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ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生(二) -『バルザズ・ブレイス』以前のラヴィルマルケ-

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ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

- ﹃パルザズ・プレイス﹄以前のラヴイルマルケ -Ⅴ パリの自由主義的カトリック

パンション・バイイ さて'パリにやってきたラヴイルマルケが腰を落ち着けた先は'エストラバード広場の「パンション・バイイ」Pension BaiEyであった。法科大学にほど近いこの施設には'両親の勧めですでに兄も住んでいたのである。ところで、このパン ションはただのパンションではなかった。 主人の名は'エマニユエル・バイイEmmanuelBailly。ノール県サン・ポールに生まれ、アミアンで司祭となるべ-敬 育を受けたこの人は'ソワソンの中等神学校で教鞭をとったのち、一八一九年、パリのカセット通-にパンションを開-。 寄宿生の大半は法科大学の学生で'故郷ノール県はもちろんのこと'ブルターニュやヴアンデなどカーリック信仰が篤い フランス西部地方の出身者が多かったという。実際、ラヴイルマルケ以前にも'ブルターニュ出身の静々たる人物が幾人 もこのパンションで青年時代を過ごしていた(1)。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 ところで、バイイがパンションを開いた王政復古期は'またフランスにおけるカトリックの復活の時代でもあった。 「大革命」以後'四半世紀にわたって冷や飯を喰わされてきたこのかつての国教は'一八一四年'ナポレオンがエルバ島 に流されるや'フランスを再びキリスー教徒の地とすべ-活発に動き始める。ブルボン朝の復活とアンシャン・レジーム への完全な復帰を目指す過激王党派は勢力を拡大し、教育制度におけるカトリックの牙城であったイエズス会もまた息を 吹き返しっつあった。 文 学 で は 、 す で に シ ャ ト ー ブ リ ア ン が ﹃ キ リ ス ト 教 精 髄 ﹄ G e n i e d u c h r i s t i a n i s m e ( 1 八 〇 二 年 ) や ﹃ 殉 教 者 ﹄ L e s M a r t y r s (一八〇九年)を発表してキリスト教に新たな息吹を吹き込んでいた。が'王政復古期に過激王党派の理論的支柱を提供 し た の は 、 ル イ ・ ド ・ ボ ナ ル ド L o u i s d e B o 邑 d t ジ ョ ゼ フ ・ ド ・ メ -ス ト ル l o s e p h d e M a i s t r e t   フ エ リ シ テ ・ ド ・ ラ ム ネ -F e l i c i t e d e L a m e n n a i s ら カ ト リ ッ ク 思 想 家 の 著 作 だ っ た 。 彼 ら は と も に 理 性 の 行 き 過 ぎ を 戒 め ' 個 人 の 理 性 は 神 の 存 在 を 認めずして確実性に到達することはできないという伝統主義を説いていたが'メ-スールやラムネIはさらに教皇の無謬 の権威こそ信仰における個人と社会の機軸であるとする教皇至上主義を唱導してもいた。 「教皇至上主義のジュピター」と緯名されたバイイはtと-わけラムネIの思想の熱心な信奉者だった。しかも彼は' 過 激 王 党 派 の 秘 密 組 織 と し て 知 ら れ る 「 コ ン グ レ ガ シ ョ ン 」 C o n g r e g a t i o n d e l a S a i n t e -V i e r g e の メ ン バ ー で も あ っ た の で あ る。しかしこうした事実から、ただちに彼を旧弊かつ頑迷なカーリック信徒と考えてはならない。それどころか、バイイ の本領はむしろ活発な議論と学問を好むその開かれた態度にこそあった。その姿勢がと-に顕著になるのは七月革命以降 で あ る が ' す で に こ の パ ン シ ョ ン を 設 立 し た 当 時 か ら ' バ イ イ は   「 文 学 の 会 」 S o c i e t e l i t t e r a i r e な る 会 合 を 組 織 し て 若 い キ リスト教徒たちを集め'定期的に自由な発表や討論の場を提供していたのである(2)。 さて'シャルル十世の側近の貴族や高官など二千人に及ぶ会員を誇った 「コングレガション」は'宣教や慈善事業など

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を 目 的 と し た 広 大 な 支 部 組 織 を ' フ ラ ン ス 全 土 に 網 の 目 の よ う に 張 -め ぐ ら し て い た . 「 慈 善 事 業 団 」 S o c i e t e d e s B o n n e s ( E u v r e s や 「 カ ト リ ッ ク 良 書 普 及 会 」 S o c i e t e c a t h o l i q u e d e s b o n s l i v r e s な ど ' そ う し た 組 織 は 六 十 あ ま -あ っ た と 伝 え ら れ て い る が ' 一 八 二 三 年 に 創 設 さ れ た 「 善 さ 研 究 会 」 S o c i e t e d e s B o n n e s E t u d e s も そ の ひ と つ だ っ た ( 3 ) 。 「善さ研究会」 の目的は'まず王党派の理念に忠実な青年たちを育成することにあった。カーリックにとっては'まず 青少年の教育を教会の手に奪い返すことが急務であ-'この組織ももともとその一環として設立されたのである。ところ で当初フォセ・サン・ジャック通-にあったこの研究会は'創設の翌年'エスーラバード広場へと移転する。新しい施設 は階段教室や読書室つきの図書室まで備えた広大なものだった。当時は出版が比較的自由になったせいで'巷では「啓蒙 哲学」をはじめカトリックの理念に惇る書物が'帝政時代以上に大量に出回っていた。しかし'この「書き研究会」 の図 書室からは'そうした「悪書」は一掃されていた(4)。もっともカルチェラタンの中心に位置するこの施設は'この種の純 粋培養にはあま-適してはいなかった。若者たちはやがて創設者たちの思惑とは裏腹に'王党派以外の価値観をも積極的 に受け入れ'社会の変化に対応した新しい信仰の形を模索しはじめるようになる。 こうした彼らの意識の芽生えに、バイイもまた無関係ではなかった。というのも、「文学の会」は'「書き研究会」 の移 転後、その階段教室をしばしば利用するようになっていたからである。のみならず'彼は一八二五年には手狭になったカ セット通りの施設を引き払い、寄宿生ともどもこのエストラバード広場の 「書き研究会」 の建物に移-住んでしまう。こ うして'そのパンションは事実上 「書き研究会」と区別のつかないものになる。小柄な体躯と白髪混じ-の頭のために 「バイイ爺さん」と呼ばれて親しまれた彼は'その活動を通じて次第にパリのカーリック青年の庇護者的な存在となり、 会員数約四〇人と伝えられる「文学の会」には'ときに五〇〇人を越える人が訪れたという。 この 「文学の会」 の実質的な中心人物となったのは、ブルターニュ出身のひと-の若者だった。名をルイ・ド・カルネ ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 L o u i s d e C a m e と い う 。 カルネとデクスタン男爵 ﹃ブルターニュ三部会﹄'﹃十八世紀のフランス君主制﹄など少なからぬ著書を残したルイ・ド・カルネは'一八〇四年' カンペールに生まれた。ソルボンヌで学んだのち一貫して政治畑を歩いた彼は'一八三三年にフィニステール県の県会議 員'三九年には代議士にも選出され'ギゾIのもとで外務省の通商局長などを務めたのち、二月革命を機に政界を引退。 以後は歴史家として著述に専念Lt一八六三年にはアカデミー・フランセ-ズの会員にも選出されるなど'十九世紀のブ ルター1三を代表する知識人として活躍した(5)。そのカルネが青年期に自己形成を遂げた重要な場所が「文学の会」 であ -'彼は創設当初からバイイの信頼を得て'その中心人物として活動したのである。 ここで当時の 「文学の会」 の議事録を紐解こう。カルネの名はその最初期から現れ、議長や秘書として、また多-の会 合の主宰者として記録されている。たとえば一八二三年には'「政治・歴史・文学の観点から考察された任意の一民族の 全史を一貫した方法で研究する計画」を提案し'当時独立をめぐってオスマントルコと争っていたギリシャを狙上に載せ ている。しかもその際には、ギリシャの現状を古代まで遡-つつ論じることの重要性を、線-返し強調することも忘れな い。また翌年には'「叙事詩」をテーマにした朗読会を行い'インドの詩歌や﹃ニーベルンゲンの歌﹄、あるいは﹃オシア ン﹄などを例に引きつつ'フランスにはこの種のものがまった-ないことに注意を促している(6)。 と こ ろ で 、 こ う し た カ ル ネ の 学 問 的 傾 向 の 背 後 に は ひ と -の 人 物 が い た 。 デ ク ス タ ン 男 爵 b a r o n d ' E c k s t e i n で あ る ( 7 ) 。 今日ではほとんど忘れ去られているものの、この人物が王政復古期から七月王政期にかけてフランスの文学・思想界に与 えた影響はきわめて大きなものがあった。若きカルネが「わが唯一の師」と呼んで私淑したのみならず'ラマルチーヌや

