『一般理論』第17章のクリティーク -C.Lavialleの批判的解釈
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(2) 片岡 浩二. 2. 章の曖昧さと射程範囲に新しい光を当てている。ラヴィアルにならって、われわれは、『一般理論』におい て見出される二つの戦略、すなわち、一方でのプラグマティックな戦略と他方でのラディカルな戦略との. 間の緊張の結果として生じるものとしてケインズがそこでとる立場を考慮に入れながら、第17章の意義を 明らかにしたい。. Ⅱ.問題の所在 ラヴィアルは、0.ファブローによって提起された『一般理論』におけるプロプレマテイーク3)を継承 しながら、第17章が『一般理論』の中で有する位置価を明らかにしようとしている。ファブローが指摘し ているように、『一般理論』は結局のとこう、≪プラグマティックな≫要素しか明示されていなかったとし ても、ケインズの≪ラディカルな≫プロジェクトが生産の貨幣的経済理論の基礎を確立することを目指し ていたという点は、ケインズの著作の解釈において非常に大きな重要性を占めている4)。ケインズのプロ ジェクトのこうした性質を認めるならば、そゐ場合、次のことを考察しなければならないだろう。『一般理 論』では、暗黙裡にラディカルなプロジェクトが本質的要素を構成しているとすれば、それは一般理論の 第17章でそれが論証されていなければならない。なぜなら、そこで彼は、何故、投資の水準、したがって また、雇用の水準を決定するのが、まさしく貨幣利子率−これは社会的ノルム5)としてそのように振る 舞うーであるのかを説明しようとするからである。 したがって、ケインズの構築物が貨幣的側面を重視している(分析の出発点にあるのは必ず貨幣である こと、経済的大きさを形成するプロセスについての理解は必ず経済活動への貨幣的アプローチから生じる ことを論証することによってであること)という見地からすれば、第17章はその意味において最も曖昧な. 章である。というのも、ケインズはそこで、実際には、活動水準の限界を画するという貨幣に割り当てら れる役割はどのような資産でも果たしうるという事実を強調しているからである。 われわれは、次いで次のことを想起しなければならない。「第17草で措かれたプロセスが、投資総額の限 界設定において、したがってまた雇用の水準の限界設定において貨幣標準の排他的な役割を前面に押し立 てるプロセスであることを論証したこ. とを帰すべきはカルドアである」(Lavia11e,1997,p.939)、というこ. とである。次のことを強調することによってこの論証は完成される。すなわち、ケインズが≪資産として の貨幣≫に与えるすべての特徴は、論理的には、その資産という性質を参照する必要もなく、それが貨幣 であるというただその事実のみに帰されうる。したがって、貨幣と財あるいは資産(富)との同一視は、 第17章の分析上必要ないかなる役割も果たさない。 カルドアの批判的再構成は、『一般理論』の貨幣的プロプレマテイークが実際、経済的大きさの測定単位 の選択にあることを強調することを可能にする。ケインズは、スミス以来の伝統的な、経済的大きさの実 物的測定の代わりに、貨幣的測定をおいた。貨幣的計算単位は、ケインズにおいては、与件であり、価値 の概念に基づいて構成されない。実際、『一般理論』と正統派との本質的断絶を構成しているものと考えら れるのは、まさしくこの点である。そこから、ケインズにおける二つの水準のプロジェクトの新しい規定 を演繹することができる。「ラディカルなプロジェクトは、≪計算単位の公準≫に基づいて標準的な言説に 代替する言説を創設しようとする≪貨幣的異端派≫のプロジェクトと同一視される。プラグマティックな プロジェクトは、(それは経済学者の実践において普及した≪言語≫であるがゆえに)≪ノマンクラチュー ルnomenclature≫による推論を受け入れる点にあり、また特に、貨幣についての問題に取り組むにあたって 伝統的な手続きに類似した手続きに従った経済学者の言説で考慮することにある。第17章は、その場合、 他の仕方で、計算単位の公準とノマンクラチュールの前提(この場合にはモノとしての資産)を両立させ. るための、したがってまた、計算単位を資産としての貨幣として機能させ、しかもその上、個人の選択の 対象とするためのケインズの最終的な試みとして、解釈されうる。」(ibid.) べネッテイ、次いでドゥルプラスによって行われた批判的読解は、こうした観点からすると、中心的な.
(3) 『一般理論』第17章のクリティーク. 概念として価値ではなく、計算単位としての貨幣の公準を認める限り、計算単位へのこうした準拠の外部 では(それに先立って)、首尾一貫して何も言えないことを論証することによって、この試みに立ち向かっ ている。 そこで、本稿で中心をなす問題は、次のようになる。ケインズにおいて、ラディカルなプロジェクトと. プラグマティックなプロジェクトは第17章において両立しうるのか、ということである。この間題に対す る答え一本稿の結論−を導き出すために、ラヴィアルにならって、カルドア、べネッテイ、ドゥルプ ラスの研究をみていくことにする。その前に、まずは『一般理論』第17章を簡単に振り返っておくことに しよう。. Ⅲ.『一般理論』の第17章一社会的ノルムとしての貨幣利子率の確立− 『一般理論』の第17章は、貨幣と投資の問についての仮定された関係の分析的基礎を確立することを中 心的目的とする。投資と所得から独立して決定される変数、貨幣利子率(これは第14章でケインズによっ て導かれた本質的な論証の方向である)が、投資のマクロ的水準、したがって、活動および雇用水準に限 界をおくプロセスを描くことが重要である(有効需要の原理)。 このことを行うために、ケインズは貨幣の保有と実物資産の保有の間の裁定として投資理論を構築した。 貨幣利子率がノルムとしてふるまうプロセスは、したがって諸個人の意思決定に立脚しており、もっぱら 資産選択や資産保有のロジックに応答し、経済的計算に基っいて、実物資産への投資よりも貨幣の保有を 選好するに至り、そのようにして投資の(したがってまた、有効需要の原理によって、雇用の)総体に内 生的な限界を据える。 ラヴィアルは、ケインズによって主張された論証の意味が、それが結局、少なくとも次のような6つの ポイントに立脚しなければならないことを強調している(Lavialle,Op.Cit.,p.940−943)。 ポイント(1)。貨幣だけでなく、それぞれの耐久的な資産は、利子率(収益率)をもっており、それを、 それ自身によって計算することができる(したがって、唯一の計算単位への準拠から独立して)。それ自身 で計算されたこれらの諸資産の利子率(あるいは収益率)を、ケインズは≪自己利子率≫(ownrateofown interest)と名付け、次のように明確に説明する。それらは、考慮されている資産の保有の期待総純収益を 表し、(粗)収益「からその持越費用を差し引き、その流動性打歩を加えたもの」に等しく、これら三つの タームのそれぞれは、「それ自身を標準として測られたものである」(Keynes,甲.ぐれp.226:224頁)。 したがって、貨幣は、この段階では、単に他と同じ蛮産の一つにすぎず、その自己利子率によって特徴. づけられる。 「したがって、これまでのところでは、貨幣利子率は他のいろいろな利子率に比べてなんら独自性をも たず、正確に同じ立場に立っている。」(i占は,p.225:223頁) ポイント. (2)。直物や先物での契約が貨幣で作成される貨幣経済では、それぞれの資産は、貨幣的自己. 利子率を演繹することができる。予想純収益が今度は計算単位として採られた貨幣によって確立される計 算として、これらの貨幣的自己利子率は、考慮されている資産の値上がり(あるいは値下がり)の予想パ ーセンテージをそれらに適用することによって容易に自己利子率から演繹される。貨幣にとって、貨幣的 自己利子率は、定義により自己利子率と同一視されるのであり、それは貨幣利子率を形成する。 ポイント. (3)。投資の拡大は、貨幣的自己利子率がすべて等しく、また自己利子率に等しい場合に達成. される。与えられた資産への投資が存在するためには、二つの決定、すなわち、潜在的な投資家の決定(だ れかがこの資産を需要し、それを保有したいと望む必要がある)、および、資産の生産者の決定(だれかが. 前者に、それに対応する資本財を供給する必要がある)を要する。投資家は、その総(予想)収益がオル ターナティブな他のすべての投資のそれよりも上回るならば、また、唯一その場合にのみ、任意の資産を. 保有することを選択する。というのも、富の保有者が望むものは、資本財そのものではなく、彼の欲求の.
