− 14 −
− 14 −
1.はじめに世界史授業での人物教材は、偏りすぎれば英雄 のみが歴史を動かすという見方を植えつけてしま うが、効果的に用いればその時代の特徴を生徒に 伝えることができる。
今回の舞台は16∼18世紀のインド、登場する のはムガル帝国のバーブル、アクバル、アウラン グゼーブの3人の皇帝である。
2.バーブル(1483 ∼ 1530、位 1526 ∼ 1530)
中央アジアのフェルガナ地方にティムール朝の 王子として生まれた。父はトルコ系、母はモンゴ ル系であるが、本人はモンゴルと呼ばれるのを好 まなかった。12歳で父を失い、フェルガナ地方の 太守となるが、彼の転機は1504年のカーブル征服 のときであり、ここを本拠地として、以後しばし ば北インドに侵入した。
1526年には、北インド支配をめぐってロディー 朝の君主と決戦を行った(第1次パーニーパット の戦い)。このときのバーブル軍の戦術は次のよ うであった。まず荷車700台をつなげてバリケー ドとし、その間に100騎ほどが通れる間隔を何か 所かあけて騎兵を待機させ、荷車の後ろには砲兵 および小銃隊を配置して援護態勢をととのえた。 そして、左右両翼の端に精鋭を配置し、敵軍が近 くまで来たら、右と左からその背後にまわり込ん で混乱させるというもので、騎兵・砲兵・小銃隊 の連係よろしく、見事に敵軍を打ち破った。 ムガル帝国の建国者バーブルは、「馬上で天下 を取った」武人であると同時に、優れた文人でも あり、その生涯に多数の詩を残している。また、 その回想録『バーブル・ナーマ』は、トルコ散文 学史上の最高傑作とされる。宗教的にはスンナ派 ムスリムだが狂信的ではなく、寛容な支配者で あった。
3.アクバル(1542 ∼ 1605、位 1556 ∼ 1605)
父帝フマーユーンが階段から落ちて急死したの にともない、アクバルは13歳で即位した。当時、 ムガル帝国はパンジャブ地方の一部を支配するに 過ぎず、インドは諸勢力の群雄割拠の状態にあっ た。その中でも、ヒンドゥーの武将ヒームーは北
インドに勢力を拡大し、さらに政治・軍事の要地 デリーをムガル軍から奪い取っていた。このヒー ムーにアクバルが挑んだのが第2次パーニーパッ トの戦い(1556年)である。戦いに勝利したアク バルは、その後うるさ型の老臣バイラム=ハーン と乳母マーハム=アナガの一派を退け、本格的に 親政を始めた。
1562年、ラージプート勢力の王女と結婚してヒ ンドゥーと同盟関係を結ぶとともに、捕虜の強制 改宗と奴隷化を禁止した。1563年にはヒンドゥー の聖地巡礼税を、翌64年にはジズヤ(人頭税)を 廃止し、寛容と融和の精神を基本とする政策を実 施した。一方、敵対する勢力には断固たる方針で のぞみ、1567年から69年にかけてラージプート族 の拠点を攻め落とし、1576年までには北インドを 統一した。
この皇帝は、もの作りが非常に好きであった。 そのため「職人たちとともに石切場で石を切り出 すこと」もあり、「各種の職人たちの仕事ぶりを 人物を使って学習をまとめる授業実践例〈世界史A〉
ムガル帝国の皇帝
大阪府立伯太高等学校 一 ノ 瀬 雄 一
− 15 −
− 15 −
眺める」だけでなく、「楽しみから彼らと同じ作 業を行ないさえする」気さくな人物であった(図 ①)。また、意外にも字の読み書きはできなかっ たが、好奇心は非常に強く、「学者を常時近くに 控えさせ、さまざまな事柄を討論させ、いろいろ な話を語らせる」のが常であった。名君アクバルも、子どもの問題では苦労した。 3人の男子いずれもが酒の飲みすぎなどで身体を こわし、次男は1599年、三男は1604年にそれぞれ 親に先立ち亡くなり、残る長男サリーム(のちの ジャハーンギール帝)も保守派貴族にそそのかさ れて1601年に反乱をおこした。父子の仲をとりな す周囲のすすめで、サリームはアグラへ到着し、 父の前で平伏した。すると、それまでおだやかだっ たアクバルが、いきなり息子の腕をつかんで私室 に引っ張り込み、顔に平手打ちをくらわした。さ らに浴室に1日中閉じ込め懲らしめた結果、子は 父に謝罪しようやく許されたという。しかし、子 は最後まで父の思い通りにはならなかった。「親 の心、子知らず」という言葉は、時代と地域をこ えて存在するらしい。
4. アウラングゼーブ
(1618 ∼ 1707、位 1658 ∼ 1707)