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ユゴーもまたその慧眼に一目置き'しばしば彼に助言を仰いでいたのである。 この時代'学問の世界では'ギリシャ・ローマの威信が揺らぎ始めていた。ウィリアム・ジョーンズの有名なサンスク リット研究を始め'年々増大するギリシャ・ローマ以外の言語や文明に関する知識は、永ら-西洋文明の規範となってき たこの両文明から'その権威を奪い去った。と-わけフランスでは'ナポレオンの没落がそれにさらに拍車をかけた。こ の傾向は'しばしばギリシャ・ローマと同一視された合理主義にたいする反発と相侯ってさらに増幅された。こうした趨 勢の一翼を担ったのが'ほかならぬデクスタン男爵だったのである。 デ ク ス タ ン 男 爵 ' こ と フ エ ル デ ィ ナ ン ・ エ ク ス タ ン F e r d i n a n d E c k s t e i n の 生 涯 に は 謎 が 多 い 。 男 爵 と 名 乗 っ て は い る が ' 男爵の家系でもなければ、爵位を受けた形跡もない。その豊富な東洋語の知識も、どこで身に付けたのかは詳らかでない。 知られているところでは'一七九〇年'デンマークに生まれ'ハイデルベルク大学で、文献学の泰斗クロイツァー Creuzerや著名な東洋学者ヴイルケンWi芹enらに師事したという。またシユレ-ゲルSchlege-との親交もあへその師弟 関係は大変に緊密なものであったとも伝えられる。いずれにせよ'こうした経歴や交友関係を背景に'デクスタンはフラ ンスにおけるドイツの新しい学問や思想の動向を伝えるスポークスマンとして活躍したのである。 なかでも重要なのは'一八二五年に創刊された雑誌﹃カーリック﹄ の編集である。そこで彼は'ドイツにおける文献学 や神話学などの最新の学問的成果を伝える一方、サンスクリッー語をはじめとするその豊富な語学力を活かして'﹃ラー マーヤナ-﹄や﹃マハーバーラタ﹄、﹃ニーベルンゲンの歌﹄や北欧の﹃サガ﹄'さらにはアイルランドやアラブやボヘミ ヤの民衆歌にいたるまで、フランスで闇まだなじみの薄かった諸民族の歴史や伝承を積極的に翻訳・紹介した。 こうした探索を通じてデクスタンが求めていたのは'いわばカトリックの正当性の学問的な基礎づけであった。それは 諸民族の起源には共通して「神」 の観念が見られ'そこに原初の 「啓示」を垣間見ることができるという確信によって支 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 えられていた。たとえば'彼はつぎのように言う。 それがいかに堕落したものであれ'あらゆる原始的な信仰のうちには、と-わけ人類の揺藍期にもっとも近いアジア ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● の教義のうちには、伝統的な啓示的真理の源泉がある。それをカーリシズム以前のカーリシズムと呼ぶこともできよ 1 つ ( 8 ) ○ デ ク ス タ ン に と っ て ' 異 教 徒 の 信 仰 の 起 源 を 探 究 す る こ と は 、 そ の ま ま カ ト リ ッ ク 信 仰 の 原 初 的 な 形 態 を 明 ら か に す る こ と で あ り ' そ の 普 遍 性 を 保 証 す る は ず の も の だ っ た の で あ る 。 も っ と も 、 こ う し た 考 え は シ ャ ト ー ブ リ ア ン や メ -ス -ル や ラ ム ネ I に よ っ て も す で に 主 張 さ れ て い た も の で あ -、 カ ト リ ッ ク の 伝 統 主 義 に お い て は け っ し て 目 新 し い も の で は な か っ た ( 9 ) 。 デ ク ス タ ン の 新 し さ は 、 な に よ -も 彼 が そ う し た 思 考 を 展 開 す る 際 に 援 用 し た 豊 富 な 資 料 と 学 識 に あ っ た の で あ る 。 と こ ろ で 、 そ の 編 集 ・ 執 筆 の 大 半 を デ ク ス タ ン の 独 力 に よ っ た こ の ﹃ カ ー リ ッ ク ﹄ は ' 1 八 二 九 年 、 そ の 発 刊 を 停 止 す る 。 し か し そ の 同 じ 年 ' 彼 の 周 囲 に 集 ま っ て き た 青 年 た ち が ﹃ コ レ ス ボ ン ダ ン ﹄ L e C o r r e s p o n d a n t を 創 刊 す る と ' デ ク ス タ ン は 再 び そ の 中 心 人 物 と な る ( -0 ) 。 バ イ イ が 資 金 を 援 助 し ' 編 集 責 任 者 と し て カ ル ネ と エ ド モ ン ・ ド ・ カ ザ レ ス E d m o n d d e C a z a l e s l H ) が 名 を 連 ね た こ の 雑 誌 は ' 古 代 オ リ エ ン ト や ケ ル ト や ス カ ン ジ ナ ヴ イ ア な ど ギ リ シ ャ ・ ロ ー マ 以 外 の 諸 文 明 を 重 視 す る と い う そ の 編 集 方 針 に お い て 、 ま さ に ﹃ カ ー リ ッ ク ﹄ を 引 き 継 ぐ も の だ っ た 。 し か し こ の 雑 誌 の 寿 命 も 長 -は な か っ た 。 一 八 三 〇 年 に ラ ム ネ I が 名 高 い ﹃ 未 来 ﹄ L ' A v e n i r を 創 刊 す る と 、 思 想 的 傾 向 に お い て 相 似 た ﹃ コ レ ス ボ ン ダ ン ﹄ は ' カ ル ネ い わ -「 巨 船 の 荒 々 し い 航 跡 に 呑 み 込 ま れ た 小 船 の よ う に ( : ) 」 消 え 失 せ '

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翌一八三一年に内容を一新'﹃ルヴユ・ユーロペエンヌ﹄Revueeuropeenneと改称して再スターIを切ることになる。 ﹃ブルターニュとその歴史について﹄ この ﹃ルヴユ・ユーロペエンヌ﹄においても'ルイ・ド・カルネは主要な執筆者のひと-だった。彼はそこに﹃王政復 古 の 歴 史 に つ い て の 考 察 ﹄   V u e s s u r u h i s t o i r e d e l a R e s t a u r a t i o n な ど 多 -の 論 考 を 寄 稿 し た が 、 こ こ で わ れ わ れ が 注 目 し た い の は ' 一 八 三 二 年 に 掲 載 さ れ た ﹃ ブ ル タ ー ニ ュ と そ の 歴 史 に つ い て ﹄ D e l a B r e t a g n e e t d e s o n h i s t o i r e で あ る 。 以 下 ' 簡 単にその内容を見よう。 著者はまずダルジャントレやロピノーやラトウール・ド-ヴエルニユの名を引きつつ'ブルターニュは他の地方に比べ 多-の歴史家に恵まれているものの'その記述の大半は政治史に限られていると指摘する。しかもその論点たるや'もっ ぱら過去における独立である。ブルターニュの歴史を政治史に還元するこうした姿勢ほど間違ったものはない、とカルネ は 言 う 。 そもそも歴史家が誇る過去のブルターニュの独立など'ヨーロッパの政治史上'大きな影響力をもったことは一度もな い。デユ・ゲクランからアンヌ・ド・ブルターニュまで'ブルターニュが誇る歴史上の人物は'ブルターニュというよ-はむしろフランスの歴史に属している人たちである。独立国という過去の栄光に執着する限-'ブルターニュを他の地方 から分かつ真の独自性は見えてこない。 ブルターニュのナショナリテはたぶん独特なもので'それはいまも消え去っていない。いわんや過去においては尚更 である。しかし、それは都市のサロンや大通-を走る乗合馬車のなかにないように'歴史のなかにもない(鷲 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 では'それはどこにあるのか。この問いにカルネは「風景のなかで形成される歴史、霧のなか、あるいは砂浜の上の白 い「ドルメン」にかかる波の音のなかに書き込まれる歴史'すなわちいま生きている歴史(:)」のなかにtと詩的に答える。 っ ま り ' ブ ル タ ー ニ ュ に 必 要 な の は 「 詩 」 p o e s i e な の で あ る 。 われわれは詩の源泉にまで分け入っていこう。廃嘘の信仰を信じ'廃櫨に問いかけることができる旅人が'われわれ の野趣に富んだ土地を一歩一歩進む度に拓けてくる'あの詩の源泉にまで(ほ)。 カ ル ネ が 例 と し て 挙 げ る の は ' た と え ば シ ユ ヴ ア リ エ ・ ド ・ フ レ マ ン ヴ イ ル c h e v a l i e r d e F r e m i n v i l l e の   ﹃ ブ ル タ ー ニ ュ の 古 代 ﹄ A n t i q u i t e s d e l a B r e t a g n e 一 八 二 七 二 八 二 八 年 )   で あ る 。 そ こ で は 旅 人 が 古 代 の 影 を 迫 っ て 山 に 登 -' 点 在 す る巨石や樹齢数百年の樫の木'清列な水を湛えた泉にその来歴を問う。このような姿勢こそが、この地方に向き合うとき の正しい態度なのだtとカルネは言う。ブルターニュの独特な雰囲気をつ-つたのは'史書が語らぬキリスト教渡来以前 の闇の時代であ-、その名残はいまも風景や遺跡のなかに刻みつけられているからである。 このときひとつの場所が特権的なものとして浮かび上がる。バス・ブルターニュ地方である。なぜか。それは'当時、 この地方だけがローマの侵略を免れ'古のケルトの言語や文明をそのまま保存したと考えられていたからである。この仮 説は今日ではほとんど支持を得ない(2)。しかし、カルネはこれを論拠に、キリスー教の渡来に関する次のような確信を導 き出した。すなわち'「バス・ブルターニュ地方では'キリスー教とそこに淵源する近代文明は、ガリアとドルイドの古 い 幹 に 接 木 さ れ た の で あ る ( 」 ) 」 。 彼の主張を聴こう。バス・ブルターlニ地方にキリスー教を伝えたのはローマ人ではない。アイルランドから来た宣教

