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キャロル・グッデンとレストラン「フード」 利用統計を見る

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(1)キャロル・グッデンとレストラン「フード」 Carol Goodden and the restaurant, FOOD 平 野 千枝子 Chieko HIRANO. 山梨大学教育学部紀要 第 29 号 2018 年度抜刷.

(2) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. pp.79-88. キャロル・グッデンとレストラン「フード」 Carol Goodden and the restaurant, FOOD 平 野 千枝子 Chieko HIRANO 1 食の諸問題と「フード」の再評価 「フード」は、1971 年、ニューヨークのソーホー(South of Houston Street)の一角に開かれたレスト ランである。アーティストのゴードン・マッタ=クラークと写真家でダンサーのキャロル・グッデンを 中心に運営され、ソーホーの芸術家コミュニティの交流の場となったことで知られている。この伝説の レストラン「フード」は、近年の食に対する関心のなかで、あらためて注目を浴びている。 近年、食は思想上の重要な主題のひとつになってきた。その要因として、第一次産業とされていた農 業が、人口増加と世界経済の拡張の中でますます大規模に管理され、栽培は単一化・工業化し、遺伝子 操作に代表されるテクノロジーによって環境自体に変化を引き起こしているという現代的課題がある。 政府や企業の利益によって導かれる貿易のシステムは、環境の連関を破壊するだけでなく、新たな南北 問題ともいうべき重荷を人間社会に課している。また、加工の場面でも、食品産業が人々の健康を害す ることを黙認してでも消費者の肉体と感覚を容易くコントロールして利潤を上げている事態に、警鐘が 鳴らされる。こうした状況への反応としての有機農業、菜食主義、スロー・フード運動等に対しても、 様々な議論が交わされる。1 グローバルな食品産業による食文化の均質化への反応の一つと言えるのが、 料理文化への考察であろう。地域の特質や歴史的な相互交流によって生み出された料理の豊かさに焦点 を当てるさまざまな試みは、美術の歴史記述にも比せられる。だが、こうした食材や技法の交流は、味 覚による植民地化という問題を孕み、難民や移民を多く抱える現代の都市では、同化を巡る政治的主題 ともなる。 これらの主題の多くが、 「フード」が提起した問題と繋がっている。「フード」が始まった 1970 年代は、 環境に対する関心の先駆けの時代であり、「フード」にも、地元の食材や有機農業への関心が表れてい た。またそこでは、18 世紀のフレンチ・インディアン戦争の敗北によりカナダからルイジアナに下方 されたフランス人を源とするケイジャン料理が振る舞われた。さらに、この時代は、多くの先進国の都 市で、製造業の衰退とともに新住民による新たな消費文化が作られた時代である。このレストランの根 幹には、都市に集まった人々による新たな共同性の構築という理念があった。しかし、現代都市におけ る葛藤に比すると、対抗文化に彩られた彼らの共同性は牧歌的なものに見え、先駆的な事例の一つとし て回顧的に語られる傾向にある。また、「フード」は、その共同性が強調される一方で、中心的な役割 を果たしたアーティストであるゴードン・マッタ=クラークの作品の一つとして取り上げられることも 多い。こうした状況を踏まえ、本稿では、もう一人の運営者であったキャロル・グッデンの視点に即し て「フード」を見直す。とはいえ、グッデンの言葉は従来から「フード」の伝説化に貢献してきたし、 2 これまでマッタ=クラーク論の一部として「フー 本稿は「フード」の正しい姿を求めるものでもない。. ド」を論じてきた筆者の立場から、グッデンの役割に焦点を当てて「フード」を再考してみたい。 2 フードの「はじまり」 『ロフトの生活:都市の変化における文化と資本』(1982 年) においてソーホーの変化を分析したシャ ロン・ズーキンは、2010 年の『裸の町:オーセンティックな都市の場所の死と生』(邦題:『都市はな ぜ魂を失ったか-ジェイコブズ後のニューヨーク論』)で、その後のニューヨークの変化を観察し、都 - 79 -.

