戦後日台間の漁業交渉について
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(2) 1 中華民国政府による日本漁船傘捕. 〔表2)は、1948年5月から1951年2月までに中華民国政府によって傘捕・砲撃され た日本漁船の一覧である。〔表2〕から中華民国政府による日本漁船掌捕の特色を整理すれ ば次のようになる。. ①26件43隻の被傘捕漁船のうち、1件!隻のトロール漁船を除き、すべてが以西底曳 漁船である。トロールと以西底曳は東シナ海・黄海のほぼ同一の漁場で操業して同一 の魚種を漁獲する漁業であり、以西底曳網漁業と総称される。同時期の韓国による被 傘捕日本漁船は40件53隻であったが、うちトロール漁船は3件3隻、以西底曳漁船 は26件39隻で、その他11件11隻は日本海を漁場とする以東底曳漁船や、サバ巾着 網漁船、一本釣り漁船、延縄漁船である。韓国による被再出漁船の種類が比較的多様 であるのに対して、中華民国政府による日本漁船傘捕は以西底曳網漁業に被害が集中 している。. ②船員が帰還しているにもかかわらず漁船が帰還していない例が多い。1951年2月の時 点で、被傘捕漁船43睡中、未帰還は33隻、沈没は2隻である。ちなみに韓国は同時. 点で、被傘捕漁船53隻中、未帰還12隻、沈没1隻であった。また、死亡6名、行方 不明4名、.未帰還者51名という数字も、韓国の死亡4名、未帰還者17名に比べて多 い。. ③傘捕は1949年1月下旬および同年の5月から8月にかけての時期に集中している。 特に5月からの4ヵ月間の13件24隻という傘捕件数と被傘捕隻数は全体の半分を占 める。これが中華民国政府の大陸から台湾への撤収と関係があることは想像できる。. 海上保安庁作成の報告書には、被傘捕漁船の中には「舟山列島の国府軍基地に連行し て、対中共作戦に使用され、大陸撤収後釈’放帰還せしめている(1)」漁船があったと記. されている。中華民国政府による日本漁船傘捕は、漁業紛争の視点のみでは理解でき ない。. 多数の日本漁船が抑留されている以上のような状況の下で、日本と中華民国(台湾)の間 の漁業交渉は1951年3.月に開始されたのであった。 また、【図1】で〔表’2〕の漁船の傘捕位置を×印で地図上に示した。傘捕位置が明記し. てある23件(位置が重複しているため×印は22個)を表示している。中華民国政府は、 当時連合国軍総司令部(以下「総司令部」と略記する。)が日本漁船の操業を制限していた マッカーサーライン(以下「マ・ライン」と略記する。)を侵犯したことを日本漁船傘捕の 法的根拠とした(2)。【図1】から、実線で示したマ・ラインの線上あるいはやや東よりの. 海域で掌捕が頻発したことがわかる。すなわち、【図1】ではほとんどの漁船がマ・ライン. を侵犯していないことになる。しかし、これは乗組員の陳述を基にしたためであろう。海 上保安庁作成の報告書には「日本漁船の中には『マ・ライン』を越境して操業していたも のが相当数あったことは否定できない事実(3>」という記述がある。. 一77一.
(3) 〔表2〕. 船名. 漁業種類 事故発生年月日 以西底曳 1948年5月6日 以西底曳 1948年5月6日 以西底曳 1948年5月21日. 乗紐員 所有者. 備考. 船員帰還。船体未帰還。 第1徳生丸 船員帰還。船体未帰還。 第2徳生丸 船員ユ3名帰還(1名死亡 第21雲仙丸 j。船体沈没。 12名帰還(1名死亡)。 第22雲仙丸 以西底曳 1948年5月29日 ユ3名川南工業(大阪) D体未帰還。 第1ユ蛭子丸 以西底曳 ユ948年10月20日 10名斉藤庄次郎(福岡) 船員帰還。船体未帰還。 船員帰還。船体未帰還。 第121明石丸 以西底曳 1949年1月21日 13名大洋漁業(東京) 同上 12名 船員帰還。船体未帰還。 以西底 1949年1月21日 第122明石丸 東亜海洋漁業(下関) 12名 船員帰還。船体未帰還。 以西底曳 1949年1月21日 第5泰平丸 船員帰還。船体未帰還。 第3泰平丸 以西底曳 1949年1月21日 13名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第1海洋丸 以西底曳 1949年1月21日 11名 石原栄(下関) 船員帰還。船体未帰還。 第2海洋丸 以西底曳 1949年1月21日 10名 同上 船員帰還。