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師たちである。しかも彼らはその信者をうまずドルイド階級のうちに兄いだした。いうなればドルイド教は'キリスト教 の到来を前に'自ら道を譲ったのである。「人類のあらゆる宗教的伝統は、カトリック信仰の崇高な統一のうちに寄-集 い、調和する」がゆえに。「キリストが破壊のためではな-、仕上げのためにやって来た」がゆえに。「消滅させるのでは な -' 聖 化 す る た め に 来 た ( 2 ) 」 が ゆ え に 。 こうしたカルネの主張のうちに'デクスタンを始めとするカーリック思想家の影響を見るのは容易だろう。つま-、ブ ルターニュはここで'その始原における異教との穏やかな融和のゆえに'カーリックの普遍性を保証する理想的な場所と して立ち現れて-るのである。 「詩」 の土地ブルターニュは'「妖精」 や「円卓物語」を生んだ。メルランもタリエシンもモルガ-ヌもアーサー王の 家臣の大半も'皆ここで生を享けた。中世騎士道文学もまずプルーン語で書かれ'それからノルマン語やプロヴァンス語 に 翻 訳 さ れ た の で あ る   . ( 2 ) 0 こう主張するカルネの論文にはt のちのラヴイルマルケのブルターl三像を構成する要素が'ほぼすべて出揃っている。 ラヴイルマルケがパリに出るよ-も早-'そのブルターニュ像の土台となる部分は'実はすでにカルネの'あるいは 「文 学の会」 の周辺であらかた準備されていたと言っていいだろう。 ﹃ 州 の 復 活 に つ い て ﹄ ところで、ブルターニュという旧州名は'大革命後'「州」provinceに代わって「県制」が施行されたとき'すでにフ ランスの地図から消えていた。しかし、だからといってそれは州がフランス人の生活習慣から消え去ったことを意味して はいなかった。実際'先のカルネの論文とほぼ同じ頃﹃ルヴユ・ユーロぺエンヌ﹄に掲載された論文﹃州の復活について﹄ ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 D e l a r e s u r r e c t i o n d e s p r o v i n c e s は ' ま さ に そ の こ と を 問 題 に し て い た 。 「 一 ブ ル ゴ ー ニ ュ 人 」 と の み 署 名 さ れ た こ の 論 文 は'なぜ優れた人材を擁した王政復古が脆-も崩れ去ったかを問い'こう言っている。 七月の破局が露わにしたものがあるとすれば'それはまさに一個の体制が抱えていた本来的な欠陥である。それはあ ま-にも現実にそぐわず'庶民の生活習慣と離れていたため'そよと風が吹いただけでふっ飛んでしまったのだ(8)0 ここで言われる「本来的な欠陥」とはほかでもない'中央集権体制である。王政復古は税制の整備に汲々とし、森林法 によって市町村を収用し、あらゆる利益をパリに'あらゆる財を証券取引所に集中させ'パリの官吏によって地方の有力 者の力を弱め'州を無力化した。地方ではパリから派遣された知事が雇用の四分の三を撞-'年功序列と縁故主義が幅を 利かせ'いかに有能な若者といえども将来に希望がもてず'なかにはパリに出てジャーナリズムに身を投じ'体制に噛み つ-者もいた。こうした事態を変える方途として、望ましさは州の復活であるt と著者は言う。 ああ'貧し-痩せ衰えたパリ、人で溢れるこの街の代-に、どうか私に州を与えてもらいたい。主邑はもちろん、教 育 ・ 行 政 ・ 産 業 に 携 わ る 数 々 の 施 設 と 、 ひ と つ の 政 府 を 備 え た 州 を ( S ) 。 しかし、なぜ州なのか。それは'県が人工的な行政区分であるのにたいして、州はそれぞれが「明確なナショナリテ」 によって特徴づけられているからだ。「州とはナショナリテであ-'さもな-ば何ものでもない(H)」。しかも'「それはい ま だ に 消 え 去 っ て は い な い ( a ) 」 。

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フランスの地図にノルマンディーやブルターニュはもはや存在しないが、ノルマン人やブルトン人は'フランス人と 同 様 ' い ま も 存 在 す る し 、 今 後 も 存 在 す る だ ろ う ( 3 ) 0 かつては多-の優れた人材が'パリのサロンを知らず'州から生まれてきた。しかし州なきいま'そうした人材もない。 「ドイツを見るがいい」と著者は言う。「その知的豊かさはただ一個の街が独占的に所有するものではない。ベルリンには フンボルト'アンシォン'サヴイニー'ヘーゲルのような人々がいる。ミュンヘンにはシェリングやバーダーやゲレスの ような人材がいる。ワイマールにはゲーテのほか'ヘルダーやヴイ-ラントやシラーがいる。ハイデルベルクやイエナや ゲッティンゲンもまたそれぞれに今をときめ-才能をもつvcmJ」。 真に力強い才能はパリの温室からではな-、州の自然な樹液によって生まれるのだ。州という明確なナショナリテに基 づく自然な区分を'いま一度行政単位として復活させることが'フランスに活力をもたらすことになるのではないか。一 八一四年には不可能であったそれは'アンシャン・レジームへの恐怖が薄らいだいま'十分に可能なのではないかtと著 者は言う。いずれにせよ'「フランスが県に細分化されている限-、われわれは何もできまい(S)」。 「一ブルゴーニュ人」がこのような主張をするのは'理由のないことではなかった。というのも'当時のブルゴーニュ' わけてもディジョンとブザンソンは'伝統主義とラムネ-思想の牙城のひとつだったからである。一八二一年に創設され た 「 デ ィ ジ ョ ン 研 究 会 」 S o c i e t e d ' e t u d e s d e D i j o n は 、 バ イ イ の 「 文 学 の 会 」 と も 縁 が 深 か っ た ( S 3 ) 。 家 族 や 州 の よ う な 自 然 な共同体が生活の基本単位であるという考えは、当時カーリックの周辺ではかなり根強いものだったのである。ちなみに' ラムネIの雑誌﹃未来﹄もまた'地方分権と地方の自由をその主要な要求のひとつとして掲げていた。 ■ しかし,それにしても'なぜ州なのか。あるいは'なぜこLJにきて州の自然なまとま-がことさらに強調されるように ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 なったのか。それを理解するために、ここでひとつの語に注目してみたい。それはさきのカルネの論考にもしばしば登場 していた「ナショナリテ」という語である。ほかでもない'州の問題がクローズアップされてきた背景には、この語の存 在が少なからず関与しているように思われるからだ。以下'その来歴を辿ってみよう。 「ナショナリテ」の誕生 今日、主に「国籍」の意味で使用される「ナショナリテ」という語がはじめてフランス語に登場するのは、一八〇七年' スタール夫人の小説においてである(S)。それもたった一度き-で、以後は有名な﹃ドイツ論﹄ のなかにすら現れない。 「 ナ シ ョ ン 」 n a t i O n と い う 語 の 登 場 が 二 一 七 〇 年 ' 「 ナ シ ョ ナ ル 」 n a t i O n a -が 一 五 五 〇 年 ' 「 ナ シ ョ ナ リ ズ ム 」 n a t i O n a -i s m e が一七九八年であるから'この語の登場はまた随分と遅い。ちなみに辞書にはじめて記載されるのは'一八二三年。一般 に知られるのはさらに遅-、フリードリッヒ・ルードヴイッヒ・ヤーンFriedrichLudwigJahnが一八一〇年に出版した ﹃ ド イ ツ の 国 民 性 ﹄ D e u t s c h e s V o l k s t u m の 仏 訳 本 ﹃ ナ シ ョ ナ リ テ の 研 究 ﹄ R e c h e r c h e s u r l a n a t i o n a l i t e 一 八 二 五 年 )   が き っ か け で あ っ た 。 ところで、この本のドイツ語原題に見えるVolkstumという語は'もともとヤーンの造語であった。この時代、ナポレ オンの侵攻によって国民意識に目覚めたドイツでは、フランス革命の 「国民」概念を換骨奪胎しっつ、独自の国民意識を っ -あ げ よ う と す る 試 み が 進 め ら れ て お -、 こ う し た 時 流 の な か で ' ヤ ー ン は n a t i o n a l t N a t i o n a l i t a t t N a t i o n a l e i g e n t i i m -1igkeitなど既存のフランス語起源の語桑に訴えることな-'自ら新しい概念を生み出したのである。そしてこのVolkstum の訳語として'仏語版の翻訳者ロルテP.Lortetが採用したものこそ'ほかならぬ 「ナショナリテ」だったのである。彼 は   「 序 文 」   に こ う 書 い て い る 。

