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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2008年 10月号

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(教え子、大学の教育学部で歴史教育学を専攻): 夏休みを利用して、また先生のお話を伺いに参 りました。今日のテーマは何でしょうか。

(先生):今日のテーマのヒントです。ここに用

意した上下二枚の壁画抜粋とそのキャプション を読んで、この二つの壁画に共通するテーマを 考えてみてください。

:上図の白い三角帽子の人々は顔立ちからみて

も左の刀を持った山賊らしい漢人とはちがいま すね。そしてサマルカンドといえば、ソグディ アナ地方に発達した代表的オアシス都市です ね。

:いいことに気がついてくれました。サマルカ

ンドを拠点に活躍した“オアシスの道”=シル クロードの商人といえば、高校世界史教科書に も登場するはずですが…。

:それ、確か「生まれた赤ちゃんに口には甘い

蜜をしゃぶらせ、手には膠にかわを握らせる」とかい

う風習を持ったイラン系のソグド人のことです か。授業での先生の説明が印象的でした。

:正解です。最近、ソグド人研究が大変活況を

呈しています。歴史的には、ソグド人は前5世 紀にはアケメネス朝ペルシアの支配下にあった ようで、20余州を記したダレイオス1世碑文に Sugudaという州名が出てきます。その後、前4 世紀にアレクサンドロス帝国、前3世紀にバク トリア、1世紀にクシャーナ朝、5世紀にエフ タル、そして6世紀に突厥と、8〜9世紀にイ スラーム圏の一員になるまで常に強力な政治勢 力の周辺にありました。その勢力下に入りなが らも実質的には独立し、豊かな土地と商才に長 けた民族性を生かしてシルクロードのキャラバ ン交易に携わり、経済的繁栄を保ってきました。   下図壁画バックには鮮やかな群青の顔料が使

われていますが、その原料は高価なラピスラズ リ鉱石で、ここにもその財力が伺えます。壁画 右端、鳥の羽毛をつけた高句麗人と比定されて いる2名の朝鮮人使節も1965年の発見以来、多

くの歴史研究者の関心を集めました。実際にこ の使者たちが当時のサマルカンド王を訪れたか どうかについては異論があり、結論は出ていま せんが、高句麗が何らかの形で中央アジアとの 間に連絡ルートを持っていたことはあり得ると 考えられています。

:ソグド人研究の成果は実際にどのようなとこ

ろに出ているのですか。

:これまで考えられた以上にソグド人の交易活

動が大規模でかつ戦略的であることがわかって きました。いわゆる「西域」のオアシス都市を はじめ中国内陸各地にソグド人集落が形成さ れ、彼らの活動がこの集落のネットワークによ って支えられていたことが、遺跡発掘や文献研 究によって明らかにされつつあります。ソグド 人の活動がピークに達した7〜8世紀の唐代に は「胡人」といえば、おもにソグド人をさす呼 称になったといわれています。駱駝に乗った胡 人を造形した唐三彩などの俑は間違いなくソグ ド人とされています。盛唐長安の雰囲気を示す ものとしてしばしば引用される李白の[少年行] に謳われた「胡姫」も最近でははっきりとソグ ド人の若い女性と指摘する研究者もいます。で は、この「胡姫」はどうやって唐の都に来たのか。 華々しいイメージの裏に実は人身売買という悲 しい現実があったようです。

  上図の敦煌莫高窟壁画に見られるように、ソ グド商人はキャラバン隊を組んで中国の絹織物 (図中の山賊の前に出されているのはその反物 か)などを西方に運び、西方からは内陸各地か らの品々とともに若い女奴隷などを連れての東 への交易の旅も行っていたようです。唐朝衰退 の契機になった8世紀半ばの安史の乱の首謀 者、安禄山と史思明はともに中国との国境貿易 に関わっていたソグド系商人で彼等の行動の背 景にはソグド人ネットワークが見え隠れしてい ることが、最近の研究によって明らかになって きました。

:シルクロードの歴史をもう一度勉強したくな

りました。今日はありがとうございました。 (福岡県立小倉高等学校 今林常美)

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………陸から見たユーラシア前近代史

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………陸から見たユーラシア前近代史

基 調 提 案

ユーラシアというとらえ方

【杉山氏】私は陸から見たユーラシア前近代史と いうことでお話をしようと思います。

 まず前置きとして「ユーラシア」という概念、 用語についてですが、これは第1回のお話にも出 ました「アジア」という言葉との関係が問題になっ てくると思います。アジアという呼称は、自然地 理や生態環境よりも、やはりヨーロッパとの対比 がまず前提にあるとらえ方という側面がある。 ヨーロッパはアジアとは別世界だと位置づけ、た とえば本来ひと連なりであるはずのロシアや東 ヨーロッパも「アジア」から切り離して「ヨーロッ パ」としてくくってしまう。「アジア」には、そ のようなある種の価値判断が入った含意が暗にあ るのではないかと思います。そういった見方を離 れて、「ユーラシア」つまりヨーロッパとアジア をひと連なりのものとしてとらえ、そのうえで改 めてその内部のさまざまな共通点と相違点を見出 していく、そこに「ユーラシア」というとらえ方 の意義があると思っています。

 私の個人的な専門はその中の東北ユーラシアと いうべき部分ですが、ここでは、今回教科書を担 当するときにユーラシア大陸で展開された歴史を どうとらえるか、私が考えたことをお話ししよう と思います。

多元的世界としての中央ユーラシア

 第一は、中央ユーラシア世界を核として、しか もそこだけで完結しているのではなく、ユーラシ ア全体が連動しているということです。そこには いくつかのポイントがあります。

 まず一つは、現行より一つ前の『新訂版』とそ の前の『最新版』で杉山正明先生が担当された内 容を引き継いで、中央ユーラシア世界という地域 世界を正面から取り上げているということです。 中央ユーラシアは従来から使われてきた中央アジ アや内陸アジアよりも広い概念で─研究者でも 同義に使う方もいますので注意が必要ですが─、 その名の通りヨーロッパとアジアを一体のものと とらえる考え方です。その範囲はきわめて広大な うえに内実も非常に多様で、草原と遊牧だけの世 界ではないし、「砂漠とオアシス」で説明できる わけでもない。環境や生業だけでなく、言語・宗 教・文化など非常に多様な要素が入りまじってい  「世界史のしおり」4月号より、『新詳 世界史B』の特設ページ「一体化する世界」に関連した 三つのテーマについて、著者の先生方に生の声で語っていただいた「基調提案+鼎談」の連載を 始めました。本号では、二回目「陸から見たユーラシア前近代史」をお届けいたします。  今回の基調提案は杉山清彦先生です。先生方の世界史教育への熱い思いが伝われば幸いです。

川北・桃木・杉山3氏と語るグローバル・ヒストリー 第2回

陸から見たユーラシア前近代史

◆出席者

 大阪大学名誉教授 

川 北   稔

 大阪大学教授   

桃 木 至 朗

 駒澤大学専任講師 

杉 山 清 彦

◆司会・進行

 帝国書院 資料編集部

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ます。けれどもその多様な中で、全体としてみれ ば北の草原地帯の遊牧民社会とその南の乾燥地帯 のオアシス社会とが共存し、それらが単独で完結 しているのではなく、合わさって巨大なユニット をなしている。ともすれば、それぞれの部分を見 て何とかアジアといって分けてしまいがちです が、イスラームや仏教、ペルシア語やトルコ語・ モンゴル語などの要素は、その中での東方的な特 色とか西方的な特色と考えたほうがいい。中央 ユーラシアは多様な中にまとまりがある、共通の パターンがある、そのことに注目しようというこ とがこれまでの『新訂版』であり、今回も継承し た点です。