船体未帰還。 東海丸 以西底曳 ユ949年5月13日 16名 日本水産(東京) 船員帰還。船体帰還。 三保丸 以西底曳 1949年5月13日 14名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第5日東丸 以西底曳 1949年5月23日 14名 日東漁業(下関) 船員帰還。船体未帰還。 第25日東丸 以西底曳 1949年5月23日 12名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第52日東丸 以西底曳 1949年5月23日 16名 日東漁業(下関) 船員帰還。船体未帰還。 第53日東丸 以西底曳 1949年5月23日 13名 同上 南扇帰還。船体未帰還。 トロール 1949年6月10日 20名 川南工業(大阪) 第5香焼丸 船員帰還。船体未帰還。 乱誾`武(長崎) 第5前進丸 以西底曳 1949年6月10日 10名 A 船員帰還。船体帰還。. 第3前進丸 以西底曳 1949年6月10日 10名 同上 { 船員4名帰還(死亡4名 第105明石丸 以西底曳 1949年6月10日 12名 大洋漁業(東京) s明4名.)。船体沈没。 船員帰還。船体未帰還。 第58報国丸 以西底曳 1949年6月11日 14名 報国水産(東京) 船員帰還。船体未帰還。 第60報国丸 以西底曳 1949年6月11日 13名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第156明石丸 以西底曳 1949年6月22日 13名 大洋漁業(東京) 船員帰還。船体未帰還。 第157明石丸 以西底曳 1949年6月22日 12名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第6ゆたか丸 以西底曳 1949年6月22日 10名 構灘鹸団(頗県総町) 船員帰還。船体未帰還。 第8ゆたか丸 以西底曳 ig49年6月22日 9名 同上 船員帰還。船体帰還。 第3地洋丸 以西底曳 1949年6月22日 13名 長門漁業(下関) 船員帰還。船体帰還。 第5地洋丸 以西底曳 1949年6月22日 12名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第85万生丸 以西底曳 1949年7月8日 10名 万生合資(長崎) 同上 10名 船員帰還。船体未帰還。 以西底曳 第86万生丸 1949年7月8日 船員帰還。船体未帰還。 第132明石丸 以西底曳 1949年8月7日 13名 大洋漁業(東京) 船員帰還。船体未帰還。 第107明石丸 以西底曳 1949年8月7日 12名 同上 船員帰還。船体未帰還。 第iO3明石丸 以西底曳 1949年8月18日 13名 大洋漁業(東京) 船員帰還。船体未帰還。 第99明石丸 以西底曳 1949年8月18日 12名 同上 船員帰還。船体帰還。 第8五水丸 以西底曳 1950年5月18日 13名 五洋水産(神戸) 船員帰還。船体帰還。 第10五水丸 以西底曳 1950年5月18日 12名 同上 船員帰還。船体帰還。 第6吉徳丸 以西底曳 1950年6月17日 11名 福徳水産(福岡) 船員帰還。船体帰還。 第1吉徳丸 以西底曳 1950年6月17日 10名 同上 船員船体とも未帰還。 川南工業(長崎) 12名 第18雲仙丸 以西底曳 1951年2月17日 船員船体とも未帰還。 和美丸 以西底曳 1951年2月18日 14名 南西水産(戸畑) 船員船体とも未帰還。 第75報国丸 以西底曳 1951年2月18日 13名 報国水産(東京) 船員船体とも未帰還。 第3雲仙丸 以西底曳 1951年2月21日 12名 川南工業(長崎) 10名徳生漁業(長崎) 11名 同上 14名川南工業(大阪). 出典)水産庁生産部海洋課『争捕並びにこれに類似した事故を発生した漁船の一覧表一 昭和26・3・5現在』. 一78一.
(4) A. 賦. ×. ●嚇℃. 菟. β. ρΣ. 唱, も♀o. 稼 ×. × 》(. 蚤 淋 × 委. 鷲 ’⇔. z)層. ・b 伽. 。. 心くρ. ρ9. 【図1】中華民国政府による日本漁船の食捕位置(×) 出典)水産庁生産部海洋課『章捕並びにこれに類似した事故を発生した漁船の一覧表一. 昭和26・3・5現在』. 一79一.
