• 検索結果がありません。

インクルーシブアート題材開発の理念と実践─ 現代アートによる見えない/見える人が協働する題材開発過程 ─

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "インクルーシブアート題材開発の理念と実践─ 現代アートによる見えない/見える人が協働する題材開発過程 ─"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

── 現代アートによる見えない/見える人が協働する題材開発過程 ──

茂 木 一 司・多 胡   宏・竹 丸 草 子

Philosophy and Practice of Inclusive Art Subject Development

──

The Process of Development of Subjects in Collaboration

with Invisible/Visible People Through Contemporary Art ──

Kazuji MOGI, Hiroshi TAGO and Soko TAKEMARU

群馬大学共同教育学部紀要 芸術・技術・体育・生活科学編 第56巻 1―15頁 2021 別刷

(2)
(3)

インクルーシブアート題材開発の理念と実践

── 

現代アートによる見えない/見える人が協働する題材開発過程

 ── 茂 木 一 司1)・多 胡   宏2)・竹 丸 草 子3) 1)群馬大学共同教育学部美術教育講座 2)群馬大学大学院 3)長岡造形大学大学院 (2020年9月30日受理)

Philosophy and Practice of Inclusive Art Subject Development

──

The Process of Development of Subjects in Collaboration

with Invisible/Visible People Through Contemporary Art ──

Kazuji MOGI

1)

, Hiroshi TAGO

2)

and Soko TAKEMARU

3)

1)Department of Art, Cooperative Faculty of Education, Gunma University 2)Graduate School, Gunma University

3)Graduate School in Nagaoka Institute of Design (Accepted on September 30th, 2020)

1 はじめに

 本研究はここ数年継続しているアートが媒介する インクルーシブな社会構築のための教育研究である1 ここでは、それを「インクルーシブアート教育」(造 語)と呼ぶ。福祉と教育の接続が十分でない、ある いは今社会の中でさまざまな分断がむしろ進行する 中で、共生社会構築がより難しさを増していると感 じるが、やはりその基盤づくりは遠回りでも(学校) 教育が担わなければならないと考える。  共生社会とは差別や排除によって「これまで必ず しも十分に社会参加できるような環境になかった障 害者等の弱者を含むすべての人が積極的に参加・貢 献していくことができる社会であり、誰もが相互に 人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方 を相互に認め合える全員参加型の社会である」2とさ れる。したがって、共生社会は「ソーシャル・エク スクルージョン(社会的排除)」との戦い(歴史) という側面を持っている。  「インクルーシブアート教育」の主張のひとつは、 障害を持つ子どもたちに本当に必要なアートの教 育・研究が十分ではない。いわゆる特別支援の美術 教育にもっと理論的実践的な研究と蓄積が必要とい う現実的な問題である。しかしその本質にあるのは 「アートの教育はむしろ共生社会構築の基盤になる べきだ」という主張である。障害を含めてすべての 人が共存共栄するインクルーシブな社会にはアート のような差異や多様性を前提に、それを活かし、そ れぞれの個性を調和させながら全体をつかむ統合的 総合的な(教育)力が基礎になるべきではないか。 アートが知情意の調和(情=アートによって知と 意が結ばれる)をはかり、断片化した知(ボーム,D) を再統合することは、人が感情によって右往左往す る現代のメディア社会には必須の学習ではないか。 こんな問題意識の中で、インクルーシブアート教育 とは、アートが人間の尊厳を保つために必要な「自

(4)

由」を保証し、現代社会/ 教育を見直す理念と実践 になることの提案」3と考えた。  インクルーシブアート教育は、①障害を持つ子ど もたちに本当に必要なアートの教育/研究を充実さ せることと、②アートに対する理解者/共感者を増 やし、アートによってわたしたちみんなが生きやす い世界をつくっていく理念と行動を「ともにするこ と」が必要である。障害のある者と障害のない者が 共に学ぶ仕組みをつくるインクルーシブ教育におい ては、障害を持つ子どもたちのアートによる表現や コミュニケーションは、むしろ普通教育の中でダイ ナミズムをつくり出す原動力となる。障害児たちの アートの学びは、硬直化した学校をはじめとする既 存の教育をアンラーニング(学びほぐし)してみせ る。  しかしながら、日本の障害児教育におけるアート (美術、音楽、身体表現等)の教育の現状は、かつ て主要教科とみなされていた時代を経て、現在は消 極的な余暇学習の扱いで、アート教育の自由な表現 の学びはますます萎縮傾向にあるように感じる。こ の原因として、障害者の社会での自立を目的とした 職業準備教育のための技能主義・作業教育の強調と、 障害児教育研究が実証主義であり、再現・検証がで きにくいアート系が扱いにくいからではないかと思 う。同じことをきちんとできることが優先される (学校)教育の中でアートの教育は違うことを重視 する。それはある意味で反(学校)教育のようなも のである。アート教育にとって障害によるデメリッ トは何もなく、そこには彼ら/彼女らのありのまま の「個性」を生かすという普通の芸術教育の姿があ るだけだ。

2 方法優先主義と教え/支援しすぎ批判

 インクルーシブアート題材開発の理念を述べる前 に、日本の教育の強い方法優先主義の問題を取り上 げる。新しい教育理念に基づいた題材・教材開発に は学ぶ者の能動的主体的な学びとそれを疎外する教 えすぎの問題があるからである。たとえば、もう 40年にも及ぶ自分の教師教育をふり返っても、日 本の教員養成はほとんどが教え方の上手下手を第一 義的に考える、いわゆる「教師の型」を学ぶことに 終始している現状がある。学習指導案、発問や板書、 個人やグループ指導…などなど、あらゆるものがよ い方法探しになっている。図工・美術科教育法はい つしか図工・美術科指導法に変更させられ、学生は いい指導法があるかのような幻想を持って受講して いる。  「何かいい素材はないですか?面白い題材のアイ デアはないですか?……どうやったらうまく教えら れますか?」。美術教育の研修会でよく聞く質問で ある。しかし「(誰にでもできる)よい方法論がある」 と考えるのは間違いである以上に危険である。教員 が多忙を極め、授業時間が削られてきた図工美術教 育が効率的な時短教材を求めなければと考えるのは 一見合理的に見えるが、よい方法論探しはすぐに理 念なきスキル磨きの競争になってしまい、美術教育 の本来の目的(論)から外れていく。キミ子方式や 酒井式描画法などの方法優先主義はどうしても結果 を求める作品主義に陥る欠点がある。キミ子方式と は1975年に松本キミ子(敬称略、以下同)が開発 した絵の指導方法であり、3原色と白で色をつくり、 もやし、イカ、毛糸の帽子とモチーフを決めて描く ものである。また、酒井式描画指導法とは新潟県の 元小学校教師の酒井臣吾が生み出した絵画の描画指 導法で、起点から終点までペンをはなさないで線を つなぐ「エチュード」と呼ぶ練習課題の積み重ねに よって、人物を中心とした口や目、顔の輪郭、手足 や身体の形(型)を習得する。酒井式は1980年代 に始まる教育技術の法則化運動(向山洋一がはじめ る。現在はTOSSに変更)の美術教育版である。こ れらの絵画における描画教育技術の習得方法が批判 されながらも根強い人気を持つのは美術(絵画)教 育の難しさにあることも確かである。どうやって教 えていいのかわからない美術専門者以外の教員が成 果の見えやすいものに飛びつくのはやむを得ないと 考えることもできる。しかしながら方法論は理念の 具体化であり、それだけが単独で存在することはあ りえないことをきちんと理解する必要がある。  はじめに、教育における方法優先主義批判を取り

