟)0 峯淀 の帰宅 の様子 を伝 える資料 である。『唐 南京城坊考

によれ ば、雀淀 の家 は南 側 の道化坊 (付図H 9) にあった。 そのため、帰宅す るのに、皇城 の南門である端門 を出て、天津橋 を渡 ったのである。 中唐期以降は長安が政治 の中心 となったので、洛陽に住んで、皇城-の出勤 の往復 に洛水 を渡 らなけれ ばな らない官僚 は少な くなった と思われ るが、洛陽に置 かれた河 南府 に勤務す る官僚 はいたはずである。例 えば、元和 2年 (807)、河南ダ鄭徐慶の賓 位 と して洛陽 に招 かれ た孟郊 は、洛水 の北 の立徳坊 (H 4)に癖居 を構 えた く8)。河 南府 の役所 は南側 の宜範坊 (G 9)にあったか ら、孟郊はいっ も洛水 を渡 って出勤 し ていたはずである。 また、河南府 に勤 めていな くて も、友人が洛水 の対岸 に住 んでいれ ば、会 いに行 く には洛水 を渡 らなけれ ばな らない。例 えば晩年洛陽南側 の履道坊 (L12)に居 を構 え た 白居易 の場合、知人のほ とん どは同 じ南側 に住んでいた よ うだが、北岸 に も知人が いた ことは、脅 昌元年 (841)の 「題峯少ダ上林坊新居」3492の作か らうかがえる (9)0 詩趣 にい う雀少夢 が誰かは不明であ り、 この入物 に関す る詩 はこの一首のみが残 って い るだけの よ うなので、恐 らく頻繁 に行 き来 したわけではなかろ うが、それ で もこの 詩 を作 った時、70歳の 白居易が友人 の新居 を見 るために、わ ざわ ざ洛水 を渡 って北側 の上林坊

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L5)

まで訪ねていったのは確 かであろ うO 以上の よ うに、洛水が洛陽の町 を分断 して流れていた ことは、洛陽に暮 らす人々の 日常生活 に大 き く影響 してお り、小説の中にも当然洛水が登場す るのだが、小説 の舞 台 として考 えた場合、 この ことは重要な意味を持っ と思われ る。 それ は、 よく知 られ るよ うに、川お よび水辺 とい うものは、異界 ・境界 としての性 格 を持 ってい るか らである 欄。 と りわけ洛水 は、河図洛書の昔か ら、異界 としての性格が強かった川 であ り、その 最 も著名 な例が、曹植 「洛紳賦」

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文選

巻19)に描かれ る洛水の神女の話 であろ う。 その伝統 は、魂 の明帝が洛水の 白いカ ワウソを捕 らえる話

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太平巌記』巻201「徐遜」、 出 『賓誰記』。 なお巻466 「徐景 山」 は出典 を 『績賓譜記

とす る)、洛子淵 とい う洛 水 の神様 が登場す る話 (『太平康記』巻292 「洛子淵」、出 『洛 陽伽藍記』)、晋 の永嘉

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六朝 ・唐 代 の知識 人 と洛 陽文化 の乱 の時、洛 陽で出仕 して乱のために帰れ な くなった息子 のために故郷 の父 が 山の神 に祈 った ところ、少年 と化 した神 が洛水 か ら出て きて故郷 に連れ帰 る請 (『太平康記』. 巻294 「湛蒲」、出 『十遺託』)な ど、六朝 を舞台 とした小説 に も受 け継 がれ てい る(ll)0 隔唐洛 陽城 は、そ の洛水 を間に挟 む形で造 られ てい るのである。 この よ うな洛水 の異界性 を示す話 は、唐 の時代 に入 って も受 け継 がれてい る。 3 『太平廉記』巻467 「洛水竪子」(出 『朝野愈載』) あ る人が、子供 が洛水 で馬 を洗 っているのを見てい る と(有人洛水 中見竪子洗馬)、 突然 、川 の中か ら白い絹 のよ うな ものが出てきて、少年 の首 に巻 き付いた。少年 は そ のまま川 の中に落 ちて死んだ。 この化 け物 は どこの川や水辺 に もい るもので、 白 特 とい う蚊 の一種 である。 洛水 か ら突然現れ た怪物 に子供 が殺 され る話 である。 この話 では、 白特 とい う化 け 物 が どこにで もい る とい ってはい るが、や は り洛水 の異界性 が感 じられ る話 とい える ので はないだ ろ うか。 4 『太平康記

巻434「洛水牛」(出 『康異記』) 威 通 四年 (863)秋 、洛陽 に洪水 が あった。香 山寺 の僧 侶 が後 に語 った ところに よる と、その 日、雨で増水 した竜 門の川 が北 (す なわち洛 陽の方 向)- と流れ (見 暴 雨水 自龍 門

北 下)、その中か ら二頭 の黒い牛 が現れ 、躍 り上 がって進 んでい っ たが、洛陽城 の定鼎 門 と長夏 門が開き、城 中か ら二頭 の青 い牛が躍 り出て (俄 見定 鼎長 夏 二門陰瞳開、有 二青牛奮勇而 出)、それ を迎 え撃 ち、黒 い牛 が引き返 して、 洪水 はお さまった とい う。 この話 では、竜 門の川す なわ ち伊水 が氾濫 し、そ こか ら現れ た黒い牛 が洛 陽 に押 し 寄せ よ うとしてい るのを、洛陽城 か ら出て きた二頭 の青い牛 が防いだ とい うことにな ってい る。 『太平康記』 で この話 に 「洛水牛」 の題名 が付 け られ てい るよ うに、 この 青 い牛 は洛水 の神 の化身 であ り、伊水 の神 である黒牛 よ り神格 が高いので撃退 で きた とい うこ とであろ う。 このほか に、雀 玄亮が洛 陽で川辺 を散歩 してい る時、鶏 の卵 の よ うな石 を見つ け、 もて あそび なが ら歩いてい る と、急 に石 が割れ て鳥 が飛び立 った話 (『太平康記

