13世紀の セ ピ ーリ ャ
-市域・周域・再植民-林 邦 夫 1989年10月16日 受理)
La ciudad de Sevilla en el siglo XIII
: ciudad, alfoz y repoblacion
Konio Hayashi は じ め に 1212年のラス・ナバス・デ・トロ-サの戟に敗れたアルモア-デ帝国は,カステイ-リャとの間 で休戟条約を結んで延命を図ったものの,北アフリカでのベニメリンの蜂起,アル=アンダルスで の独立小王国の出現によって瓦解の危機に瀕していた。カステイ-リャ王フェルナンド3世(在位 1217-1252年)は,アル=アンダルスの分裂を助長して,レコンキスタを進展させ, 1236年コルド バ, 1246年ハエンと主要都市を征服, 1246年夏にセピーリャ攻囲を開始し, 1248年11月23日にこれ を降伏させた1)。 本稿は再征服後の中世都市セピーリャ史研究の第1歩として,まずセピーリャ市史展開の舞台と なる市域と周域を概観してその大凡の姿を把握し,次いで13世紀のセピーリャ史の重要問題の一つ である再植民(repoblacion)について考察することを目的としている。 Ⅰ 市 域 囲壁内部の区域と囲壁外の郊外区(a汀abal)とを合わせて市域と呼ぶことにする。 〔1〕囲壁(murallas)2) 前45年にカエサルがヒスパリス(Hispalis-ローマ時代のセピーリャ)に到来したとき,既に囲 壁が存在したが,その後1248年の征服までに囲壁は,アブデルラマン2世(822-852年)時代のノ ルマン人侵入を契機とした拡張,反乱貴族の拠点となったことを理由とする破壊 913年頃), 1023 年の再建, 1168-69年のグアダルキビル川氾濫による破壊の修復(1170-71年), 1220-21年の氾 鹿児島大学教育学部社会科
濫による破損と改築1221年),といった変遷を経た。囲壁の厚さは82cm,高さは16.7m,長さ は7.3km, 166の塔と15の門3)を有していた。
〔2〕囲壁内区域
(1)小教区(collation) 囲壁内区域はレパルティミエントを実施した分与委員会(juntade partidores)によって1250年に24の小教区に区分された4)。小教区の内,最大の面積を有するのは Sta. Mariala Mayor /ト教区で, 47haを越えており,次いでS. Lorenzo /ト教区(29.25ha), S. Vicente小教区(20.875ha)と続いている。最少のものはS. Bartolome Viejo小教区で, 2.5haで あり,小教区間の面積の差違の大きいことが分かる5)。囲壁内区域を大別すると,ローマ時代以来 の区域で,狭く屈曲した道路が迷路的に交錯し人家の密集する南東部,広い家並みが続き果樹園, 庭園,未開墾地,沼沢などが存在する北東部,格子状の整然とした街路が特徴的な西部とに分けら れる6)。かかる地域的特色は小教区の広さにも反映しており, Sta. MarialaMayorを除くと囲壁内 で第2 3-4 5 7位を占める5小数区が何れも北西部に位置しており,逆に5ha以下の7小教 区はすべて南東部に固まっている。 St. MarialaMayor小教区には,外国人居留区(colo山a)として,フランス人区(Ba汀iode Francos),ジェノヴァ人区(B. deGenova),バイヨンヌ人街(calledeBayona),カタル一千ヤ人 区 3. decatalanes),プラセンシア人区(B. deplantines)があり,これらには一定の裁判自治権 が認められていた。この他に,国王艦隊の水兵,船員,漁民,商人といった海事関係者の住むラ-マール区(B.delaMar)があり,ここは通常の市裁判権に服するものの,海事に関しては国王任 命のアルカルデ(alcaldedelaMar)が管轄した。なお,フランス人区には他の外国人や, 14世紀 末になるとカステイ-リヤ人も混住するようになり,ラ-マール区には外国人も居住していたが (バイヨンヌ人街はこの中にあった),他は純粋の外国人居留区であった。以上の区域を除く残りが, アルカサル(城)や司教座聖堂を含むカステイ-リヤ人区(B. decastellanos)となる7)。 (2)ユダヤ人居住区(juderia) -曾てはイスラムによる征服から再征服の時点までセピーリヤ にはずっとユダヤ人居住区が存在していたとされていたが, Gonzalezは再征服の時点ではユダヤ 人居住区は存在せず,その後アルモア-デによって12世紀中頃に追放されていたユダヤ人がトレー ドから帰還してアルカサル近くに居住してユダヤ人居住区を形成したとし9),今日ではこの見解の 方が有力である。居住区の広さは16.1haで,囲壁内全体の5.8%に相当し10)三つの門,即ち囲 壁外に開く一つの門(この門の外にユダヤ人墓地があった)と囲壁内に開く二つの門があった11)。 1391年ポグロムの後,居住区は消滅し,跡地は三つの小教区とNuevo区になったが, 1412年勅 令12)のユダヤ人分離令を実施するため, Cordoba門近くのS. Julian, Sta. Lucia両小教区に跨がる
区域が居住区に指定されたが,ユダヤ人の反対で撒回された13)。 1433年フアン2世が再びユダヤ人 隔離を命じ14)その実施をセピーリヤ大司教に委ね15)その結果,ユダヤ人が指定した旧居住区内 の区域が提案されたが当該区域の住民が反対し16)旧居住区内の別の2区域が提案されたが,隔離 は厳格には実施されなかった。 1478年また隔離政策が採られ,アルカサル内部に居住区が設けられ
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図1 セピーリャの市域
[資料] Ladero Quesada, op. cit.の付図から作成
A フランス人区 B ジェノバ人区 C ラ・マール区 D ユダヤ人居住区 E Adarvejo区 F Triana郊外区 G Cesteria郊外区 H Carreteria郊外区 1 プラセンシア人区 2 カタル一二ヤ人区 3 バイヨンヌ人街 4 カテドラル 5 アルカサール 6 修理ドック 7 LaPajeria沼 8 LaFeria沼 小教区
I Santa Maria la Mayor II EI Salvador
Ill San Isidoro IV San NicoはS
V San Bartolome Viejo VI San Esteban VII San Ildefonso VIII Santiago
IX Santa Catalina X SanPedro XI San Andres XII San Miguel XIII Santa Maria
Magdalena XIV San Vicente
XV San Lorenzo XVI San Martin
XVII SanJuan XVIII San Marcos
XIX San Rom畠n XX Santa Lucia XXI SanJulian XXII Santa Ma血a XXIII San Gil
XXIV Omnium Sanctorum XXV Santa血a
門
a laJuderia (la Carne) - Minjoar b Borceguinend c San Nicoはs d Cordoba e Macarena 南 たが17), 1483年のアンダルシーア地方からのユダヤ人追放令によって最終的に消滅した。
(3)モーロ人居住区(moreria) -Ballesterosは,明確には述べていないものの, S. Pedro小 数区内のAdarvejo区にモーロ人が居住し,征服後の早い時期からモーロ人居住区が形成されてい たと考えていると思われ,その後のLopezMartinezやGonzalezも同様であると言える18)。ところ
がCollantesは,征服以来居住区があったという証拠はなく,その存在が確認出来るのは, 1412年 にユダヤ人居住区と同じ場所にそれが指定されたのが最初であると述べている19)。 1483年3月21日 には1480年のコルテスの決議20)を承けて,モーロ人居住区を指定すべLという王令21)が出され, 同年8月30日付の王令22)によれば,国王代理人がS. Pedro小教区内を居住区として示したのに対 して市当局が反対してS. Marcos小教区を提案したことが知られるが,結局前者に決定し,これが 1502年2月14日のモーロ人追放令まで存続した。 〔3〕郊外区23)