(5) 【図1】に掌捕事件が集中して発生している海域がある(図中のA)。この海域は「スコ トラ=ロック」と呼ばれる底曳網漁業の好漁場であった。この海i域での掌捕は、すべて1948. 年から1949年5月までにおきている。その後傘捕位置が南方に移動している点に、中華 民国政府の大陸から台湾への撤収の影響を見ることができ、興味深い。 H 日本政府の漁業協力構想 米国太平洋艦1隊司令官が1945年9,月27日付の覚書80号.で設定したマ・ラインに対し て、日本の漁業者と政府は漁区拡張を総司令部に要請し続けた。東シナ海・黄海の漁区拡 張を日本政府が総司令部に対して要請しはじめたのは1946年7月のことであった(4)。こ. れは1946年6月22日付総司令部覚書第1033号で行われた東シナ海におけるマ・ライン の変更に対応したものであろう。この変更により操業許可水域は約2倍に拡大された。し かし、漁獲量は戦前に比べて「底曳では内が30%、外70%であり、トロールでは内15%、 外85%程度であり、圧倒的に漁区外に主要漁場があった(5)」のであって、日本の以西底 曳網漁業者の満足するものでは到底なかったからである。 要請に応じない総司令部に対して日本政府は、「漁区拡張困難の場合其の便法として一定. 条件の基に中国側と提携して操業する案について非公式に維司令部水産当局を打診した (6)」。それが1948年6月11日付の「漁区対策要綱」である。この要綱では三つめ案が提 示された。. 一案. 1、中国に中日合弁の漁業会社(中国法人)を設立する。 2、本会社は日本にも営業所を設置する。 3、本会社に対し日本側は許可保有漁船を出資し、中国側は漁業用資材、運転資金(漁 業許可)等を出資し、中日両国の出資比率を概ね50%とする。. 4、日本側に於いて漁船を出資する場合は別に全漁業者を以て構成する出資組合を結 成し、同組合が漁船を買収した上出資する。出資漁船は多数許可保有漁業者の所属 漁船を以て充当する。. 5、出資漁船数は最敢えず50組とする。 6、漁獲物の中日両国への陸揚については、その数量、魚種等の比率を別に協定する。 7、中国は日本の食糧事情に協力するため、本会社:以外のトロール漁船及び底曳漁船 についてもその漁区外操業につき(以下判読不明). 8、本会社(以下判読不明) 二三. 1、中国に漁業許可を有しない漁船を有償又は無償で譲渡する。 2、日本は漁船乗組員の提供又は養成等について協力する。. 3、中国は日本食糧事情に協力するため、日本側のトロール漁船及び底曳網漁船の漁. 一80一.
(6) 区外操業につき特恵的な諒解若くは援助をする。. 4、漁船を譲渡する場合は、全漁業者を以て構成する特殊団体を結成してその団体が 漁船を買収した上で譲渡する。 三案 1、許可保有の特定漁船についてその漁獲物の一定割合を提供し中国向けに搬出し又 はその水揚高の一定割合を中国に提供する等条件の下に中国は特定漁船の漁区外回 業について諒解すること。 2、漁獲物又は三二高の一定割合については中日両国で協定する。(7) 上記のうち、「一案」は日中合弁の漁業会社の設立、「二案」は中国への漁業協力、「三案」. は中国への「入漁料」提供を条件に、マ・ライン外で操業を求めたものであった。しかし 総司令部はこの提案を拒絶した(8)。. 1949年5月10臼に閣議決定:され、1949年5月31日に総司令部に対して行われた日本 政府による「東支那海に於ける日本トロール漁業及び機船底曳網漁業に対する漁業区域拡 張陳情」では、「漁区の拡張」とともに、次に示す「関係国との漁業の調整」が「懇請事項」 となった。. 東支那海については中国、韓国等も利害関係を有するものであるから必要に応じて 漁業協約等の締結を図るとともに当面の処理としては左の如き方法によって急速に漁業 の調整を図る。. (イ)関係国との合弁組織による漁業会社を設立して漁場的に弾力性ある操業形態を とる。. (ロ)漁船及び乗組員等を関係国に提供して共同経営を行う。 (ハ)一定数の漁船を関係国に転売する。(9). 上記のうち(イ)は1948年6月11日付の「漁区対策要綱」の「一案」を、(ロ)と(ハ) は同じく「二案」を踏襲している。「漁区対策要綱」の「三案」を踏襲したものがないのは、. 中国への「入漁料」提供という方式が当時の海洋法の原則であったゼ公海自由」の原則と. 相容れないものであったためではなかろうか。ともあれ、日本漁区拡張を要求するにあた っては、中国・韓国の対応が配慮されねばならないことを日本政府は意識していた。 1949年5月31日に行われた日本:政府の請願に対して総司令部は漁区拡張を拒否し、現 行の漁区厳守と濫獲防止の徹底を日本政府に命じた。請願中の「関係国との漁業の調整」 についても、スカンク総司令部天然資源局長は同年6月9日に次のよう’ ノ答えた。 之は漁区を拡張して貰う代りに中、鮮(ママ)、日間の合併事業にて漁業を行わんという. バーゲンなるが東支那海問題も日本人漁夫の態度の是正が前提条件なりと答え此等の 点は上司へも森農林大臣にもよく伝えられ度し。(10) 合弁の漁業会社設立や漁業協力を行う代わりに漁区拡張を求める日本政府の提案に対する 総司令部の反応は好意的なものではなかった。しかし日本政府が示した漁業協力構想は、 日台間の漁業交渉において中心的議題として取り上げられることになる。. 一81一.