(3) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. 市のオーセンティシティについて語っている。1950-60 年代の都市理論家で活動家だったジェーン・ジェ イコブズは、それ自体ニューヨークの歴史の一コマである自らの住環境を本質化し、オーセンティック であること称賛した。しかしズーキンは、伝統や独自性、創造的な革新性がもつ「オーセンティシティ (真正さ)」の嗜好を持つ中流階級が、労働者階級の都市を破壊することもあるのだと指摘する。「大多 数とは異なるものを欲しがる人々のためのカフェ、バー、グルメ・チーズショップができることによっ て、いったいいくつの商店街が変貌して来たのでしょうか?」3 新しい住民によるオーセンティシティ の追求は、チャンスを掴もうとする新しい店主たちを呼び寄せる。「彼らはまた、ある意味では社会的 な起業家であるとも言えます。新しい住民が心地よく過ごせる社交の場-そういった場所は、昔からの 住民には心地よくないのですが-をオープンすることによって、地域の『新しいはじまり』をつくりだ 4 ズーキンは、オーセンティックな「由来 (origin)」と「新しいはじまり (new beginnings)」 すのです。」. を求める美的感覚が、都市に魂を与える社会的多様性を損なうことを批判する。そして、旧住民が住み 続けられる「都市への権利」が認められるような政治的条件によってこそ、 「由来」と「新しい始まり」 は両立できるのだと主張する。 美術雑誌『アヴァランチ』1971 年秋号で「フード」は、「9月 25 日土曜日、プリンス通り 127 番地 のアーティスト・ラン・レストラン、フードの非公式のオープニングを記念して、ガーリック・スープ、 ガンボ、チキン・シチュー、ワイン、ビール、自家製パンが友人たち、ギャラリー・ゴウワー、通りが かりの人に遅くまで振る舞われた」「ゴードン・マッタが建設一般とシンプルな内装のその空間の建築 デザイナーを務め、内装はタイルの床、白く塗装した石膏ボードの壁、背もたれが棒状の椅子、古いパ イン・テーブルだ」と記述されている。5 ズーキンの論点からは、「フード」は、のちのソーホーの変化 を惹起した「新しいはじまり」として、批判されさえするだろう。 だが、ズーキンがその「由来」と「はじまり」の言葉を引いている E・サイードの『始まりの現象― 意図と方法』では、サイードは文学作品の「始源 (origin)」に対して、「始まり (beginnings)」の能動性 6 意図は、始まりにある欲求であるが、作品の背後に求められるのではなく、意識さ を重視している。. れずに作品中の葛藤や矛盾として現れる。それは、意識された事前の目的を叶えるものではなく、盲目 と明察の相互作用であり、個人的見解と共同体的関心の結合部とも見なされる。サイードの研究は、文 学作品が何を始めるのか、批評家はその始まりをどのように作品研究の方法に関わるものと捉えうるの かを問うものだった。ここでは、「新しいはじまり」の能動性が都市にもたらす問題を指摘するズーキ ンの批判を受け止めつつ、「はじまり」を当初の意図だけに固定せず、かつ能動的な働きとして捉える サイードの議論を踏まえながら、「フード」の葛藤や矛盾に目を向けたい。 3 キャロル・グッデンと「フード」 ゴードン・マッタ=クラークの出自については、すでにその父ロベルト・マッタとの関係や、生まれ 育ったニューヨークとの関わりが知られている。しかし多くの「フード」周辺の芸術家たちは、1970 年代初頭のニューヨークに各地から集まってきていた。グッデンはどこからやって来たのだろうか。 キャロライン・グッデンは 1940 年、ドイツ軍の空爆が始まったロンドンに生まれ、戦争の終結とと もに母親とアメリカに移り、最初マサチューセッツ州、次にネヴァダ州に住んだ。1953 年にカリフォ ルニア州ロサンゼルスに転居するが、夏の時季はユタ州で過ごしていた。そして 1957 年に一家でユタ 州セント・ジョージに移転し、そこで高校に通った。1962 年にロサンゼルスに移った彼女は、1964 年 にロンドンに父親を訪ねた。(母親は 1964 年、交通事故で亡くなった。) 父親は夏をスペイン北東部カタルーニャの海岸コスタ・ブラヴァで過ごしており、グッデンはそこに 招かれて住むことになった。結局スペインに4年住み、マドリードで働いていたともいう。そしてこの 間、スペインだけでなくヨーロッパの各地を訪れて、彼女が育った 1950 年代のアメリカ西部とは全く - 80 -.