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この著作の表題に使われている「ナショナリテ」という語は、おそら-純正論者にはけしからぬものと映るだろうLt 書物の内容を表題から判断しようとする人たちを満足させるものではない。しかし私はフランス語のなかでほぼ同じよ うな意味で使用される語として'これ以上のものを見つけることができなかったのだ(8)。 このロルテの言葉は'当時のフランスでは、まだ「ナショナリテ」という語の使用に相当な抵抗があったことを雄弁に 物語っている。もっともその抵抗感のゆえに'この語が造語の訳語として相応し-感じられたこともまた確かであろう。 では、当のヤーンはそもそもこの語で何を言おうとしていたのだろうか。いまなおドイツ民俗誌の創始者として記憶され るこの人は'この著作の 「序文」 のなかで'つぎのように書いている。 i 個体性を集め、それをグループに束ねるこの力は'そうして形成された一個の全体を、さらに大きな集ま-へと結び つけ'それを諸世界の配置へと関連づけて'その集積が揺るぎない堂々たる総体を形成するまでに至らしめる。いかに 優勝的かつ広大な人間の諸社会をも結びつけるこの結合力は'国民にあっては、「ナショナリテ」以外の名をもたない。 すべて国民なるもの - その慣習的な存在様態(固有の本質)、その運動と生、その再生産の力、その伝達能カ ー は ここに原因する。かくて思考や感情、愛や憎悪'満足と悲哀、忍耐と行動'喪失と享受'希望と欲望、予感と信念は、 国民的な一個の性質をもち、国民のあらゆる部分に影響を及ぼす。無数の杵が、その自由や独立を損なうことな- 、個々 の人間を均質な共同体に束ねている。われわれの言語はもちろん'管見の及ぶいかなる言語にも、変化しっつも不変で あ-(--)'転覆させることも滅ぼすこともできず'あらゆる国民の歴史を浸すこのものを表現する言葉はなかった の だ ( 8 ) 。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二) ∫ . ・ 1 、 . , 」 " -■ ヨ 1 ∵                 り               -                    ト   J h 1 = い             1   ー 旬 T ・ 小 ぺ 日 日 い い 1 ・ ・ 一 -・ 1 話 芸 月       昌 r

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梁     川     英     俊 ドイツ的思考の特質を残すためできるだけ意訳は避けたというロルテの言葉通-'その訳文はけっして読み易いもので はない。しかしそれはまたその難解さゆえに'国民に共通の性質を付与する「実体」としての 「ナショナリテ」という概 念を説明することが'当時はまだどれほど困難であったのかを逆に物語っているとも言える。実際'王政復古時代には' この語を自分の術語として使う人はまだ稀だった。その使用が一般的になるのは'七月革命以後のことであ-'わけても 多用したのは'親ドイツ派の作家たち'なかでもオーギエスタン・ティエリをはじめとするドイツ歴史学の影響を強く受 けた歴史家たちであった。ヘルダー以後のドイツ・ロマン派の思想をフランスに伝える上で'このヤーンの書物が果たし た役割はけっして軽視されるべきものではない。 いずれにせよ、こうした事情を考慮すると、さきに見た﹃ルヴユ・ユーロペエンヌ﹄ におけるこの語の使用は、かな-早いものであったことがわかる。ちなみに'カルネの論文でこの語が使われるのは五回'﹃州の復活について﹄ では実に 十一回である。この雑誌におけるドイツ思想の浸透は'無視し得ぬほど大きなものだったと言わなければなるまい。 ともあれ'「国民」 や「州」という問題系のなかに、この 「ナショナリテ」という実体概念が流通することで'当時の 思考がどれほど影響を受けたかは想像に難-ない。なによ-も'それは従来実体としては表象し得なかったような事象の 下に'実体を想定することを可能にしたのである。 ところで'一八三八年'この 「ナショナリテ」という語に次のような定義を与えた人がいる。「個人にあっては人格を つ く る 思 想 の 永 続 性 が ' 諸 国 民 に あ っ て は ナ シ ョ ナ リ テ を 形 成 す る ( ; ) 」 。 名 を フ レ デ リ ッ ク ・ オ ザ ナ ム F r e d e r i c O z a n a m と い う 。 篭 患 朗 糾 -誘 い     司 郎 名 目 習 喜 判 別 鷲 熊 山 r 〓 ⋮ H m " 朝 " y : 召 腰 ■ 召 . J ・ 号 当 山 引 H m 月 n

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一八三〇年'「栄光の三日間」を皮切-にはじまった七月革命は'カトリックに壊滅的な打撃を与えた。かつて「神の 祝福」 によ-国王となったシャルル十世は退位を余儀な-され'聖職者が僧服を着て街を歩-こともできなかったと言わ れる、激しい反教権主義の嵐がフランスに吹き荒れる。そtてこの嵐は、「コングレガション」や「書き研究会」など' 復古王政期のカーリックの牙城をつぎつぎと解体していった。続-「市民王」 ルイ・フィリップとともに現れたのは'反 カーリック的なブルジョワ王政だった。国家の後ろ盾を失ったカトリックにたいして'自由主義陣営はジャーナリズムで' 大学で'法廷で'容赦ない攻撃を浴びせかけた。 こうした厳しい逆風のなかで'ほかならぬパンション・バイイを拠点として'あるべきカトリックの新しい姿を求める 一群の青年たちが現れる。その中心にいたのが'フレデリック・オザナムであった。 今 日 、 貧 者 の 救 済 を 目 的 と し た 団 体 「 ヴ イ ン セ ン シ オ ・ ア ・ パ ウ ロ 会 」 S o c i e t e d e S a i n t V i n c e n t d e P a u l の 創 始 者 と し て 知られるオザナムは'一八二二年'ミラノに生まれた。幼少年期をリヨンで過ごした彼は'一八三一年にパリに上-t は どな-バイイと出会う。オザナムは当時を振-返ってこう言っている。 ある友人にそこを訪ねるように薦められ'その扉を開けたとき'「書き研究会」はもうほとんどその名残をとどめて いなかった。例の文学集会は'プチ・ブルボン・サン・シエルビス通-'七一番地にあった'バイイの新聞﹃ーリビュー ン・カーリック﹄ の狭苦しい編集室のなかに閉じ込められ'勉強会には辛うじて十五人ほどのメンバーが残るのみだっ た。しかも、およそ学問的とは言い難いその環境は、真面目に何かを追求するには向いていなかった。そのおずおずと した対話からは'過去や未来に関する高連な問題など生まれて-るはずもなかった(鷲 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 これが七月革命直後におけるバイイの周辺のあ-さまだった。しかしこうした絶望的な状況のなかで'バイイはいま一 度学生たちの集会を立ち上げようと考える。カトリックの学生ばか-ではない。今度はいかなる思想信条をもった学生に も広-門戸を開放し、以前にも増して自由な討論を行なおうと提案するのである。こうして'彼らは一八三二年暮'メン バ ー の 選 択 に 取 -か か る 。 会 は 「 歴 史 ・ 哲 学 協 議 会 」 C o n f e r e n c e d ' h i s t o i r e e t d e p h i l o s o p h i c と 名 づ け ら れ ' オ ザ ナ ム は 早 速その副議長に任命された。 候補者は多様です。私たちは優れた知性をもつ数人の若者を採用しました。ヨーロッパ数カ国を旅した者、美術理論 家'経済学の学徒もいますが、大半は歴史研究に携わってお-'わずかながら哲学を専攻する者もいます。これら才能 あふれる若者たちのなかには、途中で死んだ-'生活上の困難によって妨げられた-しなければ'詩人になる者だって い る で し ょ う ( 8 ) 。 こうして、パンション・バイイに新しい風が吹きはじめる。翌年、オザナムはこう言う。「かつてメンバーであった幾 人か人の尽力のおかげで'いまやこの会は目覚まし-拡大しました(g)」。さらに、「今日'「協議会」 には六〇人近-集ま -ました。そのなかにはすごいひともいます。集った場所は広かったのですが、人で一杯でした(g)」。 実際、この会は一年で会員数を四倍にした。こうした躍進の背景にあったのは'むろん宗派や政治的立場を問わぬこの 会の開かれた姿勢であった。そこにはヴオルテール主義者や理神論者、サン・シモン主義者も姿を見せ、活発な議論が展 開されたのである(8)。オザナムは書いている.「演壇ではさまざまな意見が乱れ飛びました。議事録でこうした舌戟の記 録を読めば分か-ますが、この議論は真理への愛の結果なのです。意見が違うときでも'「協議会」 のメンバーは心では