 このように、単純にユーラシア大陸の中央部を 切り取ってそこだけを強調するというものではな いし、ヨーロッパ中心あるいは中国中心の裏返し としての遊牧中心史観あるいはモンゴル中心史観 とも違います。

他地域と重なりあう中央ユーラシア世界

 もう一つのポイントは、中央ユーラシア自体が 多元的であると同時に、まわりにある地域世界と 密接不可分に重なりあい関係しあっているという ことです。中央ユーラシアの章だけでなく、東ア ジアの部分でもそういう二重性や相互交渉を極力 描き出すよう心がけました。

 たとえば華北という地域は、文字通り「中国の 北半」であると同時に、風土面でも政治的推移か ら見ても、中央ユーラシア東南部やモンゴル極南 部と表現することも可能です。つまり中央ユーラ シア世界と東アジア世界の二重の性格をもってい るといえます。このことは38ページ、すなわち1 部4章の「東アジア世界のあけぼの」の冒頭でも

ふれましたし、実例でいえば54ページの図①です ね。編集側で用意された最初の図案には、よくあ る教材と同じく北朝と南朝しかなかったのです が、鮮卑・柔然・突厥という最上段の列も入れて ほしいとお願いして入れてもらったのがこの図で す。こうやってみると華北という地域は、北方で の南北対決でいえば南側にあたるし、中国内地で いえば、南北対立の北側にあたる、そういう二重 性があることが見えてくる。当時のユーラシア東 方情勢はこのような三層構造としてとらえてはじ めてわかるのであって、これが再現されるのが五 代・遼・金の時代といえます。日本は制度は華北 から、文化は江南からおもに取り入れてきたの で、日本から見るとひっくるめて「中国」という ことになってしまいますが、その違いに注意しな くてはならない。同様のことは南アジア、西アジ アでもあてはまります。クシャーナ朝やムガル帝 国はどうしてもインドの王朝ということになりま すが、あれはアフガニスタンからパキスタン方面 に起源するユーラシアの騎馬軍団に支えられた王 朝で、ただ現在の地域区分でどこに帰属させるか というと南アジア史に入れざるをえない、という にすぎません。

 従来の東アジア史では、「中国」を北・西北の 遊牧民と切り離して別個のものとして扱いがちで した。南アジア・西アジア史でも、安定支配に至 らないものは「○×の侵入」と片づけ、ひとたび

王朝を建てて支配を行うと、「インドの△△朝」「イ

ランの××朝」と扱う。そして「アジア史」とは、 それら「○アジア史」を足したものでした。そう ではなく、ユーラシア大陸で展開されてきた歴史 を、まず中央ユーラシア世界を正当に位置づけた うえでそれと各地域世界とが重なりあう連環とし

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………陸から見たユーラシア前近代史

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………陸から見たユーラシア前近代史

てとらえなければならない。そういう意味で、た とえば東ヨーロッパや華北、西北インドというの は、中央ユーラシア世界と各地域世界の双方にま たがった二重の性格をもつ地域といえると思いま す。そうやって地域を複眼的・多重的にとらえる ということは重要であって、昨今、この21世紀に 入ってから問題になっているアフガニスタンやパ キスタンの情勢も、そういう点をふまえておくな らば、より理解がしやすいだろうと思います。

従来型の東西交渉史がはらむ問題点

 関連してもう一つ注意しておきたいのは、日本 人がよく抱く従来型の東西交渉史の問題点です。 典型的なのは、東の漢と西のローマという二大文 明の間の交流と考えて、その間の地はストローの ようにとらえる理解です。それがあまりにも中国 中心、西洋中心であるという批判があると、今度 は西アジアを足して「長安とバクダード」という ことで対処され、真ん中はただの通り道とみなさ れることに変わりはない。それは違うということ は日本の内陸アジア史学が一貫して強調してきま したし、近年もまたホットな論点になっています が、わかりやすいということもあって、このイメー ジがなかなか変わらない。もちろん最終的な両端 が東と西だから東西交渉という点では間違いでは ないのですが、実際の交通は東西南北に網の目状 に走るネットワークであり、ユーラシアは縦横に つながっています。シルク=ロードは一本道では なくネットワークであり、それを草原の遊牧勢力 とオアシスの商業民が最大限に利用した、そうと らえていただきたいですね。

中央ユーラシアを貫く歴史のパターン

 陸から見たユーラシア前近代史の力点の第二 は、中央ユーラシア世界における国家や社会のあ り方、またその交替や変遷に見られるルールの存 在と、それらに基づくストーリーの展開を提示す るという点です。

 おそらく一部の専門家を除いて、学界でも教育 の場でもほとんどの研究者・教員が、中央ユーラ シア世界の歴史は、遊牧民を中心とした治乱興亡 史のようにとらえているのではないでしょうか。

そこにはパターンなどありはしない、と。もちろ ん中国史の場合でも、粗暴な理解だと王朝交替史 観・循環史観として語られることがないわけでは ないですが、それは少なくとも学界レベルでは克 服されているといえます。ところが中央ユーラシ ア世界については、東洋史の研究者でも、中央ユー ラシアを専門としていない人は、遊牧民は武力に まさるけれども政治的には未熟で、侵入して掠奪 を繰り返すものの、権力欲が強いためにすぐ分裂 する、古来その繰り返しにすぎない、そのように しか認識していないことが今なお珍しいことでは ない。さすがにそうでないはずだと思っている方 でも、彼らの社会のルールがわからないので、結 局うまく説明できない。それは中国史の研究者と 話していても高校の先生方と接していても感じま す。それに対し、一つのストーリー、ルールの説 明を与えたい。それが第二のねらいです。  実は中央ユーラシア史にも、ヨーロッパ史なり 中国史なり、また日本史なりのモデルからすると まったく違うけれど、政治的まとまりのあり方や 国家運営・政権交代などにおいて、独自のルール やパターンがある。そしてそのルールのもとで展 開されてきたストーリーがある。彼らはけっして、 東アジア史やヨーロッパ史の中で間歇泉的に姿を 現して暴れこんでくる無原則なならず者ではない し、何千年もの間なんの変化も発展もなかった「未 開の民」というわけでもない。

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 こういったことを念頭に置いて見ていけば、中 央ユーラシア史というものを骨格をもつものとし てとらえられるのではないか。さらにそれだけで なく、東アジアなり南アジアなりほかの歴史も複 眼的に見られるのではないか。そういった二点か ら、陸から見たユーラシア前近代史のとらえ方を 提示できればと思いました。

鼎  談

従来の世界史がはらむ構造的弊害

【司会】ありがとうございます。お話を聞きなが

ら第1回の桃木先生のお話を思い出していまし た。中国史というと現代の中国の国境というのが 無意識のうちに頭にあって、古代から現代まで おっていくというような勉強をしていると歴史の 実態を見損なったり、偏った見方に陥ってしまう。 それを脱却するには中央ユーラシアというとらえ 方が有効であるというふうに私は聞いていまし た。杉山先生もふれられましたが、38ページの 「東アジア世界のあけぼの」の側注1では、「淮河 以北は東アジアの北部であると同時に中央ユーラ シアの東南部で、淮河以南は東アジアの南部で東 南アジアの延長」とあっていくつかの世界がか ぶっているということが書かれています。実際に 営業で回っていて先生方とお話しすると、こうし たとらえ方を評価されることが多いのは、今の杉 山先生のお話を聞くとよく理解できました。では 今の杉山先生のお話に対するコメントを川北・桃 木両先生からいただければと思うのですけれども。

