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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2007年 10月号 history

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 16 世紀に始まる世界の一体化は、19 世紀に急 激に進展し、「空白地帯がなくなる」という意味 では、20 世紀初頭にほぼ完成した。その 19 世紀 の主役は、いうまでもなく大英帝国だった。今回 は「パクス = ブリタニカ」の時代を中心に、19 世 紀の世界はどう変化したのかについて、あたらし いとらえ方を紹介する。例によって『タペスト リー』36 〜 39 ページの大きな地図を広げながら、 お読みいただきたい。

ヨーロッパの近代化とは何だったか

 19 世紀にヨーロッパでおこった「近代化」に ついて再検討すると、従来の世界史における近代 史の教育は、極言すればイギリスを典型とする ヨーロッパの近代化を、日本が学ぶべきお手本と して教えるために存在した。だが「アメリカの時 代」や「東アジアの奇跡」をへて 21 世紀に入っ た現在、世界史全体にとってのヨーロッパ近代の 意義は、かなり縮小している。またヨーロッパ近 代について、長年教えられてきた内容のかなりの 部分が、すでに定説の座を失っている。最新の研 究成果によりつつ、ヨーロッパ近代史で今後も本 当に必要な内容の真剣な検討が求められている。 それなしで「詳しすぎるヨーロッパ近代史」を教 え続け、不足しているアジア理解やアメリカ理解 (!)に割くべき時間を奪うことは、大袈裟にい えば、対アジア・対米関係を中心として危険な歴 史観を振りまく勢力に、手を貸すようなものだ。  これは、19 世紀のヨーロッパの飛躍的近代化、 世界制覇の意義を否定しようとするものではない。 問題は近代化や世界制覇の中身で、産業革命と市 民革命だけでは、もはや通用しない。

 経済面でいうと、紅茶と砂糖など消費生活の話 題が増えてきたのはよいが、ほかにも大事な問題

がある。第一は、イギリスがフランスとの覇権争 いのなかで築いた、近代的な徴税と国債、それら を支える銀行などのシステム(財政革命)である。 その延長上に、イギリスの覇権がしばしば、ラン カシャーの産業資本家よりロンドン・シティの金 融業者を中心とするジェントルマン資本主義の利 害を反映するものだったという、有名な事実がく る。産業資本は健全、商業資本や金融資本は不健 全、などという道徳論でなく、高校生が将来、主 権者として租税・財政・金融をコントロールでき るような歴史教育をする必要がある。

 また「ものづくり日本」の教育としては、産業 革命のほか軍事革命・交通革命なども含め、技術 がもつ独自のインパクトをもっと強調したい。こ れは理系志望の生徒を面白がらせるだけではない。 従来の教育では洋務運動の例などを引いて、「近 代市民社会や科学的世界観が根づいていないとこ ろでは、近代技術だけ導入してもだめだ」と教え てきた。が、現在の中国やアメリカ合衆国(世界 最大の IT 技術大国の指導者は神による天地創造 を信じている)の事態を「科学的」に考えるならば、 技術は独り歩きすることを認めるべきなのである。  社会・国家の面では、19 世紀資本主義の酷薄 さだけでなく、理想化されてきた近代市民社会そ のものの負の側面にもふれる必要がある。近代市 民社会と切り離せない「国民国家」が、資本主義 か社会主義かを問わない国家形態の問題として、 多くの問題をはらんでいたことは、今や常識だろ う。とくに、だれがある国の「国民」であるかは、 自然に決まるものでなく、しばしば諸勢力の争い、 少数派の差別や切り捨てがおこったことには―― ドイツ史以外でも――必ず注意させたい。  これまでのようにたくさんの固有名詞や事件名 を持ち出し、延々と時間をかけずとも、以上の説

連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第5回

パクス = ブリタニカと 19 世紀の世界

(2)

明・例示は可能だろう。

自由貿易と植民地支配

 「世界の工場」イギリスを中心とする国際分業 体制が、19 世紀に全世界に広がっていったことは、 従来から知られた通りである。タペストリー 180 〜 183 ページ「世界の一体化」も参照したい。  この時代で注意すべき点の第一は「自由主義」 である。そこに業種としての産業資本の利害が反 映していることは間違いないのだが、19 世紀半 ば以降のイギリスが「世界の銀行」だったことも 忘れてはならない。問題はどの種の資本かという より、当時のイギリスが「規制さえなければなに をしても必ずもうかる」圧倒的な立場にあったと いうことだ。「穀物法廃止」も外国の安い穀物が 好きなだけ買えたからできたことで、覇権を失っ た 20 世紀のイギリスは、農産物自給率の向上に 精を出すことになる。またヨーロッパ大陸諸国で も、国民国家形成を急ぐとともに、プロイセンの ように保護主義をとる国も出現する。

 東南アジア・東アジアで典型的にあらわれたの は、「自由の強制」である。アヘン戦争に始まる 中国侵略はその典型である。素直に「開港」つま り「イギリス人の経済活動の自由」を認めればよ し、さもなくば武力に訴えてでも認めさせる。そ

の場合に「不平等条約」や植民地化が正当化され るのは、文明国のルール通りに振る舞えない国は 強制措置を受けても当然、という理屈だろう。無 理にどこでも植民地にする必要はないからそうし なかったまでで、世界に自分のルールを押しつけ ていった点ではのちの帝国主義列強と同じだ、と いう角度から、19 世紀半ばのイギリスを「自由 貿易帝国主義」と呼ぶ場合もある。

 イギリスの時代のもうひとつの特徴は、汽船や 鉄道の発達に支えられた、「国際労働力移動」の 急速な拡大である。アメリカ大陸では、従来の黒 人奴隷に加えて、南欧・東欧やアジアからも大量 の移民労働者が到来した。19 世紀半ばに奴隷制 が廃止に向かうと、英領インドから東南アジア・ オセアニアやアフリカ東南部へ、中国からも東南 アジアやオセアニア・アメリカ大陸へ、大量の出 稼ぎ労働者や移民が送り出された。貧しかった明 治の日本からも、多くの移民が東南アジアやハワ イ・アメリカ大陸に渡り、若い男性中心の植民地 都市や新開地の需要に応えて、「からゆきさん」 も海を渡った。アメリカやオーストラリアだけで なく、東南アジア群島部なども人口構成がおおき く変化したことは、現代まで影響を残している。  以上の「自由」や「規制緩和」の強制、巨大な 労働力の移動などを学ぶことが、きわめて現代的

西漸運動

環大西洋革命

イ   ン   ド   洋

1821 1825 1819 1821 1823 1822 1818

ラプラタ連邦として 独立宣言 1816

ペナン アデン

シンガポール

香港

ワシントンニューヨーク モントリオール

メキシコシティ ドロレス エスキモルト

カラカス

スクレ ボゴタ

アヤクチョ リマ

リオデジャネイロ

サンティアゴ モンテビデオ ブエノスアイレス

パリ ロンドン

ウィーン ベルリン

リスボン ジブラルタル

マドリード

ケープタウン ダーバン

カイロ

アデン セバストーポリ

トルコマンチャーイ テヘラン

マドラス ペナン コロンボ

ボンベイ

ボンベイ オムスク

イルクーツク

オホーツク

イリ

パース モスクワ

サンクトペテルブルク

バタヴィア シンガポール

マラッカ

マラッカ 広州

香港 南京 上海

カルカッタ 北京

ペドロパヴロフスク

長崎 江戸

根室

シドニー(ポートジャクソン) オークランド 1850年までに

州となった地域

キューバ ハワイ諸島

セネガル アラスカ

黄金海岸 シエラレオネ

アセンション島

ソコトラ島

セントヘレナ島

モザンビーク ジャマイカ

モーリシャス諸島 セイシェル諸島

チャゴス諸島 モルディヴ諸島

アルジェリア エジプト

南下政策

ジャワ島 (1819英) (1824英)