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つながっていました(」)」。あるいは、「討議はあらゆる意見に開かれています。サン・シモンの教義にさえ。プログラムか ら外された政治を除いて'議論の領域は無限であ-'すべて完全に自由なのです(A)」。 そして'われらがラヴイルマルケは'まさにこうした時代にパンション・バイイにやって来たのである(8)。首都の青年 たちの活発な議論は'田舎育ちの若者にはさぞや鮮烈な印象を与えたに相違ない。ここはやは-ラヴイルマルケ自身に語っ てもらおう。 た-さんの若者がきていた。年長者のなかには'かつて「善さ研究会」 に属していた者もいたが'集まって-るメン バーには新顔が増え、歳も若がえ-、人数も多-なっていた。主宰者は尊敬すべきバイイ氏で'施設も彼が提供してい たが、その精神はいよいよ学問的かつ自由主義的になっていた。議長はオザナムがつとめ'集ま-は「歴史協議会」と よばれた。そこでは宗教・哲学・歴史・文学に関するあらゆる高尚な問いが真剣な議論の対象となっていたのである。(--) オザナムは何度か発言した。その発言は喝采をうけたが、彼の書簡にはそのときの発言の一部が見つかる。「未来はわ れわれのまえに大洋のようにひろがっている。勇敢なる船乗-たちよ。同じ船に乗-'ともに漕ぎだそう。われわれの 頭上には「宗教」がある。われわれが従うべき輝かしい星だ。われわれのまえには偉人たちや'われわれの祖国や教義 が残した輝かしい航跡がある。背後にはわれわれの若き兄弟や仲間たちが、おずおずと手本を待ち望んでいるのだ。」(讐 とはいえ'ラヴイルマルケはこのパンションにそれほど長く滞在したわけではなかった。一八三三年暮にそこに来た彼 は'翌三四年には早くもガランシエーヌ通-のクール・デユ・コメルスに移っている。もっとも彼がパリで拠点としたの は'なにもこのパンション・バイイばか-ではなかった。彼にとってよ-親密で心おきない集いが'この首都にはあった ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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の で あ る 。 梁     川     英     俊

Ⅵ パリのブルトン人

クルシー兄弟の屋根裏部屋 一 八 三 〇 年 代 ' パ リ 在 住 の ブ ル ト ン 人 が 寄 -集 っ た 代 表 的 な 場 所 は ' 「 ア シ ェ ラ ン ス ・ ジ ェ ネ ラ ル 」 A s s u r a n c e s G e n e r a t e s という保険会社であった。この会社を率いたのは'コルヌアイユ地方はカンベルレ出身のオーギエスタン・ド・グルキエ フ A u g u s t i n d e G o u r c u f f 。 「 恐 怖 政 治 」 の 際 に 父 と と も に ハ ン ブ ル ク に 逃 れ 、 十 年 ほ ど 亡 命 生 活 を 送 っ た 彼 は ' そ こ で 保 険 事業を学び、一八一八年、フランスでもっとも早い英独流のシステムによる保険会社を設立したのである。愛郷心に篤い グルキユフはまた職を求めて門を叩-同郷人を積極的に雇用し、その会社はパリ在住ブルトン人のコロニーという趣があっ た ( G ) 。 ところで、「アシェランス・ジェネラル」に集うこうした多彩な階層の人々とは別に'当時パリにやって来るブルトン 人のなかには'官公庁や大学を目指して上京してきた良家の子弟も大勢いた。そしてこの街には'そうした青年たちを遇 するためのサークルもまた少なからずあった。その代表的なものが、ヴイクーワ-ル通-のクルシーCourcy三兄弟の 「 屋 根 裏 部 屋 」   で あ っ た 。 サークルの主宰者、クルシー三兄弟とはどんな人物だったのか。この会合の中心となったのは'二男アルフレッド A l f r e d 。 「 ア シ ェ ラ ン ス ・ ジ ェ ネ ラ ル 」 の 航 海 部 門 の 責 任 者 で ' 「 海 難 者 救 助 協 会 」 の 創 設 者 で も あ っ た が 、 ま た 経 済 学 に も通じ、仕事のかたわら詩や小説にも手を染める才人だった。詳細は不明だが'﹃パルザズ・プレイス﹄ の成立において

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も少なからぬ貢献をしたと伝えられている。三男のポルp0-は、ほかの兄弟と同様、最初「アシェランス・ジェネラル」 で働いたが、やがてブルターニュの考古学研究に専念するために職を辞し'サン・ポール・ド・レオンに移住。地元の新 聞や雑誌に多-の論文を寄稿Lt その道の専門家として知られた。長兄アンリHenriは、アンリ・ド・ラロシュ・エオン の筆名で'バイイによって創刊されたカーリック系新聞﹃ユニヴェール﹄VUniversで活躍したが'惜し-も早逝した。 毎週日曜日'彼らの屋根裏部屋に集う若者たちは'出身地こそカンペール'ヴアンヌ'ランデルノー、モルレ1㌧ ロリ アン'ブレスト等々と多彩だったが'大半がバス・ブルターニュの出身者だった。おもなメンバーを挙げよう。すでに紹 介したルイ・ド・カルネ、彼とともに ﹃コレスボンダン﹄ を編集したカザレス神父'言語学者ルゴニーデックLe G o n i d e c 、 三 十 年 代 か ら ブ ル タ ー ニ ュ の 歴 史 研 究 を リ ー ド す る こ と に な る 歴 史 家 オ ー レ リ ア ン ・ ド ・ ク ル ソ ン A u r e l i e n d e C o u r s o n 、 の ち に   「 ブ ル タ ー ニ ュ 協 会 」 A s s o c i a t i o n b r e t o n n e の 会 長 と も な る 考 古 学 者 ヴ ア ン サ ン ・ オ ー ド ラ ン ・ ド ・ ケ ル ド レ ル V i n c e n t A u d r e n d e K e r d r e l 、 ブ ル タ ー ニ ュ の 歴 史 研 究 や 海 洋 小 説 で も 知 ら れ た ' ガ ブ リ エ ル ・ ド ・ ラ ラ ン デ ル G a b r i e l d e L a L a n d e l l e ' フ ラ ン ス 銀 行 副 総 裁 ' ブ ル ッ ク 侯 爵 m a r q u i s d e P l o e u c t   ﹃ マ リ ー ﹄ M a r i e に よ っ て 一 躍 有 名 に な っ た 詩 人 オ ー ギ ユ ス ト ・ ブ リ ズ ー A u g u s t e B r i z e u x ' さ ら に ﹃ 最 後 の プ ル ー ン 人 ﹄ L e s d e r n i e r s b r e t o n s の 著 者 エ ミ ー ル ・ ス -ヴ エ ス -ル E m i l e S o u v e s t r e な ど 。 い ず れ も t   の ち に 各 界 で 大 き な 活 躍 を す る こ と に な る 人 々 が ' こ の 屋 根 裏 部 屋 で そ の 若き日を過ごしたのである(ァ)。 ラヴイルマルケはパリ到着後はどなくしてここの常連となる。おそら-は'当時の貴族の慣例に従って、ブルターニュ を発つまえからパリに着いたらここに顔を出すよう誰かに紹介されていたのであろう。メンバーのなかで最年少のひと-だった彼は'おそら-その才気換発きゆえに、このサークルでも「末っ子」として可愛がられたに相違ない。「彼はわれ われのささやかなサークルのなかで'誰よ-も熱心だった。そして誰よ-もブルターニュについて語るのが好きだった(S)」 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 と語るのは'ラヴイルマルケと同い年であったケルドレルである。 実際'ラヴイルマルケ自身'こう回想している。 七八 日曜ごとに'皆はそこに故郷を'故郷のことばを'親しい本を、古い歌を、ときに衣装を'壁にかかった版画'きれ いな空気'一片の空'暖かい心のこもったもてなしを'このうえな-勤勉で優し-献身的な故郷の息子たちを兄いだす の だ っ た ( 3 ) 。 この言葉には'おそら-彼がこのサークルに求めていたものが'素直に吐露されている。つまりラヴイルマルケはこの グループに、ほかならぬ故郷ブルターニュを見ていたのだ。パリに来てはどな-'この青年は紛れもな-故郷を懐かしが りはじめていたのである。もっともラヴイルマルケがブルターニュに執着する理由はそれだけではなかった。彼はパンショ ン・バイイを離れる前に'おそら-はその図書室の片隅で一冊の書物と出会い'以来故郷にたいして胸中ひそかにひとつ の 使 命 感 を 抱 -よ う に な っ て い た の で あ る ( 3 ) 。 ラリユ神父の著作 さて、ラヴイルマルケがパンション・バイイで手にしたと思しき書物とは、ラリユ神父abbedelaRueの ﹃中世におけ る ア ル モ リ カ の パ ル ド の 作 品 に 関 す る 研 究 ﹄ R e c h e r c h e s s u r l e s o u v r a g e s d e s B a r d e s d e l a B r e t a g n e a r m o r i c a i n e d a n s l e M o y e n a g e 一 八 1 五 年 ) と い う 七 十 ペ ー ジ 程 の 小 冊 子 で あ っ た ( S ) -著者のラリユ神父、すなわちジェルヴエ・ド・ラリユGervaisdelaRueは、一七五一年、ノルマンディーの生まれ。カ