【川北氏】近代国家というか現代国家というか、 その枠組みを過去に投影してしまう傾向は、アジ アだけでなく、ヨーロッパもみんなそうなんです。 それはもともと各国史の寄せ集めとして世界史が 書かれたことが、ずっと影響しているんだと思い ます。ある意味でわかりやすい、いわゆる素人わ かりするところがあるんで、なかなか克服しがた いですね。

【杉山氏】前回私は見取り図が描きにくい、とい

う言い方をしましたが、一般的に世界の歴史とい うのは、見取り図を描くときに、たとえばイギリ ス、フランス、中国という国家がまずあって、そ れを過去にさかのぼる、という描き方をするのが ふつうですが、そこが問題なんですね。いうまで もなく歴史の流れは、まず先の時代があってその 次があるわけですから、本当は時間の流れに沿っ て枠組みを組み、変遷を描いていくのがよいと思 います。ただ、それだと見取り図を与えにくいの で、現在の枠組みからさかのぼる形になってしま うんですね。

 しかし、時間の経過、歴史の展開に沿った枠組 みを与えていくことは、難しいけれども不可能で はない。大きな見取り図を時間の進行とともに示 し、たとえばモンゴル時代以前・以後、あるいは 大航海時代以前・以後など、そういうエポックだ けでもいいから、古い時代から新しい時代に下る ような形で、流れを極力簡素化して提供すること が出発点だと思います。

【川北氏】その問題は、「世界史」を一つの講座と して組み立てようとするときに、直面する問題な のですが、同じことは「日本史」にもいえます。 北海道出身の友人から聞いたのですが、北海道の 高校でも万葉集は教えるけれども、北海道には万 葉集に出てくるような花はほとんどない。北海道 の「古代史」が、大和朝廷の話であるわけがない。 ただまあ、現在、日本という国ができあがってい るから、ある程度やむをえないという部分もある けれども、ちょっと問題がありますね。イギリス でも、いまの女王を「エリザベス二世」といえる のは、イングランドとウェールズの立場からだけ で、スコットランド人から見れば、エリザベスと いう国王は、いまのエリザベスしかいない。

【桃木氏】帝国書院の中学校の歴史的分野の教科 書の評判がいいのは、琉球・アイヌをとりあげた ということがありましたね。

【司会】私もこの教科書を紹介するにあたって、

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護者となって領域を統合したこと、さらに吉澤先 生が書かれた209ページの清を引き継いだ中華民 国が混乱すると今度はチベットが自立傾向を強め たこと、最後に250ページの人民解放軍によるチ ベットの反中国蜂起の鎮圧、これらをつなげてみ ると、現在までつなげられ、清帝国がもっていた 歴史的な意味も明確になる、ということを訴えて きたのですが、これは評価されたんですね。古い 時代から新しい時代へ下るという意図がうまく いった例だと思います。

通史と同時代史をどう整理するか

【桃木氏】さっき川北先生がおっしゃった問題を 聞いて、この現行本を作るときの最初の話し合い ではむしろ編集戦略ということもあって、従来型 の縦割りを表に出そうということがありました。 ただし、よく見るといろんなところに単なる縦割 りだけでなく、横にとらえていく仕掛けがあるよ うな、そういう二重のしくみにしようという意見 がありました、それは現実的な判断だろうと思い ます。やはり受験のことも考えると縦割りでやら ざるをえないんですね。ただし縦割りだけでは客 観的な実際あった歴史が理解しきれないし、頭の 整理もできないという面があることは事実です が。それにもう一つは、私のときに言うつもりな んですが、われわれが国民国家を全否定しても 始まらないということですね。縦割りの歴史の大 きな原因になっている国民国家というのが現に存 在する。そのためにいわば従来型の縦割りの歴史 というのは、もちろん日本人の偏見とか、あるい はヨーロッパ人の偏見とかいうものはたくさんあ るけれども、一方で、それぞれの国民国家の語り を引き写している部分もたくさんあるわけですよ ね。であれば、こういう縦割りの語りというのも 紹介しておくということは、第1回でも強調して いる考える歴史、いろいろな視点の存在を理解す る歴史のためにも、決して全面的にいけないこと ではないですね。ただやっぱり、これとこれとこ れを覚えさせた後でないと「考えさせる」ことは できないというような教え方は、どうみても正当 化できないと思うんですが。

【杉山氏】タテ(時系列の視点)・ヨコ(同時代の 視点)の点でいいますと、確かに体験からしても そうですが、ヨコから入ったって絶対覚えられな い。頭がこんがらがって、せっかく事項を覚えて も、その因果関係や流れがわからないし、それど ころかそれがどこの地域の話だったかさえわから なくなるものだと思います。そうはいっても、ま ずはタテで把握し、その次にヨコ、たとえば「17 世紀の世界」みたいに見わたすのでないと理解は できませんね。ですから問題はタテで把握するこ と自体にあるのではなくて、タテ軸の設定の仕方 にあると思います。

地域を固定的に見ないことの大切さ

【杉山氏】それが今回の改良点の一つですね。た とえば、現行より一つ前の『新訂版』では16 〜 17世紀のところは数ページおきに東アジア・西 ヨーロッパ・新大陸と飛んでいたのを、今回は明 清なら明清とひとかたまりでやれるように、構成 をややタテ割り寄りに戻しました。これは、別に 『新訂版』がいけなかったわけではまったくない わけで、ただ頭への入りやすさを考えてタテとヨ コのバランスを修正したということなんですね。  ところで注意しないといけないのは、タテの歴 史をイメージするとき、そのタテ軸を地域の歩み や文化の系譜ぐらいに大まかにとらえるべきで あって、今ある国家なり民族なりの一貫した歴史 のように固く、狭く考えないことです。とくに中 国史は先入観がものすごく強いと思いますから、 気をつけなければならない。中国史というと、と もすれば万里の長城で区切って、その内側が中国 であって外側はまったく別の世界だと考え、しか もそこに「中華─夷狄」といった価値判断をもち こんでしまう。そして、何かあったら「異民族の 侵入」「異民族王朝の支配」などと表現する。こ れは漢人を基本にした視点で見ているもので、わ れわれは日本人なのに漢人士大夫なり中国知識人 なりの視点になってしまっているわけで、本来そ れはおかしい。

 しかも、論理的あるいは道義的におかしいとい うだけでなく、「中国」というものを不変の実体

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国」なり「漢民族」というものが最初から存在し てそれが変わらず続いてきたというわけではない し、中身が均質というわけでもない。たとえば先 にふれた華北は、自然地理的に見れば明らかなよ うに、乾燥世界であって、むしろそういう点では、 東は朝鮮半島北部・遼東半島から華北を通って河 西回廊、トルキスタン、イラン高原へと連なる東 西の帯状の地帯が似通っているといえる。わかり やすくいうなら、肉まん、餃子、麺、それからパ ンやナンといった、いわば“粉もん”の世界で、 南のご飯食の世界ではない。むしろそちらは、イ ンドシナ半島から江南を経て日本列島へと連なっ ている。にもかかわらず、そういった生活環境を 同じくする東西の地域でつながらず、環境も生業 も異なる華北と華中・華南とで「中国」が形成さ れていく。「中国」をはじめからひとかたまりの ものと考えるのではなく、むしろそちらのほうに 発見を見てほしい。