東ティモール

ビルマ

アチェ

(1815 英)

セイロン

ムガル帝国 (1858滅亡)

シ ベ リ ア

東アジア進出

ニューカレドニア島

1853 仏植民地

1788 ∼流刑植民地 1840 英植民地 イスタンブル

沿

イギリス領 インド イギリス領カナダ

アメリカ合衆国

メキシコ

中央アメリカ連邦

ブラジル

ペルー

ボリビア 大コロンビア

ギアナ

スペイン ポルトガル

オランダ プロイセン

イギリス

フランス オ−ストリア

ムハンマド  =アリー朝 ギリシア

ペルシア

ケ−プ植民地

オ ス マン 帝 国

オランダ領東インド 越南

イギリス領 インド

清 朝鮮

日本

ニュージーランド イギリス領 オーストラリア ロ シ ア 帝 国

ア ル ゼ ン チ ン

シャム (タイ)

60゜ 120゜ 60゜ 60゜ 30゜ 0゜ 30゜ 60゜ 120゜ 60゜ 120゜ 60゜ 30゜ 0゜ 30゜ 60゜ 60゜ 0゜ 120゜ 0゜

チ リ

西

(江戸時代後期)

ツアモツ諸島

フォークランド諸島

サン タクルズ

p.169

 イギリスの快速帆船(クリッパー)

150゜ 150゜ 30゜ 30゜ 30゜ 30゜ 90゜ 90゜ 90゜ 90゜ 150゜ 150゜ 180゜ 180゜ A A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L 1 1 2 2 3 3 4 4 5 5

ラテンアメリカ 諸国の独立

1789 フランス革命 1830 七月革命 1848 二月革命

1783 アメリカ合衆国   の独立 ハイチ独立

1804

1815 火山噴火

(スンバワ島) 火山灰による冷夏 ヨ ーロッパで異常気象発 生。アメリカへの移民 加速。

1828 トルコマンチャーイ条約

ペルシア(イラン)の半植民地化の端緒。 1786年のイーデン条約で,貿易

自由化。英国製品がどっと流入 して経済破綻,革命へ。ナポレ オンが大陸封鎖令で挑戦するも, 敗北。国内改革で工業化目指す。

ナポレオンの大陸封鎖 に対して,大西洋逆封 鎖。他国のアメリカ植 民地の取り込み,本国 からの切り離しを画策。 独立後,大陸封鎖令時に,英

の大西洋逆封鎖に反抗(米英 戦争)するも,南部の綿花プ ランテーションと英との結び つきは続く。

独立を支援してもらうと 同時に,貿易自由化。事 実上,英の経済支配下に 入る。

大陸封鎖令に反抗して 穀物輸出。英の穀物法 廃止で結びつき強まる。

対ロシア防衛の支援 を受けるにつれて, 不平等条約締結,貿 易自由化。

ナポレオンの本国占 領時のどさくさで, 英との関係強まる。

アヘン密輸と武力で自由 貿易を押しつけられ,香 港島割譲(1842南京条約)。

1854年,アメリカと 日米和親条約を結び, 開国にふみきる。

イギリス(1850年) イギリスの拠点都市   イギリス領の島 イギリスとの関係に関する事項 フランス(ナポレオン3世退位時1870年) スペイン(1850年) 旧スペイン植民地 ポルトガル(1850年) 旧ポルトガル植民地 オランダ(1850年) ロシア(クリミア戦争開始時1853年) ペリー来航経路

列強とその領土

イギリス・ロシアのユーラシア分割

インド兵シパーヒーを用いた拡大 (1800∼1900年) ロシアの拡大(ロシアの南下政策     )p.187

19世紀前半の世界

19世紀前半の世界

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な意義をもつことはいうまでもないだろう。

「貧困の共有」と「勤勉革命」

 イギリス中心の国際分業体制、いいかえれば近 代世界システムは、植民地にならなかった地域を も、「イギリス非公式帝国」に引き込み、特定の 食料や原料、それに「低賃金労働力」などの輸出 基地、イギリス工業製品の市場という役割を押し つけていった(フランス、オランダ、スペイン、 ポルトガルなど他のヨーロッパ諸国の植民地も、 宗主国よりイギリスの工業製品の市場だった)。  ただし、スペインから独立したもののイギリス への従属を深めていったラテンアメリカ諸国のよ うなケースとくらべて不思議なことが、アジアで たくさん見られた。南京条約後の中国内地で、イ ギリス綿布はなぜあまり売れなかったのだろう。 イギリスが生産したのは長繊維綿花による薄手の 綿布で、アジアで需要される短繊維綿花による厚 手の綿布だったという「川勝理論」は、理由の半 分でしかない。上海を中心とする華人ネットワー クによって、イギリス綿布も東アジア諸地域に流 入してゆくのだが、そのいっぽうで日本でも中国 でも、インド製の綿糸(工業製品!)を原料とす る綿布生産が勃興する。その過程では、いきなり 近代的な大工場ができたのではなく、近世以来の 小農経済を土台とする農家副業や都市の零細家族 経営が、それなりに良質の製品を安価に生産しえ たことが、おおきな意味をもった。

 東南アジアが全面的に植民地化する19世紀後半、 島嶼部(群島部)を中心に世界市場向けの輸出品 生産(コーヒー、砂糖、スズなど)が急速に拡大 し、インド人・中国人・日本人などの出稼ぎ・移 民労働力によって密林が切り開かれてゆく。その 際に必要な資本、重工業製品、交通・通信・都市 インフラなどはイギリスからもたらされたが、プ ランテーション・鉱山の労働者が食べる米は東南 アジア大陸部のデルタから、着る綿織物はインド やのちに中国・日本から、石油ランプとマッチ、 雨具、自転車や人力車などの日用品も中国や日本 から流入した。つまりヨーロッパ主導の植民地開

発を利用しながら、アジア各地の農業生産だけで なく軽工業も発展し、それらの商品を扱う華人や インド人の商業ネットワークなども再強化された のだ(対ヨーロッパ向けでは壊滅したインド綿工 業は、アジア向けにはかなり発達する)。  従来、こうした動きは所詮英米資本主義をしの ぐ力はなく、低賃金・長時間労働に頼るアジア資 本主義の後進性の象徴だと見なされてきた。たし かに人類学者クリフォード・ギアツが強制栽培制 度以降のジャワ農村を「貧困の共有」と描いたよ うな、欧米資本主義を利するばかりで自分の経済 的「離陸」にはほど遠い事態も、あちこちで見ら れた。だが後進性をいうだけでは、20 世紀末の 「東アジアの奇跡」は説明できない(そこに依然 として見られる非近代性をいうのは簡単だが、欧 米にあまり従属しない巨大な工業力と経済パワー の出現を軽視するのは、「欧米崇拝の一種」だろ う)。このため現在では、資源は豊富だが労働力 が不足した大西洋経済圏が、資源浪費型の大規模 経営や機械制工業を生んだのと対照的に、歴史が 古く労働力過剰な東アジアでは、近世以降に小規 模経営で資源節約・労働集約型の独特な市場経済 を生んだ、これが日本を含む東アジアの経済成長・ 近代化の基盤となったのだ、という理解が一般化 してきた。つまり近代化・工業化にはヨーロッパ 型と東アジア型という2つのことなる類型があっ たと考えるわけで、西洋の産業革命(industrial revolution)に対して、東アジアでは勤勉革命 (industrious revolution)が起こったのだという、

日本の速水融、杉原薫らの説が世界に受け入れら れつつある。

(4)

衰退はいつから?