(4) 片岡 浩二. 4. 実質的な対象は、この資本の割引された収益である。その結果、「均衡においては、貨幣によって測られた 住宅と小麦の需要価格は、住宅と小麦のどちらを選んでも利益の面で無差別にならなければならない」 (肋弟p.22ト8=225−6頁)。. 資産の生産者は、需要価格(現物で課せられる価格である)が供給価格(生産費を反映し、また長期の. 予想価格である)6)を上回る限り、すなわち、実際、その生産者が超過利潤を実現する限り、与えられた 資産の生産を増加させる。資産の生産者の均衡はしたがって、需要価格が供給価格に等しくなるとき達成. される。考慮されている資産の生産はそのときストップする。 「さて正常供給価格が需要価格よりも低い資産は新しく生産されることになる。そして、それらは限界 効率が利子率よりも大きい(それらの正常供給価格を基礎として)資産である(両者は任意の価値標準に よって測られる)。最初に少なくとも利子率に等しい限界効率をもっていた資産のストックも、それらが増. 加するにつれて、限界効率は(すでに述べた十分に明らかな理由によって)低下する傾向をもつ。かくし. て、利子率が同一歩調で低下しないかぎり、もはやそれらの資産を生産する利益がなくなる点に到達する であろう。限界効率が利子率に達する資産が存在しない場合には、それ以上の資本資産の生産は停止する。」 (肋d.,p.228:226頁) ポイント. (4)。 それぞれの自己利子率は、それが特徴づける資産の生産が増加するにつれて低下する。 均衡の発生へと導きうる調整プロセスについて理解できる条件はそこにある。 ポイント. (5)。. 投資に対して内生的な限界をおくのは、その生産が増加するにつれて自己利子率が最も. 緩慢にしか低下しない資産である。. 「というのは、全体を支配する役割を演ずるのはさまざまな自己利子率(このように名づけることがで きよう)の中で最大のものである(なぜなら、資本資産が新しく生産されるためには、その限界効率はこ れらの利子率の中で最大のものを達成しなければならないからである)」。「産出量に限界を画するものは 貨幣利子率であるといいうわれわれの以前の叙述は、厳密には正しくないことがいまや明らかとなった。. 他のあらゆる資産の有利な生産を結局において不可能にしてしまうものは、資産一般のストックが増加す るにつれて、最も緩慢に低下する資産の利子率である−いま述べたように、現在の生産費と将来の生産 費の間に特殊な関係の存する偶然的な場合は別として−、というべきであった。」(路fdリp.223‥221−222 頁、勧d,p.229:227頁) ポイント. (6)。. この資産は、その利子率が無制限に低下し得ないものという理由により、貨幣である。. 投資の水準に内生的な限界をおくものは、ある資産の存在であり、その資産は、その生産が増加するに. つれて他の資産ほど急速に自己利子率を低下しないという特性をもつので、投資水準の決定と限界設定に おいて中心的役割を貨幣に与えるものは、それが貨幣であるという事実(特に、それは、契約が規定され る計算単位であること)ではなく、それが資産である限りにおいてある特性が付着しているという事実で ある。この場合には、資産を特徴づけるものは、自己利子率であるから、他のすべての資産から区別する ことを可能にする貨幣の特性は、その自己利子率の特殊な振る舞いである。また他方、「もし貨幣とは価値 標準を意味するものであるとすれば、面倒を引き起こすものは必ずしも貨幣利子率ではないことが明らか である。金やポンドの代わりに、小麦や住宅を価値の標準とするという法令を出しただけでは(ある人々 が考えているように)、われわれの困難から逃れることはできないであろう。なぜなら、産出量が増加する. につれて自己利子率の低下しにくいなんらかの資産が依然として存在するならば、同じ困難が生ずること はいまや明らかだからである。たとえば、不換紙幣本位に移ってしまった国においても、おそらくは金が 依然としてこの役割を果たすであろう。」(肋弟p.229:227頁)7) ケインズによれば、貨幣によって果たされる中心的役割は、他の資産の自己利子率を下げることに貢献 するある種の力が貨幣の場合には作用しないことから生じる。. 「したがって、われわれが貨幣利子率に特別の重要性を与えた場合、われわれの慣れ親しんでいる種類 の貨幣がある特殊な性質をもっていて、そのためにそれ自身を基準として測られたその自己利子率が、資.