 なぜそうなるかというと、漢字・漢文という記 録手段と、それで表現されたいろいろな古典、文 学、法制度といったものの共有、そしてそれらを 行きわたらせる行政機構すなわち王朝の存在で す。そもそも紙に書いて持ち出せる経典・律令と いったものと、動かすことのできないその土地そ の土地の生活習俗とは別なのであって、普遍的な 前者と特殊的・土着的な後者とは区別しないとい けない。そして後者は生態環境と不可分であるだ けに、「中国」の中もきわめて多様なのです。  もちろん、一つのまとまりとしての中国の社会 と文化が重要であることはいうまでもありません が、それを不変のもの、一体のものと決めてかか らないように気をつけてほしい。その点、中央ユー ラシア側から見ることで相対化できる部分も多い と思いますし、逆に福建・広東など東南沿海部の ように東南アジアと連動して考えたほうがわかり やすい地域というのもある。そういう意味でも地 域のまとめ方は何パターンもあって当然だという こと、 これが大事な点だと思います。

【川北氏】地域編成は、柔軟に考える必要があり ますね。

【杉山氏】排他的なものではないですね。ある一 つのパターンのみで地域を切り分けてしまうので はなく、いろいろな切り取り方があると考えなけ ればならないと思います。もちろん、「こうも言 えるし、ああも言える」では、生徒にとってはスッ キリのみこみにくいでしょうから、難しい部分も あるかとは思いますが。

【桃木氏】だからそれこそ、そこに線を引くような、 線が引けるかのような入試問題が出たら、出した ほうが悪いのであって、面的な広がりとしてとら えるような入試問題をつくらないと。

【川北氏】一般的に、ステレオタイプのラインが 引かれているというのは、なぜそうなるのか、一 つの思想現象としては、なかなかおもしろいとこ ろもあるのですが。ヨーロッパ史でも、東ヨーロッ パとはどこかというような話になると、よくわか らない。ロシアは東ヨーロッパなのか、北ヨーロッ パなのか。 どちらにも入ると…。

「比較」の大切さ

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しくみをもっていて、最強の軍事力でそれを押し つけるということ。そういう現代のアナロジーも 含めていろんな違った、たとえば国単位とか、改 めていいますが農民中心に歴史を見ていたときと は違った視点をもつことができる。それが歴史を よりよく理解するということにもつながるし、歴 史をおもしろく見ることにもつながると思いま す。

実態に即して歴史を見ることの大切さ

【司会】高校の先生方から教科書もずいぶん変わっ

てきているなと言われます。ただ一つの問題が、 いったいヨコをどういうふうに整理していったら いいのか、今までとどこがどう違うのかというこ とを先生方が授業を構成される際にヒントになる ようなものをそろえてほしいという点です。こう した周辺教材の充実も大事だなというのが、今考 えていることです。最後に一つ、第2回目のテー マに即しての質問なんですが、遊牧民のもつ力と いうのを過大評価しているんじゃないかという意 見も高校の先生方の中にはあります。たとえば唐 の辺りとかなんですが、そこはどう考えればよい のでしょうか。

【杉山氏】たとえば58ページの最後の段落のよう な記述ですか?

【司会】ここまで言い切っていいんですかという

質問があって、この記述をどう先生方に説得すれ ばよいか迷いました。

【杉山氏】たしかに「唐イコール典型的中華王朝、 中華王朝の対外関係すなわち冊封体制」といった イメージからすると、戸惑われるのもやむをえな いかもしれません。しかし、当時の唐と近隣諸国 の力関係については多くの研究がありますし、儀 礼的・観念的側面も、外交文書の書式や官爵上の 位置づけから明らかにされています。それらによ れば、唐が北方・西方の隣人すなわち突厥・吐蕃・ ウイグルと対等、ときには自らを下位とする関係 を基本とし、東北方から東南方にかけての諸国に 対しては朝貢・冊封を原則として臨んでいたこと、

そして全体的には北方・西方勢力との良好な関係 の維持が最優先課題であったことが明らかです。  にもかかわらず、われわれが唐イコール中華帝 国・冊封体制といった一面的なイメージをもち、 そのような現実に即した叙述に対し違和感さえ抱 いてしまうのは、日本が朝貢・冊封という制度に 組み込まれる地域に属してきたからにほかなりま せん。ですので、このような記述に違和感をもつ ことはある意味やむをえないことだと思います。 しかし、日本史ではなく世界史において唐をとら えるならば、日本から見た姿ではなく、当時の唐 帝国そのものに即して位置づけなければならない でしょう。

 この教科書では、現実の情勢や時代の変化を無 視した「中華王朝」モデルで説明してしまうので はなく、理念と現実の区別、時代ごとの変遷に留 意して叙述することを心がけました。注意してい ただきたいのは、朝貢・冊封といった外交上の手 続きが行われていることと、それが実際に国際関 係を律しているかどうかを混同しないことです。  よくある誤解は、45ページのように漢代のとこ ろで朝貢の説明や金印の話が出てきた後、ずっと 下って19世紀まで朝貢と冊封という行為が出てく ることから、中国の対外関係ないし東アジアの国 際関係をイコール「冊封体制」と短絡的に結びつ けてしまうことです。しかし、朝貢・冊封という 行為は一種の手続きにすぎず、実効性があるかど うかに直接関係ありませんし、現実の外交におけ る意味合いは時代によって全然違います。たとえ ば、パスポートには日本国外務大臣の名前で、相 手国の役人に対しその旅行者を保護してくれるよ う依頼の文言が書いてありますが、海外旅行先で 誰も保護してくれないし、われわれも期待してい ませんね。もし後世の人が私のパスポートを見て、 「この人物は特別な身分保障が与えられている」 とか「当時の日本国家は諸外国に対し自国民の保 護を命じていた」などと思ったとしたら、とんで もない勘違いですね。そのように、形式と現実を 混同してはいけない。どちらも大事ですが、区別 して考えてほしいというのが言いたかったことで す。

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手にとっても同じ重要性があるかというと、そう とは限らないということ、それが一点です。もう 一つは、ある行為が行われているからといって、 いつの時代でも状況や意味合いが同じかという と、それも違う。その二つの点に注意していただ きたいと思います。

【桃木氏】冊封体制という議論自体は日本史に ショックをあたえるための議論ですね、完全に。 日本一国しか考えなくて、学校現場で、遣唐使が 朝貢使節であったとか、日明貿易が朝貢貿易で あったということ自体を教えたくないというよう な人たちのほうがマジョリティであったところ に、それはおかしいんだということを思わせるし かけであって、客観的に古代の中国がどんな対外 関係をしていたかという議論では必ずしもないん ですね。

【杉山氏】先ほどの話を角度を変えていえば、「相 手の立場になってものを考える」ということだと

思います。そのとき陥りやすいのが、「相手の立場」

といったとき、実は日本から見た二者間関係の中 での相手側にすぎない、ということになりがちな 点です。

 たとえば現在の台湾問題についていえば、現実 問題として中華人民共和国は台湾を実効支配して おらず、事実上独立国と等しい状態なのは明らか です。ところが中国は絶対にそれを認めないし、 日本など諸外国が事実上の状態を認めることさえ 許さない。それだけを見ると、中国にとって台湾 にそれほどの価値があるのかと思ってしまいがち ですが、実はあれはチベットと新疆の独立の問題 と連動しているのであって、事実上独立状態だか らといって台湾をあきらめたら、実効支配下にあ るチベットや新疆まで失われかねない、北京政府 はそう思っているんですね。ところが、われわれ は日中二国関係で考えてしまうので、北京政府の 本当の立場まで考えが及ばない。

 歴史をさかのぼって唐代でも、唐の為政者の立 場に立ったつもりで、実は日唐二者間関係の中で の唐の立場にすぎない、ということが往々にして あります。しかし、本当に相手の立場に立つのな

