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近現代中国語の動詞付加成分“过”の文法化と情報機能の変遷 利用統計を見る

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近現代中国語の動詞付加成分“过”の

文法化と情報機能の変遷

The grammaticalization and the change in information function of the verb suffix

“-guo” in Modern and Contemporary Chinese

町 田 茂

Shigeru MACHIDA

1.はじめに  中国語の動詞後置成分“过”には移動、完結、経験の三義が認められている。従来の研究において “过”が移動>完結>経験という文法化の過程を辿ったことが指摘されており、これは大筋で正しいと 考えられる。しかし 20 世紀後半以降の現代中国語(普通话)において完結の“过”の使用は大きな制 約を受けるようになり、そのことがまた中国語のいわゆるアスペクト体系に大きな影響を及ぼしている とも考えられる。本稿は、明清白話小説から清末民初、そして現代中国語にわたる動詞後置成分“过” の用法の変遷を記述するとともにその中国語文法体系全体における位置づけを考察しようとするもの である。 2.動詞後置成分“过”  現在の中国語文法書において、“过”は方向補語、動態助詞などと記述されている。 2. 1方向補語“过”  刘月华等 2001 は、“过”に以下の6項を認めている。  1. 趋向意义 (一): 表示通过动作,人、物体或经过某处所 , 或向立足点移动,或离开立足点向另一 处所移动。 飞机飞过高山,飞过海洋,飞向遥远的大洋彼岸。( 经过某处所 )  2. 趋向意义 (二): 表示通过动作,人或物体改变方向 面向立足点或背离立足点。 我进屋的时候他正往窗外看,听见我进来,他转过身向我点了点头。  3. 结果意义 (一): 表示“度过”。 她们在破庙里躲过了敌人的搜查。  4. 结果意义 (二): 表示超过合适的一点 ( 时间、处所 ) 我坐车的时候睡 了,结果睡过了站。  5. 结果意义 (三): 表示“胜过”。 这种萝卜甜极了,赛过鸭梨。  6. 结果意义 (四): 表示“完结”。这样用的“过”与“了”的意义很接近,但是有一个前提 :“过” 前的动词所表示的动作及所涉及的物体,对听话人来说一定是已知信息。例如 : 这封信你看过以后就烧掉吧。 (560-562 頁、一部省略 ) 2. 2動態助詞“过”  刘月华等 2001 は、動態助詞“过”を以下のように解説している。

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 (一) 动态助词“过”表示的语法意义 动态助词“过”表示 经发生某一动作、存在某一状态,但现在该动作已经不再进行,该状态不再存在, 可以说“过”表示“ 然”。还要指出,在 含“过”的句子中,“过”前的动作或状态与现在正在谈 论的事情有关系,或对正在谈论的事情有影响。一般语法书通常说动态助词“过”表示经验。 A: 小李怎么没来 ? B: 我刚オ找过他两次,他都不在,可能他不知道今天开会。  (四) 动态助词“过”与结果补语“过”以及动态助词“了”比较  1. 从意义上看 : 结果补语“过”表示“完结”,即可以用于已然的动作,也可以用于未然的动作。 你昨天让我看的那本书,我看过了,很有意思。 明天你吃过饭到我这儿来一趟。  在这个意义上的“过”与“了”更接近。  动态助词“了”的意义是发生、出现,用“了”的词语所表示的动作或状态到说话时,可能已经不存 在,也可能仍然存在。  这个会已经开了三天了,再有一天就结束了。(会还在开) 而动态助词“过”表示动作 经发生或状态 经存在,但现在动作已不再进行或状态不再存在,所以与 结果补语“过”和动态助词“了”都不同。  4. 从表达功能上看 :  如前所述,动态助词“过”的功能在于说明、 释,而不在于叙 。动态助词“了”虽然也可以用于 说明 释,但其典型功能是叙 。   他默默注视了她一会儿,退出了女宿舍。   晚饭后他去学校附近的商店买了一些日用品,然后就去母亲那里了。  这些句子中的“了”不能用动态助词“过”替换。  5. 从用法上看 :  (1) 结果补语“过”对语境、上文有特殊的要求 .  (2) 动词用动态助词“过”后,后面一般不能再用“了”;如果“了”前有“过”,这个“过”一般是补语, 不是动态助词。 这本书我看过了,你拿走吧。  (3) 动态助词“过”总是在宾语前,“过”与动词之间可以插入结果补语、趋向补语。 那本书我看见过,好像在书架上。 结果补语“过”前后都不能再用其他结果补语。  (4) 否定动态助词“过”时动词前面用“没 (有)”,后面仍保留“过”。否定结果补语“过”时,不能保留“过”。  (399 - 406 頁、一部省略)  刘月华等 2001 の記述は、完結の“过”を方向補語の結果義・結果補語の二通りに扱っている点で首 尾一貫性に欠けるが、こうした若干の瑕疵を除けば、現代中国語の動詞後置成分の“过”の記述として は標準的なものだと考えられる。 2. 3“过”の文法化過程  “过”は本来は空間的移動を表す動詞である。“过”が空間的移動を表す場合、「動詞+“过”」は連動 構造と解釈されるべきであるが、“过”の意味が抽象的になるにつれて、前の動詞にかかわる移動の方向、 前の動詞が表す動作の完結、前の動詞が表す動作や状態の消失(経験)という意味変化を遂げ、それに 伴い“过”の文法的性格も方向補語から動詞付加成分・動態助詞に変化してきたと考えられている。  曹广顺 1995 によると、唐代の助詞“过”は主に動作の完結を表し、しかも、動作が終了し完成した