(5)

上げたのは、特別支援教育の場が「支援性」が強く 感じられるからである。障害児教育の著書や雑誌に は指導のネタやポイントが満載であるが、そこには 障害者を排除してきたスピードと効率性(モダニズ ム)が基底にあることを意識すべきだ。  アートの教育のいいところは効率や生産性以外に 多くの目的が置かれていて、個人と他者(社会を含 む)とをつなぐ開かれたコミュニケーションの場づ くりができるからであり、それによってセルフエス ティーム(自尊心)を育て、「よりよく生きる( well-being)」ことを確かなものにするからである。  特に障害児教育の現場では先生が決めたとおりに 授業が進む、いわゆる「導かれた成功」は気になる。 教室では、それぞれの個性が響き合い、調和しなが らひとつのかたちがつくられていくことを「待つと いうこと」(鷲田清一)が必要である。学びは先生 ではなく、子ども自身がつくるものである。「助け すぎ」の恒常化は子どもたちを確実に受け身にする。 本当の学びは間違いやできなかったことからの気づ きや未知のものに挑戦する主体的な学びの中にしか ないと考えるべきである。そもそも教育の結果が本 当に表れるのは随分後になってからのはずであり、 その時々の結果(アウトカム)はよいに超したこと はないが重要なのは将来に向かうインパクト(評価) であり、そういう意味でもインクルーシブに教育を 考えることが重要であろう。

3 インクルーシブアート題材・教材開発

のコンセプト

 視覚障害のためのインクルーシブアート教育の最 終目的は、見えない/見えにくい/見える人がみん なで学べる教育の実現で、その実践に必要なのがイ ンクルーシブアート題材及び教材開発である。  「インクルージョン(inclusion)」は「中に含みこ む」ことで、「排除」を意味する「エクスクルージョ ン(exclusion)」の反対語で「全体」を意識してい る用語である。間違えやすいのは、マジョリティが マイノリティを中に抱え込むというイメージである が、インクルージョンとははじめから多様な個性が 混じり合ってひとつの社会(世界)に分け隔てなく 存在することである。したがって、インクルーシブ 題材はもっとも遠く難しい問題を抱えた人に基準を 合わせることが必要である。国連「障害者の権利に 関する条約」では、それを「合理的配慮(reasonable accommodation)」と呼び、「第2条 定義」に提示 する。 障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的 自由を享受し、又は行使することを確保するための必要かつ 適当な変更及び、調整であって、特定の場合において必要と されるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負荷を課 さないものをいう(外務省HP より)。  「合理的配慮」の意味は、一方的に強者が弱者を 支援することではなく、弱者(当時者)が必要な支 援をいわばみんなで交換するような状態をいう。つ まり、互いに異なる文化を尊び、その違いに興味関 心を持ち、間にある壁を乗り越え共創が起きるよう に触れあうことが必要である。(身体的、社会的な) それぞれが持つ特性にあわせて、できること/でき ないことを持ち寄ってつくる文化的な実践をインク ルーシブアート題材・教材の基本理念としたいと考 える。したがって、インクルージョンが生みだす学 びの基本理念は、「主体的な学び」ということになる。 子どもたちは自分の目標に向かって「自分の学び」 を自分でつくりながら、同時に共存するために他者 を意識し、インクルーシブな社会をつくるために対 話的で協働的な学びをつくるのである。  すなわち、「インクルージョン」の定義から必然 的に導かれるように、インクルーシブ題材の開発ポ イントは「プロセス全体を学習とみなす」、理念と しても方法としても「分けないこと」である。見え る/見えない、触る/触らない、表現/鑑賞……こ のような二元論は便宜的なものでしかない。常に全 体と部分の照応=バランスに注意を向け、静ではな く動的に捉えること、今の言葉で言えば能動/受動 でなく「中動態」的に物事を捉えることが重要であ る。

(6)