 前近代においてイスラーム世界の栄光は何世紀 も続いたが、近代と出会うときにはその時代は過 ぎていた。衰退がいつから始まるかは、どの分野 に着目するかによって異なる。科学という点から いえば、たとえばイスラーム天文学が多くの星に 名前をつけていた時代は、16世紀には望遠鏡を用 いる西洋の天文学に取って代わられた。軍事的に いえば、オスマン帝国の覇権は第1次ウィーン包 囲(1529年)で当時のヨーロッパの中心部を脅か したが、次の世紀の第2次ウィーン包囲(1683年) の失敗は明らかな衰退の始まりであった。1699年 のカルロヴィッツ条約では、オスマン帝国は中欧 のほとんどを失うことになった。しかし、政治・ 経済的な繁栄と文化の成熟がずれることもある。 カフェ文化はイスラーム世界が生み出した新しい 嗜好品と社交のあり方であったが、カイロやイス タンブルで発展したカフェは、17世紀後半にヨー ロッパ人を魅了した。

 しかし、どの面から見ても、18世紀にはイスラ ーム世界の劣勢が目に見えるようになった。国家 にとっては、軍事面、産業面での遅れが致命的な 問題に思われた。オスマン帝国で西欧に範をとっ た改革が始まった。たとえば、1776年に最初の洋 式学校として海軍技術学校が、1793年には陸軍技 術学校が設立された。しかし、その直後に、西洋 の脅威を象徴する大事件がおこった。フランス軍 のエジプト遠征である。

「西洋の衝撃」への対応

 「西洋」が脅威としてイスラーム世界に巨大な 衝撃を与えたという点では、ボナパルトによるエ ジプト遠征(1798〜1801年)にまさる事例はない。 後にナポレオンを名乗るフランスの指導者は、オ

スマン帝国の弱体化につけこみ、イギリスの権益 を脅かすためにエジプトに軍を進め、イスラーム 世界に対する西洋の圧倒的な優位を見せつけるこ とになった。

 いうまでもなく、この「遠征」はエジプトにと っては「侵略」であった。しかし、太平の世に慣 れた旧式のマムルーク騎士軍は近代的なフラン ス軍に伍することなく、たちまち敗れた。この戦 いを「ピラミッドの戦い」というが、戦場自体が ピラミッドのそばだったわけではない。会戦がお こなわれたインバーバのあたりは、ピラミッドか ら何キロも離れている。長きにわたってエジプト の支配層であったマムルークたちの無惨な敗退は、 時代の転換を何よりも雄弁に物語っていた。  19世紀半ばになるとイスラーム復興の動きが始 まるが、それは、フランス軍の遠征が象徴してい る「西洋の衝撃」への対応でもあった。そこには、 西洋が持っている先進的な面を見て、それを吸収 して自分たちの文明の復興を果たそうとする流れ と、西洋に遅れをとったイスラーム世界の自己批 判と改革へ向かう流れが内包されていた。  西洋文明をつぶさに実見して、そのよさに学ぼ うとした代表的な人物として、リファーア=タフ ターウィー(1801〜73)がいる。彼はイスラーム 教育を受けたウラマーの出身で、エジプトからの 最初のフランス派遣留学生たちのイマームとして 随行しながら、自らも留学を願い出て、七月革命 期のフランスを実際に体験した。伝統的なウラマ ーが近代に目覚めたところは、非常に興味深い。 彼は帰国後、語学学校長や「官報」の編集の任に あたったほか、精力的に翻訳を行い、ルソーなど の啓蒙思想をエジプトに紹介した。タフターウィ ーは、西洋文明のポジティヴな面に強烈に惹かれ たが、その一方で、宗教としてのイスラームにつ いては確信を持ち続けていた。

京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

(5)

 タフターウィーを福沢諭吉と比較する研究も、 エジプト人歴史学者によってなされている。西洋 に学んで近代的な「文明開化」をもたらそうとす る点では、タフターウィーも彼の時代のエジプト も、明治日本の例とよく似ている。というよりも、 19世紀前半のエジプトは、西洋的な近代化におい て日本に先行する先進的な例であった。実際、オ スマン帝国から事実上の独立を遂げたエジプトは、 産業を興し近代的な軍隊を築き、中東の新しい覇 者となる勢いを見せた。それが日本のようにうま くいかなかった一因は、すでにこの地域を制圧し つつあった西欧列強が、エジプトの勃興も自立も 許さなかったことによる。19世紀後半には、エジ プトの紡績業はつぶされ、イギリスの工場のため の単なる綿花生産地とされてしまう。

 西洋文明の素晴らしさを称讃しつつも、その負 の側面をしっかりと見たのは、ジャマールッデ ィーン=アフガーニー(1838/9〜1897)であった。 イランで生まれた彼はサイイド(預言者ムハンマ ドの子孫)であり、自ら「アフガン人」と称して、 広くイスラーム世界を回った。インドを訪れた青 年アフガーニーは、そこでイギリスの植民地支配 を自らの目で見て、これこそがイスラーム世界に とっての脅威であると自覚した。その後の彼の軌 跡は、3大陸を飛び回る反帝国主義の革命家であ った。彼はウンマ(イスラーム共同体)の統一と アジアの連帯を訴え、汎イスラーム主義の主唱者 として知られている。

 ちなみに、現代では「汎イスラーム主義」はイ スラーム世界の連帯や協働を指す普通の名詞であ るが、当時のヨーロッパでは現在の「イスラーム 原理主義」のようなおどろおどろしい響きを持っ て使われていた。連帯して植民地主義に抵抗しよ う、と訴えるアフガーニーは、列強にとっての脅 威と見なされたのである。彼はエジプトにも数年 滞在し、弟子たちを育て、エジプトが後にイスラ ーム復興の中心地の1つとなる種をまいた。  19世紀前半のタフターウィーにとっては、西洋 化とイスラーム世界の再興は矛盾するものではな かったが、19世紀後半には、この2つは対立する

面をあらわにしつつあった。アフガーニーは、西 洋的な文明とイスラーム復興を合致させる道を模 索していたが、イスラームを捨てるか、あるいは 脇に置いて、西洋化を進めようとする近代主義も 広まり始めていた。アフガーニーにとっては、西 洋に学ぶにしても、あくまで目的はイスラーム世 界の復興であり、イスラームを捨ててでも近代性 を実現しようとする考え方には激しく反対した。

18世紀の改革構想

(6)

されるように、国家と宗教の連携によってイスラ ーム社会を運営する道を再興しようとした。  南アジアに誕生した指導者は、名をシャー=ワ リーウッラーという。近現代の南アジアのイスラ ームを語る際には、必ず名があがる重要な思想家 である。実際、現代のパキスタンやインドのイス ラーム運動や思想家たちは、誰もが自分たちの源 流として彼の名をあげる。ワリーウッラーは、本 来的なイスラームの回復と時代への適合性を求め て、イスラーム社会の改革を追求した。その改革 思想を受け継ぐ多くの弟子たちの中から、イギリ スの支配に抵抗するムジャーヒディーン運動も誕 生したし、また、後のデーオバンド学院の誕生へ もつながった。この学院に学んだ人々はデーオバ ンド学派と呼ばれ、現代の南アジア・イスラーム では重きをなしている。現在の世界最大級のイス ラーム布教組織であるタブリーギー・ジャマーア も、この流れに属する。