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ンの大学で教鞭をとっていたが'大革命を機にロンドンへ亡命Lt ワースの ﹃ブリユ物語﹄Brutやマリー・ド・フランス などのアングロ・ノルマン文学の作家たちを研究しながら'その成果をロンドンの古物協会でも発表していた。今日では、 とりわけフランス文学の形成においてノルマンディーが果たした役割の重要性を強調したことで知られているが'オック スフォードで﹃ローランの歌﹄ の最古の写本を発見するという功績でもまた名高い(誓ともあれ'早速その書物の内容を 見ることにしよう。 冒頭'ラリユ神父は次のように言う。 -ルバドウールが南フランスを心地よい歌で虜にLt トルヴェールの英雄物語が北フランスに騎士道精神とその美徳 を広めるよ-もはるか以前に'王国の西方にはケルー人のことばを話し'独特の詩歌をもった民族がいた。それは'数 世紀来変わらぬ言語で記述されていた以上'おそら-はすぐれた詩歌であったに違いな-'しかもそれがフランス文学 とガリア人の原始的な文学との幾つかの接点を与えて-れる以上、われわれにとってはこの上もな-貴重な詩歌であ る ( S ) 。 つまりラリユ神父がこの書物で主張していたのは'ブルターニュにはトルバドウールやトルヴェールがフランスで活躍 をはじめるはるか昔から、ブルトン語によるすぐれた詩歌があったt ということだったのである。実際、「ブルターニュ のレ-」と呼ばれたこの詩歌には、中世のールヴェールたちも称賛を惜しまなかった。しかし残念なことに'今日それが 伝わるのはただフランス語や英語の翻訳によってのみであ-'ブルトン語で書かれた原典はヨーロッパのどの図書館を探 しても見つけることはできない。それゆえ'こうした詩歌がそもそも本当に実在したのかという根本的な疑問も'しばし ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 ば投げかけられてきた。たしかに'トルヴェールたちはそこから素材を採ったと語-はした。しかし'それは単なる決り 文句'あるいは輯晦ではないのか'というわけである。ラリユ神父がこの小著で試みたのは、まさにこうした疑問への反 論、すなわちブルターニュのレIの実在を主張することだったのである。 人はこう言うかもしれない。ールヴェールに賞賛されたアルモリカの原典は今日どこにも見つけることができないが' そうした作品のうち何ひとつ残らなかったなんてあ-得ないtと。私はこう答えよう。その点に関して私は何の調査も しなかったし、そうした過去の文学的遺産が将来見つかる可能性がまった-ないのかどうかもわからない、と。しかし、 だからといって'そんなものは存在しなかったなどと結論することはできないだろう。いろいろな時代に'いろいろな 国で、た-さんの著作家が逆のことを主張しているのだから(5)。 たとえば'十三世紀にマリー・ド・フランスは少なからぬレ-をフランス語に翻訳した。のみならず彼女はまた'それ らが竪琴かローIの伴奏によって歌われたとも伝えている。十二世紀'ノルマンディーの学僧クレチャン・ド・-ロワは' ﹃獅子の騎士﹄、﹃エレックとユニード﹄'﹃クリジエス﹄など円卓の騎士を主人公とする少なからぬ作品を書いたが'これ らもまたブルターニュのレIに想を汲むものと言われている。実際、舞台はブルターニュであ-'登場人物もプルーン人 である。この時代'こうしたレIはたいそう愛好され'少なからぬ数がラテン語やフランス語の散文に訳された。そして、 こうした翻訳からさらにラテン語やフランス語による散文や韻文の円卓物語が生まれたのである。十四世紀には英語の韻 文による作品も登場し、そればか-か北欧語による翻訳さえ現れた。その伝播の範囲はかな-広かったと見ていい、と著 者 は い う 。

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しかし今日伝えられている円卓物語は'こうしたレIの原型をそのままとどめているわけではない。それは物語化の過 程でオリジナルにはないさまざまな変質をこうむった。ワースやクレチャン・ド・ーロワはオリジナルに手を加えたこと を隠さなかったLt 生活のために歌うブルターニュのジョングルールたちは'新たな聴衆を得るべ-素材に粉飾を施すこ とをためらわなかった。名高い ﹃ブリタニア列王史﹄ の著者ジェフリー・オブ・モンマスも、ブルターニュのレ-に基づ く書物の翻訳だと断ってはいるが、実際にはかな-原典に手を加えている。こうしてブルターl言を舞台とする円卓物語 は 、 オ リ ジ ナ ル に あ っ た と は と て も 思 え な い   「 巨 人 」   や 「 竜 」   や 「 蛇 」   や 「 妖 精 た ち 」 が 跳 梁 践 雇 す る 「 不 思 議 」   の 場 と も相成った。そしてこれら神話的要素は'従来言われてきたような東方に因るものではな- 'おそら-聖書に基づ-もの で'「妖精」 についてはもともとブルターニュを起源とするものなのだ、云々-- 。 故郷ブルターニュには'かつて素晴らしい文学的伝統があった -。首都に出てまだ日も浅いブルターニュ出身の一青 年が'この書物を一読してどれほど誇らしい気持ちにさせられたかは想像に難-ない(誓しかもこの書物は、まるでその 青年を鼓舞するかのように'こう結ばれていたのである。 新しい研究によって文学の領域におけるブルターニュの貢献を数え上げ、それを郷土の誇-とするのは、ブルターニュ の 文 学 者 の 仕 事 で あ る ( S 3 ) 。 ラリユ神父への手紙 「随分前から先生に手紙を差し上げた-てたま-ませんでした。」 - 十九歳の青年は八三歳の老人に宛ててこう書き 出す。日付は一八三四年十二月十一日である。 ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 私は著作を通じて先生を存じ上げてお-ました。私はそうした著作を読み、研究し、考え'請んじ'手元にないとき には書き写したりもしました。なぜなら私はブルトン人だからです。そう'先生が私たちの国の文学的栄光を燦然と輝 かせて以来'ブルトン人は皆'私と同様に先生を称賛Lt特別な敬意を抱いてお-ます。しかしひとつ残念なのは'先 生が以後この種のものを出版されてないことです。ここまで書かれて止めてしまわれるなんて'あんまりです。しかし, 私は先生に教えを受けた者として本当に感謝してお-ますLtそのような者として'できれば先生の御助言を仰ぎたい の で す 。 先生がかつて「文学の領域におけるブルターニュの貢献を数え上げ'それを郷土の誇りとするのは、ブルターニュの 文学者の仕事である」とお書きになったとき、十九年後にそれが現実のものとなるとは考えておられなかったのではな いでしょうか。しかし私は現にいま﹃プルーン文学、およびその初期フランス文学との関連についての歴史﹄なる著作 に取-組んでいるのです。私はまさに先生に触発されてこの著作を執筆しようと思ったのであ-、もしこの著を捧げる べき方がいらっしゃるとすれば、それは先生を措いてほかにありません。 っきましては'こうした仕事のために特に参照すべき文献があ-ましたら御教示いただけないでしょうか。またそう した書物をどのように利用したらいいのか御助言を賜れれば幸甚に存じます。(g) この手紙にラリユ神父は、一八三四年十二月二十四日付で次のような返事を送る。 あなた方のアルモリカのパルドについて、しかもその作品について書-なんて'われながら大それたことをしたもの だと思います。というのも'そのとき私は彼らが自分たちの言葉で書いた詩を一行も知らなかったばかりか'そもそも