(4) キャロル・グッデンとレストラン「フード」. (平野千枝子). 異なる食文化に興味を惹かれるようになった。それは、料理の種類だけでなく、食に費やす長い時間や、 食を通じた仲間関係に対する関心だったという。7 1969 年に、思いがけない収入をきっかけとしてニューヨークに移ると、素描のクラスでリチャード・ ノーナスに出会い、彼を通じてダンサー・振付家のトリシャ・ブラウンとも出会った。「トリシャは、 8 ブラウンは 私が馬の調教の仕事をしていたために、私の動きに興味を持ったのだと言っていました。」. 自らのカンパニーを作るときにキャロルを誘ったので、彼女は作品に参加し、アメリカ国内やヨーロッ パへのツアーにも参加していた。彼女自身は自分を「ダンサー」だと思ったことはないというが、1974 年のトリシャ・ブラウン・ダンス・カンパニーのヨーロッパ・ツアーには、グッデンの参加に伴い、マッ タ=クラークも同行している。 1980 年から翌年に行われたインタビュウでは、グッデンは、 「スペインに3年間いて 1968 年にニュー ヨークに来た」と述べている。9(以下、引用は断りのない限りグッデンの言葉である。)人類学者で彫 刻家のリチャード・ノーナスと会った彼女は、ジョージ・マチューナスらが住んでいたウースター通り 80 番地にノーナスと住み始めた。ノーナスはジェフリー・ルウの住む建物の一階、すなわちオルタナティ ヴ・スペースの「112 グリーン・ストリート」で活動するようになり、かれらはそこでスージー・ハリ ス、スーザン・ローゼンバーグらに出会った。グッデンは仕事として写真を撮影し、ロバート・ラウシェ ンバーグの作品データの整理も手がけたという。ゴードン・マッタ=クラークとは「112 グリーン・ス トリート」でも会ったことがあったが、彼が当時同居していたメアリー・ハイルマンのために開いたパー 10 ティーに行った。そこで「彼はまるごとの魚と蛸で素晴らしいものを作った」という。. アメリカ西部で育った彼女は、スペインでの生活を経て 1960 年代終わりのニューヨークに辿り着き、 リチャード・ノーナスを通じて彫刻家たちやトリシャ・ブラウンに出会った。そしてソーホーのウース ター通りに移り住むことにより、ジェフリー・ルウのオルタナティヴ・スペース「112 グリーン・スト リート」のコミュニティに接し、そこで活動していたマッタ=クラークとも出会うことになったのであ る。マッタ=クラークのクリスティー通りのロフトでのパーティーでグッデンが見た「魚と蛸」がどの ようなものかは分からないが、グッデンは別のインタビュウで、マッタ=クラークのロフトには「カラ フルなブイヤベースのような、料理による大きな作品が天井から吊り下がっていた」とも述べている。 「私たちは話して、というより彼が冗談を言って、その時はそれだけでした。」11 マッタ=クラークがグッデンにレストランの提案をしたのは、この後にグッデンが開いたパーティー においてである。この局面に関するグッデンの回想は、古い順に以下のようなものである。 (1971 年春の)私のパーティーの後、私たちは会うようになった。私は、そのパーティーに花を持っ てくるよう皆に頼んであった。いろいろな人が、考えられうる限りの花をくれた。ゴードンは食 べられる花を持ってきた。私たちは食べ物や料理について話し、彼は私がレストランを始めるべ きだと主張した。これがフード(1971 年)の始まりだった。このパーティーが、兄弟と姉妹、母 と息子、夫と妻、親友というべき、とても強固な関係の始まりだった。12 それから、私はノーナスの誕生日のために、彫刻の形のケーキを作ってパーティーを開いた。ジェ フリー・ルウとゴードンがそこにいた。それは、花と食べ物が沢山ある春のガーデン・パーティー だった。ゴードンは私に言った。「君はレストランを始めるべきだよ」。それは(1971 年春の)ブ ルックリン・ブリッジ・イヴェントの頃だった。13 1971 年4月、私は私の 31 歳の誕生日を祝うパーティーを開き、皆に花を持ってくるように頼んだ。 ゴードンは食べられる花を持ってきた。それは彼の作品に従うものだった。というのは、彼は写 - 81 -.