イスラム時代のセピーリャには三つの郊外区があった。即ち, Macarena, Benahojar, Trianaであ り,前2者は征服の過程で破壊され消滅した。 Macarenaはローマ時代のウイラに起原をもち,カ ンランの果樹園に囲まれた村であり,征服後フェルナンド3世はそこに施療院を建設した。 Be-nahojarは同名の門外にあり,カリフがBohanar宮殿と庭園を建設したが破壊され,征服後はS. Bernardoと呼ばれた。 Trianaは西方から市に入る二つの道の交差する地点にあり,濠を続らされ, 砦が築かれ, 1171年以来,船橋がグアダルキビル川に架けられていた。 1280年頃,アルフォンソ10 世はSta. Ana教会を寄進し, 25番目の小教区となった。 14世紀になるとこの他に, Casteria, Ca一 汀eteriaという小規模な郊外区が加わっていることが知られる。 Ⅱ 周 域 中世都市セピーリャを考察する場合,その対象を市域のみに限定しては不充分であり,少なくと も周域(alfoz, tie汀a)にまで広げる必要がある。周域は都市が何らかの影響力を合法的に行使し得 る周辺地域であり24)セピーリャ市はこれを含めて考察することによって,より充全に理解される と思われるからである。そこでここではセピーリャ市の周域の形成と変容をアルフォンソ10世治世 末年(1284年)までに限って辿ることにする。 〔1〕周域の形成 1251年6月21日の文書25)でセピーリャ市に70程の村が与えられ, 1253年12月6日の文書26)文 書Aとする)で北方の周域の境界が,次いで1253年12月8日の文書27)文書Bとする)で南方の 境界が示され,以上の三点の文書によってセピーリャ市の周域が画定された。 セピーリャ市の周域地図を最初に作成したのはGonzalezであり28)その後のいくつかの周域地 図もこれを踏襲している29)。 Gonzalezは作成方法を説明している訳ではないが,恐ら文書A・ B に出て来る地名をプロットし,それらが含まれる範囲を適当に線引きしたものと思われる。文書 A・Bに現われる地名を表にして示すと, (表1) (表2)のようになる。文書Bに現われる地名は 少なく,しかもすべて現今の地名と同定されるので,全く問題はないが,文書Aの地名には現今 の地名と同定出来ないものがかなりある。 1はFuentedeCantosではないかと推量されるが確証 はない。 2 ・
3については,二つの地名ではなくJerezdeBadajozであり,今日のJerezdeCaba-表1文書Aに現われる地名
番号1) 文書A の地名2) 現在の地名 番号 文書A の地名 現在の地名
1 Cuenco
Jerezde Ba軸 Z
⑧ Andevalo ElCerrode Andevalo
Azuaga
Constantina
② Xerez 22 Castilrubio
③ badaioz ⑳ Azoaga
④ monasterio deSo oliva M onasteriodeSolivar
M ontemolin
24 Sotiel
5 Nodar 25 Ciudadeja
6 T0汀eS 26 Castril
7 Castuo de Valera 27 M ontogi●n
8 Seg0nGa ⑳ Constantina
9 Cuerua ⑳ Tejada Tejada
⑩ M onte molin ⑳ Solucar Sad血arlaM ayor
⑪ Sufre Zufre ⑪ Haznalcacar Aznalc畠Zar
⑫ Aracena Aracena
Alm onasterlaReal
㊨ Haznal血rach Aznalfarache
13 Alafayadela lepa ⑬ Tnana Tnana
⑭ Almonaster ⑭ AlcaladelRio AlcaladelRio
⑮ Cortegana Cortegana ⑮ Gu山ena Guillena
⑯ Aroche Aroche ⑳ Gerena Gerena
⑰ M ora M oura ⑰ Alcalade Guadayra Alcalade Guadaira
⑱ Se叩a Serpa 38 Alquens
⑩ ⑳ Ayam ot Alfayadelapeiia Ayam onte Alajar 39 Alans 1)現在の地名と同定出来るものの番号を丸付き数字で示す。 2)註26)に示したように文書AはGuichotyParodyとTenorioCereroによって活字化されているが, 両者の表記にはかなり異なるものがあり,それ自体検討の必要のある問題であるが,ここでは一般に 引用される後者の表記に従っておく。 表2 文書Bに現われる地名 番 号 文書 B の地名 現在の地名
1 M oron M oron de la Frontera
2 C oth C ote
3 C azalla C azalla
4 O ssuna O suna
5 lebn ssa L ebrija
6 Isla de C aptiel Isla M ayor
7 Isla de C aptor Isla M enor
llerosであるというBorrero Fernandezの考証を受入れておく30)。 8はGonzalezは地図上に示して いるが,我々は現今の地名としては見出せなかった。 27の地名はMorondelaFronteraの近くにあ るが,この辺りの境界は文書Bで示されているから,ここではあるまい。 39はAlanisかも知れな い。現今の地名と同定出来ないのは,無人の地となり地名そのものが消滅したためとも考えられる が,それならば現在のどの辺りかを明らかにする必要があろう。また我々の知見不足や調査手段不 足による所もあろう。しかしここで同定不能とした地名(Sigonzaは除く)はすべてGonzalezの地 図に現われず,その後の研究者でこれらの地名にコメントした者がいないことを考えると,その可 能性がそれ程大きいとも思えない。
図2 セピーリャ市の周域 1 Penaflor 2 Almenara 3 Sete丘1a 4 Lora 5 Alcolea 6 Tocina [資料] RS, I, p. 373の図から作成 7 Cantillana 8 Brenes 9 AlcaはdelRio lO SanJuande Az nalfarache ll Sad血ar la Mayor
12 V山alba del Alcor 13 LaPalma
14 IslaCabor (I. Menor) 15 Isla Cabtil (I. Mayor)
これらの地名について解明するには詳細な歴史地理学的・地名学的考証を必要とすると思われ, 我々の及ぶ所ではないので,ここではセピーリャ市の周域に関してはまだ上記の問題があることを 指摘した上で, Gonz孟Iezの地図を提示することにしたい(図2)。なおGonzalezは文書AにMon-temo血とAyamonteが現われるにも拘らず,これらが既にサンテイヤーゴ騎士団に与えられてい たことをもって,この恵与を誤まりであったとし,両地を周域から外している31)。従って厳密に言 うとGonzalezの地図は1253年に文書A・Bによって与えられた周域をそのまま図示したものでは ないことになる。これが妥当かどうか疑問が残るが,この地図が今日までそのまま通用しているこ
とを考え,敢えて手直しはしなかった。 〔2〕周域の変容 (1)周域の外縁部-ここではセピーリャの周域がどのような地域と隣接していたのか,それが 如何に変化していったのかを纏めることにする。以下では(図2)に示した(I)-(I)の大雑把な 区分に従って見ていく。 (I) Azuagaは文書Aに現われ周域に含まれるがGonzalezやBorreroはセピーリャ市が同 地で裁判権を行使した形跡がなく,一方サンテイヤーゴ騎士団の騎士領(encomienda)であったこ とは確認出来るとし,後者はこれがMontemolinと同様な転変を蒙ったと推測している32)。騎士領 であったことが史料から知られるのは, 1464年のことであり33)かなり後のことであると言え, 13 世紀にどうであったかは厳密に言えば判然としないが,とくにそれ以前の変化を示す史料がない以 上,この時点までずっとサンテイヤーゴ騎士団領であったと考えてよかろう。 Montemolinは,サンテイヤーゴ騎士団の所領であったCantuanaが1248年5月20日にセピー リャ司教座聖堂に与えられた代わりに Moguer (但しカステイ-リャ王がこれを征服したとき) とともに同騎士団に与えられtz34)。同年5月28日にはCantillanaと交換にMontemolinとBesnaget が与えられている35)。これによれば,恵与地がMoguerからBesnagetに変更されたか,新たに Besnagetを加えて三つの土地が与えられたかの何れかであろうが, 1253年6月12日付のアルフォ ンソ10世の証書36)は, 5月20日付のフェルナンド3世の証書を確認している。これから推して, 8日後に別の証書が発給されたため撤回されたと解釈されかねない5月20日付証書の有効性を騎士 団の要請で更めて国王が認めたのではなかろうか39)。従って1248年には上記の3地が恵与されたと 考えるのが妥当だと思われる。他の2地はともかくとして, Montemolinに関していえば, 1248年 に恵与され, 1253年6月12日にそれが確認されたのは確実である。だがこの僅か6ヶ月後の文書A において同地はセピーリャ市の周域となっているのである。セピーリャ市側に周域への同地の包摂 の動きがあったというから38)これが単なる王権側の誤謬であるとは考えにくく,先の確認を意図 的に撤回したものと判断されるが,当然これは騎士団の抗議を惹起したものと思われ,結局1274年 にセピーリャは同地が騎士団に帰属することを承認させられている。しかしアルフォンソ10世はそ の子サンチョ(後のサンチョ4世)との確執で騎士団がサンチョ側に加担したことを理由にMon-temolinを取上げて,これをセピーリャ市に1282年7月13日付証書39)で与えたが騎士団はこれを手 放すことなく,実際に領有し続けたという40)。以上の経緯から見て,形式的帰属はともかく,実質 的にはサンテイヤーゴ騎士団が一貫してMontemolinを領有していたと言えよう。