(5) 『一般理論』第17章のクリティーク. 産一般のストックが増加する中で、他のすべての資産のそれ白身によって測られた自己利子率に比べて、 いっそう低下しにくいということを暗黙のうちに想定していたのである。」(仏道.,p.229:22ト28頁) この「特殊な性質」とは、「ゼロあるいはともかくきわめて小さい生産の弾力性」(肋d,p.230:228頁)、 「代替の弾力性がゼロであるか、あるいはほぼゼロに等しい」(勧d.,p.231:229頁)、「流動性選好を満足さ せる貨幣の性質」(蹴d,p.233:231頁)、「貨幣の持越費用が低い(あるいは無視しうるほどである)という ことが不可欠な役割を演ずる」(勧よ)性質、である。 以上から、ラヴィアルは、ケインズの異端的読者が予想することとは逆のことを導き出す。 ケインズの理論が必ず貨幣的な理論でなければならないということを確証できるものは何もない。実際、 投資水準の進展に対して障害を確立するのは必ずしも貨幣の存在(われわれが描こうとしている経済が貨 幣経済であるという事実)ではなく、生産の水準が増大する際に自己利子率がそめ低下に逆らう資産の存 在−それが何であれーである。より正確には、ただ一つの逆の主張がケインズの推論からアプリオリに演 緯されうる。投資水準の決定において、したがってまた、活動と雇用の水準の決定において、貨幣に割り 当てられた役割を果たすことができるのはどの資産でもよい(例えば、土地)、ということである。 ここで提起した6つのポイントに対して、カルドア(1961)、ベネッテイ(1985)およびドゥルプラス(1988) によって第17章のケインズにあてられた三つの批判は様々な異議を唱える。ラヴイアルの言うように、こ れら三つのレクチャーの接合こそが新しい見地のもとで第17章の解明を可能にするのである。. Ⅳ.カルドアの批判的解釈一計算単位としての貨幣の役割− カルドアは、前述において中心的なものとして提示したばかりであるケインズの結論に異議を唱えるこ とによって、彼の批判は、この章のラディカルな主題を創設した。それは、まさにこの理由により、第17 章の大多数の注釈者によって本質的なものとみなされている。 カルドアは本質的に第5のポイントを論駁し、ケインズ白身とは逆に、彼が提起した調整プロセスでは、. 投資に対して内生的な限界をおく資産は、価格が表現され、契約が作成されるものである、としている (Kaldor,1961,p.70)。 カルドアによる本質的な批判はここに存する。もし貨幣が投資の(したがってまた雇用の)水準の決定 のプロセスに介入するならば、これはそれが特殊な資産であるという理由からではなく、それが「価値の 標準」であるという理由からである。 カルドアによれば、マクロ経済的均衡は投資の不十分さのために過小雇用の均衡である可能性をもつと いうケインズによって要求された論証にとって本質的な仮定は、貨幣以外の資産の自己利子率が、資産の 生産が増加するにつれて、低下すると仮定することである。この仮定は、ケインズの論証の妥当性に必要 な仮定であるが、十分な仮定ではない。 実際、最終的に、投資増大のプロセスが中断するのは、任意の資産の自己利子率と貨幣の自己利子率が. 貨幣利子率と等しいからであり、貨幣利子率は、その場合には、その論証の全体を通じて、唯一の固定点 となる。また、それが唯一の固定点であ寧のは、その貨幣の自己利子率が相対価格の変更のせいで変化す ることがない唯一の「資産」であることのためである。貨幣が投資水準の制限において中心的な役割をン果 たすのは、その自己利子率の特殊な振る舞いのためではなく、すべての富の価格が計算単位によって表現 されるからである。その場合、その自己利子率がその生産が増加するにつれて貨幣のそれよりも伸縮的で ない富の存在は、他の富への投資の拡大を制限しない。そのような事実(この富の自己利子率が硬直的で あると仮定する限りにおいて)の唯一の結果は、短期では、この特定の富への投資の拡大に対する内生的 な制限は作用しないということである。なぜなら、同じ超過利潤が需要における超短期の変化の影響のも とで再構成されるからである。反対に、他の富の総体の生産において投資の続行に対する唯一一の障害は、 貨幣利子率の水準であり続ける。.
(6) 片岡 浩二. 6. カルドアは、ケインズによって主張された結論を導き出さない。彼によれば、「ケインズの見解とは反対 に、雇用の水準に限界を設定することを可能ならしめるような流動性選好は、計算単位として役立っ商品 に内在的に伴われ、かつ貨幣以外の資産には宿り得ないと思われる」(蹴d,p.73−4)。 カルドアによって「修正された」第17章の構築物は、いまや次のようになる。 まず、(「自己利子率」の概念についての主張を通して)貨幣と資産との同一視を確立し、措かれたプロ セスにおいて、二つの水準の調整の接合を強調するポイント(1)から(3)は不変であり、カルドアは、 それに完全に賛同している。ポイント(4)については、貨幣以外のすべての富の自己利子率は、これら の富の生産が増加するにつれて低下する。 そして、ポイント(5)は次のようになる。「すべてを支配する」のは貨幣利子率であり、そうであるの は、貨幣が「価値の標準」(計算単位)であるからである。 ポイント(4)と(5)は、今や、互いに独立していることに注意を要するだろう。貨幣利子率が、措 かれたプロセスにおいて、「適切な」率であるという事実は、貨幣外の富の自己利子率の行動とは何の関係 もなく、この場合には、それらの低下の仮定とは何の関係もない8)。すでにみてきたように、後者は、単 に、投資の拡大のプロセスが内生的な制限を経験しうるための一つの必要条件でしかない。 それにもかかわらず、正確には、このプロセスの描写を通して、過小雇用の理論を説明することがまだ. 残っている。ポイント(4)と(5)は、なぜ静学では(論理的時間では)、耐久的な富の生産における投 資の水準に対する制限が存在しうるのかを説明する。だが、なぜこの制限が完全雇用を得る前に達成され るのか、したがってまた、なぜ貨幣利子率は、動学では、十分に低下しないのか(ポイント(6)を取り かえる必要がある)を説明することが残っている。 後者の点については、改めて、「資産としての貨幣」の属性に関してケインズによって与えられた議論を 呼び戻すことを禁じるものは何もないように思われるが、その場合、その点でカルドアの批判を完全にし て、これらの属性9)がこの富が貨幣であるということから、的確にすべて、演繹されうるものでなければ ならないことを強調することができる。これらの属性は、次のものであることが想起される。ゼロの(あ るいさま無視しうる)生産の弾力性、ゼロの(あるいは無視しうる)代替の弾力性およびその持越費用をい かなる事態でも超過する流動性プレミアムである。 もし貨幣が強い流動性プレミアムーその持ち越し費用と釣り合うことができない. −を与えられていると. すれば、それはおそらく、ケインズ自身が言っているように、貨幣が「すぐれて流動性」であるからであ. り、また、貨幣が価値の標準であり、その点に関して、すべての富から区別されるからである。 もし貨幣がゼロの代替の弾力性をもつとすれば、それはその基礎にある富の内在的な特性のためではな. く、おそらく、代替の問題が生じることが無く、貨幣は契約の評価を独占し、契約が履行されることを可 能にする唯一のものであるからである。いかなる富も貨幣に代替し得ないのは、貨幣が計算単位、一般的・ 強制的な支払手段の役割のためにすべての富から区別されるからである。. 最後に、貨幣が生産され得ないという事実を次の事実に帰することができる。すなわち、貨幣は、経済 主体の、とりわけ、企業家の可能な計算の唯一の手段である(計算単位)と同時に、彼らの意思決定を実 際のものとする唯一の手段でもある(支払手段)という事実、したがって、貨幣は(論理的見地から)企 業の活動より前に存在しなければならないという事実である。資産としての貨幣は、それが生産の実行の 条件であるがゆえに、論理的には、生産の外部にある。ケインズが暗黙的に強調したのはこの点である。 その場合、そのように修正されて、貨幣利子率の相対的な慣性を正当化するために、第17章で展開され た一般的立論は、他方で、ケインズが利子率の「慣習的な」性質について行った発展とそこから貨幣政策 の始動のために展開した結果につながりうる(またそれによって完全にされうる)かもしれない。 要するに、ポイント(6)は今や次のように描かれうる。貨幣が無制限に下がり得ない利子率をもち、 カルドアによって要求された第17章の「ラディカルな」読み方へと導くのは、貨幣が貨幣(計算単位と支 払手段)であるからである、と。.