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という状態そのものに重点を置いていた。そして宋代の『朱子語類』において経験の“过”の増加がみ られるという。曹广顺 1995 は以下のように指摘する。  当表“完结”的“过”用在表 过去发生的事件的句子 ( 语境 ) 中时,它就有了“ 经”的意思。而随  着这种句子的 多,表示“ 经”逐渐在“过”的功能中固定下来,形成了一类,这种“过”就变成了“过2”  (42 頁)  さらに曹广顺 1995 は、元代に入ると「動詞+“过”」が賓語を伴うことが多くなり、明代以降完結、 経験のいずれも継続して用いられ、また使用頻度も増加したと指摘する。(45 頁)  ここで、完結の“过”と経験の“过”を区別する基準を検討しておかなければならない。“过”が移 動の方向>完結>経験という文法化の過程を辿ったことが事実としても、三者の区別は必ずしも明確で はない。特に明清白話小説において三者は高い頻度で使われており、読者の関心の向け方により解釈が 流動的になる可能性がある。1) (1) 那褚一官过那边去,又拜了张老。只这一阵辞拜,何小姐早暗暗的拉了张姑娘一把,又向公子递了 个眼色,三个人便走到褚大娘子跟前,何小姐先说道:“我们承姐姐这样亲热,今日也该服侍服侍姑 奶奶了。”说着,便满满斟了一杯送过去,褚大娘子乐得一饮而尽。才得喝完,张姑娘又奉过一杯来。 她便笑道:“你们就这样轮流着灌我,我也愿意;我到底也姑奶奶了哇。”说着又是一杯。她姐妹两个 才闪开,早见公子斟过一个大杯来。她道:“这一大下子,可不是玩儿的,还是那个小些儿的罢。”张 姑娘一旁低声说道:“好意思的!这么大个兄弟敬老姐姐一杯酒,干回他去。”(儿女英雄传 32) (2) 焦榕扯李承祖坐下,玉英姊妹,自避过一边。焦氏一面教丫头把酒去热,自己踅到后门首,恰好苗全 已在那里等候。焦氏接了药,分付他停一回进来。焦氏到厨下,将丫头使开,把药倾入壶中,依原走 来坐下。少顷,丫头将酒镟汤得飞滚,拿至桌边。焦榕取过一只茶瓯,满满斟一杯,递与承祖道:“贤 甥,借花献佛,权当与你洗尘。”承祖道:“多谢舅舅!”接过手放下,也要斟一杯回敬。焦榕又拿起, 直推至口边道:“我们饮得多了,这壶中所存有限,你且乘热饮一杯。”李承祖不知好歹,骨都都饮个 干净。焦榕又斟过一杯道:“小官人家须要饮个双杯。”又推到口边。那李承祖因是尊长相劝,不敢 推托,又饮干了。焦榕再把壶斟时,只有小半杯,一发劝李承祖饮了。那酒不饮也罢,才到腹中,便 觉难过,连叫肚痛。(醒世恒言 27) (1) 中の“奉过一杯来”“斟过一个大杯来”は、現代中国語文法の体系で理解すると「動詞+“过”… “来”」という動詞に方向補語が付加された構造だと理解される。一方 (2) の“取过一只茶瓯”“斟过一杯” 中の“过”は、後に“来”が付加されないことから、方向補語とも完結の“过”とも解釈される可能性 を残している。 (3) 我送子明去了,便在书房里随意歪着,和衣稍歇,及至醒来,已是午饭时候。自此之后,一连几个月, 没有甚事。忽然一天在辕门抄上,看见我伯父请假赴苏。我想自从母亲去过一次之后,我虽然去过几 次,大家都是极冷淡的,所以我也不很常去了。昨天请了假,不知几时动身,未免去看看。走到公馆 门前看时,只见高高的贴着一张招租条子,里面阒其无人。暗想动身走了,似乎也应该知照一声,怎 么悄悄的就走了。回家去对母亲说知,母亲也没甚话说。(二十年目睹之怪现状 28) (4) 随即架起炉鼎,投入各药,外面拿六一泥封了,然后炼以真火。宝玉、湘莲各守一炉,尽夜坚坐不离, 要守到三十六日,方可成丹。渐次过了半月,铅汞合法,坎离调顺。那火苗先是通红的,此时现了黄、 紫、青、绿诸色。渺渺真人来看过两次,茫茫大士回来了,又同来看过一次,都替他们欢喜。真人究 竟是过来人,知道丹功关键,吃紧的在将成未成的时候,还觉放心不下。转眼又过了十天,丹炉的火 杂色少了,青绿的多了。宝玉心中忖量,工夫已经过半,正自欢喜。(红楼真梦7) (3) の“母亲去过一次”は完結、“我虽然去过几次”は経験と解釈できそうだが、並列された両者の差 異をどれほど認めることができるか疑問が残る。また、(4) 中の“看过两次”“看过一次”も、完結・ 経験の二種の解釈を生む可能性を残しているように思われる。