最後にReinaは, 1246年4月13日サンテイヤーゴ騎士団に与えられており41) Azuaga, Monte-molinと共に同騎士団の一円的所領を形成していたと考えられる42)。
II)一 既にアルフォンソ9世時代にFrenagalde losCaballerosとJerezde laSierraをテ ンプル騎士団に与えることが約束されたが43)文書Aでは両地とも周域に含まれている。ところ が1283年3月8日付証書では両地が同騎士団に与えられている44)。アルフォンソ10世とサンチョと
の争いで同騎士団長代理がサンチョ側に与したため,国王は王国内のすべてのテンプル騎士団領を 没収したが,新団長が到来して国王側に加わる約束をして両地の恵与を願い出たため,これを同日 付で国王が許したのである45)。従ってこの時以来, 1304年の騎士団解散まで,両地が騎士団領で あったことは確かであるが問題は1253-83年の間である。 Gonzalezはこの間,周域であったと考 え, Bo汀erOもこれに同調していたが46)最近ではEstepaと同様に騎士団が領有していたと考え ているようである47)。アルフォンソ9世の譲与の約定が確かなものであれば, Montemolinの場合 と同様にテンプル騎士団が一貫して領有していた可能性も大きい。 (I - この地方は再征服前にポルトガル王とカステイ-リャ王の間で帰属に関する取決めがな されておらず,両王国間の係争地となった48)。ポルトガル王はサンテイヤーゴ騎士団に対して, 1239年にMereola, Alajar, 1240年にAyamonteを与えたが, 1245年教皇はサンチョ2世の王位を剥 奪し,王弟アフォンソに与えたため,サンチョ2世はフェルナンド3世に庇護を求め,代償として グアデイアナ川以東の譲与を約した。フェルナンド3世は1248年1月27日付でサンテイヤーゴ騎士 団に対する上記の3地の譲与を確認し49)同年サンチョ2世が硬した。アフォンソ3世は先王の約 定を認めず, 1249-51年にAyamonte, Aroche, Arecenaを征服し,両王国の対立が決定的となっ たが, 1253年にはアフォンソ3世とアルフォンソ10世との間で和平が成立し,アルフォンソの娘ベ
アトリスが婚資としてアルガルベ地方を持参し,その代わりポルトガル王はグアデイアナ川以東の
地を譲与することが合意された。 1253年の文書AにAracena, Aroche, Moura, Serpa, Andevalo,t
が含まれているのはかかる事情を反映したものである。しかし1255年アフォンソ3世がArocheに フェロを授与し,ここを放棄していない姿勢を示したため,アルフォンソ10世は辺境防備のため, 1259年2月1日にMouraとSerpaをサン=フアン騎士団に与えた50)。 1262年のNiebla征服によっ
てアルフォンソ10世は敗者のNiebla王からSerpa, Mouraなどに対する権利を譲与され,自己の権 原を強化した。 1267年バダホス条約が結ばれ,カステイ-リャとポルトガルの国境がグアデイアナ 川に確定した。 1271年8月10日には, Serpa, Mouna, Mour免Oがサン=フアン騎士団から,レオン 王国内の所領と交換に取戻されたが51)その後ホスピタル騎士団に恵与されたものと推測される。 何故なら1281年にこれらの土地がレオン王国内の所領と引換えに同騎士団から王権に回収されてい るからである。そして1283年3月4日にはアルフォンソ10世は娘ベアトリスにMoura,Serpa, Noudar, Mour畠Oを一代限りで与え52), 1284年1月10日の遺言状でもこれを確認している。 (IV) Nieblaはセピーリャの攻囲中これを支援していたが間もなくカステイ-リャ王に臣従 し,その後は独立のイスラム小王国として存続していたが, 1261-62年に反乱を起こしてアルフォ ンソ10世に征圧され,モーロ人は追放されてキリスト教徒による再植民が開始され,周域が設定さ れた53)。この方面に関する領域地図としては, Collantesのもの54)図Aとする)と, GarciaFer-nandezもの(図Bとする)があるが55)前者は15世紀,後者はアルフォンソ11世時代を対象とし ており,本稿の対象とする時代よりも後のものであるが差当りこれを手懸りとする他ない。図A によるとセピーリャ市の周域は既に領主領となっているNiebla, LaPalma, Villalba, Almonte,
Zalameaと,図BではNiebla, Villalba, Moguerと夫々境を接している。両者をつき合わせて考え ると,まずAlmonteは14世紀に領主領となったから,アルフォンソ10世時代にはセピーリャ市の 周域に含まれ, Moguer, Nieblaと隣接していたことになる。 Moguerはイスラム時代はNieblaの属 村であり,既述のように1248年にはサンテイヤーゴ騎士団に与えられたが, 1270年にはNieblaの 属村と呼ばれており,それ以前にNieblaの周域に含まれていたことが判る56)。 Ⅴ山albaとLaPa血a について, Ladero Ouesadaは前者は1380年,後者は14世紀第2四半紀に領主領化したとするが, Gonzalezはそれ以前にランプル騎士団領となっていたと述べており57)この間の事情は明らかで はないが,ともかくもアルフォンソ10世時代には王領であったことはまず確かであろう。それなら ば両地はNieblaとセピーリャの何れの周域に含まれていたのか。図Bは両地をNieblaの周域に含 めているのに対し, LaderoQuesadaはセピーリャの周域から分離・形成された領主領として両地 とAlmonteとを挙げおり58)両者の説明は全く食い違っており,どちらが正しいのか現在のとこ ろでは不明とする他ない。 ZalameaはAlmonasterと共に文書Aに現われるが, 1279年12月16日 付でCaza山aと交換にセピーリヤ司教座聖堂に与えられた59)なお, Nieblaは1283年3月4日付で AlfayatdePerna (Al勾ar)などと共にベアトリスに一代限りで恵与されている60)。 (V) 1249年の降伏協定によってJerezとArcosはカステイ-リヤに引渡されたが,両地の イスラム教徒には土地所有と自治が認められた。両地はLebr軸, MedinaSidoniaと共にフェルナ ンド3世によって王子エンリーケに与えられたが,アルフォンソ10世はこれを無効とし,次いでイ ス与ム教徒の首長を除去し,軍事・財政組織を奪取したが,彼らの居住は認めていた.しかし1261 -62年のNiebla反乱を契機として政策を転換して彼らを追放し,再植民に着手した61)。 Lebr軸も 両地と類似の状況にあったが,こちらは文書Bによって周域に組込まれた。 SanlucardeBa一 打amedaは1264年に征服され, 1266年3月30日付の特権付与状の中で同地の周域についての最初の 言及が見られるというが,同地はLeb軸と隣接しており, 1295年に領主領化された62)。 (VI) Cote, Mor6nは1240年に降伏協定によって再征服された後,フェルナンド3世によっ て王子エンリーケに与えられたが,エンリーケはアルフォンソ10世と対立してこれを失い,両地は 文書BによってOsuna, Cazallaとともにセピーリャ市に与えられ,その周域を形成したが, 1279 年12月14日付でアルカンタラ騎士団に与えられた63)。一方Osunaは1264年12月29日付でカラトラ バ騎士団に与えられ"¥ Cazallaも1279年12月15日付で同騎士団の領有するCerraja (1255年12月26 日付で取得)と交換に同騎士団に与えられた(Cerrajaは1280年5月31日付でAlcaはde Guadairaに 与えられた)65)。以上から, 1253年の時点ではCoteからOs皿aに至る地域はセピーリャ市の周域 であり,従ってグラナ-ダ王国及びEstepaと境を接していたが,その後の騎士団への恵与で周域 の境界が後退し,これらの騎士団領と接するようになったと言える。なおEstepaは1267年9月24 日付でサンテイヤーゴ騎士団に与えられているが6),それ以前の帰属については知り得なかった。 (W) Alcalade Guadairaは1253年にセピーリャ市の周域となっているが, 1258年9月13日 付でセピーリャ司教座聖堂に与えられている67)。但し市の周域に留まるという条件付であり,従っ
