• 検索結果がありません。

帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2009年 4月号

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2009年 4月号"

Copied!
3
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

− 10 − − 11 − はじめに

 「16世紀・一体化しはじめる世界」を世界史Aで どのように教えるかについて検討してみたい。この 単元は、高校入学後に初めて出会う「世界史」とい う科目が、中学校の「歴史」や「地理」とどのよう につながり、何を考えようとする科目なのか、につ いて理解を深めることができる格好のテーマであ る。中学校の既習知識を確認しながら、「日本史と 世界史の接点」としてこの時代を捉えるということ を目標に置きたい。また、実際にエスカリエを活用 する学校は、中学校での学習が必ずしも得意でなか った生徒たちを多く抱えていると思われることか ら、可能な限り生徒の興味関心を引くような授業の 切り出し方をしたいと思う。そうしなければ、筆者 の経験からも、中学校に続いて「歴史は暗記物で面 白くない苦痛な教科」という感想から高校でも逃れ ることができず、教師も生徒も双方が苦労するとい うことになりかねないからである。

 昨年12月に発表された新しい学習指導要領案に も、日本史や地理との連携が現行学習指導要領以上 に求められている。小学校の社会科で最初に学ぶの は生徒が生活している地域であり、生徒は自分の生 活する場を『街探検』することから学習を始め、中 学校で日本史を、さらに高校へ入って世界史へと学 習を積み重ねていく。おそらく、日本史と世界史の 接点を考えることが可能なこの時代の事例は、それ ぞれの地域にたくさんあるだろう。ここではいくつ かの素材から「世界史は面白い教科なのだ」という メッセージを生徒たちに伝えてみたい。

「エスカリエ」掲載地図と

南蛮貿易(中学教科書)のつながりを考える

 「16世紀・一体化しはじめる世界」を理解するた

めに、世界史ではとくに16世紀以降は「ヨーロッパ」 「アジア」「アメリカ大陸」と分けて考えると理解で

きなくなることを、中学校日本史で周知の、16世紀 に描かれた「南蛮屛風」絵から考えてみたい。  「この絵には、様々な肌の色、様々な格好の人々 が描かれているね。この絵の人物や動物等はどうい うルートで日本に入ってきたのだろうか?」と問い かけるところから授業を始める。

 16世紀のユーラシアには、オスマン帝国(スンナ 派)・サファヴィー朝(シーア派)・ムガル帝国・明 という4つの安定した帝国が存在した。これをつな ぐ、インド洋を中心とする東南アジア=ヨーロッパ 貿易の中核を握っていたのはイスラーム商人であっ た(エスカリエp.26の4つの国を色塗りさせてみる とよい)。

「明解世界史図説 エスカリエ」活用例

16世紀・一体化しはじめる世界を考える

北海道札幌北高等学校 吉嶺茂樹

「中学生の歴史 初訂版」p.88 〜 89 『南蛮屛風』

エスカリエ p.26 〜 27

(2)