巻3 98「卵石」、出 『酉陽雑姐』) な ども、洛水 とはっき り書 かれてい る訳 ではないが、洛 水 の可能性 があろ う。 46

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-小説 の舞台 としての隔唐 洛 陽城 (棉 ) 以上のよ うに、洛水 は古 くか ら非常に異界性 の強い川 であ り、その伝統 は唐代 まで 続 いていた。隔唐洛陽城 では、その川が町の真ん中を貫いて流れていたのである。 二、天津橋 と中橋 隔唐洛陽城 について考 える場合、洛水 の異界性 とともに重要になるのは、そ こに架 け られた橋 であろ う。漢魂洛陽城 も同 じ洛水が町の南 を流れていた。 また、唐長安城 の北 には滑水 があ り、杜甫 の 「兵車行」(『全唐詩』巻216)の舞台 として も名 高い洞 橋 もあった。 しか し、 これ らの川 を渡 るのは、城 内か ら出る時、つま り特別 な時のみ であったろ う。 これ に対 し晴唐洛陽城 では、洛水が町の中を通っていたために、先 に も触れた よ うに、人々は橋 を 日常的に渡 らなけれ ばな らなかった。そ して、橋 とい う ものは、異界である川 の上 に架かって此岸 と彼岸 を結ぶ、境界の意味 を持 っていたの である (12)。 本節では、晴唐洛陽城 に架かっていた橋 について述べてみたい。 隔唐洛陽城 においては、洛水の三箇所 に橋が架 け られていた とい う0 小説 に最 もよく登場す るのが、すでに2の話 にも見 えた天津橋で、皇城 の正南門で ある端 門の南、メイ ンス トリー トの定鼎門街上にあった。 もともとこの部分は、二つ の中洲 によ り三つ に分かれた洛水の流れ に、北か ら黄道橋 ・天津橋 ・星津橋 (皇津橋 ・重津橋 とも)の三つの橋 が架かっていたが、南側 の中洲 と洛水南岸 が地続 き となっ たため、開元20年 (732)に、天津橋 と星津橋 を一つ に して新 たな天津橋 が架 け られ た。 この新 しい天津橋 が全長500メー トル を超 える朱塗 りのアーチ型 の橋 であった こ と、そ してそ こが往来の激 しいにぎやかな場所であ り、皇帝が洛陽 を訪れ ると百官 が 出迎 える場所 であった こと、 さらに唐詩 に も多 く詠 じられてい ることな ど、松浦氏 ・ 植木氏の書 に詳 しく述べ られている (13)0 天津橋が にぎやかな場所 であった とい うことは、両氏の書のほかに、後 に挙 げる小 説 の例 か らも明 らかだが、相 田氏の研 究 に よって さらに例 を補 ってお けば(14)、神龍 元年 (705)、則天武后の死の直前、宰相張束之 らが兵 を起 こして張易之 ・張昌宗 らを 斬 り、その首 を 「天津橋南」で さらしてお り

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奮唐書』張行成博 に付 され た張易 之 ・張昌宗俸 お よび桓彦範俸)、開元21年 (733)、契丹の首領 である屈刺 ・可突千 の首 を さらしたの もや は り 「天津橋之南」であった

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啓唐書』張守珪俸)。人 のいない場 所 で さらし首 を行 って も意味がないか ら、 これ らの例 も、天津橋が人通 りが多い繁華 な場所であることを示 してい よ う。 このことは、小説 の舞台 としての天津橋 に、 さらに重要な意味をもた らす もの とい

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六朝 ・唐代 の知識人 と洛 陽文化 えよ う。人が多 く集 ま り行 き交 う場所であるとい うことは、境界性 を持っ場所 として も う一つ の重要 な場所 で あ る市 と似 た性格 を持っ ことになるか らで ある(15)。つ ま り 天津橋 は、橋 と市 とい う二重の境界性 を持っ場所なのである。 小説 中に も、そのことを うかがわせ る例 がある。 5

太平康記』巻77 「鏡知微」(出 『酉陽雑姐』) 唐 の天宝の末、鏡知微 とい う術士が洛陽に至 り、天津橋 に住んで易者 を始 めたが (居天津橋責 卜)、その 占いはよく当たった。 6『太平康記』巻209 「東都乞見」(出 『酉陽雑狙』) 天暦年 間、洛陽の天津橋 に乞食 がいた (東都天津橋有乞見)。 両手がな く、右足 に筆 をは さみ、それ を一尺 あま り放 り上 げてか ら足で受 け取 り、美 しい棺書で写経 を して銭 を乞 うた。 ともに 『酉陽雑狙』 に記 され る例で、松浦 ・植木両氏の書で も触れ られてい る話 で ある。 前者 は 『酉陽雑姐』 の方 では天津橋 に広告 を出 した (「梯天津橋表柱」) とい うこと になってい るが、店 を構 えるにせ よ広告 を出す にせ よ、人通 りの多い繁華な場所 であ ることを表 してい よ う。 そ して、それが よく当たる易者 とい う神秘的な人物であるこ とは、天津橋 の持っ境界性 と関連す ると思われ る。 後者 は身体 に障害のある乞食 が天津橋 で芸を見せ る話である。現実的に考 えれ ば、 身体 に障害がある人物がそれ を補 うための特別 な能力 を身 につけるのは実際 に見 られ ることであ り、,また、その能力や あるいは障害その ものを見せ物 にす ることによって 生活 の糧 を得 るの も、 ごく一般的な ことであったろ う.それ を天津橋 で行 ったのは、 人通 りの多い場所 だったか らとい うのが事実なのか もしれないが、それ を見聞き し、 記録 した人々に とっては別 の意味 も持 ってい よ う。 よく知 られ るよ うに、乞食 とは賎 民で あ りなが ら同時 に聖性 を持っ異人 にほかな らず (16)、その異人 が天津橋 で特異 な 能力 を見せ るのは、人々に とって非常に神秘的なことであったに違いない。橋 が持っ 境界性 を示す例 として差 し支 えないだろ う。 次に中橋 について述べ よ う。その名 の通 り、三箇所 に架 け られた橋 の うち、中央 に あったのが中橋 である。 この橋 は架 け られた場所が変わってお り、晴の大業初年 に洛 陽城 が完成 した時 には恵 訓坊 (G 6)の北 に架 け られ ていたが (旧中橋)、唐 の上元