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 移動の方向を表す“过”は、移動の過程を表す意味機能を有していなければならない。(1)(2) の解 釈に流動性が生じる原因は、“斟”(酒を注ぐ)“取”(取る)といった動作に人や物の移動を感じ取れる 点にある。このような、物の移動を漠然と含意する動詞に“过”が付加されたために、“过”が空間的 移動から時系列的移動(完結)へと意味を拡大させていったと考えることができる。  一方完結と経験の差異は話者の視点の時間的位置づけに由来する。“过”が完結を表すと解釈される のは、「動詞+“过”」が表す事態が文脈によって与えられる時系列上に位置づけられる場合である。曹 广顺 1995 は「唐代の“过”は動作自身の状態を強調するのであって、動作が終了したことによって生 じた状態を強調するのではない」と指摘している(40 頁)が、明清白話小説以降の「動詞+“过”」は 多くの場合それだけでは一文として完結せず、その事態の後に生じた別の事態を表すフレーズが後接す る。「動詞+“过”」を一つの完結した文にするとき、しばしば文末助詞“了2”の付加を必要とする。 (5) 次日,王夫人一早起来,梳洗完结,用过点心,托薛姨太太同宝月在家照应。领着媳妇、儿子、孙女、 合家亲丁,在大厅前上了轿马,先至祠堂。凡有贾姓男女,俱已到齐,听见王夫人来,在祠堂门口迎接。 内中只有一个老秀才贾斌,是王夫人的远房大伯子,其余都是小辈。接进祠堂,先在诚敬堂彼此见礼 请安,依着辈分序齿坐下。吃过一道清茶,盥手更衣齐到宗祠。(红楼复梦 62)  “过”が経験を表すと解釈されるのは、「動詞+“过”」が表す事態が基準時点(発話時点または文脈上 話者が視線を置く時点)より以前に発生・終了し、基準時点においてはその事態が存在しない場合であ る。そして刘月华等 2001 が指摘したように、「動詞+“过”」は、何らかの説明や、当該事態の基準時点 への影響を述べるために用いられる。つまり、「動詞+“过”」を文脈から切り離し単独で用いただけで は言葉足らずに陥るのである。(4) において解釈に揺れが残るのは、(a)“渺渺真人来看过两次”と (b) “茫茫大士回来了,又同来看过一次”の間、及び (c)“茫茫大士回来了,又同来看过一次”と (d)“都替 他们欢喜”の間にどれだけの時系列的関連を感じるかに揺れが生じることによる。(a)(b)(c)(d) を時 系列的に連続する事態として読めば“过”は完結と理解され、(a) と (b) 及び (c) と (d) それぞれの間 に一定の時間的距離を認め、(a)(c) を既に終了した事態、(b)(d) を話者の視線を (a)(c) から別の時点 に移した上での叙述として読めば“过”は経験と理解できる。ただし、このような解釈は現代中国語を 基準とした牽強付会という誹りを免れない。明清白話小説において“过”は終結した事態を表すために 幅広く用いられ、その事態が文脈によって与えられる時系列上に位置づけられるか否かによる明確な文 法的使い分けは存在しなかった、つまり、完結か経験かを明確に区別する必要は存在しなかったと考え てよい。 3.明清白話小説中の完結の“过”  現代中国語を基準としたとき、明清白話小説中の完結の“过”にはいくつか特徴的な用法が認められ る。 3. 1動詞+“过”+数量表現を含む賓語  現代中国語で完結の“过”を用いる場合通常賓語には数量表現を付加しないが、明清白話小説中では このような制約を受けていなかった。町田 2009、町田 2011 は、中国語の数量表現が事物の具体化、情 報の活性化という機能を発達させてきたことを指摘した。2) 明清白話小説の「動詞+“过”+数量表現を 含む賓語」という文法構造中に用いられる数量表現も、その多くが新情報を導入し、情報を活性化させ るために用いられていると考えられる。 (6) 黄凤仙道:“为国亡身,万死不避,小将再去就是。”重新帖过一张画成的城门,重新换过一盏明灯, 自家放定了方向,又叮嘱王爷道:“达盏灯是小的的命,小的也是为朝廷出力,伏乞元帅老爷严加照管。” 王爷道:“你放心前去,今番再不许诸人移动。”(三宝太监西洋记 85)