てこの方面での周域の後退はなかった。 1280年5月31日付文書68)には, 150人の住民を有すべき当 地に次の属域を与える云々とあり, GonzalezやBorreroはこれによってAlcalaは王領に戻ったと 考えているが, FrancoSilvaはこれ以前に既に王領に復帰しており,この時点では再植民がなされ たのだと述べており,食違いを見せている69)。 Marchenaは王子ルイスに与えられ,恐らくアル フォンソ時代にはずっと王子領を形成していたものと推測される70)。 Carmonaは1247年9月21日 に再征服され,フェルナンド3世はこれを娘のJuanadePonthieuに与えたが,アルフォンソ10世 は王位継承に伴ないこれを王領化した71)。 (1) Brenesは1253年に王弟ファドリーケに与えられたが, 1260年11月21日付でセピーリャ 司教座聖堂に, 1272年3月14日には再びファドリーケに, 1277年7月7日には又もやセピーリャ司 教座聖堂に与えられるというように頻繁に帰属を変えている72)。 Tocinaは1253年12月20日, Lora, Sete丘Ha, Almenaraは1241年3月6日にサン=フアン騎士団に恵与された73)後者について
は1249年3月6日付文書でAlcolea, Malapiel, Pefia且orを加えて吏めて恵与されている(但しこの 文書には偽文書説がある74)。 Cantillanaは1252年3月20日付でセピーリャ司教座聖堂に恵与され ている75)。 Constantinaは1245年2月20日にコルドバ市に与えられているが76)文書Aに現われ 表3 セピーリャ司教座聖堂所領 取 得 日 地 名 町 ●村の別1) 典 拠2) 1258年 9 月13 日 A lcala de G uadaira Ⅴu a 98 1258年 9 月16 日 C onstantina Ⅴ山a 99 1260年11月21 日 1260年11月22 日 C azalla3) villa 110 111 B renes vm a T ercia aldea U m brete alquen a
Sanlucar de A lbaida alqueria
1272年 3 月14 日4) G elves alqueria 166
1274年 6 月 6 日5)
1277年 7 月 7 日6)
1278年 4 月26 日 1279年12月16 日
A yelo (= G elo) alqueria 183
205
211 221
Pu岳lena alqueria
A lcozuldinar Sanlucar de A lbaida C am bullon T orre de A lpechin Las C hozas B renes A lm ochachar (= M ochachar) R ianzuela alqueria alquen a A lm onaster Zalam ea Vo a 1)町(vua),村(alqueria-alcaria, aldea)の別を示す。以下の表5-7においても同様。 2) SSに収められた文書の番号を示す。
3) Cazalla de la Sie汀aか, Cazalla Ahanzorのいずれかと思われるが不明。 4), 5) Sanlucar de Albaida, Brenesを取上げる代償として与えられた。
6 1252年3月20日付文書(RDF, III, no.839)でフェルナンド3世によって恵与されたTejada, Sanlucar la Mayor, Aznalc孟zar,グラナ-ダ王国に設定された4, 000mrs.の収入の代償として与
図3 セピーリャ市の周辺 [資料 RS, I, p. 380の図から作成 るので1253年にセピーリャ市の周域となったと言えよう 1258年9月16日付でセピーリャ大司教に 与えられたが77)セピーリャ市の周域を離脱しないという条件付きであり,周域の変化は生じな かった。ここでは,コルドバ市の周域と隣接していたことになろう。 (2)周域内における領主領の形成-セピーリャ市は王領地の都市であるが,だからといってそ の周域内部がすべて王領地であった訳ではなく,王権による恵与によって領主領が形成されていっ た。以下ではこの経過を1284年までに限って纏めることにするが,その際,領主別に整理する。領 ( 主は大別して,セピーリャ司教座聖堂,騎士団,俗人となる(所領の位置については(図3)を参 照)。 ① セピーリャ司教座聖堂 -MufiozTorrado, GonzalezJimenezの研究78)を手懸りとして纏め ると(表3)のようになる。 ② 騎士団-これについては, ④カラトラ-バ騎士団, ⑥サンテイヤーゴ騎士団, ㊤アルカン タラ騎士団, ④サン=フアン騎士団,と騎士団別に分けて,夫々, (表4)∼(表7)に示す。 ③ 俗人-1284年までには大規模な世俗所領は形成されなかったが,レパルティミエントにお いて,国王親族,カステイ-リャ貴族,国王側近など多くの人々に村落が与えられている。これら についてはレパルティミエントを対象とする別稿において扱うことにし,ここでは示さない。
表4 カラトラ-バ騎士団領
取 得 日 地 名 町村 の区別 典 拠
1253年
1253年 5 月 7 日1)
C arri on de los C espedes (= C . de los A j0S)
C histe (= Siste) alquen a
R S , II, p.25. R S , II, p.305. 1255年 5 月23 日2) Si肋ar (= X 山 alqueria B uE pp. 1051 R S , II, p.324. R S , II, p.327. 1256年 1 月 10 日4) C erra,a● alquen a 1264年12月 19 日 O suna vtfla B ui , pp. 123- 5. 1279年12月 15 日 C azalla5) Ⅴ山a B ui , pp. 143f.
1)既に1249年5月10日付文書(Manuel Rodriguez, op. cit, pp. 508f.)で王子エンリーケが父王の許可を 得て恵与しており,更めてアルフォンソ10世が確認したものだと考えられる。
2) 1257年1月21日付文書(Ballesteros Beretta, EIItinerario, p. 175)でアルフォンソ10世によって確認さ れている。
3) Bulario de la orden militar de Calatrava, ed. facs., 1981.
4)所有者のR. Gomezde Galiciaに対するアルフォンソ10世による売却許可の日付。 5) Cerrajaとの換地. 表5 サンティア-ゴ騎士団領 取 得 日 地 名 町村 の区別 典 拠 1253年 2 月28 日 1253年 2 月28 日
V illanueva de A riscar (= V . T alastar = Segura) T orre de A lm uedano aldea alqueria R S, ll, p.25, 303. R S, II, p.25, 303. 1253年 6 月 13 日 1261年 1 月 11 日
M ures^ (= M uros = V 山am a血 que de la C ondesa)
B enazuza2) (= B enizuza)
R S, II, pp. 172, 308.
R S, II, p.337. 1267年 Castilleja de la Cuesta3) (= C azaUa T ala- R 申0bチp.64
cadar) H ID 5¥ p.336.
1) 1,600aranzadasのオリーブ畑。 2) Teruel近傍のTermon城と交換。 3) Benavente近くの騎士団領と換地。
4) Gonz畠Iez Jimenez, La repoblacion de la zona de Sevilla durante el siglo XIV, 1975.
5) Ledero Quesada, "La orden de Santiago en Andalucia. Bienes, rentas y vasallos a仙es del siglo XV", HID, 2, 1975.
表6 アルカンタラ騎士団領
取 得 日 ■地 名 町村 の区別 典 拠
1253年 8 月 2 日1) C astilleia de A lcantara (= C . de G uzm an = D unchuelas T axit)
G elves
aldea R S , II, p.26, 310.
1261年 6 月28 日2) alquen a R S , II, p.338.
C anbullon (= C antullon) alquen a T orre de A lpechin alquen a
1) 1252年8月2日に恵与され, 1252年10月8日及び1253年10月8日に確認されたという史料もある。
Ballesteros Beretta, EI Itinerario, pp. lOf., 37.
表7 サン=フアン騎士団領
取 得 日 地 名 町村の区別 典 拠
1253年12月20 日1) A lhadrin (= Haldrina) aldea R S,II,p.26. A 〝2),doc.3. 1) 1284年1月14日付文書(US,II,p.361)によれば,既にこの時までに,荒れ果て焼打ちにされたため
騎士団から取り上げられていたことが判る。
2) Ladero Quesada/ Gonzalez Jimenez, "La orden militar de San Juan en Andalucia", A〝, num. 180, 1976.
