﹃
新
五
代
史
﹄
世
家
訳
註
稿
(
一
)
伊 藤 宏 明 本稿で翻訳を試みる﹃新五代史﹄(1)は北未の著名な史学者である欧陽修(一〇〇七∼七二)が著したものである。彼は また政論家、経学者としても知られる。l 欧陽情の略歴
欧陽修は真宗・景徳四年(一〇〇七) に父親の任地である綿州(四川省綿陽市) の官舎で生まれた。彼の本籍は吉州鹿 陵県(江西省吾安市) である。彼は四歳で父を失い'母親とともに叔父の欧陽蝉を頼って任地の随州(湖北省随州市) に 身を寄せた。しかし暮らしは貧し-、生活はきびしかった。そうした環境の中で勉学に励み'仁宗・天聖八年(一〇三〇) に二四歳で科挙に合格し、進士に挙げられ、翌年に西京留守推官に就任した。その後、欧陽修は景祐元年(一〇三四) に 館閣校勘とな-、﹃崇文総目﹄ の編纂に参加するが'二年後の景祐三年(一〇三六) に権知開封府の苑仲滝が宰相呂夷筒 の政治を批判して知能州(江西省波陽県) に左遷されると、権力側に加担した司諌の高若調を痛烈に批判したため'峡州 夷陵県令(湖北省宜昌市)に左遷された。さらに二年後の宝元元年(一〇三八) に光化軍乾徳県令(湖北省老河口市西北) ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )伊 藤 宏 明 に転任した。康走元年(一〇四〇) に中央官界に復帰して再び館閣校勘とな-'﹃崇文総目﹄ の編集に携わった。集賢校 理、知諌院'龍図閣直学士'河北都転連接察傍を歴任。慶暦五年(一〇四五) にいわゆる慶暦の党議のために杜術・苑伸 掩・韓埼・冨弼が相次いで職を去ったが、彼は上害して朋党をもって弁護した。しかし甥の疑獄事件に巻き込まれて'知 源 州 ( 安 徽 省 源 州 市 ) に 左 遷 さ れ た 。 知 揚 州 ( 江 蘇 省 揚 州 市 ) 、 知 穎 州 ( 安 徽 省 阜 陽 県 ) を 歴 任 し 、 皇 祐 元 年 ( 一 〇 四 九 ) に中央に戻-'礼部郎中'龍図閣直学士'南京留守を歴任するが、同四年(一〇五二) 母の死去に伴い職を離れた。至和 元 年 ( 一 〇 五 四 ) に ﹃ 唐 書 ﹄ 編 纂 を 命 ぜ ら れ 、 翰 林 学 士 兼 史 館 修 撰 と な へ 六 年 後 の 嘉 祐 五 年 ( 一 〇 六 〇 ) に ﹃ 唐 書 ﹄ 二 五〇巻を完成させ、礼部侍郎、翰林侍読学士となった。枢密副使を経て、翌年戸部侍郎・参知政事とな-、韓埼ともに仁 宗を補佐した。執政派であった欧陽修は英宗・治平二年(一〇六五) に英宗の実父源安菰王の呼称・待遇をめぐって台諌 派であった呂高・冨弼らと対立して聴講の党争を巻き起こした。神宗即位の年'治平四年(一〇六七) に観文殿学士'刑 部 尚 書 、 知 竜 州 ( 安 徽 省 竜 州 市 ) ' 翌 配 ㌫ 早 元 年 ( 一 〇 六 八 ) に 兵 部 尚 書 に 転 じ 、 知 育 州 ( 山 東 省 青 州 市 ) と な っ て 野 に 下 り、青苗銭に異をとなえて王安石に批判され、職を去ることを願ったが'許されず、三年(一〇七〇) に知察州(河南省 汝南県)となへ四年六月'観文館学士・太子少師を最後に'職を去って、八月に穎州(安徽省阜陽県) に帰へ五年 ( 一 〇 七 二 ) 閏 七 月 ' 六 六 歳 で 亡 -な っ た 。 以上が欧陽修の略歴である。 二 ﹃新五代史﹄ の執筆時期及び完成時期 欧陽修が﹃新五代史﹄の執筆をはじめたのは'彼が政治改革に挫折して'夷陵県に左遷された仁宗・景祐三年(一〇三
六) であへ﹃新唐書﹄の編修に携わる年の前年・皇祐五年(一〇五三) には草稿が出来上がっていたと理解されている。 もともと交友のあったヂ珠と分担執筆することになっていたが'ヂ珠が慶暦七年(一〇四七) に病死したため'結局欧陽 修ひと-で書-ことになった。執筆に十八年をかけている。この執筆に携わった時期の彼の年齢は三〇歳から四七歳まで であることから、小川環樹氏がいわれるように'この史書は「学者としても'また文筆家としても成熟Lt最もあぶらの のっていたころの作品」 であ-'壮年期に書かれたものと考えられている。
三 ﹃新五代史﹄ の内容及び特徴
﹃新五代史﹄は七四巻・目録一巻からな-'正史の一つである。原名は﹃五代史記﹄であるが'北宋・蒔居正らの手に ょって編纂された﹃旧五代史﹄に対して﹃新五代史﹄とも呼ばれるようになった。欧陽俺はこの史書を完成した後'公表 せずにいたが'彼の没後配釜丁五年(一〇七二) に神宗の命によ-献上され、国子監に収められ、版木に彫られて'世に広 -知られるようにな-、正史にも加えられた。 文体は'古文体で書かれ'簡潔で明瞭であへ奇数句を多-して'リズムの変化を与えてお-'行動と対話がその内容 の大部分を占めて、人物と時代の性格を浮き彫-にしている点に特徴がある。 内容は本紀〓一巻、列伝四五巻、考三巻、世家一〇巻、十国世家年譜一巻、四夷附録三巻からなる。このことからこの 史書が司馬遷の ﹃史記﹄ の体裁に倣っていることがわかる。 本紀は極力﹃春秋﹄ の経文を模倣し、一字一句に致誉褒乾の意味を含ませて書き、また列伝と合わせて五代(九〇七∼ 五九 後梁九〇七∼二三・後唐九二三∼三六・後晋九三六∼四六・後漠九四六∼五〇・後周九五〇∼五九)を一つ ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )伊 藤 宏 明 の時代として捉え通史として表したといわれる。また本紀を﹃春秋﹄ の経文に倣って極めて縮約して書いているために、 その関連記事は列伝の記載と照応させてはじめて理解できるようになっている。 列伝の立て方には工夫がなされている。すなわち従来の正史には設けられていなかった家人伝、名臣伝'死節伝'死事 伝'一行伝'唐六臣伝、義児伝'伶官伝、雑伝が立てられている点に特徴がある。家人伝を立てて尊親の意を表し'名臣 伝・雑伝を立てて敦誉褒乾を行い'特に雑伝に入る者は君子の恥ずべきものとして排除している。死節伝・死事伝を立て て忠節の士を顕彰Lt一行伝では才能・節義があ-ながら世に知られていない人物を取-上げて高-評価している。唐六 臣伝では唐の遺臣たちを自己の保身を第一とした'「葛生」を食った (いい加減な態度で生きている)者たちと批判して いる。義児伝を立てて'唐末五代において義児(異姓養子) が盛んに行われ'五代の君主八姓のうち実に三姓が義児から 出たことを指摘し、また伶官伝を立てて'楽人または道化役者などが皇帝の寵愛を受け'高官にまでも昇ったことを取-上げて'五代の混乱した時代の異常さを表そうとしたのである。 欧陽俺は、五代においては礼楽・文章などは取るものがな-'後世に遺すものはないと考え'礼楽・芸文に関する記述 を遺さず、司天・職方の二考だけを設けた。彼は天人相関説に対して疑いを持ってお-'天人相関説に因って記述されて いる﹃旧五代史﹄を批判して司天考を記した。職方考を立てて、五代十国における州名の変化・存廃を表にLt州県の沿 革を記して﹃旧五代史﹄郡県志の不備を補った。二考はこのように﹃旧五代史﹄との見解の違いを示したり、あるいはそ の不備を補った-しているものである。 世家を立てて'「中国」 (中原に成立した五代諸王朝の支配領域)以外の領域を支配する十国-華中・華南地域に政権を 樹立した九国と'山西に成立した一国をあわせた国々-の興亡史を表した。十国とは、すなわち揚州を中心に建てられた 呉(九〇二⊥二七)、呉を継承して金陵を中心に建てられた南唐(九三七∼七五)'四川の前萄(八九一∼九二五)・後萄
(九三〇∼六五)、広東の南漠(九〇九∼七一)、湖南の楚(九〇七∼五一)、漸江の呉越 (九〇七∼七八)'福建の閑(九 〇九∼四五)、湖北の南平(九〇七∼六三)'山西の東漠(九五一∼七九) である。 十国世家年譜を設けているが、「中国」 に包摂されない十国が帝を称して改元しょうがどうしょうが、そうした事実に はお構いな- 'ただ十国の年号などを年譜の形で整理しているにすぎない。 四夷との関係悪化を避けて外患にならないようにするために'四夷附録を設けて'夷秋に関する叙述をしている。特に 北宋でも最大の外患であった契丹を中心に記述がなされ、三巻の内の二巻を占めているほどである。その他には吐揮'達 鞄 ' 党 項 ' 突 厭 ' 吐 蕃 ' 回 髄 ' 干 闇 ' 高 麗 ' 潮 海 、 新 羅 ' 黒 水 ・ 珠 鞠 ' 南 詔 蛮 ' 祥 阿 蛮 、 昆 明 ' 占 城 が 記 さ れ て い る 。 最後に﹃新五代史﹄ に付された徐無党の註(欧陽修の弟子) ついて触れるが、これは欧陽修の筆法の体例を説明したも のである。これがな-ては欧陽修の著述内容を十分に理解することはできない。 以 上 が ﹃ 新 五 代 史 ﹄ の 内 容 と 特 徴 で あ る 。
四 ﹃新五代史﹄著述の意図