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(7) 陶子尧摸不着头脑,心下好生踌躇:欲待回去,恐怕是王道台派来的人向他缠绕;欲待不去,又实在 放心不下。慢慢的吃过一筒烟,又喝了一碗茶,穿好马褂,付了烟钱,跟了管家就走。(官场现形记 10) (6)(7) 共に同一動作者の動作を時系列に沿って並べており、「動詞+“过”+数量表現を含む賓語」の後 には別の動作が続いている。  しかし、明清白話小説では、少数ではあるが、「動詞+“过”+数量表現を含む賓語」の後ろに同一動 作主による時系列上に並ぶ別の動作が続かない例も散見する。 (8) 一会,台上唱过了四五出戏,大家嚷道:“叫天儿上来了!”原来叫天儿这日唱的《空城计》。二人听 过一段摇板,便有人哄然喝彩;还有闭着眼睛,气都不出的;也有咕咕囔囔在那里骂的,说:“你们 老爷别只管喝彩,闹得我听不着!我今天好容易当了当,才来听戏的。”劲斋暗暗诧异。叫天儿唱毕, 大家就散了。一片拥挤,就如潮水一般。二人方到得戏园门口,劲斋望身上一摸,忽然“啊呀”一声。 (负曝闲谈8) 3. 2動詞+“过”+動作量  中国語の動詞に後置される動作量表現も、当該動作を現実世界に存在する動作として具体化する機能 を有している。明清白話小説では、「動詞+“过”」にもしばしば動作量表現が付加されていた。 (9) 自此朝夕哭泣上奠,天天屈指计着父亲行程。盼到月底,鹤亭到了。知道白氏病故,父女抱头痛哭。 哭过一场,彼此诉说所遇乱离情状。鹤亭恐怕河道冻冰,即日带了女儿,扶了灵柩,率同李富,雇定 船只,兼程南下。(恨海 8) (10) 众人拽了呆叟走进这个村落,少不得各致寒暄,叙过一番契阔,就问他致祸之由。呆叟把以前被劫的 情形、此时受枉的来历,细细说了一遍。(十二楼 2) 少数ではあるが、「動詞+“过”+動作量」の後ろに同一動作主による時系列上に並ぶ別の動作が続か ない例も散見する。 (11) 平儿跟着太太来到上房,王夫人吩咐宝钗们就在上房吃饭。宝月将庵中之事回过一遍。宝钗道:“我 还得吃杯热酒。刚才道儿上大大的受了一惊,这会儿心神还没有安稳,不敢吃饭。”(红楼复梦 41) 3. 3動詞+“过”+時間量  現代中国語の動詞に後置される時間量表現には、動作の継続時間を表すものと動作が完了した後に経 過した時間量を表すものがあり、前者にも、当該動作を現実世界に存在する動作として具体化する機能 を認めることができる。明清白話小説では、「動詞+“过”」にも動作の継続時間を表す時間量表現が付 加される。ただし、“过”自身が「経過」の意味を有するため、用例中の“过”がどれだけ文法化して いるのか判断が難しい場合がある。 (12) 却说仲蔼出来打探了一回,及至回家,见重门洞开,已是吃了一惊。及至走到里面,只见满地血迹, 父母俱被杀死。这一惊非同小可,直吓到魂飞天外,魄散九州,仰面一跤,跌倒在地,便晕了过去。 可怜又没人灌救,歇了半晌,自行苏醒,不觉放声大哭。哭过一会,要叫家人时,却没人答应。(恨海8) (13) 宝钗道:“上头既这么个意思,咱们做儿女的,尽着博他们喜欢才好。你这几日空闲,也上去得勤些。” 黛玉点点头,真个跟了宝钗约了众姊妹不时上去,也玩玩牌儿,说说笑话。王夫人便道:“为些不相 干的事情,闹过一冬,直到这个日子才觉得清清净净的。你们大家也商议些玩儿的事情。”(后红楼梦 28) (14) 久而久之,他们这些事轰扬得人人知道。虽怪司进朝好色所致,但这富新受他多少恩惠。他虽辱身, 系他情愿,并非司进朝强拿硬做。且酬之以二婢,也就罢了。决不该淫他的妻妾,盗他的家产,可谓 负心之至,知者无不痛恨。司进朝父亲有一个老友,做过一任给事,告老在家。他姓雪名芳,是个极