Ⅲ 再 植 民 以上,中世都市セピーリャの歴史の舞台となる市域と周域について眺めたが,征服後のセピー リャ市の重要問題の一つは,征服した土地にキリスト教徒を入植・居住させるという所謂(再植 氏) (repoblacion)の問題であった。以下ではこの間題をやはり1284年までに限って検討すること にしたい。 〔1〕史料 再植民に関する史料は何種類かあるが79)ここで関係のあるのは以下の3種類である。 (1)レパルティミエント文書(libr。s de repartimient。s) 国王の代理人たる笈レ写窟 (repartidores)によって実施された,再征服参加者や入植者などへの不動産(土地・家屋)の分与 を記載した文書である。アンダルシーア地方の中ではハエン・コルドバ両王国に関しては当文書は 存在しないが,セピーリャ王国についてはいくつかの土地のものが現存しており,セピーリャのも のもその一つであ 。セピーリャ市とその周辺に関しては, 1251-53年にレパルティミエントが 実施されており,文書もこの頃作成されたと考えられている。セピーリャのレパルティミエント文 書には,同一の原本に基づいて作成された以下の二つの型がある81)。 ① エスピノーサ型 -1253年作成。 1520年頃にこの原本から写本が作成されたのでこの頃まで には原本は存在していたが, 16世紀後半には消失した。 1626年にPablo Espinosa de los Monteros によって初めて活字化されたのでこの名称で呼ばれている。
② パラシオ型-1253-58年の間に作成。 14世紀前半かそれ以前に作成されたこの原本の最初 の写本から14世紀の間に作成された第2の写本が現存し, Biblioteca de Palacio Realに所蔵されて いるのでこの名で呼ばれる Gonzalez以前に活字化されたことはない. 14世紀作成の第2写本の 底本として第1写本が使用されているので,この頃迄には原本は既に消失していたものと推定され ている。 ①②合わせて現存する写本は44点であり,内訳は①が19点(更にこれは四系統に分かれる), ② が26点である(①②双方を含む写本が1点ある)。 Gonzalezはこれらの写本の厳密な校訂を経て① ②共,纏めて活字化した82)。 (2)移住者人名リスト-入植が入植者の人名リストのみで伝わっている場合があり,アンダル
シーア地方全体で4点あるが,ここで関係のあるのはLebrijaのもの83)である。
(3)入植特許状(cartas pueblas) -入植者に対するフェロと自由諸特権(libertades)の許与と 土地恵与とを記した文書 Corio del Rio, Puebla del Rio, Alcala de Guadairaに関するアルフォンソ 10世による文書が現存している。 〔2〕再植民人口 以上の史料に基づいて再植民の実態を,セピーリャ市とその周域に分けて見ていく。 (1)セピーリャ市-移住者に関する知見は極く僅かであり,史料から確認出来るのはレパル ティミエント文書に現われるイダルゴ騎士(caballeros hidalgos) 200人にすぎない84)。これらの移 住者はどこから到来したのであろうか。名前に含まれる地名が出身地を示すという仮定に立って, GonzalezJimenezは127人の出身地が判明するとして,それを地方別に(表8)のように纏めてい る。カステイ-リャ王国から58.2%,レオン王国24.5%となり,両者合わせて82.7%で大半を占め ていたことが判る。 表8 セピーリャ市への移住者の出身地 ■出 ■身 地 人 数 割 合 (% ) 旧 カス テ イー リ ヤ 49 38 .5 新 カス テ イー リ ヤ 12 ■ 9 ●5 レ オ ン王 国 3 1 24 .5 ア ン ダ ル シ ー ア 13 10 .2 ナ バ ー ラ 6 4 ●8 ア ラ ゴ ン 2 1●5 外 国 人 4 3 ●2 同 定 不 能 10 7 ●8 127 100 .0 〔出所〕 STA, p. 22. 史料に現われる移住者は200人にすぎないが,これが移住者のすべてであったとは考えられず, 史料からは確認出来ない他の移住者がいたものと推測される。 Gonzalezは各小数区毎の平均世帯 、数を200とし,セピーリャ市が24小教区から成るので,市全体が4,800世帯, 1世帯当りの人数(係 数)を5人として, 24,000人を13世紀のセピーリャ市の総人口と見積ったが85)これに対して Gonz孟IezJimenezは以下の批判を加えている86)。第1に, Gonzalezが200世帯としたのはJerezの 最小の小教区 209世帯)を基準としたからであるが, 1317年の史料から,セピーリャの或る教区 司祭が教区が多すぎるという不満,換言すれば教区教会当りの世帯数がそれを支えるに足る程充分 ではないという不満を訴えていることが知られ,これからJerezの世帯数をそのままセピーリャに 適用するのは問題である。 1384年の住民名簿によると,当時28あった小教区の内,世帯数が200人 を越えるものは僅か4にすぎず,他は8-150世帯,平均すると105世帯であった87)。この住民名簿 は全世帯を含むものではなく,,聖職者,ユダヤ人,モーロ人は入っておらず,また当時は疫病流行
後の時期であったが,これらを勘案しても,再征服後間もないセピーリャ市の人口が14世紀末の世 帯数2,613の倍近くもあったとは考えられない。第2に,係数5は大きすぎる。移住者の多くは若 者(独身或いは子供の少ない既婚者)であったと推察されるので, 1世帯当り3人の子供は多すぎ る。因みに彼自身はJerezに関する研究では係数を3としている88)。 以上のようにGonzalezを批判するGonzalezJimenez自身は具体的数字は挙げていないものの, 征服後のセピーリャ市の人口がイスラム時代の都市外観を維持するに必要な人口には達していな かったと述べており,人口が不充分であったと考えていると言える。 Carandeも人口の少ない都市 として征服後のセピーリャを想定し, Collantesも,人口密度の低い,広大な無人の地を周辺部に 抱えた都市であったとし,その証拠として,西方の囲壁の近くに広大な敷地をもった五つの修道院 が建設されていること,南西部に広い面積の小教区が存在することを挙げている89)。こうした研究 動向を踏まえると,我々は征服後間もないセピーリャ市を人口の少ない都市としてイメージするこ とが許されよう。 (2)周域-史料から知り得るセピーリャ市の周域内のいくつかの土地に関する入植者数を示す と(表9(A)-(B))のようになる。 9箇所で都合1,510人の入植者がいたことになる。 ①∼⑥はレパ ルティミエント文書, ⑦∼⑨は入植特許状, ⑩は人名リストが典拠となっている。勿論,市の場合 と同様に,この数字は史料から確認出来る人数であり,これが入植者のすべてであるとは断定出来 ない。 以上の(1X2)の人口は同地域におけるキリスト教徒人口ということになるが,この他にムデハル (mud軸res,キリスト教徒支配下のイスラム教徒)とユダヤ人が存在した。以下では両者の人口、に ついて見ていく。 〔3〕ムデハル人口 (1)セピーリャ市-征服後のセピーリャ市のイスラム教徒がどうなったのかについては必ずし も判然としない。セピーリャは攻囲の後に,協定(pleitesias)によってキリスト教徒に引渡された が,その協定の原文が存在せず,従って如何なる条件の下で降伏がなされたのか,明確ではないか らである。 TenorioCereroは,降伏条件として「イスラム側はフェルナンド3世に市を与え,国王 はモーロ人を妻子・財産とともに出発させ,もし国王に仕えて留まることを望むモーロ人があれば 安全に留まること」が合意されたという年代記の記述を引用し,ここから多くのモーロ人がセピー リャを去ったが,また多くのモーロ人が囲壁内で生活を続けたことは疑いないとしている。従って 彼は市内のムデハルの数は多かったと考えており,その具体的根拠としてサンチョ4世時代の1292 -94年にセピーリャのモーロ人が上納金として8,000mrs.を納めている事実を挙げている90)。 以上のTenorioの見解については,史料面から二つの疑問がある。第1に彼の引用する年代記が 何なのかよく判らないことである。本文では"Cronica y la Estoria General de Espanna"とか"Cro-nica de Espa丘a"とか表記し,証では"CroEspanna"とか"Cro-nica de San Fernando"と記すなど,一体一つの年代記で あるのかすら判らない程である。第2に上納金の史料について彼は1293-94年に関するサンチョ4
表 セピーリヤの周域の移住者(典拠-レパルティミエント文書) 地 名1) 人数 内 訳 典 拠3) 人数2) E spinosa P alacio Cam as 100 100 カタル一二 ヤ人大 弓兵 79-83 San Juan de A znalfarache 128 13 ll 部隊長 ( 7.言盗品 ) 部隊長 ( ち)V 710* 巌 ) 99-100 (8) 22 ll 71 部 隊長 歩兵 隊長 歩兵 隊長 ( 盲言露 養) 歩兵 282- 287 A lcala de 56 5 歩兵 隊長 107- 109 279- 280 G uadaira (B orgalham ar) 51 歩兵 A lcala delR io 146 6 116 24 歩 兵隊長 歩 兵 歩 兵隊長 122- 126 277- 279 Sanlucar la 245 ll 騎士 139- 146 M ayor 211 3 20 歩 兵 寡婦 (子供 な し) 独 身の若者 T ejada (M anzanilla) (B eina丘 (H inoios) 122 50 72 騎 士 歩兵 147- 153 (47) 71 騎士 歩兵 271- 273 36 4 32 歩兵隊長 歩兵 274- 275 ■34 4 30 歩兵隊長 歩兵 275- 276 75 75 略奪兵 273- 274 1 )で括った地名は,恵与された農地はそこに存在するが,家屋はAlcalade Guadairaや に与 えられているので,そこに居住したと見倣し得ることを示す。但し, Hinojosについては家屋の恵与は 明記されておらず,文書に占める位置からそう推測される。 2 で括ったPalaciO型の人数はEspinosa型と重複しているものを示す。 3)レパルティミント文書をEspinosa, Palacioの両型に分けて,典拠となる箇所のRSにおけるページ数 を示す。 表9B セピーリャの周域の移住者(典拠:その他の史料) 地 名 入野 内 容 年 代 典 拠
C oria delR io 500 カタル一二ヤ人 1252年以前 R S , I,pp. 391-393. 150 カタル一二ヤ人 1265年 3 月 6 日 R S , II, p. 344.