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-48-小説 の舞 台 としての隅唐洛 陽城 (棉 ) 2年 (675)に安衆坊 日 6)の北 に移 され た (新 中様)O かな り早い時期 に架 け替 え られてお り、小説 に登場す る中橋 は、新 中橋がほ とん どと考 えてよいだろ う。以下に 挙 げる例で も、年号が記 された ものや登場人物等 によ り年代が推定できるものは、全 て新 中橋 を指 している。 この移設 は、長夏門街 の延長線上 に架 けることによって往来の健 を図ったため とさ れ るが(17)、 その 目的は十分 に達せられたよ うで、次に引 く 7の資料 に見 えるよ うに、 易者 が店 を 構 えた り、後 に引 く17の資料 に見 えるよ うに、人捜 しの懸賞金が置かれた りしてい る。 ともに人通 りのない寂 しい場所では意味がなかろ う。そ う考 えると、中 橋 も天津橋 と同 じよ うに、橋 と市 とい う二重の境界性 を持っ場所だった といえよ う。 ほかに、則東武后の垂扶 4年 (688)、瑞石 「宝図 (天授聖図)」が洛水 か ら出た と され (実 は唐 同泰 が偽造 した もの とい う)、武后が祭壇 を築いて皇太子や 内外 の文武 百官 、異民族 の長 を迎 え、 「洛水之北、中橋之左」において、大々的 に洛水 を拝 し図 を受 ける儀式 を行 った例

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啓唐書』稽儀志 四)や、相 田氏 も引 く (18)、天宝15載 (75 6)、安線 山軍 に捕 らえ られて洛陽に移送 された顔巣卿 が、線 山を面罵 したために 「中 橋南頭従西第二柱」に縛 り付 け られて処刑 され た例

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啓唐書』忠義樽 下)か らも、 中橋 が市 としての性質 を持 っていた ことが うかがえよ う。 ここで小説 の中か ら、そのことを示す例 を一例挙げてお こ う。 7 『太平康記』巻77 「胡産生」 (出 『原化記』) 後 に宰相 となる李蕃 (李藩) は、かつて洛 陽に寄寓 していた。30近 くになった のに官位 もな く-、妻 の雀氏の家 にや っかいになっていた。 当時 中橋 に胡産生 とい う者がお り (時胡産生在 中橋)、李著 は足 に癖 を患っていて、家族 を連れて揚州 に 移 ろ うか ど うか悩んでいたので、胡産生の もとを訪 ねた。胡産生は李著 が訪ねて くるのをあ らか じめ知 っていたばか りでな く、謎 の ことばを 目にす る。後 になっ て、その ことばが宰相 になることを暗示 していた ことが分かるのだった。 先 に引いた 5の例のよ うに、中橋 に店 を構 えていた易者 が神秘的な予知能力 を示す とい う話 で、李藩 は元和期 に活躍 した人物 である。 同 じ話 は 『太平康記』巻 153 「李 藩」 (出 『逸史』)・巻 155

李 固言」(出 『補録記樽』) に も見 え、後者 には住む場所 を記 さないが、前者 には 「暗中橋胡塵生者善卜」とい う記述がある。や は り単に往来 が激 しく店 を出す のに適 していた とい うばか りでな く、中橋 の持っ境界性 とい うもの が重要なのであろ う。 また、 この胡産生 (胡虚生 とも) とい う人物 は有名 な入物 だった よ うで、後 に引 く

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六朝 ・唐代 の知識 人 と洛陽文化 13の話 で も活躍す るが、そのほかに 『太平康記』巻460 「裳抗」(出 r-『酉陽雑姐』) に も登場す る。旅 の途 中、病気の鶴 を見かけた人物 の ところに、突然 白衣 の老人 が現れ、 鶴 を助 けるためには三世の間人間だった人物の血液が必要であ り、胡産生の血 がふ さ わ しい といわれ、洛 陽に赴 いて胡産生か ら血 をもらうとい う話 である。 中橋 とい う記 述 はないが、胡産生 の異人性が よく現れてい る といえよ う。 中橋 は、 この よ うな人物 が住むのにふ さわ しい場所 と考 え られていたのである。 このほか、 どの橋 かは定かでないが、次のよ うな話 もある。 8 『太平康記』巻217 「鄭生」(出 『雲渓友議』) 武宗の時 (武宗 は.840-846在位)、宰相 の李回が何度受 けて も科挙 に合格 できな かった頃、洛橋 に出かけた ことがあった (累巻末捷 、嘗之洛橋)。そ こには二人の 術士がお り、一人 は笠竹 占い、一人は亀 卜を得意 としていた。李回が両者 に占って もらった ところ、鄭生の亀 卜の方 が よく当たった。 この話では単 に 「洛橋」 とい うのみで、次に触れ る浮橋 である可能性や 、洛水以外 の水路 に架 かった橋 である可能性 も否定できないが、や は り境界性 を強 く有 していた 天津橋 か中橋 に関す る話 と考 えるべ きであろ う。孟郊 に 「洛橋晩望」(『全唐詩』巻3 76)の詩があ り、詩 中には 「天津橋 下凍初結」の句があることか らす る と、天津橋 を 指す のか もしれ ないが、一応慎重 を期 して不明 としておいた。 占い師が二軒 も営業 し てい るとい うことは、 これまでの話 同様、人通 りの多い場所 であった ことを表す とと もに、や は り神秘的な場所であった ことも示 してい よ う。 最後 に、第三の橋 について触れてお こ う。 三箇所 の橋の うち、一番西 にあったのが浮橋で、慈恵坊 (J6)の北、南市 (J8 9)の北培東偏 門の北方 に当た る場所 にあ'つた。乾封 (666-668)中に壊れ たが、後 に私設 され た もので、 これ はその名 の通 り舟 を連ねた浮 き橋 だった とい う(19)。管見 の及 んだ限 りでは、 この橋 は小説 の重要な舞台 とはなっていない よ うだ。南市の北 と はい え、浮 き橋 であるとした ら車馬 の通行 には不便 と思われ 、先 に見た二橋 のよ うに 繁華 な場所 でなかったためであろ うか。 あるいは浮 き橋である とした ら、橋桁 の下の ヽヽヽヽヽヽヽ 空 間がな く、 「彼岸 にも此岸 に も帰属 しない宙 吊 りの別世界一傍点橘」(20)とい う条件 を満 た していないか らか もしれ ない(21)0 三、洛陽を舞台 とした小説 - 50