(7) 皿 日台間の漁業交渉の開始. 日本と中華民国(台湾)の間の漁業交渉は1951年3月から1952年8月にかけて行われ た。漁業協力問題と日本漁船の傘捕問題がこの交渉の重要議題であった。交渉の概略は『国 際漁業資料』(11)によって知ることができる。. 『国際漁業資料』を発行した日本海洋漁業協議会は、1949年12月2日に組織された海 洋漁業対策研究会が1951年2月2日に改組拡大されて成立した。海洋漁業対策研究会は 「在京の主な漁業会社および団体をもって組織し、漁業に関する国際問題を調査研究する 機関(12)」であり、日本海洋漁業協議会は「日本の漁業に関係のある諸外国と友好提携を. 促進し、相互の理解を深めるために必要な国際的活動を目的(13)」とした。1949年4月に. 米国漁業使節団が来日し、公海における日本漁業に対する制限を講和条約に織りこむ意思 を示した。1951年1月にダレス国務省特別顧問が来日し、講和条約に公海における日本漁 業に対する制限が恒久的に規定されないために「吉田・ダレス書簡」が交換された。この 書簡で、臼本は相手国近接公海の漁業資源保護のため漁業条約を早期に締結すること、そ れまでの間、資源保存措置ができている漁場では日本漁船の操業を自粛することを約束し た。このような経緯から、日本の主権回復によりマ・ラインが撤廃されても日本漁船の無 制限の操業は難しいことを日本の漁業者は認識していた。』そのため海洋漁業対策研究会や 日本海洋漁業協議会が設立され、日台漁業交渉においても民間の受け皿の一つにな「つたの である。. 1951年3月20日、日本海洋漁業協議会の部会長会議において、「国民政府の漁業使節 団の来朝に伴い、本協議会として、会談することを決定」した(14)。この漁業使節団は、 陳良を団長とする5名で構成され、水産庁と水産研究会(15)の斡旋で水産教育、試験研究、. その他水産全般にわたる調査のため来日したものである(16)。無畜は台湾漁業善後物資管. 理処理事長であり、台湾漁業善後物資管理処は台湾省政府農林庁の部局であった。3月24 日、 水産研究会主催の懇談会で彼らは次の5点を日本側に要望した(17)。 一、全中国の水産研究機関を設けるので、その企画と研究指導に当たる技術者二名を 求めたい。. 二、漁業試験に従事するトロール船又は手繰船を少なくとも一ヵ年借り受けたい。 三、中日水産協会を組織したい。 四、手繰(底曳と同じ 引用愚息)トロール漁業の合作を実現した’1い。 五、捕鯨、延縄巾着網漁業など合作を実現したい。. 上記引用中の一と二は漁業協力を、四と五は日中合弁の漁業会社の設立を日本側に求めて おり、前節で見た日本政府の構想によく似ている。漁業使節団は下関方面の視察後、4月 12日置水産庁および水産研究会の代表と協議し、その結果技術者二名の派遣と試験漁船の 派遣について合意に達した。三の「中日水産協会」については、漁業使節団の団員も出席. した4月16日の日本海洋漁業協会の第4回総会で次の事項を目的とする「中日水産協会. 一82一.
(8) 規約要綱」が配布され、台湾側はこれに基づいて「中日水産協会」設立の準備を進める意 思を示した。. 中国と日本の水産業に於ける相互関係を向上するため、左の各号の事業を行うこと を目的とする。 一、中日水産業者感情の(ママ)連係. 二、中日隣接漁場繁殖保護之計画、建議 三、中日水産資源之研究 四、中日水産技術之研究 五、中日漁業合作経営之研究、建議 六、中日政府委託事業、研究之実施 七、中日漁業有関問題之研究、調査(18) このように、中華民国(台湾)側は漁業協力と日中合弁の漁業会社の設立を積極的に求め. たが、日本側の姿勢は消極的であった。4月16日の日本海洋漁業協会の第4回総会では 「中日漁業協会(仮称)の如き連絡機関を設けることについて活発な討議が行われたが結 局、現在直ちに正式な機関を設けることは時期尚早で当分水産研究会の『海外水産事情研. 究委員会』がその準備機関を代行し将来、いろいろな問題が解決してから正式なものを作 ることになった」(19)。こうして「中日水産協会」設立ぱ実現しなかったが、その要因で ある「いろいろな問題」の一つが日本漁船傘捕問題であった。3月15日の日本海洋漁業 協会第3回総会では、「先般来東海・黄海水域に於て傘捕された漁船の実情について田中(道 々 日本遠洋底曳網漁業協会専務理事(引用者補註))常任委員より報告あり。種々政府に 実情を訴えた結果、国民政府に傘捕された漁船の中四隻が昨十四日返還され帰国の途につ. いたことを報告あり。又、家坂水産庁長官より傘捕対策について水産庁の計画を聴取す (20)」と、選考問題に対する日本の漁業者の警戒感は強かったのである。 1▽ 台湾漁業視察団の報告書. 1951年12月21日、日本海洋漁業協会は台湾漁業視察団の報告会を開催した。台湾漁 業視察団は5名で構成きれ、中華民国政府の招聰で渡台したもので、1951年12月15日 付の『台湾漁業視察団漁業調査報告書(水産庁複爲)』(21)が残されている。この報告書に おいて、視察団は台湾漁業の三つの問題点を次のように指摘している。‘. 第一の問題点は、「日本及び朝鮮と比較して沿岸及び近海漁業には多くの生産を期待 しえ」ない点である。その理由は「島が暖流のみにさらされ、更:に島の周囲に凹凸が なく小島岐が極めて少ない」。そのた』め「寒流性の群をなす如き回遊魚を見ず」また「魚. 族の棲息に好適でない」ためである。しかも「日本と朝鮮同様に沿岸漁業に重点が置 かれた為に其の生産は限度に達し今後の需要が充たし難い状態に立ち至った」。よって 「生産は専ら遠洋漁業に:重点を置かねばならぬ」。第二の問題点は「金融上に於ける高. 一83一.