Lebr的 17 騎士 1265年以後 B ellido A hum ada, op .cit, pp.20f.
Puebla delR io 200 1272年 R S , I, pp.383f.
T O A , p. 58. Alcala de G uadaira 150 1280年 5 月31 日 R S , II, 358f.
世の会計に関する或る文書(トレード司教座聖堂文書館所蔵)からかかる事実が判ると註記してい る。この文書は恐らく後にGaibrois deBallesterosが活字化した文書であろうと推定されるが,こ れでは上納金は5,500mrs.となっている91)。これは1293-94年の会計であり, Tenorioは1292-94 年と言っているので違っているのかもしれないが,それなら彼はどこからかかる知見を得たのか。 少なくとも註記された文書にはかかる記述はないのである。 Tenorioの見解は要するに,征服後多 数のモーロ人が残留し, 13世紀末に至るまで市内のムデハルは多かったというものであるが,この ように史料的根拠が暖昧であるという難点がある。
Ballesteros Berettaは,市内のS. Pedro小教区のAndarvejo区にモーロ人が残留し,ここにグラ ナ-ダ王国からの到来者も加わり,その後,征服直後の混乱が過ぎると多くのモーロ人が市内に戻 り,キリスト教徒が去った廃家に移り住んだが, 1264年の反乱後,これに関与したモーロ人が追放 され,居住区は大きな打撃をうけた,と述べている92)。つまり,征服後の一定数の残留-帰還など による増加-1264年反乱後の追放による減少という推移を考えていると言える.I ところで降伏協定の原文は残っていないと言ったが,これを『第一総合年代記』の記述から窺う ことは可能であり, Gonzalezはこれを基に降伏協定の内容を次の5項目に纏めている93)。 ④市全 体を引渡す, ⑥市とともにまだ征服されていない地域Aljarafeをも引渡す, ㊤カステイ-リャ王は Axacafとarraez Aben Choeb (モーロ人側指導者)にSanlucar la MayorとAznalfarache,それに征 服した時点でNieblaを与える, ④以上の内容が確認され次第,城を引渡す, ㊥セピーリャの住民 は退去するが,その際,すべての動産と家畜・金銭・武器をもっていって良い。 『年代記』 1123章 から確実に導出出来る項目はこの内の④㊤㊥である94)。 ⑥はAljarafeにあるSanlucarとAznalfa-racheの恵与が謳われていること,レパルティミエントにAljarafeが含まれていることから推定し たものである95)。つまり上記の二つの事実はキリスト教徒側に引渡される前提或いは引渡された事 実がなければあり得ないということであろう。 ④は厳密に言うと原文では「引渡した」と事実と記 載しており,それが協定内容であったという書き方はしていない。従って形式的に協定が④∼㊥す べてを含んでいたかは疑問はあるが,内容的にはすべてを含んでいたことは首肯し得る所であろう。 なお『年代記』は1124章で,モーロ人は搬出出来ないものの処分のために一ケ月の猶予を願い出て これを許され,その期限が過ぎると16万人がCeutaへ, 30万人がJerezへ旅立っていったと述べて いるが,この数字は誇大であろう。 以上の『年代記』の記述から窺われる再征服後のセピーリャ市の姿は,モーロ人が全く消え失せ た社会ということになり, TenorioやBallesterosの見解とはかなり異なっていると言えよう。 GonzAlezは,征服前に市外に避難し,その後帰還したモーロ人,国王の許可を得て残留した モーロ人, Baezaから到来した人々,更には市の周域やグラナ-ダ王国, Nieblaから到来した人々 と様々なムデハルがいたと考えており, Tenorio, Ballesterosと同じく居住区が早くから形成された / としているが,これは小規模であったと述べており96)ムデハル人口を左程多いとは推定していな いようである。居住区については既述のようにCollantesは13世紀におけるその存在を疑問視して
おり, GonzalezJimenezも,ムデハルは多くなく,独自の居住区もなかったという印象をうけると 言っている97)。 このように従来の研究者の見解は,様々に分かれているが,居住区の存在が或る程度纏まった数 のムデハルの存在を前提とするということが仮に認められるならば,以上の論者の考えるムデハル 人口を多い順に並べると,居住区の存在を認め,人数を多いと表現しているTenorioとBallesteros, 存在を認めるが人数は多くなかったと考えているGonz孟Iez,存在を認めず人数も多くなかったと するGonzalezJimenezという順序となろう。多い少ないといっても相対的で暖味な表現であり, 結局,現状では,明確なことは不明であると言わざるを得ないが,敢えて大雑把な我々の想像を述 べておこう。 分与委員会がレパルティミエントを実施する際に,地理や土地に関する文書に通じたモーロ人の 助力をうけたことは当然考えられる98)。これに限らず,セピーリャをキリスト教都市に改造してい くに際して,イスラム時代の状況についての知見を必要とすることが,様々な分野においてあった ことは推察に難くない。また移住者の様々な需要に征服直後からキリスト教徒のみで対応出来たの かという疑問も生じる。従って一定数のモーロ人の残留が許された,或いは残留させられたと想像 するのが妥当であり,モーロ人全員が退去したとは考えにくい。それならばどの程度の人数かとな ると推測は困難であるが, 『年代記』がとくに残留には触れていないこと(多かったならば触れて 然るべきであろう),反乱の恐れのあるモーロ人をアンダルシーア地方の中心都市に多数残留させ ることは有事の場合の影響が大きいことを考えると,残留したのはキリスト教徒側にとって必要最 低限の数であったと推測しておきたい。 (2)周域-セピーリャ市のムデハル人口を少ないとするGonzalezはその周域においても同様 であったとする。 年の協定でモーロ人がMoronを引渡したときモー盲人は10家族のみ残り, これらについてもその後の残留は確認されないこと, Alcalade Guadairaでも同様でキリスト教徒 が再植民したとき,モーロ人はいなかったこと, Sanlucar, Tejada, AlcaladelRioではレパルティミ エントによってモーロ人の土地が残されたことが判るが,これらのモーロ人も1264年反乱後は移住 してしまったことを具体例として挙げている99)。この内, Moronについての説明は誤解を招く。 Moronの協定100)は,同地のモーロ人がここを引渡して属村のS山barに移住することを取決めたも のであり,モーロ人がセピーリャの周域外に去った訳ではない。また10家族の残留もこの協定には なく,この中で言及されている別の文書101)が,モーロ人城代とその血族10家族にMoronでの土 地と家屋の所有を許しているのである。ともかくもGonzalezは周域のモーロ人人口は最初から少 なく,反乱後は殆ど消滅してしまったと考えていると言えよう。 最近のGonzalezJimenezの見解はかかる見方とは趣きを異にしている。彼が自説の根拠として いるのはMoron協定である。ここではモーロ人の属村での残留が認められ,比較的寛大な条件で 過されたことが判る。降伏協定によって征服されたその他のアンダルシーア地方の地域も同様な条 件で扱われたと彼は推定する。つまり1264年反乱以前のムデハルの一般的状況をこの協定内容が示