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-小 説 の舞台 としての階唐洛 陽城 (橘) 以上 のよ うに、隔唐洛陽城 は、その中心に異界である洛水が流れ、そ こに境界であ る天津橋 ・中桟が架 かっていて、人 々はその町で 日常生活 を送 っていた ことになる。 そのため、洛陽な らでは と思われ るよ うな小説 が多 く生み出 されてい るので ある。以 下、舞台が洛陽でなければ生まれ えなかった と思われ るよ うな小説 の例 を見てい きた い と思 うO まず 、洛水の異界性 をよく表 している話 を見てみ よ う。先 に挙 げた3 ・4の話 のほ かに も、次のよ うな話がある。 9『太平廉記』巻331「洛陽鬼兵」(出 『紀聞』) 貞元23年 (貞元は21年 までであ り、開元の誤 りとされ る。開元23年であれ ば735) 夏六月、皇帝が洛陽にいた ところ、鬼兵 が暴れ回 り、民衆 は驚いて、逃 げ出す ので あったO この鬼兵たちが洛水 の南 を過 ぎると、町は騒々 しくな り、それがだんだん と洛水 の北-移 ってい く (其鬼兵初過於洛水之南、坊市暖暖 、漸至水北)。 まるで 武装 した数千万の兵士達が空中で騒々 しい音 をたてているよ うなあ りさまで、 これ が毎晩であづ た。 帝 はこれ を嫌 って重視 にお蔽いをさせ、毎晩洛水のほ と りに飲食 を供 えた (毎夜於洛水演設飲食)。 洛水 の南か ら北- と暴れ回る鬼兵 の話である。 この鬼兵が どこか ら来たのかはっき りとは書かれていないが、洛水のほ とりに供 え物 を させた ことか らして、洛水 と関連 がある と考 えられていたのであろ うし、また、洛水 の南か ら洛水の北 に移動す る とこ ろにも洛水 の異界性が うかがえよ う。おびただ しい数 の異類 が、都市全体 を縦横 に暴 れ回 る とい うわけだが、 このよ うな話 は、洛水が都市の中央部 を貫流す る隔唐洛陽城 以外 では、生まれ えない ものだったのではないだろ うかO 次 に、天津橋 にまつわる話 を見てみ よ う。先 に挙 げた5・6の話以外 にも、次 の よ うな話が残 されている。 10『太平康記』巻126「蕃囲俊」

(

「出慮紋」 と記 され る) 唐 の侍御史寓囲俊 は残忍な性格 で、六道の使 に上奏 して流民 を大量 に処刑 した。 ある 日御 史台 を出て、天津橋 の南 に至 った時 (従 義損、至天津積商)、道 いっぱい に鬼が現れ、馬 の足 を切 って進 めな くさせた。寓囲俊 は土下座す るか ら許 して くれ と何度 も叫んだが、舌の長 さは数尺 にな り、全身 は青 く腫れた。家 にた ど り着いた

(10)

六朝 ・唐 代 の知識 人 と洛 陽文化 が、夜 中には死 んだ。 寓囲俊 は武后期 の有名 な酷吏。それが突然現れ た亡霊 た ちに囲まれ て、つい には死 に至 る とい う話 である。 この話 では 「天津橋南」 となってお り、厳密 には橋 の上で は ないが、先 に見た よ うに、天津橋 の南側 は市 としての側 面 を持 っていた。や は り境界 性 と関わ る例 とい えよ う。 時期 は洛 陽 を都 とした武后期 に設定 され てお り、先 に述 べ た通 り、洛 陽城 の南側 に住 む官吏は天津橋 を渡 って皇城 に通 っていた。 寓囲俊 はそ の 帰宅 の途 中で異類 に襲われ たのである占 ll『太 平康 記 』巻138 「裳度」 (出 『劇 談録』) 裳度 がまだ微賎だった頃、洛陽 に寓居 し、いっ も足 の悪 い駿馬 に乗 って皇城 に通 っていた。 あ る時、天津橋 を渡 ってい る と (方上天津橋)、ち ょ うど准西 の乱 が何 年 も続 いていた時期 で、二人 の老人 が橋柱 に もたれ て、 「反乱 はいっ になった ら平 定 され るこ とや ら」と話 していた。その老人たちは裳度 を見 る と驚 いて道 をあけた。 一人 の下僕 がやや遅れ て歩いてお り、老人たちが 「あの人が将軍 にな るまで平定 さ れ まい」 と話 してい るの を聞いた。 下僕 が装度 にその話 をす る と、裳度 は笑 って信 じなかったが、その年 の秋 に郷薦 となったのを皮切 りに、とん とん拍子 に出世 して、 つい には准西節度使 とな り、准西 を平定 した。 有名 な宰相裳度 が、天津橋 で出逢 った二老人 に未来 を予言 され る話 である。 この不 思議 な二人 の老人 に出逢 うのが、や は り出勤途上の天津橋 であ り、洛 陽な らではの出 会 いの場所 とい えるだ ろ う。 同 じよ うな話 は も う一つ ある。 12『太 平康 記』巻393 「又」 (22) (出 『録 異記

)

ある儒 生が天津橋 で二人の老人 が話 してい るのに出逢 った ところ (洛京天津橋 、 有儒 生 、逢 二老人言話)、彼 らは翌 日の昼 に寺で行 う腕 比べ の話 を していた0 - 人 が 「私 の一声で、人 々の乗 ってきた駿馬 がみんな集 ま る」とい えば、も う一人 は 「私 の一声 で、十丈 の旗竿 がみんな計算用 の木 ざれ にな り、 しか も十本ずつ ま とま る」 とい う。儒生がその時刻 に寺 に出かけてみ る と、雷雨が起 こ り雷が とどろいて、老 人 たちのい った通 りになった。 これ も不思議 な二老人 に天津橋 の上で出逢 う話 で、二老人 の正体 は ど うや ら雷神 だ - 52

(11)