3.1 開発のポイント①:学びの総合化=ワーク    ショップ(型学習)へ  インクルーシブ題材開発で重要なポイントの1つ 目は、学びの総合性の担保=ワークショップ化であ る。すなわち、アートの教育をもの⇄場(環境)⇄ 人との複合的な「対話」、つまりコミュニケーショ ン学習の場にすることである。わたしは美術教育の 存在意義を検討する中で、アートが個人と社会(世 界)をつなぐツールになることを経験し、その方法 としてワークショップ(参加体験型協同学習)を実 践/研究してきた。  ワークショップとは「ものづくりのための工房」 から「参加型の研修会・研究会」に意味を変え、中 野民夫著『ワークショップ』(2001)の出版によって、 「講義などの一方的な知識伝達のスタイルではなく、 参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学び合っ たり創り出したりする学び」という定義が一般化し、 イノベーティブでコラボレイティブな社会を先導す る学びとして利活用されている学習(論)である。 ワークショップは教育だけでなく、環境(まちづく り)、福祉、人権、創発などあらゆる領域に広がっ ている。また、日本のワークショップの学びは学習 への参加・創造と学びの双方向性がより強調されて 受容されている。その理由は、ワークショップが学 習を競争(学校教育)から楽しさ(日常の学び)に変え、 画一的な教育観が生む同調圧力が強い日本の教育に 対する反教育的な学びになっているからである。  ワークショップはみんなが協働し、そこで起こる 相互作用が学習者の多様性を活かし、自分ひとりで できなかった自他のよさなどを気づかせる社会構成 主義的な学びである。今までの知識蓄積型の行動主 義や知識理解型の認知主義の学習観では達成できな かった知識が参加者や道具(人工物)などの学習環 境によって構成される「意味生成の自由な学習」で あることを自覚/体現させる。さらに、ワークショッ プは「はじめによい方法や正解があるのではないと いう根本的な問いを答えに持っている」4。その意味 は無防備な自己をさらけ出せる安心安全な場での自 己解放と協調の学びにある。それはみんな違ってい いという差異の強調ではなく「人間としての基盤に 基づいた共通性」5による信頼関係の構築である。 3.2 開発のポイント②:現代アートの活用とモノ    からコトへの題材観の更新  開発のポイントの2つ目は、アートがモノからコ トへ変容したことに伴う題材観の更新である。今ま での盲学校図工美術教育が培ってきた触覚教育の専 門性を捨てるのではなく、モノを触る学びを通して 探求してきた「見えないもの(芸術としてのエッセ ンス)」をアートの思考によるコトづくりとして題 材化に適用することである。現代アートは芸術を 「感じるから考える」に変更した。それは、美術教 育を「イメージ+テキストの教育」にしたと言い換 えることができ、また題材のインクルーシブ化には 効果的である。つまり、イメージと言葉の交換によ る教育は鑑賞と表現の行き来を楽にし、触る/触ら ないの二元論を越境させ、見える/見えない人がと もに創造的に学ぶことを支援できる。アート教育を モノとコトを往還する学習にすることによって、美 術教育をメディアの教育として再構築することがで きると言い換えることもできる。それは、感性教育 として構築されてきた美術教育の余分なアウラを消 失させ、美術教育を(視覚障害の)身体を通過する メディアの交換として作り直し、フラットで平等な 学習にする可能性を持っている。たとえば、見えな い人と見える人がいっしょにする対話型鑑賞では、 ワークを始める前に「鑑賞するときは、見えている ものと見えていないものを言葉にしていください」 と説明する(視覚障害とつくる美術鑑賞ワーク ショップ/林健太代表)。「見えているもの」とは作 品の大きさや色、モチーフなどの「客観的な視覚情 報」で、「見えないもの」とはその人独自の思考、 感情、印象、記憶などの「主観的な意味」のことを いう。伊藤亜紗はこのような「ソーシャル・ビュー の面白さ」を「意味の共有」という6。ソーシャル・ ビューは「見える人の解説」や正解をみんなで探す ことでもなく、まして専門家の解説を覚えることで もない。鑑賞とはもやもやとした印象を自分なりに 分析・解釈・評価し、その人独自の意味にまで高め る創造活動で、その価値を確認するためには他者を

(7)

鏡にする協働による学習が必要である。つまり、参 加者の作品のイメージと言葉の交換(対話)によっ て違いを楽しむというレッスンなのである。  わたしたちは2つの実践をおこなった。一つ目は 盲学校の中学生を対象にした現代アートの実践/思 想史をたどりながら、「モノを触る」ことを中心と した、ピカソ(Pablo Picasso,1881─1973)のキュ ビスムを取り上げ、それを中学校美術科教育の題材 として定番化している「自画像」と組み合わせて題 材開発を試みた7。キュビスムを取り上げた理由は 3次元を2次元に還元する絵画の線遠近法、いわゆ る透視図法的な視点を否定し、正面図と側面図が同 居する不思議な絵画を創造したことであり、そのこ とは視覚障害児が触覚(触察)によって対象を捉え るときに、多方向から分析(部分)的に解体して再 構成する捉え方が共通するからである。また、自画 像がいわゆる思春期の心情(内面)を表出させ、自 己確認できる中学生に適した題材だからである。  わたしたちは、①中学生たちに自己省察をしても らうために「会話による自画像:私って何?―自分 らしさの発見―」の実践を試みた。「自分らしさ」 とは何だろうを考え、それをきっかけとして他者と の対話から自己の有り様を見つめさせた。次の題材 は、②「ピカソの自画像・私の自画像」である。 1907年(25歳)のキュビスム時代初期の自画像を 選択し、触図の他、段ボール紙と石膏による半立体 (レリーフ)化も試みた。ここでのポイントは鑑賞 からの導入である。視覚障害美術科教育では感じる ことと同時に形を理解する認識の学習が大事である。 そのため最初に言葉と(触ることによる)イメージ の形成によって、当事者が納得のいく「確かな学習」 の構築を優先した。授業はピカソの自画像の立体コ ピー(平面)、レリーフ鑑賞から紙粘土による自画像 の制作を実践した。ここでも、鑑賞と制作を「分け ない」題材開発を実施した。  最後の題材は、③「キュビスムの人物:鑑賞とコ ラージュ制作」である。ピカソの「黄色の背景の女」 を使用し、立体コピーとパズル化した教材の2種類 の鑑賞教材開発をして実践に臨んだ。②でも同様で あったが、見えるわたしたちが見えない人のために 作っている平面の触図(立体コピー)の理解がこと のほか難しいこと、特に絵画鑑賞が知識としても実 践としても乏しい子どもたちにとっては捉えにくい ものであることがわかった。その点、パズル化は有 効である。また、コラージュ制作もあらかじめフォー マットを用意して、人物の顔の輪郭を捉えやすくし たので、認知と表現のバランスがうまく調整できた。  2つめの実践は、成人の視覚障害者と晴眼者を対 象としたデュシャンの「泉」(1917)の鑑賞である。 この実践は今回の新しい「コトづくり」美術科教育 の題材開発の中心をなす。「泉」の鑑賞は京都国立 近代美術館の「感覚をひらく」の研究授業で京都市 立盲学校の中学生が同館所蔵の本物の作品を使って 実験済みである。講師の広瀬浩二郎が「男性用小便 器に顔を突っ込んで声を出し、その響きを感じてみ るなどユニークな方法を交えながら、全身の感覚を 使って作品を体験してみようと生徒たちに呼びかけ た」ことで、「便器に顔を入れたこと、普段便器を 触ることがないので、不思議な感覚になった」とい う8。この「泉」を触る鑑賞に対して、今回の題材 開発は「泉」作品の「触れない=コトづくりとして のアート」のエッセンスを理解し、鑑賞する方法を 見えない人と見える人の協働でやってみようという 試みである。  実は、デュシャンの「泉」の鑑賞については視覚 障害美術科教育の目玉として早くから計画し、男性 用小便器も随分前に購入済みであったが、どのよう に授業を組み立てたらいいのかが明確にできずにい た。その理由は、「泉」の解釈・評価がまだまだ多 様である点もあり、鑑賞者が最終的にどんな活動を して、何を学べばいいのか、結論を導き出すのが難 しかったからである。題材化に至るヒントは、2019 度に実施した椹木野依(多摩美術大学)の講義に あった。椹木の『感性は感動しない 美術の見方、 批評の仕方』(世界思想社)から触発された茂木が 学生たちにその内容をわかりやすく伝えてほしいと お願いした講義だったが、椹木はその中で東京電力 福島第一原子力発電所事故によって帰還困難区域内 と指定された地域を会場に、2015年3月11日から 開催されている展覧会「Don’t Follow the Wind」の