ら、360度全周を見わたして、その中で外交・内 政の優先順位をつけていかなければならないはず です。そう考えれば、8世紀の唐にとって日本の 存在などはっきりいってどうでもよかったという ことに気づかされる。たとえば有名な新羅と日本 の使節の席次争いは、日本史においては意味があ ることでしょうが、唐にとってはそんなことはど うでもいいことで、安全保障に直接関わる突厥や 吐蕃とどうつきあっていくかが最優先課題だとい う現実があるわけです。日中の二国間関係の枠組 みの中だけで考えてはいけない。

 日本の立場をも相対化した見方を養うこと、こ れも世界史教育の役割の一つだと思います。これ は別に日本軽視ということではまったくない。む しろ、そういう見方を養うことで、日本の位置や 特徴をより明確に認識することができるようにな ると思います。

【川北氏】言っていることと、実態が違うという ことも、そうでしょうし、もう一つは両側から見 ると、両方とも正しいということもあるわけです ね。客観的にこっちが有利でそっちが不利という ことではなくて、両方とも正しいというのもあり うる。そのことを教えるにはどうすべきかとなる と、なかなか複雑で大変なことですが。でも、そ このところを多少は理解してもらわないと、歴史 の深みというのも出てこないのではないでしょう か。

【司会】歴史の実態が多様で複雑だからこそ、歴

史学者が相対的で多面的な見方を涵養できるとい うのは、確かに歴史教育にしかできないことです ね。

 逆に、歴史の単純なイメージ化は、二者択一・ 二項対立的な「固定的」な見方に陥る こわさ が あると言えるかもしれないですね。

(10)

− 10 − 【杉山氏】歴史的にいって、近世になってその問

題が解決する。具体的にいえば、清の支配者自身 が北方出身の満洲人ですからその問題が消滅しま すが、それまでは内陸アジアの勢力とどううまく つき合うかが一貫した課題であり続けました。そ もそも、倭寇を別とすれば、海の向こうの連中は 攻めてこないし、脅威にならない。新羅が山東半 島に攻めてくるなんてありえない、しかし北の突 厥は王朝の存亡にかかわる。そういう感覚ですね。 しかも都は漢・唐代は長安にあったように、西方 の文化・物産を摂取するためには都は内陸交通に 便利なところにおかないといけない、しかしそれ は同時に中央ユーラシア諸勢力の軍事的脅威と背 中合わせである、そういう緊張感があるんですね。 それがむしろふつうなんです。

 ただし気をつけなければならないのは、漢文で 書いた記録には絶対にそうは書かれないというこ とです。常に劣勢で、緊張感をもっているのに、 公式の漢文の記録では、中華と夷狄という価値観 が貫かれ、余裕綽々のように記される。ですので 漢籍の叙述をそのまま受け取ると、中華王朝のイ メージができあがってしまう。そこに注意しなけ ればならないと思います。もちろん漢文の叙述が まったく虚構だということではないのですが、冊 封や朝貢といった机上の手続きと、現実に展開し ているリアルな情勢とは区別しないといけない。 外交において当時そういう手続きしかない、力関 係が逆転していても形式は冊封しかないというこ とと、この時代の現実はこうだということ、そこ を区別して把握してほしいと思います。

【桃木氏】建前と現実という問題、これは理解し てほしいし、もう一つは先ほど杉山さんが北京政 府の立場ということをおっしゃったけれども、で は北京政府という一枚岩の意志決定機関は本当に あるんだろうかという問題がある。あれはほかの 東アジアの例からすると、むしろいろんな派閥な り勢力があると考えざるを得ない。それは日本 だって、現代日本政治を理解するときには、自民 党なんていうのは派閥がいっぱいあって対立があ ることを理解していなかったらうまく理解できな い。それと同じことで、ましてああいう中国のよ

うな巨大国家であるとか、また発展途上国である とか、これは政経や現代社会の問題になるかもし れませんが、理解しようと思ったら日本人が思い がちな中国という一つの国家、一つの政府で一つ の意志があると考えるだけでは理解できない、そ ういうことだって、いろいろ示す方法はあると思 います。

【杉山氏】もう一点だけ、繰り返しになりますが 中国に関して言いたかったことは、制度・文化体 系にせよ現実の衣食住にせよ、それらが秦漢以来 2000年以上変わらず続いてきたように考える、あ る種の思いこみを排するということです。これは、 吉澤先生が書かれた近代のところで、「中国」と いうまとまりの意識は近代になって新しく自覚的 に作りだされたものであるという側面が強調され ていることにもつながります。

 批判的な人であれ親和的な人であれ、中華思想 や華夷思想といった価値観が当初から確固として あって、それが古来一貫しているように思ってし まうことが多い。あるいは「中国四千年の味」の ように、昔からああいう食文化があるように思わ れていますが、それも違う。制度や文化は時代と ともに変遷しますし、衣・食・住も変化する。そ れどころかいわゆる漢民族自身が、新しい連中が 入ってきてどんどん変化しているのです。「中国 五千年の歴史」のように、古くから確固としたも のができあがっているというイメージが、日本人 の中に非常に強くあると思いますが、中国という もの自体が歴史の中でできあがってきたものであ るし、これからも変わっていく。これは今回注意 を払って書いた点で、この教科書の特色の一つだ と思います。

……… 陸から見たユーラシア前近代史

お詫びと訂正

(11)

はじめに

 イブン・バットゥータは、1325年6月14日、21歳の

時に聖地メッカの巡ハ ッ ジ礼を志して故郷の町タンジールを

出発し、北アフリカ、エジプト、シリアを経て、次年 の聖地での巡礼大祭(1326年11月4〜7日)に無事参 列した。その後も、メッカを拠点にして、イラク、イ ラン、イエメン、東アフリカ、南アラビア、小アジア、 中央アジア、インド、モルディヴ諸島、スリランカ、 東南アジア、中国など、3回の大旅行を行った。  イブン・バットゥータの東方の旅のなかでも、とく にイエメン・東アフリカ・南アラビアの旅、さらにイ ンドのデリー滞在のあと、南インドの海岸地帯、モル ディヴ諸島、スリランカ、ベンガルと東南アジアの各 地を経て南中国の泉州(ザイトゥーン)に至る旅、そ して中国を離れて、ジャンク船とダウ船を乗り継ぎ、 スマトラ島とインドのカリカット(カーリクート)経 由、南アラビアのザファーリ(ズファール)、ホルム ズに至るインド洋横断の旅の記録は、彼の『大旅行記』 全編のなかでも最も波乱万丈の興味深い部分であり、 当時のインド洋海域世界を舞台とした海上交易や港市 社会の様子を躍如として写し出している。そこで連載 の第2回では、以上のイブン・バットゥータの体験と 目撃にもとづく旅の記録をとおして描き出されたイン ド洋海域世界について考えてみたい。

東方諸国への旅の動機

 多くのメッカ巡礼者たちは、念願の聖地巡礼を果た

したあと、帰路にメディナの聖モスク内の預ラ言者廟をウ ダ

参拝することもあったが、一般にはほぼ同じルートを 通って故郷に向かった。しかし、イブン・バットゥー タにとっての旅は単に出発地と目的地を結ぶ最短距離 の移動ではなく、そのときどきの交通条件、政治・経済・ 社会の状況、さらには彼の抱いていた旅の哲学、時と して思い浮かぶ目的や興味などによっても、大きく変 化したと思われる。彼の場合、最初のメッカ巡礼を果