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义愤的人,专好替人雪忿报仇,他也知道这事。(姑妄言 18) “哭过一会”“闹过一冬”中“の“过”に「経過」の意味を強く読み取れば、この“过”は完結の“过” とは認められなくなる。「動詞+“过”+時間量」も、多くの場合同一動作主による動作を時系列的に並 べる文脈の中で用いられている。しかし、少数ではあるが、これに該当しない用例も散見する。 (15) 石生在外住过一年,王诠在家写了一封假书,着人送到房宅,说是石生的家报。翠容拆开一看,上写 道:予自修河长安,操劳过度。饮食不均,积成一病。迩来日就垂危,料此生断难重聚。贤妻年当青春, 任尔自便,勿为我所误。余言不宣。(幻中游 6) さらに、(16) 中の“过”も解釈に揺れが生じる。 (16) 过了半日,只见总兵走来拱手道:“多蒙先生妙剂,服过一刻就睡了,才醒来,说竟不疼了,果是神速。” 不觉十分钦敬。进忠口中谦逊,心中却暗自称奇。晚间又服了三钱。次早进来看,公子道:“深蒙先生妙药。 跌伤后半月中,上半截痛不可言,下半部就不知浑木了;自昨日服药后,下部方知冷暖,夜间骨里觉 得微痒,隐隐的响声,如今也伸缩得了。”进忠道:“不要扭动,恐劳伤了筋骨”。又调一服与他吃。(明 珠缘 19) “服过一刻”中の“过”に経過の意味を読み取れば“过”は動詞に近くなるが、“服”は瞬間動作である ため、“服过”に動作の完結を読み取れば“一刻”は動作完了後に経過した時間量ということになる。  以上の観察から、明清白話小説においては「動詞+完結の“过”」には様々な数量表現が後接された こと、そこでは“过”が本来持つ経過の意味が関与しがちであることを確認することができた。しかし、 清末民初以降の口語文献では、「動詞+完結の“过”+数量表現」の用例は著しく減少する。 4.清末民初口語文献に見る「動詞+完結の“过”+数量表現」  清末以降、口語体の平易な文体を用いた新聞が刊行されるようになった。こうした文献中で「動詞+ 完結の“过”+数量表現」の用例はきわめて少数である。3) (17) 我白語道人不瞞你列位說話 我是通中國十八省地方都走過的 噯喲 說起來話長得狠 從前我兄弟 也是百萬的家財 只因我一向喜歡遊蕩 單說那盤費一項 船錢 車錢 轎錢 馬錢足足花了三萬銀 子 餘外那客棧的開銷 朋友的應酬 登山玩水的花費 還不在內 共總花了十二萬九千九百三十一 兩四錢銀子 這還是單遊了中國的十八省哩 後來遊得高興 又到了蒙古西藏東三省 那不同種不族 同的地方去遊過一會 又順便搭了英國公司船到了南洋新嘉坡一帶 玩了一會 碰着一箇外國人  他請我到外國去玩 我又跟着他去 隨便地球上什麽好玩的地方 我都到過的那外國的花銷就大了  (中国白话报 1903 年 12 月1日) (18) 蜂王產卵的多少 於飼養的地方 是很有關係的 飼養的地方 若花蜜富饒 動蜂很多 那蜂王產卵 的數 也就多了 及收藏的蜜很多 才產雄蜂卵 次產蜂王卵 好豫備著分封 但盛夏花蜜缺少的時 候 藏蜜雖很多而羣蜂蕃殖 常常的止住產卵 又蜂王孵化 與雄蜂交媾 不在房裏頭必定遠遠的離 開巢房 接著天氣交合 分封的時候 雄蜂伴著幼蜂王出巢 雌旣交過一回 能產卵兩季 受孕後過 四十六點鐘 便生卵 一天所產的卵 約有二百或三百 所以一蜂所產的卵 生出來的幼蜂數目 大 約有十萬多个 (中国白话报 1904 年8月 30 日) こうしたごく僅かの用例を除くと、「動詞+“过”+数量表現」中の“过”は方向義か経験義に限定さ れていき、その一方、動作・事態の実現・完成を表す文法手段は動態助詞(接尾辞)“了1”に集約され ていく。換言すれば、清末民初を境に以下のような体系の変化が生じたということである。  明清白話小説中の動作の完結・実現・完成 清末民初以降の動作の完結・実現・完成 動詞+“过” 動詞+“过” 動詞+“过”+数量表現 動詞+“了” 動詞+“了” 動詞+“了”+数量表現 動詞+“了”+数量表現