(9) 金利問題」であり、第三の問題点は、「漁業の行政一ヒに於いて幾多の欠点があり、更に 企画指導等高級技術員と経営技術等何れも不足し」ている点である(22)。. 上記引用文中の沿岸漁業資源枯渇防止のための遠洋漁業振興の重要性は、当時の日本や 韓国でも同様に指摘されていた。1950年前後における日台韓三国の漁業の問題点が共通し ていた点は興味深い。. 台湾の遠洋漁業について、報告書には「現有漁船及び設備に依る増産の可否」という項 目があり、次のように記されている。. 遠洋漁業はトロール船24隻、手繰船27組、鰹鮪船93隻に依って年間約1万2千 屯内外が生産されて居る。此の数字は1940年度遠洋漁業生産高5万7千屯の約五分 の一程度であるが、之を結論的に云えば、次の理由に依って今後の生産には多くを期 訂し得ない。即ち一般的に漁船が老朽して居り、稼働率は極めて低く、各漁船の乗組 員幹部の漁労技術が低く、其の漁獲成績は日本に於ける夫れと比較して約二分の一志 度である(23)。. このような漁船の老朽化と漁労技術の低さを解決するため、報告書には、日本漁船の導入 と日本人技術者の派遣を主眼とする「母船式鮪漁業計画案」「トロール漁業計画案」「手繰 漁業計画案」が提案され、その増産効果が詳述されている。. ところで、台湾漁業視察団の団長は南星水産社長の前根寿一であった。彼は当時、日本 海洋漁業協会の常任委員でもあったが、日本統治下の台湾において日本水産株式会社台湾 営業所所長を勤めるなど、台湾漁業と関係の深い人物であった。南星水産自体、台湾と密 接な関連を持っていた。『大日本水産会百年史 後編』(大日本水産会 1982年 東京)に は:次の記述がある(p77∼p78)。. 戦時中、(引用者中略)台湾の統制会社として設立されたのが南日本水産統制会社で ある。(引用者中略)終戦とともに、同社台湾本社所属の設備や船舶、は一切中国側に接. 収されたが、当時、東京に出張所を置いていたため、出張所に属していた財産と、内 地に滞留していた底曳船25隻、トロール船2隻が残っていた。これらの処分1関係に. 収拾がっかなかったため、一時、トロール2隻と底曳5隻を日水に、また底曳1隻を 許可回船として貸し、14隻を同社の社員救済の目的とした第二会社的性格の大同水産 興業に経営させていた。ところが、昭和22年2,月の大蔵省と同4月の民間財産管理 部の指令で、本社が外国にあったものの内地財産の分は支店自らの層手で経営できるよ. うになったのである。南水の場合も、漁船を他社に貸与できないことになり、南水は 「南日本漁業」となって独自の経営を開始することになった。こうして大同水産は南. 水に戻り、日水、大洋に貸与していた船も引き取って、昭和22年7月からトロール 2隻の操業を開始した。 上記引用文中の「南日本水産統制会社」は1944年2月に台北に設立された「南日本水産 統制株式会社」のことであろう。前根寿一は南日本水産統制株式会社の副社長を勤め、戦. 一84一.