(7) 『一般理論』第17章のクリティーク. かくして、カルドアが行った読み方に従えば、第17章は全く別の見地のもとに現れる。この場合、第17 章は、生産の貨幣的経済理論の構築のラディカルな視角に統合されるようにみえる。なぜなら、第17章は、 災いが生ずるのは必ず貨酪利子率からであり、貨幣利子率の理論は、貨幣が他方で富とみなされ続けると いう事実に負っていないことを強調するからである。貨幣は、経済活動の実行の条件であると同時に、そ の完全な拡大の障害でもある。 以上のようなカルドアの批判的解釈対して、ただちに次のような問題が提起されるであろう。 なぜケインズ自身は、カルドアが到達した結論に至らなかったのだろうか。著作の残りと向様に、第17 章において、その著者のラディカルな見地とプラグマティックな目的との間の緊張の結果であるという兆 候をわれわれはみることができるであろう。だが、カルドアが行った解釈は、この章をラディカルなプロ ジェクトの土台にすることを実際に可能とするのだろうか。このことが可能であるのは、ケインズによる プロジェクトの二つの水準の調和の試みが、結局のところ、首尾一貫しているという条件においてだけで ある。項を改めて、この点について吟味することにしよう。. Ⅴ.ラディカルなプロジ工クトとプラグマティックなプロジェクト 最終的には、『一般理論』によって導入された正統派の見地との本質的な断絶、したがってまた、『一般 理論』が経済的考察を刷新するための可能性は、まさに彼の研究の一般的結果(最も「古典派的な」ター ムで表現され解釈されえた)10)を超えて、貨幣が、その計算単位としての役割を通して、経済の全体像の はじめにおいてそこに導入されるという事実に存する。 経済的大きさの形成の問題に取り組むための伝統的な手続きが転倒しているということが寅である限り、. 断絶はそこにある。すなわち、伝統的な手続きは、実物タームで構築された理論全体に対して、また、交 換の媒介や価値の準備という貨幣のそれだけの機能を通して、末尾でしか貨幣を再導入しようとしないた 捌こ、まず最初に貨幣を分析から排除する点にある。この視角では、計算単位は、「ニュメレール」の概念 を通して、貨幣に特有ではない機能とみなされ、それは論理的には交換の確立に先行して存在しない。そ. の場合、様々な社会的形態の構成を検討するために、貨幣=計算単位に代わって、前提されるものは、物 理的に規定され、したがってまた、すべての者によって識別できる財のノマンクラチュールの存在である。 すなわち、諸個人をアプリオリに結びつける唯一の関係は、貨幣ではなく、ノマンクラチュールにリスト アップされるような、モノの世界について彼らがもっている客観的な知識である。諸個人は彼ら自身、初 期賦存、選好の体系の形態のもとでノマンクラチュールに基づいて描かれ、経済秩序(均衡)は、彼らが モノに関して彼らの間で結ぶ諸関係の結果とみなされる。. したがって、ケインズは、正統派とは別の公準、すなわち、計算単位の公準を採用するために、正統派 の根本的な公準(ノマンクラチュールの公準)を拒否することによって正統派のアプローチとの本質的な 断絶を導入する。『一般理論』の貨幣的なプロプレマテイークが真に現れるのはそこにおいてである。貨幣 は分析のはじめから前提されるのであり、というのも、貨幣は何よりもまずそれに基づいて経済的諸関係 が確立されるところの計算単位であり、貨幣はその結果、諸個人の社会化の根本的な手段である限りにお いて、研究の優先権を持つ対象となるからである。しかも、第17章のケインズは、『一般理論』の第4章の ケインズのロジックに位置づけられるしかないのであり、というのも、そこで彼が専念することを選択し た大きさを表現するために、もっぱら貨幣的単位だけを利用することを提起したからである(「貨幣価値量」 と「雇用量」であり、雇用量自体、二つの貨幣的大きさの比率として計算される)11)。. 計算単位がこのように前提されることで、価値への準拠は消失する。それは、実際、正統派アプローチ では、測定および大き.さの通約可能性の問題を解決すること以外の対象をもたない。要するに、「ケインズ は交換価値に関するあらゆる考察の外部で共通の計算単位を仮定する。価値ではなく貨幣経済が中心的な 概念である」(Benetti,1985,P.99)。.