(8)

話しをしてくれた。同展は、Chim→Pomが立案者 となった国際展で国内外12組のアーティストが参 加し、同区域内にある民家を会場に、作品を展示し 続けている。しかし、搬入した作家以外にはこの展 示は誰も見られない展覧会なのである。展覧会の HPには何もイメージは示されず、2015と2020(改 訂)の数字だけがあって、クリックすると説明の音 声が流れる。わたしは「誰もみることができない」 展示ということをヒントに(見えない人も見える人 も)ここに何を展示したいかを「問う」題材を考え た。「コトづくりとしてのアート」の意味は、社会 の中でのアートの役割を考えることになる。つまり、 「社会のアート/教育」の構築と題材化である。近年、 アートは参加型になり、エンターテインメント性の 強い「チームラボ」から、越後妻有アートトリエン ナーレ(2000~)を代表する地域アートプロジェク ト や 社会 問 題 を直 接 告 発( 解 決 ) し よ う と す る 「ソーシャリー・エンゲージド・アート」まで幅広 く社会やそこにいる人間との関係性を模索する。 デュシャンのアートが求めたものの最終的な結論は 未定だが、そのプロジェクト(投げかけ)としての 意味は既存の思考や既得権を破壊し、常に更新し続 ける思考/姿勢にあることは明らかであろう。

4 インクルーシブアート題材開発:「デュ

シャンの「泉」(1917)を鑑賞する」の

分析

4−1 基本的な考え方  マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp,1887─ 1968)はフランス生まれの美術家で、初期の画家と して活動から「レディ・メイド=泉」によって、 ニューヨークのダダイストとして活動をはじめ、20 世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われ る。  今回の題材開発では、既製品に少し手を加えただ けのものをデュシャンが「レディ・メイド」と名づ け、挑発的に反芸術として提示することを、①芸術 制作における技術の否定、②思考=コンセプトこそ アートだという主張として理解する。それによって 芸術(アート)とは見えないものを見えるようにす ることであり、①はポップアートのような消費社会 における大量生産品やポップカルチャーなどのヴィ ジュアル・カルチャー美術教育につながり、②はテ キストからイメージを作り上げることを可能にし見 えない人が見える人と対等に創造活動する可能性を 示唆する目的を持つ。  題材の大きな流れは、写真家マイブリッジの「階 段を降りる女性」を鑑賞後、2人の兄のキュビスト (画家)から遅れてキュビスムに参加した「遅れて きたキュビスト」(平芳幸浩)9としてのデュシャン の連続写真と運動表現をヒントにした新しいキュビ スム作品「階段を降りる裸体 No.2」(1912)を「レ ディ・メイド」の思想の具体化としての「泉」(1917) の鑑賞に結びつける実践である。  この鑑賞は、デュシャンが現代アートを急速にス クーリングし、ある種のアートの「型」として「レ ディ・メイド」の思想を作り上げるまでを辿るもの であり、段階的にいくつかの段階に分けて教材開発 をした。まず、第1段階として、⑴印象派(アカデ ミー芸術の権威主義を否定し、見えたままの印象 (光)を点や細かい線で表現する)、第2段階は⑵す でに開発済みの多視点のキュビスム作品(透視図法 的な遠近法を否定し、同一画面に多視点を盛り込む) 「黄色の背景の女」、第3段階は⑶連続写真と運動表 現を加えた新しいキュビスム作品階段を降りる裸体 No.2」(1912)の鑑賞、第4段階の「泉」(1917)の 鑑賞、そして最終的に「Don’t Follow the Wind」で 社会のアートを考えるという流れである。  デュシャンのアートを考えるポイントとして、現 代アートとは実験(experiment)の繰り返しだった こと、それも前のアート(思考)を否定・破壊し創 造し続けたことは重要である。そして、この探求に ある意味終止符を打ってしまったのが、デュシャン の「泉」(1917)である。彼は印象派→ポスト印象 派(セザンヌ、ゴーギャン)→象徴派→野獣派を短 期間で学習し、いわばそれらをアートの既製品の 「型」として受容し、この考えが後の「レディ・メ イド」の思想に結実していくのである。そして、映 像表現的なキュビスム作品として「階段を降りる裸

(9)

体 No.2」(1912)を制作し、彼はいわば「遅れてき たキュビスト」としての立場を利用し、アートの型 こわしとして男性用既製品便器を用いた「泉」を反 芸術(ダダイズム)として提示したのである。デュ シャンの「泉」は美術を思考=意味の創造に変えて しまい、破壊(否定)を創造の種としてしまった。 これ以降、アートは「アートとは何かを問い続ける こと」になってしまい、それは美術学習を面白いが 難しくしたとも言えるのである。 4−2 教材開発概要 事例:『デュシャンの「泉」(1917)を鑑賞し、社会 のアートを考えてみよう!』  デュシャンの「泉」を鑑賞するにあたり、まず、 印象派の考え方と表現を理解するための教材を作成 した。林檎の鉛筆デッサンを基に輪郭線を立体コ ピーにした。現実には存在しない輪郭線で表現する ことがそれまでのアカデミー芸術であることを理解 するためだ(図1、2)。  次に多視点のキュビスム作品、ピカソの「黄色い 背景の女」を理解する教材であるがすでに開発済み である(図3)。  次はデュシャンの運動表現を加えた新しいキュビ スム作品「階段を降りる裸体 No.2」(1912、図5) を鑑賞するための教材である。デュシャンは階段を 降りる動きを分析的に複数描くことで表現しようと した。この作品を制作する上でデュシャンはマイブ リッジの連続写真「階段を降りる女性」(1887)か ら影響を受けたとされている。そこで連続写真から 最も影響を受けたと思われる4ポーズを選び立体コ ピーを作成した(図4)。マイブリッジ「階段を降 りる女性」の連続写真は右から左へと階段を降りて いるがデュシャンの作品は左から右へと階段を降り ている。そこで立体コピーも左から右へ階段を降り 図1  左上林檎のスケッチ、 右上輪郭の立体コピー 原画 図2  林檎を印象(光)で 表現 図3 左「黄色い背景の女」と右立体コピー 図4 マイブリッジ「階段を降りる女性」と立体コピー