-小説 の舞 台 と しての晴唐 洛 陽城 (棉 ) った よ うである。 この儒生 の場合 は出勤途 上か どうか分か らないが、天津橋 は、 この よ うな異界 の人 間がいて も不思議でない場所 だったのである。 次 に中橋 を舞台 に した話 を見てみ よ う。先 に挙げた7の話 のほかに、 この よ うな話 もある。 13『太平虞記』巻 118 「葦丹」 (出 『河東記』) 葦丹がまだ科挙 に合格す る前、駿 馬 に乗 って洛陽の中橋 を通 りかか る と、漁師が 数尺 もあ る亀 を捕 まえて、橋 の上 に置いているのに出 くわ した (嘗来室塩 、至洛陽 中橋 、見漁者 得一遍 、長敷尺、置干橋上).葺丹は亀 をかわいそ うに思い、 自分 の 乗 っていた駿馬 と交換 して逃 が してやる。 その数 日後 、葦丹が胡産先生 とい う易者 に運勢 を占って もらいに行 くと、胡産先生 は元長史 とい う人物が葺丹 と会 いたがっ てい る と述べて、通利坊 の元長史の家 に連れて行 った。長 史は元溶 之 と名乗 り、恩 返 しを したい と言 うので、葦丹は元長史 が亀であること を悟 る。元長史 は葦丹の一 生 を記 した文書 と大金 を葺丹 に贈 った。後 に通利坊 を訪ねて も元長史の家 を見つ け ることはできなかった。 その後、葦丹は もらった文書 に書 いてある通 りの生涯 を送 った.っ 元和期 に活躍 した葦丹が、若 い頃 に中橋 で亀 を助 け、恩返 しされ る話である。 ここ には、 7の話 の部分で触れ た胡産生が登場 している。 中橋 は、 7では胡産生の住 んで い る場所だ ったが、 ここでは亀 を助 ける場所 となってい る。正体が亀 である元長史の 家 は通利坊 (J 7)にあるが、 この坊 は南市のす ぐ北、洛水 か ら南-三つ 目の坊 であ り、最 も近 いのは浮橋 だが、中橋か らもそ う遠 くない。洛陽 に洛水が流れ 、中橋 とい う橋 が架か っていたか らこそ生まれ た話 といえるだろ う。 14『太平康記

巻338 「道徳里書生」(出 『紀聞』) 洛陽道徳里 に住む ある書生が、 日暮れ に中橋 に通 りがかった時、貴人 が家来 を従 えてい るのに会 う (唐東都道徳里有一書生。 日晩行至 中橋 、遇貴人部従 )。書生 を 見て声 をかけ、後 に従 うよ う言 った。20歳 あま りの美 しい女主人が絶 えず書生 に話 しかけ、そのまま長夏門を出て竜 門に至 った。そ こに あった屋敷 に入 り、美 しい部 屋 で ご馳走 され、一緒 に寝たが、夜 中に 目が覚 める と、そ こは石窟 の中で、婦人 の 死体があった。危険な岩 を伝 って明け方 に香 山寺 に至 り、僧侶 に家 まで送 って もら ったが、数 日後 に亡 くなった。

(12)

六朝 ・唐代 の知識 人 と洛 陽文化 これ は、中橋 で美女の幽霊 に出逢 う話で、中橋 の境界性 が非常によく分か る とい う 点 も重要だが、その後の書生の行動 も非常に興味深い。 書生の家がある道徳坊 (H 6)は中橋のす ぐ南であ り、中橋 か ら真 っ直 ぐ南 に下っ た ところに長夏門がある。時間設定が夕方であることか らす る と、書生は 日が暮れた ので家 に帰 ろ うとして中橋 を渡 っていた と思われ る。 ところが中橋で出逢 った女性 の 美 しさと話 し上手 に引き込 まれ、ついつい家のある道徳坊 の前 を通 り過 ごし、そのま ま長夏門か ら出て、南の竜 門- と向か うのである。美女の屋敷 と思ったのは、実は竜 門の-石窟 であ り、そ こを命 か らが ら逃 げ出 して、香 山寺の僧侶 に助 け られ る。 隔唐洛陽城 内外 の色々な場所が舞台 となって、 この話のス トー リー展開を支 えてい る。 ま さに洛陽 とい う都市が生んだ話 とい うことができるだ ろ う。 次 に、天津橋 と中橋 の二つが ともに登場す る話 を見 よ う。 15

太 平 康 記』巻35 「王四郎」(出 『集異記』) 洛陽県尉であった王堀 には妾の産んだ甥がお り、小名 を四郎 といったo まだ小 さ い頃、母 が他家 に嫁いで行 くのについて行 き、その後 5年 か10年 に一度三塚 の家 を 訪れたが、王氏一族 は家族 と認 めていなかった。元和年間、三塚が転勤で鄭州か ら 長安 に行 く途 中で洛陽を通 り、天津橋 を過 ぎよ うとしていた ところ、四郎 が突然馬 前 に現れ て挨拶 した (自鄭入京 、遠 出東都 、方過天津橋 、四郎忽於馬前脆舞)。布 衣 を着て草履 をはき、山野に住む人のよ うだった。 四郎 は叔父の旅 は費用 がか さむ か らと王登 に金 を与 えた。 四郎 は これまで三屋 山下の洞窟 にお り、 これか ら峨眉 山 に向か うところで、洛陽では中橋 の席氏の旅館 に泊まってい るとい う (封 日、中橋 逆旅席氏之家)。 ち ょ うど小雨が降 り出 し、王堀 は雨衣 を持 っていなかったので、 着替 えてか ら四郎 の宿 に行 きたい といったが、旅程の関係 で待つ ことがで きない と い う。王裾が着替 えて四郎の宿 に行 ってみ ると、果た して出発 した後だった。宿 の 主人の席氏に聞いてみ ると、四郎 は とて も美 しい妻妾を4、5人連れてお り、衣服 も 鞍馬 も豪馨で、剣南 に行 くといって出発 した とい う。後 に王増が長安 で金 を売 ると 大金 を手 に入れ ることができた。 四郎 には二度 と会 うことができなかった。 この話では、仙人 となった甥 に出逢 うのが天津橋 であ り、 さらにこの甥 は中橋 の宿 に宿泊 している。天津橋が異類 と人間が交錯す る場所 とされてい るのは明 らかだが、 中橋 の方 も、単ににぎやかなために宿屋が営まれてい る場所 とい うばか りでな く、多 54