欧陽俺が﹃新五代史﹄を著述した意図は、乱世五代の事跡・人物の致誉褒乾を明らかにして、時世の鑑戒にしようとし た点にあった。特に鳴呼で始まる論(論賛) は「詠嘆的で'個人的な感情が露わにされすぎたと評せられているが、五代 という異常な時期に対する作者の偽らざる感情の表れ」 であった。 そこでは人間生活の規範である道義をもって歴史を把握しょうとする姿勢が見られ'忠孝仁義を宣揚し、内には王室を 中心とする国家の体続を重んじ'外には夷秋を討伐して国威を輝かそうとする中華思想を基本に'皇帝と官僚の君臣関係 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )伊 藤 宏 明 のあり方を中心とする国家像を措いている。 こうした姿勢で全編を一貫した立場で書きつづけて'﹃新五代史﹄は完成を見たのである。 三〇 ・王 一 言 口 (一)本稿では翻訳のためのテキストを一般に通行している中華書局出版の標点本﹃新五代史﹄仝三冊を使用するので'ここでは﹃新 五 代 史 ﹄ に 名 称 を 統 一 す る 。 参考文献 清 ・ 趨 翼 撰 佐中 壮著 吉田清治著 内藤湖南著 小川環樹著 石田 肇著 石田 肇著 小林義贋著 小林義廉著 ﹃ 二 十 二 史 別 記 ﹄ 「 新 五 代 史 撰 述 の 事 情 」 ( ﹃ 史 学 雑 誌 ﹄ 五 〇 -二 一 九 三 九 ) ﹃ 北 宋 全 盛 期 の 歴 史 ﹄ ( 弘 文 堂 書 房 一 九 四 一 ) ﹃ 支 那 史 学 史 ﹄ ( 弘 文 堂 一 九 四 九 ) 「 新 五 代 史 の 文 体 の 特 色 」 ( ﹃ 中 国 文 学 報 ﹄ 一 八 一 九 六 三 ) 「 新 五 代 史 撰 述 の 経 緯 」 ( ﹃ 東 洋 文 化 ﹄ 復 刊 四 一 ・ 四 二 一 九 七 七 ) 「 新 五 代 史 の 体 例 に つ い て 」 ( ﹃ 東 方 学 ﹄ 五 四 一 九 七 七 ) 「欧陽修における歴史叙述と慶暦の改革」(﹃史林﹄六六-四一九八三) ﹃ 欧 陽 惰 そ の 生 涯 と 宗 族 ﹄ ( 創 文 社 二 〇 〇 〇 ) 「 庭 陵 欧 陽 文 忠 公 年 譜 」 ﹃ 欧 陽 文 忠 公 集 ﹄ ( ﹃ 四 部 叢 刊 ﹄ 初 編 集 部 ) ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 七 四 巻 ・ 目 録 一 巻 ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 三 一 九 ・ 欧 陽 修 伝
凡 例 一宋・欧陽修撰・徐無薫註﹃新五代史﹄七十四巻(北京中華書局排印本一九七四)を底本とLt百納本﹃五代史記﹄七十四巻 (上海商務印書館滴券模景印本)及び活・呉蘭庭撰・曽始券校点﹃五代史記纂誤補﹄四巻、清・周寿昌撰・雀文印校点﹃五代史記纂 誤 補 続 ﹄ 一 巻 ' 清 ・ 呉 光 耀 ・ 曽 始 券 校 点 ﹃ 五 代 史 記 纂 誤 続 補 ﹄ 六 巻 ( 博 塊 掠 ・ 徐 海 栄 ・ 徐 書 軍 主 編 ﹃ 五 代 史 書 嚢 篇 ﹄ 仝 十 冊 杭 州 出版社 二〇〇四) を参考とした。 一 地 名 の 現 所 在 地 は 魂 嵩 山 主 編 ﹃ 中 国 歴 史 地 名 大 辞 典 ﹄ ( 広 東 教 育 出 版 社 一 九 九 五 ) に 拠 っ た 。 一 [ ] 内の文は訳者の付加したものである。 一 ( ) 内 は 訳 者 の 註 釈 で あ る 。 一本来なら原文の部分と訳文のそれを対照させて記載すべきであるが'敢えて原文を文末に置いた。訳文全体を通して読んでいた だ-ためにこの形を取った次第である。
﹃
新
五
代
史
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巻
六
一
ああ、唐が政治を誤り、天下[の人々] がその機につけ込んで'顔に入れ墨や髪剃-の刑を受けるような罪を犯したり 不法な商いをした-して'新たな天子が起った。呉と南唐では地方に勢力をはっていた悪妹な大族がその地をかすめ取っ た。萄は要害堅固で豊かであ-、漠は守-がかたかったけれども貧しかった。[しかし] 貧しい国は自らつとめて努力し て [ 存 続 し ] 、 富 め る 国 は 先 に 滅 亡 し て し ま っ た 。 閑 は [ 領 地 が ] 狭 -、 荊 [ 南 ] は 四 方 か ら 迫 ら れ ' 楚 は 都 か ら 離 れ た 辺境の地を開いた。[人々が]略奪に堪えられなかったのは呉越が最も甚だしい。嶺南の蟹族(一)[の人々] は'人を犠牲 の動物のようにしか見ない劉氏(南漠を建国した劉氏を指す) を迎えた。百年の間'さまざまな勢力が立ち上がって覇を ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )伊 藤 宏 明 争いあったため'山川[の交通路]も途絶え'風俗も通じな-なった。「[まさに太陽がのぼろうとすると、]清風がおこ り'もろもろの陰気がひれふす。(二)太陽や月が出ると、たいまつの火が消える(≡)」といわれる。だから聖人が出て天下 を統一するのである。十国世家を作る。
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家
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楊 行 密 ( 四 ) は ' 字 は 化 源 ' 鹿 川 合 肥 県 ( 安 徽 省 合 肥 市 ) の 人 で あ っ た 。 彼 は 背 丈 が 高 -' 身 体 が 大 き -て 力 持 ち で 、 素手で百斤(約六〇kg) のものを持ち上げることができた。唐の [億宗・]乾符年間(八七四∼九)、江涯地域に盗賊が 起こると、行密は盗賊となったが、捕らえられてしまった。[鹿川]刺史鄭柴(五)は彼の容貌が-つばであったので、縄 を解いて放免してやった。後に募兵に応じて州の兵隊とな-、朔方に派遣され国境を守備して'隊長に昇進した。任期を 終えて帰還したが、軍の指揮官が彼をねたんで'再び国境守備に派遣しょうとも-ろんだ。行密は任地に赴こうとして' 軍の指揮官の宿舎を通-過ぎようとした。[そのとき] 軍の指揮官が心のないうまい言葉で'行密が出発に際して欲しい ものは何かないかとたずねた。行密は奮い立って「ただ公の首だけだ」と言い捨て、たちどころに彼の首をはねた。首を かかげて外に出て決起して乱を企て、自ら八営都知兵馬使(六)であると言いふらした。刺史郎幼復(七)が城を棄てて逃亡 したため'行密は遂に鹿川に拠点を置いた。 中 和 三 年 ( 八 八 三 ) 、 唐 朝 は そ こ で 行 密 を 鹿 川 刺 史 に 任 命 し た 。 [ 光 啓 三 年 ( 八 八 七 ) ' ] 補 註 ( l ) 港 南 節 度 使 高 餅 ( 八 ) は [ 部下 で あ っ た ] 畢 師 鐸 ( 九 ) に [ 治 所 で あ る 揚 州 を ] 攻 め ら れ た た め ' 行 密 を 行 軍 司 馬 ( 一 。 ) に 任 命 し た 。 [ そ こ で ] 行 密 は 数 千の兵を率いて揚州に赴こうとして、[揚州] 天長[県] (安徽省天長県) に到着した。[しかし]師鐸がすでに餅を囚ら え て ' [ 昔 の 仲 間 で あ っ た ] 宣 州 ( 安 徽 省 宣 州 市 ) [ 観 察 使 ] 秦 彦 ⋮ ) を 引 き 入 れ て 揚 州 に 入 城 さ せ て い た た め ' 行 密 は [揚州に] 入ることができずに'萄岡(江蘇省揚州市西北) に軍を駐屯させた。師鐸が兵数万を率いて [揚州城を]出て 行密に攻撃を加えてきたため'行密は敗れたと偽って'陣営を放棄して逃げ去った。師鐸の兵は飢えていたため'勝ちに 乗じて [行密の] 軍営に進入し、兵糧や装備を奪い合った。[そこで]行密が兵を反転させて攻撃を加えため'師鐸は大 敗し、単騎で揚州城に逃げ帰-、遂に高餅を殺害した。行密は餅が死んだことを聞き、兵に白の喪服を着せ、揚州城に向 かって働笑すること、三日に及んだ。[行密が]揚州城の西門を攻めると、彦と師鐸は東塔(江蘇省揚州市東北) に逃げ 去 っ た 。 行 密 は 遂 に 揚 州 城 に 入 っ た 。 この時すでに城中の穀物倉が空っぽであった。飢えた民は互いに殺し合って食らい、夫婦や父子はすすんで互いに屠殺 業者の所に引っ張ってきてこれを売った。[そこで]屠殺業者は羊や豚のようにこれを切-さばいた。[こうしたあ-さま だったので、] 行密は [揚州を] 守-きれないと思い、逃げようと考えた。そうこうしているうちに察州[節度使] の秦 宗権(⋮が弟の宗衛を派遣して涯南の地を奪い取らせようとした。[そこに]彦と師鐸が東塘から戻ってきて、宗衛と合 流した。[しかし] 行密は城を閉じて敢えて出ようとはしなかった。やがて宗衛が副将の孫儒(≡)に殺された。[軍の実 権を握った]儒が高郵[県] (江蘇省高郵県) を攻めてこれを撃破したので'行密は益ます恐れた。彼の食客であった衷 襲 ( 壷 が 言 っ た 。 「私が新たに寄せ集められた兵でもって装備も兵糧もない城を守-ましょう。しかし諸将には餅の昔なじみが多-、手 厚い恩恵を与えた-、平素の信義を抱いた-、力で治めようとしてもあなた様に心から従うような者はお-ますまい。今 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 まさに孫儒の兵は意気盛んで'攻めれば必ず勝ちましょう。今は、諸将が迷って決心しかねてお-'[それぞれの軍勢の] 強いか弱いかによって、味方するか背-かを選んでいる時でございます。海陵 (江蘇省泰州市) 鎮使高覇(一五)は餅の旧 将ですから'仝-我らの役には立ちますまい」 そこで行密は軍令を出して覇を呼び寄せた。覇は自らの兵を率いて広陵(揚州を指す) に入った。行密は覇に天長[県] ( 安 徽 省 天 長 県 ) を 守 ら せ よ う と 考 え た 。 [ し か し ] 襲 は [ 反 対 し て ] 言 っ た 。 「私は覇に疑いを持っていたので、呼び寄せたのです。二度と用いることはできません。そもそも我らが儒に勝てまし たなら、覇を任用する所はございません。不幸にして勝てませんでしたら'天長[県] はどうして我が所有とな-ましょ うや。覇を殺して彼の兵を併合する方がよろしゅうございます」 行密は軍を慰労することに託けて覇を捕らえて族滅Lt彼の兵数千を獲得した。ほどな-して孫儒は秦彦と畢師鐸を殺 し/、彼らの兵を併合して行密を攻めてきた。行密は海陵[鎮] に逃れようと考えた。[しかし]襲は言った。 「海陵は守るのが難しゅうございます。ですが鹿州は旧支配地であ-、城壁や倉が完備してお-'今後の計略を立てる のが容易でございます」 そこで行密は鹿川に逃れた。しばら-しても[行密は]向かう地がわからなかったので'襲に尋ねた。 「わしは、戟いをやめ、行程を倍にして'西の洪州(江西省南昌市)を取ろうと思うが、どうか」 襲は答えた。 「鍾伝≡ハ)は新たに江西を手に入れ、その勢力を推しはかることはできません。しかし秦彦は広陵に入城するとすぐ に'池川(安徽省貴池市)刺史趨鐘(一七)を招碑して宣州(安徽省宣州市)を委ねました。今、彦はと-あえず死に'鐘 は頼るところを失ってお-ます。しかも宣州を守ることは彼本来の願いではな-'そのうえ彼の人となりからしてあなた