(8) 片岡 浩二. 8. 第17章の論証は、カルドアがそれに対してあてた批判に照らして読み直されるとしても、投資の完成さ れた理論を構成し、投資に対する内生的な制限の存在のケインズによって主張された中心的な論証に至る. ために、常に次のことを要求する。 1)貨幣は、その利子率に基づき、他の富と比較されうるのであり、したがってまた、資産とみなされる。. 第17章のプロセスは、貨幣の保有と実物資産の保有の間の裁定の理論としてしか利用価値がない(論証の 基礎にあるのは、ポイント(1)から(3)である)。 2)貨幣以外の資産のすべての自己利子率はその資産の生産が増加するとき低下する(ポイント(4))。. そこで、(貨幣利子率によって果たされる役割に関するポイント(5)と(6)の)論証の残りが、貨幣 =計算単位への準拠以外の何ものも含意していないならば. 、この第2の部分は、ケインズの(およびカル. ドアの)主張により、その特徴が計算単位へのこの準拠の外部で理解されうるようなモノの(ここでは富 の)ノマンクラチュールへの準拠が同時に存在することを含意する。この場合、自己利子率は、互いに独 立して、また貨幣利子率から独立して、定義されねばならず、ケインズによってイメージされたプロセス. が正当化されるためには、提起された属性をもっていなければならない。 また、『一般理論』のケインズによって他方で行われた展開のどれにおいても、「モノ」の特定化を要求. していないのに対し、全体にとっての重要性を強調した第17章の構築物はノマンクラチュールへの準拠を 含意する。ケインズは、富のノマンクラチュールの存在をそこで公準として要請し、実際にそこで前提し. ているのであり、その諸要素(富)は、すべて、自己利子率を、すなわち、標準として採用されたそれ自 身によって計算された、したがって、唯一の計算単位への準拠から独立して計算された利子率を共通して もっている。貨幣それ自身は、計算単位および支払手段として存在する前に富として定義され、目印を付 けられる。. 「われわれは、『ノマンクラチュール』の公準に対する遅い加盟の中に、ケインズのプラグマティックな ねらいの、より根本的な水準での、表現をみる。このねらいは、われわれが言ったように、(新)古典派理 論の土台を再検討することにあるのではなく、それが非自発的失業の概念を統合し得るために、また、そ の結果、専門的な経済学者や政策決定者にこの災いを阻止するために新しい経済政策を用いる必要性を説 得するために、そこに導入すべきである最小限の修正を探し求めることに甘んじることにある。それは、. (新)古典派経済学が経済学者の『言語』であることを記憶しておくこと、また、このタームでその命題 を定式化することを受け入れることに帰する。」(Lavialle,甲.C〟りp.954) ケインズが理論に導入したいと望んだ「最小限の」修正は、貨幣利子率の水準が資本財の生産への投資 を妨げうるのに十分であり得、したがってまた、有効需要の原理によって、過小雇用の状況に寄与しうる. という考えである。したがって、貨幣利子率がこの(有害な)役割を果たすのは貨幣が計算単位であるか らだという考えを発展させることは、説得という彼の目的に関しては、たいして重要ではない。彼がその. 結果を得るのは彼の同僚の大部分がもっているヴィジョンとは根本的に異なるヴィジョンのためであると いうことを論証することは彼にとって重要ではない。ラヴィアルが指摘するとおり、プラグマティックな プロジェクトの遂行のためには、彼の同時代人にとって馴染みのない言語を利用することで説得すること を選択することは、彼にとって「反生産的」でありうると考えることさえできるのである。そこで、経済 学者のほぼ全体に馴染みのある言語が、最も根本的な水準では、スミス以来、「ノマンクラチュール」の言 語であり、貨幣に関してそれが含意しているのは次のことである。すなわち、貨幣は「貨幣」として考え られる前に、「任意のモノ」(ノマンクラチュールの系列)として考えられねばならないということ、そし て、経済学のディスクールへの貨幣の続合は諸個人が貨幣を「需要する」ための動機の研究から生じなけ. ればならない−一貨幣は選択の対象をなす−ということである。 ケインズが第17草で同意するのはまさにこうした考えである。貨幣はこの特性のために、貨幣的な「諸 機能」を与えられた、特殊な富とみなされ、他の富との裁定の対象となる。 しかも、この解釈が正しいとすれば、われわれは、次のことを理解する。貨幣が選択の対象でありうる.
(9) 『一般理論』第17章のクリティーク. という事実によって、ケインズによって望まれた論証のプラグマティックな表現が、おそらくは、根本的 に諸個人の行動の描写に基づいて彼の論証を確立したいという彼の側からの意志に存する、ということで ある。 要するに、この章は、著作の残りと同様に、主にハイブリッドな性格を提示しているのであり、それが この章の曖昧さを説明する。第17章は、明示的には、プラグマティックなプロジェクトに位置しているが、 ケインズがそこで提起した調整プロセスについてカルドアがわれわれに促した詳細な読み方は、その章を、 最もラディカルな意味で解釈されうる余地があるものと推測させるのである。. こうして、今や重要であるのは、第17章がその結果として、カルドアがそう信じているように、その章 が、他方で、計算単位の公準(価値論の不在)とノマンクラチュール\の前提を和解させることに成功した. 試みであるという条件付きでしか投資の貨幣的理論を提供しないということである(強調されるべきは、 カルドアはノマンクラチュールへのこの準拠を拒否しておらず、彼は(1)から(4)の考えを受け入れ ており、それはケインズによって望まれた論証め基礎に横たわる)。 しかしながら、たとえカルドアの論証に基づいたとしても、実際のところ、この和解は必ず失敗に終わ ってしまうのである。次項で、ベネッティとドゥルプラスの解釈を提示した上で、この失敗の理由を明ら かにしたい。. Ⅵ.ベネッティとドゥルプラスの批判的解釈 『一般理論』の第17章でケインズによって導かれた論証のプロセスにおいてすでに示された6つのポイ ントについて、ベネッティは、カルドアの批判的考察を踏まえ、第3のもの、すなわち、均衡の定義に関 するポイントを再検討している。より正確には、彼は、長期の完全な均衡がすべての富の自己利子率の均 等化によって定義されると主張する、このポイントの後半部分を再検討する。彼にとって、そのような均 等化は意味がない。 「一見したところでは、ケインズのテキストは、このケースでは、『価値の標準として採用されたこれらの 富それ自身によって測定された家屋、小麦、貨幣の自己利子率』の間の均等化を得ることを示唆している ように思われる。この考えはそのような条件が意味を持たないがゆえに拒否されねばならない。」(Bene叫 Op.Cit.,p.103−104) 一方、ドゥルプラスはこの点について次のように指摘しているよ 「定常均衡がすべての市場で達成される場合、われわれは、定義により、すべての投資財の自己利子率の 均等化を得る。その場合、システムを構成する商品の物的収益率は等しい…基礎商品による剰余率が等し いスラッファ〔1960〕の標準体系にそのようなシステムを近づけないことは困難である。しかしながら、 重要な差異が存在する。スラッファにおいては、『標準体系は純粋に補助的な構築物である』…のであって、 その役割は観察されるシステムに『透明性を与える』…ことである。ケインズにおいては、物的収益率の均 等化の属性を提示するのは定常均衡における具体的なシステムである。」(Deleplace,1988,p.94) 実際、これまで示してきたように、自己利子率の均等化の条件は、富の保有者の均衡だけを保証する。. したがって、それは長期での均衡の発生の必要条件であるが、十分条件ではない。それは、富の生産者も また均衡にあり、したがってまた、定常均衡の状況が支配するためには自己利子率の均衡条件と一体にな らなければならない。 たとえベネッティがポイント(3)の拒否の理由にっいて明示的でないとしても(われわれが引用した フレ∴ズを除いて)、次の仕方で彼の批判の首尾一貫性を再構成する土とができなければならない。 −ベネッティにとって、「意味のない」ものでなければならないのは、異質なモノの物的な収益率、すな わち、それぞれの富に特有である利子率を比較するという考えそのものである。 −もし以上のことが彼が第17章のケインズにあてた批判であるとすれば、それは外在的な批判であり、. 9.