 18世紀の改革思想において最も重要なモチーフ は、伝統の積み重ねでイスラームを理解する道を 捨て、本源的なイスラーム、すなわち初期イスラ ームに回帰することを訴えたことであった。それ は、聖典クルアーンに回帰することを訴えるもの であり、また、預言者ムハンマドとその直弟子た ちの時代を強調するものであった。聖典はアラビ ア語で述べられており、初期イスラームは信徒の ほとんどがアラブ人であった。したがって、初期 イスラームの強調は、アラブ性の強調ともつなが っている。

 この点は、ワッハーブ運動も、南アジアのワリ ーウッラーも同じである。ワリーウッラーは著述 をアラビア語とペルシャ語で行ったが、クルアー ンとハディース(預言者言行録)を重視する立場 をとった。また、彼自身は神秘思想家の面も持っ ていたが、スーフィー教団の逸脱的な傾向につい ては厳しい批判的立場を貫いた。さらに、政治と 宗教の同盟によってイスラーム法を実施していく 考え方も、ワッハーブ運動と共通する面を持って いた。

 このようなイスラーム改革の流れは、内部的な

自己改革をめざすものであったが、それに加えて、 強烈な西洋の衝撃が生じた。ここに、西洋と近代 の挑戦にいかに応えうるかという課題が、イスラ ーム世界の自己改革と再生の課題となったのであ る。19世紀後半に、アフガーニーがその課題に応 えようと東西を奔走したことは上に触れた。しか し、実際には彼が生きている間に、中東、アジア、 アフリカの各地で列強による植民地化が急速に進 んだ。衰退の勢いを止めることは容易でなかった。

イスラーム改革

 「イスラーム改革」という言葉は、両義的であ る。「イスラームを改革する」意味と「イスラー ムによって改革する」意味が含まれている。前者 は、イスラームそのものの理解を旧態依然たる訓 詁学から解放して、近代的な新しい解釈を吹き込 む、ということを意味する。後者は、そのように 革新されたイスラームによって社会を改革する、 という意味である。しかし、この営為は容易なも のではなかった。

 改革派の前に立ちはだかったのは、一方では伝 統派である。ウラマーの権威やスーフィー教団の 制度に支えられた伝統的なイスラームは、新し い解釈を拒むものであった。他方、西洋化を推進 することで社会改革を行おうとする近代主義から 見ると、イスラームにこだわっていること自体が 時代遅れであった。さらに、20世紀に入る頃には、 ナショナリズムの諸潮流も生まれた。西洋起源の ナショナリズムは、アジアや中東の国々の独立を 求めるといっても、イスラーム国家を志向するの ではなく、世俗的な傾向が強かった。

(7)

はじめに

 本校は普通科を含む5学科の総合高校である。 普通科以外の4学科は3年次に世界史Aを履修す るため、実質上1月までしか授業が展開できない。 また、およそ生徒の半数が就職希望、残りの半数 が進学希望である。この進学希望者のほとんどが 推薦入試での大学進学もしくは専門学校への進学 という現状から考えて、全履修科目の中での世界 史Aの比重は決して高いものではない。

 また、各学科間の学力差だけではなく、学科内 での学力差も激しく、常に授業のレベルをどの段 階に設定するのか、最終的にどこまで進むのかと いう課題も抱えている。生徒には歴史的事実を通

して、「なぜそう作用するのか」「なぜこのような

結果が出るのか」という疑問を持ち、考えられるよ うになってもらいたい。そこで、授業では「多角的

なものの見方」「客観的な思考力」の二点の育成を

目標としてきた。近い将来、社会に出る高校生に は上記のような思考力や判断力を身につけ、実践 できる能力が求められてくるのではないだろうか。  これらを受けて今回は、『明解新世界史A 新訂 版』(以下、教科書)の「未来への第1章」を年 度初めに扱い、生徒各自が各テーマについて考察 することができる授業に取り組んでみた。本来な ら現代社会で扱うべき内容も多く含み、どちらか というと授業実践報告という色合いが強いが、紹 介させていただきたい。

人権教育の在り方と歴史教育

 ロングホームルームで人権教育に取り組む際、 「人権教育」という看板を掲げただけで、構えて

しまう生徒がいる。生徒が構えてしまえば、授業 者もそれを意識してしまい、十分な学習ができな いおそれがある。個人的には本質的な人権教育は

ロングホームルームのような特別な時間だけでは なく、日常の教育活動の中で展開されるべきであ ると考える。

 日本史、世界史を問わずに「歴史」という教科 はこの話題に自然とふれることができる便利な教 科である。しかし、「自由」や「平等」がいかに して確立していったか、という権利の拡大の歴 史だけを学ぶのでは、「人権教育」とはいえない。 生徒にとってつかみどころのない「人権」を学ぶ 際にはどうしても身近な視点が重要であり、その ために授業者は適切な題材を設定する必要がある。  概してこれまでの人権教育の中では「差別を しない・許さない」「社会的弱者に対する思いや り」などの観点が比較的重要視されてきたよう に思う。しかし、18歳で社会に出る生徒に対して はうっかりしていると埋もれてしまうような「自 分の人権」を周りに流されることなく、高い意識 を持ち、自分で守っていくという能力や姿勢が求 められるのではないだろうか。つまり、自分で考 え判断する、そして必要に応じて行動するという 問題解決能力が求められていると考える。前述し たように、私の授業の観点は「多角的なものの見 方」「客観的な思考力」の育成にある。世界史の 学習を通して、生徒が知らず知らずのうちに、自 ら考え判断できるようになっており、さらにはそ の判断に伴った言動ができるようになることが理 想である。

 年度初めに「未来への第1章」を実施する目的 は、「なぜ世界史を勉強するの?」という問いに 対する答えを暗に示すことができるのではないか、 という狙いもあったからである。

授業の構成

 授業を行うに際、多くの先生方同様に授業プリ ントを用意している。

世界史A 再考 指導計画立案のコツ

人権をテーマに考える世界史授業

(8)

 授業プリントを用意するメリットは、①進度の 確保、②授業内容の明確化、③生徒の復習のしや すさ、④板書の容易化などである。以下に示すの

が、「未来への第1章」の「1 人間の権利と自由」

のプリント例である。

 「未来への第1章」は3節あり、他の2節には

各1時間を当てたが、第1節には2時間あてた。 大まかな授業展開は以下のとおりである。  ① 導入

・今年4月に起こったアメリカ・ヴァージニア 州の大学での銃乱射事件を取り上げ、アメリ カにおいていかに銃犯罪が深刻な問題である かを紹介する。そして、一方で銃規制に反対 する人々が掲げる「武器を持つ『自由』」と いう主張も紹介し、「自由とは何か」につい ての問題提起を行う。

 ② 展開Ⅰ〜人権拡大の歴史〜

・人類になぜ階級が生じたのかを説明し、下層 階級がどのような扱いを受けてきたかを簡単 に紹介する。

・13世紀のイギリスにおけるマグナ=カルタか ら、17世紀の権利の章典の発布までの権利拡 大の歴史を簡単に紹介し、権利が「富裕層か ら順に」拡大していくことを説明する。しか し、深入りはしない。

・18世紀のアメリカ独立革命、フランス革命時 に出された独立宣言や人権宣言の条文などか ら「自由」「平等」の概念が富裕層だけのも のではなくなりつつあることに気づかせる。 ・18世紀の自然権・社会契約論・啓蒙思想など の思想が人権意識を向上させたことを、思想 の詳しい中身にはふれずに紹介する。 ・19世紀のヨーロッパにおける参政権の拡大に