様の敵ではございません。ここは取るべきです」 そこで行密は兵を率いて鐘を攻め、馬山(安徽省当塗県西南) で戟い'大いに打ち負かした。進撃して宣州を取-囲ん だ。[そのため]鐘は城を棄てて逃げたが'[行密の兵が]追いついて彼を殺した。行密はついに宣州に入った。 [ 昭 宗 ・ ] 龍 紀 元 年 ( 八 八 九 ) ' 唐 朝 は 行 密 を 宣 州 観 察 傍 に 任 命 し た 。 行 密 は 田 頼 ( 一 八 ) ・ 安 仁 義 ( 完 ) ・ 李 神 福 ( 。 。 ) ら を 派 遣 し て 漸 西 ( 鎮 海 軍 節 度 使 の 統 轄 地 域 を 指 す ) を 攻 め さ せ 、 [ 大 順 元 年 ( 八 九 〇 ) ] ( 補 誌 二 ) 、 蘇 ( 江 蘇 省 蘇 州 市 ) ・ 常 ( 江 蘇 省 常 州 市 ) ・ 潤 州 ( 江 蘇 省 鎮 江 市 ) を 取 っ た 。 [ 大 順 ] 二 年 ( 補 註 三 ) ( 八 九 一 ) ' [ 港 南 節 度 使 管 轄 下 の ] 源 ( 安 徽 省 勝 川 市 ) ・ 和 州 ( 安 徽 省 和 県 ) を 取 っ た 。 [ 昭 宗 ・ ] 景 福 元 年 ( 八 九 二 ) ' [ 准 南 節 度 使 管 轄 下 の ] 楚 州 ( 江 蘇 省 涯 安 市 ) を 取 っ た 。 孫儒が行密を追い出して広陵に入ってから、しばら-して[ここも]また守ることができなくなった。そこで城を焼き' 民のうちの老人や病人を殺して、軍に兵糧を送-、兵を駆-立てて江を渡った。[その兵は] 五十万と言いふれ、行密を 攻撃した。[楊行密の]諸将の田頼・劉威らはこれに遭遇し'たちまち敗退した。[そこで]行密は銅官(安徽省鋼陵市) に 逃 れ よ う と 思 っ た 。 [ そ の 時 ] 彼 の 食 客 で あ っ た 戴 友 規 ( 二 = が 言 っ た 。 「儒が [攻めて]来ましたが'意気が盛んで兵も多ございます。ですから彼の精鋭は阻むことができませんが'打ち砕 -ことはできますLt大勢の兵には敵いませんがt Lばら-すれば破ることができます。もしこの状況を避けてお逃げに な-ましたならば、檎になるだけございます」 劉 威 ( 二 二 ) も 言 っ た 。 「城を背にLt柵を堅固にしていてさえすれば'戟わないで儒の兵を疲弊させることができます」 行密はもっともだと思った。しばら-して儒の軍隊が飢え'疫病も蔓延したので'行密は全軍をあげて攻撃した。[そ の結果]儒は敗北して'捕らえられた。[儒は] 死に直面して'顔を上げふ-かえって威を見て言った。 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 「貴公がこの作戦を立ててわしを破ったと聞いた。わしに貴公のような将を持たせたならば'敗れたであろうか'いや 敗れなかったであろうに」 行密は儒の生き残った数千の兵を集めて'黒い装束に鎧を着けさせ、「黒雲都」と名づけて、親衛軍として常置させた。 こ の 歳 、 ふ た た び 揚 州 に 入 っ た 。 [ そ こ で ] 唐 朝 は 行 密 を 港 南 節 度 使 に 任 命 し た 。 乾 寧 二 年 ( 八 九 五 ) に 検 校 太 博 ・ 同 中書門下平章事(二三)を加えた。行密は田額に宣州を守らせ'安仁義に潤州を守らせた。昇州 (江蘇省南京市) 刺史鳩弘 鐸(二四)が帰属してきた。疎らを本隊から分けて派遣して攻略させ'湛水以南及び長江以東の諸州をすべて陥とした。進 撃 し て 蘇 州 を 攻 め 、 刺 史 成 及 ( 二 五 ) を 檎 に し た 。 四 年 ( 八 九 七 ) ' 充 州 ( 山 東 省 充 州 県 ) [ 節 度 使 ] 宋 珪 ( 二 六 ) が 行 密 の も と に 逃 れ た 。 当 初 、 理 は 梁 [ の 未 仝 忠 ] ( 二 七 ) に 攻 め ら れ た た め ' 援 軍 を 晋 [ の 李 克 用 ] ( 二 八 ) に 求 め た 。 晋 が 李 承 嗣 ( 二 九 ) に 精 鋭な騎兵数千を率いさせて壇を援護させたが'理が敗れたため'共に行密のもとに逃亡した。行密の兵隊はみな江・涯の 人々で構成され'[特に]涯の兵は軽装備で弱かった。壇の騎兵の精鋭軍を獲得して、軍はますます志気があがった。 こ の 歳 ' 梁 の 太 祖 [ 宋 仝 忠 ] が 葛 従 周 ( 三 。 ) ・ 庸 師 古 ( 三 二 を 派 遣 し て 行 密 の 寿 州 ( 安 徽 省 寿 県 ) を 攻 撃 さ せ た が 、 行 密 は梁の軍を清口(清河口を指す。江蘇省准陰市西南) で撃破して'師古を殺した。しかし従周が兵を集めて逃げたので、 浄河(源が安徽省蕃山県南蕃山から出て'北流して寿県の西・正陽関に至って准河に入る川) で追いついて'ふたたび大 い に 破 っ た 。 五 年 ( 八 九 八 ) ' 銭 謬 ( 三 。 ) が 蘇 州 を 攻 め て ' 周 本 ( 三 三 ) と 白 方 湖 ( 現 地 名 不 明 ) で 戦 っ た が ' 本 が 敗 れ た た め ' ︹ 光 化 元 午 ( 八 九 八 ) ︺ ( 補 註 四 ) ' 蘇 州 は ふ た た び [ 呉 ] 越 に 入 っ た 。 天 復 元 年 ( 九 〇 一 ) 、 李 神 福 を 派 遣 し て [ 呉 ] 越 を 攻 撃 さ せ た 。 [ 神 福 は ] 臨 安 [ 県 ] ( 新 江 省 臨 安 県 西 北 ) で ノ 戟 い ' 大 い に 敗 -' 呉 越 の 将 顧 仝 武 を 檎 に し て 帰 還 し た 。 二 年 ( 九 〇 二 ) ' 鳩 弘 鐸 は 叛 乱 を 起 こ し て 、 宣 州 を 襲 撃 L t 田 額 と 局 山 ( 安 徽 省 当 塗 県 西 南 ) で 戟 か っ た 。 [ し か し ] 弘
鐸は敗れ'海に逃れようとした。行密は自ら東塘(江蘇省揚州市東北湾頭鎮付近) に出向いて弘鐸を迎え入れようと'人 を遣って弘鐸に告げさせた。 「勝敗というものは戟いにはつきものである。一度の戟いで敗れたぐらいで、どうして苦しんで自分から島に身を棄て ようとするのか。わしの幕府は小さいが'それでもまだ 貴君を受け入れることぐらいできるぞ」 弘鐸はうれし涙を流した。行密は十騎あま-を従えて、馳せて彼の軍に入-、弘鐸を節度副使に任命Lt弘鐸に代わっ て李神福を昇州刺史に充てた。 こ の 歳 、 唐 の 昭 宗 は ' 岐 ( 三 四 ) に い た と き に 、 江 涯 宣 諭 便 季 候 ( 。 云 ) を 派 遣 し て 行 密 を 東 面 諸 道 行 営 都 統 ・ 検 校 太 師 ・ 中 書 令 ( 三 六 ) に 任 命 し 、 呉 王 [ の 位 ] を 授 け さ せ た 。 三 年 ( 九 〇 三 ) ' [ 行 密 は ] 李 神 福 を 郡 岳 招 討 使 ( 三 七 ) に 任 命 L t [ 武 昌 節 度 使 ] 杜 洪 ( 三 八 ) を 攻 撃 さ せ た 。 荊 南 [ 節 度 使 ] の 成 酒 ( 三 九 ) が 洪 を 救 お う と し た の で 、 神 福 は 荊 南 の 軍 を 君 山 ( 湖 南 省 岳 陽 市 西 南 ) で 破 っ た 。 梁 の 軍 が 青 州 ( 山 東 省 青 州 市 ) を 攻 め て き た の で ' [ 平 鹿 節 度 使 ] 王 師 範 ( 四 。 ) は [ 行 密 に ] 援 軍 を 求 め て き た 。 [ そ こ で ] 王 茂 幸 ( 讐 ) を 遣 っ て 青 州 を 救 援 さ せ 、 大 い に 梁 の 軍 を 破 -' 宋 友 寧 を 殺 し た 。 友 寧 は 梁 の 太 祖 の [ 兄 の ] 息 子 ( 補 註 五 ) である。太祖はひど-怒って'自分から [軍を]率いて茂章を撃とうした。軍勢は二十万と言いふれた。[しかし] ふた たび茂幸に敗れた。 田額は叛乱を起こすと'昇州を襲撃して李神福の妻子を捕らえ、宣州に帰還した。