(10) 10. 片岡 浩二. それは実際にはノマンクラチュールの公準の拒否に依拠している。 計算単位としての貨幣の定義は、結果として、べネッティの目には、価値論を無効とするだけでなく、 ノマンクラチュールへのあらゆる準拠を排除するというロジックをもっているように見える。べネッティ の見解では、カルドアの批判は、その批判が、貨幣をあらゆる富から(また富のうちに入らない)区別す るものは、貨幣が計算単位であるという点で、論理的には、ノマンクラチュールの考えへのあらゆる準拠 の消滅を含意する。 要するに、ベネッティがポイント(3)を拒否するのは、より根本的には彼がポイント(1)を(また その結果としてポイント(4)を)拒否しているからである。と同時に、倒壊するのが第17章の建築物全. 体であることが分かる。実際には、もはや投資の理論も、マクロ経済的均衡の理論も残らない。なぜなら ケインズがそれに与えた定義そのものが誤っているからである。プラグマティックなプロジェクトの拒否. は、ケインズが富としての貨幣から演繹した取り扱いを、したがってまた、より根本的には、裁定の個人 の行動の研究に基づいた投資の不十分さによる過小雇用の理論に至りうるという考えそのものを拒否する ことへと導く。べネッティは次のように締め括っている。 「ノマンクラチュールの仮定の採用は、計算単位およびそれと貨幣との関係をみたす取り扱いと両立して いないように思われる。それは最初の仮定として共通の計算単位を取り上げ、ノマンクラチュールの仮定 を放棄するオルターナティブな道の探求を正当化する。」(Benetti,Op.Cit.,P.108) その場合、ベネッティの批判が、第17章の論証の全体がノマンクラチュールと仮定された計算単位への 二つの準拠に立脚しているという理由から、ポイント(3)、したがってまた、論証全体を有効ではないと 結論づけることに帰着するのである。 そこでもしこの二つの準拠が論理的に矛盾していることが証明されるとすれば、それは、アプリオリに、. ノマンクラチュールへの準拠が共通の計算単位の外部でノマンクラチュールの諸要素の通約の問題を解決 することに向けられた価値についてのディスクールの作成を含意しているケースにおいてである。とりわ け、ノマンクラチュールの仮定が、商品(アプリオリに通約不可能なモノ)と貨幣しか存在しない世界に 対して定義される場合にそうである。だが、ノマンクラチュールの仮定のこの定式化は、唯一のものでな い。その定義が価値の概念への準拠を要求しないような、貨幣とノマンクラチュールの間の関係の研究を 構想することをアプリオリに妨げるものは何もない。ケインズが実行しようとしたのは、まさにこのこと である。. ケインズにおいては、第17章の準拠はその形態において刷新されたノマンクラチュールの公準への準拠 であり、本質的には、ノマンクラチュールの系列の通訳可能性の空間としての価値の概念への準拠を含意 しない。ケインズの論証では、ノマンクラチュールの諸要素は(純粋な数字であり、この資格で比較され うるそれらの自己利子率の仲介によって)直接比較可能であり、これは、その諸要素が直ちに(それらが ノマンクラチュールの諸要素として認められるのを可能にする)共通の質を有するという理由からである。 ノマンクラチュールの諸要素は、それらがすべて、自己利子率の水準によって区別されうる資産である限. り、直ちに、計算単位への準拠から独立した、同質空間の一部をなす。他方この見地から、ノマンクラチ ュールへの準拠は、アプリオリに著作の残りと矛盾するわけではない。(第4章に基づく)ケインズによる 価値論の放棄は、正統派経済学者と同じ言語(ノマンクラチュール)を話すことを妨げないのであり、反 対に、上で想起した一般的手続き(「諸機能」による貨幣のアプローチと貨幣「需要」の諸個人の行動の研 究)を保ちながらも、貨幣の統合という問題の解決のために(貨幣の価値論への統合の試みを経ない)新 しい道筋を提案することを可能にする。 したがって、その定義が価値の概念への準拠をもはや要求しないような、貨幣とこの富のノマンクラチ ュールの間の関係を研究することを構想することをアプリオリに禁じるものは何もない。換言すれば、第 17章でケインズによって導かれたすべての論証が次の唯一の事実のゆえに、誤っていると考えることを正 当化するものは何もない。すなわち、貨幣が『一般理論』によって描かれる経済的大きさの水準の決定の.