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彼らの言葉についてすら無知だったからです。とはいえ'わが国の中世の詩人たちに関する研究を進めるうちに'彼ら がしばしば「ブルターニュの短詩」 について言及するのを目にしていたので'この種の詩が私の渉猟した文献に引用さ れているのを見つけたときには'それを書き留めてお-ことにしたのです。私にとって未知なるものながら、しかしフ ランスにおける最初の文学であるこれらの詩について私が書こうとしたとき、頼-にしたのはこうしたノート類だった の で す ( S ) 。 ちょうどこの年'ラリユ神父は新たに加筆訂正を施したこの ﹃研究﹄を、三巻からなる自著﹃アングロ・ノルマンのパ ル ド ' ト ル ヴ ェ ー ル 、 ジ ョ ン グ ル ー ル の 歴 史 に 関 す る 試 論 ﹄ E s s a i s u r V H i s t o i r e d e s B a r d e s , T r o u v e r e s e t J o n g l e u r s a n g l o -normandsに再録したばか-だった。手紙はそのことに触れ、と-わけ第二巻と第三巻に収録された円卓物語に関する論 考を読めば'さらに多-の情報を得られるだろうと述べている。しかし'彼はまたこう付言するのも忘れなかった。「私 にあなたの仕事に関する指針を仰いだ-しないで-ださい。私は知らないのですから(S)」。 ラヴイルマルケは失望しただろうか。もっとも神父はその著作のなかですでに同じ趣旨の発言を繰-返してお-'こう した返答もあらかた予想されたものだったはずである。ちなみに'ラリユ神父はこの翌年に亡-なっている。ラヴイルマ ルケは'生前に書簡を交わせただけでも、まずは幸運としなければなるまい(S)。 ところで'この書物と出会ってのち、ラヴイルマルケは少な-とも一八三四年の暮れまでには'古文書学校の自由聴講 生になっている。これが、さきに引いたラリユ神父宛ての手紙の前か後かは分からない。いずれにせよ、翌一八三五年十 月には正規学生として登録し'一八三七年五月二五日には修了証書を得て'晴れて「王立古文書学校卒業生」 の称号を授 与されている。ともあれ'ラヴイルマルケにとってこうした経緯は'ブルターニュを発つときには想像もしなかったよう ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 なものであったに相違ない。彼はそこでラリユ神父への質問の答えを見つけただろうか。あるいはどんな本を読み'どん な勉強をしたのか。具体的なことは何も知られていないが'その成果はやがて﹃パルザズ・プレイス﹄ のなかで詳細な註 となって結実することになるだろう。 ( つ づ -) ・王 壬 l ロ O J e a n -Y v e s G u i o m a r は 以 下 の よ う な 名 前 を 挙 げ て い る 。 L o u i s d e C a r n e , E u g e n e d e l a G o u r n e r i e , J u l e s d e F r a n c h e v i l l e , A y m a r d d e B l o i , F r a n c o i s R i o , A r b o i s d e J u b a i n v i l l e . C f . J . -Y . G u i o m a r , L e b r e t o n i s m e :   l e s h i s t o r i e n s B r e t o n s a u X I X e s i e c l e , S o c i e t e d ' H i s t o i r e e t ●● d ' A r c h e o l o g i e d e B r e t a g n e e t l m p r i m e r i e d e l a M a n u t e n t i o n , 1 9 8 7 , P . 6 2 . ( 2 )   パ ン シ ョ ン ・ バ イ イ に つ い て は 、 お も に P i e r r e d e l a V i l l e m a r q u e , L a V i l l e m a r q u e , s a V i e e t s e s C E u v r e s , C h a m p i o n , 1 9 2 6 , p . 2 3 ; J . -Y . G u i o m a r , o p . c i t . , p . 6 3 を 参 照 。 ( 3 )   「 善 き 研 究 会 」 に つ い て は 、 お も に L o u i s d e C a r n e , S o u v e n i r s d e m a j e u n e s s e , p p . 2 7 -3 1 ; P . M . N i c o l a s B u r t i n , L e b a r o n d ' E c k s t e i n , E . d e B o c c a r d , 1 9 3 1 , p . 1 4 1 を 参 照 。 ( 4 )   こ の 部 分 は L . d e C a r n e の 記 述 を 参 照 し た が 、 こ れ に は E u g e n e d e l a G o u r n e r i e の 反 論 が あ る 。 「 言 わ せ て も ら え ば ' そ の な か に は ﹃ジユルナル・デ・デバ﹄もあ-'そこで私はイエズス会を漫罵する記述を読んだことがある。一八二五年から一八三〇年にかけて、 「 書 き 研 究 会 」 の 施 設 で t で あ る 」 ( E . d e l a G o u r n e r i e , D e s o r i g i n e s d e l a p r e s s e r e l i g i e u s e , p . 1 2 ) 。 ・ -)   M i c h i l L a r g e e ( s o u s l a d i r e c t i o n d e ) , L a B r e t a g n e , B e a u c h e s n e / I n s t i t u t C u l t u r e l d e B r e t a g n e , 1 9 9 0 , p p . 7 1 -7 2 . ・ 」 > )   J . Y . G u i o m a r , o p . c i t . j p p . 6 4 -6 5 . ( 7 )   デ ク ス タ ン 男 爵 に つ い て は 、 以 下 の 二 冊 を 参 照 。 P . M . N i c o l a s . B u r t i n , o p . c i t ; L o u i s l e G o u i l l o u , L e t t r e s i n e d i t s d ' E c k s t e i n , P U F , 1 9 8 4 . ち な み に 、 カ ル ネ は 叔 父 ケ ラ ー リ ー M . d e K e r a t r y に 導 か れ て パ リ の サ ロ ン を 造 遥 す る う ち 、 ド -ー フ ィ ー ユ 夫 人 M m e d ' H a u t e f e u i l l e のサロンでこの人物と出会ったという。デクスタンはパリのサロンで 「仏陀男爵」baronBouddhaと縛名され、その博識と鏡舌で有

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名 だ っ た 。 ( o o )   i b i d . , I l l , p . m . c i t e p a r P . M . N . B u r t i n , o p . c i t . , p . 2 4 2 . (9) さらに言えば、これはケルトマニアとも同型の発想である。ちなみにケルーマニアについてデクスタンはつぎのように書いてい る。「知られるように'「ケルトマニア」は、言語(スコットランドのゲ-ル語やウェールズ語) の性質に関するきわめて皮相な概 念をもって'世界のいたるところでそうした言語に出会うと主張して'ケルー語をギリシャ語やラテン語やドイツ語の仲間とし、 ヘブライ語やカルデア語と同列に扱い'挙句は楽園のアダムはケルー語を話していたとまで言い放ち、それをいわば神の言葉の 「 顕 現 」 と も し た の で あ る 」   ( L e C a t h o l i q u e , X I , p . 1 9 7 ) 。 一八二九年に創刊されたこの新聞は、一八二八年に発布されたイエズス会の活動を禁止する法令をきっかけに、カーリックが 自 ら の 身 を 守 る べ -創 設 し た 「 カ ト リ ッ ク 教 擁 護 協 会 」 A s s o c i a t i o n p o u r l a d e f e n s e d e l a r e l i g i o n c a t h o l i q u e な る 団 体 の 機 関 誌 で あ っ た。ジャーナリズムのあらぬデマや中傷に関する情報を集め、それに即座に反論できるようにするというのが創刊の目的でt Correspondantという名称もそこに由来する。編集に携わったのは'デクスタンの仕事を手伝っていた青年たちで'大方はバイイの 「 文 学 の 会 」 の メ ン バ ー で も あ っ た と い う 。 C f . E . d e l a G o u r n e r i e , o p . c i t . , p . 2 1 . v r H J   「 大 革 命 」   の 理 念 に 徹 底 し て 反 対 し た 雄 弁 家 J a c q u e s -A n t o i n e -M a r i e d e C a z a l e s の 息 子 で 、 一 八 〇 四 年 生 ま れ 。 一 八 三 五 年 1 1 八 三 七年にルーヴァン・カトリック大学教授、一八四三年に司祭に叙せられ'一八四八年、モント-ヴアン大神学校校長、および憲法 制定議会議員になる。 ( 」 2 )   L . d e C a r n e , o p . c i t . , p . 2 4 9 . も っ と も こ の 二 つ の 雑 誌 の 色 合 い は 似 て は い た が ' し か し カ ル ネ 自 身 は ラ ム ネ I を 嫌 っ て お へ そ の 過 激な路線に同調することはなかった。 ( 2 )   R e v u e e u r o p e e n n e , T o m e V , 1 8 3 2 , p . 2 4 9 . ( 2 )   I b i d . r -H /   I b i d . , p . 2 5 1 . 2) 知られるように、今日では、ブルターニュ地方は一度ローマ化され、もともとそこで話されていた大陸のケルー語は死滅したと 考えられている。つま-現在のプルーン語はt のちにブリテン島からブルターニュに移住した島のケルト人の言語がもとになって ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 成 立 し た も の と い う の が 定 説 で あ る 。 ( 」 h ) R e v u e e u r o p e e n n e , T o m e V , 1 8 3 2 , p . 2 6 1 . ( 2 ) I b i d . , p . 2 6 9 . 2 ) こ の カ ル ネ の 主 張 は フ レ マ ン ヴ イ ル を 下 敷 き に し て い る 。 「 ド ・ フ レ マ ン ヴ イ ル 氏 は 彼 が ケ ル ト 語 で 書 か れ た と 考 え る 物 語 の リ ス ー を 示 し て い る 。 こ の リ ス I に は ' な か ん ず -﹃ ー リ ス タ ン ﹄ や ﹃ 聖 杯 ﹄ や ﹃ 泉 の ラ ン ス ロ ー ﹄ が あ る 。 ( -) ド ・ フ レ マ ン ヴ イ ル 氏 は 、 ア ン リ ・ プ ラ ン タ ジ ュ ネ ツ ト に よ っ て 奪 わ れ た プ ル ー ン 語 に よ る 幾 つ か の 本 の 原 本 は ' い ま な お ロ ン ド ン 塔 か ど こ か イ ギ リ ス の 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い る と 考 え て い る 」 { I b i d . , p . 2 7 1 ) 。 ( S ) R e v u e e u r o p e e n n e , T o m e I I I , 1 8 3 2 , p . 2 9 . / T -I ¥ ¥ C < i ) I b i d . 9 p 3 1 / < M A v c N j j l b i d . , p . 4 0 . ( S 3 ) I b i d . , p . 3 5 . 彼 は ま た こ う も 言 っ て い る 。 「 エ ド ワ ー ズ 博 士 の 観 相 学 的 な 推 論 、 テ ィ エ リ 氏 の 歴 史 研 究 が 出 そ ろ っ た い ま 、 州 の 原 型 が な お 執 掬 に 残 っ て い る と い う こ と を 誰 が 否 定 し 得 よ う か 」 ( I b i d . , p p . , 3 5 -3 6 ) 。 ( 3 ) I b i d . , p . 3 5 . ( 8 ) I b i d . , p 3 3 ( 8 ) I b i d . , p p . 4 4 -4 5 . S i カ ル ネ は ﹃ 回 想 録 ﹄ の な か で こ う 書 い て い る 。 「 私 た ち に も っ と も 有 益 な 力 添 え を -れ た の は デ ィ ジ ョ ン だ っ た 。 ラ コ ル デ ー ル L a c o r d a i r e が そ の キ ャ リ ア を は じ め た デ ィ ジ ョ ン 研 究 会 は 、 定 期 的 に ﹃ コ レ ス ボ ン ダ ン ﹄ に 記 事 を 送 っ て -れ た 」 ( L . d e C a r n e , o p . d t . y p . 1 7 6 ) ( ( 讐 「 ナ シ ョ ナ リ テ 」 の 来 歴 に 関 す る 記 述 は 、 以 下 の 論 文 に よ る 。 G e r a r d N o i r i e l , S o c i o -h i s t o i r e d ' u n c o n c e p t , l e s u s a g e s d u m o t ォ n a t i o n a l i t e サ a u X I X e s i e c l e , G e n e s e s 2 0 , s e p t . 1 9 9 5 , p p . 4 -2 3 . ( c 5 ) F r i d r i c h L u d w i g J a h n , R e c h e r c h e s s u r l a n a t i o n a l i t y , V e s p r i t d e s p e u p l e s a l l e m a n d s e t l e s i n s t i t u t i o n s q u i s e r a i e n t e n h a r m o n i e a v e c l e u r s m o e u r s e t l e u r c a r a c t e r e , t r a d u i t d e P a l l e m a n d p a r P . L o r t e t , 1 8 2 5 , v .