(5) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. 真を揚げていたことがあった。私は写真家で料理が大好きだった。ゴードンは「君はレストラン を始めるべきだよ!」と言った。まさにこの時、1971 年4月8日に、「フード」は生まれた。私た ちのこのアイデア、エネルギーは、全ての方向に広がるパートナーシップだった。私たちはロフ トを共にし、二人の才能を結集した。14 このように、グッデン自身が催したパーティーの記述に相違はあるものの、レストランのアイデアは 1971 年春の、かれら二人の出会いとともに始まった経緯が語られている。グッデンはすぐさま「クリ オーリョ[クレオール]料理」という看板を掲げたプリンス通りの建物を見つけだし、このレストラン の人々、次に家主と交渉し、マッタ=クラークの協力を確かめてから改装を始めた。この作業に先立っ て、のちにフードの広告に使われることになる写真が撮影された。(図1)「賃貸が成立し交渉が終わる と、私たちはレストランのドアを開けた。1971 年6月、ディッキー・ランドリーはカメラを置いてバー ルに持ち変える前に、ドアを開いたティナ、ゴードンと私の写真を撮った。」15 グッデンは、鍵を持って 中央に写っている。 このあと、大勢で壁を剥がしたり取り外してキッチンを作り、床にコンクリートを流してテラコッ タのタイルを張り、やすりをかけたテーブルや、壊れた物置から拾ってきた様々な椅子を運び込んだ。 マッタ=クラークはこの改装とキッチンの道具をデザインし、その素描は現在も残っている。「フード (FOOD)」はティナ・ジルアールによって名づけられ、当初は店のガラスを拭いた白い靴クリームを引っ 掻いて記されていたが、のちにマッタ=クラークがロゴをデザインした。. 図1 リチャード・ランドリー《「フード」の前のティ ナ・ジルアール、キャロライン・グッデン、ゴードン・ 図2 フードのオープンを告知するチラシ (写真:キャロル・グッデン) マッタ=クラーク》1971 年。 - 82 -.

(6) キャロル・グッデンとレストラン「フード」. (平野千枝子). 「9月にオープンの日がやってきた。その日私たちは告知の通り、大量のニンニクを剥き、数ガロン 16 しかしこのイヴェントの後、実際 のソパ・デ・アホ[ニンニクのスープ]と自家製のパンを配った。」. の開店は 10 月だったのかもしれない。メニューを配したチラシには「10 月 16 日土曜日オープン・・・ できれば」と記され、グッデンは「フードは 1971 年 10 月にスタートし、1973 年9月に終わった」と も述べている。17 グッデンは、スザンヌ・ハリスとレイチェル・ルウに資金上の協力も仰ごうとした。「スージー・キャ ンベル・ハリスは、キャンベル・スープの後裔の一人だという噂だった。彼女は音楽グループ、クロス ビー・スティルス・ナッシュ・ヤングのアレンジャーのポール・ハリスと結婚していた。ジェフリー・ 18 しかし結局は、グッデンが生活の支え ルウはレイチェルのお金によって共同で暮らしていたと思う。」. にしていた遺産が資金となったという。 4 フードの料理 フードで振る舞われた料理の資料としては、オープンのチラシに掲載されたメニューが最も詳細なも のであろう。(ただし、このメニューには「中古車のシチュー」など、マッタ=クラークの作品に関連 すると思われるもの含まれているが。)(図2) 「ティナ・ジルアールがパートナーとなり、ティナと私がその場所を運営した。私はレストランを人々 の出会いの場にしたかった。全てに手作りで新鮮なものを用いて毎日メニューを変えるというのが、最 初のアイデアだった。私たちは家のような雰囲気を提供したいと考え、このプロジェクトを、ビジネス 19 「私はスージー・ハリス、レイチェル・ルウ、ティナ・ジ ではなく何か楽しいことだと捉えていた。」. ルアールに『チーム』の一員になってくれないか頼んだ。私はスージーの健康志向のヴェジタリアンの 感化を欲したし、ティナの豊かで美味しいケイジャンの影響を求めた。ゴードンのとてもとてもオリジ ナルなマインドも必要だった。私はスペインで食について学んだすべてを用いたかった。私たちはメ ニューをデザインし、一番良い仕入れ業者を探し、ヴァーモントの『マッドブルック・ファーム』に連 絡した。そこには、平和と静けさを求めて多くの人がシーンの拡張から逃げ出していた。誰かが1ヶ月 間『マッドブルック・ファーム』からやってきて、『フード』のためにパンを焼いた。これは素晴らし 20 い相互の取引だった。」. マッドブルック・ファームは、振付家のスティーヴ・パクストンら多くのアーティストが暮らしてい るヴァーモント州のコミューンである。