みる人権の拡大とヨーロッパ諸国の植民地内 での先住民への人権侵害の矛盾はなぜ起こる かを考える時間を設ける。

・20世紀のヴァイマル憲法における社会権の登 場を簡単に紹介する。

・第二次世界大戦後の世界人権宣言においてこ れまでヨーロッパの人々にしか適応されてい なかった人権が旧植民地の人々にも適応され たことを紹介し、宣言の上では全地球人の人 権が保障されていることを説明する。  ③ 展開Ⅱ〜現代の人権問題〜

(9)

・女性の人権問題として、教科書本文に紹介の あった「名誉の殺人」を『生きながら火に焼 かれて』の著書を参照しながら説明する。 ・同じく、女性の人権問題としてインドのサティ

ーについて教科書p.127を参照して紹介する。 ・人種差別の現状をおもに生活格差に視点を置

いて簡単に説明する。  ④ 深化

・「あなたは、自分および他の人の権利・自由を 守るためにどのような努力をすべき、または していきたいと考えますか?」という問いを 投げかけ、人権問題が遠い昔、遠い国の話では なく、身近な問題であるという問題提起を行う。 ・この節での①導入の問いかけと④深化での上

記の問いかけおよび、「未来への第1章」の 他の2つの節でも同様に2つずつの問いかけ を行い、すべてあわせた6つのテーマを設定 し、その中から、一つを選び800字以内で自 分の考えを述べる、という課題を夏休み課題 として課す。

 ①導入から②展開Ⅰまでに1時間、③展開Ⅱか ら④深化までに1時間という時間配分で授業を展 開した。授業における生徒の取り組み態度は概 して積極的であった。これは本校の生徒の特色で あるが、授業に対しては積極的に参加し、反応も よい。授業にて紹介した『生きながら火に焼かれ て』の本を貸してほしいと申し出た生徒がいたり、 自ら購入して読んでいたり、なかには保護者の方 が生徒から話を聞いて、本を購入したというとこ ろもあった。しかし一方でその姿勢が家庭学習に なかなか結びついていかないという問題点もある。 そのため、どの教科も課題を課すことが多いが、 あくまでもその場の課題で終わってしまい、生徒 個人の自発的学習を促すには至っていない。この 点は今後各教科あるいは学校全体で取り組んでい かねばならない大きな課題である。

生徒の反応

 前述したように、授業における生徒の反応はよ く、その場で質問したり、感嘆の声を上げたりと

本当に素直かつ率直なものである。しかし、授業 中の反応ではなく、その後生徒自身が「学習内容 をどのように捉え、考察し、行動に結びつけてい くか」、もしくは「自己の考え方の幅を広げてい くのか」ということが「真の生徒の反応」ではな いかと思われる。学習内容の一部を家庭での話題 とし、保護者の方が本を購入した、という事実は 「生徒がその学習内容をしっかりと受け止め、一人 でも多くの人に話すべきだと考え、身近な保護者 に話をするという行動に出た」ととらえることも できる。しかし、このように目に見える行動をす ることは極めてまれであり、ほとんどの生徒は学 習内容に対する復習や考察はできていない。また、 それについて「自分なりに考える」という段階に いたる生徒も決して多くはないだろう。できれば 多くの生徒にそれぞれの感性で考察し、深化して いってほしい。そこで今回は、授業中に考える時 間を設けるだけではなく、夏休みに課題を出すこ とにした。このことで、強制的ではあるが通常に 比べて「自分なりに考える」ことができたのでは ないだろうか。つぎに生徒のレポートから、生徒 の「自分になりに考えた」結果を考察してみたい。

 夏休みの課題

1 「武器を持つ『自由』」に対してあなたはどう考え ますか?

2 自分および他の人の権利・自由を守るためにどのよう な努力をすべき、またはしていきたいと考えますか?

3 関係がこじれてしまえば、異文化異教徒の人々と 理解しあうことはできないのだろうか? 4 「誤解」や「偏見」を克服するために何に取り組む

べきと考えますか?

5 現在繰り広げられている戦闘に対して我々はどの ような関わり方をすべきと考えますか? 6 我々の生命を国家だけに任せるのではなく、我々

も真剣に取り組んでいかねばならない現在、あな たはまず、何に着手しますか?

(10)

同様の問い方を行った。

 6つのレポート課題に対して、生徒が「人間の 権利と自由」を選択した割合は2つあわせると47 %となった。理由の一つとして「2 対立からたが いの理解へ」という異文化理解の問題や「3 と もに生きる世界を築くために」という平和問題よ りも、権利や自由のほうが生徒にとってはより身 近で書きやすい題材であったことが考えられる。 また、初めに扱ったテーマのほうのインパクトが 強かった可能性があり、このテーマだけ2時間扱 ったことから、より理解が深まっていたと考える こともできる。しかし、「1 人間の権利と自由」 を選択した47%の生徒(84人)中、課題番号1の 「武器を持つ『自由』」という具体的な事例に対す る課題のほうを選択した生徒は79%(全体の37%) であった。このことから、生徒各自が「自分なり に考える」なかで、「具体的事例に対する賛否」 を考えることはできても、「どのように行動して いくべきか」という今後自分のとるべき行動への 考察はできていなかった、言いかえると、生徒は 「他人事には意見できるが、自分はどうすべきか わからない状態」と考えることがきできる。これ は、他のレポート課題について生徒が述べたもの においても同様の結果が出た。

 課題番号1、2を選択した生徒のレポートから、 「自由とは何か」「今後自分が取るべき行動」に言

及しているものを挙げてみる。

・武器を持つ自由のために、武器を持ち、誤って 人を傷つけたり、殺したりしてしまえば、人の 持つ「自由」を奪うことになり、最終的には刑 務所に入ったり、罪を背負ったりして自分の自 由を奪ってしまうことになるから自由ではない。 ・自分をしっかり理解し、自分がされて嫌なこと

はしない。

・個人がこのこと(自分や他人の権利)について しっかりと考えなければならない。我々にでき ることは、考え、実行し、それを繰り返すこと。 ・相手の立場や自分の立場をわきまえて、自分の

思っていることを相手にわかりやすく伝える。 ・相互理解と対話。

・自由には「責任」が、権利には「義務」がある ことが前提だ。

・いじめられている人を見て助けてあげられるか どうかは自分や人の自由を守ることができるか どうかの試験だ。

 上手く表現できていない生徒もいるが、多くの 生徒はまず他人の権利を守ることが大切だと述べ ていた。また、「武器を持つ『自由』」に対しては ほとんどすべての生徒が「反対」であり、その理 由は人の命を奪うような「自由」は認められない というものであった。66人中2人が「武器を持つ 『自由』」に対して賛成であったが、この2人の主 張は武器を持つ自由を認めるが、「銃の所持は免 許制にする」もしくは、「倫理教育を施していく」 などの条件付のものであった。

 今回は似たような主張が出てきたが、そこに至 る考察の過程や結果としての行動はそれぞれに違 いが出ることがあってしかるべきである。そして、 様々な異なる主張が出てくることによって、自分 では思い至らなかった視点があること、そしてそ の効果に気づいてほしい。そのために、今後はも う少し学習内容を整理し、多様な意見が出やすい 素地の構築やレポート課題の設定が必要である。 また、生徒のレポートを添削し、精度をあげて一 つの冊子にまとめることで生徒が知識や視点の共 有をできるような取り組みを行っていきたい。

さいごに

(11)