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5.“过”の意味機能の変化とその中国語文法体系中における位置づけ  先に示した数量表現の具体化・情報の活性化という機能を振り返れば、4.末尾で示した体系の変化 は、「動詞+完結の“过”」が情報面でより背景的になったことを意味する。初期には「同一動作主の時 系列的に並ぶ動作」という文脈に馴染んできた完結の“过”に背景化という情報構造上の変化が生じた ことは、中国語のいわゆるアスペクトマーカーが、時間的角度から動作の進展状況を表すというアスペ クト成分の中心的機能にとどまらず、情報構造上も一定の機能を果たすようになったことを示唆する。  現代中国語において、“把”を用いた処置式(以下では「“把”構文」と呼ぶ。近代中国語では“把” の代わりに“ ”も用いられた)の述語に“过”を用いることができないことが知られている。4) しかし、 张美兰 2001 が指摘するように、明清白話小説まではこのような制約は発生していなかった。 (19) 众道士正说的高兴,听见法官孙老爷来了,都赶忙出去迎接。戚二奶奶站在堂屋门口,见孙道士身穿 程乡茧夹道袍,系著丝绦,带顶纯阳巾,穿著棕履,有七十来岁年纪,一口雪白的长须,很有些儿仙 风道骨。打杂的老道忙端过一张圈椅,孙道士周围看过一遍,诸事都妥当,吩咐褚道士化净坛符、驱 邪镇宅符、召土地符、召护法灵官符。褚道士在烧酒火上挨次将符焚过,中间香炉里添上檀香。孙道 士坐下,命打杂道人去致意本家奶奶,凡有身子不洁净的,俱要回避。(红楼复梦 75)  “把”構文は、述語部分において動作によって動作対象に生じた状態や動作の具体的状況を重要情報 として提示する。前景・背景という区分に従えば、“把”構文の述語部分は前景である。従って、現代 中国語においては、背景化された“过”は“把”構文の情報面での必要性を満たすことができない。し かし、“过”の背景化が意識されなかった明清白話小説の言語では、“把”構文の述語に“过”を用いる ことに制約が無かったことになる。  一方、“过”の背景化によって、“过”と“了”の間に以下のような意味機能における分化と補填の関 係が生じたものと考えられる。 (a) 現代中国語における「動詞+“过”」は、完結・経験いずれの意味においても、単独では用いにくい。 完結の場合はしばしばその後に生じた事態を表すフレーズが後接し、全体で動作・事態を時系列に 沿って記述する多動詞文を形成する。「動詞+“过”」が表すのは、文脈から与えられる情報から判 断して意外性の無い、予測可能な、重要情報として伝達する必要の無いような動作である。その動 作の完結を敢えて重要情報として伝達する場合は、文末助詞“了2”を付加する。また、ここでの動 詞は、動作主が一定の労力をかけて行う動作を表すものに限定されるが、これは、動作主のその動 作を行おうとする意図性が、前後のフレーズを連接させる論理的紐帯になっているからだと考えら れる。一方経験の“过”を用いるときは、それを付加できる動詞の範囲に大きな制約は無い。“有”“存 在”など状態を表す動詞に付加される用例も散見する。しかし、経験の“过”は単に事態の発生を 述べるのではなく、かつて発生した当該事態と基準時点(発話時点や話者が視点を置く時点)との 関係を意識して用いられる。完結の“过”が複数の事態の時系列的配列の中での特定の動作の完結 を表すために用いられるのに対し、経験の“过”は時系列を離れた幅広い過去の世界における不特 定の動作と基準時点との間の影響関係を意識して用いられるのである。“过”のこの性格が、「経験」 という日本語との間に若干の齟齬を生むことにもつながっている。 (b) 現代中国語において、完結の“过”は数量表現と共起しにくく、経験の“过”は数量表現と共起し やすい。中国語のアスペクト標識の体系において、完結の“过”には意味的に近似した完成・実現 の“了1”が存在し、経験の“过”には意味的に近似したアスペクト標識は存在しない。そして“了1” はしばしば数量表現と共起し、重要情報を提示する。つまり、完結・完成・実現といった意味にお いては文法的制約の少ない“了1”の存在の下で完結の“过”はその適応範囲を縮小し、経験の“过” は広い適応範囲を保っているということである。 (c) 完結の“过”と完成・実現の“了1”は完全に同義ではない。前者は動作過程全てが終了した後の