(10) 後は同社を前身とする南日本漁業とそれを改組した南星水産の社長にもなった。一方、台 湾では「1946年に、中華民国政府が日本政府から『南日本水産株式会社(ママ)』を接収し、 台北に『台湾水産公司』を設けて、また、基隆と高雄とに支社を設置(24)」していた。1951. 年3月に訪日した台湾漁業使節団の団員には「台湾水産公司」の代表と思われる人物も含 まれている。このような経過から、漁業における日本統治期の日台間の入的関係が日本の 統治終了後も形を変えて継続していることがうかがわれる。. V 日台漁業交渉の不調 1952年に入ると、MSA(アメリカ合衆国相互安全保障本部)の要請もあって(25)、1951 年の台湾漁業視察団の報告に基づく 「日華漁業合作」構想が具体的な進展を見ることにな った。「台湾側は経済部漁業増産委員会に小委員会を設置して検討を進めるに至ったので、. 日本側においても前根氏の主導によりこれに対応する委員会を設置することになり、1952. 年「2月25日に南星水産会社において第1回中日漁業合作準備委員会を開催」した。そ の結果次の事項を申し合わせた。. 三、中国側が官民合同の構成であるから、日本側においても同様に官民合同の構成と する。従っ.て官庁側は農林省、外務省その他関係官庁とし、民間側は日本水産、大洋 漁業、日本冷蔵及び南星水産とする。このほか底曳協会(26>及び三三協会にも連絡し、 両三会員中にも希望者ある場合は加入せしめる。. 四、日本水産、大洋漁業、日本冷蔵及び南星水産の各社は台湾に招聴された関係もあ り右四社が幹事となり、常任理事には前根氏が当る。(27). さらに1952年3月25日の第2回委員会では次のような概要の規約を決定した。 一、本会を日華漁業合作協議会と称する。. 一、本会はアメリカ合衆国相互安全保障局援助の下に行われる中華民国台湾省の漁業 増産に寄与するため、日華漁業合作の実現を図ることを目的とする。 一、本会は左の会員を以て構成する。 (イ)外務省 (ロ)農林省水産庁 (ハ)その他関係官庁 (二)漁業者にして 前条の目的に賛同し合作参加を希望するもの。(28>. このように、日台漁業交渉では、台湾の漁業増産計画への日本の資本・技術両面での協力 が先行して議論されたのだった。. 1952年4月28日のサンフランシスコ講i和条約発効直前の4月25日にマ・ラインは廃 止された。日本漁船の自由操業が原則的に可能になったことは、マ・ライン外操業のため 日本政府が提案してきた合弁の漁業会社設立や漁業協力という「便法」が不要になったこ. とを意味した。また、1952年2月20日から行われた日華平和条約交渉では、被傘捕日本 漁船の返還交渉が難航した(29)。日華平和条約(「日本国と中華民国との問の平和条約」). 一85一.
(11) は1952年4月28日に調印され、同年8.!月5日に発効したが、その第8条には「日本国及 び中華民国は、公海における漁猟の規則又は制限並びに漁業の保存及び発展を規定する協 定をできる限りすみやかに締結することに努めるものとする」と規定されていた。こうし て、「外務・水産両当局とも日華漁業問題を全面的に検討する要にせまられた(30)」日本政 府は、民間主導の日台漁業交渉の進展を抑制する方向に転じた。. 1952年5,月29日、水産庁は在京の関係水産会社および関係団体を水産庁に招致して意 見聴取を行い、丁日華漁業合作協議会」について次のような方針を示した。 一、合作に参加を希望するもののみでなく、直接間接に影響を蒙る関係漁業者の意見 を徴する必要があること。. 二、所謂前根プランは審議の参考にすぎないこと。従って合作協議会とは切離して考 えられたいこと。(31). 一の「直接問接に影響を蒙る関係漁業者」とは被傘捕漁船を多く出していた以西底曳網漁. 業者を意味すると思われる。1952年4月12日付『日本経済新聞』(7版2面)には「最 近米軍事団が中国兵の動物蛋白質不足を指摘したのが動機となりECA(経済協力局 引 用者補註)が日台漁業合作の問題を採上げた。この共同によって月三十トンを漁獲しこの うち七千トンのまぐろを米国に輸出、二万三千トンを台湾で消費。日本側は現在までにマ ッカーサーうそン越境のかどで国府に傘捕されている船舶廿九隻を見返りとして資本参加 するという案もあり、目下進行中だが交渉の余地は多い」という記事がある。この記事の 計画が実現するならば兄者捕日本漁船の返還は実現しないことになる。「臼華漁業合作協議 会」に参加していた南星水産、日本水産、大洋漁業と、被傘捕漁船を抱える他の以西底曳. 網漁業者との間で「合作」に対する意見の不一致があったのではなかろうか。この「前根 プラン」すなわち台湾の漁業増産計画への日本の資本・技術両面での協力構想の白紙化も、 日本の漁業者の利害が一致しなかったことが要因と思われる。 1952年6.月3日に開催された日本海洋漁業協議会の漁業協定対策委員会では、永野正二 水産庁次長が、台湾との漁業協定締結問題と「合作問題」は密接な関連を持つので同一委 員会で討議したいと提案した。その結果、日台漁業問題全般にわたる討議を行う「日華漁. 業特別委員会」が設置されることになった。6月24日に第1回日華漁業特別委員会が開 催され、「日華漁業問題’ S般にわたる討議」が行われた。しかし、「合作と漁業条約の関係、. 国民政府軍に傘捕撃沈された31隻の以西底曳網漁船の返還及び被害補償問題の解決要望 等、問題が多岐にわたり、朝間側の利害が一致困難なところがら、まと’まった結論を得る ことができなかった」(32)。. 1952年8,月1日から8月8日にかけて、日本海洋漁業協議会は日台漁業会談を開催した。 台湾(中華民国〉側代表はMSA台湾駐在漁業担当官アダムズ、国民政府経済部顧問台湾 政府交通処副処長竿聖書ら5名から構成されていた。日本側代表は日奉海洋漁業協議会の. 小浜八彌・飯山太平の両副会長をはじめとする民間の漁業者15名であり、オブザーバー. 一86一.