(11) 『一般理論』第17章のクリティーク. プロセスで割り当てられた役割を果たすのは、貨幣が富である限りでのその特徴のためではなく、貨幣が 計算単位であるためであることを、カルドアに続いて、われわれが論証することができるのか、という点 にかかっている。. その場合、問題はすべて、ケインズがノマンクラチュールの公準に与えた定式化が認められるのかどう かを知ることである。それは、この富のノマンクラチュールの諸要素がそれらの収益率あるいは自己利子 率と同一視されるがゆえに、これらの率への準拠が根拠のあるものなのかどうかをみることに帰する。ド ゥルプラスが執着したのはこのことであり、したがって、彼は、このようにして、ケインズの論証のポイ ント(1)の受容性について自問している。 ドゥルプラスが自らに課する問題は、今ここで課されたものと同じである。第17章でケインズによって 導かれた論証に対してカルドアがあてた批判をいったん認めるなら、そのことによって、投資の貨幣的理 論であるような投資の理論を提供することは可能であろうか、という問題である。 第17章がこの射程範囲をもつためには、自己利子率の概念が根拠のあるものであること(したがって、 ケインズが富のノマンクラチュールに与えた定義が根拠のあるものであること)、計算単位としての貨幣以 外のすべての富の自己利子率が富の生産が増加するにつれて低下することを論証できなければならない。 したがって、この章でケインズによって導かれた論証のポイント(4)が証明されなければならず、そ の結果、ポイント(1)を受け入れることができなければならない。だが、ドゥルプラスによれば、この ポイントは全くアド・ホックである。とりわけ、このポイントはケインズがその章の冒頭部分で引き合い に出すスラッファにおいては見出されない−それでもケインズはその名前を引き合いに出す−のであり、 スラッファの場合、自己利子率は貨幣利子率から演繹される。 実際には、スラッファにとって、富の「自然」あるいは「自己」利子率は、貸付が実際にこれらの商品. によって行われる場合に支配する率である。だが、貨幣経済では、商品に対しては貨幣で支払われる。し たがって、ある商品の自己利子率は計算されうるが、貨幣利子率からそれを演揮することによってである。 したがって、自己利子率は、スラッファにおいては、ケインズがそれに与えた射程範囲をもっていない。 それは「この商品それ自身によって測定された、商品の保有と結びついた、単なる計算上の費用」(Deleplace, op.cit.,p.81−82)である。換言すれば、それは、スラッファにおいては、ノマンクラチュールへの準拠の基 盤にならない。 そこで、正確には、第17章の論証を首尾一貫させるためには、自己利子率の水準が貨幣利子率の水準か ら独立していなければならないのであり、それらは、市場の諸力の作用のもとで均衡においてのみ貨幣利 子率の水準と等しくなるだろう。「ケインズは貨幣利子率の決定から独立した自己利子率の決定を必要と している」(ibid.,p.92)。その結果として、「彼はスラッファから借用した商品の「自然」利子率の概念を …再定義するが、完全にひっくり返すことによってである。すなわち、その水準が貨幣利子率に依存する ところの市場の不均衡の測定を、彼はそこから独立した資産の収益の測定とした。」(ibid.) したがって、ケインズは、彼が自己利子率に与えた定義をアプリオリに正当化するようになるものは何 もないとしても、自身の論証の要求のみのために自己利子率の概念を構築しているようにみえる。 その場合、この定義が依然として受け入れられるのはいかなる条件においてか。ケインズにとって、自 己利子率と貨幣利子率とのアプリオリな相違は、「これら自己利子率の(貨幣から独立した)実物的運動の 結果」(ibid.,P.93)であるがゆえに、自己利子率が特徴づける富の生産が増加するときの自己利子率の下 落を確立することを目指す、この「実物的」運動について彼が与えた描写を彼は正当化することができな ければならない。換言すれば、ケイン不の論証のポイント(4)は、最終的にポイント(1)の首尾一貫 性を確立できなければならない。ケインズが同時に、「自然」利子率の「スラッファ的な」定義の彼の「方 向転換」を正当化することができるのは、彼が定義するような自己利子率が、彼の論証に必要な振る舞い をすることを論証するという条件においてである。そこで、以上のことから、「ケインズの分析のもろさは、 その場合、自己利子率のこの低下の理論的根拠の不明瞭さにある。第17章では、この低下は正当化されず、. 11.
(12) 12. 片岡 浩二. (この資本それ自身によって測定された)▲資本の期待収益の低下は‥サインズによってイメージされる. メカニズムの必要な仮定であるが、ほとんど正当化されない。」(ibid.,p.93−94). したがって、ケインズは、自己利子率の概念を、投資理論に役立たせるようにポジティブに設立するに. 至らない。自己利子率の概念は、スラッファと同様に、批判的手続きが重要である限り、また、貨幣利子 率への準拠から独立してそれを設立するという任務をもっていない限りで意味を持つ。ドゥルプラスによ れば、そのような試みは不可能であり、第17章でのケインズによって主張される論証において役立っこと 以外の正当化をもたずに、そのような自己利子率の存在およびそれらの「実物的」運動の描写をアド・ホ ックな仮定の体系にするに至る。 より根本的には、この試みは、この章でケインズが行ったような貨幣経済と実物経済の間の混同を示す。 スラッファが定義したような「自然」利子率は、貨幣経済ではすべての契約が計算単位で作成され、商品 ではなく貨幣で遂行されるという事葵のために、貨幣利子率から論理的に演繹される。だが、それでも、. この混同は部分的にケインズによって主張されると考えることができ、いずれにせよ、この第17章の目的 の一部が、貨幣をノマンクラチュールの要素である富としてアプリオリに定義することによって、計算単 位への準拠から独立していることを示す論証を確立することである以上、彼はそこに論理的に導かれてし まうのである。 したがって、今度は内的な首尾一貫性という点からの批判によって、ベネッティと同様に、貨幣と富の ノマンクラチュールとの間の関係を構想しようとするケインズの試みは失敗していると考えることができ る。貨幣経済では、計算単位の外部で意味のあることを言えるものは何もない。要するに、『一般理論』の 第17章は、投資についての満足のゆく理論を提供することに失敗した。この失敗が意味するのは、べネッ ティとドゥルプラスが的確に述べているように、ケインズのディスクールのすべてが計算単位の与件に依. 存しているのであって、それは貨幣をあらゆる富から区別することへと導き、ノマンクラチュールを必要 としない、ということである。そこから、貨幣理論に関して、貨幣を、特殊な内在的特徴のために、貨幣 的「諸機能」を与えられた具体的なモノ(ノマンクラチュールの要素)として考えようとするのではなく、 むしろ、市場のゲームのルールを確立し、この資格で個人の選択の対象であり得ない、「抽象的な」モノと して捉え、そして同時に、ノマンクラチュールへのあらゆる準拠の外部で採用される計算単位の公準に照 らして、経済的大きさの形成のプロセスを再考する、というケインズのラディカルなプロジェクトに立ち 返ることに帰着することになるのである。. Ⅶ.結論 『一般理論』の第17章は、過小評価されているとはいえ、ケインズ派の体系の構築物全体に本質的な章 であり、それは、貨幣利子率がこの構築物で、様々な経済的大きさの水準がそれに基づいて決定されると ころの「ノルム」の役割を果たす理由を説明しなければならない章であるということの理由からである。 しかしながら、この章は、同時に、『一般理論』でケインズによって描かれる展開の全体のうち、ケイン ズが彼の著作で貨幣に対して果たさせようとする役割に関して、また、彼のディスクールの創設的な仮定. に関して、最も曖昧である。彼はとりわけ、計算単位の公準のそばで、富のノマンクラチュールという言 語を採用し、ノマンクラチュールの特定化をアプリオリに必要とする論証のみを利用する。 本稿の目的は、ラヴィアルの議論を参照しながら、第17章でケインズよって導かれた論証の意義と射程. 範囲を明確にすることであり、これは、とりわけ、カルドア、べネッティおよびドゥルプラスの批判的レ クチャーを接合しようとする試みを通して達成される。 その場合明らかにされるのは、これら三つの批判的読解がいずれも『一般理論』における計算単位の地 位の明示という点を共有していることである。 カルドアの批判的解釈は、次のことを確立することを可能にする。すなわち、第17章が貨幣利子率の経.