はじめに

 昨年、高校の必修科目の未履修が話題となり、 とくに世界史Aはその渦中にあった。当時、私は 前任校で世界史A・Bを担当していたが、世界史 は高校生として必ず学ぶべき科目だとあらためて 痛感した。必修科目だからではなく、国際社会を 生きる生徒に世界史は必要不可欠の知識といえる。  このこともあって、①現在の中学校では世界史 に関してどれくらい学習をしているのか、②この 実態をどのように周知すべきか、③どのように高 校世界史を展開すべきかなど、自らに課題を課した。

中学校での世界史に関する学習内容の削減

 岐阜県公立中学校使用の「歴史的分野」の教科 書について、世界史に関する記述内容が新課程に おいてどれだけ削減されたかを調査した。

<登場人物の人数について>

 旧課程65名 → 新課程28名、約43%に削減  −新課程教科書に登場する人物−

イエス、シャカ、孔子、始皇帝、チンギス=ハン、 フビライ、マルコ=ポーロ、コロンブス、ルター、 バスコ=ダ=ガマ、マゼラン、フランシスコ=ザ ビエル、李舜臣、ナポレオン、ビスマルク、リ ンカーン、孫文、袁世凱、レーニン、ウィルソン、 ガンディー、ルーズベルト、スターリン、ヒト ラー、ムッソリーニ、蒋介石、アンネ=フランク、 毛沢東

 新課程になって、ダ=ビンチ、マホメット、ガ リレイ、モンテスキュー、ワシントン、マルクス など、主要人物37名が教科書から消えた。モンテ スキュー、ルソー、ロックの名は、公民的分野の 教科書にも登場していない。

<世界史用語について>

 用語については、次のページに示す表のとおり である。この表は、旧課程の教科書に登場した世 界史用語が、新課程においてどれくらい削減され たかを、一目で把握できるように作成した。表中

太字が新課程の教科書でも掲載されている用語

であり、細字は削減された用語である。時代区分 や地域区分は極めておおまかで、正確さに欠ける 点もあるが、どの地域・時代の内容が大幅に削減 されているかは一目瞭然である。

 この表から、次のようなことが把握できる。

(1)古代ギリシア・ローマ史が全部削除された。 (2)中世ヨーロッパ史も、ほぼ皆無に近くなった。 (3)ユダヤ教・イスラム世界の記述が削除された。 (4)ヒンドゥー教の成立過程が削除された。 (5)「ルネサンス」は、語句のみ残った。 (6)イギリス市民革命が削除された。

(7)社会主義の説明、マルクスの名が削除された。 (8)奴隷貿易・奴隷解放宣言が削除された。 (9)中国・朝鮮史は、従来とほぼ変わらない。 (10)第一次世界大戦以降も、ほぼ従来どおり。 (11)アジア・アフリカの独立が削減された。 (12)東西対立の経緯の説明が簡略化された。

 要するに、新課程になって世界史用語数が全体 の約3割から2割に減少し、中国・朝鮮史重視、 帝国主義以降重視(しかも日本中心)という、地 域・時代偏重となった。したがって、古代ギリシ ア・ローマ史も、イスラム史も学習されない。イ スラム史にいたっては、イスラム教の名も、アラ ーも、マホメットの名も知らないまま、同時多発 テロやイラク戦争のニュースに遭遇する。社会主 義の意味がわからないまま、冷戦崩壊を学ぶ。米 国に多くの黒人の人たちがいる理由も、しっかり 理解しているか不安である。

●中学校「歴史的分野」新・旧課程の学習内容を比較して

生徒の実態に即した「世界史A」の授業展開を考える

(12)

中学校における世界史学習の実態の周知

 問題なのは、このような事態が生じていること を世の大人たち、教師たちがどれほど把握してい るかということである。また、昨年のような世界 史の未履修という事態があると、未履修の対象と なってしまった生徒は、上述程度の世界史の知識 しか学習しないことになる。このような実態を把 握したうえで、各教科の授業を展開する必要があ る。以下は他教科の学習内容の実例である。

―国語の例―

 紀元前八世紀から前五世紀までの春秋時代は、 諸侯が覇を競う抗争の時代であった。この時代の 末期に長江の下流域に国境を接した呉・越の両国 は、互いに報復を繰り返し、存亡をかけた争いを 続けていた。

(大修館「国語総合」−臥薪嘗胆−)

―数学の例―

 ローマ文化は今からおよそ2600年前、イタリア 半島の中部に建設された都市国家から発展した。 このころから用いられている数字をローマ数字と いい、……、ローマ数字は現在まで受け継がれて いる。

(実教出版「数学基礎」−古代ローマの記数法−)

―理科の例―

 古代ギリシアでは、「こはく」をこすると軽い物 体を引きつけることが知られていた。ギルバート (イギリス、1544〜1603)は「こはく;エレクトロ

ーン」にちなんで「電気」と名づけた。

(数研出版「物理Ⅰ」−電磁気学の誕生−)

―音楽の例―

 古代ギリシアでは、音楽、詩、舞踊が生活と密 着しており、祝祭、饗宴、競技、戦争などと深い 結びつきを持っていたといわれる。

(教育出版「音楽Ⅰ」−ギリシアの音楽−)

―英語の例―

During the period 1000 to 1200,most medieval church builders used the round arches,domes,and horizontal lines of Roman architecture.

(増進会出版社「速読英単語上級編」)

 このように、他教科でも世界史に関わる学習内 容が登場するが、旧課程程度の世界史の知識を生 徒が有していると思って授業をするのは好ましく ない。われわれが高校世界史を授業する場合、中 学校での世界史の学習内容や他教科の世界史関連 の学習事項を把握し、そのことを他の教科担任に も周知するようにすべきだと考える。

アフリカ ヨーロッパ 西アジア 南・東南アジア 中国・朝鮮・日本 アメリカ 全  体

先 

アウストラロピテクス クロマニョン人 アルタミラ ジャワ原人 北京原人 火・言葉の使用 原人 氷河時代 打製石器

磨製石器 土器 旧石器時代 新石器時代

古 

エジプト文明 ナイル川

太陽暦

ピラミッド

ナイルのたまもの 象形文字

アルファベット ギリシア文明 都市国家 ポリス アテネ オリンピア 民主政治

キリスト教 ローマ字 ローマ帝国 キリスト教迫害 スパルタクスの反乱 キリスト教公認 西ローマ帝国

オリエント メソポタミア文明

ティグリス・ユーフラテス川 六十進法 太陰暦 くさび形文字 バビロニア

ハンムラビ法典 ペルシャ ユダヤ教 ユダヤ人

インダス文明 モヘンジョ・ダロ

アーリア人 バラモン カースト制 仏教 ヒンドゥー教

黄河 中国文明  甲骨文字  儒学 儒教 春秋・戦国時代

 兵馬俑 万里の長城 漢 楽浪郡 紙の発明 遊牧民族

高句麗 シルクロード    漢民族

四大文明 奴隷 文字の発明

中 

カイロ 東ローマ(ビザンツ)帝国 ギリシア正教

正教会 スラブ人 ゲルマン人 農奴 ローマ教皇

カトリック教会 聖地巡礼 十字軍 封建制度 諸侯 騎士 フランク王国 ラテン語 大学 ギルド 「都市の空気は自由にする」

イスラム アラー メッカ コーラン イスラム帝国 バグダッド アラビア語 アラビア数字 アルカリ エルサレム

百済 新羅 任那 白村江の戦い 南北朝 均田制 隋 大運河 遣隋使  租庸調 律令 長安 遣唐使

唐三彩  朱子学 陽明学 羅針盤 火薬 印刷 禅宗 モンゴル帝国  大都 元寇 『西遊記』 高麗  李氏朝鮮 ハングル 琉球

近 

スエズ運河 アフリカ分割 エチオピア リベリア

ルネサンス 『神曲』 ダビデ像 地動説 火薬 羅針盤 印刷術 ポルトガル スペイン 喜望峰 インド到達 免罪符 宗教改革 プロテスタント イエズス会 カトリック 農民戦争 オランダ独立