(12) として水産庁から永野正二生産部長や外務省から川上健三事務官らが参加した。田中道知 日本遠洋底曳網漁業協会専務理事も代表の一人であった。. 8,月1日の会談で台湾側代表は、1951年の台湾漁業視察団の調査報告後における日本側 の情勢の変化等を考慮し、合弁の可能性を具体的に検討するために来たと来訪の使命を明 らかにした。これに対して日本側前根寿一代表は、「調査報告は日本業界を代表する意見で はなく、私見にわたる部分もあるから白紙の立場で討議されたい」と述べ、他の日本側代 表も「合弁問題を討議する前に、三三船の返還その他解決を要する問題があるのみならず、 日華協力の方法としては合弁以外の方法をも考えうることを指摘した」。「台湾側はそれら. については自分たちの権限外であり、我々は合弁問題のみを討議するために来たので日本 側に協力の意思があるならば台湾側の原則案を説明したいから小委員会に移して貰いたい と希望し、日本側も結局それに同意し」た(33)。. 8月4日にその小委員会が開催された。加藤平吉日本遠洋底曳網漁業協会理事は、以西 底曳網業界としては、「対中共問題の微妙なこと、国民政府による傘捕撃沈船の解決が先決 であることを強調し、台湾側もこれを了とし帰国の上関係方面に伝達することを約した」。. 続いて「台湾側の原則案の説明に入ったが、原則というよりも合弁会社設立に必要な取極 め案の如きもので日本側を失望させた(34)」。. 8月5日に日.本四代表は会合して、日台間の漁業合弁や漁業協力の問題は「傘捕船問題 等について並行的に解決を図る必要があること(35)」を再確認した。8月7日と8日の両 日に開催された日台漁業会談では、「結局台湾側は帰国後協議の上態度を決定すると回答を 留保した。最:後に日本側から合弁以外の協力の方法、たとえば漁船の寄港による台湾への 漁獲物供給、その他の方法についても考慮されたいと希望し、三日間に及ぶ会談を終わっ た(36)」。こうして日台漁業会談は合意されることなく終わったのだった。『別冊 水産年. 鑑2000年版・特集』(水産社2000年東京)掲載の年表には、1952年8月8日の項 に「日華合作漁業交渉終る。8月1日以来交渉3次に渡るも結論は得られず」と記載され ている(p16)。. おわりに. 1951∼52年の日台漁業交渉の議題は、漁業協力問題、日本漁船傘捕問題、漁業協定問 題の三つであった。このうち漁業協力問題が民間で先行して論議され、』』 ワた交渉には日台 とも官民双方の代表が出席した点が日台漁業交渉の特色である。これは当時進行中であっ. た日韓漁業交渉とは対照的である。1952年2月から1953年10月にかけて三次にわたっ て行われた日韓漁業交渉では、日本側が提案した韓国の漁業増産計画への協力は韓国側の 拒絶によって論議されることはなかった。したがって日韓漁業交渉は民間代表が出席しな い純然たる政府間交渉となり、漁業協定締結のみを論議した。. 日本と旧植民地との人的関係が継続していたことを考えれば、漁業交渉において漁業合. 一87一.