たした直後に、巡礼キャラバン隊と一緒にアラビア 半島を越えてイラクとイランに旅し、再びメッカに

戻ると、まる3年間を寄ムジャーウィル留者として過ごした。アラ

ビア語のムジャーウィル、あるいは複数形のムジャー ウィルーンとは「ジワール(相隣関係と相互保護)の もとにある人」の意味であって、一時的な被保護者、

寄留者、居いそうろう候をさした。この言葉は、アラブの遊牧

社会の間では古くから使われた社会的慣行の一つで あって、道に迷った旅の者、政治的亡命者、あるいは たとえ盗人であっても、一時的に自分のテント内に迎 え入れて、食事と宿泊場所を提供し、滞在中はその部 族の者と同じ条件のもとに身の安全を保障するもの である。メッカには、イスラーム世界の各地から巡礼・ 学問修得・商売など、さまざまな目的をもって集まっ た多くの旅の人びと(ムジャーウィルーン)が滞在し ていた。したがって、そこは巡礼の聖地であるばか りでなく、学問と情報交換の一大センターであって、 メッカを軸心として、ひと・モノ・情報のネットワー クがイスラーム世界の四方に広がっていた。

 イブン・バットゥータは、この期間に多くの学者・ 修行者・商人と交流して各地の情報を得ることで、 一つの共同体としてのイスラーム世界の存在を知り、 マーリク派法学の知識人の一人として、広くその世 界に生きる可能性を見出したと思われる。そして再

び旅に出た理由について、彼はメッカの聖域内で殺さつ

りく

をともなう騒乱が起こったためと説明しているが、 実際にはインドのデリー・トゥグルク朝においてア ラブ人やイラン人などの外国人が「貴人」として優 遇され、高給で仕官しているとの情報を得たことか ら、インドに向かうことを決めたのであろう。そこで、 ジッダから船でイエメンを経由、アラビア海を横断し てインドに向かおうとしたが、アデンに到着したと き、すでにインドに向かう船が出港するモンスーン航 海期は終わっていた。やむなく東アフリカ海岸に沿っ て南下し、クルワー(キルワ)王国に至り、復路はふ たたび船で南アラビアまで北上、ペルシア湾岸を経

イブン・バットゥータの見たインド洋海域世界

(12)

− 12 − − 13 −

由して、メッカに戻ることになった。そして1332年8 月の巡礼大祭に参加したあと、前回と同じようにイエ メン経由インドに行く予定でジッダに向かったが、ま たもインドへの航海シーズンが終わっていた。そのま ま無駄な1年を過ごすよりも、エジプト、シリア、ア ナトリア、中央アジアを経由してインドに至る壮大な ユーラシア大陸横断の旅を思いついた。こうして、イ ブン・バットゥータによる旅は、インドに8年の滞在 後、今度はトゥグルク朝のスルタンの要請によって答 礼使節団の一員として、中国に向かうことになったの である。

つなぎの場としてのインド洋海域世界

 13・14世紀は、陸上におけるパクス・モンゴリカ(モ ンゴル帝国を中心とする平和)の世界とインド洋海域 世界(ユーラシア大陸の東と南、アフリカ大陸の東を 縁取るように広がる南シナ海・ベンガル湾・アラビア 海・インド洋西海域にまたがる海域世界)の二つの世 界が相互に交流を深めた「国際的交易ネットワークの 時代」として注目される。イブン・バットゥータは、 そうした時代背景を利用して、長期にわたって、しか も西ヨーロッパを除くユーラシアとアフリカの既知の

世界のほぼ全域を踏破することができたのである。  彼が旅した14世紀のインド洋海域世界では、人の移 動、モノや情報の交流関係が緊密化するなかで、交易 ネットワーク・センターとしての大港市(エンポリウ ム)が成立し、港市には各地から集まった人びとによ るコスモポリタンな多民族共生社会、イスラーム、交 易活動、リンガ・フランカ(地域共通言語)などを特 質とした地域文化・社会圏が各地で誕生していた。た とえば、東アフリカのスワヒリ社会、南アラビアのザ ファーリやペルシア湾岸のホルムズに見られた港市国 家、インド南西海岸のカリカットを中心とするマー ピッラ社会やカンバーヤ(キャンベイ)のシーア・イ

マリンディ アデン メッカ ジッダ

シーラーフ シーラーフ

サマルカンド

ホルムズ

ホルムズ

マスカット

ザファーリ (ズファール) ザファーリ

(ズファール)

スムトラ・ パサイ

カイロ

カイロ

コンスタンティノープル

コンスタンティノープル

バスラ

サワーキン アレクサンドリア

モンバサ モガディシオ

キルワ(クルワー)

カリカット

マーレ

クーラム=マライ (クイロン)

クーラム=マライ (クイロン)

ナディヤ

アンコール

アンコール ヴィジャヤ

福州 明州

博多 開城

大都 (ハーンバリク) 大都

(ハーンバリク)

十三湊

杭州

広州

広州 泉州

泉州

ペグー

ペグー デリー

カンバーヤ

カンバーヤ

オケオ

オケオ

クディリ

クディリ

パレン  バン

パレン  バン

ジャンク船 ア

ラ ビ

ナツメグ くじゃく

こう ら

べっこう タイマイ とよばれる亀の甲羅 からつくられる 犀角    サイの角 中国の腰帯の飾 りになった    サイの角 中国の腰帯の飾 りになった

さいかく つの つの

胡椒 こ しょう 胡

こ  

し ょ う

綿織物 ナ

 ツ   メ    ヤ     シ

乳香 乳香樹の 樹液からできる香

にゅうこう

ホルムズ      14世紀 に台頭 15世紀に は 和も訪れている      14世紀 に台頭 15世紀に は 和も訪れている てい わ てい わ

奴隷

太  

平  

洋 ア

ラ ル 海

イ   ン   ド   洋

ベ ン ガ ル 湾

コ ロ マ ン デ ル 海 岸

コ ロ マ ン デ ル 海 岸 マ

ラ バ ル

海 岸

ア ラ ビ ア 海 紅

ペ ル

シ ア 湾

ア ム 川

シ ル

イ ン ダ ス

川 ガ ン ジ ス

メ コ ン

長 江 黄 河

黄 海

ナ 東

シ 海 日

本 海 カ

ス ピ 海

地 中

ワ デ

南 シ

ナ 海

セイロン

セイロン

ジャワ

ラ ボルネオ ボルネオ 崑 クン

ルン

崙 山 脈

ヤ 山 山

モ ル デ ィ ヴ

モ ル ッ カ 諸 島   ︵ 香 料 ︶ モ ル ッ カ 諸 島   ︵ 香 料 ︶ ダウ船

ダウ船

ジャンク 船

(丁子) クローヴ (丁子)       内陸

の都市だったが河 川で海の道とつな がっていた アンコール 内陸 の都市だったが河 川で海の道とつな がっていた

象牙 ぞう げ

(竜涎香の原料)

マッコウクジラ (竜涎香の原料) りゅうぜんこう

テン シャン

天 山 山 脈

   宋・元の時 代に貿易港として 発展 アレクサンドリア と並ぶ世界最大の 貿易港とたたえら れた 泉州 宋・元の時 代に貿易港として 発展 アレクサンドリア と並ぶ世界最大の 貿易港とたたえら れた