(10)

るようにした。  デュシャンの作品からは4ポーズに対応すると思 われるパズル状の厚紙人型を作り、首や足などが動 くようにした。このことによって階段を降りる裸体 が揺れ動くように描かれていること、静止せず一連 の動きとして捉えられ表現されていることなどを理 解する手助けになると思われる。  また、作品には足や腰の動きを表していると思わ れる弧状の線が何本も描かれている。このことを理 解する手助けとして漫画のスピード線や回転表現を 立体コピーにした(図6)。  このようにして印象派の考え方と表現からデュ シャンの「階段を降りる裸体№2」までの鑑賞の準 備をした。これらの鑑賞が「レディ・メイド」とし ての「泉」が作品として生まれることの意味を理解 する手がかりになると思われる。ワークショップの 流れは以下のとおりである。 題材名 デュシャンの「泉」(1917)を鑑賞し、社会のアートを考えてみよう! 対 象 ●成人男子(全盲)、○成人女子(全盲)、◆成人男子(成人女子の介助者)、◇成人男子(美術家)の4名 実施日 2020821(金)14:0016:30    ※休憩15:1515:30 目 標 ・デュシャンの「泉」の美術作品としての意義を理解し、社会とアートについて考えることができる。 ・印象派やキュビズム、「階段を降りる裸体 No.2」などを鑑賞し「泉」に至るまでの流れを理解する。 1 あいちトリエンナーレで展示された「平和の少女像」を中心とし て起こった出来事(『表現の不自由展、その後』を巡る問題)を解説 する。 ・政治とアートとの関係が社会問題になっていることや愛知県知事と 名古屋市長の意見の違いなどから社会でリアルに起こっている問題 をどう教えたらよいか投げかける(Youtubeの映像鑑賞)。 ・ジョン・レノンとオノ・ヨーコの反戦パフォーマンス「ベッドイ ン」(1969)を紹介する。 ・「アートとは何か」という問いかけをする。 〈発話〉 ●成人男子(全盲) ○成人女子(全盲) ◆成人男子(成人女子の介助者) ◇成人男子(美術家) 図5 左上デュシャン「階段を降りる裸体№2」 上右立体コピー・左下4つの動くパズル状の厚紙人型 図6 スピード線と回転表現の立体コピー

(11)

2 4人が2グループ(見える人、見えない人)に分かれ、交替で「泉」 (1917)を鑑賞する。       ◀触りながら便器であることを確 認する。サインが入っているこ との説明を受ける。この作品が 発表された当時のモラルについ て解説を受ける。なぜデュシャ ンは便器を作品として出品した のか? 3 デュシャンが「泉」を出品する以前にどのような美術史的な流れ があったかを辿る。       ①印象派(アカデミー芸術の権威 主義を否定し、見えたままの印 象(光)を点や細かい線で表現 する)       ◀林檎を輪郭線で表現した立体コ ピー(触図)を鑑賞し、次に林 檎を光の点(シール)で表現し た作品(触図)を鑑賞する。 2 ○答えがわからない。 ●実際に売っている?ものが実際に存在し てる?ってこと? ○ツルツルで冷たい。穴がたくさん!結構 重いでしょ。中に指入れて穴の数数え ちゃった ●私は瞬間的に、ここの部分が気になって …(上の位置を触りながら説明)なんか 間違えるのは恥ずかしいんで。 ○あ~便器~‼(嬉しそう) ○誰も作品として取り上げない物を敢えて 作品として作ってみた?言葉がうまく出 ないんですけど、興味があるっていうか、 そういうことがしたかったのかな? ●便器を「出す」ってことで考えると自分 をさらけ出すっていうそういう意味合 い?かなり強引かと思いますが、そうい う意味があったのかな? ◇今の流れからしますと表現の自由?展覧 会を通してそういうことを訴えたかっ た? ① ○これはなんだろう?栗?これは?なんだ ろう? ●○これはお皿! ●○影⁉難しい。お皿かと思っちゃった。 ○点で描いてる。すごいねえ。数えてみた(笑) ●見えてた頃って絵を描くって最初に線を 描いてた。 ○つぶつぶの集合体。       ◀②ピカソの多視点のキュビズム 作品(透視図法的な遠近法を否 定し、同一画面に多視点を盛り 込む)「黄色の背景の女」の立 体コピー(触図)を鑑賞する。 ② ○耳はここだ。だけど、こっちは髪の毛。 ●正面と側面をいっしょにしたって? ○正直言ってわかんない。作品がこうな の? ●実際にこの風景が見える?混ぜて描いて いるからこうなっている? ●作品とか絵、芸術は自由なんで、あるも のだけを表現しているとは限らないんで しょうけど、どうしてもあるものを基準 に考えてしまうんで、実際には一緒にす るってことできないことだと思うので、 イメージするのにかなり難しい。実はこ れ、斜めから人を見ているのかな?正面 から見ているのかな?実際には一緒にし てる。あるものをイメージしながら。そ の自分のイメージを当てはめようとして 考える。なかなか説明がもっとないと難 しいかなという感じはしました。

(12)