また、アーティストでダンサーのティナ・ジルアールとその 夫でケイジャン音楽のミュージシャンでありフィリップ・グラス・アンサンブルの創立メンバーのリ チャード(ディッキー) ・ランドリーは、ルイジアナの出身だった。「フード」の改修に参加したキース・ ソニエや、料理を作ったロバート・プラドもそうである。ルイジアナから来た芸術家たちは、チャイナ・ タウンのチャタム・スクエアに住み、その建物もすでに仲間たちの拠点の一つになっていた。21 ガンボ に代表されるケイジャン料理は「フード」の特色の一つとなった。 食材の仕入れは、クリストファー・ストリートのバルドゥッチス、ジョーンズ・ストリートのフロー レンス・ミート・マーケット、イースト・リヴァーのフルトン・フィッシュ・マーケットなどで行われ た。22 シャロン・ズーキンは、1960 年にはハドソン川の埠頭が商業的な役割を終え古い地域が消滅した が、精肉市場がある 14 番通り周辺はまだ活発で、 「屠殺業者と精肉卸売り業者は動物をトラックから下 ろしては、深夜から翌日の午後までずっと、上等なステーキ肉と肩ロースの挽肉を他のトラックに積み 込んでいました。しかし 1990 年までには、肉市場は廃れて行きました」と書いている。23 フードはズー キンのいう「新しいはじまり」として、わずかながら地元の商業の継続を支えてもいた。 グッデンのヨーロッパの食生活への志向、家のような場所作り、地元業者の利用、ヴェジタリアンの 感化は、同時代の食の運動とも共通している。例えば、フランスの食生活に感化され、地元の新鮮な食 - 83 -.

(7) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. 材を用いたアリス・ウォータースによる有名なレストラン「シェ・パニーズ」は、同じ 1971 年にカリフォ ルニア州バークレーにオープンしている。24 5 フードの共同性 「フード」は、キャロル・グッデンとゴードン・マッタ=クラークの出会いに端を発し、運営はこの 二人に加えてティナ・ジルアール、そして当初はレイチェル・ルウ、スザンヌ(スージー)・ハリスの 助力により行われた。経営は、主にグッデンとジルアールが担った。しかし、ゴードン・マッタ=クラー クに関する書物や展覧会が増加していくと、「フード」は、必然的に彼の活動のフレームのなかで評価 されるようになった。近年開催された、食と美術を巡る数多い展覧会から例を挙げれば、シカゴ大学の 美術館で 2012 年に行われた「饗宴 : 現代美術におけるラディカルな歓待」展は、食によって感覚の更 新や、分断された社会における出会いを試みる芸術家たちを紹介した。マリーナ・アブラモヴィッチ、 スザンヌ・レイシー、アリソン・ノウルズ、リー・ミンウェイらに加えてゴードン・マッタ=クラーク が出品作家に加えられており、 「フード」は、 「マッタ=クラークの制作の方法の基礎となる無秩序の交 切、脱構築の創出、コミュニティと建築双方に対する彼の中心的関心に対して理想的なモデルを提供し た」25 とされている。2015 年のミラノ・トリエンナーレではジェルマーノ・チェラントによる「芸術と 食:1851 年以降の諸儀式」展が開催され、その後、この主題に関する網羅的な書籍が発行された。そ こでは印象主義の食卓画や未来主義のレストランだけでなく、テーブルウェア、台所、食堂、映画、広告、 サービス・エリアや戦争と食から、ハンス・ウルリヒ・オブリストによる「農夫としての芸術家」論に 至るまで、幅広いテーマが含まれている。ここで「フード」は、「芸術家によるカフェ」の系譜に位置 付けられ、トマス・クロウによる、アルテ・ポーヴェラと結びつけられたマッタ=クラーク作品の解釈 26 無論、マッタ=クラークの活動の中で「フード」の意味を捉えることには、 への言及がなされている。. これ以外にも様々な可能性がある。 けれども「フード」は、一人のアーティストの作品ではなく、むしろ家族のような旧来の共同体を超 えた、新たな共同体への志向を含んでいたはずであった。雑誌『ニューヨーク』の 1972 年1月3日号 のレストラン評は、同時代のレストランの傾向として「カウンター・カルチャー」の特徴である誠実な 価値の追求を挙げ、そこではレストラン運営の第一義は「共同的な参加 (Communal involvement)」に ある、と書き出している。そして、この号で評するレストラン「フード」を、8人のアーティストによ る「レストラン・コミューン」と呼び、料理の分担を次のように記述する。「キャロル・グッデン(スー プとメニューの計画)、ゴードン・マッタ=クラーク (すべて)、ロバート・プラド(スープ、シチュー、 ガンボ)、スージー・ハリス(野菜)、ティナ・ジルアール(ケイジャン料理)、アン・マーシャル(ディ ナー)、レイチェル・ルウ(ゲスト・ディナーと雑務)」。