チュワンチョウ

せんしゅう

沈香 じん

象牙 ぞう げ

イエメン

サマルカンド 陸路 の要衛 レバノン杉

p.51

海の道とは ユーラシア南辺の沿岸都市を結び,文物を東西に運んだ交易路。古代のローマと南インド

の季節風貿易にはじまり,のちムスリム商人と,やや遅れて中国商人が主役となる。東から運ばれたアジア

物産にちなんで 「香料の道」,「陶磁じの道」 ともよばれた。

 三角帆で船体に釘を用いない 木造縫合帆船。主にムスリム商 人が用い、季節風を利用するイ ンド洋貿易で活躍した。

インド洋の主役ダウ船 シナ海の主役ジャンク船

 帆が蛇腹式に伸縮し、船内を 横断する隔壁で補強された中国 の伝統的な帆船。南宋の時代以 降、中国から東南アジアにいた る東・南シナ海貿易で活躍した。

(13)

アの河川分岐点(クアラ)やマラッカ海峡周辺部に生 まれたマレー港市社会などに代表される。

 イブン・バットゥータは東アフリカ海岸の船旅で、 「マクダシャウ(モガディシオ)の町から船に乗り、 サワーヒル地方に向かった。ザンジュ人たちの地方に あるクルワー(キルワ)王国の町をめざしていた」と 述べている。すなわち、彼は東アフリカ海岸のモンバ サ周辺をさして、従来の呼称のザンジュ(黒人)地方 の代わりに、サワーヒル地方という新しい言葉を用い ている。ここでのサワーヒルは、単にアラビア語の一

般名詞としてのサーヒル(海岸、水辺、河畔、縁ふち)の

複数形サワーヒルではなく、固有の地域名称の「サワー ヒル(スワヒリ)地方」をさしている。周知のとおり、 スワヒリ語は現在、東アフリカ海岸のソマリア南部か らケニア、タンザニア、ザンジバル島、モザンビーク 北部までの地域、そして内陸部のウガンダやコンゴ(ザ イール)などで、リンガ・フランカとして広く使用さ れており、スワヒリ文化とかスワヒリ文化圏といった 場合、それは言語だけの問題でなく、アフロ・アジア の混血、多民族共生社会、イスラーム、インド洋の海 上交易などの共通要素を包摂した一つの文化複合体の ことである。

 当時、インド洋に突き出たインド亜大陸の南西部に 位置するマラバール(ムライバール)海岸のカリカッ ト、カウラム(クーラム)、ヒーリー、ファンダライナー などの港は、南中国の泉州や広州から来航した中国の ジャンク船が頻繁に出入りする交易港として繁栄をき わめていた。イブン・バットゥータはカリカットにつ

いて「そこは大港バンダル市の一つで、中国、ジャーワ、スィー

ラーン(スリランカ)とマハル(モルディヴ諸島)の 人びと、イエメンとファールス(イラン)の人びとが めざし、町には遠方の各地から来た商人たちが集まる ので、その寄港地は世界のなかでも最大の港の一つで ある」と述べ、さらに港内には13艘の中国のジャンク 船団が停泊していたこと、ベンガル湾や南シナ海では、 中国の船団によらなければ、けっして航海できないこ と、さらに中国の船団には3種類あって、そのなかの 大型船はジュンク(ジャンク、戎克)、中型船はザウ ウ(艚、船、艟)、小型船はカカム(舸舩)と呼ばれ、 ジャンクは3枚から12枚の帆を装備していたことなど の具体的情報を伝えている。これらの中国船について

時の中国船の構造、航海と交易の活動にかんする具体 的な資料を提供している。

 中国船は、中国および東南アジア産の陶磁器、銅銭、 高級絹織物、沈香・白檀などの香木類、香辛料・薬物・ 染料類などを舶載し、いっぽうアラビア海を渡ってき たアラブ系・イラン系のダウ船は、東アフリカ産の動 物歯牙類(とくに象牙、犀角)、皮革、金、べっこう、

南アラビア産の乳香、没もつ薬やく、竜涎香、ペルシア湾岸地

域の真珠、馬、毛織物類、ナツメヤシの実などを運ん できた。またインド・グジャラート地方の藍あい染せん料りょうと綿

織物、マラバール地方の胡椒・生しょう姜が・肉桂などの香辛

料類、ココヤシ(繊維、油)、チーク材、白檀香、米、 モルディヴ諸島の子安貝、スリランカの宝石類などの 国際商品がインド西海岸の諸港に集められ、さかんに 交換取引されていた。

 船の輸送の有利な点は、陸上のキャラバン輸送と

違って、底バラスト荷商品として、石材・レンガ・瓦・木材な

(14)

− 14 − − 15 −

1.はじめに

 18世紀の末から19世紀のはじめにかけて大西洋 の両岸は革命の波に洗われ、壮大なドラマが展開 された。今回は、ドラマの舞台となった激流のフ ランス革命史に節目をつける目的で、ルイ16世、 ロベスピエール、ナポレオンを取り上げてみた。

2.ルイ16世(1754〜1793、位1774〜1792)

 1765年に父の死によってフランス王太子とな り、長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク 家の間の和議を結ぶため、オーストリアのマリア= テレジアの末娘であるマリ=アントワネットと結 婚した。結婚後しばらくしてから二男二女をもう けたが、男の子は二人とも革命期に病死した。  1774年にフランス国王となったルイ16世は、直 後から慢性的な財政難を解決するために開明官僚 テュルゴーや銀行家ネッケルら有能な人材を財務 総監に起用し、積極的に財政赤字の削減に取り組 んだ。しかし、宮廷費削減に不満を持っていた妻 をはじめ、特権身分への課税問題をめぐって保守 派貴族・聖職者の強い抵抗にあうと、持ち前の優 柔不断さが顔をのぞかせて改革は失敗に終わっ た。結局、王や自らが貴族である側近たちは話し 合い以外の手段をとろうとはせず、三部会を開催 することになった。

この後も王は優柔不断さを発揮していくことに なる。まず、第三身分が自分たちの会議を国民議 会だと宣言すると、特権(第一・二)身分の代表 に国民議会への合流を指示する一方、民衆寄りの ネッケルを解任し、軍を集結させて第三身分の動 きに対抗しようとした。この動きに対して、パリ 市民がバスティーユ牢獄を襲撃すると、今度は特

権身分を見捨て、軍隊の撤収やネッケルの復職な ど国民議会の要求に不本意ながら応じてしまっ た。しかし、フランスの変革に熱心であったもの の、啓蒙専制的な改革路線レベルに思考が留まっ ていた王は、封建的特権の廃止や人権宣言に裁可 を与えず、再び地方の軍隊をヴェルサイユに呼び 寄せて国民議会の動きを封じ込めようとした。こ のことがパリ市民による「ヴェルサイユ行進」を 招き、王家一家はパリへ移り住むことになった。 パリに移った後も、何度かあった国外脱出のチャ ンスを逃したあげく、ヴァレンヌ逃亡事件を起こ して国民を失望させてしまった。

 このように、ルイ16世は狩猟と錠前づくりが趣 味で、妻にも頭が上がらない無能な王としてよく 描かれるが、実際は優柔不断イコール心優しいが ゆえに革命の波に翻弄されながら、革命を進展さ せる役を演じた悲劇の王であったと見ることもで きよう。

3.ロベスピエール(1758〜1794)

アラス大学卒業後に弁護士になり、30歳で三部 会の第三身分代表として政治の世界に入ったロベ スピエールは、ヴァレンヌ逃亡事件後に成立した 立法議会では、再選が禁止されていたために院外 に留まっていた。ルイ16世処刑後に召集された国 民公会は、1793年憲法を採択するが、平和到来ま で憲法の施行を停止して公会に全権力を集中する 革命体制をとることを宣言した。とくに、ジャコ バン派内の山岳派に属していたロベスピエールも 後にメンバーとなった公安委員会の権限は大きく なった。