− 10 − − 11 −

 このイスラーム商業ネットワークに遅れて参入し たのがスペイン・ポルトガルである。エスカリエ p.25の「大航海時代の幕あけ」以降、イスラーム勢 力が押さえていたインド洋・アジア交易に新たに乗 り出したポルトガルと、大西洋から「新大陸」へと 乗り出したスペインが「世界を二分割する」という きわめて単純な理由で線引きしたのがエスカリエ p.26 〜 27世 界 地 図 中 の 3 本 の「 縦 線 」 で あ る。 1493年の「教皇子午線(境界線)」は、スペイン出 身の教皇アレクサンデル6世による裁定であり、ポ ルトガルには容認できないものであった。国王ジョ アン2世はスペイン王と直接交渉しこれを西方に引 き直す。トルデシリャス条約境界線である(トルデ シリャスは調印地スペインの地名)。その後1500年 カブラルがブラジルを発見し、最終的にラテンアメ リカではブラジルのみがポルトガル領となる。一方、 マゼラン艦隊の生存者が1522年9月に地球を周回し て帰国すると、「地球がもし丸いならば、1本の線 では地球を分割したことにならない」という至極当 然の議論が出てきた(ちなみにマゼラン艦隊はスペ イン国内で航海日数をつけられていた。帰国後彼ら の航海日誌と国内側の記録が1日ずれていた。これ が日付変更線が必要と認識されたそもそもの理由で ある)。香辛料の産地であったモルッカ諸島を巡り、 スペインとポルトガルは当時激しい競争の中にあっ た。結局ポルトガルがモルッカを押さえることで交 渉は決着した。サラゴサ条約である。その後、マカ オのポルトガル領有(1557年)も確定する(関連ペ ージ、エスカリエp.114「 1 大航海時代の世界」)。 この後スペインはフェリペ2世の時に血縁によりポ ルトガルを併合した(1580年同君連合)。「太陽の沈 まぬ国」というコラムの名称はこれを意味する。  この東南アジア交易に明が参入した。当時明は海 禁下であったため直接の交易ができなかったが、と くに中国産の絹織物・磁器などをマカオや東南アジ アの港市(port-city)へ運び、銀を入手するととも に東南アジア産の鹿皮や香木、香辛料などと交換し た。この交易に関わったのがいわゆる「後期倭寇」 であり、彼らはこの地で活躍した多民族集団と考え てよい。村井章介氏によれば、彼らはどこの国にも 属さない「マージナル・マン」であった。日本の朱 印船交易や琉球王国の交易船もマカオにつながって

いた。マカオを船出し難破した漂着ポルトガル人が 種子島に鉄砲を伝えたが(1543年)、乗船していた 船は中国船である。昨年出版された『海域アジア史 研究入門』所収の諸論考によれば、中国から東南ア ジアへ民間商船の渡航が許可されたのは後期倭寇と 入れ替わる1570年代、同じ頃、ポルトガルによりマ カオ−長崎交易が開始される。スペインによってマ ニラが建設され(1571年)、この地に太平洋を越え て新大陸産の銀が流入する。メキシコ銀は積み出し 港の名前をとりアカプルコ交易と呼ばれるが、サカ テカス銀山(エスカリエp.26世界地図)から産出し たものである。ボリビアのポトシ銀山と並ぶ大産出 地であった。なお、同書によれば、ヨーロッパの世 界市場進出は、ヨーロッパ側からの積極的な進出と いうよりも、むしろ東アジア海域における海上貿易 の「発展の帰結」として捉えた方が実態に近いとい う。 こうして、 アジア海域を中心として西側へ向け てつながるイスラーム=ネットワーク、太平洋−メ キシコ−大西洋−ヨーロッパという2本の物流ルー トが成立するのである。江戸初期に支倉常長が太平 洋を渡ってスペインからイタリアへ航海した背景に はこのようなネットワークがあった。

 以上略述した16世紀の東南アジア−ヨーロッパ関 係史を考える際に東南アジア産の胡椒・丁字・ナツ メグなどを実際に教室に持ち込

んで授業をされている先生方は 多いであろう。筆者もその1人 であるが、普段あまりホールの 形では扱わないナツメグとナツ メグ削りを持ち込んで授業を行 ってみた。ナツメグを削って使 うという経験があまりないた

め、生徒たちには興味深いようである。

 時間が限られている世界史Aの授業で取り上げる ことはなかなか困難であるが、上記のような東アジ ア交易ルートの先端が、東南アジアの日本町や琉球 を経て本州からさらに日本の北方地域にまでつなが っていたことを紹介しておきたい。北海道の生徒た ちにとってはより身近な日本史と世界史の接点とし て受けとめられるようである。

 日本中世史では必ず取り上げられる、北海道函館 市の志し苔のり館だて遺跡は、37万枚に及ぶ、下限を明代とす

(3)

− 12 −

る日本最大の古銭出土地であるが、この古銭にベト ナムの通貨が1枚混入していることが昨年明らかに された。青森県の国指定遺跡・十と三さ湊みなと遺跡の膨大な 出土品は、この地が中世海域アジア交易の重要な結 節点であったことを示している。