      ◀③マイブリッジ「階段を降りる 女性」の連続写真の立体コピー (触図)を鑑賞し、デュシャン 「階段を降りる裸体№2」の立 体コピー(触図)を比較しなが ら鑑賞する。       ◀「階段を降りる裸体№2」の立 体コピーに(触図)は動きを表 す線や点線があり、それを理解 するために漫画などに使われて いる動きを表す線の立体コピー (スピード線・足の回転の触図) を鑑賞する。 ○反対側が男の人だと思った。髪の毛がな かったから。 ③ ○そうね階段はラインだけでも。ここがね やっぱり、階段が太すぎちゃって、ここ の足の運びが消えちゃうんだよね。触っ てるとやっぱり太いとか高い方に指が いってしまうから、集中できなくなって しまう。足の細さが。 ●自分の中でどうしても単純化しようとす るから、当然単純なわけもないんで…。 なかなか自分の中でイメージするのは難 しい。 ○あ~、1人が見えてればできるのか。わ たしたち触ったところだけだもんね。説 明してもらおう。 ○そうね、縦に触るんじゃなくて、横で比 較しないといけなかったのかも。 ●実際の絵もぱっと見てわかるもんでな い? ○人が走ってる?いいんですかあ?あのね、 肩の動きでわかった。足もそうなんです けど、肩がこうなっている(ジェスチャ) から、それで確信しました。       ④デッサン人形を使って「階段を 降りる裸体№2」の人の動きを 理解する。       ◀デッサン人形に初めて触れる人 もおり、人形の正面がどちらで あるか、関節がどのように曲が るかなどを説明する。 ▶⑤デッサン人形で階段を降りるポーズを  表現する。 ・最初のポーズ、最後のポーズなどと助言す  る。       ◀⑥デッサン人形での動きを参考 にしてパズル状の厚紙人型を鑑 賞し、デュシャンが階段を降り る人の動きを4つのポーズに よってどのように表現したかを 理解する。 ④⑤ ●3番目っていうのは左足を出している。 ○何気ない動きを再現するって難しいです ね。今日階段を降りる時に自分の動きを 確かめてみよう。 ●昔は弱視でいたけど、元々は視覚障害で よく昔から特に先天の全盲の子には例え ば投球動作だとか動きをマスターさせる のは難しいって子どもの頃から聞いて小 学校の頃から育ったんで。それぞれ状況 ひとつとったって、カクカクした動きに なりやすいってよく聞いてたんで、 ○体の動きを覚えるのがすごく大変なんだ よね。私たちって。 ●模倣ができないから。 ⑥ ○わかる~わかります!  これ(触図)だと線が繋がっちゃってる から。たぶん視覚障害の人って、空間認 知とか先天の人って特に難しいのかなっ て私は思っていて。逆に触ることに慣れ ているので、先に触らせてイメージをつ けてあげて、それが絵になるとこうなる んだよっていう方がわかりやすい。

(13)

5 題材開発プロセスの分析と考察 : デュ

シャンの泉を鑑賞して社会とアートを

考えてみよう WS 開発実践者による振

り返り(座談会)

多胡:(全盲の)2人とも中途失明なので見た経験 もある。触ることを見ることに近づける難しさを 知っている人たち。2人ともとてもスッキリ鑑賞学 習ができたという感想。たぶん、今までは触ること と言葉での鑑賞はしていたが、今回はそれだけでは ない世界、鑑賞があった。それは「見える人の世界 の絵画を一緒に鑑賞する」ということではなく、見 える見えない関係なくデュシャンの作品を鑑賞でき た爽快感があった。 茂木:美術って、彫刻は触れるし、そういうものを 美術の鑑賞だと思っていたけれども美術ってそう じゃなくて見えないものを見ることだという説明を 最初にしたので、「そうなんだ!」となったのでは? 多胡:美術は見えないものを見えるようにする。も ともと大切なものは見えないということを言われた のは初めてに近いのではないか? 茂木:美術の授業でそこまで深く考えさせる授業は 中学校ぐらいまではできない。ここでは見える見え ないは関係ない。見えなくてもいいんだって気が楽 になったのでは? 竹丸:今までは見えるってことに自分を近づけよう としているということ? 多胡:Nさんは「見えることで感じることは、触る ことで感じ切れない、別もの」と考えていると思う。 それが見える人も見えない人も同じ土俵にいるとい ⑦学習の振り返りをする。 ・デュシャンは急激に変わる当時の美術運動(イズム)の流れをパッ ケージ(型)化した。つまり、印象派→ポスト印象派(セザンヌ、ゴー ギャン)→象徴派→野獣派→キュビズム(立体派)を急速にスクー リングすることでアートを型として理解する方法を考え、自分が 「遅れてきたキュビスト」(平芳幸浩)であることを挽回しようとし た。 ・このアートのパッケージ化=型づくりが既製(工業)品の便器を用 いて「泉」(1971)というレディメイドという作品の創造につながっ た。つまり、「泉」(便器)はアート(美術)の型壊しである。 ・広義のアートがモノからコトへの変わっていく歴史を振り返り、 デュシャンは、美術を思考=意味の創造に変えてしまい、破壊(否 定)を創造の種としてしまった! ・これ以降、アートは「アートとは何かを問うこと」になった。 ・デュシャンは美術教育をむずかしくした! ・あいちトリエンナーレで浮き彫りになったアートが社会問題にダイ レクトに関わること。 ・見える/見えない/見えにくい人が共に鑑賞できる題材・教材は開 発は今までの美術教育を大きく変える可能性を持っている。 ⑧次回のワークショップについて

・「Don’t Follow the Wind」という福島県帰宅困難地域で行われてい るアートプロジェクトを学び、制作する学習することを伝える。 ⑦ ○私たち視覚障害者でも、答えがないじゃ ないですかこれって。なので、自由なイ メージで自由な発想で作品を鑑賞できる んだなって改めて認識できました。 ●僕も数は少ないですけど、作品展とか、 触れる作品展とか行って触りますけど、 そのくらいしか手掛かりがないので、今 日伺ったようなことを考えたり感じた りっていうところまでできなくて。実際、 美術館ってそういうストーリーはどこか に描いてあるんですか? ●健常者の人はそういう鑑賞の仕方は可能 なんですか?たまにこういう鑑賞の仕方 ができるとすごく新鮮です。 ○視覚障害者と美術ってなかなか結びつか ない。造形とか粘土とか形を作るものに 対して親しみはあるけれども、絵画は、 触るとか、見たものを聞いて自分の中で イメージしていくっていうのはむずかし いことなんだろうなっていうことと。 ◆見方によってはいろいろな人の考え方の 方がいる。批判的にもなる。見方です。 見方によって作品は全然違ってくる。 ○当事者になって参加しないとわからない。 私たち視覚障害者でも、答えがないじゃ ないですかこれって。なので、自由なイ メージで自由な発想で作品を鑑賞できる んだなって改めて認識できました。

(14)