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-小説 の舞 台 と しての晴唐 洛 陽城 (棉 ) くの宿 に荷 を解 いたた くさんの宿泊客の中に、異類 の一入や 二人がいて もお か しくな い よ うな場所 として登場 してい るのであろ う (23)0 橋 は限定 され ないが、次 の よ うな話 もある。 16『太平康 記』巻298「太撃鄭生」 (出 『異聞集』) 則 天武后 の垂扶年 間 (685-688)、太学進 士 の鄭 生 とい う男 が、朝 に銅舵坊 を出 て、残月 を愛 でなが ら洛水 の橋 を渡 ってい る と、橋 の下か ら悲 しげな泣 き声 が聞 こ えて きた (太撃進 士鄭 生農蟹鍋駁 里 、乗嘆月 、度洛橋 、下有業響甚哀 )。 そ こで馬 を下 りてみ る と、一人 の美 しい女 がお り、兄嫁 にい じめ られ た こ とを苦 に して、身 を投 げ よ うとしてい る とい う。 そ こで鄭生は この女 を家 に連れ帰 り、氾人 と名付 け た。氾人 には文 才があ り、誰 も唱和できない よ うな詩 を作 った。鄭生が貧 乏だった ので、 ある時氾人 は 自分 の絹一反 を鄭生 に与 えたが、それ を売 ってみ る と胡人 が大 金 で買 っていった。数年後、鄭生 が長安 に出 よ うとす る と、氾人 は 自分が湘水 の竜 王の妹 で ある と明か し、年 限が満 ちたので帰 らな けれ ばな らぬ と述べ て去 っていっ た、) 沈亜之 の文集 に 「湘 中怨辞」 として載せ られ る話 である。洛陽の橋 の下で出逢 った 女性 と結婚 した ら、正体 が竜王の娘 であった とい う異類婚姻謬 となってい る。 ここで は 「洛橋」 とのみ書かれ ていて橋 を特定で きず、銅 舵坊 (JK 5)は浮橋 のす ぐ北 の 坊 なのだが、先 に8の部分 で述べた よ うに、ひ とまず天津橋 か中橋 の どち らかの こ と と考えてお きたい .I-∴ ここでは橋 の上 ではな く橋 の下 となってお り、

に近い とい う点では、橋 の上 よ り もさらに異界 に近づいた場所 とい え よ う。鄭生が朝早 く家 を出たのが、太学 に行 くた めなのか あるいはほかに 目的があったのかはっき りとは書 かれ ていないが、「莱 嘆 月」 とい う書 きぶ りか らす る と、 どこか-急 いでいた よ うではな く、朝 の散歩か何 かの よ うで ある。遠 く城外 に出 るまで もな く、朝 のそぞ ろ歩 きの途 中で も異罪- の扉 が開い てい るのが、洛陽 とい う町 なのであ る。 以上、

と橋 があるこ とによって、怪異 が起 こる場所 に設 定 され た例 を中心 に見て きたが、 これ らの場所 は もちろん神怪小説 の中でのみ現れ るのではない。最後 に、怪 異 と関わ らない例 を一つ挙 げてお こ う。

(14)

六朝 ・唐代 の知識 人 と洛 陽文化 17『太平康記

巻494 「雀思東 」(出 『太唐新話』) 則天武后 の頃、峯愚妹 のい とこの峯宣が謀反 を企んでい る と密告 した ものがあ り、 御 史台の張行笈 が取 り調べ に当たった。密告者 はあ らか じめ宣の家 の妾 を誘拐 して 監禁 しておいて、妾が謀反 の計画 を暴 こ うとしたため、宣が妾 を殺 し、その死体 を 洛水 に遺棄 したのだ と称 した (而云、妾絡蟹共謀 、宣乃殺之、投戸手洛永)。行笈 は取 り調べたが、何 も証拠 が出ない。武后 は怒 って再調査 を命 じたが、結果 は同様 であった。武后 は さらに無罪 を証明 したいな ら必ず妾 を探 し出す よ うに強 く命 じた。 行笈 は恐れ て、妾 を探す よ う宣の家 に迫 った。恩威 はそ こで中橋 の南北 にた くさん の懸賞金 を置 き、妾 を監禁 してい るもの を探 したが (思東乃子中橋南北、多置鏡 畠、 募 匿妾者 )、数 日た って も何 も情報 は得 られ ないままだった。今 回の件 に関 して養 家 で密談す ることが密告者 に知 られてい ることに気付いた思東 は、家 の中に協力者 がい る と考 え、殺 し屋 を雇 って密告者 を殺す とい ういつわ りの計画 を相談 し、朝早 ● く御 史台 の前で身 を潜 めていた。峯の家 に静 とい う客人がお り、言行 が立派で、兄 弟 同様 に信頼 していたが、なん とこの静 がや って来て、御 史台の門番 に賄賂 を贈 っ て密告者 に報告 させ 、密告者 が命 を狙 われてい る と言い出 したので、御 史台は大騒 ぎになった。思東 は静 をこっそ り尾行 した。天津橋 に至 り、御史台 に戻れ な くなっ たのを見計 らって、静 を大いに罵った (密随之、到天津橋 、料其無 由至墓、乃罵之)0 静 は謝罪 し、恩東 を密告者 の家 に連れて行 ったo か くて妾 を探 し出す ことがで き、 宣は放免 され た。 無実の罪 で捕 らえ られ たい とこを救 うた めに、証人 を捜 し出す とい う話 で、 この話 には怪異 は登場せず、推理小説 のよ うな趣 を持 ってい るが、洛陽城 の特徴 が よく現れ た話 といえるだろ う。 密告者 の作 り話 の中ではあるが、洛水 は死骸 の捨て場所 とされてい る。洛水 が、 こ の世 の者 ではな くなった死骸 が落 ち着 くのに格好 の場所 だった とい うこ とであろ う。 次 に中橋 は、人捜 しの懸賞金 を出す場所 として登場す る。人 々の往来 が多 く、懸賞 金 をかけるの にふ さわ しい場所だったか らであろ う。最後 に登場す る天津橋 は、官吏が 皇城 を出て帰途 につ くのに通 る橋 とい う役割 を果 た してい る し、そ こで罵倒 したのは、 小説 に書かれ てい るよ うに、皇城 内の御史台か ら十分 に遠い とい うばか りでな く、往 来 の多い ところであるか ら、多 くの人々の面前で罵 る とい う効果 もあったのであろ う。 さらに、士太夫 が公衆 の面前で人 を罵 る とい う非 日常的な場面が展開 され るのは、そ こが境界で ある とい うこととも関わってい るか もしれ ない。 以上の よ うに、それぞれ の場所の特性 が よく活 か され てお り、ま さ しく舞台が洛 陽 56

(15)