 エスカリエp.113には、イエズス会をパリで結成 したイグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエ ルが載っている。ザビエルについては中学校の教科 書にも記載 があり生徒 に馴染み深 いが、イエ ズス会宣教 師の日本布 教にあたっ てもこのネ ットワークが生かされ、その先は蝦夷地=北海道へ とつながっていた。宣教師アンジェリスが、現在の 松前・上ノ国町付近に来朝した際の記録が残されて いる。アンジェリスはシチリア島の生まれ。18歳で イエズス会に入会しマカオを経て1602年に日本へ入 国。その後1614年の禁教令にあたり国内で流罪とな ったキリシタン慰問のため長崎から蝦夷地に入っ た。後に捕らえられ江戸で刑死した彼の2回にわた る報告書がバチカン・イエズス会本部などに保存さ れている。それによれば、この地では大量の「砂金 より大きな金=粒金」が採れたとある。また、千島 列島産のラッコの毛皮が現在の宗谷岬を経てこの地 に運ばれ交易の対象となっていた。彼は最初のアイ ヌ語を記録した外国人でもある(1621年)。アンジ ェリスの地図は下記参考文献『日本北辺の探検と地 図の歴史』に当たっていただきたい。蝦夷地が異様 に拡大された興味深い地図である。

コラム「銀は世界をかけめぐる」から日本と 世界の関係を取り上げる

 戦国〜江戸初期にかけて、東北地方は世界有数の 金産出地であった。このため江戸を中心とする東国 では金(=小判)が、大阪を中心とする上方では、 戦国以前の南蛮貿易の名残から銀が使われた。「江 戸の金遣い・上方の銀遣い」といわれる。しかし金 貨が使われたのは日本が例外的に金を産出したから

であり、世界史的にみるとアジア交易での基軸通貨 は金ではなく銀である。しかも銀貨は基本的に重さ を量って使う貨幣(秤量貨幣)であった。江戸時代 の銀貨が重さ表示(匁)であるのはこのためである。 このアジア通貨圏に強く繋がっていたのが石見銀山 であった。当時のヨーロッパで出版された世界地図 には、石見銀山の記載がある(たとえばアントワー プで1595年に出版されたオルテリウス/ティセラ 「 日本図」 など。この地図には石見銀山が‘Hivami’ と記載されている)。またフランシスコ=ザビエルは、 インドのゴアからポルトガルのシモン・ロドリーゲ ス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島々(日 本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる…」と 書いている(河野純徳訳『聖フランシスコ=ザビエ ル全書簡』第4巻 東洋文庫)。

 この時代は前世紀より続くヨーロッパの進出によ り、金銀鉱山の情報を含めて様々な東アジア情報が ヨーロッパに紹介された時期に当たり、多くの地図 が作製出版された。当時、日本銀やメキシコ銀は質 が良く世界市場の銀を席巻した。日本は世界の銀産 出の3分の1以上を占めた(エスカリエp.27「当時 の日本」参照)。なおエスカリエp.26②「中国の馬 蹄銀」は、本来形が一定したものではなく、重さも 様々であった。重さを量って流通させた(秤量貨幣) 点では中国も日本(江戸幕府)も同じである。日本 の場合このため金銀を交換する両替商が発達する。 地図記号の銀行マークが分銅の形をしているのはこ のためである(この形はもともと生糸をとる繭の形 をかたどったともいわれる)。

 以上、実践のいくつかを紹介した。中学校の既習 知識が高校の世界史につながっていることを様々な 地域の具体例で示していくことで世界の一体化と地 域の過去をつなげて考えるきっかけとしたい。石見 銀山やアンジェリスの地図の使用は、もう一つの例 となるであろう。

参考文献

桃木至朗編『海域アジア史研究入門』 岩波書店 2008 四日市康博『モノから見た海域アジア史』九州大学出版会 2008

秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』 北海道大学図書刊 行会 1999

大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関 係』山川出版社 1997

参照

関連したドキュメント

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

2021年9月以降受験のTOEFL iBTまたはIELTS(Academicモジュール)にて希望大学の要件を 満たしていること。ただし、協定校が要件を設定していない場合はTOEFL

個別の事情等もあり提出を断念したケースがある。また、提案書を提出はしたものの、ニ

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

子どもたちが自由に遊ぶことのでき るエリア。UNOICHIを通して、大人 だけでなく子どもにも宇野港の魅力

高さについてお伺いしたいのですけれども、4 ページ、5 ページ、6 ページのあたりの記 述ですが、まず 4 ページ、5

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場