27 グッデンが抱いたレストランの目的の一つは、アーティストたちに仕事を提供することであった。 「そ れに友人たちに仕事を提供したかったし、アーティストのための仕事の場所にしたかった。かれらは仕 事をし、展覧会をしなければならない時に、やめたければやめられる。フードは 1971 年 10 月に始まり、 1973 年に9月に終わった。この資産は人々を3年間助けた。リチャード・ペックは皿を洗い、ネッド・ スミスは約2年に亘ってシェフだった。」28「リチャード・ペックは音楽を作りながら皿を洗った。バー バラ・ディリーは昼の間すばらしいサラダを作り、夜に踊っていた。レイチェル、ティナ、スージー、 (「マブー・マインズ」で演技や演出をしていない時の)ジョアン・アカレイティス、ジョエル・シャピ ロ、ネッド・スミス、ボブ・クシュナーと私が料理をした。」「私は『みんな (the crowd)』を家の外に 出したかったし、私の/私たちの料理を『世界』に見せたかった。必要なときに開いている、自分が好 きな食べ物を食べられる場所が欲しかったし、1日に何時間でも1週間に何日でも制限なく働けるアー ティストたちのための仕事の場を作り出したかった。そうすればかれらは、展覧会のために急に抜け出 - 84 -.

(8) キャロル・グッデンとレストラン「フード」. (平野千枝子). すことができ、それが終わった後にもまだ仕事がある。それはあらゆる点で成功だった。『フード』は 私たちが経営していた時、300 のアーティストを支えていた。」29 マッタ=クラークの作品との関連にも重要な論点はあるのだが、近年「フード」があらためて注目さ れる時に語られる新たな共同性は、彼女自身孤独な漂流者だったキャロル・グッデンの動機によるとこ ろが大きい。 6 「フード」の終わり 『アヴァランチ』1972 年春号の「フード」 の広告「フードのファミリーの会計報告」 (図3)には、300 人とはいかないが、グッ デンを筆頭に「フード」に集った人々の名 前のリストがついている。「フード」を、 家族や旧来の村落共同体から離れて都会に 移って来た人々の新たなプラットフォーム を作り出す試みとして評価するとき、1970 年代における「共同性」は、カウンター・ カルチャーの調和的で理想的な響きを帯び る。マッタ=クラークの初めての回顧展に テキストを寄せた同時代の批評家ロバー ト・ピンカス=ウィッテンは、国際的なギャ ラリー・システムに支えられたミニマリス ト=コンセプチュアリストの閉じたグルー プと、マッタ=クラークらの、よりオープ ンでダンスなど多岐の方法に亘る「イン フォーマリスト」のグループを区別してい. 図3 「フードの家計報告」 『アヴァランチ』1972年春号。. る。後者は、 「くつろいだ (Laid-back)」、 「ド ロップ・アウト」、「ヒッピー・コミューン」のような、同時代の感情を反映した無頓着な態度を特徴と していたという。オルタナティヴ・スペースでは、ギャラリー同士のライバル関係よりも、家族のよう な繋がりの感覚が優っていた。30 しかし、マッタ=クラークのコーネル大学以来の友人だった画家のスーザン・ローゼンバーグは、 「112 [グリーン・ストリート]に集まる人たちは、私にはとても居心地が悪かった。社会的に不愉快だった。 31 また、アーティストのルイーズ・ロ 女性たちはダンサーで、男性たちは皆彫刻家だった」と述べる。. ウラーは、ウィロビー・シャープが 1971 年にハドソン川の埠頭で企画した展覧会で、準備に労力を注 いだ女性のアーティストたちが出品作家とはならなかったことに憤り、「ウィロビー」をはじめとする 男性のアーティストの名前を鳥の声のように呼ぶ作品《鳥の啼き声 (Birdcalls)》(1972/81 年)を制作 (図4) した。32 この名前のリストには、シャープの展覧会に参加したマッタ=クラークも含まれている。 グッデンは「フード」の終わりに関し、「私は朝4時に魚市場に行くことに苛立ち、まともな魚をま ともな値段で買うことに格闘した。それは『冒険』ではなくなった。写真に費やす時間がなくなり、ト リシャ・ブラウン・ダンス・カンパニーで踊るには疲れすぎていた」と述べている。33「フード」のキッ チンを振り返ると、料理と女性をめぐる長い批判的言説(料理のプロである男性と家庭の主婦である女 性等)は当てはまらないようである。また、グッデンとマッタ=クラークの関係を、ジェンダーの視点 からのみ捉えることにも問題があり、かつ彼らの希望を損なうことになるだろう。グッデン自身、二人 - 85 -.