[そこで] 行密が神福を召還して額 を討伐しょうとしたので'頭は自分の武将である王壇を遣ってこれを迎え撃たせた。また神福に書簡を送-'彼の妻子を [楯に取って]神福を [味方に]引き入れようとしたが、[それに対して]神福はいった。 「わしは一兵卒から呉王に従って義兵を起こしたが、今は大将となっておる。恩義に逆らって、妻子を思いやることに ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 耐えられようか'耐えられはしない」 [神福は]直ちに額の使者を斬-捨て自ら絶交した。軍の兵士はこのことを聞いて感激し奮い立った。[神福が]吉陽 磯(安徽省東至県西北吉陽鎮付近) に到着すると、額は神福の子・承鼎を捕らえて神福を招き寄せようとした。[しかし] 神福は側つきの家来を叱って息子を射させ、遂に壇の軍を吉陽で破った。行密は別に [漣水利置使]董濠(四。)を派遣し て 額 を 攻 撃 さ せ た 。 [ そ の 結 果 ] 額 は 敗 れ て 死 ん だ 。 当 初 、 頼 ' 安 仁 義 ' 宋 延 寿 ( 四 三 ) は み な 行 密 に 従 っ て 卑 賎 か ら 身 を 起 こし'[活躍した結果']江涯がやっと治まるようになって'民力や兵力を休め養うことを考えるようになった。しかし三 人がみな勇猛で掌握するのが難しいので、[行密は]彼らを除こうと思ったが、まだ実行することができなかった。天復 二年(九〇二)、銭鍔は自分の武将である許再思(四四)らに叛乱を起こされて'これを取-囲んだが、[そこで]再思は額 を招いて鍔を攻めさせた。杭州[の反乱軍側] が今にも勝利しそうであったが、行密は謬からの賄賂を受け取って'額に 命じて武装を解除させた。[だが']額はこの行為を憎んだ。額は以前に広陵[攻略]を図ろうとしたことがあったが' [その際に]行密の諸将の多-が額に賄賂を求め、また牢獄の小役人もこれを要求する者がいた。[しかし]額は怒って言 い 放 っ た 。 「小役人め、わしを獄に繋ごうと考えておるのか」 積は [支配地の宣州に]帰って、遂に[行密に]背いて叛乱を起こした。 仁義はこの挙を聞いて、また叛乱を起こし、東塘を焼き、常州を襲撃した。常州刺史李遇(四五)は [城を]出て戦い、 仁義を眺め見て甚だし-罵った。仁義は軍を留めて言った。 「李遇が強いてあのようにわしに恥をかかせようとするのは'必ず伏兵があるからじゃ」 遂に軍を引いて退いた。果たして伏兵が現れ、爽岡(江蘇省丹陽市北)(補註六)まで追ってきた。仁義は職を立て'鎧を
解いて食事を取っていたが'遇の兵は無理に追おうとはしなかった。[そこで] 仁義はふたたび潤州に入った。行密は [ 潤 州 行 営 招 討 使 ] 王 茂 章 ・ [ 馬 歩 軍 使 ] 李 徳 誠 ( 四 六 ) ・ [ 馬 軍 都 指 揮 使 ] 米 志 誠 ( 四 七 ) ら を 派 遣 し て 潤 州 を 包 囲 さ せ た 。 呉 の軍中は、宋壇の梁に長じていることと志誠の弓に長じていることを重んじて、みな第一とした。しかし仁義は以前に弓 の技を自慢して言った。 「志誠の弓十矢は理の契一本にかなわない。[そして]壇の梁十本は仁義の弓一矢にかなわない。[これほどわしの技は す ご い の だ 。 ] 」 茂幸らと戦う毎に'必ず矢を命中させてから矢を放った。こうした仁義の働きに呉軍は恐れをなして'敢えて近づこう とはしなかった。行密も仁義に降伏を勧めようと考えたが、仁義はためらって決断できないでいた。[そこで]茂章は' 仁義が梼躍しているすさに'地下道を掘って進入Lt仁義を捕らえて'広陵で斬り殺した。 延寿という人物は行密の夫人宋氏の弟であった。額と仁義が反旗を翻すと、行密は延寿を疑い'そこで眼病になったと 偽-'延寿の使者に接見する毎に'必ず見るところが定まらないようなふ-をして見せた。試しに歩こうとして、柱に触 れて倒れたため'宋夫人は行密を介護した。しばら-して目が覚めると、泣いて言った。 「我が事業は成し遂げたが、この目を失ってしまった。これは天がわしを見捨てたのだ。我が息子たちには [我が]事 業を委ねることができないので、是非とも延寿にこれを託したい。わしには後悔はない」 夫人は喜んで'急ぎ延寿を呼び寄せた。延寿がやって来ると'行密は寝門で出迎えて延寿を刺し殺し、宋夫人を[離縁 し て ] 嫁 に 出 し た 。 [ 哀 帝 ・ ] 天 祐 二 年 ( 九 〇 五 ) ' [ 郡 岳 招 討 使 ] 劉 存 ( 四 八 ) を 派 遣 し て 郡 州 ( 湖 北 省 武 漢 市 武 昌 ) を 攻 め て 城 を 焼 か せ た 。 城中の兵が囲みを突いて出てきたため、諸将は急ぎ攻撃することを要求した。[しかし]存は答えた。 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 「これを攻撃してふたたび城に入ってしまったならば、城の備えは益ます堅固になるであろう。逃げるのを許してから 城を取るべきである」 この日'城が陥落Lt 杜洪を捕らえて広陵で斬-殺した。九月、梁の兵が裏州 (湖北省裏焚市) を攻め破ったため' [山南東道節度使]趨匡凝(四九)は行密のもとに逃れた。十一月'行密が亡-なった。歳は五十四㌧誼は武忠とつけられた。 息子の渥(五。)が位に即いた。樽(至)が分をわきまえず天子の称号を用いたとき、行密に追尊して太祖武皇帝とした。陵 墓は興陵という。 釈 ・王 三 〓 ロ (一) 蟹とはおそら-は嶺南地区に居住し、水上生活をしている異民族を指すものと思われる (宋・周去非撰﹃嶺外代答﹄巻三・蜜蛮 の 条 ) 。 ( 二 ) ﹃ 漢 書 ﹄ 巻 七 五 ・ 李 尋 伝 の 条 に 「 夫 日 者 ' 衆 陽 之 長 、 輝 光 所 燭 、 万 里 同 皐 、 人 君 之 表 也 。 故 日 将 旦 ' 清 風 発 、 群 陰 伏 、 君 以 臨 朝 、 不 牽 於 色 。 日 初 出 ' 炎 以 陽 、 君 登 朝 ' 侯 不 行 ' 忠 直 進 、 不 蔽 障 」 と あ る 。 ( ≡ ) ﹃ 荘 子 ﹄ 内 篇 遣 造 遊 第 一 の 条 に 「 尭 譲 天 下 於 許 由 日 ' ﹃ 日 月 出 央 而 爆 火 不 息 、 其 於 光 也 ' 不 亦 難 平 。 ・ ・ ・ ﹄ 」 と あ る 。 ( 四 ) 楊 行 密 ( 八 五 二 ∼ 九 〇 五 ) に 関 す る 伝 記 は 本 書 の 他 に ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 八 八 ㌧ ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 二 二 四 ㌧ ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 一 な ど が あ る 。 ( 五 ) 鄭 柴 ( -∼ 八 九 九 ) は 「 鄭 鎚 」 と も 書 か れ る 。 彼 は 倍 宗 乾 符 ( 八 七 四 ∼ 九 ) 末 年 に 鹿 州 刺 史 で あ っ た ( 郁 賢 暗 著 ﹃ 唐 刺 史 考 全 編 ﹄ 巻二一九・度州の条)。のち昭宗期に宰相となった人物である。﹃旧唐音﹄巻二一九鄭鎚伝、﹃新唐書﹄巻一八三鄭鎚伝及び﹃北夢預 言 ﹄ 巻 七 を 参 照 。 ﹃ 開 天 伝 信 記 ﹄ 一 巻 の 著 者 。 刺 史 は 州 の 行 政 長 官 。 (六) 八宮については不明。この都知兵馬使は鹿州軍の最高指揮官を指すものと思われる。都知兵馬傍に関しては周藤吉之著「一〇 五代節度使の支配体制-特に末代職役との関聯に於いて1」 (﹃末代経済史研究﹄所収一九六二年 東京大学出版会) を参照。 (七)郎幼復の伝記はない。ただ鹿州刺史郎幼復が楊行密によって鹿州を逐われたのは中和二年(八八二) のことである (﹃新唐書﹄巻
九 ・ 倍 宗 本 紀 ) 。 (八二尚餅(-∼八八七)は神策軍(禁軍)出身の武人で'唐末の節度使。節度使とは'唐中期から五代期に存在した藩鎮(地方軍閥) の軍事・財政・行政をつかさどる長官、複数の州を管轄する地方勢力である。彼が港南節度使であった時期は乾符六年(八七九) か ら 光 啓 三 年 ( 八 八 七 ) ま で の 八 年 間 で あ っ た ( 呉 廷 嬰 撰 ﹃ 唐 方 鎮 年 表 ﹄ 巻 五 ・ 准 南 の 条 ) 。 涯 南 藩 鋲 の 治 所 は 揚 州 で あ っ た ( 同 上 ) 。 以下、節度使の在任期間などに関する記述は'呉廷嬰撰﹃唐方鎮年表﹄及び宋玉龍編著﹃五代十国方鎮年表﹄ (二十四史研究資料叢 刊 中華書局) による。高餅の記事に関しては﹃旧唐書﹄巻一八二・高餅伝及び﹃新唐書﹄巻二二四下・叛臣下・高餅伝を参照。 (九)畢師鐸(-∼八八八) はもともと唐末の叛乱指導者であった黄巣の部下であったが、のちに高餅に投降し彼の配下となり、彼に 背いたときには左廊都知兵馬傍であった (﹃資治通鑑﹄巻二五七・光啓三年(八八七)夏四月の条)。畢師鐸の記事に関しては﹃旧 唐 書 ﹄ 巻 一 八 二 ・ 高 餅 伝 及 び ﹃ 新 暦 書 ﹄ 巻 二 二 四 下 ・ 叛 臣 下 ・ 高 餅 伝 を 参 照 。 (一〇)行軍司馬とは近代軍隊における参謀長にあた-'軍の実力者をあてていた。註(六)周藤前掲論文を参照。 (〓)秦彦(-∼八八八) は畢師鐸と同じ-黄巣の部下であったが、ともに高餅に投降して配下となへ和州刺史を経て、中和二年 ( 八 八 二 ) に 宣 州 観 察 便 と な っ た ( ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 五 三 ・ 乾 符 六 年 春 四 月 の 条 、 同 巻 二 五 五 ・ 中 和 二 年 十 二 月 の 条 ) 。 秦 彦 が 任 命 さ れた観察使とは節度使とほぼ同じ役目で'節度使よ-も格下にあたる。秦彦の記事に関しては ﹃旧唐書﹄巻一八二・高餅伝及び ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 二 二 四 下 ・ 叛 臣 下 ・ 高 餅 伝 を 参 照 。 ( 二 一 ) 秦 宗 権 ( -∼ 八 八 九 ) は も と も と 忠 武 軍 節 度 使 の 武 将 で あ っ た が t の ち 中 和 元 年 ( 八 八 一 ) に 察 州 節 度 使 と な っ た ( ﹃ 旧 唐 書 ﹄ 巻 一 九 下 ・ 倍 宗 本 紀 ・ 中 和 元 年 八 月 の 条 ) 。 秦 宗 権 に 関 す る 記 事 は ﹃ 旧 唐 書 ﹄ 巻 二 〇 〇 下 ・ 秦 宗 権 伝 及 び ﹃ 新 唐 音 ﹄ 巻 二 二 五 下 ・ 逆 臣 下 ・ 秦 宗 権 伝 の 条 を 参 照 。 (二二) 孫儒は察州節度使秦宗権配下の武将であったが'揚州出兵を機に秦宗権から離反した (﹃資治通鑑﹄巻二五七・光啓三年の条)。 (一四)衰襲(-∼八八九)闇鹿州鹿江県(安徽省鹿江県) の出身で'楊行密のブレインであった(﹃資治通鑑﹄巻二五七・光啓三年の 条)。楊行密と同じ州の出身。 ( 一 五 ) 高 覇 ( -∼ 八 八 八 ) は 洪 州 南 昌 県 ( 江 西 省 南 昌 市 ) の 出 身 で ' 高 餅 の 元 武 将 で あ り 、 海 陵 鎮 傍 で あ っ た ( ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 五 六 ・ ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 光啓二年六月の条)。海陵鋲は当時民が五万戸、兵三万の規模があった (同上)。鎮傍は鎮追使ともいい、鋲を統轄する司令官である。 (一六) 鐘伝(-∼九〇六) は洪州高安県(江西省高安県) の出身で、唐末の叛乱の指導者であった王仙芝が江西地域を掠奪した際に 蛮猿を集め'山に砦を築いて勢力を貯え、王仙芝から撫州を奪い返して刺史とな-t のちに江西観察傍を追い出して洪州に拠点を 置き、江西観察使となった (﹃資治通鑑﹄巻二五五・中和二年五月∼七月の条)。鐘伝が江西観察便であったのは中和二年(八八二) か ら 天 祐 三 年 ( 九 〇 六 ) に 亡 -な る ま で の 十 六 年 間 で あ っ た ( 呉 廷 嬰 撰 ﹃ 唐 方 鎮 年 表 ﹄ 巻 五 ・ 江 西 の 条 ) 。 錘 伝 の 記 事 は ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻一九〇本伝を参照。 ( 一 七 ) 撞 鐘 ( ? ∼ 八 八 九 ) は 秦 彦 ( 註 ( 一 1 ) 参 照 ) の 部 下 で 、 池 州 刺 史 か ら 光 啓 三 年 ( 八 八 七 ) に 宣 欽 観 察 使 と な -、 龍 紀 元 年 ( 八 八 九 ) に 呉 の 楊 行 密 に 攻 め ら れ て 破 れ 、 斬 首 さ れ た 人 物 ( ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 五 七 ・ 光 啓 三 年 の 条 ∼ 二 五 八 ・ 龍 紀 元 年 の 条 、 ﹃ 新 磨 書 ﹄ 巻 一 八 九 ・ 田 額 伝 ) 。 趨 鐘 の 部 下 で 後 に 楊 行 密 に 従 っ て 活 躍 し た 人 物 に 周 本 ( 註 ( 三 三 ) 参 照 ) と 李 徳 誠 ( 註 ( 四 六 ) 参 照 ) が い る 。 (一八) 田額(-∼九〇三) は庭州合肥県の出身で楊行密とは同郷で、募兵当時からの仲間であ-'後に行密と離反する (﹃九国志﹄巻 三 ) 。 (一九)安仁義(-∼九〇五) は突厭沙陀部出身の異民族で、秦宗権の武将であったが、秦宗権による准南攻撃の際に楊行密に投降し た 人 物 で あ る ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 三 ) 。 ( 二 〇 ) 李 神 福 は 滝 州 ( 河 北 省 永 年 県 東 南 ) 出 身 で 、 上 党 [ 郡 ] ( -瀞 州 、 現 在 の 山 西 省 長 治 市 ) の 軍 籍 に あ っ た が 、 准 海 ( 江 蘇 省 中 部 及 び 北 部 一 帯 ) に 駐 屯 し て い た が t の ち に 楊 行 密 に 投 降 し た 人 物 ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 一 ) 。 ( 二 一 ) 戴 友 規 は 鹿 州 ( 安 徽 省 合 肥 市 ) の 出 身 で ( ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 五 九 ・ 景 福 元 年 春 正 月 の 条 ) ' 楊 行 密 の 賓 客 ( ブ レ イ ン ) で あ っ た ( ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 五 ) 。 ( 二 二 ) 劉 威 は 鹿 州 憤 県 ( 安 徽 省 肥 東 県 東 北 梁 固 ) の 出 身 で 、 楊 行 密 ・ 田 額 と は 叛 乱 当 初 か ら の 仲 間 で あ る ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 一 ) 。 (二三)唐代、太博は三師の一つ、正一品で'属僚は置かず'名誉職であった (﹃アジア歴史事典﹄平凡社・宮崎市走による)。楊行密 が賜った検校太博はいわゆる検校官といわれるもので'准南節度使という本官に加えてその品級を昇進させたものである。また同
中書門下平章事とは'唐朝は最初、三省の尚書令・中書令・侍中を宰相の職と定めたが、のちに尚書令に代えて左右僕肘を宰相と し、これ以外の官の者を宰相とする時に名目として加えたものである (内藤乾吉著﹃中国法制史考証﹄有斐閣一九六三年)。しか し楊行密が昭宗から賜った同中書門下平章事は実際にこの職務を果たしたのではな-、単なる名誉職であったと思われる。ただ当 時有力な節度使たちは検校官を帯びることが多かったようである (洪遇著﹃容斎三筆﹄巻七・節度使称太尉の条)。 (二四) 鳩弘鐸は酒州漣水県(江蘇省漣水県) 出身で、武寧軍節度使時樽の副将であったが、時樽に疑われ、禍を恐れて、同僚の張雄 と 共 に 長 江 を 渡 っ て 蘇 州 に 拠 -、 の ち 昇 州 刺 史 と な っ た 人 物 で あ る ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 九 〇 ・ 張 雄 伝 の 条 ) 。 (二五)成及(八四六∼九一三)は杭州銭塘県(漸江省杭州市)出身で、呉越を建国した銭傷の部下であ-、建国の母体となった杭州 八都の一つである静(靖)江都-杭州富春県(新江省富陽県)を支配-の都将であり(伊藤宏明「唐五代の都将に関する覚書(中)」 ﹃鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集﹄三六を参照)、 のち功をあげて潤州刺史を経て、蘇州刺史に遷-'乾寧三年(八九六) に呉の楊行密に蘇州を攻められ、その上常熟鎮将陸郭らの裏切-に遭って行密に投降したが'厚礼を受けて呉越に帰された経歴を も つ 人 物 ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 五 ) 。 (二六) 宋壇は宋州下邑県(安徽省楊山県東) の出身で、天平軍節度使 (治所は郭州、在任期間は中和二年から乾寧四年) 宋壇の従父 弟 (いとこ) で、天平軍の軍将。彼は光啓二年 (八八六) に天平軍に隣接する泰寧節度使 (治所は充州 在任期間は広明元年から 光啓二年) 斉克譲を追放して節度留後とな-'翌三年(八八七)、宣武軍節度使宋仝忠と共に察州節度使秦宗権を敗走させたが、そ の後宋仝忠と覇をめぐって対立し、乾寧元年 (八九四) に宋仝忠に攻められて、連年戟いを交えたが'形勢が不利にな-'河東の 李克用に援軍を求めて再度戟った。しかし同四年、敗れて、河東の駿将李承嗣とともに呉の楊行密のもとに逃れた (﹃旧唐音﹄巻一 八 二 ㌧ ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 三 ㌧ ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 四 二 、 ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 二 、 ﹃ 五 代 史 補 ﹄ 巻 一 ) 。 (二七)朱仝忠 (八五二∼九二一) は唐王朝を倒して後梁を建国した人物。