しているというのである。ところが1264年反乱後のムデハルの追放や自発的移住によってムデハル 人口は減少した。その理由は反乱によって上記の寛大な条件が破棄されムデハルに対するキリスト 教徒側の姿勢が厳しくなりこれが移住を促進したこと,更に後には1275年以来のベニメリンの侵入 によってキリスト教徒のムデハルへの憎悪が昂まり,これが移住を促したことなどによる102)。つ まり彼は比較的寛大な降伏条件によって征服後多くのモーロ人が周域に残存したが, 1264年反乱の 影響で大きく減少したという立場をとっていると言える。かかる彼の見解はセピーリャ市のムデハ ル人口を少ないとする自らの見解と矛盾してはいないだろうか。セピーリャ市の周域に関する見解 として我々が紹介したのは,実はアンダルシーア地方全体を対象とした彼の記述が,当然ここにも 当て飲まると考えて引用したものであり,とくにそれに焦点をあてた見解ではないので,セピー リャ市は例外なのであろうか。それならば然るべき説明が加えられるべきだとも考えられ,疑問が 残る。 全くの仮説にすぎないが,我々はムデハルの残留状況は市・町と農村部とでは異なっていたので はなかろうかと想像する。キリスト教徒は被征服地支配の拠点として囲壁に囲まれた城塞のある都 市を押さえ,その中のムデハルは出来るだけ少なくし,一方農村部ではモーロ人農民の残存を許し, 彼らに租税を課するという方針で臨んだのではなかろうか。.従って征服後,農村部には多数のモー ロ人が残留したが,彼らも1264年反乱後は大きく減少したと推定しておきたい。 〔4〕ユダヤ人人口 レパルティミエント文書によれば, Aznaぬracheの属域にあるPaternaHaran (アルフォンソ10世 によってAldea de losJudiosと命名)とFacialc畠zarにおいて27人のユダヤ人が土地を分与されてい るが103)この他にAlcala de Guadairaにユダヤ人居住区があった可能性があるという104)。ユダヤ 人はモーロ人と異なり周域の広い範囲に分布せずに,殆どセピーリャ市に集中していたのではない かと推定されるが,このセピーリャのユダヤ人居住区はアンダルシーア地方最大のものであり,前 出の1293-94年の史料から各地のユダヤ人居住区の上納金額を示すと(表10)のようになり,セ ピーリャが群を抜いて大きく,かなりの人口を擁したものと推測される。 表10 1293-94年1)のユダヤ人居住区の貢納金 順 位 都 市 名 金 額 (m rs.) 1 セ ピ ー リ ヤ 1 15 ,3 33 2 コル ドバ 3 8 ,3 33 3 ハ エ ン U b ed a, B ae na′ 2 5 ,5 00 4 N ie bla 7 ,0 00 5 Jerez 5 ,0 00 5 丘cija 5 ,0 00 6 A n d ujar 1 ,5 00 1) 1293年12月1日-1294年11月30日まで。
〔出所〕 Gaibrois de Ballesteros, op.til, doc. 583, pp. CCXCVI-VIIより作 成。
〔5〕再植民の危機 我々は入植者の実数を把握するのに〔1〕で示した諸史料を利用した。これらの史料,とくにレパ ルティミエント文書は,具体的知見に充ちた有益な史料ではあるが,いざこれを基にセピーリャ市 とその周域における再植民の全体的状況を把握しようとすると困惑せざるを得ない。その理由は第 1に,これらの史料が入植者全体を網羅しているとは思えないことである。例えば既述のようにセ ピーリャ市に関しては200人しか現われないが,これが入植者のすべてであったとは到底考えられ ず,また周域も広大であり,市周辺に限ってみてもここに挙げられた土地にしか入植者がなかった とは考えにくい。第2にここに現われる人々は土地を割当てられたというのみであり,勿論居住の 義務はあったとしても実際に入植したという確証はなく,従ってこれをそのまま入植者の実態を反 映するものと見倣してよいのか心許ないことである。第2の点は懐疑的にすぎるかも知れないが, 第1の点は異論の余地はなかろうと思われる。レパルティミエント文書は確かに重要な史料ではあ るが,そのカヴァ-する範囲は限定的であり,再植民の全体的状況を把握するのには左程役に立た ないというのが我々の印象である。この点で有益なのはむしろ次の2点の史料である。 ① 年6月17日付王令105) 「セピーリャを退去せし者たちが残せしすべての家屋や土地を 彼らが管理し,良き植民者や到来する者に与えるよう命ずる」。 ② 1263年7月13日付王令106) 「高貴なるセピーリャ市の人口が減少し,多くの家屋が,それ らを与えられし者たちの罪や,それらを荒廃させ,害をうけたままに放置している者たちのために 倒壊し破壊されている。どれ程の家屋に人々が住み,どれ程が荒れ果てて傷んでいるのか実態を知 るよう余は,小教区の良き人々に命じ,それらを記録する余の書記たちを派遣した。 -彼らは町の \ すべての家々を巡り,どれ程の家が住まわれ,荒れ果てて傷み,余の禁令に背いて売られたかを書 類に記し,余に送った。余はかの書類に従い審判と判定を下した。 余はNieblaの司祭長たる教師Ferrand Garcia,セピーリャの余のアルカルデGarciPerez,余の 家臣たる書記のJohanに,荒れ果てて傷んでいると記された家を分与し,余の審判と判定の対象と なった家を住民に与えるよう命ずる」 ①にいう退去せし者とは,これだけではモーロ人をさすと解されかねないが,征服後7年も経ち, レパルティミエントも終った後のものであり,キリスト教徒の入植者を意味することは明らかであ り, ①②から入植者が家を放棄して退去してしまったり,与えられた家を禁令に背いて売却してし まったりしている事実があることが分かり,再植民が順調には進展していないことが窺われる。ま た以下の5点の特許状を見てみよう。 ③ 1254年3月28日付107)セピーリャ市住民に周域内のモーロ人の土地を購入する許可を与え る。 ④ 1256年1月22日付108)セピーリャ市住民に通行税(portazgo)を免除する。 ⑤ 1261年3月24日付109)-セピーリャ市住民に宿舎提供義務を免除する。 ⑥ 1273年6月3日付110)イダルゴ騎士及び武器・馬を具えたセピーリャ市住民にモネ-ダ・
フォレア(monedaforea,王権に貨幣改鋳を放棄させる代償に与える援助金)を免除する。 ⑦ 1273年7月3日Ill)セピーリャ市住民とその周域の住民は家畜に関するmontazgoなどのす べての税をセピーリヤ王国内において免除する。 以上の特権許与は,移住促進のためであったと考えられるが,逆言すればこれ程に優遇処置を講 じなければならない程,入植者が少なかったことを例証しているとも解釈出来よう。 以上①-⑦の史料から窺われる再植民の状況をGonzalezJimenezは, 「再植民の失敗」 (fracaso delarepoblacion)と呼んだが, ValdeonBaruqueは「失敗」というのは行きすぎであると言ってい る112)。表現の問題はともかくとして,再植民が順調に進展しなかったこと,いわば再植民の危機 が存在したことは否定出来ない。それでは何故かかる危機が訪れたのであろうか。この間題に最も 包括的に答えているのはGonzalezJimenezでありまず彼の掲げる理由を若干の補足を加えて挙げ ていこう113)。 ④ 1262-64年のムデハル反乱の影響。反乱が国土を荒廃させ混乱を惹起し,移住者にアンダル シーアが危険な地域であるとの認識を抱かせ,移民の流れを後退させた。 ⑥ 経済危機と生活費の高騰。これらによって生活が苦しくなり,アンダルシーアが移住者を惹 きつける魅力を失ってしまった。 1258 68年の両コルテスで出された曹修品・高利の制限,生産物 価格や賃金の決定といった経済規制措置は,当時経済危機が存在し,これを王権の介入で克服しよ うとしたことを物語っており114), 1268年のコルテスで,セピーリヤなどの都市参事会に宛てた王 令は, 「人々が大いなる品不足について余に訴えてきた」と述べ115)やはり経済危機の存在を例証 している。またアンダルシーア地方の或る職種の賃金がトレードでの2倍となっていること116)は 生活費の騰貴を窺わせる。 ㊤ 内乱。 1272-74年にかけて,アルフォンソ10世の王権強化のための法典整備事業やアルカ バーラ導入の財政政策が貴族の反発を招き,王弟フェリーペの率いる反乱が起き, 1282年からは長 子の子FernandodelaCerdaを後継者にしようとするアルフォンソ10世とその息子サンチョとの間 の王位継承を練る確執による戦乱がアンダルシーア地方をも巻き込み,混乱と荒廃をもたらした。 ④ イスラムの脅威・劫掠。 1275年以来,グラナ-ダ王国の援助要請をうけて北アフリカからベ ニメリンが到来し,同年10月にはセピーリャ市近郊を荒廃させ, 1277年7月にはAlfarafeを劫掠し た117)。 次にGonzalez Jimenezが挙げていない他の論者の指摘する理由を以下に示す0 ㊥ 征服戦争の影響(Valdeon Baruque)118)。長期に亘る攻囲戟で生産設備が破壊されたであろう し,オリーブの木も破壊されてから再び実をつけるようになるまで何年かを必要とする。 ① 移民供給地における人口枯渇(Cabrilla)119)。セピーリャの再植民の最大の移民供給地である 新旧カステイ-リャ,レオンにおいて移民流出によって1270年頃に,新たな移民流出を許さぬほど 人口が減少し,これが再植民の不充分さの原因となった。 ⑧ 農業形態・土壌の差違(Ruiz)120)。移住者の故地での農業は,穀物,ブドウ,果樹を自らの