(9) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. が結婚しなかったのは、当時の考え方に拠 るものだと述べている。(代わりにハイチ でヴゥードゥーの儀式を行ったというが。) しかしここまで確かめてきたように、現 在、「フード」の意義を振り返る時、グッ デンの役割は大きい。一方、ロウラーがそ の作品によって批判した、「名前」の確立 に基づいてインタビュウやステイトメン トによって補強されていく美術史の中で、 「フード」の再評価がマッタ=クラークの 名 の も と に 行 わ れ る こ と は 避 け が た い。 「フード」の終わりは、1971 年の「レスト ラン・コミューン」が現代からみていかに 牧歌的に見えようとも、少しの間垣間見る ことしかできない希望であったことを示し ている。そしてその苦さは、「フード」自 体の評価のあり方にも未だ反響している。. 図4 ルイーズ・ロウラー《鳥の啼き声》1972/81 年。 (録音・編集:テリー・ウィルソン). 図版出典: 図1 Gloria Moure, Gordon Matta-Clark: Works and Collected Writings, Barcelona: Poligrafa, 2006, p. 165. 図2 Gloria Moure, Gordon Matta-Clark: Works and Collected Writings, Barcelona: Poligrafa, 2006, p. 166. 図3 Avalanche 4 (Spring 1972). 図4 https://hammer.ucla.edu/take-it-or-leave-it/art/birdcalls/ 注 1. ラジ・パテル『肥満と飢餓 世界フード・ビジネスの不幸のシステム』佐久間智子訳、作品社、2010 年。(Raj. Patel, Stuffed and starved: the hidden battle for the world food system, Portobello Books, 2007.) マイケル・モス『フードト ラップ 食品に仕掛けられた至福の罠』本間徳子訳、日経 BP 社、2014 年。(Michael Moss, Salt Sugar Fat: How the Food Giants Hooked Us, Random House, 2013.)他。 2. これまでの「フード」の主要な研究に、1999 年からニューヨークのホワイト・コラムほかで行われたキャサリン・. モリスによる展覧会、ローリー・ワックスマンによる論考、2013 年のフリーズ・アート・フェアに際するキュレイター のセシリア・アレマーニによる調査があり、グッデンはすべてに主要な役割を果たしている。Klaus Bußmann, and Markus Müller, eds. Food, New York: White Columns; Köln: Walther König, 1999. Lori Waxman, “The Banquet Years: FOOD, A SoHo Restaurant,” in: Gastronomia: The Journal of Food and Culture, Vol.8, No.4 (Fall 2008) pp. 24-33. https://frieze.com/ - 86 -.