 ロベスピエールは、富裕者の財産を制限し、か つ小所有者を増加させ、他方において万人に教育 と仕事または生活補助を保障するような社会づく

人物を使って学習をまとめる授業実践例〈世界史A〉

人物でまとめるフランス革命史

(15)

し、同時に民衆の革命 的情念がコントロール を失うことの危うさも 知って、民衆運動と連 携しつつこれを統御し ようとした。そのため に は 強 力 な 集 権 的 な

パワーが必要であり、恐怖政治が誕生することに なった。恐怖政治とは「徳と恐怖」を原理に持つ 戦時非常体制であり、徳とは公共の善への献身、 恐怖とはそれに反する者への懲罰をさしている。 また、グレゴリウス暦にかわる革命暦を制定して、 王権と教会の権威が密接不可分であったキリスト 教否定運動を活発化させた。

 しかし、当時の国民公会は鉄の団結を誇ってい たわけではなかった。もともと、山岳派には大同 団結のためにジロンド派残党や中間派議員との妥 協を重視する人々が多く、ロベスピエール派はご く少数に過ぎなかった。しかも山岳派は国民公会 内で半数に達せず、議員の半数は民衆運動を警戒 しながら沈黙して、時節到来を待つ中間消極派 だった。やがて、ロベスピエールは独善的な精神 主義に傾いて孤立を深めたため、同志とともに逮 捕され処刑された。

 潔癖高邁な革命家ロベスピエールの壮絶な人生 は、自殺に失敗して血だらけになった頭をギロチ ン台にさし出して幕を閉じた。その頃の顔を見る と、とても36歳には見えないほど疲れ切っていた ことがわかるが、彼の社会理念であった革命民主 主義は、その後もフランスの社会運動のなかで生 き続け、運動が高揚するたびに彼の名が口にされ た。マルクスも青年時代はパリで彼とジャコバン 独裁の業績を研究している。

4.ナポレオン(1769〜1821、位1804〜1814、1815)

 ロベスピエール派が倒されたテルミドールの反 動後に成立した総裁政府は、毎年実施する選挙の 度に左右に大きく揺れ、不安定な状態になった。 全国の治安・行政は著しく混乱し、役人の給料遅

たどった。しかも、戦争が依然として続く中、一 部の総裁政府派議員が政局安定を図り、台頭して きた軍部に頼って総裁政府を倒した(ブリュメー ル18日のクーデタ)。 そして、直後に成立した統 領政府において絶大な権限を持つ第一統領にナポ レオンが就任し、革命の終了を宣言した。  ナポレオンは、コルシカ島の旧家の次男に生ま れ、やがてパリの士官学校を卒業した。革命が始 まってもなかなか活躍する場がなく、テルミドー ルの反動のときにはロベスピエールの弟との関係 を疑われ、あわやギロチン台へ、といった危うい 場面にも遭遇した。しか

し、国民公会終了時にパ リで起こった王党派の 蜂起を鎮圧すると、次々 と外征で功績を挙げて、 またたくまに軍部の重 鎮となった。ナポレオン は、戦術と政治のたぐい まれな技術者であるとと もに異常な野心家であっ

た。このことは、彼が身近においた画家や書記が 残した多くの肖像画、戦場の絵画(図②)、名言、 回想録からも読み取れ、一介の軍人が短期間のう ちに皇帝までのぼりつめたのはこうしたメディア 活用術のおかげともいえよう。

 ナポレオン時代といわれる1800年から1815年ま での間に引き起こされた対外戦争は、フランス革 命の理念を全ヨーロッパに広げ、19世紀の多くの 革命とナショナリズム運動に大きな影響を与え た。また、この間にナポレオン法典が制定された が、この法典は、革命期の立法家たちの業績を集 大成した作品でもあった。この作品から、ナポレ オンがジャコバン派の行った土地改革を守って農 民の生活を安定させ、行政・司法・学制の整備に も力を注いだことが見て取れる。彼の残した最大 の業績は、フランス革命を終わらせるとともに、 革命の基本原則に強固な基盤を与えたことにつき ると思われる。

図② ナポレオン 「 最新世界史図説タペスト リー 六訂版 」p.174 図① ロベスピエール

「明解新世界史A 新訂版」p.93

ボナパルト

ハンニバル

(16)

− 16 − 【ルイ16世関係】

1756年 5月 ( ① )戦争始まる→1763年パリ講和会議

1774年 8月 テュルゴーの財政改革

1777年 2月 ネッケルの財政改革

1789年 5月 ( ② )を召集

6月 国民議会成立→球戯場(テニスコート)の誓い

7月 14日 ( ③ )牢獄襲撃、大恐怖(農民による貴族の館襲撃頻発)

8月 封建的特権の廃止宣言(封建地代の有償廃止)、人権宣言採択

10月 ( ④ )行進→国王一家をパリへ

1791年 6月 ( ⑤ )逃亡事件→国王一家逃亡失敗

9月 1791憲法制定→立法議会成立(10月)

1792年 3月 ( ⑥ )派内閣成立→対オーストリア宣戦布告(4月)=革命戦争の始まり

8月 テュイルリー宮殿襲撃→国王一家、タンプル塔に幽閉される=王権停止

9月 国民公会成立→共和政(第一共和政)宣言

1793年 1月 ルイ16世処刑→第1回対仏大同盟結成(2月)

【ロベスピエール関係】 

1793年 4月 ( ⑦ )委員会設置→7月にロベスピエール、委員となる

6月 ( ⑧ )派が( ⑥ )派を追放して権力を掌握→( ⑨ )政治の始まり

6月 1793年憲法制定(未施行)

7月 封建的特権の無償廃止(封建地代の無償廃止)

1794年 3〜4月 エベール派とダントン派が粛清される

7月 ( ⑩ )の反動→ロベスピエール派逮捕

【ナポレオン関係】

1795年 8月 1795年憲法制定→総裁政府成立(10月)

1796年 3月 イタリア遠征(〜97)

1798年 5月 エジプト遠征(〜1801)

1799年 11月 ( ⑪ )18日のクーデタ→統領政府が成立し、第一統領に就任(12月)

1804年 3月 ナポレオン( ⑫ )(フランス民法典)制定→皇帝即位(5月)、第一帝政始まる

1806年 11月 大陸封鎖令(ベルリン勅令)

1812年 6月 ロシア遠征→諸国民戦争(〜1813)

1814年 4月 エルバ島に流刑

1815年 3月 エルバ島を脱出→ワーテルローの戦い(6月)→セントヘレナ島に流刑(10月)

 ルイ16世治下のフランスで、経済力を蓄えた商工業者や富農層が自由と市民的権利を求めて始まった 革命は、急進化するにつれて社会的混乱を増し、やがてロベスピエールのもとで恐怖政治に陥ったが、 ナポレオンの登場によって混乱はおさめられた。

5.ワークシート

ねらい  3人を通じて、革命の起きた原因、進展、 終結の流れをたどる

解 答 ①七年 ②三部会 ③バスティーユ ④ヴェルサイユ ⑤ヴァレンヌ ⑥ジロンド ⑦公安 ⑧山岳 ⑨恐怖 ⑩テルミドール ⑪ブリュメール ⑫法典

参考文献

・ 五十嵐武士/福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフ ランス革命』(中央公論社 1998)

・ J・M・ロバーツ『図説世界の歴史⑦ 革命の時代』 (創元社 2003)

・ 小井高志編訳『ロベスピエール』(平凡社 1979) ・ 両角良彦『反ナポレオン考』(朝日選書 1991) ・ マルク・ブゥロワゾォ『ロベスピエール』(白水社 

参照

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