うか近づくというか、場合によっては見えない人が イニシアチブを取れる土俵に立った感があったので は? 茂木:もしそうだったら、それが伝わったらこの授 業は大成功。(逆に)それが伝わらなかったら美術 を学習したことにならない。中学生にもきちんと伝 える必要がある。盲学校の子だけにいうのではなく、 全員に。中学校の学習指導要領や教科書にのっとっ てやる美術科教育は大人が用意した美味しそうなメ ニューのような感じがする。本当に美味しいって何 を考える所までは至らない。結局分からずじまいで 最後まで終わっちゃうので(後々まで)残らないの では? 竹丸:イメージしにくいってすごく言っていた。イ メージするのが難しいって。マイブリッジのところ でNさんが特に言っていた。わかろう、わかろう としていた。イメージできないから分からないなあ。 見える人ってどうなんですかって、いう発言が多 かった。 多胡:Nさんはかっちり考えたいタイプ。誤解が あって側面というのは斜めから見ることだって思っ ていた節がある。ピカソの黄色い背景の女の説明の 時に側面が真横だということを分からずに話を聞い ていた。それでイメージしにくいということが出て きたかも。視覚経験がりんごのシールを触った時に、 そのシールの集合は見えるのとは違うと感じさせて いたようだ。見えるものではなくて、視覚障害者用 に凸凹をつけたと思っていた。2人とも見えていた 経験にこだわっていたのかもしれない。2人とも小 学部高学年~中学部ぐらいまでは若干見えていたの で。 茂木:難しいところもあるね。でも見えていた経験 があるからある程度いろんなことを理解できるとい う面もある。 多胡:そうね。 竹丸:実際の絵も「パッとみてわかるものじゃない んだ。この絵」という発言。ちょっと安心した? 茂木:「階段を降りる裸婦2」なんかは、そこがポ イントだった。「みんなもわかんないんだね」って。 竹丸:それが安心材料。マイブリッジあたりまでは 見えることを気にしていたけど、みんなわからな いってことが分かってからはそういう発言もなく なった。 茂木:見えていることがすべてではないと考えるこ とは美術にとってはすごく大事なこと。1人の視覚 を通して見たものが他者と同じに見えるかというと そうではないと考えた方が正しいのではないか。そ ういう鑑賞の方がいい。(美術は)技術を第一にす れば、それが表現されていないものはあまり良くな いと思ったりとか、自分にはできないと思い込んだ りとか、そういう風に考えてしまう。みんなが「え、 そんな風に考えていいんだ」「そんな発想ができう るなんてすごいね」っていう方が美術教育らしい。 そういう風に美術教育を変えていく必要がある。 竹丸:理解する順番が違うというのは思いました。 茂木:そうそう、実際は立体化するのがいい。3D 化して触ったものを平面にして理解した方がいい。 台湾の人たちがやっていた写真→立体化→写真みた いな。二次元(触図)だけでは分かりにくいかも。 三次元をなるべく簡便化して教材化する工夫を考え る。 多胡:じっくりやると、これは2時間でおさまる内 容ではないんだと思いました。 竹丸:(今回)けっこうモリモリいくんだ~て思っ た。 茂木:動きや運動みたいなものを理解するっていう のは、あんまり美術ではやってない。体育なんかで はあるけど。そういうところに注目したのはとても 良かったと思う。絵画の中で動きに注目した。階段 を降りる動作(イメージ)は難しい。実際に階段を 降りてもらうということを加えれば良かったかな。 多胡:動作化ですね。 茂木:僕らは触図にしか頭がなかったので、そこが 抜けてたな。 竹丸:そういう意味でいくと、演劇とかにつなが る? 茂木:別の表現に置き換えていくのもあり。デュ シャンじゃなかったら、女性たちが階段を降りる時 に何を考えていたかとか。階段の下にお父さんが? 恋人がいたらどうなるのとかっていう劇ができない

(15)

か?裸では(実際には)無理だけど(笑) 竹丸:2人が声を揃えて「あ~わかる~!」って言っ たのが半立体パズル型。 茂木:胴体と足が動くようになっていたから、人間 と捉えやすかった? 多胡:立体コピーって簡単なので良く使うんですけ ど、(盲学校では気づかなかったけど)こんなにわ かりずらいんだってことを改めて感じました。 茂木:そこは見える人のエゴかも。作ったんだから わかるだろうみたいな。 多胡:社会科や理科もほぼ触図。立体コピーではな いけど触図。 茂木:(先生のために)わかったフリをしちゃうん じゃないかな。 竹丸:「そうなんだ~」って思っておしまいみたい な発言はあった。 多胡:触図だけはダメだってことですね。立体にす るか、触図にしても立体と行き来したりするか、触 図にしても動作化したり演劇化したりして触図と 行ったりきたりすると理解はしやすい。 茂木:立体の鑑賞は自由が効くじゃない?広瀬さん が便器に顔を突っ込んで叫んでたけど、そういう面 白さがあるけど二次元ではできない。どうしても答 え合わせになる。 多胡:今頃自分がわかってもしょうがないんですけ ど、触図はほんとにお勉強だったんですね。 茂木:先生のお勉強だったのではという気がします ね。それは盲教育の専門性や型だったりするので全 面的に否定はできない。 竹丸:大内進先生が「ただ触ればわかるもんじゃな い、触り方を学ばなければいけない」と言っていた が、今回のWSも進めればわかるようになる? 茂木:デュシャンに特化してやっていけば、デュ シャンのことを理解できるとは思う。それから発展 したものもある程度わかってくるのではないか?現 代アートをテーマにしているので、それぞれの運動 のエッセンスを抽出していけば可能だろう。 多胡:大内先生の言っていることは正しいが、それ だけにこだわり過ぎると図工・美術って固くなって しまう。そういう視点をどうやって中に隠し込んで 感じるとか考えるとか作るっていうことにもってい くのか。 茂木:分からなければできないという考え方になっ ちゃうと、美術としてはおもしろくない。分からな いものも探求していって偶然できたものもよかった ねって考える方が楽しい。ただ現代アートはコンセ プトを重視し過ぎているので、形になるかならない ではなく、考え方自体がいいか悪いかが美術だって 示されてしまっている。でもそこから発展する美 術って何か?それが次にやる福島の“Don’t Follow the Wind”の話になっていく。またそのコンセプト の話を形に置き換えることによって訴求力を持つと いう、循環したものになっていくので、両方やっぱ りわかる必要がある。考えること、感じること、作 ること。それらを言葉にして伝えようとすること。 アート独自の手法が一般の人に美術がわかりにくく しているというのはある。 竹丸:例えば、冷たいものを触ると寒色系、暖かい ものを触ると暖色系って思うものですか? 多胡:思うと思いますよ。いろんな経験を積んでい る子どもほど。いろんな冷たいものを触ったり、食 べたりしているとそこに寒色系の言葉が出てきます。 経験とか味とかが結びついていて、イメージする。 竹丸:例えば暖色の部分を触ると暖かい、感触のと ころを触ると冷たいという絵があったら、温度差を 触ってわかったらそれは色に結びつく? 多胡:結びつく人もいる。暖かいと暖色、冷たいと 感触を思い浮かべる人は多い。 竹丸:技術的なことはわからないけど、じゃあ、真っ 白い絵で触ると温度差がある絵もできますね。 多胡:そういう絵は見えない人が主導権を握れる絵 ですよね。 竹丸:そうですね。だれかやらないかなあ。 茂木:考え方としてはそういう風に考えて教材を 作っていくのがいいと思う。 竹丸:見える子も見えない子も温度で絵を描くとい うのは同じ土俵に乗れますね 茂木:今度の絵本WSでやってみれば? 竹丸:技術的に全くわからない。 茂木:色のことなどはもう少し下調べをした方がい

(16)

いかもね。光島貴之(全盲の画家)さんの話だとそ ういう感覚はないって。全部モノトーンの世界。色 は頭の中で概念的に作ったものでしかない。個人差 があるのか? 竹丸:人を描きたかった時に人肌のものを置いて、 人がいるってわかるとかね。 多胡:温度だけの絵ってなかったなあ。 茂木:今回のデュシャンの「泉」(1917)の鑑賞で 考えた、アートは見えないものを見えるようにする 活動で、考えること(コンセプト)が大事だという ことを理解する。そして、鑑賞/表現などを分けな いで学ぶ美術科教育を広めていきたい。感じ、考え、 つくる、伝える美術教育を!