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( 3 2 ) / o o ¥ ¥ c o ) / L O ¥ ( 3 6 ) I i b i d . , p p 1 9 -2 0 F r e d e r i c O z a n a m , E s s a i s u r l a p h i l o s o p h i e d e D a n t e , i n D e u x o e u v r e s d e j e u n e s s e , P a r i s -L y o n , E . V i t t t e , 1 9 1 3 , p . 1 0 8 , c i t e p a r G . N o i r i e l , o p . c i t . , p . 9 . M g r B a u n a r d , F r e d e r i c O z a n a m , D ' a p r e s s a c o r r e s p o n d a n c e , J . d e G i g o r d , E d i t e u r , 1 9 2 2 . p . 5 3 . な お ' オ ザ ナ ム に つ い て は 以 下 の 文 献 も 参 照   O z a n a m , L i v r e d u C e n t e n a i r e , G a b r i e l B e a u c h e s n e , 1 9 1 3 ; B e r n a r d C a t t a n e o , F r e d e r i c O z a n a m l e b i e n h e u r e u x , C e r f . 1 9 9 7 ; M a d e l e i n e d e s R i v i e r e s , O z a n a m , u n s a v a n t c h e z l e s p a u v r e s , B e l l a r m i n / c e r f , 1 9 9 7 . I b i d . , p . 5 4 . I b i d . , p . 5 3 . I b i d . , p . 8 5 . ちなみに'一八三三年末に出版された小冊子にはこの 「協議会」 で取-上げられた主題が書いてある。オザナムは 「詩とその影 響」'「聖職者と世俗人の行動」'「哲学とキリスト教」などについて語-'ほかのメンバーは 「マホメッティスム」'「道徳的・物質 的 富 」 、 「 絵 付 け ガ ラ ス 」 、 「 中 世 に お け る 建 築 術 と 彫 像 術 」 ' 「 ユ ダ ヤ 人 の 立 法 」 、 「 宗 教 と 哲 学 の 現 状 」 な ど 。 C f . I b i d . , p p . 8 5 -8 6 . I b i d . , p . 8 6 . I b i d . . 「協議会」 の議事録には'ラヴイルマルケ兄弟の名が記載されてお-'彼らがこうした討議に参加したことは間違いない。Cf.P. ヽ d e . 1 a V i l l e m a r q u e , o p . c i t . , p . 2 5 . L a V i l l e m a r q u e , F r e d e r i c O z a n a m e t s o n c e u v r e d ' a p r e s s e s l e t t e r s , c i t e p a r P . d e . 1 a V i l l e m a r q u e , o p . c i t . , p . 2 5 . ^ 1 . . , r -i ^ I t t t ' 1 1 r FrancisGourvil,Theodore-Claude-HenriHersartdelaVillemarqueetleォBarzaz-Breizサ,Oberthur,1960,p.22. I b i d . , o p . c i t , p . 2 6 ; P . d e l a V i l l e m a r q u e , o p . c i t . , p p . 1 9 -2 0 ; D o c t e u r L o u i s D u j a r d i n , L a v i e e t l e s o e u v r e s d e J e a n -F r a n g o i s -M a r i e -M a u r i c e -ヽ A g a t h e L e G o n i d e c , g r a m m a i r i e n e t l e x i c o g r a p h b r e t o n 1 7 7 5 -1 8 3 8 , I m p r i m e r i e c o m m e r c i a l e & a d m i n i s t r a t i v e , 1 9 4 9 , p p . 9 1 -1 0 0 . ● P . d e l a V i l l e m a r q u e , o p . c i t . , p . 2 0 . p ヽ I b i d . ブルターニュにおけるナショナリズムの誕生 (二)

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梁     川     英     俊 ラ ヴ イ ル マ ル ケ が パ ン シ ョ ン ・ バ イ イ で こ の 書 物 と 出 会 っ た と い う の は 確 認 さ れ て い る 事 実 で は な い 。 あ -ま で も F r a n c i s G o u r v i l の 推 測 で あ り 、 こ こ で は そ の 説 を そ の ま ま 踏 襲 し て い る 。 C f . F r a n c i s G o u r v i l , T h e o d o r e -C l a u d e -H e n r i H e r s a r t d e l a V i l l e m a r q u e e t l e ォ B a r z a z -B r e i z サ , O b e r t h u r , 1 9 6 0 , p . 1 0 . 3 ) こ の 書 物 は ラ ヴ イ ル マ ル ケ が 手 に す る 以 前 か ら 、 ブ ル タ ー ニ ュ ・ で は そ れ な -の 反 響 を 得 て い た ら し い 。 本 文 中 で 言 及 し た カ ル ネ の 論 文 や フ レ マ ン ヴ イ ル の 作 品 に は 明 ら か に こ の 書 物 を 参 照 し た 形 跡 が 見 ら れ る L t D o n a t i e n L a u r e n t は 十 九 世 紀 初 頭 に ブ ル タ ー ニ ュ の 名 望 家 た ち の 間 で 口 頭 伝 承 の 収 集 が 盛 ん に な っ た 理 由 の 一 端 を ' こ の 書 物 の 影 響 に 帰 し て い る 。 C f . D . L a u r e n t , ォ L a V i l l e m a r q u e e t l e s p r e m i e r s c o l l e c t e s e n B r e t a g e m ﹀ i n : F a n c h P o s t i c ( e d ) , L a B r e t a g n e e t l a l i t t e r a t u r e o r a l e e n E u r o p e , C e n t r e d e R e c h e r c h e B r e t o n n e e t C e l t i q u e / C e n t r e d e R e c h e r c h e e t d e D o c u m e n t a t i o n s u r l a L i t t e r a t u r e O r a l e , 1 9 9 9 , p . 1 5 5 . ( ^ ) J . -Y . , G u i o m a r , ォ L e B a r z a z -B r e i z サ , d a n s L e s L i e u d e m e m o i r e , ( s o u s l a d i r e c t i o n d e P i e r r e N o r a ) , G a l l i m a r d , 1 9 9 2 , t i l l , v o 1 . 2 , 1 9 9 2 , p p . 5 3 1 -5 3 2 . ( 5 S ) G e r v a i s d e l a R u e , R e c h e r c h e s s u r l e s o u v r a g e s d e s B a r d e s d e l a B r e t a g n e a r m o r i c a i n e d a n s l e M o y e n a g e , 1 8 1 5 , I m p r i m e r i e d e F . P o i s s o n , p . 3 . ( * * ^ > I b i d . , p p . 6 5 ・ 6 6 . ( S ) ち な み に F . G o u r v i l は こ う 書 い て い る 。 「 も し こ の 小 論 文 を ブ ル タ ー ニ ュ の 父 親 の 本 棚 で 見 つ け て い た ら 、 そ の 読 書 は た ぶ ん い っ と き の 気 晴 ら し に す ぎ な か っ た だ ろ う 。 し か し ' 生 ま れ て は じ め て 故 郷 を 離 れ 、 遠 い 異 郷 の 地 パ リ で 読 ん だ そ れ は 、 彼 に と っ て 啓 示 の よ う に 思 わ れ た に 相 違 な い 」 ( F . G o u r v i l ' o p . c i t . p l o . . ) 。 G . d e l a R u e , o p . c i t . , p . 6 8 . ( l o ) D o n a t i e n L a u r e n t , A u x s o u r c e s d u B a r z a z -B r e i z , A r M e n , 1 9 8 9 , p . 3 1 8 . ( S ) I b i d . ( S ) I b i d . , p . 3 1 9 . v L O J と こ ろ で 、 こ の ラ リ ユ 神 父 か ら の 返 信 に は 、 こ ん な 記 述 が あ る 。 「 あ な た の 探 求 の 産 物 に つ き ま し て は 、 ご 自 分 で 見 つ け ら れ た 口 碑 の 年 代 と そ の 真 正 さ を 調 べ ら れ 、 誰 か 博 識 で 私 心 の な い 考 証 家 の 判 断 を 仰 い だ ら い い で し ょ う 。 し か し 私 は あ な た が 収 集 な さ っ 長   B . 量 丁         墓 -ホ           -  竜         -                                    1           ト           ・           い ー ト     ト ∴                     ・   ・ L + ︰

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