− − 広域的な交流・統合−その解体−再統合という サイクルで世界史をとらえるこころみの第2回は、 3、4世紀から解体に向かった世界帝国・地域世 界とそれらの間の交流が、隋唐帝国やイスラーム 世界を中心として大規模に復興し、それがまた分 裂・再編されてゆくプロセスを、12世紀ごろまで 追いかけてゆく。『タペストリー』12〜23ページ の大きな地図を広げながらお読みいただきたい。
中央ユーラシアと隋唐帝国
第1回で述べたように、古代に世界各地で成立 した帝国や文明はどれも、高度な普遍性をもつ一 方で粗雑・未熟なものだった。3、4世紀以後の 世界史は、古代の栄光が失われた「暗黒の中世」 などではなく、より緻密で各地の実情に合った統 合を求める、前向きの模索の過程(しばしば辺境 の新勢力が新時代を開く「辺境革命」のかたちを とった)と見ることができる。たとえば、この時 代の破壊の元凶のように見られがちな中央ユーラ シア世界では、柔然が可汗号を用い、突厥が独自 の文字を創始するような革新があいついだ。 遊牧国家の強化とはちがった、中央ユーラシア 発のもうひとつの実験は、「侵入」「帰順」のいず れにせよ、中華帝国に「参入」することであった。 北魏〜隋唐の支配集団が鮮卑系であったことはよ く知られているが、そこに突厥、ソグド、唐末以 後の沙陀などさまざまな中央ユーラシア系の集団 が参入してきた具体的な様子が、近年発見された 大量の墓誌などからつぎつぎと明らかにされてい る。左右のシンメトリーを重んじる都城プランや 官制(最初のアイディアの多くはインド起源かも しれない)だけでなく、律令制を核とする整った 制度への美意識は、中央ユーラシア系など外部の 影響抜きには理解しにくいだろう。
一方で南朝は、さまざまな南方民族を巻き込み ながら、積極的な江南開発や南海貿易という別の 実験を進めており、そこに華北と違った文化が花 開いた。後代に多くの影響を残した隋唐世界帝国 の整った制度と華やかな文明は、漢民族だけのも のでは決してなく、多くの民族が協力し、中央ユ ーラシア系の軍事力と商業ネットワーク、整った 国家体制、そして南方の文化と農業生産力など多 様な要素を総合して作り上げたものだった。 これらの点で隋唐帝国は、秦漢帝国と「同じ中 国」ではない。「国外」での突厥や吐蕃とのゆる やかだが多面的な結びつきも、漢と匈奴の関係以 上に深いものだった。隋唐でできた、中央ユーラ シアを不可分の構成要素とする多元的な連合帝国 としての「大きな中華」の流れは、遼・金をはさ んで元さらに清へと続く。漢民族だけの「小さな 中華」は中国史の本流ではない。だから、力の落 ちた唐宮廷がウイグルや沙陀の助けを仰ぐような ことは、別に恥辱ではない。「大きな中華」にお ける遊牧民やオアシス民を、文化的に劣った侵入 者であったために長期的には漢化されてゆくなど と理解するのは、漢民族中心の国民国家が一貫し て存在したという立場からの偏見にすぎない。
イスラーム世界とムスリム=ネットワーク 隋唐帝国が成立に向かう6世紀、ユーラシア西 方では、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国がそれ ぞれ、交易・交流のネットワークを東方に伸張さ せていた(タペストリー 12〜13ページ)。ユーラ シアの東西どちらも、形のうえでは1、2世紀ま での世界帝国の継承者によって再統合され、それ らが一時的には活発な東西交渉を再開した。しか し、アラビア半島発の「辺境革命」ととらえられ るイスラームの成立、またそれに先行したゲルマ
連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第2回
隋唐・イスラームの統合から国風文化の時代へ
− − − − ン人の移動は、旧帝国への参入・再編ではすまな