彼は宋州楊山県(安徽省楊山県東北) の出身で'黄巣の叛 乱軍に参加し、のちに唐朝に投降して宣武軍節度使から累進して、天復元年 (九〇一) に梁王に封ぜられた。四年 (九〇四) に昭 宗 を 殺 し 、 哀 帝 を 立 て 譲 位 を 迫 っ て 天 祐 四 年 ( 九 〇 七 ) に 大 梁 を 建 国 し た ( ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 、 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 一 、 ﹃ 五 代 史 補 ﹄ 巻 一 ) 。 (二八)李克用(八五六∼九〇八) は突厭沙陀部出身で'唐末、宋仝忠と覇を争ったライバル。もと宋邪氏。祖父の時に唐朝に帰朝し、 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 父宋邪赤心が腐助の乱平定の功によって菰宗よ-李国昌の姓名を賜-、振武軍節度使(山西省を拠点とした軍閥) となった。李克 用はその第三子で'勇猛で一眼微小であったため'独眼竜と呼ばれ、彼の率いる黒衣の騎馬軍は恐れられた。中和三年(八八三) に黄巣の乱を破-、長安を回復して、その功によって河東節度使となった。この後唐朝をめぐって覇を争い'宋仝忠が即位すると' 討 伐 を 受 け 、 戦 中 に 没 し た ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 二 一 八 、 ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 二 五 、 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 四 、 ﹃ 五 代 史 補 ﹄ 巻 二 ) 。 (二九) 李承嗣(八六五∼九二〇) は李克用の部下で、代州腐門県(山西省代県) の出身。彼は河東の李克用に従い黄巣の乱平定で功 をあげて扮州(山西省扮陽県) 司馬を授けられ、稔次(山西省稔次県)鎮将'沌州(河北省永年県東北)刺史、教練傍を歴任し、 乾寧二年(八九五)、李克用の命を受け、駿将史儀とともに三千騎を率いて宋壇・朱壇の救援に向かったが'敗れて、同四年、宋珪' 史 候 と 呉 の 楊 行 密 の も と に 逃 れ た ( ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 五 五 ㌧ ﹃ 十 回 春 秋 ﹄ 巻 八 ) 。 (三〇) 葛従周は宋仝忠の部下で、後梁建国の功臣である。湛州敷城県(山東省郵城県) の出身。彼は初め黄巣の叛乱に身を投じて軍 校に昇進したが、中和四年(八八四) に宋仝忠に敗れて仲間と投降し、その後充州の斉克譲'察州の秦宗権、晋の李克用らと戟い、 戟 功 を あ げ て 、 懐 州 ( 河 南 省 泌 陽 市 ) 刺 史 、 曹 州 ( 山 東 省 曹 県 東 北 ) 刺 史 、 宿 州 ( 安 徽 省 宿 県 ) 刺 史 ' 充 州 ( 山 東 省 充 州 県 ) 留 後 を 歴 任 L t 乾 寧 四 年 ( 八 九 七 ) に 腐 師 古 と 呉 の 楊 行 密 を 攻 め た が 、 腐 師 古 の 戦 死 を 聞 -と 、 撤 退 し た ( ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 六 、 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 二 一 ) 。 ( 三 一 ) 鹿 師 古 は 宋 仝 忠 の 部 下 で 、 曹 州 南 華 県 ( 山 東 省 荷 沢 市 西 北 ) の 出 身 。 彼 は 中 洞 ( 接 待 係 ) と し て 宋 仝 忠 に 仕 え 、 偏 将 と な -' 察賊討伐で功をあげて都指揮傍に昇格し、のちに沿涯地域に転戟Lt感化節度使(治所は徐州 在任期間は中和二年から景福二年) 時薄を斬-'郡州の宋珪'充州の宋壇を降して、その功で乾寧四年 (八九七) 正月、天平軍節度留後とな-、ついで徐州節度留後 となった。同年八月、葛従周と大軍を率いて准河を渡-楊行密を攻めたが'陣中に没した (﹃旧五代史﹄巻二一、﹃新五代史﹄巻二 一 ) 。 ( 三 二 ) 銭 鐸 ( 八 五 二 ∼ 九 三 二 ) は 呉 越 の 建 国 者 で 、 杭 州 臨 安 県 ( 漸 江 省 臨 安 県 ) 出 身 ( ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 三 三 ' ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 六 七 ㌧ ﹃ 五 代 史 補 ﹄ 巻 一 、 ﹃ 呉 越 備 史 ﹄ 巻 一 ' ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 七 七 ) 。 詳 細 は ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 六 七 ・ 呉 越 世 家 を 参 照 ( 翻 訳 予 定 ) 。 (三三) 周本は静州宿松県(安徽省宿松県) の出身で'もと宣州節度使趨鐘の将であったが、楊行密が趨鐘を破った時に、その武勇を
評 価 さ れ て 禅 将 ( 副 将 ) と な っ た 准 南 の 名 将 ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 四 ・ 南 唐 の 条 、 ﹃ 馬 氏 南 唐 書 ﹄ 巻 九 ㌧ ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 七 ) 。 (三四) 当時、岐(鳳朔=岐州を指す) に行在所があったのは'宋仝忠が昭宗を長安から洛陽に移そうと計画していることを知った枢 密使韓仝諒が未全忠に先んじて、昭宗を都に近い鳳期節度使(治所は鳳期府 在任期間は唐・光啓三年∼後唐・同光二年の三十七 年間)李茂貞のもとに移したことによる。その行為に激怒した宋全忠が鳳期を囲んだのである。この状況を打開するために'天復 二年三月'昭宗が季候を派遣したのは'呉の楊行密に討伐軍を組織するように依頼するためであった。(﹃資治通鑑﹄巻二六二⊥二・ 天復元年∼三年の条)。 (三五) 季候は唐の億宗の時宰相張清の子で、李姓を賜って、李氏を名のる。彼はこの当時左金吾大将軍であったが、天復二年三月' 昭宗の命を受けて江准宣諭傍として、楊行密に宣武・宣義・天平・護国四鎮節度使宋仝忠の討伐の命を伝えに来たのである。その 後宋仝忠が鳳朔(険西省鳳朔県) の李茂貞に勝って父親が殺されるとうそのまま広陵(江蘇省揚州市) に留まった (﹃新唐音﹄巻一 八 八 楊 行 密 伝 、 ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 六 三 ∼ 二 七 〇 、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 八 ) 。 (三六) 楊行密が昭宗に任命された東面諸道行宮都続とは宣武軍節度使宋仝忠討伐の総司令官である。検校太師は検校官、中書令は中 書省の長官であ-'いずれも実職ではな-、名誉職であ-、楊行密の地位を高からしめるためのものである。太師は三師の一つ、 正 一 品 。 (三七) 郡岳招討傍とは武昌節度使杜洪討伐司令官という意味。招討とは招撫征討の意味で'敵を帰順させた-攻め滅ぼした-するこ とを示し'郡岳とは武昌藩鋲を指し、郡州は今の湖北省武漢市武昌、岳州は今の湖南省岳陽市を指す。 (三八) 杜洪は郡州出身で、もともと俳児(芸人) であったが、中和(八八一∼八八四) 末年に郡州の武将とな-'後に岳州刺史を追 放 し て そ の 地 に 自 立 し 、 光 啓 二 年 ( 八 八 六 ) に 武 昌 節 度 使 と な -' 天 祐 二 年 ( 九 〇 五 ) に 楊 行 密 に 滅 ぼ さ れ た ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 九 〇 、 ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 七 ) 。 (三九) 成酒は青州(山東省青州市) の出身で'若い時から素行が悪-'酒に酔って人を殺したため'故郷を逃れ'旅の僧に身をやつ し、後に察賊の親分の仮子(養子) になって郭南と名を変え、そこも去って荊南節度使に投降して副将となったが、光啓元年(八 八五) に荊南藩鋲の内紛から身を避けて仲間千人と共に帰州 (湖北省梯帰県) を襲いそこに自立し、三年後の文徳元年(八八八) ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 に 荊 南 節 度 使 と な -' 天 復 三 年 ( 九 〇 三 ) に 楊 行 密 に 滅 ぼ さ れ た ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 九 〇 ㌧ ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 七 ) 。 (四〇)王師範は青州(山東省青州市) の出身で、父親の平底節度使王敬武の死後、十六歳でその跡を継いで龍紀元年(八八九) に節 度使とな-、その後、後梁の宋仝忠と昭宗をめぐって対立し、楊行密らに援軍を求めるなどしたが、結局敗北し'天祐二年(九〇 五 ) に 節 度 使 の 地 位 を 失 い 、 洛 陽 に 幽 閉 さ れ 、 そ の 地 で 族 滅 さ れ た ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 八 七 ㌧ ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 三 ㌧ ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 四 二 ・ 雑 伝 ) 。 (四一) 王茂章は楊行密と同じ鹿州合肥県(安徽省合肥市) の出身で、性格は気性が荒-'質朴で礼儀知らずであ-'若い時に行密に 従って准南に蜂起して将とな-、平底節度使王師範が行密に援軍を求めてきたため、行密の命を受け師範の救援に向かい、後梁の 軍と戟い、敵将宋友寧(宋仝忠の兄の子) を破ってこれを斬-殺し、宋全忠の反撃に遭い、必死の思いで准南に帰還した。後に潤 州団練便となった。しかし行密が亡-なると、息子の握と対立して呉越の銭謬(註(三一)参照) のもとに奔-'次いで宋仝忠に 請われて後梁に帰属し、名前を景仁と変え、後梁の太祖と末帝二代に仕えた。(﹃旧五代史﹄巻二三、﹃新五代史﹄巻二三・梁臣伝、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 七 ) (四二)墓濠(八五四∼九〇四)は楊行密と同じ鹿州合肥県(安徽省合肥市) の出身で、若い時に金牛鎮(安徽省鹿江県西北金牛郷か-) 将 と な り 、 楊 行 密 が 鹿 州 に 立 っ た 時 に 彼 に 帰 属 し 、 そ の 後 秦 彦 ・ 畢 師 鐸 ・ 趨 鐘 ・ 孫 儒 ( 註 ( 九 ) ( 一 一 ) ( 二 二 ) 参 照 ) の 平 定 に 戟 功をあげ、行密が広陵に拠点を定めた時に楚州(江蘇省涯安市)刺史とな-、光化二年には海州(江蘇省連雲港市西南)刺史となっ て、州民に訴えられて、漣水(江蘇省漣水県) 制置使(戟時下の秩序維持のために置かれた官職) に左遷され、宣州の田額の叛乱 ヽ の 平 定 に 功 を あ げ て 宣 州 観 察 使 と な -、 任 官 中 に 亡 -な っ た ( ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 八 九 、 ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 一 、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 五 ) 。 (四三)宋延寿は鹿州静城(安徽省静城県) の出身で、楊行密の妻の弟であ-、二十歳前に行密に仕えて秦彦・畢師鐸・趨鐘・孫儒征 討に功を上げ、その後寿州を抜いて寿州刺史とな-、さらに斬・光二州陥落の功によって寿州団練便に昇進し、天復二年に昭宗か ら宋仝忠討伐の詔勅が行密にもたらされた時に奉国軍節度使を賜ったが、田頼・安仁義の叛乱に荷担して行密に殺された(﹃新唐書﹄ 巻 一 八 九 ' ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 七 、 ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 三 、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 一 三 ) 0 (四四)許再思は当時、鎮海軍節度使銭鐸配下の武勇左都指揮使であった。銭鍔が治所の杭州から故郷の衣錦軍(臨安県) に帰るに際
して武勇右都指揮使徐棺に衣錦軍の水路整備を命じたが、この役に対して兵士の間から不満が起こったが'認められなかった。そ こで徐棺は病と称して先に杭州に帰還し、叛乱を起こした。これに呼応したのが'留守部隊の許再思であった (﹃資治通鑑﹄巻二六 三 ・ 天 復 二 年 の 条 、 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 六 七 ・ 呉 越 世 家 ) 。 (四五) 李遇は楊行密と同じ鹿川合肥県(安徽省合肥市) の出身で'初め楊行密の幕下に仕え'光啓中 (八八五∼七) に後梁の軍を鹿 州憤県(安徽省肥東県東北梁園) で禦いだ際に、輿を携えて単騎で、先頭に立って敵を破-'その功で伍長から馬軍副指揮傍に昇 進 L t 秦 彦 ・ 畢 師 鐸 ・ 趨 鐘 ・ 孫 儒 平 定 に 従 い ' 涯 南 馬 歩 諸 軍 都 尉 、 常 州 ( 江 蘇 省 常 州 市 ) 刺 史 、 宣 州 ( 安 徽 省 宣 州 市 ) 団 練 傍 を 歴 任 L t 徐 温 専 政 の 時 に 徐 温 と 対 立 し た ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 一 、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 五 ) 。 ( 四 六 ) 李 徳 誠 は 広 陵 郡 ( 江 蘇 省 揚 州 市 ﹃ 馬 氏 南 唐 書 ﹄ 巻 九 ) か 、 ま た は 陳 州 西 華 県 ( 河 南 省 西 華 県 南 ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 五 八 ) の 出身で、宣欽観察使趨鐘の給傍であったが'趨鐘が楊行密に滅ぼされると'行密に仕え、征討軍に従って、港南馬歩軍使とな-、 潤 州 留 後 、 撫 ・ 慶 ・ 洪 三 鋲 を 歴 任 L t 後 に 南 唐 の 佐 命 の 臣 と な っ た ( ﹃ 馬 氏 南 唐 書 ﹄ 巻 九 、 ﹃ 陸 氏 南 唐 書 ﹄ 巻 九 ㌧ ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 七 ) 。 (四七) 米志誠は沙陀部 (突厭) の出身で'馬術と弓術に習熟して、強-勇ましい人物として知れわたっていた。その彼が乾寧四年 (八九七) に楊行密のもとに身を寄せ、後梁の武将であった鹿師古・葛従周と戟い、連戟連勝し、その功績で馬軍指揮便とな-、後 に も 戦 功 を あ げ て 泰 寧 軍 節 度 使 と な っ た ( ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 二 ㌧ ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 七 ) 。 ( 四 八 ) 劉 存 は 陳 州 ( 河 南 省 准 陽 県 ﹃ 九 国 志 ﹄ 巻 一 ) か 、 ま た は 唐 州 泌 陽 県 ( 河 南 省 唐 河 県 ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 六 五 ) の 出 身 で 、 武 勇に優れ'行密が合肥に蜂起すると'陣営にしたがい'戟功をあげて'乾寧中に野川(安徽省潜山県) 団練使となった (﹃九国志﹄ 巻 一 、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 六 ) 。 (四九) 趨匡凝は、山南東道節度使途徳謹(察賊秦宗権の部下) の子であ-、景福二年(八九三) に父親が亡-なると、その跡を継い で節度使とな-、楊行密と好を通じたことで後梁の太祖の怒-を買い、天祐二年 (九〇五) に攻められ、守-きれず、准南の楊行 密 の も と に 逃 れ た ( ﹃ 新 唐 音 ﹄ 巻 一 八 六 、 ﹃ 旧 五 代 史 ﹄ 巻 一 七 ' ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 四 一 、 ﹃ 十 国 春 秋 ﹄ 巻 八 ) 。 (五〇)楊渥は行密の長子。彼に関する伝記は本書の他に﹃旧五代史﹄巻二二四、﹃十国春秋﹄巻二がある。 (五一)楊樽は行密の第四子。彼に関する伝記は本書の他に﹃十国春秋﹄巻三がある。 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 ( 補 註 一 ) こ の 記 事 の 年 号 は ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 巻 二 五 七 ・ 光 啓 三 年 の 条 に 拠 っ た 。 ( 補 誌 二 ) 「 取 蘇 ・ 常 ・ 潤 州 」 に 関 し て は 、 清 ・ 周 寿 昌 撰 ﹃ 五 代 史 記 纂 誤 補 続 ﹄ 巻 六 ・ 呉 世 家 ・ 楊 行 密 の 条 で は 大 順 元 年 の 出 来 事 と し て いる。確かに﹃資治通鑑﹄巻二五八・大順元年二月の条に楊行密が田頼・安仁義らに命じて常・潤州を攻めさせたこと'及び﹃新 唐書﹄巻一八八・孫儒伝に大順元年に楊行密が潤州を取-'安仁義にこれを守らせ'李友に常州を守らせたことが記されている。 そこで訳文に「大順元年」を付け加えた。 ( 補 註 三 ) 「 二 年 」 に 関 し て は ' ﹃ 五 代 史 記 纂 誤 補 続 ﹄ 巻 六 ・ 呉 世 家 ・ 楊 行 密 の 条 で は 「 龍 紀 は 一 年 し か な -翌 年 正 月 に 大 順 に 改 元 さ れ て二年がないこと、﹃新唐書﹄本紀・列伝'﹃資治通鑑﹄、﹃九国志﹄ 田頼伝にはすべて大順二年とあること」を理由に'また中華書 局本﹃新五代史﹄巻六一・校勘記では、「龍紀は元年しかないことと﹃資治通鑑﹄巻二五八・大順二年五月の条で楊行密が李神福に 命じて和・源州を攻めさせたこと」を理由に、「大順二年」としている。周寿昌が指摘しているように、﹃新唐書﹄巻一〇・昭宗本 紀 の 大 順 二 年 六 月 の 条 に 「 楊 行 密 陥 和 ・ 勝 二 州 」 、 同 書 巻 一 八 八 ・ 楊 行 密 伝 に 「 大 順 二 年 ' [ 孫 ] 儒 屯 漢 水 ' 楯 山 構 壁 ' 行 密 造 李 神 福 屯 広 徳 、 ・ ・ ・ 儒 将 康 旺 取 和 州 、 安 景 思 取 勝 川 。 神 福 撃 降 旺 、 逐 景 思 、 攻 腰 山 屯 、 破 之 、 禽 儒 将 李 弘 幸 」 、 ﹃ 九 国 志 ﹄ と あ -、 二 年が大順二年を指すことが確認できる。そこで訳文に「大順」 の年号を付け加えた。 ( 補 註 四 ) 「 五 年 」 に 関 し て 、 清 ・ 呉 蘭 庭 撰 ﹃ 五 代 史 記 纂 誤 補 ﹄ 巻 四 ・ 呉 世 家 ・ 楊 行 密 の 条 で 、 「 乾 寧 五 年 は 光 化 元 年 と 重 な -' こ の 歳 の八月に改元されていて'銭氏が蘇州を攻めたのは改元以前の出来事であ-、蘇州に入城したのは改元後の九月のことであるから' 五年は光化元年とするべきである」と述べている。この点の見解を﹃資治通鑑﹄巻二六一・光化元年の条で確認してみると、三月 には、准南の将周本が蘇州を救い、両断の将顧全武がこれを撃ち破ろうとしたが、涯南の将秦裳は三千の兵でこれを守った記事が り、八月には改元の記事があ-、九月には、顧仝武が蘇州を攻めてこれを破った記事があることから、呉蘭庭の指摘が正しいこと が わ か る 。 そ こ で 訳 文 で は 「 五 年 」 を 「 光 化 元 年 」 に 書 き 改 め た 。 ( 補 註 五 ) 「 友 寧 、 梁 太 祖 子 也 」 と あ る が 、 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 二 二 ・ 梁 家 人 伝 に は 「 朗 王 存 、 初 与 太 祖 倶 従 黄 巣 攻 広 州 、 存 戦 死 。 子 友 寧 ・ 友倫」及び﹃五代会要﹄巻二・封建の条に「[梁開平] 二年正月、追封皇従子友寧為安王」とあることから'友寧は兄の子である ことがわかる。したがってこの文章には 「兄」 の字が欠落していると考えられる (宋・呉績撰﹃五代史纂誤﹄巻上・梁臣伝・王景
仁三事の条'中華書局本﹃新五代史﹄巻六一・校勘記)。したがって訳文に「兄の」を付け加えた。 (補註六) 「爽岡」 の地名に関しては ﹃中国歴史地名大辞典﹄ (魂嵩山主編) に掲載されていないため、改めて関連史料を調べてみると' ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 九 七 ・ 河 渠 志 七 ・ 潤 州 水 の 条 に 「 紹 興 七 年 、 両 剰 転 運 便 向 子 謹 言 、 鎮 江 府 呂 城 ・ 爽 岡 、 形 勢 高 仰 、 因 春 夏 不 雨 、 官 漕 難 勤 。 ・ ・ ・ 」 ' 元 ・ 愈 希 魯 撰 ﹃ 至 順 鎮 江 志 ﹄ 巻 二 ・ 地 理 ・ 斗 門 ・ 丹 陽 県 の 条 に 「 呂 城 ・ 爽 岡 ' 宋 紹 興 中 置 」 ' 清 ・ 顧 祖 丙 撰 ﹃ 読 史 芳 輿 紀 要﹄巻二五・鎮江府・丹陽県の条に「爽岡'県北二十五里」とあることから'「爽岡」が鎮江府丹陽県の北二十五里にあったことが わかる。そして関連史料に見られる「呂城」 の現所在地は、﹃中国歴史地名大辞典﹄ によると、江蘇省丹陽市呂城鋲としている。こ のことから、「爽岡」 の硯所在地を江蘇省丹陽市北とした。 次 に 先 の 史 料 か ら 「 爽 岡 」 に 斗 門 ( 水 門 ) が 設 置 さ れ た こ と ' 同 前 ﹃ 読 史 芳 輿 紀 要 ﹄ 巻 二 五 ・ 鎮 江 府 ・ 丹 陽 県 ・ 爽 岡 の 条 に 「 亦 日大爽岡'下臨運河、故運河亦日爽岡河也」'巻二十五・鎮江府・丹徒県・滑河の条に「爽岡河、即漕渠之別名也」とあることから' 「爽岡」が漕河沿いにあったものと思われる。滑河は現在の京杭運河である。 原 文 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 巻 六 一 鳴 呼 、 自 唐 失 其 政 、 天 下 乗 時 ' 楚 開 蛮 服 。 剥 瓢 弗 堪 ' 呉 越 其 尤 。 爆 火 息 」 。 故 真 人 作 而 天 下 同 。 作 蘇 髭 盗 敗 、 表 見 峨 魂 。 呉 堕 南 唐 、 姦 豪 窺 摸 。 萄 険 而 富 、 漠 険 而 貧 。 貧 能 自 彊 、 富 者 先 亡 。 閑 随 荊 壁 、 牢 牲 視 人 、 嶺 蟹 遭 劉 。 百 年 之 間 ' 並 起 争 雄 、 山 川 亦 絶 、 風 気 不 通 。 語 日 、 「 清 風 興 、 群 陰 伏 。 日 月 出 、 「 十 国 世 家 」 。 呉 世 家 第 一 楊 行 密 ( 本 号 ) 子 渥 隆 演 薄 ( 次 号 ) 楊 行 密 、 字 化 源 、 鹿 州 合 肥 人 也 。 為 人 長 大 有 力 、 能手百斤。唐乾符中'江・准群盗起、行密以為盗見獲。刺史鄭葉音其状貌、釈縛縦 之。後応募為州兵、戊朔方、連隊長。歳満戊還、而軍吏悪之、復使出戊。行密将行、過軍吏合。軍吏陽為好言、問行密行何所欲。行密 奮然日'「惟少公頭爾」'即斬其首。携之而出、因起兵為乱、自号八首都知兵馬使。刺史郎幼複葉城走、行密遂拠鹿州。 ﹃ 新 五 代 史 ﹄ 世 家 訳 註 稿 ( 一 )
伊 藤 宏 明 中和三年'唐即拝行密度州刺史。港南節度使高餅為畢師鐸所攻'餅表行密行軍司馬。行密率兵数千赴之、行至天長。師鐸己囚餅、召 宣州秦彦入揚州、行密不待人、屯干萄岡。師鐸兵衆数万撃行密、行密陽敗、棄営走。師鐸兵飢'乗勝争入営収軍実。行密反兵撃之'師 鐸大敗、単騎走入城、遂殺高餅。行密閉餅死'縞軍向城笑三日。攻其西門、彦及師鐸奔千束糖。行密遂入揚州。 是時、城中倉度空虚。飢民相殺而食、其夫婦・父子自相牽、就屠売之、屠者到別如羊家。行密不能守、欲走。而察州秦宗権道其弟宗 衡掠地准南。彦及師鐸還自乗塘'与宗衡合。行密閉城不敢出。己而宗衡為偏将孫儒所殺。儒攻高郵破之、行密益催。其客衷襲日、「吾以 新集之衆守空城。而諸将多餅旧人'非有厚恩素信力制而心服之也。今儒兵方盛'所攻必克。此諸将持両端因強弱択響背之時也。海陵鎮 使高覇、餅之旧将、必不為吾用」。行密乃以軍令召覇。覇率其兵入広陵。行密欲使覇守天長。襲日、「吾以疑覇而召之。其可復用乎。且 吾 能 勝 儒 、 無 所 用 覇 。 不 幸 不 勝 ' 天 長 山 豆 吾 有 哉 。 不 如 殺 之 、 以 井 其 衆 」 。 行 密 因 楠 軍 檎 覇 族 之 ' 得 其 兵 数 千 。 己 而 孫 儒 殺 秦 彦 ・ 畢 師 鐸 ' 井 其 兵 以 攻 行 密 。 行 密 欲 走 海 陵 。 襲 日 、 「 海 陵 難 守 。 而 庭 州 吾 旧 治 也 、 城 魔 完 実 ' 可 為 後 図 」 。 行 密 乃 走 鹿 川 。 久 之 、 未 知 所 響 、 問 襲 日 ' 「吾欲巻甲倍道'西取洪州可乎」。襲日'「錘伝新得江西'勢未可図。而秦彦之入広陵也'召池川刺史趨鐘委以宣州。今彦且死、鐘失所侍。 而守宣州非其本志、且其為人非公敵'此可取也」。行密乃引兵攻鐘、戟干馬山、大敗之。進囲宣州。鐘棄城走'追及殺之。行密遂入宣州。 龍 紀 元 年 ' 唐 拝 行 密 宣 州 観 察 便 。 行 密 造 田 頼 ・ 安 仁 義 ・ 李 神 福 等 攻 新 西 ' 取 蘇 ・ 常 ・ 潤 州 。 二 年 、 取 源 ・ 和 州 。 景 福 元 年 ' 取 楚 州 。 孫儒自遂行密、入広陵、久之、亦不能守。乃焚其城'殺民老疾以銅軍、駆其衆渡江。号五十万㌧以攻行密。諸将田頼・劉威等遇之軌敗。 行密欲走銅官。其客戴友規、日、「儒来気鋭而兵多。蓋其鋒不可当而可以挫、其衆不可敵而可久以敏之。若避而走、是就檎也」。劉威亦 日 ' 「 背 城 堅 柵 ' 可 以 不 戟 疲 之 」 。 行 密 以 為 然 。 久 之 ' 儒 兵 飢 、 又 大 疫 、 行 密 悉 兵 撃 之 。 儒 敗 ' 被 捻 。 将 死 、 仰 顧 見 威 日 、 「 聞 公 為 此 策 以 敗 我 。 使 我 有 将 如 公 者 、 其 可 敗 邪 」 。 行 密 収 儒 余 兵 数 千 、 以 畠 衣 蒙 甲 、 号 里 芸 京 都 ' 常 以 為 親 軍 。 是歳'復入揚州。唐拝行密港南節度使。乾寧二年、加検校太博・同中書門下平章事。行密以田頼守宣州、安仁義守潤州。昇州刺史鳩 弘鐸来附。分遣額等攻掠'自港南以南・江以東諸州皆下之。進攻蘇州、檎其刺史成及。四年、充州宋珪奔干行密。初、珪為梁所攻、求 政子晋、晋遣李承嗣将勤騎数千助壇、珪敗、因与倶奔行密。行密兵皆江准人'涯人軽弱。得連動騎、而兵益振。 是歳、梁太祖遣葛従周・鹿師古攻行密寿州、行密撃敗梁兵清口、殺師古。而従周収兵走、追至捧河、又大敗之。五年、銭鐸攻蘇州、 及周本戟千日方湖、本敗、蘇州復入干越。天復元年'遣李神福攻越。戟臨安、大敗之、檎其将顧仝武以帰。