-小説 の舞 台 としての晴唐 洛 陽城 (棉 ) の町でな くては生 まれ えない話 とい えるのではないだろ うか。 おわ りに 以上、本稿 では、隔唐洛 陽城 が持つ基本的な構成上の特色 である、洛水 が町 を分断 していてい る とい う点が、小説 に及 ぼ した影響 について考 えてみた。 水辺 とい うこ とでいえば、先 にも触れ た よ うに、唐長安城 に も城北 に滑水 があって 洞橋 がかか り、また城 内の唐南隅には曲江池 があった。洞水 については、例 えば、蘇 州 で知 り合 った竜 の化身の友人 に手紙 を預 かった主人公 が、いわれ るままに洞橋 に赴 き 目を閉 じて橋柱 を叩 くこ とによって水 中の世界 に招 き入れ られ る話 (『太平康記』 巻421「劉賞詞 」、出 『績 玄怪録』)があ り、 曲江 について は、例 えば、 白将軍 とい う 人物 が曲江 で馬 を洗 ってい る と足 に白い帯 の よ うな ものが巻 き付いて馬 が暴れ出 し、 ほ どいてみ る と血 が数升流れ た とい う話 (『太平康記』巻424

白将軍」、出 『酉陽雑 姐 』) がある。 これ らの話 か らも明 らかな よ うに、滑水や 曲江 などの場所 もや は り異 界性 を持 っていた。 しか し、先 にも述べた よ うに、滑水 は城外 にあ り、曲江 は城 内 と はいえ東南隅 にあって、行楽 の時な どに訪れ る特別 な場所 であった。 毎 日通'りかか る よ うな 日常的な場所ではなかったであろ う。 実際、滑水や洞橋 を舞台 に した小説 は、 洛 陽 の登場す る話 よ りも長 安 の登場す る話 の方 が遥 かに多いで あろ うこ とを考 えれ ば、 さほ ど多 くない よ うである し、曲江 を舞台 とした小説 は、行楽地 として描 かれ る ことがほ とん どの よ うである(25)0 また、唐長安城 で も、漕渠 ・永安渠な どの水路が城 内を流れ、そ こには橋 も架 かっ ていた。 これ らの場所 は 日常的に人々が渡 っていたであろ うが、その よ うな水路 は、 もちろん晴唐洛 陽城 に もあ り(26)、 どの時代 の どの都 も同様 であった と思 われ る。 そ して、 こ ういった水路が小説 の中で重要 な位 置 を占める例 はほ とん ど見 当た らない。 長安城 の この よ うな状況 と比較 してみ る とき、晴唐洛陽城 の特異性 が よく分か る。 大 きな洛水 が町 を分断 し、500メー トル ともいわれ る大 きな橋 が架 かってい る晴唐洛 陽城 は、都 市の中心部 に異界 ・境界 を持っ とい う、ほかの都 市 にない条件 を備 えてい た といえるだろ う。そ してその ことによって、晴唐洛陽城 は、非常に豊かな小説世界 を作 り出 した とい えるのである。 以上、晴唐洛陽城 について、洛水 とそ こに架か る橋 が持っ異界性 ・境界性 が小説 に 大 きな意味 を持 っていたであろ うことについて述べた。 門外漢 ゆえの誤 りや調査不足 が多々あることと思 う。 諸賢の ご批正 を乞 う次第である。

(16)

六 朝 ・唐 代 の 知 識 人 と洛 陽 文 化 注 (1)金文京 『中国小説選』所収。『鑑賞 中国の古典』第23巻 、角川書店、1989年。以下、 注 においては原則 として敬称 を省略 させ ていただ く。 (2)『古代小説 与城 市文化研 究』 (復旦大学 出版社、2005年)。 第1章 「唐代小説 中的城 市文化」の第 3節 「唐代小説 中的其他城 市」があ り、長安以外 の都市の一つ として、「神 異之都 :唐代小説 中的洛 陽」 なお、葛 氏 は長安以外 の都 市 として、洛 陽のほかに も う ーっ揚州 を挙 げている。 (3)以下、洛陽城 の位置等 の詳細に関 しては、主に下記 の文献 を参考 に した。 ・清 ・徐松 『唐 両京城坊考』 ・平 岡武 夫 ・今井清編 『唐 代 の長安 と洛 陽 (索引篇 ・資料篇 ・地 図篇 )』 (唐代研 究 の しお り5- 7、京都大学人文科学研究所 、1956年、のち同朋舎 出版 、1977年) ・葉焼軍 『中国都城歴史図録』第二集 (蘭州大学出版社、1986年) ・松浦友久 ・植木久行 『長安 ・洛陽物語一悠久た り王城 の地』(『中国の都城』第2巻 、 集英社、1987年) ・愛宕元 『唐 両京城坊敦 長安 と洛陽』 (平凡社東洋文庫、199今年) ・楊鴻年 『晴唐 両京坊里譜』 (上海古籍 出版社、1999年) ・李健超 『増訂唐両京城坊考』 (三秦出版社 、2006年) (4)秦 の威 陽城 は滑水 をまたいで南北 に拡張 され た とい うが (注3前掲松浦 ・植 木氏 書229頁参照)、小説が書かれ るよう になる遥 か前の都 である。 (5)隔唐洛 陽城 において、南側 が官僚 の居住地 になっていた ことにつ いては、妹尾達 彦 「晴唐洛陽城 の宮人居住地」

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東洋文化研 究所紀要』第 133冊、1997年) に詳 しい。 (6) 中唐以降、洛陽が 「退老の地」になった こと、注3前掲植木氏の書 に詳 しい。 (7)以下、小説 の引用 には通 し番 号 を施 し、番 号 に よって称す るこ ととす る。 また、 煩額 にな るので、小説 の引用 はあ らす じのみ とし、あ らす じも関係 のない部分 につ い て は省 略す る。 ただ し、洛 陽に関す る重要 な部分 については、一部原文 を ( ) 内に 引用す る。 テ キス トは中華書局本 『太平康記』 を用い、『太平虞記』 に記 され る出典 を 「出 『○○』」の形 で記す。他 のテ キス トを用いて校勘等 を行 った場合 は、その都度記 す こととす る。 (8) 当時の孟郊 の状況や新居 を構 えた際 に作 られ た連 作詩 をこついては、斎藤茂 「孟郊 『立徳新居十首』 について」(『集刊東洋学』、1997年)お よび 『孟郊研 究』 (汲青書院、 2008年) に詳 しい。 (9)詩題 の後 の四桁 の作品番号は、花房英樹 『自民文集 の批判的研 究』′(条文堂書店、 1960年)によ り、 白居易詩 の制作年代 については、同書お よび朱金城 『白居易集等校』 ー 58