6 まとめにかえて

 くり返すが、インクルーシブアート教育としての 視覚障害美術科教育の研究は、障害者を一方的に支 援するためにあるのではない。題材・教材開発にお いて、見えない・見えにくいことに配慮することは 物事を経済効率やスピードで判断するのではなく、 アートが求める行き先に到達する多様な道(方法論) を探求することであり、その教育研究自体がアート となることである。デュシャンが提示した「考える こと(コンセプト)」が芸術であり、アート(美術) にとってより重要なのはつくるための「技術」では なく、そこにみんなが参加できる「出来事(コト)」 をつくることという提案は、どんな人でもアートに 参加でき、自分なりのやり方で他の参加者とコミュ ニケーションをとり、関係性をつくり、更新し続け ることで自分を確認し、世界に希望を見いだしてい く「生の身体技法(アート)」である。学校で作品 を一生懸命つくらされ、その造形的な良否を判断さ れる美術科教育から疎外されてきた多くの子どもた ちがアート(美術)から疎遠になっていくことは避 けなければならない。次代の教育にはcreativeな人 間形成が求められ、それは上記のように、批判的で 創造的な絶え間ない学習によって、真の自由を理解 し自己を世界にひらいていける人である。  最後に、今回は取り上げなかったが、多感覚教材 開発という視点も重要である。視覚障害とは「空間 に関する情報障害」といわれている。視覚情報によ る活動が8割以上といわれるが、視覚の遮断によっ て聴覚、皮膚感覚(触覚)、嗅覚、味覚など、感覚 は必然的に補い合い、統合的に働く。視覚だけを特 権的に扱うのではなく、今までアートにはあまり活 用されてこなかった味覚や嗅覚には大きな可能性を 感じる。  2020年コロナ渦の中で開催された「地球はレモ ンのように青い」(廣瀬智央、アーツ前橋)は約3 万個のレモンを用いて嗅覚を刺激し全身で感じる作 品で、日常生活に潜む小さな事象の豊かさに私たち の目を向けさせることを意図し、頭でっかちで難し いと思われてきた現代アートをとても親しみやすい 知的な刺激として提示した。コロナ渦の中で美術を 含め実技系の学習をオンライン授業で実施しながら 強く感じたのは、本当のことを伝えるためには相手 や自分のにおいや味がわかる距離感が必要だという ことである。ZOOMでの授業の中に意図せずに垣 間見えるカーテンの揺らぎや飼い犬の泣き声などが 視覚以上のリアリティを感じさせる。そういう意味 で、アート(の持つ世界観)は今個人の感じる+考 える学びの場づくりがバーチャル空間さえリアルに し、心に響く学習環境を準備できるのではないか。 註 1)茂木一司、インクルーシブアート教育システム構築のた めの覚え書き、群馬大学教育実践研究33 号、pp.35─44、 2016. 同 第 2 報 34 号、pp.53─61、2017. 同 第 3 報 35 号、 2018、pp.71─78.茂木一司、インクルーシブ美術教育、『美 術教育ハンドブック』三元社、2018、pp.201─210. 2)中教審答申「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教 育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」 2012 などを参照. 3)茂木一司、共生社会をめざす教育の中で美術教育はどう したらいいのか?―インクルーシブアート教育という提案 ―、教育美術 No.911、2018、pp.14─157. 4)茂木一司代表編集『協同と表現のワークショップ』東信堂、 2014、p.3.

(17)

5)同上、p.5. 6)伊藤亜沙『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 光文社、2015、p.164. 7)茂木一司・多胡宏・大内進、インクルーシブ教育時代の 視覚障害アート教育をどうしたらいいのか―見える/見え ない/見えにくいを越境する教材開発をめざして―、群馬 大学教育学部紀要 芸術・技術・体育・生活科学編、2020、 pp.11─24. 8)平成 31 年度文化庁地域と共働した美術館・歴史博物館創 造活動支援事業感覚をひらく―新たな美術鑑賞プログラム 推進事業・平成31/令和元年度報告書、2020、pp.48─52. 9)平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』河出書房新社、 2018. ※執筆分担は、1~3 と 6 は茂木、4 の前半は茂木、多胡、後 半の指導案は茂木、多胡、竹丸、5 は茂木、多胡、竹丸で ある。 謝辞  題材開発、教材開発に快く協力していただいた新楽和則氏、 阿部央美氏、阿部忠司氏、村上雅紀氏の4 名の皆さんに感謝 致します。   本 研 究 は、 令 和 元 年 度 日 本 学 術 振 興 会 基 盤 研 究(B) 18H017007「インクルーシブアート教育論及び視覚障害のた めの目教材・カリキュラムの開発」(代表 茂木一司)の支 援を受けています。

(18)

参照

関連したドキュメント

韓米 FTA が競争関係にある第三国に少なからぬ影響を与えることにな るのは本章でみたとおりだが,FTA

題名は古いメルズィーネ伝説のやきなおしのように見えるが・ゲーテは舞台

 IFI は,配電会社に配電システムの技術的な発展に関連する R&D 活動に対 し十分な資金調達を可能にする。また,RPDs は発電された電力の DG 連系を

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という

2)海を取り巻く国際社会の動向

話者の発表態度 がプレゼンテー ションの内容を 説得的にしてお り、聴衆の反応 を見ながら自信 をもって伝えて

 筆記試験は与えられた課題に対して、時間 内に回答 しなければなりません。時間内に答 え を出すことは働 くことと 同様です。 だから分からな い問題は後回しでもいいので

1ヵ国(A国)で生産・製造が完結している ように見えるが、材料の材料・・・と遡って