第5代シャー =ジャハーン帝には4人の息子が いた。長男ダーラー、次男シュジャー、三男アウ ラングゼーブ(図②)、四男モラード=バクシュで あるが、この4人が帝位をめぐって激しく争った。 ダーラーが「うぬぼれの強すぎるところがあり、 何でも一人でできる」と思う性格であるのに対し、 アウラングゼーブは「本心を見せぬ狡い性質と、 王位に対するひそかで激しい野心」を持つ人物で、 来るべき対決に備え、手を打っていた。ダーラー への嫉妬心を持つ3人の弟たちは、武力で兄を除 こうとして軍を動かした。この戦いで弟たちの連 合軍は兄の軍を破り、さらにアウラングゼーブは 計略を用いて次男と四男を破り、渇望していた帝 位を手に入れた。
アウラングゼーブは、宗教的には敬虔なスンナ 派ムスリムで、その生活は質素を極めた。朝5時 に起床し、モスクで朝の祈りを行いコーランを読
み、午後には祈りの会 を主催、日没時には夕 べの祈り、夜にも祈り、 床に着くまでの数時間 は宗教的瞑想にひたる という過ごし方であっ た。この間、書類に目 を通し、指示を与え、 謁見を行うなど精力的 に仕事をこなした。睡 眠時間は毎日4∼5時 間で、衣食は質素を心 がけ、酒を飲まず、金 銀の食器を用いずとい う禁欲的生活であった。
しかし、この真面目さが帝国支配には災いと なった。アウラングゼーブは「異教徒の国」を「イ スラームの国」に変えるため、イスラーム法を厳 格に統治に適用し、反対する者には容赦しなかっ た。1669年にヒンドゥー教徒を迫害、1675年には シク教の教主を処刑、そして1679年に非ムスリム に対するジズヤを復活し、諸勢力との対立を決定 的とした。アウラングゼーブの非寛容的態度と反 動的政策に対し、非ムスリムの反対勢力は反乱や 抵抗などの行動をとった。シヴァージーがデカン 高原にマラータ王国を建てて勢力を拡大し、教主 を殺されたシク教徒も戦闘態勢を整え、インド西 部ではラージプート諸王国のヒンドゥー勢力がム ガル帝国との対決姿勢を強めていった。
晩年のアウラングゼーブは自分の失政を認め、 孤独にさいなまれながら、来世への不安におびえ る日々を送った。次は、彼の残した遺書の一部で ある。「朕は統治において、また人民の幸福への 配慮において欠けるところがあった。朕の人生は 空しく過ぎ去った。神はこの世に存在するが、朕 には見えぬ。この世に常なるものはなく、過去を 証してくれる痕跡もなければ、来世への希望も存 在しない。朕を駆り立てた熱情は去り、朕に残る はただ痩せさらばえた骨と皮だけである。」 ムガル帝国は衰退への道を一歩一歩、速度を速 めながらたどり始めるのである。
− 16 −
(1)初代( ① )帝
1504 カーブルを占領
1526 第1次 ( ② ) の戦いに勝利。( ③ ) を占領し ( ④ ) 帝国建国 1527 ハーヌアーの戦いで、ラーナー =サンガーを破る
(2)第3代( ⑤ )帝
1556 第2次 ( ② ) の戦いで、スール朝のヒームーを破る 1558 ( ⑥ ) に遷都
1564 非ムスリムに対する ( ⑦ ) (人頭税)を廃止 1574∼76 ベンガル、ビハール、オリッサを征服
1581 カーブルに遠征
1582 新宗教ディーネ=イラーヒー(神聖宗教)を公布 1586 カシミールに進撃
1590 シンド征服 1593 デカン征服 1599∼1601 デカン遠征
(3)第6代( ⑧ )帝
1669 ( ⑨ ) 教抑圧
1674∼80 マラータ族の ( ⑩ )、デカン高原に勢力拡大
1675 ( ⑪ ) 教の教主を処刑、以後 ( ⑪ ) 教勢力と対立 1679 非ムスリムに対する ( ⑦ ) (人頭税)を復活
1681 デカン遠征、マラータ抑圧
1687 ゴールコンダ王国併合(領土最大)
バーブルが建国したムガル帝国は、アクバルの寛容政策により全盛期をむかえるが、非寛容 政策をとるアウラングゼーブのときに衰退を始める
5.ワークシート
ねらい 3人の皇帝を通して、ムガル帝国の建国、 全盛、衰退開始をたどる
解 答 ①バーブル ②パーニーパット
③デリー ④ムガル
⑤アクバル ⑥アグラ
⑦ジズヤ ⑧アウラングゼーブ
⑨ヒンドゥー ⑩シヴァージー
⑪シク
参考文献
・ 佐藤正哲・中里成章・水島司『世界の歴史14 ム ガル帝国から英領インドへ』(中央公論社、1998年) ・ 石田保昭『ムガル帝国とアクバル大帝』(清水新書、
1984年)
・ モンセラーテ、清水廣一郎ほか訳『ムガル帝国誌』 (『大航海時代叢書』第Ⅱ期5、岩波書店、1984年) ・ ベルニエ、関美奈子・倉田信子訳『ムガル帝国誌