い根本的な構図の変化を、ユーラシア西方にもた らした。7世紀にユーラシアの東西に並び立った イスラーム世界と中華世界のあいだでは、8世紀 になると、タラス河畔の戦いのような衝突をとも ないながらも、海陸のムスリム商人を主役とする、 かつてない大規模な東西交流が実現した(タペス トリー 16ページの「イドリーシーの地図」「ネッ トワーク・ナビゲーター」なども参考になる)。 イスラーム世界というと「常人には理解しがた い厳格な規範」のイメージがつきまとう。これは、 隋唐の律令制に均田制のような「整いすぎて維持 できない」部分があるのと似ている。「地域の現 実に合わない古代文明」を克服する努力の末にこ うした現実離れが生じる点では、「歴史は繰り返 す」のだ。が、イスラームをムハンマドの時代か ら現代まで同じものと考えるのはとんでもない誤 りである。現実に合わせる努力の結果、ゆるやか な大枠としての律令制が長期に(日本では16世紀 まで)生きつづけたのと同様、イスラームが今日 でも生命力をもっているのは、地域や時代の現実 に合わせた改変を重ねてきたからである。それは、 ペルシア人、トルコ人、ベルベル人、モンゴル人、 インド人などさまざまな人々が(多くの非ムスリ ムを含めて)、自発的にせよ強制的にせよそこに
参入し、イスラームとイスラーム世界を豊かにし てきたということでもある。
− − − − 国風文化の時代
隋唐帝国やイスラームに代表される国家や文明 システムの発達、交易・交流ネットワークの拡大 などは、3、4世紀以前の古代文明・古代帝国と くらべてはるかに広い範囲に影響をおよぼした。 ユーラシア東方では、現在の中国東北部から朝 鮮半島、日本列島、雲南省などに、それぞれ小中 華型の国家が成立する。これらは、高度の普遍性 をもつが膨張主義的で押しつけがましい隋唐帝国 に対抗して、「上からの近代化」を強行する「開 発独裁」型の国家と理解できる。同時代の東南ア ジアでは、林邑(チャンパー)や真臘、ドヴァー ラヴァティー、ピューやシュリーヴィジャヤ、シ ャイレーンドラなど、インド文明の導入による国 家建設がさかんだった。隋の林邑出兵のような政 治圧力と、対中朝貢関係の拡大に対抗するために 「インド化」が急がれたように見える。いっぽう アルプス以北のヨーロッパでは、キリスト教と結 びつきながらフランク族やノルマン人の諸国家が 発展してゆく。
十字軍のような例外はあるものの、大文明の周 辺で成立したこれらの国々には、遊牧国家のよう に「中心」に対して大規模な進出を行う力はなか った。しかし「中心」の文明と帝国から発する、 抗しがたい魅力と圧力を感じずにはいられない。 そこから、これらの国々に共通する、「中心」に 対するコンプレックスと対抗意識、あこがれと反 発がごっちゃになった意識が生まれる。地中海世 界ともイスラーム世界ともちがった西ヨーロッパ 世界は、明らかに自分より進んでいるイスラーム 世界(およびビザンツ)に対する、コンプレック スとの格闘のなかから生まれたといえるだろう。 近現代の欧米におけるイスラームへの偏見(オリ エンタリズム)の執念深さは、こうしたヨーロッ パの「出生の秘密」抜きには理解できない。「中 国よりも中国らしい」律令社会建設に狂奔しなが ら、遣唐使が朝貢使節であることを隠そうとする 日本人を突き動かしていたのも、同様の中国コン プレックスだった。
これらの諸国にとって幸運だったのは、9世紀 以降、「大きい中華」や「イスラーム帝国」が解 体に向かい、「中心」からの政治的・軍事的圧力 が大幅に減少したことだ(タペストリー 18〜23 ページ)。解体の原因は、上でも述べたように隋 唐帝国やイスラームがもっていた「整いすぎた」 部分が機能しなくなり、整ってはいなくても現実 的な仕組みが、地域ごとに模索されるようになっ たことにあった。またバグダードや長安周辺での 環境破壊の深刻化、エジプトや江南など他の地域 での農業開発や貿易の発展による経済的中心の移 動といった要因も、考慮せねばならない。いずれ にせよ「周辺諸国」は、必要不可欠な「中心」と の貿易や文化交流を維持しながら、「上からの近 代化」によって強行導入した政治・文化などの諸 システムを、自分に合うようにじっくり再編・改 造する余裕をえた。「国風文化の時代」は、日本 だけの現象ではない。この時代がなければ、これ らの「周辺諸国」が世界史の主役におどりでる近 世以降の事態がおこりえたかどうか、きわめて疑 わしい。