無敵艦隊 植民地 絶対王政 官僚制 常備軍 ロシア 工場制手工業 権利の章典 清教徒革命 共和政 名誉革命 三権分立 人民主権 議会政治

社会契約説 啓蒙思想 百科全書派 人権宣言 フランス革命 国民議会 バスティーユ牢獄 ロシア遠征 共産党宣言 産業革命 世界の工場

『諸国民の富』 『共産党宣言』 保守党 労働党

シベリア鉄道 鉄血政策 ドイツ帝国 農奴解放

バルカン半島 クリミア戦争 ドイツ憲法

社会民主党 ルーブル美術館 ロマン主義

インドの植民地化 ムガル帝国

セポイ インドの大反乱 香辛料

インドシナ植民地

タイ独立維持

フィリピン併合 太平洋分割

 広州 三角貿易 アヘン戦争 太平天国 南京条約 不平等条約 香港 上海 南京 領事裁判権 江華島事件 日朝修好条規 甲午農民戦争 東学 台湾総督府 日清戦争 下関条約 三国干渉 台湾・膨湖諸島割譲 中国分割 遼東半島 旅順 大連 九龍半島 威海衛 膠州湾 義和団事件 満州 日英同盟 日露戦争 ポーツマス条約 大韓帝国 韓国統監府 韓国併合 朝鮮総督府 三民主義 辛亥革命 中華民国 南京

アメリカ大陸 アステカ帝国 インカ帝国 銀山

インディアン 黒人奴隷 代表なくして課税なし

合衆国憲法 独立宣言

奴隷解放 西部開拓

南北戦争 大陸横断鉄道

ハワイ併合

民族主義 労働者 資本家 資本主義 社会主義 帝国主義 世界分割 列強

現 

労働党内閣 ヨーロッパの火薬庫 セルビア人

サラエボ オーストリア皇太子夫妻暗殺 西部戦線

戦車 毒ガス 飛行機 共産党 ペトログラード

ロシア革命 ソビエト シベリア出兵 ソビエト社会主義共和国連邦 一党独裁 干渉戦争 五か年計画 ワイマール憲法 ナチス

ナチス政権 ファシスト党 ファシズム 全体主義 エチオピア侵略 ポーランド攻撃 独ソ不可侵条約 ユダヤ人迫害 アンネの日記 レジスタンス

日独防共協定 日独伊三国同盟 枢軸国

ユダヤ人 非暴力・不服従

インド独立運動 二十一か条の要求三・一独立運動  中国共産党五・四運動 中国国民党 国民政府 満州国 満州事変 抗日民族統一戦線 柳条湖 日中戦争 盧溝橋事件 真珠湾攻撃 太平洋戦争 ミッドウェー海戦 ポツダム宣言

ニューディール 第一次世界大戦 同盟国 連合国 国際連盟 常任理事国 民族自決 ベルサイユ条約

ベルサイユ体制

ワシントン会議 世界恐慌 ブロック経済 ロンドン軍縮会議

ワシントン軍縮条約破棄

第二次世界大戦

ヤルタ協定

戦 

アフリカ諸国

の独立 北大西洋条約機構ドイツ連邦共和国 ハンガリーの民主化介入 ドイツ民主共和国 チェコスロバキアの民主化介入 ベルリンの壁

ワルシャワ条約機構 ヨーロッパ経済共同体 ヨーロッパ共同体 ヨーロッパ連合 ポーランドの自主的労働組合 東欧諸国の民主化 ソ連の解体 東西ドイツの統一 ベルリンの壁崩壊

イスラエル パレスチナ

中東戦争 第四次中東戦争 インドネシア独立インド独立 パキスタン独立 ビルマ独立 フィリピン独立 ベトナム分割

ベトナム戦争

アフガニスタン戦争 東南アジア諸国連合

中華人民共和国 大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国 朝鮮戦争 文化大革命

サンフランシスコ平和条約 日韓基本条約 日ソ共同宣言 日米安全保障条約 日中平和友好条約 天安門事件

韓国・北朝鮮の同時国連加盟

キューバ危機

北米自由貿易協定国際連合アジアアフリカ会議 冷戦 緊張緩和 第三世界 南北問題

国際人権規約 石油危機

世界環境会議 地域紛争 世界人権宣言 環境問題 地球サミット アジア太平洋経済協力会議 新興工業経済地域

(13)

「世界史A」の授業展開にあたって

 以上の実態をふまえて、以下をポイントとして 「世界史A」の授業を展開したい。

(1)各単元において、中学校での学習内容を意識 し、その実情に即した授業を工夫する。 (2)諸宗教については、その成立課程からしっか

り把握させ、現代社会との関連を理解させる。 (3)身近な話題を豊富にし、生徒の興味・関心を

高めさせるように努める。

(4)他教科の学習内容とも関連させ、多角的に考 察する資質を養わせる。

具体的な授業展開例

 次に「明解新世界史A」に即して、具体的な授 業の展開例を紹介する。

―周の成立に関して―(p.10)

 「太公望」や「覆水盆に返らず」の故事を、生徒 全員が持っている国語の副教材を利用して説明し、 他教科との関連を意識させる。また、英語の重要 慣用句の例文 It is no use crying over spilt milk.の 和訳であることにふれてもよい。

―仏教の成立に関して―(p.26)

 身近な「仏教語」から、仏教の教えを理解させる。 「因縁」「縁起」「達者」「玄関」「四苦八苦」「解脱」 など、仏教を語源とする語はたいへん多い。それ だけ仏教が日本人に与えた影響が大きいというこ とも、実感させることができる。インターネット で「仏教語」と検索させてみるのもよい。

―エジプト文明に関して―(p.34)

 クフ王のピラミッドの底辺の周囲920mを最初の 高さ146mの2倍で割る計算をさせ、当時の測量方 法やその正確さを考えさせる。

 オリエントの文明が現代文明の基礎となってい ることを、ピラミッド以外の例も示して理解させ る。

―ゾロアスター教に関して―(p.35)

 なぜ社名MAZDAがMATSUDAではないのか を、インターネットなどで調べさせて、社名をつ けるのにも世界史の知識が役立つことを示すとと もに、西アジア地域の歴史に関する関心を高めさ せる。

―イスラーム世界に関して―(p.36〜)

 イェルサレムは三教徒の居住地域であり、写真 の各々の居住区・建物の位置関係を考えさせると、 中東問題が解決困難な理由を視覚的にも把握させ やすい。

39

岩のドーム

キリスト教徒居住区 ユダヤ教徒

居住区 嘆きの壁

ムスリム居住区

「明解新世界 史A 新訂版」 p.39

―古代ギリシアに関して―(p.44〜)

 タレスのピラミッドの高さの測定、ピタゴラス の音階の研究、アルキメデスの浮力の原理・円周 率の近似値、エラトステネスの地球の周囲の測定 などを紹介すると、自然科学史に関する関心を高 めさせることができる。

 また、 ギリシア 語語源の ことばを 紹 介 し、 θやΣな どが数学

や英語の発音記号にも使われていることを説明す ると、理解を深めさせることができる。

古典ギリシア語 ローマ字で表記した場合と 古典ギリシア語での意味 ここから派生 した英語

は せい

ΘΕΑΤΡΟΝ ΧΑΡΑΚΤΗΡ ΒΙΟΣ ΣΧΟΛΗ ΤΕΧΝΗ

テアトロン

カラクテール

ビオス

スコレー

テクネー

theatron kharakter bios skhole tekhne

劇場 印,特徴

生命 ひま,討論

技術

theater character biology school technic technique

「明解新世界史A 新訂版」p.46

―古代ローマに関して―(p.45〜)