(13) 『一般理論』第17章のクリティーク. 済的「ノルム」の質を論証するのは、貨幣がそこで計算単位と同一視されるという条件においてであり、 富としての貨幣の特質の言明のためではない。貨幣は、ケインズ派の構築物では、それが計算単位である ということのために、すべての富から(富としての属性から)区別される。彼の理論の真の「異端性」、す. なわち彼のラディカルなプロジェクトはそこにある、と結論付けられる。 ベネッティとドゥルプラスの批判的解釈は、それぞれの方法で貨幣=計算単位へのそのような同一視の 含意を解明しようとする。べネッティは、自己利子率への準拠のアプリオリな拒否によって、ドゥルプラ スは、自己利子率への準拠のケインズにおける正当性を対象とする内的な首尾一貫性の批判によって、類. 似の結論へと至った。すなわち、第17章は、投資の貨幣的理論を提供しない、ということである。なぜな ら、あらゆる論証は、決して正当化されないノマンクラチュールの特定化に立脚しているからである。計 算単位の公準と富のノマンクラチュールの前提を粛和させる試み、すなわち、ラディカルなプロジェクト とプラグマティックなプロジェクトの両立は失敗に終わっている、ということができるのである。. 注. 1)貨幣的アプローチについては、拙稿[1999]を参照。 2)筆者は以前、J,カルトウリエのケインズ解釈を取り上げる際にこの第17章を貨幣的アプローチの見地 から考察したことがある(拙稿2002)。そこでは、あくまでもカルトウリエのケインズ解釈の延長線上に おいてどのようなことが言及できるか、という点に集中した。本稿は、ケインズに内在し新たな見地の もとで再解釈を提示することを第一義的課題としている。 3)『一般理論』において生ずる多くの解釈の間の不統一性についての最も普及した正当化の一つは、ファ ブロー(Favereau,1985;1988)に従えば、次のことを強調する点にある。この著作は、公刊された最終 的なヴァージョンでは、ケインズがその作成のうちに、相次いで同時に追求した二つの知的戦略、すな わち「ラディカルなプロジェクト」と「プラグマティックなプロジェクト」の間に緊張関係が存すると いうことである。プラグマティックな手続きは、優先的目的が政策的説得の目的であるケインズにとっ て、標準的な経済理論(その当時はマーシャルのミクロ経済学)を、あまり正統的でないものを含め、 理論的命題が受け入れられる機会を持つためにはそれで述べられねばならない言語として受け入れる点 にある。反対に、ラディカルな手続きはマーシャル的な正統派によって行われた根本的な方法論に立ち 向かい、刷新された基礎に基づき経済理論を再構築する点にある。 4)これは、例えば、JoumalofPostKeynesianEconomicsを中心にして集まった論者達の見解である。「ケ インズ派の理論は、前提として次の命題をもっている。すなわち、われわれのタイプの経済の行動の説 明を「貨幣のない」抽象的な経済の研究によって開始し、それからそこに「貨幣」を導入することは、 論理的見地から認められない。」(Minsky,1985,p.309)フランスでは、,そのような立場は、バレルによっ て執拗に擁護されてきた(例えば、Ba汀ere,1990,prぬce,p.如を参照)。 5)ToI旬ada(1985)を参照。 6)この点を確立したのはカルドアである。「ケインズの分析に暗黙にあるが、決して明示的に言及されて いない仮定は、再生産可能な資産にとって、予想価格は長期供給価格に等しいということである」(kaldor, 1960,p.69)。 7)この立場の擁護として、Messori(1995)を参照。 8)貨幣利子率が「全体を支配する」のは、すべての富の生産が増加するとき、それが最も緩慢に低下す る自己利子率であるためではない。 9)ケインズが貨幣利子率の役割を正当化するために参照し、われわれが、なぜ利子率が無制限に減少し 得ないのかを説明するた捌こ参照する属性(貨幣利子率の役割は他方、貨幣が計算単位であるというこ とによって正当化される)。. 13.
(14) 14. 片岡 浩二. 10)すなわち、総需要の不足による非自発的な失業の存在。 11)賃金額と賃金単位を指している。. 参考文献. BarrereA.[1990],肋crodcnomiekqynゐinne,Paris,Dunod. BenettiC.[1985],畠conomiemon6taireet6cnomiedetroc:1aquestiondel,unitedecomptecommune,Economie ‘ち呼,埴〟∂e,38(1). CartelierJ.[1993],R6cursivit6etmonnaie:unautrePOintdevueSur“KeynesandtheClassics”,Revued,6conomie POlitique,juillet−aOGt.. DavidsonIl[1978],Monqyandtherealworld,London,Macmillan,2ndedition. DeleplaceG[1988],Ajustementdemarcheettauxd,int6retspicinqueschezKeynesetSraffa,Cahiiersd,6conomie po〃〟す〟e,14−15.. FavereauO.[1985],L,incertaindanslarevolutionkeyn6sienne:1,hypotheseWittgenstein,Economieetsoci6tゐ,3.. FavereauO.[1988],La“Theoriegenerale”:del,6conomieconventionnelleal,economiedesconventions,Cahiiers d’∂co〃0椚7epOJ招ヴ〟e,15−16.. Hicks,J・R・[1937],Mr.KeynesandtheClassics:ASuggestedInterpretation,Econometrica,April. KaldorN・[1961],片町〃e∫’J力eoヮ〆血Ow〃一助Je∫〆血er叫f〃且∫叩ノぶ0〝Eco〃0椚わ肋占∫/ゆα〃dGrow玖 London,Duckworth.. KeynesJ・M.[1936],TheGeneralTheo7yqfE〝甲IqymentlnterestandMonginThecollectedwritingsofJohn Maynard Keynes vol.Ⅶ.(塩野谷祐一訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』普及版、東洋経済新報社、 1995年). FlegelJ・A・[1984],Expectationsandrationalitywithinacapitalist倉ameWOrk,inNellE.].(ed.)打eemarket COnSerVatism,London,GeorgeAllenandUnwin.. LavialleC.[1997],’PrqjetpragmatiqueetprqjetradicalchezKeynes:Laportieduchapitre17delaTh60rie g6n6rale,Revue6conomique,VOl.48,nO.4. MessoriM.[1995],OwnRateofOwnInterestandtheLiquidityPrefbrence,EcnomicNotes,VOl,24,nO.2. MinskyH.P.[1975],JohnMqynardK町neS,NewYork,ColumbiaUniversityPress. MinskyH・R[1985],LastruCture丘nanciとre:endettementetcredit,inBarrereA.(ed.),Kgnesa頑Ourd,hui,Paris, Economia.. TbrtqjadaR.[1985],Lamonnaieetsontauxd,intiretchezJohnMaymardKeynes,Cahiiersd,6conomiepolitique, 10−11.. 片岡浩二[1999],「貨幣とは何か?」『横浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅲ』社会科学、第2集、11月 片岡浩二[2002],「貨幣と賃労働」『横浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅲ』社会科学、第4集、2月.
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