(13) 弁会社設立や漁業協力の構想を先行させる台湾の方針は、妥当なもののように思われる。 しかしその台湾でも、日本漁船傘捕間題のために漁業交渉は進展しなかった。日本政府と 日本の漁業者にとって、被傘捕漁船返還を断念してまで漁業合弁会社設立や漁業協力を行 う利益はなかったためであろう。 日台漁業交渉の三つめの課題であった漁業協定締結問題が進展しなかった理由を、漁業 協力問題と日本漁船掌捕問題との関連だけから説明することは難しい。台湾近海漁場の価. 値の問題を考える必要があるように思われ・る。1952年5月22日付『日本経済新聞』(7 版2面)’で報じられた「南方漁業開発会社」構想では、「赤道を中心にセレベス、スール海 方面」でのマグロ類六千トン、「南支那海およびトンキン湾」でのタイ類七千八百トン、「台. 湾海峡」でのタイ類七千二百トンの三つが、台湾を根拠地とする「日華両国の共同漁業」 の年間漁獲高として見込まれていた。この構想を見ると、台湾近海よりも南シナ海や東南 アジア方面の漁場に日本の漁業関係者の関心はあったと考えられる(37)。日本の漁業者に. とって、台湾近海での日本漁船の操業条件を規定するための漁業協定締結の必要性は少な かったのであろう。. 本稿において筆者は日本語資料から日台漁業交渉を考察した。台湾に残っている可能性. のある中国語資料、あるいはECAやMSAに関連する英語資料から日台漁業交渉の検討 が必要であるが.、それについては他日を期したい。. 註. (1)『昭和二十九年九月 だ捕事件とその対策』(海上保安庁警備救難部公安課 非公開) p156 ∼p157。. (2)前掲註(1)によれば、中華民国政府は被傘捕日本漁船を「マ・ラインの法的根拠 を誤解して制定した国内法(越当惑魚ヨ本漁船処理弁法)により裁判に附し」たとい う(P156)。. (3)前掲註(/) p157。 (4)「東支那海におけるトロール漁業及び底曳網漁業の操業区域拡張に関する件」(国立 公文書館所蔵)。. (5)水産廉編『我国水産業の現況』(光鱗社 1949年) p119∼p120。 (6)前掲註(4) (7)前掲註(4)「. (8)前掲註(4) (9)前掲註(4> (10)「漁区接台問題に付総司令部天然資源局長スカンク中佐と會談」 (外務省外交資料館所蔵)。. (11)日本海洋漁業協会発行の『国際漁業資料』は東京水産大学所蔵のものを利用した。. 一88一.
(14) (12)『国際漁業資料』第一號 1951年4月 p1。 (13)『国際漁業資料』第一號 1951年4月 p1。 (14)『国際漁業資料』第一號 1951年4月 p43。 (15)『大日本水産会百年史 後編』(大日本水産会1982年)には水産研究会について、. 「昭和22年2月7日目設立。会長村山敬三、常務浅野長光」という記述がある (p43)が、詳細は不明である。 (16) 『国際漁業丁半斗』 第一号虎. 1951年4月 P13。. (17)『国際漁業資料』第二號. 1951年5月 p36。. (18)『国際漁業資料』第二號. 1951年5.月 p370. (19)『国際漁業資料』第二號. 1951年5月 p45。. (20)『国際漁業資料』第一號. 1951年4.月 p42。. (21)『台湾漁業視察団漁業調査報告書(水産庁複爲)』は東京水産大学所蔵のものを利用 した。 (22)『台湾漁業視察団漁業調査報告書(水産庁複寓)』p1∼p2。 (23) 前掲言主 (22) p13。. (24)山本忠・真道重明編著『世界の漁業 第2編 地域レベルの漁業動向 第1分冊』 (海外漁.業協力財団 1999年目 p110。. (25)『国際漁業資料』第九號 1952年7月 p61。. (26)日本遠洋底曳網漁業協会のことである。同協会は1948年2月に以西底曳網漁業者 を組織して結成され、漁区拡張の請願を積極的に行った。 (27)『国際漁業資料』第九號 1952年7月 p61。. (28)『国際漁業資料』第九號 1952年7月 p61∼p62。 (29)哀克勤『アメリカと日華講和一米・日・台関係の構図』(柏書房2001年)p40。 (30)『国際漁業資料』第九號. 1952年7.月 p62。. (31)『国際漁業資料』第九號. 1952年7月 p62。. (32)『国際漁業資料』第九號. 謠¥號. 1952年7月 p63。 1952年9月 p82。 1952年9月.p82。. (35)『国際漁業資料』第十號. 1952年9月 p82。. (33)『国際漁業資料』第十號 (34)『国際漁業資料』9. (36)『国際漁業資料』第十號. 1952年9月 p83。 (37)日本人漁業者が台湾を根拠地として南シナ海や東南アジア海域で操業するという構 想は、日本統治期の台湾においてすでに志向されていた。「南方漁業開発会社」構想 は、日本統治期の台湾漁業とその後の台湾漁業の「連続」の側面と考えることがで きるかもしれない。今後の研究課題の一つとしたい。. 一89一.
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