 ユリウス=カエサルがJulyの、アウグストゥス がAugustの語源であることや、なぜ2月が28日 間なのかを教えることによって、この時代のこ とがらが現在にも継続していることを実感させ る。

 また、Romaniaという国名の意味や、ラテンア メリカの命名理由を考えさせ、別の視点からの古 代ローマの遺産に気づかせる。

 以上は、紙面が許す限りのほんの数例であるが、 私の意図するところはご理解いただけたと思う。

おわりに

(14)

はじめに

 かな文字や契丹文字、女真文字、字チューノム喃など東ア ジア各地で独自の文字が創製されたころ、中国西 北方で生まれた文字が西夏文字である。

 西夏文字は1030年代、西夏(1038〜1227年)の 初代皇帝李り元げん昊こうが支配者階級のチベット系タング ート族の言葉(西夏語)を表記するために、学者 野や利り仁じん栄えいにつくらせたとされる。一文字で一音節 を表示する表意文字であり、合わせて約六千字が 知られている。

 今この文字を用い、西夏語を話す者はいない。 誰も使わなくなっていた西夏文字がどのようにし て解読されたのか、なぜこのような文字をつくっ たのか、西夏文字はどのような特徴を持っている のかを簡単に説明する。

1 西夏文字の発見と解読

 西夏文字は西夏滅亡後も16世紀の明代まで使用 されていたことが確認されているが、その後この 文字を用いる者はいなくなった。19世紀末になっ て、いくつかの碑文や古銭に刻まれている奇怪な 文字が西夏文字であると認識され、さらに1908年 には、ロシアの探検隊がカラホト遺跡(別名黒こく水すい 城

じょう

。中国内モンゴル自治区エチナ旗)から大量の 西夏文字資料を発見し、研究が徐々に進んだ。20 世紀後半には、日本の西にし田だ龍たつ雄お・京都大学名誉教 授らによって文字の意味や発音などが体系的に解 明された。現在、約8割の文字の意味が明らかに なっており、字書も刊行されている。

 西夏文字の解読が進んだ理由は、西夏語と漢語 のバイリンガル資料やチベット語・漢語(中国語) から翻訳された資料が豊富に存在したことにある。 カラホト遺跡からは、西夏語と漢語対訳の単語帳

(図1)が発見され、主要な文字の意味や発音が

明らかになった。このほかにも、発音別に配列さ れた西夏文字の字書が発見されたことにより、西 夏語の音韻体系が解明された。

 一般に10〜12世紀の西夏や遼(契丹)、金(女 真)や日本など、中国の周辺諸国ではこの時代、 中国とは一線を画した独自の「国風文化」が花開 いたとされているが、西夏では中国(当時は宋) やチベットの文化を排除することなく貪欲に吸収 し、それらを西夏語に翻訳、出版していた。とく

に『孫子』『孝経』など中国の著名な古典や、漢語・

チベット語の仏典が西夏語に翻訳されていたため、 そうした訳本の存在も解読の大きな助けとなった。  一方、西夏の隣国遼・金でつくられた契丹文字 と女真文字については、漢語とのバイリンガル資 料や漢語からの翻訳資料が極めて少ない。そもそ も翻訳事業そのものが遼・金ではあまり行われな かったらしい。その結果、西夏文字ほど解読が進 んでいないのである。

2 なぜ独自の文字をつくったのか?

 筆者は、大学の講義や高校での講演などで西夏 文字を書いてみせることがある。その時に聴衆か ら寄せられる声の多くは、「こんな複雑な文字を

西夏文字に親しむ

神戸市外国語大学非常勤講師 佐 藤 貴 保

世界史を楽しく教えるコツ 身近な切り口から入る授業展開例

(15)

使わない日本に生れてよかった」「西夏はなぜこ んな難しい文字をつくったのか?」「実用性は無 かったのではないか?」といったものである。  西夏の支配地域には西夏による征服以前から多 数の漢族やチベット族、ウイグル族が居住し、そ れぞれ独自の文字をすでに持っていた。実際、漢 字やチベット文字は西夏による征服後も従来どお り使用されていた。ならば、征服当初文字を持っ ていなかったタングート族には、既存の漢字やチ ベット文字を借用して西夏語を表現するという選 択肢もあったはずである。にもかかわらず、なぜ 独自の文字を創製したのか。その理由の一つには、 タングート族独自の文字を持ちたいという征服者 の願望があげられるかもしれない。

 しかし、タングート族が独自の文字を作成した 背景には他の要因も考えられる。それは、西夏語 の持つ特性である。西夏語には105種類にも及ぶ 韻母(母音)が存在する。これに30種類以上の声 母(子音)が加わる。さらに、日本語や漢語のよ うに、同音異義語が多数あるため、表音文字だけ では不都合な場合が多い。このような西夏語の特 徴を文字で表現するために、既存の文字を借用す るのではなく、新しい文字を創製する選択を採っ た可能性も考慮されるべきである。

3 西夏文字は本当に難しいのか?

 教科書や図説の写真、そして前節で引用した聴 衆の意見にもあるとおり、たしかに、西夏文字は 見るからに画数の多い複雑な文字である。最も画 数の少ない字でも四画ある。このような文字が本 当に実用されたのかという疑問が出ても無理はな いだろう。

 ただ、カラホト遺跡から発見された資料の中に は、西夏の役人たちが残した西夏文字の手紙や練 習帳が含まれており、実用されていたことは確か である。字の複雑さだけでは、実用性の有無は論 じられない。

 そもそも、西夏文字は漢字よりも難しいのだろ うか。西夏が建国された当時、東アジア世界で使 われていた漢字は、一般に「旧字体」と呼ばれる 画数の多い文字である。現在日本の学校で教えて いる常用漢字の多くは、太平洋戦争後につくられ

た、画数を減らして簡略化した新しい漢字であり、 それ以前は旧字体で表記していた。中華人民共和 国ではさらに簡略した「簡体字」がつくられてい る(台湾では旧字体を現在でも使用)。西夏文字 と漢字の画数を比べる際に、日本の常用漢字と比 べても意味がない。当時の人々の目線で、つまり 当時使われていた旧字体の漢字と西夏文字とを比 較して考えなくてはならない。

 実際のところ、西夏文字の方が旧字体の漢字よ りも少ない画数で書けるものが多数ある。たとえ

ば、「サクラ」は西夏文字では16画の字で表記する。

日本の常用漢字では「桜」と10画で書けるが、旧 字体では「櫻」と書き、21画にもなる。

 数字の表記の場合はどうか。私たちは日付など を漢数字で書く場合「一、二、三・・・」と表記 する。総じて西夏文字とは比較にならないほど画 数は少ない。だが領収書や帳簿など、改ざんされ ては困るような数字を記す場合には「壱(または 壹)、弐(または貳)、参・・・」という「大字」 とよばれる画数の多い表記を使う。西夏の人々の 識字率はあまり高くなく、読み書きができるのは 役人や商人、僧侶ぐらいであったものとみられる。 彼らにとって数字を使用する頻度が最も高いのは、 物品の数量などを帳簿に記録するときである。そ

こで西夏文字の数詞と漢字の大字とを図2で比べ

てみると、西夏文字の方が漢字の大字よりも少な い画数ですむ場合が多いことがわかる。

参照

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