(17)

-小 説 の舞 台 と して の晴 唐 洛 陽 城 (棉 ) (上海 古籍 出版社 、1988年) に よる。 また、 自居易 の友人宅 の配置等 の詳細 につ いて は、妹尾 達彦 「自居易 と長安 ・洛 陽」

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自居易研 究講座 第1巻 自居易 の文 学 と人生 Ⅰ』所収。勉誠社 、1993年) が ある。 (10)中国文学 にお ける川 の異界性 ・境界性 について論 じた もの としては、安藤信康 「中 国文学 と異界」(『新 しい漢文教 育』第21号 、1995年) が あ り、また、拙論 「堤 の美女 - 六朝小説 にお け る愛情表現初探-」

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中国学研 究論集

第6号、2000年 ) で も触れ た。 (ll)『十遺託』 は唐代 の書物 の よ うであるが、永嘉 の乱 を背景 とした話 なので、原型 は 六朝期 にできていた可能性 があ る と考 え、 ここで挙げることとした。 (12)橋 の持つ境界性 に関 しては、吉 田隆英 『月 と橋一 中国の社会 と民俗』 (平凡社 、19 95年)お よび相 田洋 『橋 と異人』 (研文 出版 、2009年) に詳 しい。 (13)注 3前掲松浦氏 ・植 木 氏共著 お よび植 木 氏著書。 なお、架 け替 え られ た後 で も、 黄道橋 と天津橋 の二様 が連続 してい るのだが、黄道橋 の名称 の方 は小説等 の 中で用 い られ る こ とはほ とん どな く、人 々は両者 を併せ て天津橋 とい う名 で呼んでい た よ うに 思 われ る。 (14)注12前掲相 田氏著書217-218頁。 (15)市 が持つ境 界性 につ いて は、注10前掲安藤 氏論文 に触れ られ てい るほか、相 田洋 『異人 と市- 境 界 の 中国古代史- 』 (研文 出版 、1997年) に詳 しい。 また相 田氏 は、橋 が市 と似 た性格 を持つ ことについて も、注12前掲書で論 じられ てい る。 (16)乞食 の異人性 については、黄強 『中国の祭 紀儀礼 と信仰』 (第-書房 、1998年)や 岡本 不二明 「唐 代樽 奇 「李娃樽 」の読み方」

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未名

第18号、2000年。後 、『唐栄 の社 会 と小説

所収。汲古書院、2003年)等 に詳 しい。 (17)注3前掲愛宕氏著書243頁。 (18)注12前掲相 田氏著書218頁。 (19)注 3前掲 『唐南京城坊考』巻 5雄栄の条。 (20)注12前掲吉 田氏著書 163頁。 (21)ただ し、注 3前掲李建超 氏著書 が羅栄 の条 に引 く 『唐食 要』巻86に よれ ば、洛 陽 の商人李秀貞が5年 の歳月 をか けて 「南市北之洛河」に架 けた 「石橋」が天 宝8載 (7 49)に完成 した という 。 架 け られ た位 置か らす る と浮橋 の よ うだが、 「石橋」 と表現 し てお り、実際 は浮 き橋 ではなか ったのか も しれ ない。 とはい え、 ほかの三橋 と比べ る とあま り歴 史書等 に も登場 しない よ うで あ り、や は り天津橋や 中橋 ほ ど繁華 な場所 で はなかった と思 われ る。 (22)『太平康記』では この よ うに 「又」と記 していて、前の話 「徐智通」(出 『集 巣記』)

(18)

六 朝 ・唐 代 の知 識 人 と洛 陽文 化 の類 話 ではあ るが、徐 智通 は関係 がない よ うで あ るか ら、そ のまま 「又」 と記 してお いた。. (23)宿屋 とい うもの 自体 も境界性 を もつ存在 で あ るこ とにつ いては、注12前掲相 田氏 著書 に詳 しい。 (24)浮橋 がその名 の通 り浮 き橋 で あった と した ら、橋 の下で人 が泣 くとい うこ とはあ りえまい。 ただ し、浮 き橋でなか った可能性 もあ るこ とについては、注21参照。 (25)例 えば、 「杜子春樽 」(『太平廉記

巻 16、出 『玄怪感 録』)で、不思議 な老人 と出 会 うのが 「東 市西 門」であるこ とや 、市場 で異類 の女性 と知 り合 う話 が しば しば見 ら れ ること (『太平康記』巻331

俸給 」、出

康異記』・『太平康記』巻458「李黄」、出 『博 異志』) な どが端 的 に表 してい るよ うに、長安 にお ける巣界 の中心は、市場 だ った よ う で ある1.. (26)晴唐洛 陽城 内の水路 につ いて は、宇都 宮美 生民 「階唐洛 陽城 にお ける河川 、運河 と水環境」(『中国水利 史研 究

第37号 、2008年 ) お よび 「階唐 洛 陽城 時期酉苑 的 四至 和水 系」

(

洛陽博物館建館50周年論文集

所収、大象 出版社 、2008年) に詳 しい。 (附託) 本稿 は、平成20年度文学部 プ ロジ ェ ク ト研 究 「六朝 ・唐代 の知識 人 と洛 陽文化」に よる 研 究成 果 の一部 で あ る。 同プ ロジ ェク トのメ ンバー で あ る下定雅 弘氏お よび佐川英 治氏 とともに洛 陽 を調査 に訪れ た時 の体験 が、本稿 の出発 点 となってい る。 調査旅 行 の時 に 色 々 とお世話 になった両氏 と、現地 で周到 な準備 と案 内 を して下 さった塩 沢裕仁 氏 ・宇 都 宮美生民、そ して洛 陽で知 り合 った多 くの方 々に、衷心 よ り感謝 を申 し上 げたい。 - 60

(19)

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付 図 ‥晴唐 洛 陽城 (平岡武夫 ・今井清 〔編

『唐代 の長安 と洛 陽 地図篇』京都 大学人文 科学研 究所、1956年。 のち、同朋舎出版、1977年 による)

参照

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