(10) キャロル・グッデンとレストラン「フード」. (平野千枝子). fair-programme/food-19712013. 3. シャロン・ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか ジェイコブズ後のニューヨーク論』内田奈芳美・真野洋介訳、. 講談社、2013 年、35 頁。 (Sharon Zukin, Naked City: The Death and Life of Authentic Urban Places, Oxford University Press, 2010.) 4. 前掲書、36 頁。. 5. Liza Bear and Willoughby Sharp, “Rumbles,”in: Avalanche 3 (Fall 1971), p.6.. 6. エドワード・W. サイード『始まりの現象 意図と方法』山形和美・小林昌夫訳、法政大学出版局、1992 年。(Edward. W.Said, Beginnings: Intention and Method, New York, 1975, 1985.) 7. キャロル・マッコイ(グッデン)から筆者宛てのメール、2018 年3月 19 日。2018 年 10 月 30 日確認・修正。. 8. 同上。. 9. Joan Simon,“Caroline Yorke Goodden dancer, writer and cofounder of Food (interview),” in: Mary Jane Jacob, Gordon. Matta-Clark: A Retrospective, Museum of Contemporary Art, Chicago (exh.cat.), 1985, p.39. 10. Richard Armstrong,“Carol Goodden, dancer photographer, and friend (interview),” in: Corinne Diserens et al., Gordon Matta-. Clark, IVAM Centre Julio Gonzalez (exh.cat.), 1993, reprinted in 1999, p.397. 11. Simon, op.cit., p. 39.. 12. Simon, op.cit., p. 39.. 13. Armstrong, op.cit., p.397.. 14. Caroline Goodden, “The History of Food,” in: Bußmann and Müller, op.cit., p.44.. 15. Ibid, p.44.. 16. Ibid, p.44.. 17. Simon, op.cit., p. 39.. 18. Carol Goodden, “FOOD,” in: Pedro Donoso, ed. Gordon Matta-Clark: Experience Becomes the Object, Barcelona: Ediciones. Polígrafa, 2015, p.22. 19. Armstrong, op.cit., p.397.. 20. Goodden 1999, op.cit., p.44.. 21. Jessamyn Fiore, 112 Greene Street: The Early Years, 1970-1974, David Zwirner, 2012, pp.20-22.. 22. Goodden 2015, op.cit., p.18.. 23. ズーキン、前掲書、42 頁。. 24. Waxman, op.cit., p. 27. アリス・ウォータースについては以下に詳しい。トーマス・マクナミー『美味しい革命 . アリス・ウォータースと「シェ・パニース」の人々』萩原治子訳、早川書房、2013 年。(Thomas McNamee, Alice Waters and Chez Panisse: the romantic, impractical, often eccentric, ultimately brilliant making of a food revolution, Pebguin Press, 2007.) 25. Sarah Mendelsohn,“Gordon Matta-Clark,” in: Stephanie Smith et al., Feast: radical hospitality in contemporary art, Smart. Museum of Art, 2013, p. 100. 26. Stepano Chiodi, “Artist’ Cafés,” in: Gelmano Celant, ed., Arts & Foods: Rituals since 1851, Milan: Electa, 2018, p.282.. 27. Milton Glaser and Jerome Snyder, “The Underground Gourmet: Food, Glorious Food,” New York, January 3, 1972, p. 65.. 28. Armstrong, op.cit., p.397.. 29. Goodden 1999, op.cit., p.44.. Robert Pincus-Witten,“Gordon Matta-Clark,” in: Jacob, op.cit., p.20.. 30. Joan Simon,“Susan Rothenberg, interview,” in: Jacob, op.cit., p.72.. 31. Douglas Crimp, “Action around the Edges,” in: Lynne Cooke and Douglas Crimp, eds. Mixed Use, Manhattan: Photography. 32. and Related Practices, 1970s to the Present. Madrid: Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía; Cambridge, MA: MIT Press, 2010, p.106. この作品の音声は 1981 年に録音され、1982 年の展覧会で初めて展示された。 Waxman, op.cit., p. 32.. 33. 謝辞:本稿は、2016 年 10 月 13 日に名古屋の港まちづくり協議会のご依頼により行った「フード」のレクチャーを - 87 -.

(11) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. 出発点としている。その際、シェ・パニーズや創業時のスターバックスとの同時代性に言及し、また、シャロン・ズー キンの「オーセンティシティ」の概念の分かりにくさや、フードの活動をマッタ=クラークに帰すことの問題につ いてご質問をいただいた。その後マッタ=クラークの個展の企画に携わることを通じ、あらためて関連資料に目を 向けされられた。文章にまとめるのに時間がかかってしまったが、関係の皆様にお礼申し上げたい。. - 88 -.

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参照

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