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時点を強く意識して用いられるのに対し、“了1”が動作全過程の終了後を表すかどうかはそれが付 加される動詞との組み合わせや賓語の内容などによって決定される。換言すれば、“了1”は結合可 能な動詞の範囲が広く、「動作の完成」という抽象的意味がどこまで動作全過程の終了後までを意 味できるかについては臨時的解釈の余地を残すということである。 (d) 沈家煊 1995 は“有界”(bounded)、“无界”(unbounded)という区分を示した上で以下のように指 摘する。 现在我们可以看出,数量词对句法结构的制约实际上是“有界”“无界”对句法结构的制约。“盛碗里 鱼”、“打破玻璃”、“飞进来苍蝇”、“吃了苹果”等句法组合之所以不成立或不自由,那是因为其中的 有界动词 (事件动词) 跟后面的无界名词不匹配,换句话说,事件动词的后面跟上有界名词宾语,动 作的自然终止点オ有了 落,变成“实际的”终止点,整个组合オ能表示一个完整的事件。(373頁) 沈家煊 1995 は“过”については触れていないが、氏の趣旨に従えば、完結の“过”・経験の“过”・ 完成・実現の“了1”はいずれも“有界”に分類されるべきものである。従来の文法研究史におい て「“吃了苹果”は単独では用いられず、“吃了一个苹果”などとするとまっとうな表現になる」と いった指摘がされているが、“了1”と同様“有界”だと認めることができる“过”においては、完 結義では明清白話小説までは数量表現と共起できたが、その後共起は大きく制約されるようになり、 経験義では数量表現と共起できるものの、完結義・経験義いずれも単独での使用は情報不足で、言 葉足らずという印象を残す。“有界”のアスペクト成分と数量表現の共起については、「“有界”は 数量表現とのみ共起し、“无界”と数量表現は共起しない」といった厳格な規則を認めることは困 難である。 (e) 中国語の数量表現はそれが付加される名詞の指示対象や動詞の表す動作を個別化する機能を有し、 この個別化は、新情報を提示する際情報を活性化し、その事態を前景化する。通常一つのまっと うな発話は一つの前景化された要素を含むものと考えられ、前景化される要素を欠く発話は情報不 足で、それだけでは言葉足らずになる。「動詞+完結の“过”」は背景的で、特に現代中国語に至っ ては数量表現とは共起できず、時系列中に並ぶ複数の事態の一つの背景として用いられるか、又は “了2”を付加して前景化される。一方現代中国語の「動詞+経験の“过”」も背景的であるが、数 量表現と共起できる点で前者とは異なる。そして、前景となるのは「動詞+経験の“过”」が表す 事態とは時間的に隔絶された、話者の視点が向けられる別の事態である。「動詞+“了1”」は、単 独で用いられた場合「動詞+“了1”+“了2”」と解釈できる余地があり、前景とみなすことがで きる。一方、「動詞+“了1”+賓語」ではその事態が意表を突くようなものであるほど前景化しや すく、また、賓語が数量表現や具体的情報を表す定語を伴うほど前景化しやすく、前景化するほど 発話としての完成度が高まる。総じて言うなら、現代中国語が、情報構造をより反映しやすい言語 に変遷しつつあるということである。ここに、文終止と数量表現の関係を含む従来のアスペクト論 を情報機能という角度から再編するという新たな課題が生じるが、この課題の検討は別稿にゆずり たい。 <註> 1) 白話小説の用例は、尹小林『古代小说典』北京国学时代文化传播有限公司により検索して得たものである。用例 (8) では李伯元主编『繡像小說』北京圖書館出版社 2006 を参照し“咕咕”の二字を補足した。 2) このような指摘は既に大河内 1985 に見られる。 3) 新聞の用例は原本のまま繁体字で引用することにする。 4) 史铁生 1988 は、一定の条件の下では、以下の例のように“把”構文の述語に“过”を用いることができると指 摘している。