ために生産する自給自足農業であるのに対して,アンダルシーア地方の農業はブドウ酒,オリーブ 油,家畜の生産を中心とする輸出志向型農業であり,また両地の土壌の性質も異なっていたことが 移住者の適応不能をもたらし,北方への帰還を惹起した。 ㊥∼⑧のうち, ①についてはGonzalezJimenezが批判を加えている121)のでこれを検討してみよ う。まずCabr山aの議論を更に詳しく見てみる。 JimenezdeRada (1170?-1247年)は,スペイン 各地から征服後間もないコルドバへ,将来の移民が故郷を捨てていったと記しており,セピーリャ へも同様な動きがあったものと想像される。ムデハル反乱後の追放による空隙も北方からの大量の 移民によって埋められ,この結果,メセ一夕(中央高原地方)では人口枯渇が生じた。 Gonzalez 作成の移住者出身地地図122)によれば旧カステイ-リャ地方が最も多く移民を送り出しており,こ れが同地方の人口枯渇をもたらした123)以上のCabrillaの主張の要点は二つある。第1は,アン ダルシーア地方-の移民流出が旧カステイ-リャ地方の人口枯渇をもたらしたという点,第2は, かかる旧カステイ-リャ地方の人口枯渇が逆にアンダルシーア地方への移民流出を不可能とし,こ れがセピーリャ地方の再植民を不充分なものとしたという点である。 GonzalezJimenezの批判はま ず第1の点に向けられる。 Cabrillaの主張の唯一の実証的根拠はフェリーペ2世時代の『地誌報告』 {Relaciones geogrdficas)の中のGuadarajara県Dahanos村に関する次のような記述である。 「この村 の住民はすべてセピーリャに行ってしまったので」廃村となり, 「フェルナンド聖王はその名前を もつ通りを彼らに与えた」。つまりフェルナンド3世時代にこの村の住民全体がセピーリャの或る 通りに移住してしまったというのであるJimenezはこの史料がかなり後の時代のものであること, セピーリャにはDah弧OSという名の通りなどなかったことを指摘して,この証言の信悪性に疑問 を投げかけ,また自らの議論を補強するものとして,旧カステイ-リャ地方のÅvila司教区に関し てはアンダルシーア地方の再植民と人口減少との間の因果関係は認められず,これは史料不足によ るものではなく,史料そのものがかかる解釈と相容れないからであるというBarriosGarciaの見 解124)を援用している。 以上の第1の論点は旧カステイ-リャ地方の人口減少に主として関わるものであり,重要なのは むしろ第2の論点であるが,これについてJimenezは只一言, 「再植民の危機の原因は明白であり, 問題はレオンとカステイ-リャが既に人口が枯渇してしまったなどということではない」と言って いるのみである。この表現からすると,彼は人口枯渇そのものが抑々存在せず,従ってそれが原因 ではあり得ないと主張しているように思われる。それならば13世紀の旧カステイ-リャ地方の人口 動態に関してより立入った議論をすべきではなかろうか。旧カステイ-リャ地方に抑々人口減少が なかったという議論と,旧カステイ-リャ地方の人口減少の原因はアンダルシーア地方への移民流 出ではなかったという議論は全く別の議論なのである。 客観的に見ると, CabrillaとGonzalezJimenezの議論は必ずしも二律背反的なものではないと思 われる。つまり再植民の失敗はアンダルシーア地方の政治的経済的状況からくる移民吸引力の減退 と,移民供給地における人口減少が相侯って生じた,というような議論が成り立ち得るからである。
Jimenezも自らが行った移民の出身地分析 erez125),セピーリャ)からして,旧カステイ-リヤ 地方が最大の移民供給地であったことは認めざるを得まい。そしてその供給地において人口減少・ 枯渇が生じていたとすれば,その原因が移民流出によるものであるか否かに関わりなく,それに よって移民流出に何らかの影響が働くのは当然ではあるまいか。 Jimenezは何故,必ずしも自らの 主張を否定する訳でもないCabrillaの見解を反駁するのであろうか。 Jimenezの主張の眼目は,再 植民の失敗はアンダルシーア地方の内在的要因(政治的・経済的)によって,それが移民にとって 魅力を失い,移民の流れが止まり,或いはむしろ逆転した(帰郷の動き)からである,という点で ある。ところがこれに移民供給地での人口枯渇による移民流出の停止という外在的要因が加わると, 彼の議論の説得力が減退してしまうことになる。何故ならアンダルシーア地方の状況がどうであれ, 抑々移民の供給そのものが不可能なのだから,早晩再植民は失敗する運命にあったのだというよう な議論が成り立ってしまうからである。かかる議論は彼の議論を否定はしないが,不要化するもの であり,論駁する必要があったのであろう。 さて, GonzalezJimenezとCabrillaの議論は二者択一的なものではないと述べたが,どちらが主 要な原因であったかは指摘出来る。移民がなされるのは,それが強制的なものではない限り,現在 の地にいるよりも移住した方がより良い生活を送れるという予想を移民者が抱く場合であろう。 従って仮令,旧カステイ-リャ地方の人口に余裕があったとしても,アンダルシーア地方がそこよ りも危険で高くつく(生活費の高い)土地であったとしたら,移住は生じないと言ってよい。逆に, アンダルシーア地方の方がより良い生活が送れるのであれば,かなり無理をしても移民する人々は 存在するに違いない。つまり人口減少が移民流出停止原因となるのは相当に事態が深刻化してから だと思われる。このように考えると移民の流れを規定する主要な要因はまずもってアンダルシーア 地方の状況ではないかと考えられる。 以上から我々は①については差当り考慮の外に置き,それ以外の原因が示しているアンダルシー ア地方の政治的・経済的状況が再植民の危機の原因であったと考えたい。我々はこれらの諸原因の 中でもムデハル反乱の影響を重視する。それ以外の戦禍,外敵の脅威・劫掠,経済危機は時の経過 によっていずれ解消したり,克服されたりする性格のものであるのに対して,ムデハル反乱はより 永続的・根底的な影響を与えたと推測されるからである。この場合,ムデハル反乱が外敵の劫椋や 内戟と同様に住民への危険をもたらノしたとか,これがアンダルシーア地方が危険な土地であるとい う印象を移住者に与え,その流れを抑止する原因となったことも勿論あるが,我々が重要だと考え るのはむしろその後のムデハル追放の影響である。ムデハルという異教徒,しかも近隣に彼らの同 宗者の支配領域(グラナ-ダ王国)をもつ異教徒の存在は,常に政治的緊張を生み出す原因であり, それを追放したことは確かにアンダルシーア地方の政治的安定の達成に一定の貢献をしたかも知れ ないが,それは同時に人口の減少をもたらし,しかも減少した人口はすぐれた農民でもあったとい う経済的損失を伴うものであった。ムデハル反乱以前の1255年に既述のような史料があり,再植民 が既にこの頃から順調には進展していなかったことが窺われるが,決定的な打撃を与えたのはムデ
ハルの追放であったと思われる。 Gonz孟IezJimenezは,ムデハル反乱がアンダルシーア地方の社会構造の転換をもたらしたと考え ている。 1264年以前には寛大な降伏協定の条件の下に多数のムデハルが残留していたが,ムデハル 反乱はかかるキリスト教徒とムデハルの共存体制に終止符を打ち,協定は事実上破棄され,ムデハ ルは追放され,アンダルシーアはかかる状況の下で新たなタイプの社会の建設を模索していくこと になったというのである126)。我々はかかる社会構造の変化が再植民の問題とも関連していると考 える。反乱以前には農村部に残留するすぐれた農業技術をもつムデハル農民を主要な柱の一つとし て再植民運動が推進されていったと思われるが,反乱後のムデハル追放によってかかる再植民の基 本的プランは根底から破綻し,全くの出直しを余儀なくされたのである。かかる大きな変化は,再 植民の進展そのものを大幅に後退させることになったものと思われるが,その困難な条件下での再 出発にいわば追打ちをかけるかのように経済危機,外敵の劫掠,内戟などの不利な状況が次々と重 なり,再植民の危機を招いたのではあるまいか。 お わ り に 以上,我々はセピーリャ市史の舞台となる市域と周域と概観し,そこで展開された再植民につい て考察を加えた。市域・周域については事実の列挙につきると予想されたが,実はこの事実そのも のに,とりわけ周域に関する事実になお解明すべき点が残されていることが明らかになった。また 再植民に関してもムデハルの追放がその危機の最大の原因ではないかという見方を提示したが,こ れは反乱以前の多数のムデハルの残留を前提としており,これが現状では充分に確証されていない 以上,まだ仮説の域に留まっていることを認めざるを得ず,この点の更なる検討を今後の課題とし たいと考える。 〔略語表〕 AH Archivo hispalense CH Cuadernos de Historia
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