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他的目光大约把我从头到脚扫过三遍,最后,突然“咯咯咯”地放声大笑。 她把她的意见向金生说过一次,… <参考文献> 曹广顺『近代汉语助词』语文出版社 1995 黄振英「词义在句子中的衍射作用」,『语言教学与研究』第2期 123-128,1991 戴耀晶「論現代漢語的体範疇」、『開篇Vol5』,1-97、1997 竟成「关于动态助词“了”的语法意义问题」,『语文研究』第 1 期 52-57,1993 孔令达「从语言单位的同一性看助词“过”的分合问题」,『语法研究和探索 ( 八 )』商务印书馆 99-111,1997 李讷 石毓智「论汉语体标记诞生的机制」,『中国语文』第2期 82-96,1997 刘月华「动态助词“过2过1了1”用法比较」,『语文研究』第 1 期 6-16,1988 刘月华 潘文娱 故韡『实用现代汉语语法 ( 修定本 )』商务印书馆 2001 沈家煊「“有界”与“无界”」,『中国语文』第5期,367-380,1995 史金生「谈“把”字句中的“过”」,『汉语学习』第3期 27-30,1988 张美兰『近代汉语语言研究』天津教育出版社 2001 大河内康憲「量詞の個体化機能」,『中国語学』232 号 1-13 頁,1985 木村英樹「テンス・アスペクト 中国語」,森岡健二 宮地裕 寺村秀夫 川端善明『講座日本語学 11 外国語との 対照Ⅱ』19 - 39、明治書院 1982 町田 茂「現代中国語数量詞の非計数機能」,『平成 18 ~ 20 年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書 中国語普通話文法の形成及び多様性に関する基礎研究』2009 町田 茂「从激活信息的语法手段来探讨汉语的语法范畴」IACL19 口頭発表、中華人民共和国天津市南開大学 2011 年6月 本研究はJSPS 科研費 23520502 の助成を受けたものである。

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